[4874] いな さん
>町田駅(東京都町田市)の次は古淵(神奈川県相模原市)、さらに駅を4つ(淵野辺・矢部・相模原・橋本)過ぎて・・・
>つぎの相原、ここの駅名標をみてびっくり仰天、なんと東京都町田市と書いてある。
大雑把に言って理由は2つ。
1:東京都旧南多摩郡の南半部,多摩川水系と鶴見川・境川水系とを分ける分水界の南側の4町村(町田町,鶴川村,忠生(ただお)村,堺村)が1958年に合併して「町田市」になった(合体市制に先立ち,町田町は1954年に南村と合併)。その結果,境川上流部の旧堺村(相原・小山地区)が町田市に属することになり,特に西北部で細長い市域となった。
2:横浜線(全身は私鉄の横浜鉄道)を建設するにあたって,峠越えの相原駅と原町田駅との間の距離が最短となるべくルートの選定が行われた。“最短ルート”とは両地点間を“直線”で結ぶルートである。もっとも,八王子方面から真南に向かって峠を越えてきた線路を原町田駅のある南東方向に曲げる必要があるから,実際には橋本-原町田間が直線となる。
その結果,境川を2度にわたって越えることになるが,これがたまたま都県境であった。そのせいで,原町田(町田)駅を出発した電車は一旦境川を渡って神奈川県に入った後,橋本-相原間で再び境川を渡って東京都に入りなおす。ところが,そこはまだ分水界の南側であり,相原駅周辺(旧堺村)は町田市に属する。
そんなわけで,またまた町田市に入ってしまった,という次第。
確かに相原のあたりだけ取り出せば「おやっ?」ということになるのですが,「分水界の南側」という意味では町田市の形はそれはそれでリーズナブルなものにも思えます。もちろん,堺村には町田ではなく八王子と合併する選択肢もあったはずですが。町田を選んだのは町田街道で結ばれている,という点なのでしょうかね。
お気づきかもしれませんが,「相原」という地名は境川をはさんで東京都側(町田市)と神奈川県側(相模原市)に共通の地名です。橋本駅の南側に県立高校があるのですが,ここは15年ほど前に突如有名になった「橋本高校」ではなく「相原高校」です。橋本高校は橋本駅から相原駅方向へ少し進んだところにあります。なぜそうなのかというと,例の「相模原町」発足前,橋本地区は西側の相原地区,東側の小山地区や清兵衛新田(清新)地区とともに「高座郡相原村」を構成していたからです。「相原高校」は戦前の県立農蚕学校を前身とするこの地域では随一の伝統校です(もう1つの伝統校は高等女学校を直前の前進とする上溝高校)。
…というわけで「相原」だけでなく,境川の上流側から順に「小山」「矢部」「鶴間」が両岸,つまり“武蔵国多摩郡=東京都町田市”と“相模国高座郡=神奈川県相模原市・大和市”に共通の地名です。これらの地名は中世にこの地域を本拠とした武士たちの名字になっているほど古いのですが,武蔵と相模の国境が境川に固定されたのはそれほど古い話ではないようです。
要するに,「相原」も「小山」も「矢部」も「鶴間」も後から分断されたらしい。
町田市の南側境界の複雑さには,こんなところにも原因があるのでしょうね。