都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[56218]2007年1月13日
白桃
[56221]2007年1月13日
Issie
[56222]2007年1月13日
白桃
[56223]2007年1月13日
hmt
[56265]2007年1月17日
Issie
[56273]2007年1月18日
88
[56491]2007年1月28日
hmt

[56218] 2007年 1月 13日(土)11:32:25白桃 さん
桜沢村が寄居町に編入された年月日?
今日は久しぶりに浦安市の「白桃都市人口研究所」で本来業務?に従事しています。

標題の件ですが、埼玉県大里郡にあった桜沢村が寄居町に編入された年月日について、地名好きさんのHPでも、当市区町村変遷情報でも1908.3.27になっておりますが、不思議なことに、1935年の国勢調査では桜澤村の人口が掲載されております。IssieさんのHPでは1943.9.8となっており、白桃の植物的勘(♪お酒はヌルメの燗がいい~)では、こちらの方が正しいのではないかと思うのですが・・・
88さん、確かな事を調べるツテはございますでしょうか?
[56221] 2007年 1月 13日(土)17:46:20【1】Issie さん
Re:桜沢村が寄居町に編入された年月日?
[56218] 白桃 さん
1908.3.27

地名情報資料室編「市町村名変遷辞典」東京堂出版 でも,角川の地名辞典でも,そのようになっていますね。確か,平凡社の辞典でも。

不思議なことに、1935年の国勢調査では桜澤村の人口が掲載されております

まさにその通りで,うちのHPの場合は,1920年の第1回国勢調査報告に「桜沢村」(←原則として現代表記に書き換える方針にしています)が掲載されていて不思議に思った,ということでした。
そこで,さいたま市 …ではなく 浦和市(当時) の埼玉県立図書館まで出向いて,寄居町史や埼玉県史あたりを見て,1943.9.8 という日付に至った次第です。

何分,「浦和市」であった時分のことで,細かいことは忘れてしまったのですが(寄居町史だったか,埼玉県史だったか,ということも含めて),桜沢村 の合併をめぐってはかなりの曲折があって,1908年の段階では結局合併が成就しなかった,というような記述があったように記憶しています。
ある程度手続きが進んでいて,直前になって御破算になった…,なんてことでもあったんでしょうかね。

追加。
「明治40年(1907年)測図,大正4年(1915年)鉄道補入,同6年(1917年)改版」の陸軍参謀本部5万分1地図「寄居」でも,桜沢村は“独立”しています。
[56222] 2007年 1月 13日(土)18:45:08白桃 さん
Issieさんに御礼
[56221]Issieさん
「桜沢村」の件、お忙しいところ、お知らせ頂きありがとうございました。
今、埼玉県各市町村の国勢調査人口の推移を整理しておりますが、市町村変遷が結構複雑で楽しいです。
[56223] 2007年 1月 13日(土)19:16:47hmt さん
誤記と知らずに信じてしまう怖さ
[56218]白桃 さん
埼玉県大里郡にあった桜沢村が寄居町に編入された年月日

既に[56221] Issie さんのレスがありますが、「白桃」さんの「植物的勘」が的中しているようです。

2年前に「埼玉県市町村合併史」(1960)から拾ったデータ[37533]によると、1943年9月8日に大里郡桜沢村が、秩父郡白鳥村の一部と共に寄居町に編入されたとなっています。
埼玉県が作成した本ですから、一応は信用してよいものと思います。

…と言いながら、この本にも“北本村存在説”が記されていた「前科」[52478]があるので、近くの図書館に行ったついでに、他の本にも当たってみました。

実は、 Issie さん言及の「寄居町史」をねらったのですが、所蔵していなかったので…

新編埼玉県史通史編6巻883
(昭和)18年1月までに(中略)大里郡で桜沢村と寄居町(中略)などの合併が決定した。
新編埼玉県史資料編20巻129 毎日新聞埼玉版昭和18年1月9日記事
…寄居町はまた桜沢村との合併を議している。
埼玉県誌(1912年)復刻版 下巻40~42頁には、町村制以後の廃置分合がすべて列挙されているようですが、明治41の件は記載なし。また、上巻81頁に大里郡3町38村を列挙した中に桜沢村あり。

