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ニジェガロージェッツさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[60826]2007年8月27日
ニジェガロージェッツ
[60790]2007年8月25日
ニジェガロージェッツ
[60766]2007年8月25日
ニジェガロージェッツ
[60672]2007年8月19日
ニジェガロージェッツ
[60616]2007年8月16日
ニジェガロージェッツ
[60613]2007年8月15日
ニジェガロージェッツ
[57118]2007年3月2日
ニジェガロージェッツ
[57101]2007年3月1日
ニジェガロージェッツ
[57051]2007年2月26日
ニジェガロージェッツ
[56986]2007年2月23日
ニジェガロージェッツ

[60826] 2007年 8月 27日(月)02:51:31ニジェガロージェッツ さん
丁目について
88さん、Issieさん、inakanomozartさん、拙稿[60790]へのレス、有難うございます。

[60791] 88 さん
「住所と地名の大研究」(今尾恵介著、新潮選書、新潮社、2004年3月20日発行)に、まさしく、そのとおりのことが書かれています。

これはこれは恐縮です。2004年発行とは比較的新しい書籍ですね。今尾氏の書籍は本屋さんで見つけたときには手にとって読むようにしているのですが、ネットに浸かって以来のここ数年は、書店で足を止めることがめっきり減りました。「住所と地名の大研究」は要チェックですね。

[60793] Issie さん
耕地での「条里制」、都城での「条坊制」から「町/丁」についての詳細なご解説ご教示、有難うございます。
「丁目」の元来の意味が、ここまで遡れるとは痛快です。

話は変わりますが、Issieさんのご説明にある、朱雀大路から始まる中国式都城の設計システムをお聞きしていると、福原遷都(1180年)における「和田京計画」を思い出しました。
今の神戸市営地下鉄山手線上沢駅から長田駅辺りにかけてが大内裏に想定され、山陽道を朱雀大路として、南西方向に都城計画がおかれていたそうです。
そうすると左京は五条で妙法寺川河口の須磨海岸に達し海に没し、右京は山谷相交わるという地形によりかなりの制約を受ける都城計画だったそうです。
「平家物語」にも
和田の松原の西の野を点じて、九城(条)の地をわ(割)られける。
一条よりしも(下)五条までは其所あって、五条よりしもはなかりけり
とあるそうです。
朱雀大路の伸びる方向こそ違いますが、和田京の復元図を現在の市街図に落として計ると1条の幅は約600mで、小路以下は不明ですが平安京と同じような構造を考えていたのかも知れません。
(参考文献 「ながたの歴史」、長田区役所、昭和52年3月発行)

[60801] inakanomozart さん
駿府城下における町割りについての具体的な例示とその後の変遷の詳細、興味深く拝読させていただきました。

駿府を例にとると、駿府城の南西面に碁盤の目状につくられた町は、正確に一丁四方(約110メートル四方)の街区でした。
小生の生まれ育った神戸市長田区の南部は碁盤の目状に街路が区切られ、丁目もそれに沿って区切られています。[60790]にて11丁目まである長さ1200mの「若松町」の例を挙げましたが、この一帯は
1200÷11=109.09
となり、正しく「1丁」の長さに一致します。
道を尋ねられた場合の会話にも、「2丁先の角を北へ1丁上がって・・・」という言い方が、言う方も聴く方も何の違和感もなく理解しています。
ところが同じ長田区でも山麓のほうへ行くとそんな尺度は全く通用せず、雅に言えば「和田京」の「左京」から「右京」へ引越し転校したときのことですが「この辺りの丁割りはインチキや!」と子供ながら思っていました。

駿府にかぎらず、江戸時代の人為的に町割れされた城下町の多くは、「字」のようなブロック単位の町ではなく、欧米の都市の住所表示方のごとく、通りに町名がつけられ、丁目は文字どおり一丁ごとだったのではないでしょうか?
江戸期の町割りが、通りに町名がつけられているのはおおよそ共通に思いますが、丁目=1町の図式は、やはり違うところもあるように感じています。
便宜上に長い通りを(1町=109mに拘らず)適当な長さに分けていると思われるのが、例えば大阪の谷町。現在の大阪市中央区谷町は新住居表示がなされていますが、新住居表示前とその町域はあまり変わりなく、丁目数も同じです。その長さ約2.6kmに9丁目ですから、1丁目平均289mになります。
谷町だけが例外と言うわけではなく、大阪の場合は新住居表示実施前の地図を見ると1丁目平均がだいたい200m前後のところが多いように感じます。
[60790] 2007年 8月 25日(土)23:11:55ニジェガロージェッツ さん
「丁目」とは元来、距離を示す単位?
[60756]だんなさんからの「とおりめい」に触れて、リンクを出して下さった国土交通省道路局の「通り名で道案内」にある、距離で住居番号を示すシステムに、これは目的地までの距離も把握できるところが便利だという書き込み[60766]をしましたが、それはそうと、「丁目」とは元来は長さを示す単位「丁」に由来するものではないかと、かなり以前より思っていました。

