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ニジェガロージェッツさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[63030]2008年1月3日
ニジェガロージェッツ
[63011]2008年1月1日
ニジェガロージェッツ
[62865]2007年12月16日
ニジェガロージェッツ
[62757]2007年12月2日
ニジェガロージェッツ
[62753]2007年12月2日
ニジェガロージェッツ
[62579]2007年11月20日
ニジェガロージェッツ
[62497]2007年11月12日
ニジェガロージェッツ
[62450]2007年11月9日
ニジェガロージェッツ
[62325]2007年11月1日
ニジェガロージェッツ
[62240]2007年10月26日
ニジェガロージェッツ

[63030] 2008年 1月 3日(木)19:18:26ニジェガロージェッツ さん
レス3題(単行・湯郷・イオヌイ島)
[63021] hiroroじゃけぇ さん
「単行」という言葉が最も似合うかもしれませんね。
ご教示ありがとうございます。
実は今日も「単行」に乗って着ました。といっても姫新線のそれではなく、[62638]k-aceさん他の記事にある三木鉄道ですが。
丁度、加古川へ行く所用が出来たので、普段ならばJR神戸線(山陽本線)に乗って直行するのですが、今日はわざわざ神戸電鉄粟生線、三木鉄道、JR加古川線を経由しました。
神戸電鉄はガラ空きでしたが、今年3月末で廃線になる三木鉄道は満員でした。明らかに「鉄」と分かる鉄道愛好家で賑わっており、沿線の各駅でもそれらしき人々がカメラを構えていました。因みに私は「鉄」ではありませんが、同じく駅や車両を写してきました。(笑)

湯郷ベルの選手たちは、日中湯郷温泉のどこかで働いているようですよ。
湯郷温泉街には宿泊者へのサービスで、宿泊ホテル以外の各館の浴場を巡ることが出来るようになっていて、私もいくつか廻ったのですが、女子サッカーリーグの選手のような若い女性は見かけませんでした。日頃の激務から年末年始くらいは休んでおられるのでは。

[63025] 笠津前浜 さん
これはまさしくオホーツク海の孤島ですね…。今頃は氷の海の上へ頭を出しているところでしょうか。
訳の分からない妄想にお付き合い頂いて恐縮です。あの辺り一面の北部オホーツク海は冬には氷結しますから、恐らく笠津前浜さんのおっしゃるような幻想的な光景であろうと推測します。
また、わざわざマップをお探し下さり有難うございました。Googleマップを見ても同じような島が表示されますが、航空写真からは(下表参照)そこに何かあるようでなさそうな不明瞭な「点」になっています。
手持ちの帝国書院の地図帳では、2007年の「地歴高等地図」には載っておらず、1987年の「サミットワールドアトラス」には載っていました。

リンクされた先のページには、とても美しい写真が揃っていますね。
「ふた昔」前であれば、鉄のカーテンの奥に隠されたような謎の島々の画像が手軽に家庭で楽しめるとは、ネット時代の醍醐味のひとつですね。
ロシア語のページですが、リンク先のページの島の画像の一覧を和名を添えて書いておきます。千島列島の島々が多いので、参考までに千島列島の地図(昭和5年)を出しておきます。
ロシア名和名場所Googleマップ
о. Парамушир幌筵島/パラムシル島北千島衛星写真
о. Анциферов志林規島/シリンキ島北千島衛星写真
о-ва Ловушки牟知列岩/ムシル列岩中千島衛星写真
о. Райкоке雷公計島/ライコケ島中千島衛星写真
о-ва Среднего宇志知諸島北島/スレドネワ島中千島衛星写真
о-ва Братья Черные智理保以島/チリポイ島中千島衛星写真
о. Ионыイオヌイ島オホーツク海北西部衛星写真
о-ва Ямскиеヤムスク諸島オホーツク海北東部衛星写真
о. Берингаベーリング島コマンドル諸島衛星写真
о. Медныйメードヌイ島コマンドル諸島衛星写真
[63011] 2008年 1月 1日(火)17:41:41【1】ニジェガロージェッツ さん
年始めに最果ての島を妄想する
平成二十年になりました。旧年中はいろいろとお世話になりました。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

