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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[92811] 2017年 4月 29日(土)14:58:04hmt さん
栃木県下都賀郡桑絹村の 1960年村長選挙
[92809] 伊豆之国さん
[91787] 山野さん
立候補締め切りまでに届出を行なった人数267人、最終的な立候補者202人で、まともな得票を得たのは3人だけ。
190人は「0票」という村長選挙には驚きました。

部外者ながら、最初に気になったのが、現在の町村長選挙では 50万円となっている供託金です。
調べてみたら、1960年当時の制度では 供託金不要で、1962年に 2万円になったようです。
大量立候補という異常な行為の背景には、供託金没収がない当時の制度があったのでした。

それはさておき、昭和合併で桑村と絹村とから成立した「桑絹村」という自治体名には関心をそそられます。
現在の小山市の町名には「桑」も「絹」も存在しないが、「桑・絹地区」という呼び方は残っているようです。
小山西高校のページに掲載されたふるさとの地名

結城紬(ゆうきつむぎ)で知られる茨城県結城市と隣接したシルク産業で栄えた地域ですが、特に絹村は結城市の中心市街に近いことや結城市に問屋が密集している結城紬の生産地であることから、生活や産業において結城市との非常に強いつながりを持つ地域であったとされます。

昭和合併の際も、絹村としては結城市への越境編入を望んだが、栃木県に意向でとりあえず桑絹村を作り、その後で分村・越境合併という手筈を承諾。
ところが、栃木県が分村を認めなかったことから、対立→大量立候補事件へと進展したようです。

[91787]のリンク先 選挙ドットコムから事件の発端を引用します。
しかし、合併をしないと国や県からの補助金がなくなる事や栃木県がとりあえず桑村と合併し、その後に結城市合併派の地区だけで分村して新しい村を作り、この村が結城市と越境合併をするという形にすると発言したことで桑村との合併が決まり、1956年に両村は合併して桑絹村が誕生しました。しかし、栃木県が前言を撤回して分村を認めないとしたことで、結城市合併派地区は桑絹村との同化を拒否。村政と絶縁すると宣言し、村議が辞職したり、村の農協から脱退して預金を全額引き出したり、地区の消防団が他の地区の消火活動をしないと宣言したり、果ては納税拒否という事態にまで発展しました。

参考情報などを収録した寄稿者のブログも付けておきます。

「成立しなかった合併情報」の対象は2000年以降です。県境の事例は五霞町と幸手市などが収録されています。
今回の絹村と結城市との越境合併不成立事例は、昔のことであり、合併協議会レベルにもなっていないと思われるので、もちろん対象外です。

しかし、この事例は「県境の壁」を越えることの困難を示す貴重な事例の一つであるように思われます。
あえて落書き帳に記録しておきたいと思いました。
そう言えば、実現しなかった県境変更の事例は[79754]でも記載。1955年熱海市泉地区

参考までに、昭和合併時代に成立した越境合併は、廃置分合5件+境界変更3件=8件でした。県境の変更
[92790] 2017年 4月 14日(金)19:15:48【1】hmt さん
六郷の七辻
[92747] リトル さん 「七差路」72時間
[92789] Takashi さん

大田区のページに記されていた所在地は、次のようになっていました。
大田区南蒲田二丁目、東六郷一丁目、南六郷一丁目ほか

交差点なので町字名の境界になっているのはわかります。
しかし、「ほか」と書かれると、あと幾つの町名があるのか? と気になります。
mapionで確認した限りでは、省略されているのは東側の 萩中一丁目 だけのようでした。

気にし始めると、この七辻の由来や旧地名も気になります。
知の冒険・珍スポットにあった「七辻の由来」の説明板。
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大正六年から十年の歳月をかけて行なわれた耕地整理によって完成したもので、そのころは、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、【水田と果樹園が広がり】春には花見客でにぎわったという。
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なるほど、明治22年の町村制で成立した六郷村の耕地整理によって 七辻が作られ、昭和になると六郷町を経て1932年の 「大東京」合併[74867] で東京市に編入されて都市化が進行。戦後になると蒲田区から大田区へ。という概略の動きは理解できました。

上記ページに従って、便宜的に 東から来る比較的大きな道を1とし、左回りに7まで付番すると、2→5と4→7が一方通行です。現在の大田区町名は萩中一丁目(7-1-2)、南蒲田二丁目(2-3)、東六郷一丁目(3-4-5-6)、南六郷一丁目(6-7)。