というのは、小生の住む神戸市の旧市街地部分、特に明治後期から昭和初期にかけて行われた耕地整理組合による市街化事業で誕生した区画の多くの「丁目」がだいたい100mで区切られています。神戸市の市街地図を見れば分かりますが、新住居表示を実施している現在でも、その多くは当時の「丁目」を踏襲しています。具体的には灘区、中央区東部(旧葺合区)、兵庫区、長田区の平野部、須磨区南東部の区域です。
現在のメートル法に換算して、1丁(町)=109.09m ですから、大体一致します。
ここで最も「丁目数」が多いのは長田区若松町で11丁目までありますから、若松町の長さを地図で計ると約1200mで、いい線が出ていると感じます。

神戸のお話は大体が明治末期から大正期に市街化していった地域ですが、[60759]千本桜さんに続き、[60787]今川焼さんのお話にある京都市東山区本町の場合は、もっと時代を遡ることが出来ると推察します。
東山区本町の場合は1丁目から22丁目まであり、その距離は約2800mで1丁平均127m。
だいたいにおいて、昔の人の感覚で「五丁目」と言えば、正に距離としての「5丁め」だったのではないかと推測できないだろうか。

しかし、一方で「丁目」とは広い(長い)「町」や「通」を距離には関係なく(便宜上)分割したもので、後の時代、特に現在の新住居表示においては、元来(?)の距離の概念としての「丁目」の性質が失われていった・・・。

ここ「落書き帳」において、「丁目」を距離の概念として述べたような記事があるか、アーカイブ「町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か?」を流し読みですが一通り目を通しましたが、ちょっと見当たりませんでした。
#見落としていれば、ごめんなさい。
[60766] 2007年 8月 25日(土)02:32:12ニジェガロージェッツ さん
通りで表す住居表示
[60756] だんな さん
お久しぶりです。2年前の神戸オフ会には、お忙しいところわざわざ金沢より日帰りにてご参加され、昨年の金沢オフ会ではご事前準備にご協力くださったとのことで、だんなさんには随分お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

要は「街区方式」の住居表示だとどこにあるのかわかりづらいので、欧米でなじみのある「道路方式」を使って所在地を案内しようというものです。

これは興味深い取り組みですね。今のところ名所や店舗の場所を案内する試みとしての、ごく限られた市街での「社会実験」とのことですが、仮にこれが定着した場合、市街地では不動産登記に使われる「地番による住所表示」、一般に住所として用いられている「街区方式による住居表示」に加え、「第三の住所」になります。

産経新聞の記事にある図によると、この「道路方式」では住所の番号を道路の起点からのメートル距離(の10分の1)に合わせるとのことで、その道路のどこかに居れば目的地までの距離も把握できるところが便利に感じます。現在の新住居表示「街区方式」による住居番号「号」も、街区「番」の角地などの起点からのメートル距離(の10分の1)ですから、この点は踏襲していることになります。

個人的に馴染みのある「道路方式」による住居表示はロシアでの住居表示ですが、その概略は拙稿[10585]に書いていますが、あちらは距離(メートル)ではなく、建物そのものの個数による表示です。ゆえに
路の起点では「1番」の向かい側に「2番」があるのが多いのですが、順に3・5・7・・・、片や4・6・8・・・、と続くに従って、一方では大きな建物や広場あったり、片側は逆に小さな建物が続いていたりすると、番号がくい違い、「35番」の向かいに「36番」があるとは限りません、というより、そのように揃う方が希です。
という風に、道路の右側と左側に食い違いが生じます。それでもそのシステムを知っていれば道路の反対側の番号は基本的に無関係ですから、目的地探しには別段不都合はありませんでした。ですが距離が分かれば更に便利だったことは言うまでもありません。

「道路方式」になると面倒になると思われるのが、いちいち通りに名を、行政側は付けて、市民側は覚えておく必要があることで、そうなると凄い数の新地名が誕生することに他なりません。
以下、市街全域に通り名を付けるとして、夢想を暴走させます。

参考までに小生が暮らしたことのあるニジニ・ノヴゴロド市にはいくつの通り名があるかといえば、1310の通りがありました。(1996年に入手した市街区分地図帳から一つ一つ数えましたから、見落としや重複もあるでしょう。正確さの保障はしません)
人口と通り(住所)数の関係を計算しました。
(人口は2006年1月1日現在)
人口通り数1通り当たり人口
自動車工場区308,8401961,576
ソルモヴォ区174,517202864
カナヴィノ区157,261204771
ソビエト区151,411162935
レーニン区148,275160927
モスクワ区130,2301151,132
ニジニ・ノヴゴロド区120,343134898
沿オカ区92,676137676
ニジニ・ノヴゴロド市計1,283,5531,310980

一方、街区方式を採用している日本では、例えば神戸市旧市街地のように新住居表示実施前の古い町名を出来るだけ尊重した所と、大阪市のように大きくまとめたところでは地名数の大差(実際には丁目も地名の一部ですが、ここではこれを考えない)があります。
ニジニと同様の計算をすると
(人口は2007年8月1日現在)
人口町名数1町当たり人口
神戸市長田区102,947941,095
大阪市都島区102,334156,822
大阪市旭区94,403118,582

神戸市長田区(ごく一部に新住居表示未実施の所もあります)のように町名の多い(それも通りに沿った所が多い)場所では、現町名が通り名にも活用(転用)できるでしょうが、大阪のように新住居表示による町名改正を徹底させて様なところでは、膨大な新通り名を生じることになります。
[60672] 2007年 8月 19日(日)02:54:31【1】ニジェガロージェッツ さん
地下鉄の東部新都心(HAT神戸)への延伸
[60622] 小松原ラガー さん
「昭和76の神戸市」へのレス有難うございます。
地下鉄海岸線の東部延伸について、山麓線の神戸東部部分(神戸市バス2系統路線に相当)への独自延伸構想、楽しく拝読させていただきました。