平成十九年最後の二日間、岡山県美作市の湯郷温泉に行ってまいりました。温泉のお話をしても「いい湯でしたよ」と、日頃の雑多を離れてのんびりと温泉浴を楽しんだと月並みの言葉しか出ませんが、地理的なことで印象的だったのは、まず姫新線に18年振りに乗ったこと。
兵庫県姫路市と岡山県新見市を結ぶ姫新線に以前乗ったときは姫路から津山まで直通で行った記憶があるのですが、今やそれは昔の話。佐用での乗り継ぎに42分の時間待ち。それも津山へは一両編成。電化されていないから「電車」ではないし、一両だから「列車」でもない。これを何と言えばよいのか? 中国山地の山中を細い狭軌の単線鉄道が縫うように一両で走る様は「植民地の軽便鉄道やんけ~!」と言いたくなるような(笑)
温泉の最寄り駅は林野駅で、この林野が平成の大合併で成立した美作市の市役所が置かれた、云わば「市の中心集落」になるのですが、どう見ても「市」の面影はどこにもない田舎の小集落でした。福岡オフ会の時にネットで見た、市街地だけを「市」とした明治の福岡市の範囲が頭にあっただけに(拙稿[62579])、時代が変われば「市」の感覚も変わるもんだと実感した次第です。
しかしながら、古谷一行氏ふんする金田一耕助が下駄履きでいても全く違和感のないような、のんびりとした懐かしい昭和を思わせる街並みは、嬉しく感じました。短いながらも味わいのある楽しい旅でした。

さて、新年に年始めにあたり、日本列島周辺の地図を眺めていると、ユーラシア大陸の東縁に弓状に連なるその姿は、いつ見ても「カッコいい」形をしています。
ところで、列島の最北端は北方領土択捉島の北端であるカモイワッカ岬(北緯45度33分)ですが、北方領土を含めない最北端は宗谷岬弁天島(北緯45度31分)とのこと。しかしこれは「日本列島」を日本の領土の限定した極めて政治的な話。戦前であれば台湾も南樺太も千島列島も日本列島の一部と見なしていたようで、そうなれば列島は北海道の北で樺太と千島の二股に分かれていたことになります。
そうではなく、日本の統治範囲の枠を外し、視点を「ユーラシア大陸の東縁に連なる弓状列島」に戻し「弓」を伸ばしてみると、北は樺太こそが列島の一部になるのではないかと妄想します。
となればその北端はサハリン州最北端のエリザヴェータ岬(北緯54度24分)になり、この岬で列島はオホーツク海に没します。この北には北部オホーツク海の大海原が広がるばかりなり・・・。

エリザヴェータ岬のほぼ真北540キロには大陸のオホーツク町があります。今では人口5,054人(2007年1月1日)の小さな町ですが、大きな海洋の名称として世界に知られた名となりました。ですが、この町の名もオホータ川という小さな河川名を由来としています。
そのオホーツク町とサハリンのエリザヴェート岬の間のほぼ中間点、広がるは大海原ばかりなり・・・と思われる所に、正に絶海の孤島が存在します。どうしてこんな所に島があるのかと首を傾げたくなるような、サハリン北端の北250キロの北緯56度24分、東経143度23分にその島は存在します。まるでビリケンさんの頭が海中から突き出したような、標高300mの点のような小島です。その名をイオヌイ島(または実際には「ヨーヌイ」と発音するかも)と言いますが、この島こそが弓状列島最北の島ではと妄想を続けております。
人を寄せ付けない海岸にトドの群生。一度は訪れてみたい最果ての島です。
皆様お持ちの地図には、この島が描かれているでしょうか?
[62865] 2007年 12月 16日(日)17:26:41ニジェガロージェッツ さん
アライグマがブタに化ける神戸の話
先月のオフ会での「荒ゴミ」や「別勉」という神戸の言葉についての[62579]へ沢山のレスをいただいておりながら、返事が(いつもながら)遅くなってしまい、申し訳ございません。最近はどうも無気力でいけません。

今月一日に港則法施行令の改正による3港の合併により阪神港が誕生しました。神戸市街地の南に広がる大きな港は、既に「神戸港」ではなく堺泉北から須磨に広がる巨大な港のうちの「阪神港神戸区」になりました。従来は神戸港、尼崎西宮芦屋港、大阪港の3港でそれぞれで入港税や書類手続きの負担が求められていたのが阪神港に一元化されたことで、入港船舶の増加や競争力の強化が期待されているところです。東京、川崎、横浜3港を合体した京浜港については[57385]hmtさんが触れておられます。 阪神港の開港は京浜港の例にならったものでしょう。
港則法でのお話ですが、神戸港が消えるのは地元の神戸っ子としてはちょっと寂しい気もします。

