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なぜ市区の境で、字の名前が似ている所があるのか?

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記事数=6件/更新日:2005年4月24日/編集者:あっちゃん

町田市と相模原市の境界には、川を挟んで同じような町名が並んでいるところがあります。このような事例は、ほかにあるのでしょうか?また、そのような現象はなぜ生まれたのでしょうか?

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[805]2002年2月4日
Issie
[822]2002年2月7日
Firo
[824]2002年2月8日
いわ
[844]2002年2月9日
Issie
[4884]2002年11月14日
Issie
[13690]2003年4月22日
KMKZ

[805] 2002年 2月 4日(月)21:18:27Issie さん
町田市と相模原市の境
町田市と相模原市の境界は境川ということになっています。
ところが,境川の河川改修が進んで流路が直線化されても,市境(つまり都県境)の方を変更することは容易ではありません。そのようなわけで,現在境川の南側の住宅が町田市であったり,北側の住宅が相模原市であったりするところが点在します。ただし,境川自体のルートが変わっても,市境に沿って元の流路が痕跡としてそのまま残っているところも少なくありません。
現在,両市の間ではお互いの領域を交換して市境と現在の川筋とを一致させる作業が行われているのですが,当該の住民の意見がまちまちでなかなか進んでいません。とりあえず,2000年秋に実現したのは両側に住民のいないごく断片的な区間だけでした。

現在は相模原市民。
[822] 2002年 2月 7日(木)22:47:50Firo さん
続・町田市・相模原市
何度か話題になってるようですね。
ところで、両市には、同じ町名というか字名がとなり合わせになっている
個所がありますね(相原町・矢部町・・・) もともとは1つの村だったものが、分断されたものと聞いたことがあるのですが・・・・・
[824] 2002年 2月 8日(金)07:39:20いわ さん
Re:822
川を挟んで似ている地名のところって結構ありますよね。
東京都世田谷区 上野毛 野毛
神奈川県川崎市高津区 下野毛

東京都世田谷区 等々力
神奈川県川崎市中原区 等々力

東京都大田区 下丸子
神奈川県川崎市中原区 上丸子 中丸子 等々

川の流れが今とは違う事によると聞いたことがありますけど。
[844] 2002年 2月 9日(土)11:16:02Issie さん
等々力・丸子・相原・鶴間
> 川を挟んで似ている地名のところって結構ありますよね。

等々力や丸子のように多摩川をはさんで川崎市と世田谷区・大田区とで同じ地名があるのは,そのとおり,多摩川の川筋が変わってしまったせいです。
川崎市側の等々力公園のまわりには昔の川筋の跡が残っていますね。
昔は元の川筋に沿って荏原郡(東京府)と橘樹(たちばな)郡(神奈川県)の境が通っていて,等々力や丸子は多摩川南岸(川崎側)の部分も含めて東京府荏原郡に所属していたのですが,その後現在の川筋を府県境とし,両府県で領域の交換をして現在にいたっています。

一方,町田市と相模原市の間で共通する「相原」「小山」「矢部」「鶴間」の場合はもちろん,都県境の境川の川筋が変わったせいではなくて,あとから武蔵国と相模国に分断された結果です。
「相原(粟飯原)」以下の地名が現れてくるのは鎌倉時代前後のようですが,その当時,武蔵国と相模国の国境は現在「境川」と呼ばれている川(「高座(たかくら)川」とか「高倉川」などと呼ばれていた)ではなく,その北側の境川(高座川)水系と多摩川水系(大栗川)・鶴見川水系との分水界であったようです。だから今の町田市の西部から南部一体は「相模国高座郡」。
江戸時代になって,曖昧だった国境を高座川に確定し,「境川」となったようです。
「鶴間」の場合はさらに相模国に残った側が「上鶴間村」と「下鶴間村」に分かれ,その後の曲折を経て現在は「町田市鶴間」「相模原市上鶴間」「大和市下鶴間」となっているわけです。
[4884] 2002年 11月 14日(木)18:58:53Issie さん
Re:横浜線の不思議
[4874] いな さん
>町田駅(東京都町田市)の次は古淵(神奈川県相模原市)、さらに駅を4つ(淵野辺・矢部・相模原・橋本)過ぎて・・・
>つぎの相原、ここの駅名標をみてびっくり仰天、なんと東京都町田市と書いてある。