確かにラッシュ時に3分おき、ラッシュ時以外でも6分おきに運行されている市バス2系統が地下鉄化されると、多くの神戸東部市民に恩恵を与えることと思います。
ただ、これを言ってしまえば元も子もないのですが、震災以来危機的な財政状況の神戸市が、ドル箱路線の市バス2系統を廃止してまで、大枚はたいてミニ地下鉄の建設に踏み切るかと言えば、少なくとも現状ではありえないことと思います。
その頃に私が生きているか怪しいのでしょうが・・・。^^;
仰るとおり、数世代後の時代に、沿線に何か大規模な再開発などが行われるようなことでもあれば、実現への道が開けるかも知れません。

地下鉄海岸線の延伸について、最も可能性があるとすれば、小松原ラガーさんのお話にあるように、
現在の三宮・花時計前駅からそのまま東進し、東部副都心、すなわちHAT神戸方面へのアクセス路線とする。
この路線でしょう。(実は小生も[49002]にて、こっそり書いています)

その前に、HAT神戸についての事実確認を少し。
小松原ラガーさんはHAT神戸を「東部副都心」とされていますが、神戸市のプランでは「東部新都心」です。
「東部副都心」はあくまでJR六甲道駅周辺です。

神戸市のマスタープランでは、都市核について都心、副都心、衛星都心・・としていますが、「新都心」という設定は従来は存在しませんでした。
東部新都心HAT神戸については震災復興の一環として、復興事業のシンボルプロジェクトとして各種都市機能の受け皿として整備するものでした。
従来のプランにある都市の核としての都心や副都心とは次元の違う震災復興構想により整備されている、との印象を受けます。
なお、[60613][60616]にてお話させていただいた「昭和76年」の神戸市を描いた巻末地図では、現在のHAT神戸の地域は「工業地」のままです。
神戸経済の一翼を担っていた、川崎製鉄の葺合工場と神戸製鋼所の脇浜・岩屋工場が、よもや閉鎖され、この地域が遊休化することなど想像だにしなかったことでしょう。

さて、そのHAT神戸への地下鉄海岸線の延伸については、この地域を「新都心」などと言う、分かりにくい分類ではなく、文字通り「神戸の新しい顔」として、都市の核として発展させるつもりかどうかに拠るところが大きいと思います。
HAT神戸への入居募集に際して、将来的には地下鉄海岸線延伸を仄めかすような説明が為されたとの噂(あくまで「噂」ですよ)を聞いたことがありますが、現状では、鉄道関連の整備としては
(2)周辺鉄道駅における大規模改良(鉄道駅総合改善事業)
・阪神春日野道駅(平成17年度完成予定) ・阪神岩屋駅(平成13年度完成)
で十分と判断していることと推察します。

仮に近い将来に神戸市内に鉄道新線なり延伸の建設があるとすれば(それでも相当厳しいけど)、この地下鉄海岸線のHAT神戸への延伸と、神戸新交通「ポートライナー」の新神戸延伸による新幹線―神戸空港間のアクセス改善ぐらいしかないでしょう。
[60616] 2007年 8月 16日(木)01:19:54ニジェガロージェッツ さん
昭和76年の神戸市 ― (2)
前稿[60613]の続編です。
31年前の冊子「新・神戸市総合基本計画のあらまし―2001」についての雑感をお話したく、一気に書き綴るつもりでしたが、あれこれと書いているうちに話が長くなり、2稿に分割しました。
それにしても、[60613]を投稿した後で、書込ランキングで前稿の文字数を確認すると3752文字。こういうことがいちいち確認出来るグリグリさんの「落書き帳」の付加機能はホンマに凄い。楽しくなります。
但し、文字数の多さは過去の議論からオーナー様の望むところではないので注意しなければなりません。3752文字は多すぎです。個人的には、半年間に渡って[57177]「田井(ママ)して意味も無い」「紙面のムダとしか」思えない投稿や、「南濃(ママ)知的発展性も無いと」思われるような、調子に乗った雑談は控えてきたことに免じて、どうぞお赦し下さい。

さて、本題。

【鉄道】
件の冊子の巻末に収められている地図(以下[60613]と同じく、巻末地図と称します)には、[新幹線]、[国鉄]、[私鉄・その他]、[新しい交通システム]、の4種類の鉄道路線が描かれています。
そのうち、新幹線については当時と現況が変わることなく、国鉄線においても、現在のJR線(東海道本線、山陽本線、福知山線)と変わりはありません。実際に設置された甲南山手駅などJR新駅については、駅についての細かな図示がないため、ここではコメント出来ません。
ただ、現在においても廃線になることなく存続している兵庫―和田岬間の和田岬線が描かれていません。昭和76年においては廃線が見込まれていたのでしょうか。