[62583] 桜トンネル さん
「荒ゴミ」について
阪神地区全域はすべて通じると思っていました。最近、僕がよく行く尼崎市では使われないとは驚きです。一体、どこが線引きとなっているのでしょうね。
通じるのは原則として神戸市域のみだと推測します。但し、住民の移動がありますから、他市民であっても神戸に一時期でも居住した経験のある人や、神戸に通勤している人などは「荒ゴミ」を知っていて当然で、また、神戸周辺を営業範囲としているゴミ収集業者では「荒ゴミ」という言葉を使っている場合もありますから、神戸市に隣接する地域では、通じる可能性が高いと思われます。また「荒ゴミ」を検索すると、稀ですが神戸とは無関係のところでも用いる所があるようです。
私事ですが、震災後、一時期加古川市に居住したことがありました。町内の人に「この辺りの荒ゴミの日はいつですか」と尋ねても要領を得ませんでした。それもその筈で「荒ゴミの日」など存在せず、加古川市ではゴミの細分化が既に徹底されていました。
今では神戸市のゴミ区分からも「荒ゴミ」は廃止されましたが、元来、神戸市の場合は西区(布施畑)や北区(長尾山)に広大な埋立処分場を有し、「荒ゴミ」として一括で埋立処分する用地に恵まれていたために不燃ごみを細分する必要が薄く、それが震災によって生じた瓦礫や引越しゴミなどの膨大な量を処分したために埋立処分地の余裕がなくなり、いよいよゴミの細分化、リサイクルに対応した区分を導入したというところでしょうか。
ゴミの細分化を啓蒙するキャラクターとして神戸弁の「分けとん」から、豚の「ワケトン君」が採用されています。因みにワケトンの敵キャラ「ワケヘン」と「ヤラヘン」も存在します。
以前の荒ゴミ置場こと「荒ゴミステーション」のキャラクターは荒の字からか、アライグマだったことは知る人ぞ知る話。

「荒ゴミ」の他にも代表的な例としては「日番」があります。
小生が小学校1年生のときも「日番」でした。昭和40年代の前半の話ですから、随分古い言葉です。というより、桜トンネルさんの[62583]を読むまで、これが神戸独特の言葉だったとは知りませんでした。子供の頃はセロハンテープなどの日用品で有名な「ニチバン」も日番絡みの社名かと思っていたほどでしたが、こちらは絆創膏のほうの「バン」のようです。
面白いお話、有難うございました。

[62633] たもっち さん
「荒ゴミ」という言葉が出て来た場面をよく見ると、電柱の「芦屋金持町一丁目」という標示が描き込まれていますので、実は、神戸周辺で使われている言葉を考証のうえでセリフを書いたのではないか、という可能性も・・。
とりあえず芦屋市のHPから「荒ゴミ」を探しましたが、見つかりませんでした。(笑
少なくとも、現在の芦屋市のゴミ収集区分には「荒ゴミ」はありません。但し、一部のゴミ収集業者が「荒ゴミ」とう言葉を使う場合もありますから、やはり、いしい氏が考証したうえで書いている可能性は高いと思います。

神戸から来た同級生も何人かいて、彼らが、表紙にポートタワーあたりの風景写真が載っているノートを持っていたことを覚えています。表紙全体の背景に薄緑のモノクロ(?)で刷り込まれていたように記憶していますが、これって、神戸の小学生の間で広く使われていたものだったのでしょうか。あるいは、世代が限られるのかもしれませんが、どなたかご存じないですか?
神戸市指定の学習ノートで、関西ノート(株)が製作しているもので、国語帳(緑)、算数帳(水色)、理科の記録(黄)、社会科(橙)、自由帳(桃)、連絡帳(紫)、百字練習帳(青)、二百字練習帳(青)があり、他にも音楽ノートやRomazi Renshu-tyo がありました。
もちろん、昭和40年代(いや、もっと以前から?)存在していました。
表紙は神戸市内の景色の写真がそれぞれの色のモノカラーで印刷されています。風景写真は時代によって変わっていますが、百時練習帳のそれは小生が使用していた当時の写真のままで、ポートタワーの建つ中突堤を写したものですが、現在の風景とは比べ物にならない、昭和40年代中頃のもので、今では「歴史的写真」と言えるものです。
ネットでは「神戸ノート」と呼ばれているようですが、文房具好きにはちょっとした人気だそうです。(記事
[62757] 2007年 12月 2日(日)21:48:20ニジェガロージェッツ さん
Re^2:唐太の子供列車
[62755] 伊豆之国 さん
[62756] Issie さん
今日の番組は見逃してしまいましたが、豊原の子供鉄道については過去に何度かメディアや書籍でも取り上げられておりました。
日本のテレビドラマでは、役所公司主演で1991年に放送された東芝日曜劇場スペシャル「サハリンの薔薇」のひとコマで、現地の少女が役所氏を子供鉄道に誘う場面がありました。