少し広域を眺めると、七辻の南西側には京浜急行の雑色駅を中心として 南六郷・東六郷・仲六郷・西六郷という町名が現存しています。
【追記】
雑色(ぞうしき)という言葉は、公家官職一覧の中に、蔵人所(令外官)の中に記されています。本来は天皇家の家政における庶務を扱う役職のようですが、都を離れた関東の地名として使われているので、地方官に仕える職など、別の意味に転用された用法に由来するのでしょう。
この表には、もちろん サイトウさん[92775][92783]に関係する斎院司に属する官職も記されています。【追記終】

[35798]では、「六郷(ろくごう)村の由来には、合併した村域の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したとする説もある」と記しましたが、明治合併で六郷村になったのは5村であり、西六郷の北に位置する旧・道塚村だけは矢口村になりました。

いずれにせよ、六郷の名は「六郷川」により現代にも伝えられており、戦後は西六郷小学校に赴任した鎌田典三郎教諭が設立した西六郷少年少女合唱団でも知られるようになりました。

七辻があるのは六郷神社の北東の方角で、説明板にあった「子【北】之神」と少し違います。

以上、七辻が話題になった機会に、東京の「六郷」について記しましたが、検索の結果、全国にある地名であることを知りました。
[92786] 2017年 4月 11日(火)19:45:52hmt さん
サウスジョージア島(2)フォークランド紛争 と シャクルトンの南極探検
[92785]に続く話題は、生物の楽園から離れて、この島で 人間の引き起こした騒ぎを少々記します。

一つは 35年前のフォークランド紛争。
フォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、1982年に起こした戦争です。
侵攻は、放置されていたサウスジョージア島の捕鯨工場解体を名目にアルゼンチン人が入国手続を無視して上陸し、居座ったと3月から開始。
その後、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に上陸し、一旦は圧倒的な兵力で その全域を手に入れました。

しかし、イギリスが本腰を入れて反撃を始めると これが成功し、6月にはイギリスの勝利で戦闘終結。
アルゼンチンのガルチェリ大統領は敗北の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を辞任し失脚しました。
イギリス側にも損害はありましたが、「鉄の女」と言われた マーガレット・サッチャー首相の人気は急上昇。
両国は外交関係を回復していますが、領有権の主張では互いに譲っていません。

もう一つは、約100年前のシャクルトンの南極探検です。

同じイギリスのスコット探検隊は、犬ぞりを利用した アムンゼン隊に遅れながらも、1912年1月に「南極点到達」。
しかし、その帰路は 悲劇的な遭難で終りました。

「南極大陸横断」を目指したシャクルトン探検隊は、初期目的の「大陸横断」を果たせず、エンデュアランス号を失うなど 多くの危機にも見舞われましたが、それを乗り越えて生還しました。

このシャクルトン隊生還劇で重要な役目を果たしたのが、当時のサウスジョージア島にあった捕鯨基地でした。
[92785]冒頭2番目の地図が使われている Wikipedia「帝国南極横断探検隊」に詳しい記述があるので、関心のある方はそちらをどうぞ。

ポイントだけ記すと、南極のウェッデル海探検中、1915年にエンデュアランス号を失い、イギリスに戻るべく苦闘中のシャクルトン。救命艇・ジェイムズ・ケアード号に6人だけが乗り込み、捕鯨船に出会える可能性のあるサウスジョージア島を目指して「吠える 50度」の海を1500kmの航海に乗り出したのが1916年でした。風をかなり避けられる南岸のキング・ハーコン湾に接岸し、氷河に覆われた山脈を横断して サウスジョージア島 北岸の捕鯨基地・ストロムネスに到達。
その後、南極半島先端近くのエレファント島に残してきた隊員22名の救出にも成功しました。

「生還の保証なし」という”求人広告”[74153] で有名な シャクルトンは、1922年に サウスジョージア島を訪れた際に急死し、南極の入口とも言えるこの地に葬られました。
[92785] 2017年 4月 11日(火)19:21:18hmt さん
サウスジョージア島(1)生物の楽園
国立公園・国定公園のシリーズが一段落しました。
直接の関係はないのですが、ここで海外の地理に目を向け、鳥などの生き物にも関係した記事を記します。
その対象が、タイトルに記した「サウスジョージア島」です。