「私鉄・その他」については、ちょっとした違いがあります。
巻末地図に描かれてれている私鉄路線は、阪急神戸線、阪神本線、山陽電鉄、神戸電鉄、神戸高速鉄道で、これらは現在神戸市内を走っている現況と(当時も含めて)同じです。
但し、実際に存在する新神戸―谷上間の北神急行電鉄(昭和63年4月1日開業)は描かれていません。
一方、神戸市営地下鉄線は現在存在する西神線(新長田―名谷:昭和52年3月13日開業)、山手線(新長田―新神戸:昭和58年6月17日部分開業、昭和60年6月18日全通)、西神延伸線(名谷―西神中央:昭和60年6月18日部分開業、昭和62年3月18日全通)に加え、実在しない東部線(布引―鶴甲)が描かれています。海岸線については、後述しますが別の記号で描かれています。
西神延伸線の山手線の新神戸駅以北、および西神中央駅以西には更なる延伸を思わせる矢印が付してあり、新神戸駅以北の矢印をそのまま延長させると谷上付近に達し、これが現在の北神急行電鉄に相当するとみなされますが、当初は山手線の一部として造るつもりだったのでしょうか。西神中央駅以西については、後に押部谷(西区)、西明石(明石市)、神野(加古川市)への延伸についての議論がありましたが、巻末地図には、いずれも図示されていません。

問題の東部線ですが、神戸市が海岸線などと一緒に当初プランしていた路線は山手線(プラン当初の終点は「布引駅」)の延長上にあり、布引―原田(現在の灘区王子公園あたり)間としていました。それが巻末地図では「原田」から更に東へ、篠原(灘区)を通り鶴甲団地(灘区)に達しています。かなり思い切ったプランですが、鶴甲の先、六甲山中へも矢印が書かれ、それをそのまま延長すると有馬方面へ抜けることになります。本当に造る気だったのでしょうか。

「新しい交通システム」については、3本の路線が引かれています。
新神戸とポートアイランドを結ぶ線、国鉄住吉と六甲アイランドを結ぶ線、および新長田―和田岬―三宮―脇浜―灘浜―住吉川口を結ぶ線の3本です。
ポートアイランドへは神戸新交通ポートアイランド線(三宮―市民広場―北埠頭―三宮:昭和56年2月5日開業)、六甲アイランドへは同六甲アイランド線(住吉―マリンパーク:平成2年2月21日開業)として現実に存在しています。
現在のポートアイランドでは、開業当初の環状運転のみではなく、神戸空港への延伸(市民広場―神戸空港:平成18年2月2日開業)がありますが、巻末地図では神戸空港はおろか、ポートアイランド2期(南公園以南の埋立地)さえ存在していません。
ただ、新神戸駅がポートアイランド線の起点になっているのは興味深いところです。
一方、六甲アイランド線の起点が住吉にある点では現行世界と同じですが、六甲アイランド内の路線がポートアイランドと同じく環状運転になっている点が違っています。

さて、「新しい交通システム」に分類された、現在の地下鉄海岸線に相当する路線ですが、実際の地下鉄海岸線(新長田―和田岬―三宮:平成13年7月7日開業)は従来の地下鉄とは規格の違う「ミニ地下鉄」だそうで、それを「新しい交通システムだ」と言うのであれば、強ち間違いではありません。昭和40年代に神戸市が描いた当初のプランでは西神線、山手線、東部線とともに「普通の」地下鉄としての構想でした。それにしても、住吉まで海岸線に沿っての建設とは、こちらも本当に造る気だったのでしょうか。

実際に開業した地下鉄路線は、都心の三宮からみて西に偏りすぎで、当初からそのように西へしか造らないつもりだったのを、それでは東部の市民が納得しないから、東部線とか海岸線の東への延伸とか、「リップサービス」のつもりで描いたのかと勘繰りたくもなります。


【埋立地】
前述しましたが、現在実際にある神戸空港やポートアイランド2期が描かれていません。南公園が海に面しているポートピア81当時のポートアイランドのままです。
そればかりか、神戸港では中突堤~メリケン波止場間の船溜りの水面を「メリケンパーク」として埋め立てたを筆頭に、摩耶埠頭、新港第五~第八突堤間、兵庫突堤の突堤間の水面を埋め立てられていますが、港内の埠頭に関しては昭和51年当時のまま埋め立てられることなく昭和76年を迎えています。
ただ、ポートアイランドと六甲アイランドの間、ちょうど摩耶埠頭の沖合いに小さいながらも現実には存在しない人工島が描かれています。また現実の六甲アイランドは東西非対称ですが、巻末地図では西側にも東側と同じように船舶のための水面が描かれています。
あと、西では垂水区の東垂水の浜に沖に突き出した「逆コの字」型の大きな埠頭が描かれています。


さて、まだまだ道路状況など(現実に存在する港島トンネルが計画されていない。兵庫・長田・須磨沖に高速道路が走っている。・・などなど)、書きたいことはいろいろあるのですが、キリがないのでこれくらいにしておきましょう。

最後に、今回話題にさせていただいた「新・神戸市総合基本計画」は昭和51年に21世紀に向けての神戸の都市としてのあり方を規定した「マスタープラン」と呼ばれるもので、このプランはその後も改正を重ね、現在のものは神戸市のサイトからも概略が閲覧できます。
震災後の平成7年10月に策定された「第4次神戸市基本計画」をみて見ると、目標年次2010年の設定人口を170万人にしていたり、「ちょっと」と感じるところはありますが、神戸市の考え方が書かれています。
[60613] 2007年 8月 15日(水)20:22:27ニジェガロージェッツ さん
昭和76年の神戸市 ― (1)
ご無沙汰を重ねております。半年振りの書き込みにもかかわらず、地元ネタにて恐縮です。