埼玉県作成以外の本では、角川の「日本地名大辞典」(1980)が明治41年3月27日(11巻1427頁の沿革図)。

[56221]では“確か,平凡社の辞典でも”と記されていますが、平凡社の「埼玉県の地名」785頁では、
昭和17年、桜沢村の一部と…境界変更、…同18年桜沢村と秩父郡白鳥村のうち…が寄居町に編入
と「1943年説」になっています。

楠原氏は、「市町村名変遷辞典」の冒頭で、次のように記しています。
本書編纂のため参照した資料一覧は前付6ページに掲げたが、その中では角川版「日本地名大辞典」が近代100年の自治体名を通覧するのに最も好都合かもしれない。しかし同辞典も(中略)明らかな誤りも散見されている。
残念ながら、楠原氏の上記辞典も誤りを見逃したようで、寄居町への桜沢村編入は明治41年3月27日となっています。

更に、他の本も見ていたら、「1941年説」もありました。
日本地誌第6巻(二宮書店1963)415頁
(寄居町)…1941年(昭和16年)桜沢村を合併し、さらに1943年秩父郡白鳥村の一部を編入…
埼玉大百科事典(埼玉新聞社)5巻214頁にもほぼ同様の記載。しかも、同書巻末の「合併構造表」では、明治41年3月27日桜沢村編入となっているという不統一ぶりです。

角川本で「明治41年説」が現れた理由はつかめませんでしたが、これが楠原本などに使われて、更に広まってしまったのでしょうか。

[56222]
今、埼玉県各市町村の国勢調査人口の推移を整理しておりますが、市町村変遷が結構複雑で楽しいです。

2年前に「埼玉県市町村合併史」(1960)から拾ったデータは、むじながいりさんの パラパラ地図 に使っていただいています。ご参考まで。
[56265] 2007年 1月 17日(水)22:19:52【2】Issie さん
埼玉県榛沢郡桜沢村のこと
[56218] 白桃 さん
[56221]
[56223] hmt さん

うちの職場は今が“農閑期”で,今日は「バリウムを飲む」という“身体に悪い出張”があったことを口実に午後を休みにして,思い立って浦和の県立図書館まで件の「寄居町史」を読みに行ってきました。
や,それにしても,横浜から浦和まで,京浜東北線はずいぶんと乗りでがあるものです。

『寄居町史  通史編』(寄居町教育委員会町史編さん室,1986年)は言っています(←英文直訳?):

問題の1908(明治41)年の場合,
 ・町村会(寄居町および桜沢村)の議決 および 郡参事会(大里郡)の議決を経,
 ・1908年3月に 埼玉県知事 から 内務大臣 に「稟申書」が提出されたが,
 ・内務大臣は許可を与えず,
 ・大里郡長,埼玉県地方課・内務部が仲介に努めたが,
 ・結局,協議は不成立に終わり,町村合併は実現しなかった
というお話であったようです。