大雑把に言って理由は2つ。

1:東京都旧南多摩郡の南半部,多摩川水系と鶴見川・境川水系とを分ける分水界の南側の4町村(町田町,鶴川村,忠生(ただお)村,堺村)が1958年に合併して「町田市」になった(合体市制に先立ち,町田町は1954年に南村と合併)。その結果,境川上流部の旧堺村(相原・小山地区)が町田市に属することになり,特に西北部で細長い市域となった。

2:横浜線(全身は私鉄の横浜鉄道)を建設するにあたって,峠越えの相原駅と原町田駅との間の距離が最短となるべくルートの選定が行われた。“最短ルート”とは両地点間を“直線”で結ぶルートである。もっとも,八王子方面から真南に向かって峠を越えてきた線路を原町田駅のある南東方向に曲げる必要があるから,実際には橋本-原町田間が直線となる。
その結果,境川を2度にわたって越えることになるが,これがたまたま都県境であった。そのせいで,原町田(町田)駅を出発した電車は一旦境川を渡って神奈川県に入った後,橋本-相原間で再び境川を渡って東京都に入りなおす。ところが,そこはまだ分水界の南側であり,相原駅周辺(旧堺村)は町田市に属する。
そんなわけで,またまた町田市に入ってしまった,という次第。

確かに相原のあたりだけ取り出せば「おやっ?」ということになるのですが,「分水界の南側」という意味では町田市の形はそれはそれでリーズナブルなものにも思えます。もちろん,堺村には町田ではなく八王子と合併する選択肢もあったはずですが。町田を選んだのは町田街道で結ばれている,という点なのでしょうかね。

お気づきかもしれませんが,「相原」という地名は境川をはさんで東京都側(町田市)と神奈川県側(相模原市)に共通の地名です。橋本駅の南側に県立高校があるのですが,ここは15年ほど前に突如有名になった「橋本高校」ではなく「相原高校」です。橋本高校は橋本駅から相原駅方向へ少し進んだところにあります。なぜそうなのかというと,例の「相模原町」発足前,橋本地区は西側の相原地区,東側の小山地区や清兵衛新田(清新)地区とともに「高座郡相原村」を構成していたからです。「相原高校」は戦前の県立農蚕学校を前身とするこの地域では随一の伝統校です(もう1つの伝統校は高等女学校を直前の前進とする上溝高校)。

…というわけで「相原」だけでなく,境川の上流側から順に「小山」「矢部」「鶴間」が両岸,つまり“武蔵国多摩郡=東京都町田市”と“相模国高座郡=神奈川県相模原市・大和市”に共通の地名です。これらの地名は中世にこの地域を本拠とした武士たちの名字になっているほど古いのですが,武蔵と相模の国境が境川に固定されたのはそれほど古い話ではないようです。
要するに,「相原」も「小山」も「矢部」も「鶴間」も後から分断されたらしい。
町田市の南側境界の複雑さには,こんなところにも原因があるのでしょうね。
[13690] 2003年 4月 22日(火)09:04:17【2】KMKZ さん
隣接する同一地名
[13686]Hermit さん
日本で言えば、下関の海峡の反対側(門司)も下関というようなものです。
こういうのは日本にもあるのでしょうか。

川や海峡の両岸ではありませんが釧路市の東隣に釧路町があります。
http://map.yahoo.co.jp/pl?la=1&sc=6&nl=42.58.33.798&el=144.23.45.175&CE.x=295&CE.y=130 釧路市・釧路町
元々はひとつの自治体(旧釧路町)だったのが分離したようです。[13312]で三丁目 さんが、分離の経緯を詳説されています。

大字レベルでしたら、利根川の両岸、千葉県側と茨城県側で同じ大字名が対になっている場所が連続している例があります。
上流から並べてみると、
千葉県側茨城県側
関宿町新田戸境町新田戸
関宿町桐ヶ作境町桐ヶ作
関宿町古布内岩井市古布内
関宿町木間ヶ瀬岩井市木間ヶ瀬
野田市長谷岩井市長谷
野田市小山岩井市小山
野田市筵打岩井市筵打
http://map.yahoo.co.jp/pl?la=1&sc=4&nl=36.3.5.804&el=139.49.21.351&CE.x=214&CE.y=190 新田戸・桐ヶ作・古布内

この付近は17世紀に江戸幕府が利根川の新流路を開削した場所で、元はひとつの地区だったのが分断されてしまったわけです。

これ以外にも、分村や河川の流路変更による分断の結果として同一町名・大字名が隣接している例は多いようです。

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