昨年、転宅した際にダンボール箱へ押し込んでいた雑誌類を今になって整理していると「新・神戸市総合基本計画のあらまし―2001」という懐かしい冊子が出てきました。
タイトルからは6年前の冊子のように感じられますが、実は31年前の1976(昭和51)年に当時の神戸市企画局総合調査課から発行されたものです。要するに、昭和50~51年当時に神戸市が夢見た21世紀初年の2001(昭和76)年の未来の神戸を、多くのイラストや地図を添えて描いたものです。
圧巻は巻末にある折込の地図で、ここには「えっ」と思うような所に地下鉄が通っていたりする一方、現実の21世紀の現在には存在するものが影も形も描かれていなかったり、今にしてみると随分面白い地図です。
昭和51年というと、既に高度経済成長時代は終わり、当時は「安定経済成長時代に入った」と言われていました。ご存知のようにその後の時代の流れは円高不況や造船不振、地価高騰やバブル経済などなど、特に神戸においては平成7年の震災による都市の破壊を経験し今日を迎えていますが、そ~んなことは一切関係なく2001(昭和76)年を迎えた神戸市の姿です。
当時小生は中学生でした。この冊子を見て25年後の昭和76年の神戸市を想像し、「ものすごい街」になると感動したのを覚えています。

この冊子は「緑と、心のふれあいと、生きがいのまち・こうべ」とサブタイトルが付けられており、都市空間のプランから福祉、市民生活など当時の神戸市の考え方などが書かれていますが、ここでは地理に関連しそうなものをいくつかつまみ出してみたく存じます。

【人口】
人口規模について、市域を北神地域(現在の北区)、西神地域(現在の西区)、既成市街地域(北区の西区を除く全て)の三つに分けて計画しています。
昭和50年 136万人(既成市街地域116万、北神地域13万、西神地域7万)
昭和60年 160万人(既成市街地域120万、北神地域23万、西神地域17万)
昭和76年 180万人(既成市街地域120万、北神地域30万、西神地域30万)

実際の人口の推移は
昭和50年 1,360,530人(既成市街地域1,156,620、北神地域135,697、西神地域68,213)
昭和60年 1,410,834人(既成市街地域1,122,839、北神地域177,221、西神地域110,774)
平成13年 1,503,480人(既成市街地域1,041,030、北神地域224,853、西神地域237,597)
平成19年 1,530,088人(既成市街地域1,056,038、北神地域226,287、西神地域247,763)
注】昭和50、60年は10月1日国勢調査人口、平成13年は10月1日の推計修正値、平成19年は7月1日推計人口

神戸市は昭和50年代前半は人口増加の停滞が生じ(拙稿[12405]にちょっと状況が分かるデータがあります)、昭和50年代後半からは再び増加に転じましたが、昭和50年代半ばには、さすがに昭和60年に「160万人」になる可能性は無いと断じ、昭和60年は146万、昭和76年は160万人に修正されました。
もともと、将来人口180万人というのも、「180万人を限度として・・・」とあり、あくまで上限値であり、それ以上の人口を市域に抱えてはいけない、という尺度ですが、現実の人口の推移を見ると・・・
論評は控えさせていただきます。


【行政区】
昭和40年代に計画された「行政区再編成」ですが、昭和51年の時点では六甲山上の灘区への移管(昭和47年6月1日)、兵庫区より北区の分区(昭和48年8月1日)は実現していましたが、垂水区名谷団地の須磨区への移管(昭和52年6月6日)以降の変更は実現していません。

昭和76年の神戸市は11の区が描かれています。(昭和51年以降の)プランとしては
1)生田区と葺合区の統合 (実現:昭和55年12月1日に中央区発足)
2)垂水区から西神地域の分区 (実現:昭和57年8月1日に西区発足)
3)北区の北部地区を分区 (実現せず)
4)須磨区・垂水本区の新規開発地を分離し新区の創設 (実現せず)

北区の北部については、1983(昭和58)年9月16日に開かれた市会本会議にて、当時の宮崎辰雄神戸市長の答弁で「今すぐではなくて、十年はかかる話」と断った上で、「北区は将来、二つに割るべきだ。山田町以南と以北で区を作りたい」と、構想を明かしていました。(1983年9月17日付、神戸新聞より)
ですが「十年」どころか、答弁から24年を経た現在においても、分区を考えていません
昭和76年の将来人口を30万人としている北区の人口は、2007(平成19)年7月1日現在 226,287人で、分区の境とされる本区(同、144,487人)と北部(同、81,800人)では、震災後は本区は緩やかな減少傾向、北部では緩やかな増加傾向にあり、区全体としては横ばいの状況が続いています。
注】本稿で北区の「北部」と表記した、当時の宮崎市長の言う山田町以北については、現在では「北区北神」と言われています。
本稿では昭和51年当時「北神」と呼ばれていたのは現在の北区全域であることから、混同を避けるために敢えて「北部」としました。

