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MIさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[104806]2022年6月8日
MI
[102287]2021年8月28日
MI
[102187]2021年7月18日
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[102156]2021年7月6日
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[102139]2021年7月1日
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[104806] 2022年 6月 8日(水)17:59:40MI さん
徳島県名東郡北井上村祖母ヶ島
[104803] むっくん さん
兵庫県の公報である兵庫縣報第二千四百五十五號昭和二十三年四月二十四日p6彙報では(以下略)
 久しぶりに落書き帳を拝見したところ、補足できる内容がありましたので書き込みます。
徳島県立図書館で閲覧した『徳島縣報』(昭和23年4月9日)に以下の記載がありました。
徳島縣告示第百四十三號
 名東郡新居村北新居字名田、同郡北井上村東黒田字小塚、同村祖母ヶ島の全地域は、昭和二十三年四月一日から板野郡藍園村の區域に編入せられた。
  昭和二十三年四月九日
   徳島縣知事 阿部五郎
 よって市町村変遷情報に追加していただく内容は変わりありません。典拠が徳島県告示となります。
[102287] 2021年 8月 28日(土)08:31:54MI さん
白い獅子
[102285] 般若堂そんぴん さん
 なんだか気になったので、YouTubeで確認しました。エンディングテーマも覚えていましたが、なるほど、分かりました。弘田三枝子も懐かしいですねえ。
[102187] 2021年 7月 18日(日)13:53:41MI さん
1898(明治31)年11月21日
[102186] 白桃 さん
川之江が「町」になった日はいつなのか?
 については[99302]に記したとおり、1898(明治31)年11月21日正当です。
具体的には、明治31年11月21日愛媛県告示第187号によって、宇摩郡三島村、川之江村、温泉郡北条村、周桑郡小松村がそれぞれ「町」になっております。これは愛媛県立図書館で実見しているのですが、あいにくこの告示だけ撮影をし忘れてしまい、告示文そのものは不明です。
[102156] 2021年 7月 6日(火)22:24:25MI さん
Re:尼崎市の市制施行と変遷情報の表示順序について
[102141] グリグリ さん
[102145] 白桃 さん
 国会図書館のデジタルコレクションを探したところ、尼崎市制直後の1916(大正5)年9月20日発行の 富田玆嘉・前川佐雄編, 『市制実施記念 尼崎市現勢史 』,土井源友堂,1916 があり、その p197「尼崎市制實施の經過」と、また図書館送信限定ながら『尼崎市史 第三巻』,尼崎市,1970 p412「市制の施行」などの記述をまとめると以下のようになります。

 尼崎町が工業地帯として発展し人口三万に近づいてきたことにより、数年前から市制実施を望むようになってきた。それには町勢膨張の結果、川辺郡費への町の負担が重くなってきたという理由もあった。そこで町長代理の木俟友藏は各有力者から意見を聞いて準備調査をする一方、市制施行の要件である人口三万人を確保するために隣接村合併に取り組んだ。まず小田村南部(阪神杭瀬駅付近など)を候補としたが、これは不成立に終わった。そこで立花村のうち東難波村、西難波村(両「村」は立花村の大字にあたるもので、阪神出屋敷駅とJR立花駅の中間あたり)に合併交渉を進めた結果、1915(大正4)年7月1日に同意を取り付けた。
 尼崎町は同月6日町会に「市制施行」と「立花村ノ内東西兩難波村編入」の議案を提出し満場一致で可決すると、上申書、市制施行理由書それに尼崎町現況調査書等を作成し、13日内務大臣宛に提出した。ところがこの時点で立花村から両難波村分離について異議が出たが、川辺郡長の斡旋により尼崎町から報償金を寄贈することで収めることができた。翌1916(大正5)年3月11日に内務大臣からの諮問書、同月15日には県知事からの諮問書が下り、同日郡長より「17日までに意見書を提出せよ」「県から市制実施を4月1日と上申する予定」との通牒があり、16日に臨時町会を開き内務大臣および県知事への答申書を議決した。そして29日内務省告示([102105]参照)、4月1日にはれて市制施行となった。

吉原淸三郎,『實地測量 尼崎市街明細全圖』,吉原文榮堂,1917
今昔マップ

 ということで、変遷情報を「境界変更/市制」とすることで異論はありません。
なお、[102145] 白桃 さんのおっしゃる
「尼ヶ崎町と立花村が合体・市制施行し、旧立花村の一部が(新)立花村として分立」
あるいは、
「立花村が分割、その一部が尼崎市に編入され、残りの一部が(新)立花村となる」
と言う感覚で処理されたのではないかと考えます。
についてはどうでしょう。上述した経緯を見ても「立花村の一部を割譲し、尼崎町とあわせて尼崎市になった」と、まさしく境界変更と市制で宜しいのではないでしょうか? 旧12ヶ村+飛地で構成されたうちの2ヶ村が尼崎市となり、村役場は栗山(東海道本線より北)に置かれたままのようです。

#なお、兵庫県の市制町村制施行時の情報31.立花村の項にある「竹川辺郡」は「川辺郡」の誤りと思われます。ご確認ください。
[102139] 2021年 7月 1日(木)22:23:52MI さん
村廢置竝市區域變更
[102137] 白桃 さん
そもそも、上の変遷情報は正確ではない、つまり、国衙村も一部が市殿村の一部と一緒になって城南村となり、国衙村の残部は同日に姫路市に組み込まれているのです。それはさておき、城南村は「新設」つまり「合体」で問題ないのですが、姫路市の変更種別が「境界変更」になっている点です。1912年4月1日の時点で市殿村(国衙村も)が消滅しているのですから、ここは、「境界変更」ではなく「編入」つまり「廃置分合」にならないとオカシイのではないかと言うのが私の見解なのです。
 おっしゃることはよく分かります。しかし、当該の変遷情報は[99336] むっくん さんのご指摘を受け、[99387] グリグリ さんが対応されたものですが、兵庫県告示や官報広告欄の記載どおりに表現していると思うのです。
 明治45年4月4日官報p99は以下のとおりです。
○村廢置竝市區域變更
本月一日ヨリ左記飾磨郡國衙村、市殿村ノ區域ヲ姫路市ニ編入シ及國衙村、市殿村ヲ廢シ其區域ヲ以テ新ニ城南村(ジヨウナム)ヲ置ク
  明治四十五年四月 兵庫縣
 國衙村ノ内
豐澤村(飾磨生野間縣道以南ノ芝原垣内ヲ除ク)但シ(以下略)
北條村ノ一部(山陽鐵道線路以北)但シ(以下略)
 市殿村ノ内
神屋村全部、國府寺村全部、市ノ郷村ノ一部但シ(以下略)
 また、これの元になった県告示は数年前に兵庫県公館で閲覧済です。
兵庫縣告示第百三十號
明治四十五年四月一日ヨリ左記飾磨郡國衙村及市殿村ノ區域ヲ姫路市ニ編入シ及國衙村及市殿村ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ新ニ城南村(ジヨウナム)ヲ置ク
 明治四十五年三月二十八日 兵庫縣知事 服部一三
(以下官報と同様に付き省略)
 つまり、これら告示や官報で述べているのは
1.国衙村と市殿村の一部区域を姫路市に編入          →この時点では両村ともに存続
2.国衙村と市殿村を廃し、その区域をもって新たに城南村を置く →両村(実際は姫路市に編入した残部)が城南村となる
なので、姫路市へは編入でなく境界変更と判断したということだと思います。


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