サハリン州20万分の1地形図にもユジノ・サハリンスク市街地の東北東、ピオネールスカヤという所に小さな環状鉄道が描かれており、駅も2つあります。
場所はガガーリン文化公園で、旧豊原公園(本当は、「旧」なんて書きたくないのですが)に当たります。

ソ連の子供鉄道については、こんなに沢山の都市で運行されていました。豊原のそれは、1954年6月6日の開業のようです。
写真1 写真2
[62753] 2007年 12月 2日(日)18:32:34【1】ニジェガロージェッツ さん
唐から樺へ
カラフト(北蝦夷)について「唐太」と表記したことのある歴史について、[61689] 伊豆之国さんへのレスの形で投稿させていただきましたが、その後も[62464]伊豆之国さんをはじめ、多くの反響をいただきながらも、3週間以上を経てしまい、いつもながらの亀レスにて失礼しておりました。

[62467] 笠津前浜 さん
カラフトの字に漢字をあてる際に「樺」を選んだ理由は何なのでしょうね。あるいは樺が多く生えていたのでしょうか。訓読みですから如何様にも読めるのですが、樺を「から」と読ませる例も少ないのではないでしょうか。

カラフトの「カラ」も部分に「樺」の字を充てた所以は、[62501]北の住人さんより、
江戸時代を通じ一般的なものは「唐太」です。一時的に「北蝦夷」が使われますが、幕末からまた「カラフト」と称され、「柄太」「柯太」が多く使われ、明治2年以降は「樺太」に定まりました。
「樺太」については、「樺が多いから」という松浦武四郎の意見が採られたようです。
とフォローいただきましたが、正に樺太は白樺の木の多いところです。現地で飲んだ白樺ジュースのおいしかったこと。サハリンの名産だと聞きましたが、ロシアのほとんどの地域で白樺の木は多く、全国的に生産されていたようです。ソ連時代の末期、ヴォルガ沿岸のゴーリキー市でも食料品店の棚には品薄で何もなかったような時でさえ、白樺ジュースだけは入手が容易だったと聞きました。ソ連解体後はコーラなど西側の飲料が大量に流入し、それに反比例して白樺ジュースは人気薄となり、これを売っている店を探すのはロシアでも容易ではありません。
話が逸れましたが、その白樺の「樺」の字を「カラ」と読ませるのはちょっとした無理があり、後世「カバフト」と読み改められる恐れがあるから「柯太」と表記すべしとの議論もあったと聞きます。

北の住人さんの記事にあるように「樺太」の表記が松浦武四郎の意見により採られた明治2年のことですが、では江戸期において「樺太」との表記があったのかどうかの検証も必要になってくることと思われます。以下、結論には達しませんが、メモ代わりに画像へのリンクも添えて続けます。

北海道大学付属図書館北方古地図高精細画像電子展示のコーナーには、1801年に普請役・中村小市郎と小人目付出役・高橋次太夫の調査による「樺太見分図」とのタイトルで2葉(離島説、半島説)出ていますが、こちらにも地図色分けの凡例部分に「唐太山」の表記があることから、タイトルの「樺太」は後に付けられたもののようにも思われます。
また、別に近藤重蔵が1802年に作製した2葉(1離島説、2半島説)の地図を「蝦夷及樺太ノ図」とのタイトルが付けられていますが、実際に地図を見るとカラフトには「唐太」と表記されており、北海道大学の「江戸時代における日本北辺地図(講演要旨)」には同じものが離島説・半島説を併記した形で「近藤重蔵「蝦夷地図式 乾」1802年として紹介されていますから、こちらも「樺太表記」を裏付けるものではありません。
なお、船越昭生著「北方図の歴史」(講談社―1976年)には「蝦夷及樺太ノ図2半島説」と同じものが『近藤重蔵「蝦夷地図式」乾』として載せられています。