須磨区・垂水本区の新規開発地に新区を設ける話については、昭和51年当時は垂水区に属していた造成途上の名谷団地を1977(昭和52)年6月6日に須磨区に編入し、須磨区の北半分を須磨区役所北須磨支所として、須磨区は「本区・北須磨」に分けられました。
1985(昭和60)年2月1日には「垂水本区の新規開発地」の総合運動公園(緑台)、流通業務団地(弥栄台)を須磨区北須磨に編入し、その後も流通業務団地の西区へのはみ出し部分が須磨区弥栄台に統一されるなど、北須磨は拡張して現在に至っていますが、本格的な須磨区からの分区については、話題さえも存在していません。
なお、冊子に載っている区分地図には、現在の垂水区のうち、第二神明道路以北・神戸淡路鳴門自動車道以東が「北須磨区?」に入っています。


【地域中心核】
「地域中心核として、都心―副都心―衛星都心―生活都心―まち住区中心―近隣住区中心を設定し、商業・業務機能、ターミナル機能などを整備します」とあり、生活都心以上のものは、具体的に以下のように地名が列挙されています。
都心:三宮~神戸
副都心:六甲、大橋~板宿
衛星都心:二郎、西神ニュータウンの中心
生活都心:住吉、湊川、須磨、垂水、須磨ニュータウンの中心、鈴蘭台

都心については、おおよそ現在の神戸市においても大きな違いはありませんが、ただ都心の一角に含まれても良い、1992(平成4)年に神戸駅浜側に商業地としてオープンしたハーバーランド地区は巻末地図にも描かれておらず、この地域には「ウォーターフロント緑地」とされています。

副都心においては、昭和40年代ごろより「東の六甲道、西の新長田」と言われていましたが、それをちょっと拡大したようで、巻末地図を見れは「六甲」には阪神新在家~国鉄六甲道~阪急六甲周辺まで、「大橋~板宿」には国鉄新長田周辺一帯と山陽板宿駅付近が連なった商業核のように描かれています。
現在の状況を見ると、六甲道、新長田ともに平成7年の震災では壊滅的な被害を受け、それぞれ六甲道駅南地区新長田駅南地区において、震災復興市街地再開発事業が実施されており、復興途上にあります。
ただ、「六甲」においては新在家から阪急六甲に至る大規模商業核には成長しておらず、「新長田」においても地下鉄新長田駅から駒ヶ林駅にかけては再開発ビル群として復活した大正筋商店街などで一体性のある商業地にはなっていますが、板宿(須磨区)との連帯感はなく、新長田―板宿間は震災前は住工混在地域、震災後の焼け野原を経て、現在は住宅街として整備されています。

衛星都心として名が挙げられている北区の二郎については、「二郎いちご」として神戸では有名なイチゴの産地で、昭和51年当時は神戸電鉄二郎駅も人里離れた長閑な田園地帯にありました。
そうような二郎ですが、巻末地図では二郎駅より南は神鉄の東西両側に大規模な住宅街が形成され、北側には工業地帯が描かれています。そして駅の西側に商業核が計画されています。
現在の状況を見ると、実際に衛星都心として整備されているのは二郎ではなく、神鉄にして2駅南の岡場駅周辺です。岡場は藤原山を削りニュータウンとして開発された藤原台の中心駅となり、かつては地上にあった田舎駅でしたが高架駅となり、当時とは様変わりしています。

一方、「西神ニュータウンの中心」とは、現在の地下鉄西神中央駅の場所に一致しています。こちらは計画通りの実現です。

生活都心として名が挙げられている「須磨ニュータウンの中心」とは、現在の地下鉄名谷駅です。昭和51年当時は市営地下鉄開業前でした。(開業は昭和52年3月13日)
住吉、湊川、垂水、名谷、鈴蘭台は、確かに生活都心と言っても良いと思いますが、須磨だけはとても生活都心とは言えず、今日においても手付かずの状態に感じます。
[57118] 2007年 3月 2日(金)00:03:42ニジェガロージェッツ さん
海上渡橋歴など
3月に入りました。この冬、神戸(神戸海洋気象台)では最低気温の記録が2006年12月29日の0.0℃で、まだ一度も氷点下になっていません。恐ろしいほどの暖冬です。
さて、以下まとめレスにて恐縮です。

[57060] ペーロケ さん
日本が主張する領土とは裏腹に、実権を持って支配している範囲はどんどん狭くなっていますね。

そうですか? 小生など能天気なもので、横浜市内の米軍施設が返還されたりして、逆だと思っていました。

地球温暖化で沖ノ鳥島はいつまで持つのか気になります。
これは本当に怖いですね。あれは「岩だ」と言い出す国もあるようですから、領土保全のためにも何とかならないものかと思います。
ところで、「岩」と言えば、宗谷海峡にある「二丈岩」という、別名「危険岩」と呼ばれる岩があり、文字通り船舶の衝突事故が多発したために、灯台を建設したとか。
その灯台が気になって、稚内から宗谷海峡を横断した時に、その灯台を探したのですが、見当たりませんでした。

[57062] グリグリ さん
容量問題は現在はほぼないと考えていただいて結構です。時代が変わりました。(笑
有難うございます。2003年7月にあった18000番台の、あの時の議論はもう時効と考えて差し支えないですか?
とはいえ、やはり容量が無限になったわけではありませんので、書き込みの際にはあの時の議論をこころの片隅に留めおいて、望みたく思います。

