[108700]で出題した夏休みの道中記クイズ、解答の発表です。
【A】~【P】までの市町村名は…
A市:八王子市 B市:大月市 C市:甲府市 D市:北杜市 E市:諏訪市 F市:岡谷市 G市:塩尻市 H市:名古屋市
I市:松本市 J市:長野市 K市:千曲市 (旧)L市:篠ノ井市 M市:飯山市 (旧)N町:豊野町 O市:妙高市 P町:山ノ内町
Q村:栄村 R市:十日町市 S町:湯沢町 T市:南魚沼市 (旧)U町:塩沢町 (旧)V町:六日町 W町:みなかみ町 X市:高崎市
…でした。
[108701] メークインさん
[108702] 千本桜さん
[108704] あきごんさん
お付き合いいただきありがとうございました。
今回の行程の概略は次の通りでした。
八王子駅から「あずさ5号」に乗車。これは昨年秋(
[105967])と同じですが、今度は小淵沢駅で下車せずそのまま乗り続けて信濃路へ。松本駅で下車。この駅で後ろ3両を切り離して安曇野方面へと向かう列車を見送って、改札を出て松本城へ。この市には6年前にも訪れているのですが(
[92849])、この時はお城の手前の「中町通り」を中心に回ったので、お城に登るのは25年前、「長野五輪」観戦の前日に立ち寄ったとき以来。黒を基調とした外観は、最近真っ白にお化粧直しされた姫路城とは好対照。今まで「いわゆる天守閣」(中央の大天守)だけが「天守」だと思っていたのが、本当は両脇の2つの櫓(乾小天守・辰巳附櫓)と、それぞれの櫓とを結ぶ「渡り廊下」を合わせた5棟で「松本城天守」として国宝に指定されていること、また大天守は外観では5階建てに見えるが、実際には内部は6層になっており(
松本城HP )、このことを知って、今から○十年前の中学の修学旅行で奈良の薬師寺に行ったとき、説明していたお坊さんが「東塔は一見6階建てに見えるけれど、本当は3階建て(三重塔)ですので誤解(5階)のないように」と言っていたのを聞いて一同大笑いしたことを思い出してしまいました…。
行列ができるほどの混雑に加え、お昼時にかかったため、沿道の主だった食事処もどこも混雑していることもあって、昼飯は駅のホームの片隅の立ち食いそばで我慢。「鈍行」で長野へ、途中の姨捨駅でスイッチバックのホームに停車。眼下の棚田の絶景のある一帯は、以前は更埴市に属していましたが、平成の大合併で、昨年秋に宿泊した温泉地がある上山田町(
[105967])・戸倉町と共に、現在の千曲市になっています。篠ノ井駅で、「長野行き」(北陸)新幹線の開業に伴い「しなの鉄道」に転換された「信越本線」と合流するのですが、篠ノ井~長野間はJRのまま残り、一方その北陸新幹線が金沢まで伸びると、信越本線の長野~直江津間が「並行在来線」となって、長野~妙高高原間が「しなの鉄道」に転換(妙高高原以北は「えちごトキめき鉄道」)される一方、長野~飯山間で新幹線と並行している飯山線のほうは、線路戸籍上の飯山線の起点である豊野駅以北がJRのまま残り、結果として長野駅の前後でJRもしなの鉄道も分断された形となり、合算運賃を取られて割高になっては、
[108700]でも書いた通り、利用者の「鉄離れ」を増長させ、お互いに自らの首を絞めるような格好になってしまったのには、どうにも納得が行かない気がします(
[108704] あきごんさんの記事(下記)参照)。篠ノ井~長野~豊野間を「二重戸籍」にして、JR、しなの鉄道、それぞれ1本の路線として扱うようにはできなかったのか、と考え込んでしまいます。
今回の旅程で特に気になったのが、新幹線の開業で平行在来線が第三セクターになってしまっているという事。もちろん、横川~軽井沢間のように廃線になるのよりは余程ましではありますが、新幹線ができたばかりに昔からの路線が切り離されてしまうのは何とも悲しいものです。この問題は、今後も北海道や九州、北陸でも起こるので昔を知る人間からしたら寂しい思いがします