さて、船越氏の「北方図の歴史」などに収録されている諸図や解説によると
図名作者など時代カラフトについての表記リンク
蝦夷風俗人情之沙汰最上徳内1790年唐太画像
蝦夷地図式 乾近藤重蔵1802年唐太画像
享和元年樺太見分図中村小市郎・高橋次太夫1801年唐太山画像
辺要分界図考近藤重蔵1804年カラフト画像
唐太島図松田伝十郎・間宮林蔵1809年
北蝦夷島図間宮林蔵1810年
日本辺界略図高橋景保1809年北蝦夷画像
蝦夷闔境輿地全図藤田良・橋本蘭斎1854年画像
官板 実測日本地図(北蝦夷)幕府開成所1867年北蝦夷画像

以上、手持ちの書籍やウエブの画像で読めそうなものを集めてみましたが、これだけでは江戸期に「樺太」の表記が存在したことの裏づけにはあまりにも不十分、というより、否定的な感触です。江戸期においては「樺太」との表記はおおよそ用いられておらず、「唐太」または「北蝦夷」の表記が一般であったことは言えると推察します。


[62501] 北の住人 さん
ところで、全国樺太連盟のサイト(中略)のURLを見ると「kabaren」の文字があり、連盟の略称として「樺」を「かば」と読んでいるようです。実際、「樺太」の読みとして「かばふと」も書いている辞書もありました。
樺連「かばれん」だけではなく、一般に樺太を略して「樺」の一文字で表す場合の読みは大概が「かば」です。1941年に樺太庁鉄道に吸収されましたが、落合駅から分岐してオホーツク海岸に沿って敷香まで建設された「樺太鉄道」も「かばてつ」と呼ばれていました。
大泊―豊原間の貝場駅から分岐して。留多加に至る私鉄線「南樺鉄道」は「なんかてつどう」のようですが。

また、「樺太」を「かばふと」と呼ぶ人も少なくはなく、「からぷと」と呼ぶ人も居たとか。


[62471] むっくん さん
モンゴル帝国の支配地域の拡がりに伴い(中略)、具体的な侵略の歴史を初めて知りました。
拙稿[62450]に書いた「1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除」の部分の資料としては、M.S.ヴィソーコフ著、板橋政樹訳「サハリンの歴史」(北海道撮影社―2000年)に基づきました。ロシア側から見たサハリン史です。
アイヌ側からの歴史を紹介したページ「アイヌ民族の歴史年表」というページを見つけましたが、樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦いとして、その経緯が詳しく述べられています。
一方、ヴィソーコフ著「サハリンの歴史」には、中国の史料の伝えとして、モンゴル軍がアムール下流に現われ、サハリン北部のニヴフ(ギリヤーク)族を支配下に置いたのが1263年。しかしサハリンアイヌの大多数の種族は頑強に服従を拒んでおり、1286年、強力な武装部隊1万人がサハリンに上陸し各所に配置され、1308年に軍は諸種族の抵抗を排して毎年の貢物を上納させるに至った、とあります。
[62579] 2007年 11月 20日(火)02:05:04【1】ニジェガロージェッツ さん
オフ会での雑談
福博オフ会から早くも十日が経ちました。[62566]グリグリさん、第四回オフ会の記録ページ早速のアップ有難うございます。
ついに実現した参加者全員の集合写真、壮観です。ところで撮影場所の福博であい橋の西詰は、拙稿[61426]でご紹介した明治43年の福岡市地図を見ると福岡市外になっています。今ではすっかり都心のど真ん中と思える場所で、以前の県庁のすぐ傍に当たりますが、明治時代の福岡市域がいかに狭かったか、と言うより、当時の「市」というもののあり方が伺えて面白いところです。

