都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
Issieさんの記事が50件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81765]2012年9月2日
Issie
[81750]2012年9月1日
Issie
[81722]2012年8月28日
Issie
[81717]2012年8月28日
Issie
[81710]2012年8月27日
Issie
[81693]2012年8月25日
Issie
[81692]2012年8月25日
Issie
[81472]2012年8月15日
Issie
[81431]2012年8月14日
Issie
[81290]2012年8月10日
Issie
[81287]2012年8月9日
Issie
[81269]2012年8月7日
Issie
[81255]2012年8月4日
Issie
[81254]2012年8月4日
Issie
[81250]2012年8月4日
Issie
[81204]2012年7月29日
Issie
[81200]2012年7月29日
Issie
[81170]2012年7月22日
Issie
[81158]2012年7月21日
Issie
[81139]2012年7月18日
Issie
[81105]2012年7月14日
Issie
[81097]2012年7月14日
Issie
[81051]2012年7月8日
Issie
[81044]2012年7月7日
Issie
[81012]2012年6月30日
Issie
[80984]2012年6月20日
Issie
[80981]2012年6月19日
Issie
[80925]2012年6月2日
Issie
[80914]2012年5月30日
Issie
[80878]2012年5月20日
Issie
[80559]2012年4月28日
Issie
[80555]2012年4月23日
Issie
[80545]2012年4月21日
Issie
[80538]2012年4月19日
Issie
[80533]2012年4月17日
Issie
[80518]2012年4月10日
Issie
[80476]2012年3月31日
Issie
[80475]2012年3月31日
Issie
[80472]2012年3月31日
Issie
[80471]2012年3月31日
Issie
[80462]2012年3月30日
Issie
[80431]2012年3月25日
Issie
[80430]2012年3月25日
Issie
[80429]2012年3月25日
Issie
[80409]2012年3月17日
Issie
[80351]2012年2月28日
Issie
[80310]2012年2月19日
Issie
[80307]2012年2月19日
Issie
[80303]2012年2月18日
Issie
[80280]2012年2月12日
Issie

[81765] 2012年 9月 2日(日)12:43:29【1】Issie さん
ねば
[81764] k_ito さん
稲武-根羽はどんぐりバスです。コミュニティバスで県境越えできるというのはかなり珍しいケースのような気がしますから、目に留まらなかったのかもしれませんね。

ああ,これは私,知っていました。
交通公社…,じゃなくてJTBの時刻表にも載っていますしね。
一方で,“同じ県内”に向かう飯田方面へのルートが載っていません(途中の阿智までコミュニティバス,阿智からは信南交通)。
いずれにせよ,番組的には飯田から先,伊那谷をどう北上するかが問題になったはずです。最後には,前の発言のとおり,善知鳥峠も塩尻峠もバスでは越えられないので歩くしかなく,その意味では結果的にトンネルで鳥居峠を越えたあのルートで正解だったのだと思います。

※そう言えば,いま読み返して思い出したのですが,確か第1回の 横浜→富山湾 の「列島横断」の回で伊那谷から松本平に入る際に「善知鳥峠にバスがない」ということを一行(のうちの太川と蛭子)は経験しているのでした。その割には,今回も中津川のあたりで伊那谷ルートも模索していましたが…。

根羽村と稲武町には“総選挙後の政権交代”で盛り上がっていた頃,…と言っても今回(3年前)ではなく“前回”の1993年の夏に行ったことがあります。ただしその時は飯田まで車で迎えに来てもらって,路線バスを利用したわけではないのですが。
その頃は確かまだ,稲武まで名鉄バスが来ていました(たぶん,根羽まで)。
それにしても根羽村,飯田からとても遠いです。そもそも飯田自体が東京から極めて遠いのでなおさらでした。名古屋から見た稲武・根羽はどうなんでしょうね。

聞くところによれば,根羽村は元々は三河の加茂郡の一部だったとか(設楽郡ではないのですね)。16世紀末に信州に編入されたそうで,その意味では中世初期に美濃の恵那郡から信州の筑摩郡に編入された 鳥居峠以西の木曽谷 よりも信州にとっての“新参者”。
そういう経緯もあって,いまだに稲武との結びつきの方が伊那谷方面よりもずっと強いと聞きました。JTB時刻表の扱いもその表れでしょうか(…と言いつつ,JTBの取捨選択もそれほど根拠のないものであるようにも感じます)。
結局,木曽谷の最下流部は2段階の合併で岐阜県に「帰って」行きました。
根羽村もそれにならって三河=豊田市への合併を望まない保証はないわけで,もしかしたら次に長野県からこぼれ落ちるのは根羽村かもしれませんね。

しかし豊田市のコミュニティバスはなぜこんなに細かく分かれているのでしょう。

ざっと見てみましたが,それはたぶん,自治体の管理に移るまでの経緯とか,目的や路線の性格,運行形態の違い,あるいは市役所内での管轄部署の違いなどによるものなのだろうと思います。
[81750] 2012年 9月 1日(土)21:53:19【2】Issie さん
川中島など屁の河童! ああ松電,松電バス
久しぶりにやっていました。東京12チャンネルの「路線バスの旅」。
今回は,前回(徳島→伊勢神宮)を引き継いだのか,松阪→松本というルート。
普段は7時からの番組でそのつもりでいたら,今夜はスペシャル版で6時半からだったんですね。おかげで「1日目」の分を見そびれて,一行はすでに桑名に着いていました。
それにしても,路線バスの状況は年々悪くなっているようで,確か5年ほど前に私は長島スパーランドから名古屋まで国道23号線を路線バスに乗ったはずなのですが,今は廃止されてしまったとのこと。一行はとにかく岐阜県に入るまでの区間で相当苦労したようですね。

実は私が一番興味を持っていたのは,一行がどうやって松本平に入るかということでした。
私が松本市民だった30年近く前,すでに木曽路(鳥居峠,国道19号)はもちろん,善知鳥峠を越えて辰野方面に向かう路線バスもなかったはずです。峠向こうの 小野地区 の「半分」は旧松本藩領でずっと前から塩尻市だったんですけどね。でも,塩尻峠を越えて上諏訪に行くバスはまだありました。そこから伊那谷へ抜けるルートは,岡谷から天竜川沿いに直接辰野へ抜けるのは微妙にしても,昔NHKの「新日本紀行」で取り上げられた“諏訪(諏訪市)と伊那(辰野町)にまたがる”上野地区でバスを乗り継いだり,茅野から“国鉄バス”で杖突峠を越えて高遠から伊那へ出る,というのが使えたはずです。いずれも,今は使えません。それどころか,番組のお終いで出てきたように,松本から塩尻に(直接)行くバスさえありません。
ともかく,あとは伊那谷を何とか縦貫しさえすれば,飯田からは 根羽→稲武→足助 と乗り継いで名古屋まで路線バスで行くことは訳なかったはずです(この部分,図らずも松本視点になっていますね。番組的には逆方向です)。
実は,当時は木祖村の藪原駅から上高地へ行くバスが運行されていて,つまり“木曽谷ルート”で奈川村(現松本市)を通って,梓川に合流する 奈川渡 で新島々方面のバスに乗り継ぐというルートもありました。ただし松本電鉄の営業政策上,松本から新島々までは登山・行楽客が電鉄線を利用するように誘導するために,島々までの並行バス路線はわざと走らせていなかったはずです(現在は“高速バス並み”の松本-高山間のバスがここを通っています)。ただ,梓川左岸(北岸)の梓川村(現安曇野市)最奥集落の 八景山 まで松本駅からバスが来ていましたから,安曇村(現松本市)最下流部の橋のたもとからわずか2kmほど歩けば乗り継げましたか…。

とはいえ,これは全部30年前の話。
その頃からは想像もできないほどバス路線が痩せ細ってしまった今,一行がたどったのは木曽谷ルートで,結局 鳥居峠 は徒歩で越えることになりました(国道19号のトンネルを通りましたが)。ただ1つだけプラスだったのは,“日本海斜面”でありながら「木曽」(木曽郡=旧西筑摩郡)に属していた 旧・楢川村 が塩尻市に編入されたおかげで 奈良井 から 塩尻駅 まで塩尻市のバスで直行できたこと。昔は松電(松本電鉄)バスのエリアだったんでしょうが,それが手を引いた後,楢川村単独では並行する中央西線に対抗して塩尻までバスを走らせることはなかったのではないかと思います。その意味では「塩尻市奈良井」になったおかげではないか,と。
結局,一行は塩尻・松本市境の少しの区間を歩いて,何とかゴールの松本城に到達しました。
ナレーションやメンバーが語る通り,途中の展開からはほとんど「無理。失敗。」の気配が漂っていたんですけどね。

最後は,松電バスに乗ってお城に到着,と。
ところでこの書き込みのタイトルは,私が松本所在の某大学の学生だった頃,松電バスでアルバイトをして持ち帰ったのか,それともその某大学で創作されたのか(まさしく私が学生であった頃にドンピシャな内容[浅間温泉線の“ビデオの姉ちゃん”とか]なので,“代々受けて継がれてきた”ものではなくリアルタイムで作られたのでしょう),ともかく同級生が寮祭で披露した「松電バスの歌」の一節。地域独占の地方交通企業としては“競合相手”ではないのですが,善光寺平の西半分をエリアとする 川中島バス(川バス) は,やはり松電にとってはライバルで,そんな気持ちが表れているのでしょうね。しかし,それ以前から川バスの営業状況は最悪で,結局は松電資本に吸収されました。今では松電,川バスだけでなく,以前から松電傘下であった 諏訪バス も含めたグループ全部を合わせた「アルピコ交通」の名前で営業しています。
リンク先の歌詞は,私がこの歌を聴いた頃よりもずっと最近のものですね。川バスは「倒産」しちゃっています。

ともかく,この番組で再認識したこと。
……馬篭は「岐阜県」なんですね。
[81722] 2012年 8月 28日(火)21:57:15Issie さん
分断された郡
[81720] 白桃 さん
それはともかく、この海部(あま)郡ですが、むじながいりさんのパラパラ地図をご覧いただければおわかりになると思いますが、当初、名草郡によって3つのブロックに分断されております。

「海部郡」という郡は,紀州のほかにも尾張(愛知県)や阿波(徳島県),豊後(大分県),さらに異表記の「海士郡」という形で隠岐(島根県)にもありました。ただし,尾張の海部郡は中世に分割されて大正に再統合されるまで「海西郡/海東郡」に分かれ,さらに海西郡は木曽川の流路の変化による濃尾国境の移動によって美濃にもまたがり,こちらは明治後期の郡の統合により岐阜県の「海津郡」の一部になりました(「津」は統合相手の“下石津郡”)。
漢字表記が表すように,海での活動を生業とする集団である「あま部」に由来する郡で,だから全部が海のそば。
紀州の海部郡の場合,名草郡との境界のラインは古代からは少なからず変わっているだろうし,紀の川の河口デルタや和歌浦あたりの地形もかなり変わっていて,沿岸に点在する海部郡郡の領域の“陸地”からの隔絶性は今よりも高かったかもしれません。あるいは,後に名草郡の領域が陸地から拡大してきてそうなったのかもしれませんが,やはり「海人集団の郡」ではあるのでしょうね。

このような郡の分断例は結構珍しいのではないでしょうか?

珍しくはありますが,“2分割”であるならほかにもいくつか例がありました。
たとえば,「海津郡」を経て今は「海津市」の一部になっている前出の「下石津郡」。当然,“上”があるわけで,1878年の郡区町村編制法によって「上石津郡」と分割されるまでは両者合わせて「石津郡」でした。上石津郡に相当する区域は大垣市に編入された2006年まで丸ごと「上石津町」でしたが,下石津郡 とは隣接しておらず,間に 多芸郡 がはさまっていました。海西郡+下石津郡 で「海津郡」ができたとき,上石津郡はその多芸郡の大部分と合わされて「養老郡」となりました。

間に別の郡がはさまって分断された分かりやすい例が,武蔵(埼玉県)の 入間郡。ここでたびたび話題になるように,奈良時代の初めに朝鮮半島からの渡来民とされる人々を入植させた「高麗郡」が入間郡内に設けられて,その高麗郡が間に割り込んだせいで入間郡は2つの領域に分断されました。この状態が解消されるのは,高麗郡が入間郡に編入された明治半ばのことです。
※地図をよく見ると,両入間郡はその付け根部分で蝶番のようにわずかにつながっていなくもないのですが,現実にはほぼ無視してよいでしょう。

伊豆(静岡県)の北西隅にあった「君沢(きみさわ/くんたく)郡」も2つ領域に分かれていました。
三島市の大部分と,旧伊豆長岡町(現伊豆の国市),旧修善寺町西半(現伊豆市)と沼津市の内浦地区から旧戸田村,そして伊豆市の旧土肥町にかけての区域。間にはさまる函南町(田方郡)で分断されています。ちなみに,函南町のうち狩野川左岸の 日守地区 のみは 駿河国駿東郡 からの編入です。
実は 君沢郡 という郡は古代には無く,近世初頭までに田方郡から分割された郡であるようで,わざわざこの形にしたのには何か面白い話があるのかもしれません。

安芸(広島県)の「豊田郡」も2つの区域に分断されていました。
広島県では1956年に 豊田郡 と 賀茂郡 の町村の間で所属の交換を行い,以降は 豊田郡 が島の部分も含む沿岸部,賀茂郡 が内陸部の呼称となりましたが,それまでは 豊田郡 は内陸部も含めて東側の沼田川流域,賀茂郡 が 竹原 以西の沿岸部・島も含めた黒瀬川流域までの区域を領域としていました。
この「賀茂郡領域」の中で,現在の竹原市南西端の 吉名地区 と,それに隣接する東広島市(旧安芸津町)南東端の 木谷地区 だけが豊田郡に属していました。一見,この部分が“豊田郡の飛び地”であるようにも見えます。ただしもう少し広く見ると,この“飛び地”部分の対岸の 大崎上島・下島 および 豊島 も豊田郡で,そうして見ると逆に 竹原周辺 が「豊田郡領域」に割り込んでいるようにも見えます。ちなみに,上・下蒲刈島 は元は賀茂郡の島。

まだほかにもあるかもしれませんが,とりあえずはこれだけ。
ただ,確かに3つに分割される紀州の海部郡は珍しい例でしょうね。
[81717] 2012年 8月 28日(火)01:52:16【1】Issie さん
播磨と飾磨
[81713] グリグリ さん
飾磨という郡名そのものは、播磨国の「磨」との関連があるのでしょうか。

ちょっと調べてみたのですが,とりあえず「磨」という漢字自体にはあまり意味がないように思います。

「はりま」については,6世紀以前に「国造」が配置された段階では「針間国造」,あるいはそれから分かれたとされる「針間鴨国造」というのが見られ,つまり早い段階では「針間」という表記が行われていたようです。「針間国造」や「針間鴨国造」の“縄張り”は今の播州平野のあたりなんでしょうが,それぞれがどの領域に当たるか,今ここでは確認できません。
(※「鴨」というのは後の「加西郡/加東郡」のもとになった「賀茂郡」のことなんでしょうね。そうすると「針間鴨」の方が東播地方で,「針間」の方が西播地方ということになるのでしょうか。)

一方「しかま」の方は,たとえば“いわゆる大化の改新”期に全国に「評(こおり)」が編成されたときには「志加麻評」という表記が行われていたようです。「しかま」という地名自体は播磨以外にもわりと多く分布していて,たとえば「色麻」なんて表記も行われていますよね。
「播磨」「飾磨」という表記に固定されてくるのは律令による国郡の編成が進んでいく過程のことであるようで,たとえば「多磨郡」という表記もあり得るように(よく見かけるのは「多麻」「多摩」という表記ですが),ここでは単純に「ま」という音にあてた漢字,いわゆる“万葉仮名”の一つと見た方がいいように思います。

あるいは漢字による表記以前に“語源論”的なレベルで「ま」という音自体に何らかの意味がある,という分析をすることが可能かもしれませんが,そこまでさかのぼると最早「播磨/飾磨」という枠を超えたもっと根源的な議論になってしまいそうです。
さしあたり,「播磨の一部という意味合い」を読み取るのはかなり飛躍しすぎかな,と考えます。

参考までに,こんなページ がありました。ここでは日本書紀や風土記にかなり忠実に播磨・飾磨の古代について説明しています。
[81710] 2012年 8月 27日(月)19:59:18Issie さん
択捉焼山
先ほどNHKの「7時のニュース」でやっていたのですが,択捉島の「択捉焼山」という火山がやや大きめの噴火をしているのだとか。
たとえば ここの記事 によれば今月の15日に噴火が始まったことが,17日には伝えられていたようですね。しかし,私は先ほどのニュースまで気がつかなかった。
「わが国の領土」でありながら,やはりこちら方面の情報が入りにくいのは致し方ないところでしょうか。とりあえずググってみても,初めの方でヒットしたのはここにリンクをするのが憚られるようなページばかり。かなりめくって,やっと時事通信の記事にたどり着いた次第です。

でも,「択捉焼山」って聞いたことがない。「単冠山」(←やっぱり一遍には変換されません。戦記物に詳しいIMEなら一発?)とか,「散布山」なんて山なら聞いたことがあるような,ないような…。国後島の「爺爺岳」はよく聞く名前ですが。
そこで地図を見てみる…。
改めて見ると,択捉島は特に,一列に並んだ火山の複合体なのですね。細長い島の北から南まで点々とそびえ立つ山のほとんどが火山であるらしい。そのたくさんの火山の中から最初は「焼山」という字を見つけることができませんでした。何回か島の上を往復して,やっと真ん中へんの「小田萌山」を中心とする山の塊の中に見つけました。
現実にはほとんど意味のない地名呼称ですが,島の中部を占める「択捉郡留別村」に属するようです。

参考までに 気象庁のページ も。こちらでは今回の噴火はまだカウントしていないようです。ちなみに,ロシア名は「イワン雷帝山」というそうで…。
※島の名前は「イトゥルップ島」。ほぼ日本語と同じ名前だけど,これをもっとロシアっぽい名前にするなんて話が最近あったけど,どうなるのだか。
[81693] 2012年 8月 25日(土)21:29:21【2】Issie さん
狸の××
[81692]
…というわけで,アップし直し。