このような事情と、この日の宿を取った斑尾高原へのバスの乗換駅・飯山駅に停車する新幹線が少ないため、JRの最初の乗車駅・町田駅から買った切符はこの長野駅までとし、いったん改札を出ることに。この暑さの中、6年前に拝んだ善光寺はバスして先を急ぐことにし、改めて飯山までの「しなの」~JRの連絡切符を買って飯山線のディーゼル列車に乗車。2両編成の先頭車は、イベント列車対応の特別仕様で、「乗り得」といった感じでした。飯山駅で降りてバスを待つことに。午後4時を回っていましたが、依然として猛烈な暑さ、冷房の効いた駅の構内でしばし待機。やってきたバスは、ほぼ貸し切り状態のまま、バスの終点の「斑尾高原ホテル」に到着。途中には、雪の重みで屋根がつぶれた?廃墟ホテルも見えました。冬がメインの観光地で、夏はそれほど混んでいないのかもしれませんが、それでもやはりマイカーで来る客が多かったのでしょう(観光バスで来た団体客もいました)。
入浴と夕食を済ませて、すっかり暗くなった屋外へ。
[108700]にも書いたように、案内には「真夏の平均最高気温は24℃」とあったのですが、この日は夕方になっても館内の温度計は27℃を指し、冷房はフル運転。夜空を見上げると、ところどころに雲はかかっていたのですが、頭上を見ると七夕の織姫・彦星と、仲を取り持つ?白鳥の姿が綺麗に見えていました。ちなみに、この日は旧暦で7月8日。今の暦のだとまだ梅雨が明けていない時期になってしまうので、「月遅れ」で七夕の行事を行うところが多いのも、「せめて本来の季節に近い時期に」ということも有るのでしょう。このホテルの所在地は飯山市なのですが、新潟県との境界線に近い場所にあり、地図を見て知っていたのですが、目の前の県道に県境を示す標識があり、新潟県側は妙高市。県境の間を行き来していたのでした。
翌朝、再び外に出て付近を散策。別荘・ペンションや夏季休業と思しきスキー関係の施設が、県境を挟んで両側に建っているようでした。後で調べると、この一帯では新潟県側にある施設も電話は長野県側の飯山局番(0269-6x)、電力も新潟県で使われる50Hz(東北電力)ではなく長野県側の60Hz(中部電力)に統一されているようでした。
出発前、玄関先の階段の足元を見ると、そこに
県境を示す表示板が埋め込まれていました。「斑尾高原の県境サイン」については
過去記事にもいくつか出ているのですが、この「ホテル玄関前の階段」は地名コレクションには登録されていませんでした。
翌朝、バスで飯山駅に戻り、市内巡り。6年前(
[92849])には北寄りの麓のほうにある寺院を回っていたので、今回は南側の高台にある寺院をいくつか見ることに。茅葺屋根の本堂がある「正寿庵」は工事中で中を見られなかったのが残念でした。そのあと平地に降り、雁木造りの街並みへ。両側には特産の仏壇作りの店が並んでいたのも、6年前と変わらぬ光景。昼食は途中にあった「街角食堂」で「ご当地拉麺」。それからやはり6年前はパスした
高橋まゆみ人形館に入ってしばし暑さしのぎ。この日もとにかく朝から暑い。長岡市では39℃にも達したとかで、飯山でも35℃を超える猛暑日だったのでした。この辺りからだと北飯山駅のほうがずっと近いのですが、身軽になるために飯山駅のコインロッカーに荷物を預けていたのと、この時間帯に飯山線の長野方面への列車がないこともあり、暑さの中、飯山駅に戻ることに。十日町行きの列車に乗車。ここからは6年前と同ルート。野沢温泉行きのバスが飯山駅発着に変わって駅名が実態を表さなくなった戸狩野沢温泉駅で対向列車待ち合わせで10分余り停車、その先は千曲川に寄り添ったり離れたりしながら、鉄道沿線で積雪日本一の標柱が建つ森宮野原駅を過ぎると、斑尾高原でいったん別れた越後路に再び入り、終点の十日町駅で下車。ここで接続する始発の越後川口行きに乗ると、JRだけで越後湯沢方面に行けるのですが、四角形の三辺を通る大回りになるため、ここで「ほくほく線」に乗り換え。接続時間が4分しかなく、JRの改札を出てすぐ目の前のほくほく線の券売機で切符を買い、駆け込みで何とかセーフ…。1両だけの電車でしたが、車内は通学生で満員状態。北陸新幹線の金沢延長で、上越新幹線から北陸方面への短絡ルートとしての役割を失い、快速列車も消えた今、メークインさんが