さて、小生オフ会から帰神してからというもの、先週はすっかり抜け殻のようになってしまい、第二水曜日の町内の荒ゴミの日さえ、ついうっかり荒ゴミを出すのを忘れてしまいました。
ところで、この「荒ゴミ」という言葉、日常的に使っていた言葉なので、全国どこでも通じる日本語の普通名詞だと思い込んでいたのですが、最近、神戸などの一部地域でしか通じない言葉だと知りました。
オフ一次会で隣席の皆さんに尋ねてみましたが、当たり前に通じたのは同じ神戸の小松原ラガーさんのみで、尼崎のかすみさんにさえ通じない言葉でした。らるふさんからは「荒」の字が違うとのこと。「粗ゴミ」ならば少しは通じるエリアが拡大するかも。

とはいえ、平成16年12月に神戸市のゴミ収集区分では荒ゴミが廃止され、従来であればジャムの小ビンから大型家具に至るまで、燃えないゴミは何でも荒ゴミとして廃棄していたのですが、今やそれは昔話。しかしながら、言葉としての「荒ゴミ」は今なお、神戸においては生きています。今のゴミ出し区分が徹底されれば、そのうち死語になる可能性はありますが。

一方で既に死語になった言葉としては「別勉」がありました。昭和40年代に神戸でリアル小学生だった小生より年配の人のみに通じる言葉のようです。
「別勉の横の荒ゴミ置き場にほかして来い」と言っても何のことだか。
「学習塾の横の不燃ごみ収集場所に捨てて来い」とは、些かまどろこしい。

話は変わってオフ三次会では、かぱぷうさんが白桃さんにコップ酒を一升瓶に見立てて、「これで頭を一発やってください!」と懇願するシーンがありました。何でも過去の書き込みから「都市人口トップ10」が言えなかったとかで、面白いエピソードでした。
すっかり出来上がっていた白桃さんがその場でどう対応したかはさて置いて(笑)、小生は「トップ20」ぐらいは諳んじていないといかんと思って、帰りの新幹線の中でトップ20をメモに書き出して帰宅後確認すると、80万都市の15位サラトフと16位ヴォロネジを逆にしていました。
どこの国の話やねんっっ! と言うことで、荒ゴミのような書き込み失礼いたしました。

#カラフト「樺太・唐太」について数多くのレスを有難く頂いていたのですが、また後日ということで稿を改めさせてください。
[62497] 2007年 11月 12日(月)20:54:30ニジェガロージェッツ さん
オフ会堪能して参りました
こんばんは、「兵庫県オッサンカルテット」のひとり、ニジェガロージェッツです。
福岡からは昨晩帰神いたしましたが、PCの調子が悪かったのと、旅の疲れで、本来ならば真っ先に参加者皆様への御礼などを落書き帳へ書き込むべきでしたが、一日遅れになってしまいました。

一昨日の福博オフ会(一次会は博多区、二次会以降は中央区での開催)では皆様お世話になりました。
見事な采配で、そつなく幹事役をこなされた、かぱぷうさんには何と御礼を申し上げればよいかわかりません。
小生は四次会のカラオケ店を2時に失礼したのですが、[62470]かぱぷうさんの書き込み時間ではまだ4名いらっしゃったとは、家族旅行途中の御仁もまだ粘っておられたようで、御仁の日曜日の家族内での修羅場を勝手に想像して他人事ながら血の気が失せました。

さて、当日を振り返れば、一次会では[62493]ペーロケさんのシルエットクイズで引いた紙を見て、それを「壱岐」かと直感したのですが、周りから「それは壱岐じゃないよね」と断定されると、「ああ、やっぱり違ったか~」とあっさり自説を放棄するという一貫性のなさ、そして解答をもらうとしっかり壱岐だったりして、「やった!」と自説放棄を棚に上げて喜ぶという馬鹿さ加減。

二次会ではまかいのさんが披露されていたニュージーランドの道路地図を見ながらの談笑に、また、JOUTOUさんとは軍人将棋とカルビーの「仮面ライダースナック」のお話に花を咲かせ、昭和47~48年当時に戻った感覚でした。

三次会と四次会では音痴にもかかわらず歌を2曲づつ歌ってしまいました。場違いな三次会にもかかわらず歌ったのは、
―♪つくしのきわ~み♪―で始まる「蛍の光」と、「豊原市制謳歌」でした。いったい何をやっているのやら。厚顔無恥が続きます。

最近は腹の底から笑ったことがなかったので、本当に毎年の落書き帳オフ会は日々の暮らしの気分転換だけではなく、カンフル剤にもなります。とはいえ、毎年毎年羽目の外し過ぎです。
次のオフ会に参加する時は少しは大人しくしていようと思います。