[81674] 白桃 さん
下関といえば、
♪お萩がお嫁にいくときにゃ・・・
という「リパブリック賛歌」の替え歌を思い出しました。

[81690] hmt さん
でも、私は ♪お萩がお嫁に…という替え歌の「存在」を知りませんでした。

そうですね。私も知りません。
地域に加えて世代の違いもあるかもしれません。

権兵衛さんの赤ちゃんが…、
一人一人が腕組めば(阪田寛夫作詞『ともだち讃歌』)、

これは小学校で教わりました。俗謡的な「おたまじゃくし」に対して,“学校公認”というところでしょうか。

学校で教えてくれなかったけどいつの間にか子どもたちの間で教わっていたのが,「狸の××」の歌。近年,池袋からヨドバシカメラの牙城に進出して競争著しいビックカメラがCMソングに使っているやつですね。
これはプロテスタント系のキリスト教会が持ち込んだ讃美歌が元歌なのだそうですが,間に昭和初期の流行歌である「タバコ屋の娘」(作詞・薗ひさし、作曲・鈴木静一。ただし,「薗ひさし」というのは 鈴木静一 の別ペンネームなので,実は作詞・作曲は同一人物らしい)がクッションとしてはさまっているかもしれません。

「権兵衛さんの赤ちゃん」は今ここで話題の「リパブリック讃歌」バージョンとは別に,「烏の赤ちゃん」に変わっていますがほぼ同じ内容の歌詞に“+α”部分を加えて「パイノパイノパイ」(東京節)の節で歌うバージョンもあって,男声合唱曲に編曲されてグリークラブなんかが歌っています。
私たちの世代ではドリフターズが「バイノバイノバイ」と歌っていた(←よく聞いてみると“半濁音”ではなく“濁音”に変わっている)のが記憶にあるのですが,「パイノパイノパイ」は大正期の流行歌。すでに東京駅が開業して「東京の中枢は丸の内」になっている一方,浅草には「十二階」がある(=つまり,関東大震災前),というわけで年代が割と絞られそうな歌です。元歌は開国後わりと早い時期にアメリカから持ち込まれた「ジョージア・マーチ」という軍歌で,これも南北戦争がらみ。

南北戦争はアメリカ国内だけで終結せずに,そこで使用された兵器の中古品が大量に輸入されてそれが幕長戦争から戊辰戦争で使用されたというのはよく指摘されることですが,南北戦争の頃にアメリカで流行して輸入された歌が日本人にとって初めての「洋楽」だったからか,讃美歌のように格調の高い歌から「狸の××」のように学校で教えてくれないくらい下品なものまで(私も含めて,小学生は「下品」なものが大好きです),

孔子や孟子が酒飲んで

のような軍歌・学生歌(これは軍歌に詳しい同僚に教えてもらいました)から,果てはいわゆる“春歌”(「下関」はこのジャンルに入るでしょうかね)まで,さまざまな替え歌の素材を提供してくれました。
※ちなみに,「下関」に類するような歌,私も学生時代にいろいろ教えてもらいましたが,今の学生さんはどうなんでしょうね。「セクハラ」と言われれば,それまでなんでしょうが。

【追記】改めて歌詞を見に行ったら,どうも考え過ぎていたみたいですね。「下関」はどちらかというと,“大人の男性の歌”というより「狸の××」に近い“子どもの歌”でしょうか。
…ま,そんなとこで。

そんな南北戦争の時代に生まれた歌の一つに "Tramp, Tramp, Tramp" という歌があります。
私は学生時代にエスペラントを教わったのですが,その時に教えてもらった歌の一つに "La fluanta tajdo"(潮の流れは)という歌がありました。今船出をしようとする若者たちに「潮の流れは君たちにある」と言ってこれからの航海の幸福を祝う内容でエスペラントの歌詞がつけられていて,その調子の良さと歌詞の内容が気に入って好きになった歌の一つでした。その当時,私はエスペラント・オリジナルの歌と思っていたのですが,ある年末,新宿の地下街で救世軍の楽隊がこの歌を演奏しているので驚いてしまいました。キリスト教関連の歌なのかな,その時はそう思っていました。けれども,なかなかその“原曲”に出会えずにいました。
ところがある日,ネット上をさまよっていくうちに,これと同じ曲に出会いました。それは 北海道大学の校歌
北大の歌といえば恵迪寮の「都ぞ弥生」が有名でそれは私も知っていましたが,この“校歌”は知りませんでした。私たちの仲間に北大の学生がいればエスペラントの歌と一緒に教えてもらえたのでしょうが,東大や京大,東北大,そして弘前大までは仲間にいても残念ながら北大の学生はおらず,以後四半世紀,この歌の別バージョンを知る機会が得られませんでした。
その意味で,やっぱりネットは便利です。
元歌の "Tramp, Tramp, Tramp" というのは兵士たちの足音の擬音で,南軍に捕えられた北軍の少年兵が友軍によって救出されるのを待っている心情を歌ったものなのだそうです。それが(たぶん,いろいろなクッションを通過して)明治期の日本に持ち込まれて札幌農学校,そして北大の校歌になったのですね。
この歌は日本とは別にアイルランドに持ち込まれて“準国歌”の地位を得ました。"God Save Ireland"(神よ,アイルランドを護らせたまえ)という歌。「イングランド」の“国歌”と似たようなタイトルですが,これはイングランド,つまりは“連合王国”からの独立を唱えて“反乱”を起こした首謀者たちが処刑される直前に叫んだ言葉なのだそうです(…ということを,この歌は歌っています)。
独立後のアイルランドではもう少し“おとなしい”歌が国歌に制定されましたが,この“準国歌”は依然として人気が高く,たとえばサッカーの試合の中継の際にパブなどで高唱されるのだとか。歌詞の中身はかなり凄惨なのですけどね。

なお,ここでリンクしたのはいずれも「ようつべ」のページ。
著作権上少なからず問題があって,リンクが切れてしまうかもしれないので,悪しからず。
[81692] 2012年 8月 25日(土)21:05:02【1】Issie さん
削除
ごめんなさい。
まだ途中なのですが,誤って確定ボタンを押してしまいました。
なので,正しいものはまた後ほど。
[81472] 2012年 8月 15日(水)12:01:14Issie さん
わ・ちべん
[81313] 白桃 さん
和智弁?

これは「和歌山の智弁」って意味じゃないかなあ。
たぶんこちらの方が「智弁和歌山」という名前よりも“部外者”の感覚に近いのではないかと。

いや,そんなことより,この手の略称は主催者や球場サイドが勝手に決めているものではないだろうと思います。
硬式野球(高野連)の方は経験がないのですが,水泳部(日水連)の場合,春に選手登録をする際に正式な学校名にあわせて略称も一緒に申告します。そして大会の掲示等にはその申告した略称が基本的に使用されます。もちろん,その都度略称を改めて申告するのではなくて以前(加盟時)に決められた略称を申告するのですけどね。少なくとも,自分の学校がどのような略称であるのかは当該校も諒承していることです。

たぶん野球も同じであって,「和智弁」というのも“関係者”は十分承知しているのではないか,と推察したりもします。
[81431] 2012年 8月 14日(火)20:07:16Issie さん
丸い校舎
[81305] 菊人形 さん
・宮城県)大崎市田尻総合支所 旧:遠田郡)田尻町役場
こちらは本当に見事な”円型”です。昭和33年竣工とのことですから、今から半世紀以上前の庁舎ということになりますが、まだまだ現役のようです。

これはもしかしたら,ちょうどその頃に流行した(一部で?)意匠なのかもしれませんね。
というのも,役場の庁舎ではないのですが,千葉県の習志野市ではそれと同じ頃に津田沼地区で建てた市立の小学校と高校の校舎がほぼ完全な円形をしているからです。
高校は硬式野球部が甲子園で2度優勝したのでよく知られている学校なのですが,2度目の優勝の頃に移転して,ごくありふれた普通の形の校舎になってしまいました。ということは,円形校舎はあまり使い勝手がよくなかったのかもしれません。
小学校の方は,移転も改築もされることなく現在もほぼそのままの形で使用されているようです。
ちなみに高校。上で述べた事情から,去年もこの高校の校歌が何度か甲子園で流れたのですが(今年は残念!),“東習志野”に移転した今も校歌は昔通りに「ここ津田沼の」と歌っているようです。
ま,校歌の歌詞はそうそう変わらないか。

ググってみると「円形校舎」で少なからずヒットして,やはり1955年前後に全国的に流行したようです。
というわけで,旧田尻町役場庁舎の1958(昭和33)年というのも,この“流行”にからむものなのでしょうね。
[81290] 2012年 8月 10日(金)21:45:12Issie さん
草島
私は来週の前半が夏休みの前半3日分。明日から事実上の夏休みということで,今日は午後3時間分の年休を取っちゃいました。夏休み残り2日分は,また後日ということで。
※つまりね,お客さんたちはお休みでも教員は夏休み中も普通に学校に出勤しているんですよ。…昔と違って。

お休みを取って何をしたかというと,一連の話題についてちょっと確認しようと図書館に行ってきました。――つまりね,図書館に行ってちょっと資料をあさりさえすれば,以下のような情報は簡単に手に入るということです。

さて,「草島」。
[81287] で私は

私には草島を分けるラインが見えてくる気がしますよ

と書いてみたのですが,どうやらそのラインは「幻」であるようです。
どうやら 草島村 は全体で一つにまとまった村落であり,それを加賀藩と富山藩が分け合って,加賀藩領分が新川郡,富山藩領分が婦負郡に属していたということです。

まず繰り返しですが,神通川が婦負郡と新川郡の境界であることはその通りです。
そしてその神通川の最下流部は,江戸時代の初めまで現在よりも西を流れており,問題の草島村は川の右岸(東側)にありました。その点では,大きな目で見ると 新川郡側 にあったと言えるかもしれません。
寛永16(1639)年,加賀藩領のうち越中婦負郡・新川郡,加賀能美郡のそれぞれ一部が分知されて「富山藩」が成立します。当初,母藩・加賀藩領内に分散していた富山藩領は,後に婦負郡・新川郡内の一部に集約され,10万石の藩領が成立します。そして,その際に 草島村 は両藩で分割され,前述のとおり,加賀藩領分が「新川郡草島村」,富山藩領分が「婦負郡草島村」となりました。
しかし,もともと一つの村を分割したものですから,両者間の境界は集落内でも耕地でも極めて錯綜していたようで,その後くりかえし郡境争いが起きているようです。
なお,神通川は江戸時代初期の大洪水で何本かに分かれていたうちの東の流路に本流が移っていき,江戸時代半ば以降は草島村は左岸(西側)の村になっていました。それでも富山藩領が婦負郡,加賀藩領が新川郡という状態は,そのまま廃藩置県まで続きました。
そして郡区町村編制法以降も,「婦負郡草島村」と「上新川郡草島村」の並立状態は1889(明治22)年の町村制施行で両村および周辺の村を合わせて「草島村」に統合されるまで続きます。この“統合された草島村”は神通川左岸にあるので 婦負郡所属 となりました。
ところで面白いことに,この統合された“婦負郡草島村”は,ほかの多くの町村と同様に合併前の旧村をほぼそのまま大字に編成しましたが,婦負郡草島村を引き継ぐ「大字(婦負郡)草島村」とは別に旧上新川郡の区域で「大字上新川郡草島村」という大字を編成しました。自治体村としては統合されても,大字としては両村併存状態が継続していたのですね。両大字が統合されて「大字草島」となったのは1911(明治41)年のことだそうです。ちょうどおよそ百年前。

だから結論を言えば,草島で正確な郡界のラインを確認するのは極めて困難。やっぱりここは大ざっぱな線で我慢するしかありません。
実際,平凡社・角川いずれの地名辞典の付図についても,このあたりの処理は実に大ざっぱで,少なからず不正確です。
そんな程度でいいんですよ。
で,問題はその“錯綜度”ですが,たとえば極端な例では以前に話題になったことのある神奈川県鎌倉市(相模国鎌倉郡)の 腰越村・津村([34676][34719])のように錯綜の極みに達していまだにゼンリンの住宅地図でさえ大字界を記入できずに一軒ごとに「腰越」か「津」を個別に記載しているものもありますが,ここの場合は“郡境争い”ができる程度には一応ラインが決まってはいるのでしょうね。
でも,精度的にはそこまでこだわる必要もないだろうと,開き直ってしまいましょう。

ところで,以下は副産物。
一連の説明(平凡社版・角川版ともに)を読んでいく中で「あれっ?」と思ったのは,草島村のうち,“西側”に位置するはずの 婦負郡側 が富山藩領で,“東側”の 新川郡側 が加賀藩領という点。だって,富山城下そのものは新川郡じゃないか…。
要は,新川郡のうちの神通川右岸最下流部は“富山藩に分知された新川郡”に含まれないわけで,東岩瀬 を中心とするこの区域は加賀藩領なのですね。で,“新川郡草島村”は加賀藩領。
一方,婦負郡の大部分は富山藩に分知されて,だから“婦負郡草島村”は富山藩領,というわけ。
つまり,“富山城下の外港”である 東岩瀬 は,実は富山藩領ではなく加賀藩領なのですね。
ちなみに婦負郡に属する 西岩瀬 は富山藩領。
前述のとおり,元は神通川の本流は西の方に偏っていて,その河口にあったのが 西岩瀬 でした。この段階では 西岩瀬 の方がメインの港で 東岩瀬 はワンランク下。富山藩立藩時は当然,自藩領内の 西岩瀬 が富山藩の外港だったんでしょうね。
ところが,これも前述の江戸時代初期の大洪水以降,神通川の本流は東に移動し,さらに相次ぐ洪水や高潮被害によって 西岩瀬 は衰退し,代わって神通川本流の新しい河口となった加賀藩領の 東岩瀬 に繁栄が移った,という話であるようです。
そして併せて,富山藩の外港の地位も 東岩瀬 に移ったのでしょうね。“親戚”と言えど他藩領なのですが。
[81287] 2012年 8月 9日(木)19:47:40Issie さん
月はおぼろに東山
[81286] グリグリ さん
娑羅の木(ナツツバキ)

娑羅の木,つまり娑羅双樹と言えば思い出すのはやっぱり「平家物語」。ここで出てくる「祇園精舎」とはお経に出てくる本来のインドの祇園精舎(ジェータヴァナ・アナタピンダダシヤ・アラマ)なんだろうけど,やっぱり京都の祇園が頭に浮かんできちゃいます。
その平家物語ならぬ,今年の大河ドラマの「平清盛」,視聴率的に苦戦しているようですね。私には面白いのですが。いや,裏で女子マラソンをやっているなんて知りませんでした。

[81280] 皿 さん
1889年まで草島村は婦負郡と新川郡に2つありました。

以前のご質問も含めて,求める精度によってお答えは変わってきます。
ですから,皿 さんがどの程度の精度の情報を必要としているのか,そして何を目的としてそれを集めているのか明らかにされた方が有用な情報が集まるだろうと思いますが,とりあえずこれまでの話の流れからは,それほどの精度は求められていないのではないかと推察されます。もしそうであるならば,…
その程度の違いは無視しましょう。

まず基本的に,婦負郡と新川郡とは古くから神通川を境界としてきたと思われます。
ところが神通川は富山平野の中でしばしば流路を変えており,そのせいで現在の富山市街の西方で新川郡の草島村が神通川の左岸(西岸)に,逆に婦負郡の牛島村(現在の富山駅周辺)が右岸(東岸)にそれぞれはみ出してしまったように見える。本当は旧流路で引かれた郡界が,流路の変更後も取り残されたのだけど。
だから,とりあえず旧村を引き継ぐ大字や住居表示地区では新町名に見え隠れする旧村名の“かけら”を丹念に拾って根気よく郡界を復元していけば,おおよそのラインが見えてくるだろうと思います。
で,2つだった草島は今は1つになってしまっていますから何の手がかりもないのですが,そこは前後関係(…というか,ここの場合は最下流の村なので,上流側からのつながり)で,エイヤッと線を引いてしまう(草島に隣接する旧(上)新川郡の金山新と旧婦負郡の古川の境界をよく見ると,私には草島を分けるラインが見えてくる気がしますよ)。

そうして引いた線が正しいかどうかは分からない。でも,それはそこをきちんと検証できる資料に出会ったときに修正すればいいのであって,今でここで求められていると思われる精度であるなら,そんなに気にするほどの誤差ではない,
…と,ここでは開き直ってしまいましょう。

[81234] hmt さん
作品の目的からして、無視できる程度の規模であると判断すれば、無視(又は保留に)すればよいだけです。

という言葉に尽きます。

もし極めて精度の高い「正確な」境界線の位置を知りたいのなら,それはとにかく自分で出来る限り資料をかき集めてくるしかありません。

[81280] 皿 さん
わたしは全部探す暇がありません。

などと言っている「暇」さえないはずです。
でもね,
たぶんそれほどの精度の作業をしている人がこのような質問をされることはないだろうな,と私は推察しています。
[81269] 2012年 8月 7日(火)22:55:31Issie さん
外港2
[81263] 白桃 さん
外港都市

以前に話題になったことがある 飫肥 と 油津 のペアーはどうですか?
あと,高田 対 直江津 とか。
津軽藩は内陸の 弘前 が城下町なわけですが,岩木川が注ぐ十三湖の出口の 十三湊 や 鰺ヶ沢 が外港の役割をしていたようです。
外港としては,本当は 首里 と 那覇 のペアーも外せないところだと思うのですが,明治以降になると“主都”としての機能も那覇の方に移ってしまいますから,ちょっと微妙かも。

もう一つ。
これは内陸の河川交通についてのものですが,伏見 は“京都の外港”として発達した都市ですね。
[81255] 2012年 8月 4日(土)10:07:25【1】Issie さん
凍み豆腐
[81253] 白桃 さん
そういえば、高野山を訪れた際にお寺での昼食に出された高野豆腐、はっきり言って四国の田舎で食べていたものより美味しくなかったです。

今思い出してみると,ところてんを凍結乾燥させた保存食品の生産県として有名だった某寒冷地県の大学に通っていた頃,生協の学食で出てくる味噌汁に入っているのは決まって凍み豆腐,つまり高野豆腐でした。記憶にある限り,“生の豆腐”が入っていたことはなかったような。
それまで凍み豆腐を食べたことってほとんどなかったんですけどね,だから学生時代にはほぼ毎日凍み豆腐を食べていたわけです。

※朝ご飯を食べながら思い至ったこと:
…そういえば,“お寺の町”だもんね。
[81254] 2012年 8月 4日(土)10:01:07Issie さん
Re:変遷情報図書室について
[81236] グリグリ さん
上記の情報提供においても、総務省の報道資料や那覇市の計画書など、変遷情報に関わる資料が公開されています。このような資料を確保し後世に残すための図書室を作れないかと考えています。

たぶんほかにも保存されている方がいらっしゃるだろうと思うのですが,2004(平成16)年11月10日付以降の合併関係の総務省告示,および政令指定都市・中核市・特例市の指定に関する政令が掲載されている「官報」の当該ページ(pdfファイル)は当方で集めています。少なからず抜けがありますが。
すでに“平成の大合併”も後半戦に入っていて数はそう多くなくなくなってきているのですが,一応ご参考までに。

ちなみにその2004年11月10日付に掲載されているのは (平成16年)総務省告示第861~881号。
佐賀県唐津市(861),同みやき町(862),石川県白山市(863),同能美市(864),同宝達志水町(865),同中能登町(866),同能登町(867),同鳳珠郡新設(868),同志賀町(869),愛媛県松山市(870),同砥部町(871),同内子町(872・873),同鬼北町(874),同大洲市(875),同今治市(876),宮城県登米市(877),同栗原市(878),北海道函館市(879),群馬県伊勢崎市(880),同太田市(881)のそれぞれに関する告示。
「総務大臣 麻生太郎」という署名が懐かしいですね。
[81250] 2012年 8月 4日(土)02:16:07【1】Issie さん
豆腐から碧梧桐
[81242] 白桃 さん
豆腐の名産地ってあるのですかね?