[108701]でおっしゃるように、今後は地元住民の足としての役割に徹することが生き残りの道、ということになるのでしょう。
この日の宿は越後湯沢に取っているのですが、その前に塩沢駅で下車して見たいところがあり、この列車が乗り入れているJR上越線内の途中駅に停車しないため、JRと合流する六日町駅で下車し、すぐ後に来るJRの列車に乗り換えて塩沢駅で下車。駅を出てすぐ左の道に入り、江戸時代後期に著された「北越雪譜」で知られるこの地出身の文人・
鈴木牧之の記念館を目指すのですが、そこへの道筋にある「
塩沢つむぎ記念館に立ち寄り、展示コーナーだけ見てから牧之記念館へ。雪を「風流なもの」と見ていた、江戸など雪の少ない温暖地域での見方と対比して、雪国の長く厳しい冬の暮らし、こうした風土から生まれた風俗、生活道具などを紹介した「北越雪譜」はたちまち当時の大ベストセラーとなり、雪国の厳しい現実を世間に知らしめた名作となったのでした。道路には融雪装置が設置され、温暖化で積雪量も昔と比べて減ってきた今日でも、まだまだ通用するようなところは多いような気がします。一方で、雪に慣れていない、東京など温暖地域の大都市圏では、わずか数cmの積雪でも交通は麻痺し、慣れない雪道で転ぶ人が続出、といった今の現実を見ると、温暖地での雪の見方は江戸時代と大して変わっていないようにも思えました。
…改めて雪国の冬の暮らしの厳しさを実感し、そして昔のこの界隈の絵や写真、展示されていた昔の生活道具などを見ていうちに、まだ残暑が厳しい季節なのにふと思い浮かんだ、雪国の冬を歌い込んだ名曲…。
♭目を閉じれば昔のまま 厳しくも日々強く生きてる者よ~(“Winter Again” by灰色楽隊)
この後「雁木」の街並みが続く、街道沿いの町のメインストリートにいったん出てから塩沢駅に戻り、越後湯沢へ。今度の列車もほくほく線からの直通でしたが、塩沢駅には停車し、ノンストップで終点の越後湯沢駅で下車。ほくほく線からの列車は、ほとんど越後湯沢までJRに乗り入れているのですが、JR線内は塩沢駅に一部が停車する以外、「鈍行」でも全て途中駅は通過。かつてスキーでにぎわい、シーズンには上野からの直通特急も運行されていた石打は、閉鎖されたスキー場や民宿などが軒並み廃墟化し、駅も寂しい無人駅となって、悲惨な現状がはっきり見えました。
越後湯沢駅に到着、宿に着く前にまず土産物屋が並ぶ駅構内のショッピングモールでお土産探し。駅前に待っていたタクシーに乗り込み、目指す温泉旅館「高半」へ。温泉街の中心から少し離れた高台にあり、客室からは新幹線の走る姿も見えました。「かけ流し」という良質の温泉で疲れを癒した後、夕食探しに麓の商店街に。沿道には小規模な旅館・ホテルや民宿が立ち並んでおり、やはりスキー客相手にしているところが多いせいか、営業はしていても客室の明かりがついていない、といった感じのところが大半のようでしたが、見た限りでは「廃墟化」しているようなところはほとんど見当たらないようでした。10分余り歩いてようやく商店街に入り、ここで入ったのはとんかつ屋。肉は県内産のブランド豚、ご飯は「魚沼コシヒカリ」ということで、十分に空腹を満たすことができ、満足できたと思いました。外に出るとすっかり暗くなっていましたが、街灯も整備されており、迷うことなく宿に戻れました。玄関前の駐車場からは、街の明かりが綺麗に見えました。
ところで、この「高半」は、
川端康成が「雪国」を執筆した宿。館内には、康成が泊った客室が再現されており。公開時間が朝の7時から10時までということで、朝風呂を浴びた後、朝食までの時間に見学。朝食は本格的なお膳で、ご飯ももちろん「魚沼コシヒカリ」。和風旅館でも朝食はバイキング、というところが増えている中、「老舗」のブライドも感じ取ったように思いました。
[108702] 千本桜さん