楽しいひと時を提供してくださった、幹事役かぱぷうさんをはじめ、オーナーのグリグリさん、参加者の皆様、本当に有難うございました。


#三次会で歌った「豊原市制謳歌」ですが、少し噛んでしまったのと、一部に歌詞がうろ覚えの部分があったため、この場をお借りして1~4番の歌詞を書いておきます。(音楽テープを聴くと五番まで歌われていますが、歌集には載っていないため、五番の歌詞は割愛します)

【豊原市制謳歌】昭和12年
一、
北斗を仰げ北のはて ねいき巷に満ち満ちて
ようようにみめぐみ まつところ
市民われらに希望あり おーおー おーおー
荒茫と極みなき 希望の都 豊原市

二、
鈴谷の眺め水清く 若き命を生みいずる
みいまのしおの よぶところ
市民われらに光あり おーおー おーおー
発瀬(はつらつ)とほとばしる 光の都 豊原市

三、
累々満てる天産の 光輝く朝あけて
共栄の旗 ゆくところ
市民われらに力あり おーおー おーおー
隆々と盛りあがる 力の都 豊原市

四、
日々のみいずみ潤いて 殖産興業日に進み
世紀の嵐の 吹くところ
市民われらに誉れあり おーおー おーおー
洋々と拓けゆく 誉れの都 豊原市


 
[62450] 2007年 11月 9日(金)23:35:19ニジェガロージェッツ さん
いつもながらの遅レス2題
いよいよ明日は楽しみに待った福岡オフ会です。明日は午前中いっぱい仕事で、新神戸を13時を過ぎてからの新幹線で博多を目指します。幹事役のかぱぷうさんをはじめ皆様、お世話になります。
さて、出発を前に、いつもながらの遅レスにて恐縮ですが、オフ会を心残りなく楽しむためにも、宿題を済ませておきましょう。

[61689] 伊豆之国 さん
西伊豆町の田子地区に、「唐太(からふと)」と呼ばれている地区があります。
西伊豆に「カラフト」ですか。これはこれは面白い地名をご紹介くださり有難うございました。
西伊豆の「カラフト」の由来としてリンク頂いたページによれば、岩礁(=カラ:マライ語由来など諸説あり)の先端が太くなっている地形から付けられたとのことですが、
一方の北海道の北にある大きな島を「カラフト」と呼ぶのには大きく分けて2説あるようです。このあたりは雪の字さんやIssieさんがご専門かと思いますが、ちょっとメモ代わりに書いておきます。

【アイヌ神話説】
社団法人全国樺太連盟のサイトに樺太の名前の由来として紹介されていますが、アイヌの伝説として、神が生んだ大きな島を北海道と樺太の二つに割る国造りの伝説から、それをアイヌ語で「カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)」と言い、その「カラプト」に「唐太」の字を当てたとする説。
なお、この説はロシア語のウィキペディアの記事Южный Сахалин(南サハリン)にも樺太の由来として引用されています。但し、出典は?で問われています。

【唐人説】
江戸時代に大層重宝がられた清国産の衣服を「蝦夷錦」と呼ばれることに代表されるように、日本と清国を結ぶ「北のルート」、山丹(現在のロシア領ニジニ・アムール地域で、元は清国領)―樺太―北海道を経由する山丹交易が存在したことから、樺太のことを「唐人」「唐太」と呼んだとする説。
更に時代を遡れば、大陸ではモンゴル系の元朝の時代、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)に続く「第3の元寇」とも言うべき、1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除し、一部の歴史ロマンには次は北海道へ上陸する戦略があったかとも推測されている「北の元寇」の歴史もあり、この島の中国大陸とのつながりの深さを物語っています。

蝦夷地を北海道に改める際、北蝦夷地=カラフトについては「唐」の字は清国をイメージすることから国内の地名としては好ましくないとのことで、「樺」の字を与えて「樺太」としたとのこと。

どちらの説もなるほどと感じさせるものがありますが、まあ敢えて一つに絞る必要もないのかも知れません。西伊豆のカラフトと北蝦夷のカラフト、どちらも「唐太」の表記が出てくるのは、やはり偶然の一致でしょうか。