神奈川県では丹沢の大山(“だいせん”ではなく“おおやま”,伊勢原市)の豆腐が有名です。いわれは いろいろある ようですが,そもそもは仏教,なかでも精進料理と関係の深い食品ですから,「お毛が無くておめでたい」というオチの落語で有名な大山・阿夫利神社の門前町であることが成立・流布の基盤となったのでしょう。

ところで,私の母方の伯母夫婦は“チャーザァ村のも少し奥”で豆腐屋をやっていました。村の“二大姓”の1つで(1つは新潟県を代表する姓)当然に屋号があるのですが,一族の間ではその屋号では呼ばずに,すでに伯母夫婦は亡くなってとっくに廃業しているにもかかわらず「豆腐屋」と呼んでいます。
その「豆腐屋」の目の前が長岡駅からのバスの終点でした。
越後交通の長岡地区の幹線の1つであるので,多くの枝線のように廃止も分社化もされることなく,今でも直営で割と多くの本数が運行されています。もちろん,以前よりも回数は減っていますが。で,ウチの田舎はこのバスの終点だったので,地方としては割と交通の便に恵まれていて,いつもこのバスを利用していました。
さて,数年に一度しか行かないので子どもの頃の私にはよくわからなかったのですが,このバスはいつも行き先表示に併せて「川西」または「川東」という表示を掲げていました。
実はこの路線,長岡駅から信越線の塚山駅を通って渋海川に沿ってさかのぼり,小国盆地に入るわけですが,ちょうど盆地の入口の 千谷沢(=チャーザァ) を過ぎると盆地の西側の集落を通るルートと東側の集落を通るルートの2つに分かれて,つまり真ん中の渋海川をはさんで「川西廻り」と「川東廻り」の2つのルートがあるので,それを区別するために掲げていたのでした。
その後,盆地北半の“下小国”のほぼ中央部(渋海川沿い,川西・川東の両集落群の間の田んぼの真ん中)に置かれた町役場周辺の道路が整備されてバスの経路も変更され,今では「川西」「川東」のルートの違いはずっと小さくなったのですが,それでもこの区別は現在も行われています。
で実は,この路線はこの地区のバス路線としては非常に古いものの1つで,1934(昭和9)年のジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTBの遥かな前身)の「汽車時間表」にも掲載されていて,そこには今と同じく「川西廻り」「川東廻り」の注記が入っています(当時は塚山駅からの路線でした)。
小国盆地の村々が「刈羽郡小国町」に統合されるのは“昭和の大合併”の時期のことで,つまり当時はまだ盆地内はいくつもの“行政村”に分かれていたのですが,その頃にすでに「川西」「川東」という呼称が行われていたのですね。もちろん,これはバスに限っての用法なのかもしれませんが。
ちなみ現在は“平成の大合併”の結果,旧郡境を越えた長岡市の一部。旧町役場はそのまま長岡市役所の支所として使われているようですよ。

さて,「かわひがし」。
私の学生時代の先輩にこの苗字の人がいましたが,一番印象深く残っているのは中学校の国語の時間に俳句の所で登場した「河東碧梧桐」。何か“引っ掛かり”の多い名前でね。
やっぱり5拍の「かわひがし」というのは,こういうところでは少しシックリ来ないものなのでしょうかね。
[81204] 2012年 7月 29日(日)18:04:50Issie さん
Re:町と字、福島県矢吹町の事例
[81198] 皿 さん
矢吹町の町名変更に関しては、どこも探しても見つかりません。

「どこ」というのは,どこを探されたのでしょう。

とりあえず,比較的容易に手に入る情報から探してみることにしましょう。
角川の地名辞典にはお説の通り,「矢吹(町)」の項に「昭和55(1980)年に大字が廃止された」旨が記載され,各大字(明治の大合併以前の旧村・新田)ごとの項でもその末尾で「大字が廃止された」と述べられています。後半の(編纂当時の)現市町村ごと,現行大字町の「現況」について述べた部分でも,矢吹町についてはあえて「廃止前の大字」単位で記載されています。これでは大字廃止後の現況がどうなっているかがわからない。
そこで,現況についてはたとえば昭文社の「県別マップルシリーズ」あたりが便利。これで福島県の矢吹町の地図を見てみると,なるほど,町内の区分の単位が周辺市町村よりも細かい。つまり,大字が廃止されて,その下にあった(小)字が表面に出てきたのでしょう。そのそれぞれが元のどの大字に属していたのかは,もちろん,この地図ではわかりません。

ところで,地名辞典シリーズとして角川と双璧をなす 平凡社 のそれ,「福島県の地名」を見てみると,「矢吹町」の項の総論末尾に同じく「(昭和)五五年国土調査の実施に伴い大字を廃し,字の合併整理を行い現在に至る」と記載してあります。角川よりほんの少しだけ詳しい。
以下,旧村すなわち旧大字ごとの説明があるのですが,そのそれぞれの冒頭に(やはり編纂時点での)現町字名との対応が記載されています。これを見ると,確かにいくつかの現町字名が複数の旧村に重複して記載されていますから,少なくない場所で現町字の境界が旧大字の境界と一致しないであろうことがわかります。やはり,1980年の大字廃止と字の再編で少なからず複数の旧大字にまたがる町字が編成されたことがあったのでしょう。
とはいえ,元の大字どうし,あるいは大字の下位にあった(小)字の境界が相互に激しく錯綜していたわけではないではないかと思います。一部の現町字が複数の旧大字にまたがっていたとしても,それぞれの位置を突き合わせればおおよその位置はわかるのではないでしょうか。
少なくとも

福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません

「全然わからない」ということはないと思います。

また,そもそも大字の廃止は1980年。わずか30数年前のことです。
この程度の「古さ」であれば,それ以前の地図を手に入れるのはそれほど難しいことではないかもしれません。いよいよ,より本格的にというのであれば,国土地理院に かつて刊行された地図のコピーを申請する という手もないではありません。これを見れば旧村の位置はすぐにわかるはずです。

ただし,旧村(大字)間の境界の位置を正確に知りたいとなると,ハードルはグンと高くなります。
もっともこれも,わずか30数年前のことですから,すでに ゼンリンの住宅地図 が刊行されているのではないかと思います。何らかの方法でそれを閲覧できれば,そのハードルを越えることも難しくはないでしょう。
ただ,どこでそれを閲覧できるか,私は情報を持ち合わせていません(国立国会図書館の地図室あたりなら可能か?)。必要であるなら,ネットで検索されることをお勧めします。
[81200] 2012年 7月 29日(日)08:28:22【1】Issie さん
Re:むじながいりさんについて
[81197] 皿 さん
どうにか、このサイトの各都道府県の市町村変遷の一覧が完成したことをむじながいりさんに伝えて、是非この資料を参考にむじながいりさん本人のサイトで全47都道府県のパラパラ地図を完成させてください。

それは無理じゃないかなあ。
よそのサイトの運営に口をさしはさむ義務も権利も誰も持っていないと思いますよ。
もしそのようなご要望があるなら,たとえ返事が返ってこなくてもご自身で直接お伝えするしかありません。
そしてサイトを運営する側からすれば,そのようなご要望にお応えしなければならない義務は全くないし,見知らぬ人からの一方的なメールに返事を返さなければならない義務もありません。もちろん,公的機関や企業が“業務”として行っていることであれば,話は別ですが。
私も自分のサイトを持っていますが,極端な話,「これで飯を食っている」わけではありません。普段の生活の合間を縫ってサイトを運営しているわけですから,傍から一方的に「早めに」とお願いされても,それに応えられるかどうかは周りの状況次第です。もちろん,情報を発信する側として,その情報の「正しさ」を保証する責任があるのは当然ですけれども。
実際に私も「早く更新を」というようなお願いをされたことがありますが,そのような時にはこう答えることにしています。
「そのうちにね。」
[81170] 2012年 7月 22日(日)23:22:52Issie さん
基準の“河”は?
[81159] グリグリ さん
そう言えば、かほく市も参考データにすべきでしょうね。

この市の発足当時に話題になっていると思いますが,これはこの市自体が“川(河)の北”にあるのではなくて,旧所属郡の「河北郡」に由来するのでしょうね。
その 河北郡 は加賀4郡の最北の郡で浅野川以北を区域としたので,“浅野川の北”という意味で理解してよいようにも思いますが,若干保留すべき点が無きにしも非ず。
「河北郡」という呼称が現れるのは中世後半の室町時代のことで,この郡はもともと「加賀郡」という呼称でした。古代を通じて「越の国」はその区分がめまぐるしく変遷し,その都度各国間の境界が移動し,最終的に823年に 越前国 のうちの北部2郡(加賀,江沼)を分けて「加賀国」が設置され,そののちまで続く5国体制(越前・加賀・能登・越中・越後)となりました。そのうちの1郡が 加賀郡 であったことが「加賀国」の国名の由来ですね。合わせて,加賀・江沼両郡がそれぞれ2分割されて,加賀・石川・能美・江沼の4郡を治める国となりました。
で,以来何百年も経ってから“おもむろに”「加賀郡」から「河北郡」に郡名が変わっていくわけですが,単純に“浅野川の北”という意味なのかどうか。むしろ,“加賀国の北”の「加北郡」から表記が変わってしまったということも考えられないか。実際に近世(場合によっては明治)までの過程で郡名の漢字表記が換わってしまうことは珍しくないことですから。

[81164] hmt さん
北海道河西郡、同河東郡

これも意外に難題。
河西郡の芽室町が十勝川左岸を合併してしまったために現在の 河西・河東 両郡の境界は北に移動してしまっているのですが,もともとは十勝川が両郡の境界でした。だから“十勝川の西/東”という意味だ,と言いたいところですが,この区間の十勝川はほぼ西から東へ流れています。素直に考えれば「河南郡/河北郡」とした方が自然です。
河東郡の場合は,より上流の 上川郡 との間で十勝川がほぼ南へ向かって流れているので“河の東”と無理やり解釈することもできそうです。一方,河西郡の方も“東”の 中川郡 との境界が川とは関係なくなっていますが,これは 中川郡幕別村 の一部が編入された結果であり,少なくとも十勝川との合流点に近い区間では 札内川 が両郡の境界であったようで,その意味では“札内川の西”という意味であるのかもしれない。
とすると,「河西郡」と「河東郡」は実はお互いに“対になる郡”ではないのかもしれません。
いや,もっと単純に,北海道に国郡が設置された1869(明治2)年の段階では十勝平野の内陸まで実測が行われてはいないでしょうから方位の測量も完全ではなく,やっぱりサックリと“十勝川の西と東”ということなのかもしれませんが。

[81151] グリグリ さん
島根県 1951(S26).4.1 那賀郡 江東村 新設 1954(S29).4.1 江津市 新設/市制

これも一瞬,“江の川の東”という意味かと思いましたが,この区域は江の川とは山一つ隔てた北の日本海岸で,川とは関係ないようです。地図を見ると現・江津市の北東端に当たり,しいて言えば「江津町の東」という意味であるのかもしれません。

ところで「“江”シリーズ」にはもう一つ,“拡大新潟市”の「江南区」があります。
この区も直接には大きな川を“北の境界”にしてはいないのですが,位置関係からするとこの“江”はやっぱり 信濃川 なんでしょうかね。
区名選定の際にどんな議論をしていたんでしたっけ。
[81158] 2012年 7月 21日(土)18:14:14Issie さん
川東の河南町
[81149][81151] グリグリ さん
なぜ「川西村」が圧倒的に多いのか?
河東、河西、河南、河北
江東、(江西)、江南、江北

こうして並んでみると結構面白いですね。
それぞれの名前には当然個々の事情があるわけで,その辺に「川西」が多い秘密があるのかもしれません。
ところで,

大阪府(南河内郡)河南町

これは“河川の南”という意味ではありませんね。「河州(河内)の南」という意味。
実際は 石川 とその支流の 千早川 の東で,その意味では「川東町」という名前もあり得たかもしれない。

その意味で,滋賀県に「江北」「江南」がないのも興味深いですね。この場合は“濁点”のついた「ごうほく,ごうなん」と読むのでしょうが。江州(ごうしゅう=近江)の北や南ではなく,実際に創作された地名は“琵琶湖の南”の「湖南市」。
東近江市が「江東(ごうとう)市」になることはなかったのでしょうかねえ。

そして実際に“川”に関連する地名の場合。
東京都の「江東区」も含めて,それが“川”なのか“江”なのか“河”なのか,その選ばれ方にも何か傾向があるのでしょうかね。
[81139] 2012年 7月 18日(水)23:17:44【2】Issie さん
揖宿郡
[81134] 88 さん
M22.4.1付け市制町村制施行時から、揖宿郡指宿村と、「指」であったと判断し、修正しました。

「指宿町」の表記の当否については言及しません。それに言及するだけの材料を持っていないので。
ここでは,その前提にある「いぶすき郡」について。

まず,「揖」という字。
常用漢字,あるいはその前身の当用漢字外の文字であり,現代の日常生活にはなじみのない漢字ですが,“軽く会釈をする”という意味の「一揖」(いちゆう)という言葉がとりあえずは身近でしょうか。ここにある通り,現代音は「ユウ」(または「シュウ」),旧仮名遣いの字音表記では「イフ」(または「シフ」)と表記されました。
もちろん,「指」(シ,ゆび)という字とは全く別の漢字であり,ここではこの「イフ」という旧表記が大事です。

平安時代初期に編纂された『和名類聚抄』(和名抄)には,当時(律令制後期の“国郡郷制”)の地名が列記され,それぞれの国郡,さらに一部の郡の郷の読み方が万葉仮名で表記されています。
その「薩摩国」(散豆萬:さづま)の項にあるのは「揖宿郡」という表記。読みは「以夫須岐」と記載されています。後代の“かな”とは違って万葉仮名は“清濁の違い”をきちんと書き分けるのですが,「夫」という字があらわすのは「濁点がついた“ぶ”」という音。したがって,「揖宿郡」の読みは現代と(ほぼ)同じ「いぶすき」であると考えられます。
この郡名に漢字を宛てるにあたって,日本語に「イフ」という音で受け入れられた「揖」という字がちょうど適当な文字として選ばれたのでしょうね。そうして「揖宿」という表記が成立した。

「イフ」という音は,元になった中国語の中古音では ip に近い音であったのでしょう。このような“母音+破裂音”という発音を漢文の音韻学では「入声:にっしょう」と呼びますが,この破裂音は現代のベトナム語や韓国語の“パッチム”がそうであるように,たとえば英語やフランス語の音節末の破裂音のようにしっかりと発音はせず,飲み込んでしまう「内破音」であったと思われます。で,この音を,はるかに単純で貧弱な音節構造(子音+母音)しか持たない“列島”の人々は,この破裂音に無理やり母音( u または i )を加える(そうすると,「イフ」とか「リキ」という日本語の漢字音になる)か,あるいはその破裂音を落として「イ」のように読むことにして日本語の表記に応用しました。
この「イ」という読み方を用いたのが播磨国の「揖保郡」。後ろに「ホ(保)」という音が続く前の部分でわざわざ「揖(イフ)」という字を選んだのは,「フ」の響きが残っていたせいかもしれませんね。
中世になって 揖保郡 は東西に分割されて「揖東郡」と「揖西郡」になります。これを「ゆうとう郡」ではなく「いっとう郡」「いっさい郡」と読むのは,「十本」を「じっぽん」(<ジフ+ホン)と読むのと同じ理屈で,武蔵国の 入間郡 が東西に分割されて「入東(にっとう)郡」「入西(にっさい)郡」となったのと同じですね。

話を戻して「揖宿郡」。
和名抄にあるように,この郡名は少なくとも平安時代前期には「揖宿」と表記されて「いぶすき」と読まれていたのでしょう。もちろん,それ以外の表記や読み方を排除するものではありませんが,少なくとも記録として残っているのはこちらの方。

指宿町一帯は温泉随所に湧出し、温泉量の豊富なことは別府附近以上とも称されているが、古来この地域は「湯豊宿(ゆはしゅく)」、即ち「湯の豊かなる宿」として世に知られていたが、今を去る約千三百年前、天智天皇薩摩大隅地方の巡幸の砌、高須(鹿屋市の海岸)より海路この地へ向われたのであるが、天皇が「人の宿程遠い」と云われたのに対し、案内の者が対岸をさして「湯豊宿」という所がもうすぐそこですと答えたところから「湯豊宿」が転化して「指宿(ゆびしゅく)」さらに「指宿(いぶすき)」と称えられるようになったことが伝えられている。

「言い伝え」は言い伝えとして,これは「事実」なんでしょうかね。
私には,「国引き」を終えた神様が「おゑ」と一息ついた(出雲国意宇郡。←これを某ネット百科事典は「終える」という意味だと説明してますが,「をへる」とは発音が違いすぎる気がします)とか,永年の征服の旅に疲れてヤマトタケルノミコトの足が「三重」に曲がってしまった(伊勢国三重郡)というのと同類の“語源説”であるように思えます。天智天皇が出てくるあたり,「出雲風土記」や「古事記」よりは新しい話であるようですけどね。

そもそも「揖宿」に対する「指宿」という表記がいつ現れてきたのか,というのが興味のあるところです。

ついでに関連して,

[81137] グリグリ さん
ポリネシア語源の説明

これについての当否についても,言及する材料を私は持ち合わせていません。
でも,正直な気持ち,私はこの手の語源説をあまり信用していません。私は門外漢ですが,比較言語学にはこのような単語どうしのつながりを検討する厳密な手順があるそうです。これらの語源説はそのような手続きに則っているのでしょうか。
ずっと以前にも表明したことですが,私は地名の語源については詮索しないことにしています。よほど明確な由来がある(それでも,たとえば有名な「岐阜」と織田信長の関係も厳密に検討すると微妙なところがあるようです),あるいは地形などのような地物と直接のつながりがあるような場合を除けば,“地名の由来”として伝えられているものの多くはかなり疑問があるものではないか,と思うけれども,それを補強することも反証することもできないからです。