これに先立って,
1888(明治21)年に法律「町村制」が公布され,翌89年4月1日から順次施行されるわけですが(埼玉県は4月1日施行,でも東京府は5月1日),これを前に,いわゆる「明治の大合併」のための町村合併案が各府県で作成されました。
埼玉県では,まず1887(明治20)年6月に知事から各郡長に町村合併案を作成するよう指示が下ろされ,当時の寄居町や桜沢村の属する 榛沢郡 を管轄する 大里郡外三郡長・平井光長(“外三郡”とは,榛沢・男衾・幡羅郡) が合併案を提出しました。それによると
 寄居町・末野村・藤田村 →寄居町
 桜沢村 →桜沢村
と,桜沢村を単独で編成するものでした。当時(合併前)の 寄居町 が256戸,桜沢村 が314戸で,桜沢村単独で1村を編成するに足ると 平井郡長 が判断したものと思われます。なお,寄居町に 末野村(209戸)・藤田村(6戸) を合わせて想定された 新・寄居町 の戸数は471戸で,桜沢村単独よりは大きな町になります。
けれども,この案は郡長が“極秘裏”に作成したものであったようで,当然に大きな反発がありました(恐らくは,大里・榛沢・男衾・幡羅郡,あるいは埼玉県だけでなく,全国で)。そこで,町村制の公布後,埼玉県では1888(明治21)年7月の知事から各郡長への町村合併促進の指示の下,郡役所吏員と一部連合戸長ら実務担当者によって,改めて合併見込案が作成されました。これによると,桜沢村 は,寄居町・末野村・藤田村 とともに,新・寄居町へ統合すべきものとされています。
つまるところ,桜沢村については,当時から寄居町と合併すべきか否か,意見が分かれていたのでした。
結局,この段階では,寄居町への合併を打ち出した 合併見込案 に対して,桜沢村から寄居町との地域性の違い(寄居町は人口稠密で商工業中心,桜沢村は人口疎濶かつ彊域広濶で農業中心)と独立自治の資力を持つとの意見書を知事宛に提出し,これが郡長の認めるところとなって,桜沢村は独立を維持して,1889年4月1日の町村制施行を迎えました。

1908年の合併問題は,日露戦争後の社会の変化の中で町村財政の強化をめざす内務省の方針の下に進められた全国的な町村再編の一環をなすものであったようですが,寄居町・桜沢村の場合,「大字有財産の処理をめぐって合意が得られ」なかったことが,合併が成功しなかった原因であったようです。
つまりは,寄居町と桜沢村の財産力の差がネックになったらしい,ということ。
単純に比較すると,町村規模の違いから当然に寄居町の方が財産規模は大きいのですが,住民1戸あたりに換算すると意外にも桜沢村が豊かで,特に大字(村)有地については寄居町のうちの寄居と藤田がほとんどこれを持たず末野が56町歩を持つのに対して,桜沢村(大字を編成せず)が84町歩を持っていて,対等合併には寄居町の負担が大きいと判断されたようです。
言い換えると,寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず,つまり,当該町村も,郡も,県もクリアーしていたのに,最後の内務大臣レベルで挫折して,合併が成就しなかった,という話であったようです。

これら(町村制施行前の1888~89年,問題の1908~09年)のほかに,1925(大正14)年にも合併の動きがあったのですが,これも不調に終わったとのこと。
結局,合併が成就したのは,戦時体制下,地方自治権が大幅に奪われた下での1943(昭和18)年9月8日のことでありました。これは桜沢村だけではなく,西隣の秩父郡白鳥村のうちの東半分も合併するものでした。この際に,白鳥村は3分割され,東半が寄居町に,西北部が野上町(現長瀞町)に,西南部が美野町(現皆野町ほか)に編入・合併されています。
埼玉県では,これに前後して「戦時下」を口実に幾つもの“大型合併”が行われいますが,このうち 川口市(川口市,北足立郡鳩ヶ谷町),北足立郡志紀町(志木町,内間木村,宗岡村,水谷村),秩父郡美野町(皆野町,国神村,金沢村,日野沢村,三沢村,大田村),北埼玉郡騎西町(騎西町,田ヶ谷村,種足村,鴻茎村,高柳村),北葛飾郡栗橋町(栗橋町,静村,豊田村)のように,国の重しのなくなった戦後に元のように解体してしまったものが少なくありません。無理があったのでしょうね。もっとも,「昭和の大合併」で再び合併されたものも多いのですが。
寄居町の場合は,このような解体はなく,昭和の大合併でさらに4つの村を合併して今の姿になっています。そうして今や,大里郡で生き残っているのは 寄居町 だけなのですね。
[56273] 2007年 1月 18日(木)00:11:4888 さん
まとめレス
年初からの皆様からの書き込みに対し、まとめてレスします。