サウスジョージア島? どこだ? 
「ジョージア」だけならば、落書き帳全記事を検索すると何件もあります。
ソ連時代からの「グルジア」を英語式に変更したコーカサスの国名。
缶コーヒー。そしてアメリカ合衆国のジョージア州。
その中に埋もれていましたが、ありました。[10526] 太白さんの「海外領土」。
英国領 South Georgia and the South Sandwich Islands 南ジョージア・南サンドイッチ諸島
南緯 54度30分 西経 37度00分 南アメリカ

日本とは地球の反対側にあって馴染みのない場所ですが、南米大陸の先端・フェゴ島から東に進むと、フォークランド諸島、サウスジョージア島、その先のサウスサンドイッチ諸島で南に向きを変え、西のサウスオークニー諸島を経て南極半島の先端につながるという弧状列島の一員です。

地図で見るように、2005年の落書き帳で話題になった ブーベ島や トリスタン・ダ・クーニャ島と同様の 南大西洋の島々に属する島です。
もう一つの地図は、Wikipediaの「帝国南極横断探検隊」で使われている地図です。
上方【南大西洋】に伸びている青線の先Grytviken【スゥエーデン語の油壺】という捕鯨基地が設けられていた島がサウスジョージア島です。
シャクルトン南極探検隊のことは[74153]で触れましたが、この捕鯨基地があったおかげで生還することができたのでした。

サウスジョージア島の面積は 3756km2もあり、択捉島よりも大きな島です。1775年キャプテン・クックにより発見され、20世紀にはノルウェーの会社などによる捕鯨基地が建設されたが、1966年以降は研究者以外の定住者はないようです。

この島の自然に関するタネ本は 半年ほど前のNewton(2016-9)に掲載された記事で、「生物の楽園」と言われるように、数十万羽のキングペンギンを始めとする動物たちが海岸を埋め尽くす姿は壮観です。
島の動物たちや南極海のクジラを頂点とする生態系を支えているのは ナンキョクオキアミという小さな甲殻類。

この島がある南緯55度付近。そこは「大陸が存在しない緯度」です。見た目には、偏西風で西から東へと流れる海流が、大陸とぶつからずに南極大陸の周りを一周できそうです。正確には、同じ海水のまま一周しているわけではなく、大西洋などとの入れ替えがあるようですが…
世界で最も荒れる海として、航海者たちが「吠える50度、怒れる60度」という言葉で恐れた海域でした。

その中でも極め付きの海域。それは南米南端と南極半島との間のドレーク海峡を駆け抜けた海流が、前記 弧状に並ぶ島々や海嶺【スコシア弧】に衝突するスコシア海です。Google Earth

サウスジョージア島は、緯度こそフォークランド諸島とあまり変わらないものの、その付近の海は冷たい南極表層水(1~2度)で覆われ、北からくる大西洋の水の海水温(夏ならばフェゴ島周辺で6~7度)とは大きく異なります。

両者の間に形成されるのが「南極前線」。南極前線の北のフォークランド諸島では牧草地が広がりますが、サウスジョージア島は氷河で覆われ、時には南極大陸からの氷山も流れ着く場所です。

このように陸上の気候条件は厳しい地ですが、サウスジョージア島の海では 豊富な栄養を含む深層海水が湧昇流として水面近くにもたらされます。ここは ナンキョクオキアミが最も高密度に群れる海域となり、この豊富な餌により育てられた動物群が繁栄することになりました。

人が生活するには厳しい南極気候の地でありながら、意外にも「生物の楽園」が形成された「奇跡の島」。
それは、このような仕組みによるもののようです。

キングペンギンなど各種ペンギンやミズナギドリ、ウミツバメなどの鳥類、ミナミゾウアザラシ、カニクイアザラシ、ナンキョクオットセイ、掃除屋のオオフルマカモメ、そして大型のヒゲクジラ類。