ちなみに,これも以前に触れたことがあるかもしれませんが,「道志」という言葉は本来,平安時代の官制に由来するものでもありました。
平安時代中期,都の警察を担当する 検非違使(けびいし) が設置されます。これは“令外官(りょうげのかん)”,つまり律令の規定外の官職ですが,役所の官人は律令にならって長官(かみ)・次官(すけ)・三等官(じょう)・四等官(さかん)の4ランクにわけられ,検非違使ではその“さかん”を「志」(し=四)と呼びました。四等官の“さかん”は官庁において実務を担当する役人であり,検非違使ではその役柄から“武力系”と“事務系”の「志」がそれぞれ配置されました。武力系の「志」に任命されるのはもちろん武士ですが,事務系の「志」には法律の専門家として“明法道”を修めた者が任命されました。この“事務系の志”を「道志」と呼びました。
…長くなりました。
つまり,これが「道志村」ないしは「道志集落」に関係あるかどうかはわかりませんが,「道志」とは本来このような意味の単語であった,ということを申し添えておきます。
[81105] 2012年 7月 14日(土)22:32:01【2】Issie さん
にっぽん列島横断ローカルバス乗り継ぎの旅
実は1996年に公開を開始した 私のサイト の当初のメインコンテンツは相模原・津久井地区の主要駅・バス停留場の列車とバスの時刻表を提示する,というものでした。掲載したのは以下の通り(行政区画は当時のもの):

 相模原市:橋本駅,淵野辺駅,上溝
 津久井町:三ヶ木,東野,関,鳥屋
 相模湖町:相模湖駅
 藤野町:藤野駅
 清川村:宮ヶ瀬
 愛川町:半原
 上野原町:上野原駅,本町三丁目,四方津駅
 道志村:月夜野

情報収集の手段は,鉄道の時刻に関しては東京圏の全列車を掲載する時刻表が市販されていましたからそれによりましたが(最近,書店への配本数が減っているのではないかという印象を受けます),バスについてはもっぱら人力による現地取材によりました。すでにデジタルカメラは所持していましたが,それで時刻表を撮影するという発想は持たず,ひたすらバス停の時刻表を筆写していました(その後,上溝や三ヶ木のようなターミナルでは営業所窓口で印刷された時刻表を入手するようになりましたが)。
このコンテンツは2002年頃に更新を停止して,その後正式に廃止しました。
一番大きな理由は,2001年頃から神奈中グループが自身のサイトでバス時刻表の開始したことです。逆に言えば,その頃まではバス事業者によるバス時刻情報そのもののネット公開さえなされていなかったのですね。
やがて私の職場が相模原から横浜に移ってしまい,リアルタイムで情報の更新ができなくなってしまったので,この分野からは完全に手を引きました。
だからこの手の情報を個人で提供し,それを随時更新していくことの困難さは十分に理解しています。
そしてその困難さは本質的に,行政をはじめとする公的組織でも,当の事業者自体でもそれほど変わらないのではないかと,思ってもいます。

[81087] グリグリ さん
NHK総合で土曜日の夕方「路線バスの旅」という番組がありますが

[81099] みかちゅう さん
路線バスを乗り継ぐのをメインとした番組として古いのは、TBSの「そこが知りたい」でしょうか。

最近では“12チャンネル”(テレビ東京。地デジ化後は“7チャンネル”ですが…)が数ヵ月おきに「土曜スペシャル」枠で表題の番組を制作していますね。最近では4月28日放送の これ。どこまで事前リサーチしているのか,「失敗」することもしばしばあって(最近では前々回,2011年12月3日放送の この回),少なくとも“予定調和”の番組作りはしていないようです。
このシリーズの初回放送は2007年10月20日の この回,横浜駅西口から 神奈川→山梨→長野→岐阜→富山 と5県をわたって太平洋岸の横浜から日本海岸の氷見をめざすというものでした。
初日は 横浜駅西口→鶴間駅→町田駅→橋本駅→三ヶ木→月夜野→道志 という,ほぼ前述のわがサイトのホームグラウンドを通過したのですが,5年前に可能であったバス乗継はいくつかの区間で現在では不可能になっています。

[81099] みかちゅう さん
私が房総半島の乗り継ぎをやった際も、市川→千葉はきちんとたどれていません。

たとえば国道14号ルートでは(旧道も含めて),すでに私が小学生であった40年前の時点で市川・船橋市境(正確には 鬼越-西船橋間),船橋・習志野市境が切れていて,習志野市東端の幕張IC以東には全くバス路線がありませんでした(ただし,幕張駅入口バス停から海浜ニュータウン稲毛地区を結ぶ路線が暫定的に国道上を運行していましたが,当該区間はノンストップ。国鉄稲毛駅と当該埋立地を直結する道路が開通して役割を終えたので廃止されました)。私が高校生であった30年ほど前には内陸の東金街道を通過して津田沼駅と千葉駅を結ぶ路線が残っていましたが,モノレールが開通したころに分断されてなくなったようですね。
12チャンネルの番組も,特に県境や峠を越えるバスがなくて何時間も歩く苦労をしています。この手の旅は年々ハードルが高くなっているようです。
何より,鉄道よりもずっと簡単に路線の改廃ができるバス交通は,情報の変化を細かく捕捉するのは容易なことではないでしょうね。面白いネタではありますが,「足がはやい」のが何にも増した課題だろうと思います。
[81097] 2012年 7月 14日(土)10:20:11【1】Issie さん
武士の都は土の下
[81095] 白桃 さん
”かがわ”より「な」のある”かながわ”の一部である相模国で、「鎌倉」の名が見当たらないのも不思議ですが、当時は総称としてではなく、区画された街の名称を用いられることが一般的だったのでしょう。

一言でいえば,当時の鎌倉に「町」と呼べる集落など存在しなかったからです。総称されるほどの町でもなかった。
「明治13年共武政表」で鎌倉郡の項目をみると,格段に戸数が多いのは東海道沿いの 戸塚駅 (郡役所所在地)と 腰越村 でそれぞれ400戸あまり。
せまい意味での「鎌倉」にあるのは,表の中では 長谷村・坂ノ下村・雪ノ下村・大町村 がそれに当たります。山ノ内村 は,切通しを越えた現在の北鎌倉付近。いずれも100戸台で,4村を合わせても千戸には満たないですね。
文部省唱歌に「鎌倉」という歌があります。1910(明治43)年の作品ですが,その最初の2節めと3節めは以下の通り。

 極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おはします
 由比の浜辺を右に見て/雪ノ下村過ぎ行けば/八幡宮の御社

すでに行政上は町村制施行により 西鎌倉村(長谷村・坂ノ下村ほか)・東鎌倉村(雪ノ下村・大町村ほか) を統合して1894(明治27)年に「鎌倉町」となっているのですが,それ以前の状況を知ってこの歌を聞くと,まだ「村」が散在しているような印象を受けます。

鎌倉時代,もちろん鎌倉は「武士の都」で,相模だけでなく関東を代表する“都市”でした。幕府が京都に移った室町時代も,その前半は鎌倉には「鎌倉府」が置かれて引き続き“東の中心都市”としての役割を持ちました。ところがその鎌倉府の主である 鎌倉公方 と 関東管領 との対立,さらに公方の足利氏,関東管領の上杉氏それぞれの分裂と抗争によって関東は一足早く“戦国時代”に入り,戦乱の中で都市・鎌倉は衰退してしまいました。
やがて関東を統一した後北条氏が拠点を置いた 小田原 が相模,そして関東全体の中心都市となります。そしてその後北条氏が滅ぼされると徳川家康が入封した 江戸 が関東の,そして頼朝以来の「武士の都」の地位を獲得するわけです。
江戸に近い相模東部は幕府によって徹底的に支配が細分されたので,相模国全体を代表するような都市は発達せず,西部・小田原藩の城下町の小田原が首位に立つのみでした。幕府は江戸湾入口の 浦賀 に奉行所を置いて,防衛と物流管理の拠点としました。ペリー来航の地を「浦賀沖」と表現するのはこのことによります。
 ※ちなみに,徳川家康は浦賀を長崎に代わる海外貿易の拠点としようとした,という話があります。しかし,これは日本側,そしてスペイン・ポルトガル双方の事情で実現しませんでした。

[81089] hmt さん
讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。

…に浦賀が入っているのも,このことによるのでしょうね。

こうして衰退してしまった鎌倉には江戸時代,鎌倉時代以来の寺院は引き続き散在しても,“都市・鎌倉”は存在しませんでした。松尾芭蕉は平泉を「つはものどもが夢のあと」と詠みましたが,鎌倉も全く同じ状況だったのでしょう。江戸時代後期になり,物見遊山の旅が庶民に広く浸透するようになると,大山詣でや江の島詣でを組み合わせた周遊ルートに鎌倉の古寺も組み込まれ,多くの参詣客を集めるようになります。長谷観音や大仏の前の長谷村や,鶴岡八幡宮前の雪ノ下村は,そのような門前町としての機能を持つ集落ですね。
それでも前述のとおり,1889(明治22)年の町村制施行の段階でも,鎌倉は 西鎌倉村 と 東鎌倉村 のそれぞれにまとめられただけ。「全鎌倉」として統合されるのはそれから5年後のことです。
今,私たちが目にしている“都市・鎌倉”は,明治後半になって保養地として注目されたことと,軍港・横須賀の後背地として海軍の高級将官の邸宅地とされたこと,そして1889(明治22)年に横須賀線が開通して東京および横須賀と直結したこと,…によって成立・発展してできあがった“新しい都市・鎌倉”です。鎌倉町の市制施行は1939(昭和14)年。横浜,横賀,川崎,平塚に続く県内では5番目のことですが,ずいぶんと遅い印象を受けませんか。

つまり,今ある「鎌倉市」と「頼朝の鎌倉」は都市としては連続していません。その点,応仁の乱以降の戦乱で都市構造が根本的に変わっても“千年の都”であり続けた 平安京(京都) や,平城京全体は衰退して消滅しても「南都」興福寺の門前町として生き続けた 奈良 と違うところです。
「明治13年共武政表」に鎌倉が見えないのは,こうした“2つの鎌倉”の間のすき間,ここに“都市”も“町”も存在していなかった時期にちょうどあてはまるものであることによるのだろうと思います。
[81051] 2012年 7月 8日(日)19:04:09【2】Issie さん
バスターミナル
いつの間にかもう30年近く前になりますが,学生時代に当時まだ軍事政権下にあった韓国に行ったことがありました。何しろ初めての海外旅行ですから,いろいろ印象に残ったことが多かったのですが,韓国ではずいぶんと高速バス交通網が発達しているんだな,というのもその1つでした。
某団体関係の日韓学生交流行事なので集団行動でプサン→チョナン→ソウル→キョンジュ→テグ→プサンという移動のほとんどを高速バスで行いました。「鉄」としては最後のテグ→プサン間の移動だけが鉄道だったのがとても残念だったのですが(就活の関係で途中で帰った先輩はソウルからプサンへ「セマウル」に乗れると喜んでいました),バスターミナルや高速バス網の充実ぶりに驚いたものです。30年前の,特に東京周辺と比較して。
たとえば,高速バスのターミナルは基本,高速道路のIC近くにありました。だからたとえば,キョンジュでは郊外にある歴史遺跡をまわったのですが,結局キョンジュの中心市街は見ずじまいでした。

[81049] グリグリ さん
駅に直結する大規模なバスターミナルってどこかな。

形としては 高山駅 なんかが当たりそうですが,地方都市相応の大きさですね。あるいは,伊予鉄の 松山市駅。
一般に大規模なバスターミナルが整備されているのは地方中核都市が多く,それが駅のそばにあるのはあまり多くないように思います。恐らくは,
・面的な広がりを持った地域圏内の交通の大部分を民営の長距離路線バスが担ってきたこと
・もともと鉄道は建設当時の既存市街地を避けて敷設されるものであり,必然的に鉄道(特に国鉄・JR)の駅は(その当時の)町外れに設置されること
・既存の道路を利用するバスは市街中心部に乗り入れることが容易であり(これが鉄道に対する優位性でもある),都心部にターミナルを求めたこと
・バス事業者間に,しばしば行政も関わってターミナルが整備される際に,町外れの鉄道駅ではなく都心部に立地を求めることが多かったこと
…などが理由にあるのではないかと思っています。
広島のバスセンターなどが,その典型的な例ではないか,と。
高速バスは結局,既存のバスターミナルに乗り入れてくることが多いですね。長野のように,バスターミナルがバスターミナルとして利用されず,ただの一般停留所に過ぎない例もありますが(長野バスターミナルは,“バスターミナルの失敗例”ではないかと思っています)。

東京の場合,まずは都市の規模が巨大すぎて都心をターミナルとした“長距離郊外路線”が発達する条件がなかったこと(むしろ,戦後10年ほどの間に発達した都心発着の長距離路線が,その後の渋滞の深刻化で衰退してしまった)から,1ヵ所に集中したバスターミナルが整備される条件がなく,各方面に高速道路が整備されて高速バスが運行されるようになっても,それぞれの事業者が個別にターミナルを設けて現在のように分散した状態のまま,ということになっているのでしょう。その中では,東京駅八重洲口と新宿駅西口(ヨドバシカメラ前)が比較的に路線の集中するターミナルになっているわけですね。

京成系、関鉄系、JR系が中心ですが、都市交通の重要な一翼を担いつつあるんじゃないかなぁと、期待を込めて考えています。

高速バスそのものは東京圏内では東名や中央道方面の路線の開設が早かったわけですが,どれも“都市間交通”の性格が強く,国鉄(JR)の補完的な立場をなかなか脱しきれなかったのに対して,通勤輸送も含めた“都市内交通”としては東関道や常磐道沿いの北東方面が立ち上がりが早かったですね。まずは足元の高速道路(東関道と常磐道)が整備されたことと,それに加えて“首都機能の一部”を分散させた 筑波研究学園都市 と 鹿島臨海工業地域 の存在が大きいのではないかと思います。必然的に東京都心部との頻繁な往復を生み出すという点で。そしてもう1つは,これに対抗する鉄道交通があまりに弱すぎたこと(だから,TXの開通が大きな脅威だったわけですが)。
筑波や鹿島と結ぶ“幹”が太くなれば,そこから“枝”を広げるハードルは比較的に低くなる,という事情もあるのかな,と思います。
ひるがえって,たとえば南西方面にあたる神奈川県内の場合,東急や相鉄,神奈中がその担い手になるのでしょうが,まだ様子見でしょうかね。田園都市線や小田急の混雑具合を見れば十分に需要はあると思うのですが,問題は「東名+首都高3号線」のみというルートの“細さ”かもしれません。
それは,はるか西の山梨県内にまで及ぶ「中央道+首都高4号線」もたぶん同じ。

東京駅に首都高と直結するバスターミナルを作るなんて考えないですかねぇ。

とりあえずは今,新宿駅南口の甲州街道の反対側で整備中の新南口がそれに近いですかね。ここでも首都高には直結できませんが。
[81044] 2012年 7月 7日(土)21:22:56【1】Issie さん
Re:船橋橋
[81034] 白桃 さん
見ていない方は全くわからない一番勝負

見てないので全くわかりません。
でもきっと人名なのだろうな,というのは何となく。
「神戸」は普通,人名では特に「かんべ」と読んで,「こうべ」と読むのは極めてイレギュラーですから(でも,実際に「こうべさん」と読む人に会ったこともありますよ)。
何も知識がないと,小野田さん…って,やっぱり「少尉」が後ろに続いちゃいます。

[81041] 白桃 さん
船橋橋

たぶん地デジになって地域外にはますます視にくくなったローカルUHF局ですが,tvk(テレビ神奈川)で人気があるらしい「saku saku」という番組があります。
たまたま「ようつべ」をさまよっていて遭遇したのですが,この番組に「みんなでうた」というコーナーがあって(時期によってタイトルが少しずつ変わる),その人気シリーズにそれぞれの土地を歌った「○○のうた」というのがあります。当然,神奈川ローカルの番組ですから,まずは(津久井郡編入以前の)県内全市町村+横浜・川崎両市の全区(相模原市は区制実施前)のうたがそろっているわけですが,さらに県外の歌もいくつか作られています。その一つが「船橋のうた」で,そこにしっかり歌われています。なぜに「船橋橋」という橋があるのか,という主旨で。
いや,“船橋の歌”といえば,関東ローカルですがビンちゃん(楠トシエさん)の歌う船橋ヘルスセンターの歌(長生きチョンパ)以上のものはないんですけどね。

[81037] グリグリ さん
通勤高速バス

ああ,京葉道路経由ではないんだ。
花輪とか,首都高7号線で渋滞していそうだから当然ですが,
何分,私は東関道は宮野木から,という感覚でいるもので…。
[81012] 2012年 6月 30日(土)11:18:42Issie さん
Re:スカイツリー関心度
ずっと以前に話題になった「国一/一国」ネタでも触れましたが,私の職場は「二国」(第二京浜=国道1号)を見下ろす位置にあります。
そこでも触れられたかどうか,その「二国」に架かる橋に「響橋」(横浜市鶴見区東寺尾)という橋があります。第二京浜国道が整備されたのと同じ頃に“1940年の東京オリンピック”の準備が進められていて,マラソンコースに予定されていたのが第二京浜でした(ご存知の通り,1964年のオリンピックでは甲州街道がコースとなったわけですが)。その折り返し地点に予定されていたのが鶴見区の東寺尾付近で,響橋はそのランドマークとして優美なアーチ橋とされた,といわれています。
前置きが長くなりましたが,毎日の通勤で利用するバスで渡るその響橋からスカイツリーが見えるそうなのです。いや,そもそもウチの職場からも見えるらしいのですが,まだ確認はしていません。
以前に武蔵小杉にあるNECの超高層オフィス(玉川ルネッサンスタワー)を見学したときにその屋上に上げていただいたことがるのですが,そこからは建設中のスカイツリーがよく見えました。
地上156mというのは文字通り,スカイツリーの足元にも及ばない高さですが,それでもこの高さからの眺望はとても印象的でした。地上における地理感覚がすべてリセットされてしまうという点で。高い所から見下ろすと,地上での距離感が全く利かなくなるのですね。地上の感覚で頭の中に描いている地図とズレが生じて混乱する。…そんな感覚を覚えました。
スカイツリーの高さであれば,その混乱はもっと大きなものになるでしょうか。

で,実は昨日,午後の仕事をサボって(ちゃんと有休とりましたよ),ふと思い立って足元のソラマチまでは行ってきました。京急に乗れば押上まで乗り換えなしで行けますからね。実際は京急内で乗り換えましたが。時間の関係もあってタワーに昇るまではしなかったのですが。
それにしてもソラマチ,人が一杯です。平日の午後なのにね。公務員には期末手当支給日の金曜日ですが,まだお仕事中だろうし。

そのスカイツリーのロケーションですが,東京の西側から見るとやはり,

・感覚的に遠い

というのが正直なところです。“こちら側”からだと「やまて線の向こう側」は遠いのですね。まして“隅田川の向こう”なら,なおさら。
 …※ずっと以前に開かれた「御徒町の会合」も,まあ,そういうことです。
習志野や市川に住んでいた頃はこの辺りは普通に行動するエリアだったし,特に市川からなら少しその気になれば自転車で楽に行ける所ですから何も思わないのですが,その頃は逆に新宿や渋谷が遠く感じました(池袋には行ったこともありません)。今はちょうど,その裏返しなわけで。
最近は“秋葉原より東”に行くことがほとんどありません(厳密な経緯度ではなくて,メンタルマップ上の東,ね)。

同じようにそういう感覚を持っている人も少なからずいるんじゃないだろうか,と思っています。
[80984] 2012年 6月 20日(水)22:37:32Issie さん
市川市
[80982] 白桃 さん
本八幡あたりの人も、TDRに遊びに行くの、面倒ではないですか?