[55766] 矢作川太郎 さん
小倉町の表記見た上で、結論から言わせて頂くと、私の中で「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の位置付けは参考資料の一つでしか有りません。
ありがとうございました。「幕末以降総覧」(文献の正式名称は拙稿[55681]冒頭参照)が、詳細な城下町や藩政村を羅列しているので、つい「絶対視」していました。後述の各レスにも言えますが、一つの資料の鵜呑みはよろしくないですね。複数のものを見比べて、より正確なものを追う、という手法しかないのでしょうが。
しかし、市制町村制以前の資料というと、全国的に網羅した1冊の文献は私はこの「幕末以降総覧」以外に知りません。あとは、「角川日本地名大辞典」の各県分や、他の資料を個別に拾うしかないのでしょうねえ・・・。これはまた調査が大変そうです。

[55926] 紅葉橋律乃介 さん
市区町村変遷情報は年別に分けられていますが、こちらは「西暦(元号)」と併記されているので問題ないとして、たとえば北海道のように都道府県別に見た場合は、西暦のみの表示となっています。
ご承知のとおり、日本では告示等の行政文書はすべて元号表記(西暦は併記すらしない)ですので、私や紅葉橋律乃介 さんのように告示を追う人にとってはわかりにくいところがあります。一方、そうでない世間一般の人にとっては、西暦の方がピンと来るのでしょうか?
いずれにせよ、ごもっともなご意見だと思いますので、(以前からの私の懸案でもあるのですが)併記するようにしたいとら思います(というより、私はグリグリさんに改良を依頼するだけなのですが)。
というわけで、グリグリさん、これについては後日、別途変更仕様書を提案しますので(次期リニューアル時?)、よろしくお願いいたします。
#漢字表記の件については、稿を改めます。

[56162] hmt さん
硫黄島村について
# “島嶼町村制施行”と書いてありますが、この勅令はこの1940年に廃止されているので、“町村制施行”の誤記だと思います。
これは、「総覧」の表現が
昭和15年4月1日、島嶼町村制の適用により小笠原諸島に大村、扇村袋沢村、沖村、北村、硫黄島村の5村設置
となっていたため、このまま入力したものです。
ちなみに、
村制・・「幕末以降総覧」
島嶼町村制・・「総覧」
不明・・「辞典」「消えた辞典」(これらは「村制」とあるが「島嶼町村制」との区別なし)、「便覧」
でした。
「島嶼町村制」(元の「沖縄県及島嶼町村制」)は、昭和15年4月1日勅令第238号により廃止(公布の日より廃止)とのことなので、このS15.4.1施行の「硫黄島村」は、「島嶼町村制」ではなく「町村制」ということですね? なお、硫黄島村に限らず、他の4村も同様なので、あわせて修正しました。
また、歴史的背景等に話題を広げた中で市区町村変遷情報にも[56242]で触れて活用していただき、ありがとうございます。編集者冥利に尽きます。「大島村」の誤記も修正しました。

[56174] 右左府 さん
「安部郡」とありますが、「安倍郡」の誤りではないでしょうか。
修正しました。ご確認ください(センター試験が終わってからでいいですが・・・健闘を祈ります。ちなみに私は「共通一次」世代)。ありがとうございました。
もひとつ余談。私と右左府さんは、ニックネーム欄の配色がよく似ていますね。

[56218] 白桃 さん
桜沢村が寄居町に編入された年月日?
既に[56221] Issie さん、[56223] hmt さん、[56265] Issie さん で返答いただいていますが、参考までに私の手持ちの文献の表記は、次のとおりです。
1908(M41).3.27「総覧」「幕末以降総覧」「辞典」「消えた辞典」「便覧」
1943(S18).9.8なし
今回の例は、「そもそも桜沢村がいつまで存在したか」ですので、以前の「下阪本村 or 下坂本村」とは異なり、答は自明なはずなのですが・・・今回は他の資料によって明らかなようですので、1943(S18).9.8に修正しました。ありがとうございました。それにしても、数多くの文献の記載内容の疑義を証する資料(調査結果)がすっと出てくるとは・・・改めて落書き帳恐るべしです。
[56491] 2007年 1月 28日(日)14:22:08【3】hmt さん
長瀞・寄居付近
[56459]で戦時合併した埼玉県美野町の解体手続きに触れましたが、この美野町が成立した1943年9月8日は、先に話題になった 桜沢村の寄居町への編入 と同日です。
つまり、荒川が秩父山地から関東平野へと流れ出るあたりで、この日に3件の戦時合併があったのです。