宿帳に文筆家「島村」と書き入れた伊豆之国さんは、なじみの芸者「○子」を部屋に呼び寄せる。(中略)翌朝、旅館からの請求書には障子戸修理費が計上されていたのは言うまでもない。妄想ですよ。
もちろんそんな悪さはしていません…。当然サインは本名(今年の大河ドラマの主人公の出身地が最多だそうですが、そこでは違う読み方をします)。ところで、宿から駅の方へ歩いていたら、「
島村ロッジ」という名のスキー客相手の旅館?がありました。この宿の名前が「雪国」の島村さんから取った(あやかった)のか、あるいは単純にこの旅館の創業者・経営者が島村氏なのか、そこまでは詮索しません…。だいぶ前のことですが、「元日1万円乗り放題」だったかを使って、信越方面に日帰りしたことがあり、越後湯沢で降り「
駒子の湯」という立ち寄り湯に入ったことがあります。
会計と、前日までに着た衣類や土産物が入った重い旅行鞄を宅配便で送る手続きを済ませ、身軽になって送迎のマイクロバスに乗って出発。バスはもちろん駅まで行くのですが、駅までの道筋にある、
湯沢高原へのロープウェイの割引券がもらえるということで、そのロープウェイに乗って高原に行くことに。冬はスキー場になるのですが、夏場は高山植物園などになり、ロープウェイの山頂駅から、連絡バスを経て、リフトで下がったところにある、その高山植物園「アルプの里」へ。夏と秋の間の中間期ということと、猛暑が続いたことも有り、花の咲き具合がいまいちだったのが少々残念な印象でした。…それにしてもとにかく暑い。暦の上ではとっくに秋になっているのに、高原の涼しさなど全くなし。湯沢町の最高気温は35℃を超える猛暑日。まだ昼飯時間になっていないレストランでは、アイスクリームは売っていたので、これで体を少し冷やしたのでした。
大型ホテルも立ち並ぶ温泉街のメインストリートを歩いて、越後湯沢駅に。まだお昼前ということも有り、「鈍行」で上越国境越え、水上を目指すことに。いまや普段は1日5往復だけというローカル線に甘んじるようになって久しくなりましたが、夏山登山と思しき客が結構乗り込んでいて、意外と車内は賑やかでした。かつて「水泡経済」の時期に相次いで建てられた高層リゾートマンションが悲惨な状況に追い込まれている、という現状は、ニュースなどでもよく耳にしましたが、こうしたマンションは、温泉街の中心部ではほとんど見られず、岩原スキー場前、越後中里辺りに来ると目立つようでした。
次の土樽駅は、「雪国」の中で「夜の底が白くなった、信号所に汽車が止まった」と描かれている駅ですが、今や全く人の気配もない無人駅。2両編成の短い列車は、ほどなく清水トンネルに吸い込まれて行きます。この清水トンネルこそが「国境の長いトンネル」なのですが、複線化で下り線が「新清水トンネル」経由の新線に変わり、上り列車だけが通るようになって、「逆コース」になってしまったのはちょっと残念な気がします(
[108704] あきごんさん)。そして新幹線の開業で、更に長いトンネルを抜けるといきなり越後湯沢駅、となっては、もう小説に描かれた当時の風情など何もありません…。
トンネルを抜けると群馬県に入り、最初の駅が土合駅。トンネルの中に地中深く潜った下り線に対し、こちらは地上ホーム、駅舎もすぐ横にありました。手前でループ線になっているのが見える湯檜曽を過ぎると間もなく終点の水上駅。ここでようやく昼食。駅前で飲食店を探していると、某TVの旅番組で放映されていたという食事処があり、看板に出ていた上州名物「おっきりこみうどん」をご馳走。茸・山菜など具がたっぷりあり、食べきるのに結構時間がかかりました。