私は2度ほど市川市民だったことがあって,通っていた高校も本八幡にあったのですが(今は移転しちゃいました),思い出せば 浦安“町” から通ってくる同級生,確かに面倒くさそうでした。東西線で西船橋へ出て,そこから本八幡へ…。ちょっと面倒ですね。
その頃は京葉線はないし,「ねずみの国」などというものは影も形もありませんでした。

職安のある本八幡と年金事務所のある市川、どちらが市の顔???。

電話局と郵便局は両方の中間にあったりしてね,市川と(本)八幡の関係はかなり微妙です。

まずもって、「しもうさなかやま」駅って、てっきり市川市かと思いきや、船橋市なんです。

これは少し前に「分割地名・中山編」で話題になっていましたね。

ちなみに浦安の“旧市街”からなら,本八幡駅南口までバスが走っています。
(旧)江戸川に沿った昔むかしの行徳の街道筋を通る伝統ある路線で,時間はかかるけどそれなりに車窓が楽しいバス旅行愛好者にはお奨めの路線です。
終点の本八幡駅(実は駅から離れています)から市役所まで結構遠いですけどね。
[80981] 2012年 6月 19日(火)23:43:34Issie さん
房総半島横断ならず
[80977] JOUTOU さん
白岡町や大網(白里)町が県庁所在地と隣接していたとは・・・!?。

[80980] N-H さん
ちなみにそのころから大網白里町は千葉市と隣接してましたね。

そうですね。
「違和感」とまでは言いませんが,私はむしろ JOUTOU さんの“違和感”に「おやっ?」と思いました。
私が小学校4年で千葉県の地理を教わった時,すでに千葉市と大網白里町は隣接していましたから。その数年前に間にはさまっていた土気町が千葉市に編入されたせいですね。
ちなみに,この時点では君津市も富津市も成立済み。東京湾の南東岸に沿って千葉市,市原市,君津市,富津市と,(当時としては)サイズの大きい市が並んでいて,県内の市町村区画図がややつまらなくなっていました。もう少し上のお兄さん・お姉さんたちは君津郡にたくさんの町村のある地図で教わったんでしょうけどね。

で,その頃から期待していたのが,千葉市が残り大網白里町と一緒になれば房総半島のくびれたところで半島横断が完成する,つまり兵庫県のミニチュア版ができあがるのにな,ということでした。
でもすでに合併を繰り返して(その当時としては)十分に膨れ上がった千葉市はそれ以上の合併を行わず,そのまま政令指定都市になってしまいました。その後,四街道市との合併話も出たけれど,それもポシャってしまったのは,ここの皆さんにはおなじみの話ですね。
そしてとうとう大網白里町は単独で市になる道を選んだわけで,「半島横断の夢」はひとまず潰えたことになります。
もっとも将来にわたって大網白里“市”が千葉市と合併しないと決まっているわけではないのですが。
[80925] 2012年 6月 2日(土)12:21:28Issie さん
コザ in 紀州
そういえば,沖縄に続き,紀州の「コザ」も自治体名としては消滅していたのでしたね。

[80922] 白桃 さん
古座DIDの怪

DIDのことはよくわからないので,スルー。

余談ですが、古座中学校は隣の古座川町にあり、この辺りなかなかややこしいです

古座中学校 は,1951年の開校当初は当時の(旧)古座町と高池町による“組合立”の中学校として設置されたようですね。1956年にそれぞれの町が合併した結果,(新)古座町と古座川町の組合に引き継がれました。なので,両町の境界付近の古座川町(旧高池町)側に「古座」中学校があるのでしょうね。
2005年に古座町が串本町と合併して,この中学校にかかわる“組合”は解散して古座川町単独の中学校になりましたが,学区はそのまま串本町(旧古座町)の古座地区に及んでいて,ここの子どもたちは従来通り町境を越えて“隣りの町”の中学校に通っているようです。
旧西向町は,1947年に単独で(?)「町立西向中学校」を設置しており,これはそのまま 古座町立 → 串本町立 と移行しているようです。
なお,新制中学校の開設は 西向中学校 がそうであるように1947年ですから,「古座中学校」の場合も1951年の“組合立”による設置以前に,(旧)古座町単独の時期があったと思われます。恐らくは,「古座国民学校(→小学校)」の「高等科」がそのまま新制中学校に移行する形で。

地図の通り古座川を挟んで西側が西向、東側が古座ですが、古座駅や旧古座町役場(現:串本町役場古座分庁舎)は旧)古座ではなく、西向にあったのですね。

紀勢“中”線の古座駅が開設されたのは,当該区間が開通した1936年。この路線の規格(乗ってみると感じることですが,紀勢“本線”を称していてもこの路線の規格はとても低いです)と,それに見合った当時の建設技術では古座川を河口に近い所で渡って古座集落を経由するよりは,今現在のルートを採る方が合理的であるように思われます。なので,駅は“川向う”の(旧)古座町や高池町も照準に入れた西向町の現在地に設置されたのでしょう。

参考までに1920年と1940年の西向町,(旧)古座町,高池町の国勢調査データを比較すると,

1920年1940年
世帯数人口世帯数人口
西向町6713,3857623,682
(旧)古座町7133,2437733,368
高池町5062,3214902,216

少し河口からさかのぼる 高池 がほかの2町からやや引き離されていますが,1920年の段階で既に「町」となっていた(1900年に町制施行)ことを考えると,「双子」というより「三つ子」と考えてもいいかもしれません。
1951年の“昭和の大合併”で 西向町+(旧)古座町+ほか1村 で(新)古座町,高池町+ほか4村 で古座川町となったわけですが,こうなるまでには,ついこないだの“平成の大合併”がそうであったように,あるいはそれ以上の紆余曲折があったと思われます。「古座」という地名をめぐる綱引きも。

恐らくは,「古座」という地名は本来,古座川流域の広い範囲を示す地名であって,その川の河口に“ピンポイントな地名”としての「古座集落」ができたのではないか。あるいは,その逆に河口に立地した古座集落からさかのぼって川全体が「古座川」と呼ばれるようになった,という2方向のシナリオが考えられますが,いずれにしても「古座」の地名が「古座集落」あるいは「(旧)古座町」の独占物でなかったことは確かであろうと思われます。
その表れが,「西向町」に設置された「古座駅」ということであろう,と。
または,(旧)古座町を取り込むことができなかった 高池町ほか4村 が「古座川町」という名前を選んだということにも表れていそうです。
でもモータリゼーション以前の時代,鉄道駅の存在は大きいですね。合併前の旧3町村のうちで一番西の西向に役場が置かれたのも駅のもたらす町勢の差が反映しているようにも思うのですが,実際はどうなのか。
[80914] 2012年 5月 30日(水)21:26:39Issie さん
西関東
[80911] いさ さん
西関東というのも何か聞き慣れない言葉です。

確かに日常会話ではあまり聞かれない呼称ですが,古代史などではよく「西関東」という地域呼称が行われているようです。
東山道(の元になった街道)が碓氷山を下りて関東平野に出てきた辺りの「(上・下)毛野」から「埼玉」にまたがる地域,境界である利根川を中心に現在の群馬・埼玉・栃木3県にまたがる辺りは古墳が多く集中し,関東平野の中でも早くから開発が進んだ地域の1つと考えられていて,この地域を指す呼称として「西関東」というものが行われています。

もう1つ,方言研究の分野でも「西関東方言」という用語があって,この場合はもう少し広くて,関東地方のうち栃木・茨城両県からさらに福島県へと続く地域の“アクセントの無い”方言と東京都心および近郊の「共通語」(標準語)に非常に近い方言とを除いて指すもので,したがって基本的にはアクセントがある千葉県の大部分の(地元民の)方言もこちらに分類されるようです。

今回は山梨と神奈川で西関東ですが

これに千葉県を加えると,衆議院の比例代表選挙ブロックの「南関東」になりますね。
このブロックから千葉県を除けば正しくは「南西関東」ないし「西南関東」となるのでしょうが,ここは大雑把に「西関東」。

結局のところ,たとえば「東関東」や「北関東」のように地域ブロックとして一応の共通認識らしきものがある(埼玉県が北関東に含まれるか否かという〔問題ではなく〕話題がありますが)のに対して,「西関東」にはそのような共通認識が無いから却って必要に応じて自由に使えるのでしょうね。
こうして多くの人が色々な場面で使っていくようになれば,やがて「西関東」にもある種の共通認識ができあがることだろうと思います。
[80878] 2012年 5月 20日(日)12:23:31【2】Issie さん
京葉道路
「ジャンクション」への反応ではありません。

[80875] グリグリ さん
MasAkaさんが例示されている京葉道と館山道の接合点も機能的にはジャンクションであるとするなら

こちらに反応します。
そう。最近,「京葉道」という表現をよく聞くようになりました。
けれども,あの道の名前は「京葉道路」だったと理解しています。「高速自動車国道」ではない“有料の自動車専用道路”。そういう位置づけでの「○○道路」という呼称である,と。
この辺りを通過する「高速自動車国道」は,私が住んでいた頃にはまだ“宮野木ジャンクション”から先しかなかった 東関東自動車道(東関道) ですね。
本質的には“国道14号のバイパス”に過ぎない京葉道路は,私には記憶がないのですが,現在は有料自動車専用道路となっている区間でも船橋以西の地平部分では一般道路との交差も(江戸川区の一般道路区間同様に)あったかのように当時の地図には描かれています。それも含めて,特に幕張以西では明らかに規格の低い道路ですが,それでもこれに接続する「東関道」や「館山道」など本物の高速自動車国道からの“類推”で「京葉道」という呼称が行われるようになってきたのでしょうかね。
習志野市内の埋立地の公団住宅の3階に住んでいた子どもの頃,家の窓から毎日“京葉道路”とその向こうの海を眺めていた自分としては,「京葉道」という呼称には何となく居心地の悪さを感じます。

ところで,

#junctionの語源にはjointが関係しているのかな?

御明察。どちらもラテン語の iungo に由来する単語です。
名詞の joint は 動詞の join の分詞と関係があり,英語の動詞 join は,ラテン語の動詞 iungo(←これは1人称単数形) が古フランス語を介してノルマン・コンクェスト以降,イングランド語(つまり英語)に入ったものです。junction は,iungo のラテン語段階での分詞 iunctum に由来します。
ちなみに,英語の文法用語 conjunction は「接続詞」という意味ですね。

※…あっ,忘れていました。
ラテン語・英語辞典によると iungo に対応する英語は join です。
[80559] 2012年 4月 28日(土)10:12:40Issie さん
お大師様の御利益
[80558] 白桃 さん
武蔵○○が4連続する川崎市の人口は、一時の勢いが無くなったとはいえ順調に増加しております。

数字は見ていないのですが,職業柄,1月・2月の「イベント」(来年から制度が変わって2月だけ)と3月末の新年度開始準備で“あるデータ”を入力するたびに,特に川崎区の大師線沿線の工業地区への人口流入を実感しています。京浜工業地帯衰退の裏返しの現象ですね。
うちの“営業所”の商圏は主に鶴見・神奈川・港北・川崎・幸の2市5区なのですが,同じ住所で最後の3ケタ(時には4ケタ)の番号だけが違う“お客様”が増えていて,その中には昔ここに工場があったよねとか,ここって工場地区の真っただ中じゃん,と思うことがよくあります。
一時,川崎市は勢いを失っていた記憶があるのですが,この勢い,いつまで続くものか。
人口減少の御時勢,「順調な増加」はほかの地域の「順調な過疎」の裏返しでもあります。
[80555] 2012年 4月 23日(月)20:00:15Issie さん
ハチの「武蔵」は死んだのさ
[80553] 白桃 さん
そこからもう少し行くと同名の市が愛知県にあり

ここも読み方が違いますね(たぶん)。
[80545] 2012年 4月 21日(土)13:12:24【2】Issie さん
電子地図の図法
[80540] futsunoおじ さん
「ウォッちず」で見ると北の「宗谷岬」は南の「石垣島」より長さで30%大きく表示されており、計算上もこれに近い値になります。

[80544] グリグリ さん
「スケール・ものさし」は、地図を垂直方向にスクロールすると連動して変化していますね。今まで気付いていませんでした。

なるほど,これは私も気づいていませんでした。
参考までに,今では“旧版”になってしまった「2万5千分1地図情報」を見てみたら,こちらも「100m」スケールの長さが違いますね。つまり,これは“紙の2万5千図”をそのままスキャンして電子化したものではないということです。紙の地形図なら緯度によって100mの長さが違うはずがありません(ここが違ったら,紙地図のお約束の大前提が崩れ去ってしまいます)。
少し意外に感じましたが,考えてみれば当然で,今は地図の作成作業はかなり初めの方から電子化されているでしょうから,電子データ化された地理情報を紙地図の投影法に合わせて出力したものを製版・印刷しているのでしょう。

で,つまり,「ウォッちず」(電子国土基本図)の投影法(図法)は,紙の地形図のそれ(ユニバーサル横メルカトル図法)とは違うということです。
ご承知のように,紙の地形図の場合,どの地図も南北方向の緯度幅,東西方向の経度幅はすべて同じです(例外的に,はみ出るものもある)。だから,緯度が高い「宗谷岬」と緯度が低い「石垣島」とでは地図の“正味部分”の面積が違います。欄外の凡例とともに掲載されている“図の寸法”も,よく見れば上辺と下辺では長さが違う。つまり,地形図の図郭は“長方形”ではなくて“台形”。だから狭い範囲ならともかく,広い範囲にわたって地形図を隙間なく“同一平面”上に敷き詰めることはできないはずです(たぶん)。
それを電子画面上ではやっちゃっているのだから,同じ国土地理院の地図でも電子地図の図法は紙の地図のそれとは違うのでしょうね。

地図の上に緯線・経線が引かれていれば,それを頼りにどのような図法が採用されているかがある程度推測できるのですが,残念ながらそれが記載されていません。でも,恐らくはみなさんがおっしゃる通り,正軸の円筒図法(円筒の中心軸と地球の自転軸の方向が同じ)で投影されているのでしょう。たぶん,地図上すべての位置で緯線と経線が直交している。
けれどもそうすると,長方形に切り取った地図画面の上辺と下辺は緯線,左辺と右辺は経線となり,左辺と右辺の間の経度差は上辺でも下辺でも同じとなる。
しかし,実際は紙の地形図がそうであるように,上辺と下辺の長さ(距離)は違います。それが画面上では同じ長さで表示されているのだから,ここに既に「歪み」が現れています。逆に紙の地図の場合は,上辺・下辺の長さは実際と同じかもしれないけれど,そもそも図郭が“台形”であるということが,「歪み」そのものです。実際の地球上では緯線と経線は必ず直交しますから,図郭は“長方形”でなければなりません。でも,それを実現するのは不可能です。
つまりは,曲面上の情報を平面上に写そうとすれば必ずどこかに歪みが生じるわけで,わずか1枚の地形図や何平方ピクセル(?)かの電子画面上でもそれが既に始まっているのです。

とりあえず,北緯20度から45度の中緯度帯に位置する日本の地図であるなら,まだ我慢できる歪みかもしれません。けれども,高緯度地帯ではどうなんでしょうね。
最初の索引図として世界全体の小縮尺図を使うのならメルカトル図法のような円筒図法でも,とりあえずは構わない。
けれども,大縮尺で各地域の詳細な地図を描くのに,あるいはそれ以上に中程度の縮尺である程度広い範囲の情報を,あくまでも赤道上“だけ”が「正しい」正軸の接円筒図法を高緯度地方に適用し続けるのは,やはり不適切です。Google マップで北極“点”や南極“点”は記載できるのでしょうか。

[80540] futsunoおじ さん
ソフトウエア上で表示する緯度に連動した縮尺補正機能があってもいいと思います。

だから本当は,縮尺の補正だけでなく,緯度帯や縮尺に応じて「適切な」投影法が選ばれる(あるいは“選べる”)システムがあってもいいかなと思います。実際のところ,コンピュータの中では緯度・経度の座標データを一定の計算に従って変換されたディスプレイ画面上の座標にプロットするという作業をしているのでしょうから。

…既に,そういうシステムになっているのかもしれませんが。
[80538] 2012年 4月 19日(木)00:17:12【4】Issie さん
ややこしい図法の話
[80536] グリグリ さん
スケール表示がない理由としては、ネット地図は正距図法ではないからなんですかね。

「縮小された“ものさし”そのもの」という意味での“スケール”は,電子国土基本図でも,たとえば Googleマップ でも画面上に表示はされていますね。けれども,「縮小率」という意味での“スケール”は表示されていません。
これは,使う側の環境によってディスプレー画面やプリンタの解像度が違えば“同じ範囲”を表示したり印刷したりしてもその大きさが違うわけで,「結果物の縮小率=縮尺」を指定することができないせいではないか,と考えているのですが,…違うかな?