秩父郡皆野町、三沢村、国神村、金沢村、日野沢村、大田村、それに 白鳥村下田野 が合体して美野町成立。
秩父郡樋口村と白鳥村の大字岩田・大字井戸・大字風布の一部分が 野上町 に編入
大里郡桜沢村と秩父郡白鳥村大字金尾・大字風布の大部分が 大里郡寄居町 に編入

上記のように3分割されて消滅した白鳥村。名前の由来は、国指定名称「長瀞」の「白鳥島」 ですね。
見事な結晶片岩の露頭で有名な長瀞の右岸、観光客の視線で言うと「対岸」の山塊が白鳥村で、荒川はその山麓を北に回って寄居に出ます。

この白鳥村は、東斜面が 寄居町に、尾根を隔てた長瀞側の西斜面が 野上町(現・長瀞町)に、そして釜伏山の南西が 上流側に隣接する皆野町を中心として新設された美野町へと3分割されたわけです。
もともと山で隔てられた地形ですから、これが自然の成り行きと言えるでしょう。白鳥村の金尾・風布からも分村編入の陳情書が出ていました。言い換えれば、明治22年の町村制に際して作られた白鳥村は、かなり不自然な存在だったということでしょう。

桜沢村の件は[56265] Issie さんにある通りで、4度目の合併話でようやく実現しました。

最初、明治の町村制施行にあたっては、郡長の寄居合併試案に対して、地形・民情の相違が認められて独立で村制(1889年、当時は榛沢郡)。

2度目、日露戦争後の1908年に提出された合併案が内務大臣の許可を得られず不成立に終わった原因が 「基本財産問題」 にあったことも既に紹介されています。

寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず
と、すっきりしないようなので、もう一度問題を整理してみます。

要するに内務省としては、桜沢村の大字有林を基本財産に吸収して、町村財政の強化を図る目論見であったのに対して、桜沢村としては、こちらが山林を出すなら、寄居町は土地に代る金銭を拠出してこそ対等合併だと主張。

間に立った郡や県が、桜沢村所有の山林の権利を地元に残す形で調整を図った結果が、1908年の合併申請だったが、これが内務省の意向に沿わなかったために不許可に終わったということでしょう。
…若シ大字有土地ヲ新寄居町有ト為サゝレハ合併不許可相成次第ニモ候ハゝ甚ダ遺憾千万ノ儀ニ候得共…
(明治41年9月大里郡長より埼玉県内務部長への申報)

3度目の合併話は大正末期、鉄道を巡る感情的なしこりが失敗の原因になったようです。
坂戸町から高崎への計画線を寄居までに縮めて工事中だった東上線は、1923年(大正12年)11月に小川町までが開通し、1924年末という竣工期限には間に合わなかったものの、1925年7月に秩父鉄道寄居駅に乗り入れを果たしました。
実はそれよりも前、東上線乗り入れ駅の誘致を巡って、寄居町と桜沢村との競り合いがあり、その時の行きがかり上、桜沢村民は寄居との合併に反対する空気が強く、寄居町も断念に至ったと新聞は伝えています(東京朝日埼玉版1925/9/13)。

そして4度目が昭和18年の戦時合併。この時は有無を言わせず合併になったのでしょう。
日付については、前記白鳥村の3分割と同日、1943年9月8日ということになりました。
戦後は、美野町のように解体することもなく無事でした。

【追記】
寄居町風布(ふっぷ)の「北限のみかん」というキャッチフレーズを耳にしたのは ずいぶん前のこと。
最近は事情が変わっているかと調べてみたら、筑波山西麓のみかん園 の方が少し北のようです。常陸太田市のジュース工場 にも実をつける木があるらしいが、これは「産地」とは言えないか。
更に、「国見の里 みかんの実る 北限地」 というのもありました。那須烏山市のみかん園
【更に追記】
[56514] 音無鈴鹿さん から「福島県のみかん」を紹介していただきました。写真を見ると、立派に実っていますね。


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