それだけでなく、人間によって持ち込まれた外来動物も増えてしまいました。侵入者の代表はネズミでした。
捕鯨業者が食料として持ち込んだレインディア(カリブー)も数千頭に増殖し、問題になっていたが、2015年に駆除成功と伝えられます。
[92783] 2017年 4月 9日(日)15:02:43hmt さん
Re:サイトウさん
[92775] 伊豆之国 さん
「サイトウ」と言う苗字には、最も代表的な書き方で見ると、「斎藤」と「斉藤」(旧字体ではそれぞれ「齋藤」「齊藤」)の2つにまず大きく分けられます。「斎」と「斉」は本来別の字なのですが、混用されることが多く…

旧字体の頭を略記した新字体は ともかくとして、「斎」【サイ】とは別字である「斉」【セイ】を使いながら、読みとしては「サイトウさん」である方が多い新潟県など、注意を要する苗字ですね。

今回の話題に関連して ふと思い出した人物が、子供の頃に五月人形で見た「斎藤別当実盛」です。
馬上姿の人形でしたが、手にしていたのがダイコン。何か逸話があるはずと探しましたが、発見できませんでした。

探しているうちに見たのが、「ニッポン旅マガジン」に収録されている 斎藤さんのルーツを探せ!というページです。
斎藤姓はその藤原利仁の子、斎宮頭叙用(さいぐうのかみのぶもち=藤原叙用)が斎藤と称したことから始った。
つまり斎藤は、伊勢神宮の役職「斎宮頭」+藤原氏の「藤」=斎藤で、藤原北家利仁流の斎藤氏の誕生となる。

芥川龍之介小説『芋粥』は、外国貿易を支配した藤原利仁の敦賀館を舞台とした話のようですが(今昔物語)、この家は越前を本拠として北陸に勢力を広げたとのこと。
[92775]でも引用されている ページ に掲載された県別の塗り分け図を見ると、伊勢付近と共に北陸の青色【斎藤】が目立ちます。そして信越の赤色【斉藤】を飛び越えて関東・東北へと青色【斎藤】が広がっています。

旅マガジンに戻ると、「関東の斎藤さんは熊谷がルーツ」と書いてあり、越前から武蔵国長井庄【熊谷市妻沼】に移住した斎藤実盛が登場します。

斎藤実盛は 熊谷の偉人とされているのですね。800年以上前の平安時代末期、源氏や平家などの武士が勢力を伸ばしつつあった時代です。誰が勝者となるか先が読めません。
藤原姓の実盛は 最初 源氏の配下でしたが、結局は平家に仕えることになり、武蔵国北部の幡羅郡長井庄を支配。1179年妻沼聖天山を開いた頃が絶頂期でしょう。

清盛の死後、落ち目になった平家を支える役目になり、富士川の戦いを前に 東国武士の勇猛さを平家軍に伝えました。これが逆効果で、「水鳥の羽音に驚き全軍敗走」の遠因になったとの説もあるようです。

1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に大敗し、追撃された平家軍が迎えた篠原の戦い(加賀市片山津温泉付近)。『平家物語』は 総崩れとなった平家軍の中で戦死した実盛の奮戦を伝えています。
勝者の木曽義仲が 老武者の首を洗ったところ 白髪が現れ、幼児の駒王丸時代に木曽に逃してくれた恩人の実盛であったことを確認し、涙しました。
この敗戦により、平家は都落ちすることになりました。

約500年後の元禄2年(1689)、篠原の古戦場を訪れた旅人の詠んだ一句
むさんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす    芭蕉

熊谷市の年表によると、鎌倉時代になってからの1193年、源頼朝が妻沼聖天を訪れた際に、実盛の子は別当寺の建立を願い出て許され、1197年に歓喜院を創設。

[92780] 伊豆之国 さん 横浜市神奈川区斎藤分町六角橋 の近くなのですね。

[92781] N さん はまれぽ
要旨:『横浜の町名』(1982横浜市民局刊, 1996改訂)によると、斎藤兼実という武士が仏門に入り、善龍寺を開く。境内には、縁起が書かれた石碑(1987)が建てられている。石碑によると、真言宗の古寺を1253(建長5)年に浄土真宗に改宗した人物こそが斎藤兼実(=真量法師)。斎藤式部入道?

これだけでは数十年という時間と、地理的ギャップがあり、系図で裏付けないことには、斎藤実盛と斎藤兼実との関係は不明のままです。
しかし「実」という字と、同じ武蔵国内という共通点があります。
もしかしたら、約800年前の「斎藤さん」は、つながるのかもしれない。そんなことを妄想しています。


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