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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91103]2016年8月5日
hmt

[91103] 2016年 8月 5日(金)17:47:50hmt さん
それは黒船から始まった (1)開港への序章
落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
1854年まで無名の小漁村だった横浜が歴史にデビューした舞台。それは 黒船艦隊により浦賀に来航して開国を求めたペリーが、翌1854年再来して幕府との間で結んだ 日米和親条約でした。

でも、横浜にとり決定的に重要な転機となったのは、領事として下田に赴任してきたハリスとの交渉により結ばれた 日米修好通商条約 に基づく開港でした。その日付は安政6年旧暦6月2日[28611]

この1859年から 150周年にあたる 2009年に開催された博覧会の愛称は「開国博Y150」でした。
横浜での地方博覧会であるため、「日本開国150年」よりも「横浜開港150年」に重点が置かれた催しであったようです。実際、「開港博」と誤記されることもしばしば。[70310]

それはさておき、横浜オフ会を機会に hmtマガジンに横浜の記事を集め、開港場という特殊な地位から始まり 約160年の歴史を刻んだ横浜の姿を概観するシリーズを書いてみたいと思いつきました。

いまさら言うまでもないことですが、横浜の地理的特徴を一言で言えば「首都に近い港」であり、歴史的にも海外の諸国と接触する海運の拠点としての役割を果してきました。
外国人居留地、生糸の輸出、赤レンガ倉庫などのキーワードが思いつきます。かつての横浜は、華やかな客船を主役とする「日本の表玄関」でした。

時代と共に状況は変り、特に東京港の開港と空路の発達は、横浜に大きな影響を及ぼしました。
しかし、 横浜港自体は 健在です。そして、造船や鉄道貨物施設の跡地が「みなとみらい」地区へと生まれ変った横浜は、首都圏内の大都市として機能しています。

1853年の浦賀、その翌年の横浜に登場する主役は 米利堅合衆国水師提督【東インド艦隊司令官】マシュー・ペリーが率いる「黒船艦隊」でした。木造船ですが黒色塗装を施した外国軍艦は、白木の船だけを見慣れた目には異形の印象を与えたのでしょう。
それよりも日本人を圧倒したのは、旗艦「サスケハナ号」など一部の船が蒸気機関で外輪を駆動することで、黒船4隻が帆走せずに進む姿【曳航も併用】を見せ付けたのでした。まさに米国では「Steam Navyの父」と呼ばれたペリーの面目躍如です。

実は 米国からは ペリー艦隊よりも前に 帆船2隻のビッドル艦隊が派遣されています。
アヘン戦争(1840-1842)でイギリスに敗れた中国(清国)は、1844年に米国との間にも修好通商条約を結ばされており、ビッドルはこの望厦条約の批准書だけでなく、清国駐在の米国公使への対日外交折衝開始指令書も持参していました。既に公使は帰国後でしたが、ビッドルは条約締結の希望を伝えるために、弘化3年(1846)マカオから浦賀に来航しました。

日本側は 前年に老中首座が水野忠邦から阿部正弘に変った政権交代の後でした。国民の大多数は知らないことでしたが、政府当局は 阿蘭陀風説書【長崎出島のオランダ商館長による海外状況報告書】や、1844年のオランダ国書による忠告[77711]により このような海外情勢について、ある程度の知識を得ていました。

「阿部政権」のこの時の対応は、従来の拒絶姿勢を変えずに当座をしのぐというものでした。
正規の交渉権限を持っていなかったビッドルも 薪水・食料など提供を受けて引き下がりました。
間違いによるトラブルが発生しかけたが、大事には至らず。

横浜が歴史に登場する前も含めて、若干の予備知識を 開港への序章 として記してみました。

蛇足
米利堅(メリケン)という言葉は、嘉永7年に結ばれた日本国米利堅合衆国和親条約[1805]のタイトルに使われるなど、戦前には広く使われていました。
もっとも、この事例「米利堅合衆国」は 法令全書が編纂された明治20年頃の用法と推察します。
幕末の本文では「亜墨利加合衆国」となっています。

落書き帳内では「アメリカ」を意味する用例は少数で、最も多い使用例は神戸のメリケンパークで7件でした。

私の記憶に残っているのは、国産の「うどん粉」と異なる高品質の小麦粉を誇示する「メリケン粉」という言葉でした。真っ白で細粒の小麦粉。家庭でケーキを焼く薄力粉が主だったように思います。参考
なお、食用とは無関係の「メリケンを食らわせる」という用法もありました。参考


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