伊豆とロシアの関係といえば、幕末の伊豆近海でのロシア軍艦座礁事件と、その代替艦の建造が戸田港で行われたことです。
1854年に下田で結ばれた日露和親条約とその顛末ですが、その時のロシア側の全権代表はプチャーチン提督(Е. В. Путятин)で、安政の大地震の津波により大破し、その後沈没した船はフリゲート艦ディアナ号(фрегат Диана)でした。プチャーチン提督の肖像と津波を受けて転覆するディアナ号を描いたロシアの絵画がこちらのページに載っています。
新造したスクーナー帆船ヘダ号(шхуна Хэда)については歴史小説になっています。「ヘダ」と題したこの本はソ連時代1979年に出版されています。表紙の絵が何とも当時の伊豆の様子を表しているようで好感が持てます。
#どちらもロシア語のページですが、絵だけでも楽しんでいってください。


[62273] まがみ さん
私も地名由来?のニックネームではあります。実際とは「読み」が違いますが…。人口は、9,941人。2007年6月末現在、高槻市真上町一丁目~六丁目の合計人口
これはこれは大変なお人が漏れておりました(笑)
読み方が違うことも含めて昔どこかでお聞きした記憶はあったのですが、改めて探してみると4年半前の貴稿[13150]にしっかりと書かれていました。失敬いたしました。

拙稿[61343]には、まだまだ漏れがあるようで、いつもながらの詰めの甘さ、恐縮しております。
[62325] 2007年 11月 1日(木)01:51:09【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:神戸市西区
[62321] 小松原ラガー さん
今期(今月?)の神戸市西区の増加って一過性のものではありませんか?(中略)
ここ2~3年程度は都心回帰というか、西区、垂水区はむしろ現状維持、もしくは人口減の方向に向かっていたかと思うのですが・・・。
酔った勢いで子供に変な先入観を植えつけてもらっては困ります(笑)
人口減少区の垂水区と、人口増加区の西区を一緒にしてはいけません。
ですが、西区についても[62320]ドラえもんさんの言うような、
30万人越えももう間もなくというところです。
は、ありえません。
「間もなく」をどの程度の年月を想定しているのかは本人に聞かなければわかりませんが、西区の直近5年間の人口増加数は修正値ベースで8,846人、年平均すると1,769人にすぎません。
仮に甘く見積もって、年平均2000人の人口増が見込まれるとしても、
(300000-248000)÷2000=26年。これって「間もなく」ですか。これを「間もなく」と言ってしまうと、私は「間もなく」71歳になってしまいます(笑)
私の勘ですが、西区の場合、人口26万(多くても27万)ぐらいで頭打ちになるのではと感じています。

震災後の各年10月1日現在の人口データを出しておきます。出典/神戸の統計
年月北区の人口垂水区の人口西区の人口データの性質
平成7年10月230,473240,203222,163国勢調査結果確定値
平成8年10月231,500235,672228,932推計人口修正値
平成9年10月230,454229,440234,118推計人口修正値
平成10年10月228,131224,711235,580被災地人口実態調査結果
平成11年10月226,781225,681235,743推計人口修正値
平成12年10月225,184226,230235,758国勢調査結果確定値
平成13年10月224,853225,361237,597推計人口修正値
平成14年10月224,775225,037239,315推計人口修正値
平成15年10月224,847224,873240,698推計人口修正値
平成16年10月225,480223,565242,117推計人口修正値
平成17年10月225,945222,729243,637国勢調査結果確定値
平成18年10月226,207221,319246,201推計人口
平成19年10月226,440220,546248,161推計人口

平成8~9年より平成11年までは震災後の仮設住宅の撤去の影響もあり、垂水区で大幅な人口減、西区でも増加の鈍化(新規開発地の人口増と仮設住宅撤去による人口減が相殺される)が見られるのが特徴です。
[62240] 2007年 10月 26日(金)22:00:23ニジェガロージェッツ さん
一桁の疑問
[62230] 千本桜 さん
興味深い出荷額と人口のデータ、有難うございます。
横レスにて申し訳ありませんが、相模原市のデータ
相模原市  140,516,349万円  703,717人  1,997万円
一桁間違っていませんか。

相模経済新聞の記事には、「1兆4千500億円」とありますから、千本桜さんの出荷額データを尊重すると、
相模原市 140,516,349万円 703,717人 200万円 が正しいのではないでしょうか。


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