[57094] まるちゃん さん
見島といえば、自衛隊とマグロです。
あの島はマグロの島でしたか。(←知らなさ過ぎ)
リンク頂いた写真は見事なマグロですね。
小生の島達度には、舳倉島や見島など、釣り好きかと思われるような島がありますが、釣り好きではないばかりか、釣りをしたこともありません。
学生時代に、夏休みには六甲登山仲間と「島へ篭る」という、変な企画を毎年やっていました。81年=友ヶ島、82年=舳倉島、83年=直島、と来て、84年に見島を選びました。

[57106] 星野彼方 さん
東二見橋は徒歩専用(現在車も渡れるように工事中)であそこを渡るのは地元民と釣り人以外では思い浮かばないような橋です。
あれは震災の前の年でしたが、自動二輪に乗って取引先へ機械の修理に行った際、予想外に早く仕事が終了し、余った時間に近辺の海岸巡りをやりました。
記憶違いでなければ、東二見橋を強引に自動二輪で突破し、南二見人工島に渡ったと思います。その後、二見大橋を通り南二見人工島を離れ、播磨大橋([57101]には「新島橋」と書きましたが、まちがい)を通り播磨町新島(人工島)に渡りました。

[57110] 小松原ラガー さん
走るたびに路面からカタカタ音がして「いかにも」という仮設の橋だったのを覚えています。
そうでした、そうでした。徒歩で歩いて仮設大橋を渡っていると、震災復旧工事の大型ダンプが通る度に橋全体が揺れ、落橋しそうなスリルがありました。
この時は、ポーアイの「バンドール」という大型商業施設(現在はありません)に旅支度に買出しに行った際に渡橋しました。今思い出したのですが、「バンドール」でスーツケースに目星を付け、後日にそのスーツケースを買いに車で再訪しました。従って[57101]の仮設大橋は○ではなく◎でした。
仮設橋を実際に歩いて渡ると、落橋のスリルも手伝ってか地図で見るよりもずっと長距離に感じました。再訪したときに写真に撮っておこうと思いましたが、その直後に神戸を離れて人口140万人の「Nという町」で暮らし、1年後神戸に帰ってきたときには既に仮設橋は撤去されており、果たせず仕舞いに終わりました。残念です。
[57101] 2007年 3月 1日(木)01:50:02【3】ニジェガロージェッツ さん
海上渡橋歴
[57062] グリグリ さん
交通整理は後回しにしてさらに加速してみましょうか。[57022]で書いた「海上架橋」です。

とりあえず地元中心ですが、思い出す限り海上渡橋歴を挙げてみます。但し、海上を通る高速道路に架かる架橋などは名称が分からないものもあり、結構適当です。
◎徒歩、交通機関利用とも渡橋歴あり、○徒歩のみ、●交通機関利用(車・自動二輪・電車)のみ

【兵庫県】 ●尼崎東海岸、●甲子園浜、●西宮港大橋、●南芦屋浜、●深江浜、●東神戸大橋、●六甲アイランド大橋(以上、阪神高速5号湾岸線)、●住吉浜渡り橋、◎六甲大橋、●六甲大橋(六甲ライナー橋)、●灘大橋、●灘浜大橋、●摩耶大橋、◎神戸大橋、●神戸大橋(ポートライナー橋)、●神戸空港連絡橋(ポートライナー橋)、○仮設大橋、●浜手バイパス、○モザイク北側、◎苅藻橋、◎明石海峡大橋、●東二見橋、●二見大橋、●新島橋(播磨町)、●高砂大橋
【兵庫県―大阪府】 ●中島川橋(阪神高速5号湾岸線)
【大阪府】 ●神崎川橋、●正連寺川大橋、●天保山大橋(以上、阪神高速5号湾岸線)、●港大橋、●南港大橋、●新浜寺大橋(以上、阪神高速4号湾岸線)、●関西国際空港連絡橋、●平林大橋
【三重県】 ●麻生の浦大橋、●的矢湾大橋(以上、パールロード)
【兵庫県―徳島県】 ●大鳴門橋
【徳島県】 ●小鳴門橋、●撫養橋
【岡山県】 ●片上大橋
【岡山県―香川県】 ●下津井瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道・JR線)
【香川県】 ●櫃石島橋、●岩黒島橋、●与島橋、●北備讃瀬戸大橋、●南備讃瀬戸大橋(以上、瀬戸中央自動車道・JR線)
【高知県】 ●浦戸大橋、●宇佐大橋
【広島県】 ●尾道大橋、●因島大橋
【長崎県】 ●平戸大橋
【樺太】 ●大泊港連絡橋

まだあるかも知れませんが、取り敢えず以上です。このうち、仮設大橋(9ページ写真6下 神戸新港第三突堤―第四突堤)のみ現存しません。


[57099] 小松原ラガー さん
私も上記3つは全てクリアですが、実は3つとも自分の足で、というか正確には「人力で」クリアしたことがあります。
小生も同じ体験をしております。小松原ラガーさんは更に仮設大橋の渡橋歴もお持ちなのでは・・?
[57051] 2007年 2月 26日(月)20:31:09【1】ニジェガロージェッツ さん
渡島歴
続々と続くことが予想され、容量問題からオーナーさんに遠慮して[56986]に「やめとけ」と書きましたが、[57022]グリグリさんご自身より「面白そうですね」とあるので、遠慮なく書き込みさせていただきます(笑)