以下,たぶん地図投影法に関しては専門の方もいるのではないかと思うし,たとえば「正角割円錐図法」なんて言葉が出てくると私も正直ついていけないのですが,とりあえず高校の「地理」の時間で扱うような範囲内で…。

まず,メルカトル図法は「正距図法」ではありません。
たとえば,メルカトル図法で描かれた長方形の古典的な世界地図を考えましょう。
この地図にも普通,“ものさし”“縮小率”双方の意味での「縮尺」が両方とも記載されています。けれども通常,そのものさしと縮小率の数字が表しているのは“赤道上”のそれです。つまり,長さ4万キロの赤道をどれだけ縮小しているかを表しています。
しかし,地球上にひかれている緯線のうちで長さが4万キロもあるのは赤道=緯度0度線だけです。たとえば,北緯60度線の長さは2万キロしかありません(cos60度 は 0.5 ですね)。けれども地図上の緯線の長さは赤道と同じです。ということは,実際の緯線の長さの2倍に引き伸ばされているわけで,距離が「正しく」表されていません。通常,普通のメルカトル図法の地図で距離が正しく表されているのは赤道上の任意の2地点間だけで,ほかの2地点間の距離を正しく表すことができず,したがって,メルカトル図法は「正距図法」ではないのです。
ではメルカトル図法で何が「正しい」かというと,「角度が正しい“正角図法”」に分類されます。この「角度が正しい」というのをすぐに頭に入るように説明するのはとても難しいので省略して結果だけ言えば,「地球上に同じ大きさの小さな円がたくさんあると仮定した場合、正角図法で投影された地図上でも全ての円がほぼ真円で表される」という地図です。つまり,狭い範囲であれば「形が正しく」描かれる,という性質を持っています。
ところが,普通のメルカトル図法では「赤道上の距離が正しく表される」ように描かれていますから,たとえば日本のように赤道から緯度にして30度も40度も離れている場所では距離や面積の歪(ひず)みが大きくなって正しく表示することができません(上の説明で言えば,“真円”が赤道付近よりも大きくなっている)。
そこで発想を変えて,地球を“横”にして赤道ではなく“特定の経線”上の距離が正しく表されるように描くようにした地図の作り方を「横メルカトル図法」と言います。基準の経線から離れて歪みが大きくなりそうになったら,別の経線を基準にすればいい。そうすれば,全体として歪みの小さい地図を広い範囲にわたって作ることができます。
繰り返しますが,メルカトル図法も横メルカトル図法も「正距図法」ではありませんから,距離も,したがって面積も正しく表すことができません(つまり,「正積図法」でもない)。でも,5万分の1,あるいは20万分の1くらいの縮尺で実際に刊行されている大きさの紙に収められる範囲内なら気になるほどの誤差は生じないので,「形が正しく」表示される(横)メルカトル図法がこの縮尺の地図には採用されています。

ところで,縮尺2万5千分の1でも5万分の1でも「地形図」の四辺のラインは緯線および経線です。作図の便宜上,この線は直線で引かれているようです。この5万分の1地形図を16枚貼り合せて4分の1に縮めたものが「20万分の1地勢図」ですが,この地図では元になった16枚の地形図の境目に黒い細実線が引かれています。そこで地図上の“東西方向”に引かれている線にものさしを当ててみてください。実はこの線が“直線”ではなく,少し湾曲した大きい半径の円周に近い線であることが分かります。
この大きさ(縮尺)になると,(横)メルカトル図法での歪みがそろそろ気になりだすのですね。つまり,メルカトル図法では無理が生じ始める。ついでに言えば,国土地理院が刊行している50万分の1“以下”の縮尺の地図は,使用している紙のサイズ自体がずっと大きいから,なおさら歪みの大きさが気になる。そこで,これらの縮尺の“小さい”地図はメルカトル図法よりも歪みが小さく広い範囲を表すことができる「正角円錐図法」の1つである「正角割円錐図法」が採用されています。
「円錐図法」というのは,“丸い地球”上の情報を紙に写し取るに当たって,その紙を円錐状に丸めてそれを地球にかぶせ,たとえば地球の中心に光源を置いてそれで紙に映った影をなぞって写し取った,と仮定して地図を描く方法です。
ちなみに,メルカトル図法は「円筒図法」。紙を筒状に丸めてそれで地球に巻き,紙に映る影をなぞって地図を描いています。古典的なメルカトル図法の世界地図は,この紙を赤道で地球に接するようにして巻いたもので,だから赤道上の距離(だけ)が正しい。横メルカトル図法は,それが赤道ではなくて“特定の経線”で,というわけです。
円筒図法であるメルカトル図法では,紙が地球表面に接している赤道または特定経線から離れるにしたがってその“紙面”が地球表面から急速に離れていきますから,歪みがだんだん大きくなります。
一方,地球(半面)にすっぽりとかぶさる“円錐”なら,円筒よりは広い範囲で地球表面に密着させることができます。つまり,それだけ歪みが小さい。北極または南極を上にして円錐をかぶせた場合,特に中緯度で円錐面が地球表面に近接するので,中緯度地方について歪みを小さく写し取ることができる。だから日本のような中緯度地域を広く描く場合に,この「円錐図法」が好んで用いられます(たとえば,新聞やテレビの天気図でも使われています)。そのうち,「角度が正しく」表されるように調整したものが「正角円錐図法」です。
この時,円錐を地球表面に密着させて特定の緯線(または地球を周回する線)で接するようにしたものを「接円錐図法」,円錐を地球表面に食い込ませて2本の線で地球表面と交わるようにしたものを「割円錐図法」と呼びます。円錐面と地球表面が近接する範囲が広い「割円錐図法」の方が歪みの小さくなる範囲が広いので,こちらを国土地理院が採用しているのでしょうね。円錐図法について詳しくは こちら をどうぞ。地図投影法一般については こちら地図投影法 のページで詳しく説明されています。

ところでこれは“紙の地図”の話。
ディスプレイ上の電子地図はまた少し違った投影のしかたをしているような気もするのですが,どうなんでしょうね。
[80533] 2012年 4月 17日(火)21:56:48Issie さん
Re:使いづらいよデジタル地図
[80531] グリグリ さん
昨日の東京新聞朝刊のこちら情報部の特集記事のタイトルです。国土地理院の電子国土の国土基本図が使いづらい点を取材したものです。

この東京新聞の記事は“周回遅れ”でしょうかね。
3月28日の朝日新聞(東京本社版夕刊)には,この「使いづらい」という声を受けて問題の送電線や記念碑などの掲載を“復活”させることにした,という記事が載っていました。こちらのブログ では当該記事とそれに関するイギリスやドイツの例について述べてられています。
批判の声の中には「戦時改描」なんて物騒な言葉も出てきているようです。
現に見えているものを載せるのは当然だというのは至極もっともで私も同意見なのですが,東電が協力しない理由が「テロ対策」というのが御時勢ではあるのでしょうね。前シリーズから「ブラタモリ」もモザイク画面が増えました。現地を知っている人にはバレバレのような気もしないでもありませんが。
この話,「軍事情報としての地図」という地図の本質の1つにかかわる話題なのかもしれません。

私はほとんど利用しないのでよくわからないのですが

私もほとんど利用していません。「電子国土」に限らず,googleマップのような民間のものも含めて。
理由はやはり,「使いづらい」からです。
紙の地図とは違って“シームレス”であるというのは,何より電子地図の優れたところです。
けれども如何せん,ディスプレイ画面は狭い。紙地図は多くの場合,折りたたむか丸めなければ持ち歩けない大きさで,にもかかわらず“紙の大きさ”という描写範囲の限界があるのですが,その範囲内において“一覧性”という点で狭いディスプレイ画面に勝ります。
縮尺を小さくすれば狭い画面でも広い範囲が描写できるわけですが,その分,情報が減ってしまいます。
そして,この縮尺が自由に変更できるという点。これも紙地図にはない電子地図の極めて優れた特長ですが,使う場面によってはむしろ致命的な欠陥になる。
つまり,たとえば「4cmで1km」という“縮尺の概念”が通用しないわけで,地図の上で距離や面積を把握することが非常に困難です。
実際の使用場面において,私は「地図は消耗品」と割り切って使用しています。必要のある都度,同じ地図を購入してたくさんの線を描き込み,色を塗りたくり,ハサミで切り刻む。
このような使い方も電子地図では難しそうです。いや,そういう使い方のできるソフトがないわけではないのかもしれませんが,私には紙地図の方が使いやすい。

というわけで,何か「電子国土」じゃなくて電子地図そのものに対する愚痴になってしまいました。
当たり前のことですが,紙地図にも電子地図にもそれぞれ優れた点とそうでない点があって,それが向いている場面と不向きな場面とがあるわけで,要は必要に応じて使い分ければ良い話です。特にほかの電子情報と関連付けて利用する,つまりGISの基盤として電子地図は不可欠なものです。が,とりあえず私の使い方では紙地図の方が使いやすいことが多い…という,それだけのことです。
[80518] 2012年 4月 10日(火)20:15:25【3】Issie さん
市会/市議会
[80515] グリグリ さん
五大都市では今でも市会と呼んでいるんですね。

以前,県議会の事務局に勤めていたことがあるのですが,そこは当然に他都道府県議会や市町村議会事務局とのお付き合いがあって,その際に「五大市」の議会は「市会」と呼ぶ習慣だよ,と教わりました。
政令指定都市が20もある今,こんな所にまだ生きているんですね,「五大市」という言葉。

落書き帳でも過去の議論になっているかと思いきや

[80429][80430] で少し触れようかと思いましたが煩雑になるのでやめました。でも,あの文章の中では意識して使い分けています。「市会/市議会」ではなく,「町会/町議会」という言葉ですが。

ごく単純に言えば,現行憲法・地方自治法下の呼称が「市議会」,明治憲法・(法律としての)市制下の呼称が「市会」ということになります。
これはそのまま,「町議会/町会」,「村議会/村会」,「府議会/府会」,「県議会/県会」にも当てはまります。ただし,「府会」「県会」はさらに古く,1878(明治11)年の“地方三新法”の1つ,「府県会規則」,「町会」「村会」は1880(明治13)年の「区町村会法」以来の呼称です。「市会」は,「市」という地方区分自体が1888(明治21)年の「市制」で“初めて”現れるわけですから,それ以降(施行はもちろん,1889(明治22)年)のものです。
ちなみに北海道の場合は1901(明治34)年の「北海道会法」により,やはり「道会」という呼称でした。

だから,少なくとも“制度上の呼称”は1947年5月3日の現行憲法と地方自治法の施行時に「市会」等から,「市議会」等に変わっているのですね。これについては,上の「北海道会法」について検索してヒットした 北海道議会のページ で触れられています。
ところがなぜか,「五大市」だけが「市会」という呼称に固執したわけです。道府県を含め,ほかは素直に切り替えているのに。どんな理由なのかわかりませんが,これはやはり当時“区のある市”がこの5つだけだったということと関係があるのでしょうか。

ところで,これよりも一足早く「×議会」という呼称を採用したところがありました。
「東京都議会」。
1943(昭和18)年の法律「東京都制」で,議会の呼称は「都議会」と規定されています。だから,ここだけは最初から「都議会」なのですね。
ほかと同じフォーマットにすると「都会」になってしまう,…からでしょうかねえ。

さらに早いのが,実は国レベルの議会。
明治初め以来の議会開設をめぐる一連の動きの中で,民権派からも,時には政府側からも広く用いられていた「国会」という言葉に対して,1889(明治22)年の明治憲法が採用したのが「帝国議会」という呼称。それが,1946(昭和21)年の現行憲法では「国会」という呼称になりました。ま,「帝国」じゃまずいもんね。
結果として,市会→市議会 という地方議会に対してこちらは 帝国議会→国会 という逆の形の呼称変更になったわけで,面白いものがあります。

横浜市に住んでいたこともあるのですが、これまで意識したことがなかったです

いずれにしても市民にとっては関係のない,どうでもいいことですから。
ここの初期の頃に話題になったように,一般呼称としては「市役所」と呼ばれている建物やその中にある行政機関を横浜市は勝手に「市庁」と呼んでいるようなものかしら。
神奈川県議会と横浜市議会,…もとい,横浜市会,県と市の関係がそうであるように,こちらの関係もどうも微妙なようで…。

※後からよく読んでみたら,論点が少しずれているようですね。でも,まあいいや。
[80476] 2012年 3月 31日(土)21:33:34【1】Issie さん
南三原
[80475] の続きです。
実は [80441] で hmt さんが紹介されたリンクで一番うれしかったのは,各年の国勢調査報告にアクセスすることができるのがわかったことでした。
結構前に紹介したことですが,野毛山の横浜市立中央図書館には敗戦前の国勢調査報告の復刻版が配架されていて,それで1920(大正9)年の“第1回”と1940(昭和15)年の報告書の人口表部分は丸ごとコピーして持っているのですが(著作権法的には微妙ですが,図書館の方では容認しているみたいです),残念なことにこれには各市町村の読みが記載されていません。
ローマ字という形ではあるけれど,それが記載されるようになるのが1950(昭和25)年の報告書なのです。しかも「昭和の大合併」の直前回ということで,(私は人口のデータには関心がありませんが)非情に興味深い。けれども,これを読みに国会図書館に行くというのもなかなか機会を得ることができず(1960(昭和35)年の回はそうして,その結果がうちのHPに反映しているわけですが),だからこうした旧データが電子情報化されてweb上で公開されることを切望していました。
ああ,いつの間にか,やっと実現していたのですね。そのままではたとえば表計算ソフトの表に取り込むことのできない pdf(というか,画像)ファイル ではあっても。

そこでさっそく,1950年の千葉県の表を見てみました。
当時の表では現行の地方自治体コードの配列とは違って,千葉県の郡部は“県南”(←千葉県ではあまり聞いたことがない)の 安房郡 から並んでいます。
その中でふと目についたのが,現在では 鴨川市 の一部になっている「南三原村」。
そこに記載されているローマ字表記をみると Minamimibara-mura ,つまり「みなみみばらむら」と濁音で読むように記載されています。
この「南三原」という地名には,これをそのまま読んだ「みなみみはら」と国鉄の駅名に採用されている「みなみはら」の両方の読みがあって,その間に揺れがあることは知られているのですが(件の『市町村名変遷辞典』では「みなみみはら」を採用しています),そこに濁音の「みなみみばら」という読みもあるのか? ちなみに,隣接する「北三原村」のローマ字表記は Kitamihara-mura となっています。
国勢調査報告のローマ字表記による読みがしばしば地元自治体が公式に定めているものと違っている,あるいは国勢調査報告自体で年によってその表記に変動があるというのは,うちのページ を作っていく過程で十分確認されていることなので別に驚くことでも何でもないのですが,
まあ,やはり「そういうこと」はあるのですね。
[80475] 2012年 3月 31日(土)21:08:51Issie さん
三宝
[80473] グリグリ さん
いかがでしょうか、Issieさん。おそらく濁音の方がより正しいように思うのですが。

あそこのページは基本的に 地名情報資料室・編『市町村名変遷辞典 三訂版』1999年,東京堂出版 に依っているのですが,今改めて見ると当該の項目の読みは濁音で「さんぼう」ですねえ。半濁音は私の思い込みで間違いであったということですね。

ところで,その次の項目は新潟県岩船郡の 旧山北村→山北町 なのですが,こちらの読みも濁音で「さんぼく」となっています。旧町の公式の読み方では半濁音の「さんぽく」だったはずですが。参考までに [80441] で hmt さんが紹介されたリンクをたどって各年の国勢調査報告を見ると,1955(昭和30)年の初登場以来,ここでは一貫して Sampoku と表記されています。
まあ,「そういうこと」なのでしょう。
[80472] 2012年 3月 31日(土)18:45:40Issie さん
区の順番
[80468] グリグリ さん
まだちょっと早いのですが、熊本市の中核市から政令指定都市への移行、豊中市の特例市から中核市への移行、および、松江市の特例市指定に関連して、市区町村のデータ、公式HP、ランキング、雑学などを更新しました。

細かいことですが,熊本市の区の公式の配列は

中央区(101),東区(102),西区(103),南区(104),北区(105)

という順番であるようです(カッコ内は明日から適用される地方自治体コード)。[80460] で紹介されている熊本市のガイドブックでも最初のページにその順番で記載されています。

この配列,実は結構面白いですね。
たとえば旧東京市の35区,そして現在の東京23区は,“中心”の千代田区から時計回りに並んでいます。横浜市の場合は,最初に区制を実施した1927年当時の5つの区を北から順番に 鶴見→神奈川→中→保土ヶ谷→磯子 と並べた配列が出発点になっています。
たいていの政令指定都市は,このどちらかのパターンで区を並べていますね。3つしか区がない相模原市は北の緑区から始める横浜パターンです。
ところが熊本市は,地図上における区どうしの隣接関係は無視して「中央区」を最初に置き,次は日常の口頭に上る「東西南北(とうざいなんぼく)」の順で並べているのですね。これが麻雀の「東南西北」ならまだお互いに隣りどうしになったのですが。
何か珍しいな,と思ったら,
…浜松市と堺市に先行例がありました。
[80471] 2012年 3月 31日(土)18:17:30Issie さん
梅田雲浜
[80461] 白桃 さん
(福井県)雲浜(うんぴん)村・・・・・現:小浜市

[80464] グリグリ さん
雲浜は海岸由来でよいのかどうか(想定)

“幕末おたく”だとすぐに 梅田雲浜 を連想するでしょうね。
小浜藩出身の儒学者で安政条約反対と攘夷を訴え,安政の大獄で獄死。
町村制施行のための明治の大合併で新しい村が編成された時にこの 梅田雲浜 を記念して「雲浜村」としたのか,と一瞬思ったのですが,梅田雲浜の方が出身地の小浜海岸の別称を自分の号にしたようですね。
つまり,小浜海岸の別称が「雲浜」らしい。
何でこういう別称がついたかについては,それなりの謂れがあるのでしょう。

[80466] グリグリ さん
県北共同試験場

意外なところに使用例がありましたね。
私も石川県は県北部についてもっぱら「能登」を使うだろうと思っていました。
[80462] 2012年 3月 30日(金)21:50:38【1】Issie さん
いっぽんでもニンジン
「半濁音の自治体名」の話題にちょっと便乗します。

私が小学校6年生の冬,爆発的に流行した曲がありました。あの,「およげ!たいやきくん」。
あの頃,お昼の校内放送では毎日のようにこの曲が流れ,家に帰宅すればちょうど「ひらけ!ポンキッキ」の再放送時間(朝の本放送は登校時間に当たるので視ることができない)に当たって,最後のオチで釣り人がたい焼きを食べるアニメーションを毎日のように視ていました。
ところで,この「およげ!たいやきくん」のレコードの裏面にあったのが なぎら健壱 の名曲「いっぽんでもニンジン」でした(ものの本によると両A面という扱いだそうですが)。これも校内放送で毎日のように流れたものです。
この歌,リアルタイムでは「たいやきくん」の裏面という意識しかなかったのですが,実は日本語教育上,とてもよく考えられて意識して作られた歌です。つまり,日本語教育上のポイントの1つとなる“助数詞”の使い方を歌った歌なのですね。そもそも,その頃の「ポンキッキ」には数年前に(他局だけど) ウルトラの母 を演じたペギー葉山の“道徳コーナー”があったように純然たる「教育番組」でした。
そこで数える対象によって助数詞が変わる,というのを教える歌がこの「いっぽんでもニンジン」だったのですね。