ところで、水上温泉というと、近年ネット検索などで盛んに出てくるのが、温泉街のあちこちに見られる「廃墟旅館・ホテル」と温泉街そのものの衰退・荒廃が進んでいる現状。水上温泉が衰退した原因として、新幹線の駅ができなかったこと、観光スタイルの変化に対応できず、それまでの団体旅行・宴会をメインとした「昭和の男の娯楽」を当てにしていた時代の古い体質・設備から抜け出せないまま経営破綻・廃業に至った旅館が多かった、といったことなどが挙げられているようですが、他にも衰退の原因があるのではないか。という人も多いようです。中でも、水上駅を出てすぐという立地にあり、無残な姿をさらけ出している「OM」。既に新幹線開業前に事故が原因で営業停止処分を食らい、そのまま廃業、その後荒れるに任せ、今や「水上温泉衰退の元凶」とも言われるようで、地元でも「温泉街の入り口に巨大廃墟があっては薄気味悪い、町の印象を余計悪くしている。早く何とかしてくれ」という声は強いようです。温泉街の北側に離れた一軒宿のような場所にあり、列車の窓からも見えた、団体客・宴会をメインとしていた巨大旅館で、やはり「水泡経済」崩壊後の時世の変化に対応できず12年前に廃業、廃墟化している「OT」、温泉街の中心部にあり、かつては「お色気路線」を売りにしていたという、今は取り壊されている「SK」等々…今も残っているホテルなどでも、経営不振に陥っていったん「倒産」したり経営体が変わったところも多いようで、今や昔の姿を残しているのは、かつてCMにも盛んに流れていた、チェーン店の「J」ぐらいではないでしょうか(
こちらの記事)。草津・伊香保と並んで「上州三大温泉」の1つに数えられていた水上温泉は、今ではその地位から陥落、「神隠し」のモデルともなったという老舗旅館がシンボルになっている四万温泉に取って代わられたようにも思えます。私は水上温泉には十数年前に一泊したことがあったのですが、思えばその頃から「温泉街がさびれている」ような印象が結構見えていた気がしていて、私がその時に泊ったホテルも経営体も名称も変わっていました。
食事に時間がかかったのと、暑さもあり、先の「OM」の少し先まで歩いただけで引き返して水上駅に戻り、またも「鈍行」で高崎へ。今の水上駅は、駅舎の正面は模様替えされていたように見えましたが、既に特急も駅弁も消え、エレベーターなどバリアフリーの対応もなく、正直言ってあまり手を付けたくないのか、という感じにも見えます。高崎でようやく新幹線に乗り、帰途に…。
…とにかく暑かったこの夏、世界各地でも同じように記録的猛暑になったところが多かったとか。そこで、この夏の一曲…。
♭世界で一番熱く光る夏 もうこのトキめき(←妙高市を通っている路線)止めないで~(
[105396])
道中記はこのくらいにして…
[108730] あきごんさん
15年前の話です。さゆりさんは上野発の夜行列車(午後8時ちょうどのあずさ2号)に乗りました(以下略)
これは、「パロディ」なのでしょうか? それとも。TVドラマによくある「登場人物・企業名は実在のものとは一切関係ありません」ということと見るべきなのでしょうか?
以前にも書き込んだことがありますが、「新宿発8時ちょうどのあずさ5号」(昔の「あずさ2号」)、新宿から乗ったことはありませんが、八王子から乗ったこと、何回あったのか、もう10回近くになったのか、数えきれていません…。
[108735] メークインさん
寝台電車特急はくつるでも、9時間半ぐらいかかったのですが。(最速はつかりでも8時間半だったような)
その昔、上野発の夜行列車「はくつる」、上野から北陸方面に向かう特急「はくたか」と、北陸線か信越線だったかにあった急行「しらゆき」というのがあって、勝手に「清酒列車トリオ」と呼んでいました…。今では「はくたか」は北陸新幹線に「出世」し、「しらゆき」は新潟県内のローカル特急として運行されていますが、「はくつる」は復活していないような…
♯「十番勝負の改革案」については、後ほど。
基本的には、白桃さん(
[108718])、あきごんさん(
[108721])、デスクトップ鉄さん(
[108722])あたりとほぼ同意見で、無理して性急な改革はしなくてもよいような気がします。ただ、グリグリさんの提案(
[108712])については必ずしも全否定というわけではなく、後日時間の余裕があったときに考えてみようかとも思うところです…。