島の基準は[57040]太白さんご紹介のサイトに準じました。
主要五島○樺太、○北海道、◎本州、○四国、○九州
石川県●舳倉島
三重県○答志島、●賢島
滋賀県●竹生島
和歌山県●沖ノ島(友ヶ島)
兵庫県○淡路島、●家島、●坊勢島
岡山県▲頭島、▲鴻島、●大多府島、△前島、●犬島
広島県○仙酔島、●向島、●因島、●生口島
山口県○見島、●青海島
徳島県▲大毛島
香川県○小豆島、○直島、●女木島、▲櫃石島、▲岩黒島、△与島、▲鍋島
長崎県○平戸島
宮崎県●青島

ついでに、番外になりますが人工島についてもやってみました。拙稿[24523]に挙げた埋立島+神戸空港より拾い集めました。
東京都▲新木場
大阪府●関西空港島、▲高砂、▲南港南、●南港北
兵庫県-神戸を除く▲甲子園浜、▲西宮浜、▲南芦屋浜、▲南二見、▲人工島
兵庫県神戸市●東部第四工区、▲東部第三工区、●東部第二工区、●六甲アイランド、
●ポートアイランド、●神戸空港、●苅藻島

こうしてみると、先の拙稿[56966]の「港歴」から(【6】回も修正を重ねたにもかかわらず)◎鞆の浦、◎田ノ浦(仙酔島)=ともに広島県福山市、が完全に漏れていました。
また、岡山県日生諸島の頭島港を◎としていましたが、この港は寄港のみで、実際には大多府島が◎でした。
また、[57018]まるちゃんさんをびっくりさせてしまった山口県の見島の上陸港は「本村」ではなく、山を隔てた北側の「宇津」でした。島内で探検と称して、南の本村まで山越えした経験があります。 宿は宇津の民宿に確保していましたが、この島には自衛隊の基地があり、最終日は自衛隊員の集団宿泊が急遽あり、宿主の別宅のようなところへ移された記憶があります。


[56988]いっちゃん さん
疑惑の航路
私の経港歴にも該当するものが有るような、無いような・・・。
道理で・・・分からなかった筈です(笑)

小生の場合、「疑惑」というほどではありませんが、「敦賀」の相手港は「浦塩」です。
また「長田」の相手港は淡路島の「浦港」でしたが、何分にも昭和40年代前半の幼少期の経港のため、記憶が確かではありません。長田港をフェリーで出港した記憶は鮮明にありますからカウントしましたが、どこか覚えていない港は挙げようがありません。

[56996]魚熊 さん
アンカレッジ経由のヨーロッパ便がなくなりました。そのため我々の世代が
アンカレッジを知る最後の世代といえるでしょう。
当時は1ドル=280円位でしたか。とても気軽に海外へ出かけるような時代ではなかったですね。そのあたりも、アンカレッジ経由の経験が少ない理由かも。
因みに小生の初海外は、円高になった1989年8月に稚内港からソ連統治下の樺太真岡港に渡った時でした。
(ワ! 樺太を海外と言ってしまった!)
[56986] 2007年 2月 23日(金)20:27:50ニジェガロージェッツ さん
港歴雑感
空港&港の話題、盛り上がっていますね。
こうして利用した空港や港を挙げていくと、物理的に「島歴」(←やめときなはれや!)が出てしまうところが面白いところです。もっとも架橋のある島は別ですが。

○出発のみ港と●到着のみ港との関係から旅程を推理したりしていると、一瞬「この人、この港からどこへいったん?」と思うような、港が書かれていたり(小生の「敦賀」も大概ですが)、興味が尽きません。


以下、いつもながらの遅れ遅れレスにつき、御免です。

[54534] かぱぷう さん
福岡県北九州地方ならびに福岡地方の現在の売り場の占有率は「(6枚切り)6:(5枚切り)4」くらいでしょうか。でも6枚切りの方が早く売れてます。私も6枚切り派です。

レスが遅くなり、誠に恐縮です。
こちらは逆で、5枚切りが先に売り切れます。遅めにスーパーへ行くと5枚切りは売り切れ、6枚切れが極わずか、ほとんど4枚切れしか売っていません。

[56595] ペーロケ さん
5駅は横浜市が該当します。
[56597] デスクトップ鉄 さん
横浜高速鉄道(みなとみらい線)もありますので6駅になります。そしてどの駅にも接頭語がつきません。

ご教示有難うございます。「横浜」は6駅ですか。もう9年も前のことですが、休日の朝にJRの横浜駅で下車して、海側へ出て歩いたところ、なんだか寂しい所だったとの印象があり、横浜の6駅(当時は5駅?)には気が付きませんでした。

[56985] 油天神山 さん
ウラジオストクって札幌よりも南だったんですねー。今まで全然気づいていなかったので、ビックリしました。

あまり日本地図にウラジオストクなんて載ってませんからね。たまに図端にちょこっと載っているのがあって、そういう日本地図をみると個人的に感動します。
札幌とはほとんど同緯度ですが、わずかにウラジオストクが南です。
ウラジオストクは苫小牧市の真西、山口県光市の真北ぐらいのところに位置しています。


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