そんなことを思い出したのは,週末のこととてお酒を飲みながら視ていたNHKの某番組で「県北」という字を見たからです。
実は「いっぽんでもニンジン」ではスルーしてしまっているのですが(いっぽんでもニンジン,ろくわでも七面鳥,しちひきでも蜂,きゅうはいでもジュース…と,そのまま歌っている),「は行」がからむ助数詞は状況に応じて濁点や半濁点がついたり,「わ行」に移ったりと,外国の日本語学習者には非常に難しかろうと思われる子音交替現象が見られます。特にともに“唇の音”であるPとBの交替はともかく,そこに“喉の音”であるHや半母音のWが絡むというのは,日本語話者には当たり前であっても,外国語話者にはわかりにくいことだろうと思います。
この現象の難しさは「いつでも必ず起こる」ことではなく,時によって起こったり起こらなかったりするすることにあります。

要は,「県北」。
この語は,濁らず清音で「けんほく」と読んだり,濁音で「けんぼく」と読んだり,半濁音で「けんぽく」と読む3つの読み方が実際に行われ,しかも全く不規則に,それぞれの地域での慣習によって読まれている,逆に言えばよそ者には「正しく」読むことの難しい地域呼称です。
つまるところ知りたいのは,各県で「県北」をどのように読んでいるか,ということです。
もちろん,「県北」という地域呼称が45の県のすべてで行われているわけではありません。
まずどれくらいの県で「県北」という地域呼称が行われ,次に「県北」をどのように読んでいるか,という疑問です。

ちなみに,神奈川県では「県北」は濁点なしで「けんほく」と読まれます。
その範囲は使用する主体によって様々ですが,県行政では一般に旧津久井郡,あるいは相模原市の旧市域を加えた範囲(つまり,現・相模原市)を指しています。
よその県ではどうでしょうか。

ついでに京都府・大阪府について,「府北」という表現はあるか。
東京都の場合,島嶼部を除いた“本土部分”が東西に長いために「都北」という表現はあまり聞いたことがありませんが,「都南(となん)」という表現は町田市について行われることがありますね。
[80431] 2012年 3月 25日(日)17:38:53【2】Issie さん
旧座間町の分離について: 「隋書」では
[80430] の続き

以上,相模原市側の「正史」によって座間分離の過程を見てみました。
冒頭で申し述べたとおり,これは1960年代後半に編纂された旧版を引き継ぎ,2004年の市制施行50周年を機会に編纂が進められている新版市史によるものです。わが国の正史になぞらえれば「日本書紀」に対する「続日本紀」とでも言えましょうか。
実際に国家が編纂した正史では,現政権の正統性を強調するために前政権に対する記述に政治的配慮を加えることがよくあります。645年の宮廷クーデタ(乙巳の変,いわゆる大化の改新)および672年の王位継承をめぐる内戦(壬申の乱)という2度の王位簒奪事件を経て成立した政権(天武・持統朝)で編纂が始まった「日本書紀」における蘇我氏に関する記述や,皇統が天武系から天智系に移ったのを受けて即位した桓武天皇の命令で編纂された「続日本紀」における孝謙・称徳女帝と“怪僧”道鏡とのスキャンダラスな関係なんかは幾分割り引いて読む必要がありそうです。
市史程度のものであれば,そこまで読み込む必要はないと思いますが,それでも40年前に編纂された旧版の方で座間分離問題を扱っていたら,その書きぶりは新版のそれとは少し違っていたかもしれません。何より,まだ通史編が刊行されていない座間市側の「正史」でどのように記述されるか,とても楽しみです。

ところで,倭国が派遣した使節が隋の皇帝・高祖文帝の前で演じた不調法を恥じてか,わが国の正史に記載のない600年の遣隋使をしっかり記載している『隋書』に相当する(?),県史ではこの辺りをどう記述しているか,『神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)』(1982年)も見てみました。
当然ながら,市史と県史とでは関心の対象が違い,敗戦後の地方制度改革で最も関心を寄せているのは横浜市も対象となる「特別市」問題ですが,あわせて分離を含めた市町村の「区域変更」をめぐる問題を取り上げています。長くなりますが,ほかの興味深い事例についても触れているので,1節の前半分を以下に引用します。

-------------------------------------------------------------------------------------
 特別市問題は新しく作られる地方制度の枠組との関連で県を二分するか否かの大問題であったが,県内にはそれとは異なる型での区域変更をめぐる争いもこの時期に登場した。その一つは横須賀市内の旧逗子町の分離独立問題で,戦時中の1943(昭和18)年4月に軍の要請で横須賀市に編入された旧逗子町の町民の有志から戦後になって編入の意義は失われたとして従来の如く逗子町として独立しようとする運動が活発になってきたのであった。また,高座郡相模原町でも旧座間町の分離独立問題が動き始めていた。座間では相模原への合併後,住民生活の不便,経済負担の不均衡等を理由に,分離独立の意向を強くもっていたが,相模原町会ではこれを認めると大野・相原等が相次いで独立することをおそれてこれを承認しなかったために問題化し始めていたのである(地方課『昭和22年3月知事事務引継書』)。
 当時の地方制度では,そして制定されることとなる新地方自治法においても,市町村の配置分合は関係市町村会の議決を経て,内務大臣の許可を得たうえで知事が定めることとなっていた。しかし,住民の意思を尊重するという雰囲気が強まってくるなかで,区域の変更に関しても住民の意思を直接に聴する手続が採られる動きも見られたのである。鎌倉郡片瀬町の場合がそうであった。片瀬町と隣接する藤沢市との合併問題は戦前からあったが,敗戦後の財政の窮乏と食料の確保のため合併の気運が強くなり交渉が進められた。一方同市に隣接する鎌倉市も大鎌倉市の構想をもち隣接町村との合併を希望し,片瀬町が藤沢か鎌倉との合併を希望するとの誘いをもちかけた。同町ではこの問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。1947年1月に行われた町民投票では有権者の57パーセントの3463名が投票し,結局藤沢市への合併を希望するものが,現状維持・鎌倉合併派をおさえて多数派を占め,これを基礎として両市町は合併を内務大臣に奏請した結果,同年4月1日から片瀬町は藤沢市に編入されることとなったのであった。このように“首長公選”の時と同様に法制上の裏づけはないが,住民の意向を確かめるための住民投票を経て事実上の決定を行い,それを法制に結びつけて運用するということが,過渡期の地方制度運営の現場でみられるようになっていたのである。ちなみに,逗子町の横須賀市からの分離の投票は1949年3月に行われたが,これは48年の地方自治法一部改正による法的根拠をもった投票であった(『横須賀市政時報』昭和24年2月22日)。(p.575~576)
-------------------------------------------------------------------------------------

というわけで,住民投票の行われなかった旧座間町のその後については実は触れられていません。
ところで,「県史」のこの巻が刊行されたのは1982年。当時の神奈川県は“長洲県政”の下,「革新自治体」の代表として情報公開条例の制定に取り組んでいました(これが山形県の小さい町に先を越されてしまった件,昨日(24日)の朝日新聞・夕刊に取り上げられています)。ここに引用した節の書きぶりにも,そんな県政の雰囲気が漂っているような気がします。

当たり前のことですが,県レベルの視点から見れば座間の分離問題は逗子の分離問題とも連動する案件です。結果的に,両者は違った手続きで分離・再独立を勝ち取りました。
ここで大きな働きをした「地方自治法の一部改正」は,社会・民主・国民協同3党の連立政権である芦田内閣の下で進められましたが,国会で実際に審議を進めたのは衆議院の治安および地方制度委員会委員長であった野党・自由党の 坂東幸太郎 であり,彼が座間の分離問題に積極的に関わったのは前述のとおりです。また,これも最初に登場した元県議の地元選出衆議院議員 岩本信行 も,一連の記述には登場しないけれども大きな働きをしたことでしょう。前述の通り彼は,占領下の戦後第1回衆議院議員選挙で採られた大選挙区制を1947年の新憲法準備総選挙に備えて元の中選挙区制に戻す選挙法改正審議での手腕を 吉田茂 に買われて,昭電疑獄による政権交代で成立した第2次吉田内閣で,解体された内務省から地方行政事務を引き継いだ 地方財政委員会委員長(国務大臣) に抜擢されます。「地方政治のプロ」としての抜擢ですが,それが内務官僚ではなく,長く県会の首領として君臨してきたという意味での「地方政治のプロ」なのですね。
町議会で座間分離案が可決して再独立の実現に大きく進んだとき,町議会からは分離に向けての具体的な手続について,先行して分離(というより解体)が実現した埼玉県の旧志紀町へ代表を派遣して調査してきたりもしています。

座間の分離独立は,こうしたさまざまなつながりの中で実現したのですね。
[80430] 2012年 3月 25日(日)17:37:11【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (2)
[80429] の続き

このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが

[80415]
「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

です。
「市史」では,1947年12月に衆議院で前年8月に請願書を提出した座間分立を求める請願が認められ,翌48年2月にこの請願書を仲介した前出の衆議院議員で当時衆議院治安および地方制度委員会委員長を務めていた坂東幸太郎から上記の地方自治法改正につながる指令がGHQから出るという情報がもたらされたことが転機になったとしています。この地方自治法改正に関する記述は以下の通り。

-------------------------------------------------------------------------------------
 戦時中,軍の要請で合併させられた市町村を,従来の市町村議会の議決ではなく,住民投票により元の状態に戻すという,地方自治法の改正案は,4月15日,衆議院に提出された。審議は同月27日から,治安および地方制度委員会で始まる。委員長の坂東幸太郎は地方自治法の改正案をめぐる状況について,座間側にその都度知らせていた。分立実行委員の山田和夫に宛てた葉書のなかで,坂東は座間側が関心を寄せる改正案の提出時期と中身に関して触れている。
 審議が進むと,5月には,稲垣俊夫・山田和夫の二人が坂東議員を訪問した。かれらは今回の地方自治法の改正に,相模原町の事例も含まれるのかどうか聞いたところ,坂東から「該当する」というお墨付きを直接得ている。地方自治法の改正案は6月19日に衆議院本会議,同月28日に参議院本会議でそれぞれ可決され,7月20日に公布された。(p.324~325)
-------------------------------------------------------------------------------------

この一連の動きの中でキーパーソンであったのが衆議院議員の 坂東幸太郎 や 岩本信行 であったわけです(ともに自由党)。そして,この地方自治法改正に座間分立問題も深く関連していたことがわかります。
これに対して地元の座間・相模原では,

-------------------------------------------------------------------------------------
 国政の動向が座間にとって有利に働いたことで,座間分離問題は再燃した。48年5月には,座間地区選出の六人の町議と座間支所長が相模原町の関係者を訪問し,改正後の地方自治法を適用して分町を強行するよりも,改正前に町議会の議決で円満に独立したいという意向を伝えたという(『神奈川新聞』1948年5月5日付)。座間側は強気の姿勢に変化し,改正案の成立を待たずに解決することを急いだ。
 地方自治法の改正案の成立が確実視されると,相原・大野地区の町議との連携も進む。座間地区六人と大野地区五人の合わせて十一人の町議が,6月2日に共同で,座間の分離問題に関する臨時議会の招集を求めた(議会史 資料編II)。これまで,町議会でたびたび分離実現の機会を逸してきたが,今度は,相原・大野との共同歩調が事前に採られる。6月8日,相模原町議会が開かれると,「座間地区分離独立の件」が提案され,19対11で可決された(議会史 資料編II)。ここで,座間地区は独立する権利を手にする。(p.325)
-------------------------------------------------------------------------------------

ということになりました。
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

こうして町議会は座間の分離を承認しましたが,前年の選挙で分町派の候補を破って当選した町長の小林與次右ヱ門は,「分町問題は町発展のブレーキ」と認識し,町議会の解散権行使をちらつかせながら消極的な態度をとりました。しかし結局,7月7日の町議会全員協議会で(分町派でない5地区を含む)各地区選出の町議一人ずつと正副議長から成る「旧座間町地区分離準備委員会」の設置が決定され,同委員会でまとめられた分離に伴う財産処分案を含む具体的な座間町分離方針が8月6日に町議会に上程,「9月1日から座間町を設置する」ことが全会一致で承認されたのを受けて,8月11日に小林町長が 地方自治法第7条による町分離処分 の申請を県知事に行いました。県議会は8月30日に座間分離案を可決,翌31日に

[80415]
昭和23年神奈川県告示第360号
「座間町設置に関する県告示」

が出されました。そして翌日,1948年9月1日に座間町が再置されたわけです。

一方,座間と共同歩調をとっていた相原・大野の両地区は結局,分離を選択しませんでした。
座間が分離の実現に向けて積極的に動き出した5月半ば,両地区選出の町議は「相模原町分町問題に関する申合」を取り交わしました。その中で,両地区は相模原町に残り市制施行の実現に努力する。それに当たっては,(3段の河岸段丘である相模原台地の“中段”に位置する)上溝にある町役場などの諸施設を“上段”の横浜線沿線に移転することを求めています。それが認められなければ,座間に続いて両地区も分離をめざす,ということです。
この「申合」は座間町の分離が議決された6月8日(「市史」ママ。8月6日か?)の町議会に緊急動議として提案され,可決しました。
実際に町役場が上段の 旧相原村清兵衛新田 の現在地に移転するのは1954年4月29日。これは相模原町発足からちょうど14年めの記念日,そして同年11月20日の市制施行の7ヵ月前のことです。
現在,市役所や警察署,郵便局などが集積する相模原市の中心業務地区(CBD)となっている 中央・富士見地区 は旧上溝・相原・大野3町村の境界が交わる場所に当たります。ここをCBDとすることは「軍都計画」当初からの既定方針であったようですが,現実には相原・大野両地区の分離を思いとどまらせることの交換条件として実現したとも言えそうです。

以上が,「市史」の記述による「協議離婚」([80411] )の経緯です。
現実の「離婚」がそうであるように,たとえ円満に見える協議離婚でも,それが実現する経緯は紆余曲折があるのですね。

(続く)
[80429] 2012年 3月 25日(日)17:34:59【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (1)
[80411] 以下 hmt さん
戦時合併 と その解体 続編

昭和16年の合併には「座間町」も加わりましたが、戦後に分立。
日付から判断すると、おそらく臨時措置による手続き[55656]によらず、相模原町との「協議離婚」が成立したものと思われます。

[80415]
【追記】
逗子町再置が 前記改正法“附則第2條第5項の規定”によることは、昭和25年総理府告示第191号 に明記されていました。
そこで、座間町の場合も 再置告示確認によって、臨時措置によるものか否かの区別がつくであろうことに気づきました。
調査の結果は、通常の手続きによる分立のようでした。昭和23年神奈川県告示第360号 【追記終】

この辺りの経緯について,「正史」である市史ではどのように記載してあるか,確認してみようと思いました。
本来であれば双方の記述にあたるべきなのですが,座間市側では現時点で「通史」の刊行は近世まで,近現代については「資料編」の刊行にとどまっている(その代り非常に詳細で,後の引用の通り相模原市側の記述の多くもこれに依っています)ので,以下は相模原市側の『相模原市史 現代通史編』(2011年,以下「市史」)によります(なお,この刊行年にあるように相模原市側でも1960年代後半から70年代初めに編纂された旧版市史は1945(昭和20)年8月15日で終わり,「相模原市」の時代が丸ごと入る戦後の記述は今回の“新版”に送られていました)。

さて,「市史」ではまず,座間町分離の前提状況として次のように記載しています(なお以下,年月日や数を表している漢数字は原則として算用数字に改めます)。

-------------------------------------------------------------------------------------
 「相模原町旧座間町地区分立嘆願書」によると,町制施行の過程において,座間町は最後まで反対であったが,県と軍の指導により,不本意ながら重圧に屈して賛成したという(『座間市史4 近現代資料編2 240』)。合併前の座間町の人口と面積は,大野村に次ぐ規模であった。1940(昭和15)年時点で田の面積は231町歩,二ケタ止まりのほかの七か町村にくらべて広く,生産価額でみても最上位に位置している(『昭和十五年 神奈川県統計書』)。農業を基軸に,旧七か町村(引用注:ママ)のなかでトップクラスの生産力を誇っていた座間町は,合併に消極的であった。
 合併後,交通網の不便さから,座間は上溝に置かれた町役場まで遠く,半日を要する状況であった。また,税金を多く払っているにもかかわらず,地元の老朽化した校舎や道路は放置される。軍都建設の要請のもと,最初から財政不均衡な八つの町村が合わさって生まれた相模原町で,各地区まんべんなく施設の充実を図ることはできなかった。
 こうした要因を背景に,相模原町では敗戦を契機として,旧町村を単位に合併前の状態を求める分離運動が起こった。「軍都」という共有の目標を失うと,合併の意義そのものが疑われ,ほころびを見せ始めたのである。(p.317)
-------------------------------------------------------------------------------------

敗戦直後の1945年9月に分離を求める地区の有志が当時の町長に申し出を行うことで具体的な分離の動きが始まるのですが,この時に動き出したのは旧座間町だけでなく,旧相原・大野両村も加わっていました。旧相原村は現在の緑区東部の橋本・相原地区および中央区の小山・清新・相模原地区,旧大野村は現中央区の矢部・淵野辺地区および南区の古淵・相模大野・上鶴間・東林間地区で,つまり国道16号線とJR横浜線,および小田急線沿いの,要するに現相模原市で人口と産業の集積の最も高い地域です。以後,この座間・相原・大野の3地区が分離運動の主役となります。
この3地区の中で特に動きが早かったのがやはり座間地区で,住民の幅広い支持を集めて分立のための「実行委員」まで選出して町会議員や地元選出の県議・岩本信行(長く県会議長を務め,1946年の衆議院議員選挙で国政に進出,のち吉田茂に抜擢されて第2次吉田内閣の国務大臣・地方財政委員長),地元選出ではないけれども県内の鵠沼に住んでいた衆議院議員(北海道選出)・坂東幸太郎らへの働きかけを積極的に進め,坂東を仲介に帝国議会(国会)への請願も行っています。これに対して相原・大野両地区では住民の意向がまとまらず,動きが鈍かったようです(ちなみに,岩本は旧大野村の上鶴間の出身です)。
こうした動きを背景に,1946年10月4日の相模原町会全員協議会に座間分離問題が上程されましたが,その場で妥協点を見出すことができず結論は先送りになりました。結局,同年11月30日に開かれた町会で分町を求める意見書が緊急動議が提出され,断続的な休憩の後,意見書は6対11で否決されました。
これに対して,座間地区では12月5日に「座間町民大会」を開き分立を求める決議文を全会一致で採択し,相模原町役場の座間出張所長までをも含めた地域の有力者を新たな分立実行委員に選び,さらに運動を強化して,衆議院議員となった岩本を仲介に県や内務省への陳情を進めました。意見書を否決した町議らへの再考要請も行っています。
こうした動きに対して,町議の多くは個人的な理解は示しましたが実際の分離には消極的であったようです。それは当然で,座間が分離した後,相原と大野がそれに続けば「相模原町」として残るのは現在の相模線沿いの地区だけで,これは事実上の「相模原町の瓦解」です。だから,1947年の新憲法施行準備の町議会議員選挙で定数36のうち20議席を分町派の座間・相原・大野地区選出議員で占め,正副議長ポストを押さえても,なかなか事態は進展しませんでした。なお,町議会議員選挙に先立って行われた町長選挙(初の住民による公選)では分町派が擁立した候補が落選しています。

(続く)
[80409] 2012年 3月 17日(土)12:52:17【1】Issie さん
布団は「しく」のか,「ひく」のか
[80406] 般若堂そんぴん さん
東北で「し」と「す」は区別しないか?

これを検討するには,最低3つの問題を区別しなくてはならないように思います。
1つは,実際にどのように発音しているのか,という「音声学」的な視点。
2つめは,それらの音声を全体の体系の中でどのように捉え,単語の区別に利用しているか,という「音韻学」的な視点。
3つめに,それらの音声または音韻を文字体系の中でどのように表記するか,という「正書法」の問題。

実際にどのように発音しているかという点については,巷間よく言われる「東北では「し」と「す」が区別されない」というステレオタイプとは違って,同じ東北内(のみならず新潟県下越や北関東も含めて)でもかなりの幅やバリエーションがあるように思われます。
本当に「し」と「す」の母音をほぼ同じく発音する地方もあれば,「し」が単語の中のどの位置にあるかによって微妙に母音の発音が変わってくる場合もあるかもしれません。一般的に多く見られるのは「し」の母音を“中舌化”して「ウ」に近づけて発音する(ロシア語の ы や,中国語の si(四) や zi (子)の母音が近いかもしれません)というものですが,共通語(標準語)を含めた“東日本方言”では元々「ウ」を唇の丸めを伴わずに中舌化して発音している(トルコ語で言えば u よりも“上に点のない i ”に近い)ので,「し」の母音も中舌化してしまえば“よその方言話者”には区別がつかなくなってしまうのですね。
でも,「し」と「す」の母音を実際に“違って発音”していれば,「音声」としては別の音です。そしてそれを“聞き分け”,それによって単語の区別がなされるのであれば「音韻」としても別の音です。逆に違って聞こえてもあえて区別はせず,状況の有無にかかわらず自由に入れ替わることができるのであれば,「音声」としては別でも「音韻」としては“同じ音のバリアント(変種)”と理解されます。

それらの音を文字でどのように表記するかというのは,さらに別の問題です。そしてこれは社会的な慣習(さらに公式化された制度)の問題ですから,そこには“特別な学習”が必要です。その学習は必ずしも学校教育による必要はないのですが,それでも現代社会では学校教育により,そこでは「標準化された“国語”」の学習が行われるのが普通です。そして,そこで“学習”するのは「標準語」の“標準化された単語”の対する“標準語による表記”です。
ここでは「方言の発音をどのように文字表記するか」ということは学習,あるいはそれ以前に“関心”の対象外なのですね。それでも,たとえばイタリアのように各地域言語(方言)についてある程度標準的な表記体系が普及していたり,旧ソ連におけるチュルク(トルコ)系諸語のように個別の表記体系と文法を固定化して“各共和国”ごとの公用語にしてしまった例もありますが,中央集権的な近代日本の教育政策や文化状況ではそのような動きは小さいようです。

確かに,19世紀生まれの祖母(故人)はカナ表記においても「し」と「す」の区別があいまいでした.

ずっと以前に話題にした記憶があるのですが,私の母方(“チャーザァ村”の)祖母も,同じく19世紀末の生まれですが,カナ表記上で「ゆ」と「よ」の区別が曖昧で両者の混同がよくありました。
林家こん平がよく言っているように越後方言では語頭の「い」と「え」の区別が曖昧なのですが,それとともに新潟県中越地方から長野県北信地方北部(奥信濃)にかけての信濃川/千曲川中流域では「ゆ」と「よ」の区別も曖昧で,年配の方の中には「雪」を「よき」のように発音している例が今でも見られます(長く東京で暮らして某教育系国立大学の教授をされていた方ですが)。
「国語教育」を十分に身に着けていれば当然にカナを“正しく”表記できるはずです。私の祖母を含めて“正しい”書き分けができていないのは,それが不十分であった結果でしょう。何より,学校で教わるのはあくまでも「標準語の表記」であって,自分たちが実際に口にしている言語(方言)の表記ではありませんから。

方言のステレオタイプの1つに,東京の下町では「し」と「ひ」の区別がない,というのがありますね。
さすがに現在ではそのようなステレオタイプな発音をする人は非常に少なくなっているでしょうが,区別の曖昧さは残っているようで,たとえば布団は「しく」ものか,「ひく」ものか,悩む東京人は少なくないようです。車に「しかれる」のか,「ひかれる」のか。
…で,どっちが“正し”かったんでしたっけ?
そして,東京とは逆のパターンですが,岐阜県の「七宗町」(ひちそう/しちそう)の問題も出てくるのでしょうね。

奥羽方言を表記することができるか

もう20年ほど前に最初の発表をされて以来,忘れた頃に間欠的に話題になっていますが,山浦玄嗣 さんというお医者さんが岩手県気仙方言(ケセン語)の文字化に取り組んでおられます。20年前には独自のローマ字表記体系を発表されましたが,最近は「日本語読者」用にカナ表記のケセン語版聖書抜粋を文庫化されいますね。
東北音のカナ表記では,たとえば宮沢賢治(「風の又三郎」など)や井上ひさし(「吉里吉里人」など)が有名ですが,私にはあまり成功しているようには思えません。伊奈かっぺいの津軽方言詩なんかもいいかもしれませんが,東北諸方言の中でも津軽方言は音の変異(独自の発展・進化)が大きいのでしょうかね。
方言(地域言語)の文字化という点で一歩進んでいるのは,やはり琉球語圏の首里・那覇方言だと思われます。
首里方言には,かつて「おもろさうし」に見られるような本土とは違った独自のカナ表記体系ができあがっていました。ただし,それは「おもろ」のような韻文や王府発行の辞令などの一部文書に使用が限定されていたため(公式の正文は漢文であり,私的領域でも本土の和文があるから),琉球処分によって首里王府が廃止されたのと一緒に廃れ,近代語の表記体系として発展するチャンスを失いました。
代わって,口頭語の首里・那覇方言(ウチナーグチ)を表記するために表音的なカナ表記が独自に発展していますね。ただ,繰り返すように“標準化された文字表記体系”はあくまでも「標準語」のものですから,ウチナーグチの統一された表記体系は確立していません。
それ以上に,伝統的な“本来のウチナーグチ”と,現実に那覇の街角で話されている言葉(ウチナーヤマトグチ)との乖離も小さくないようですね。
[80351] 2012年 2月 28日(火)22:18:50Issie さん
Re:市外局番
[80350] N-H さん
なお、実際に都道府県の境界を越えて同じ市外局番で市内通話でかけられる地域は少数ながら存在します。

たびたび話題になりますが,ウチんところもその例ですね。
細かく見ると都県境・市町村境と一致しない部分がたくさんあるのですが,4ケタ局番の時代から神奈川県相模原市の旧市域と旧城山町・津久井町の区域は東京都町田市と同じ(0427),旧相模湖町・藤野町は八王子市と同じ(0426)。現在はどちらも3ケタ(042)になっているけれども,相模原・町田エリア(042-7)と八王子エリア(042-6)相互は相変わらず市外扱いです。
だから同じ“緑区”でも旧津久井町最西端の青根地区は町田市内と,旧藤野町南西端の牧野(まぎの)地区は八王子市内と“市内通話”扱いになるのに,道志川をはさんで同じ区に属する青根地区と牧野地区の間は“市外通話”扱いになるのですね(厳密には,牧野地区のうち道志川沿いの集落は相模原エリアに属するようです)。
一方,さらに県境を越えた山梨県道志村のうち,最東端の月夜野地区は相模原エリアに属し,つまり県境を2つ越えて町田市内と“市内通話”ができます。つまり,「042-7」は東京・神奈川・山梨の3都県にまたがるのですね。
そして,八王子エリアの旧相模湖町・藤野町は当然ですが,相模原エリア自体も「042」という“神奈川県らしくない”局番が表すように(神奈川県内は横浜市(045)・川崎市(044)以外は「046X」というのが標準です)神奈川支店ではなく東京支店の管内に属するようで。

こうした行政界をはさんだ局番エリアの錯綜はご紹介のページを見ればほかにも多くあるわけで,結局は電話線がどうつながっているか…,そう,そろそろ1年前になるあの計画停電で痛感した電線つながりのエリアの錯綜と通じるものがあるのでしょう。
[80310] 2012年 2月 19日(日)17:01:11Issie さん
新八犬伝
ここではずいぶん初期の頃に話題になったことのある人形劇「新八犬伝」が今日のNHKアーカイブスで放送されていました。
今見ても面白いですね。
放送当時は小学生でしたからただ面白いと思って見ていただけですが,この歳になって見ると実にたくさんのことが盛り込まれていてとても凄い番組であったことがわかります。
何より,“とある事情”で当時見ることができなかった最終回を今,見ることができて感慨無量です。
ただ一つ。関東地域では番組のお終いで緊急地震速報が響き,九ちゃんがまさに「これにて一巻の終わり」と言おうとするその瞬間に地震のニュース画面に変わってしまったことですが…。

さて,番組前半で流された「前半総集編」のエピソードは,だいたい記憶していたのですが,最初に放送された「第1回」の内容は全く覚えていませんでした。
改めて見て,ふと気になる表現が…。
この手の物語の通例として,番組冒頭で物語の舞台の説明が行われるわけですが,最初の舞台である 富山(とみさん) について,「安房国長狭郡(ながさのこおり)富山」と言っていました。
明治後期の郡制施行に際して「安房郡」に統合されるまで,安房国には 平,安房,朝夷,長狭 の4郡がありました。
このうち 平(へい)郡 は旧名「平群(へぐり)郡」で鋸南町保田から館山市北西部にかけての浦賀水道沿い,長狭郡 はほぼ現在の鴨川市から南部の江見地区を除いた区域,朝夷(あさい)郡 は,その江見地区から南房総市白浜にかけての太平洋岸,残りの館山市の大部分+αが 安房郡 です。
で,問題の 富山 は,この区画では完全に 平郡(平群郡) に属するはずで,実際に山の“東側”(内陸側)に「平久里(へぐり)」という地名があります。
にもかかわらず番組冒頭で流れた「長狭郡富山」という表現。本来,「長狭郡」は峠を越えた太平洋斜面の加茂川(鴨川)流域の郡名であって,これは正しくないはずなんですけどね。
これは原作の「南総里見八犬伝」にまでさかのぼる表現なのかどうか。少なくとも曲亭馬琴の時代,富山周辺は間違いなく 平郡 なのですが。
もっとも,このお話(原作),実際のところは時代と人名と地名を借りているだけで,史実的にも地理的にもかなりメチャクチャです。
[80307] 2012年 2月 19日(日)00:05:37Issie さん
都の西北ワセダの隣り
[80305] ペーロケ さん
中区・中央区基準って微妙ですね。そのような現象は各地で見受けられます。

今度「区」ができる熊本市の場合はきれいですね。
札幌市の場合も,東区の位置が微妙ですが,まあ納得できる範囲でしょう。
広島市の東区は,お城基準でしょうかねえ。名古屋市の場合もお城基準に見えます。
新潟市の北区の場合は…,
最“東”端の区であることも事実ではあるけれど,やはり最“北”端の区であることは確かなわけで,中央区の東に直に隣接する区を「東区」とした以上,残っているのは「北区」しかなかったんでしょうね。
ほかの区の名前からも想像されるように「豊栄」は何としても避けたかったろうし,新潟市民が新発田の位置を“頭の中で”どちらの方角と捉えているかによりますが,やがて“北”へ伸びる海岸線を思えば,地図上の厳密な緯度の問題ではなくてメンタルな地理感覚の中では「北」と捉えることができるかもしれません。

ちなみに,以前に話題になったように相模原市では合併前の旧市域内の区分が念頭にあって「中央区」「南区」と相成りました。旧市域内での位置関係だけ考えれば,これは至極順当な呼称です。
もう1つの区は「緑区」となったわけですが,いまだにくすぶっているように「北区」にという意見がありました。ところが,この「北区」ならぬ「緑区」は広大な旧津久井郡を丸ごと含むわけで,現在の市の南端はこの緑区。全体としては「西区」がふさわしい位置にあるのですが,一部の意見の通り「北区」であったとしても,中央区中心のメンタル・マップ的にはそれほど変なネーミングではないかもしれません。

結局のところ,私たちはふだん地図を見てそれぞれの地点や区域の位置関係を捉えているわけでないので,頭の中の位置関係は実際の厳密な位置関係とはズレが生じてきて,それがそのまま“地名”として固定化されることがあるということなのかもしれませんね。
[80303] 2012年 2月 18日(土)12:03:26【1】Issie さん
西戸部町の「西」,南太田町の「南」
[80294] N-H さん
さきほどの「はまれぽ」記事の最後に答え(?)が書いてありますが、本当ですかね?

この時代に何か謎があったら,これを持ち出せばたちどころに解けた気になってしまう呪文のようなものですが,どうなんでしょうね。
私は眉唾物だと思いますが。

と言って,私も答えは持ち合わせていないので地図を見て“憶測”してみます。
確かに,お互いの接続部分だけを見ると

中区から見て南区は南にはなく、西区は西にはありません

と見えるわけですが,旧中区エリア全体で見ると「西区」「南区」もまあ妥当かなという気もしてきます。
「南区」の方は,より簡単。
旧中区エリアの西南部分が分区されたわけですが,当時は現在の 港南区(1969年に南区から分区) までがその対象でしたから,そうやって見ると,“西”よりもずっと“南”へ伸びています。既に南の臨海部に 磯子区(現・金沢区を含む) があってこれが邪魔ですが,そこには目をつぶって,まあ「南区」と…。

「西区」の方はねぇ…
市役所や県庁のある The Yokohama 地区,つまり中区の中心部から見ると,“北”にあるのはあくまでも「港」ではないか,と。
あるいは“北”と言えば,港をはさんだ臨海部の 鶴見・神奈川両区 の背後を編入した区域に既に「北区」ならぬ「港北区」というオリジナリティあふれる“創作新地名”を与えている。
そこへ,旧西戸部町エリアに「北区」という呼称を与えるのは何となく妙で,むしろ“港の西”にあるのだから「西区」でいいのではないか…。

…そんな感じですかねえ。
もちろん,これは今ある「西区」「南区」の地名からさかのぼって勝手な推測をしているだけで,実際の選考過程とは順序が逆転しているわけですけど。
ところで「港北区」といえば,“ライバルの神戸市”にも「湊西区」「湊東区」という区がありました。こちらは,湊=神戸港 が基準なのではなくて,“忠臣・楠木正成”の物語で当時の国民には一般常識であった(でも,これが強調されるようになったのは「昭和」の狂信的な時期でしょうかね)「湊川」によるものでしょうね。残念なことに,地名としては消滅してしまいました。

ちなみに,タイトルの 西戸部町 と 南太田町 は,それぞれ 西区 と 南区 の主要部分の町名。分区当時以来,多くの新町が分立して今はだいぶ面積を縮小してしまいましたが。
どちらも元の戸部村(町)や太田村が,早く市街地化して 横浜町→横浜区 を経て“オリジナル・横浜市”となった区域内に設けられたり,取り込まれたりした 太田町 や 戸部町 に対して,当時は“郊外”で別に「戸太村→町」を作った後,1901年に横浜市に編入された際に既存の両町と区別するために「西」「南」の接頭辞をつけたものですが,これが「西区」「南区」に符合していますね。
もちろん,それが区名の由来ではないでしょうが,少し面白く感じました。
[80280] 2012年 2月 12日(日)00:20:44Issie さん
絵にも描けない美しさ
[80279] k-ace さん
神奈川県横浜市神奈川区に気になる地名が。横浜市神奈川区浦島町/浦島丘/新浦島町/亀住町。浦島小学校、浦島保育園、浦島丘中学校もある。

神奈川県の公立高校は来週が後期入試。
そんなわけで,お仕事の上で「浦島丘中学校」という文字を再三ならずPCに打ち込む日々です。
亀住町の「浦島公園」や浦島丘の「浦島小学校」は,今は亡き「空から日本を見てみよう」ネタだったかと思いますが,何にしろ辺りは京浜工業地帯のまん真ん中。余所者としてこの話を初めて聞いたときは信じられない思いでいっぱいでした。

ただ、浦島町/浦島丘/新浦島町/亀住町に浦島伝説の寺等が全くないとは…。

今は“宿場”としての面影が全くかけらほども残っていない神奈川宿(程ヶ谷=保土ヶ谷はもちろん,川崎の方がまだ少しは残っています)。それでも,町名としては宿場本体としての「神奈川」「本町」「新町」の方が優先されたのではないでしょうかね。「浦島町」,「亀住町」,「浦島丘」はいずれも“神奈川町”としては東の外れ,隣りの 子安村 との境ですね。
浦島丘中学校のある 白幡東町 は完全に隣村(白幡村)の領域です。
埋立地の「新浦島町」はもちろん,他の浦島地名ともども,現物のない“周辺地域”が,むしろ現物がないからこそ隣接区域の現物にちなんだ名前を“わざわざ選ぶ”という在り勝ちなパターンのようにも思います。
まあ,個々の“浦島関連町”が…,ということではなくて,地域全体で浦島伝説にちなんでいるということなのでしょう。
要するに,「品川」ではなく「高輪」にある「品川駅」,「目黒区」ではなく「品川区」にある「目黒駅」というわけで…。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示