長くなりそうだったので割りました。
[23421] なきら さん
金沢市は全国でも特に住居表示法による町名変更が極端に進められたところですが、それには理由があるのです。
実は、昭和38年、住居表示法のモデル都市に、金沢市が選ばれてしまったのです。
それがために、どうしてもまとまらなかった近江町周辺・竪町周辺、行政から忘れられてしまっていた卯辰山山麓のごく一部、大方が国鉄用地だった金沢駅近隣のごく一部を除き、旧金沢市の区域はほぼことごとく町名変更が行われてしまい、由緒ある多くの地名が地図上から消えてしまいました。
しかし、旧町名が生活から全く失われてしまったのかというと、そうではなかったんです。
住居表示実施前は各町々(小さい町は幾つかが連合したものもあるが)で自治会組織が結成されていたのですが、住居表示実施後も、自治会組織は旧来の区割りそのまま引き継がれました。
その後、都市開発により町域のほとんどが道路や商業ビルに飲み込まれてしまったり、ドーナツ化により人口減で他の町会に吸収合併されてしまった所もあるものの、現在でも旧町由来の区域・町会名の自治会が多数残っています。
これら自治会の中でも結束力の強い所を中心に、町名復活の運動が行われてきているのです。
一方、行政サイドでも、町名変更から約30年が経ち、新たなまち造り政策として、歴史に根ざしたまち造り、地域のコミュニティの再構築、と言ったものが掲げられるようになりました。
このことが結びついて、現在の旧町名復活の動きに繋がるわけですが、幾つかの壁があり、簡単にいくものではありませんでした。
一つは法律の壁。国サイドでは街区方式と道路方式を混在して住居表示を進めることを認めておらず、現在の街区方式の範囲内での住居表示変更、と言う形で進めざるを得ませんでした。
もう一つは時間の壁。町名変更後に住民が多数入れ替わっているところも多いです。新しい住民の中には町名復活は煩わしい手続き等が増えるだけで不必要、と言う人もいて、もめ事の種になるところもありました。
そこで、金沢市は「歴史・由緒ある地名で」「住民の総意を得ることができ」「法律の範囲を越えないこと」を条件に旧町名復活を進めることとなりました。
まず、市サイドがモデル地区として働きかけを行い、「主計町」(尾張町2丁目より)「飛梅町」「下石引町」(ともに石引3丁目より)の復活にこぎ着けました。
ついで手挙げ方式で復活が進められることとなり、「木倉町」(片町2丁目より)「柿木畠」(広坂1丁目より)が昨年復活しました。
これら5町は街区方式での町域が旧の町域とおおむね(残念ながら一部はみ出ているが)一致しています。
(4町で町境の一部が段丘崖となっているのも要因か?)
また、一部はみ出してしまった住民、逆に別の町だったのに取り込まれたところの住民も含めて合意を得ることができたため、町名復活に至りました。
ところが、これに続いて復活を予定している町で、「街区方式ではみ出してしまう部分も何とか旧町名復活できるようにしてほしい」と言う強い希望があり、金沢市が困ってしまったのです。
現在は芳斉2丁目の一部となっている六枚町は町内会一丸となって復活運動を進め、今年6月に町名復活となることになったのですが、街区方式で町域を定めた場合、10軒ほどが芳斉2丁目に取り残されてしまうことになってしまいました。
この10軒も六枚町になれるよう何とかならないか、と言う意見を受け、金沢市が総務省に街区方式と道路方式の混在を認めるよう折衝したのですが、総務省はなかなか首を縦に振らない。
(前にも書きましたね。上に行きゃ行くほどかたいんです)
そのため、金沢市では特区申請をした上で2段構えで復活をはかることも考えていたのですが、最近になって突然、
「まぁとこどこによっていろいろ事情やら経緯やらあるだろうから、弾力的にやってってよかろう」
と総務省が行ったものですから、それなら、と言うことで一気に条例化して事を進めることになったんでしょうね。
春までに条例制定を目指す、というのは六枚町の復活までに間に合わせる意味があるのでしょう。
また、これにあわせて新たな町名復活の動きが出てくると思います。
今後の動きに要注目、かも。
[23439] 稲生 さん
確かに、浜松の地図を見ると、町中はほとんど手をつけられていませんね。
新潟、富山なども町中の住居表示が進んでいません。岐阜もそうかな?
住居表示完全拒否の京都市もありますね。
これらの町のように歴史を盾にあらがい通すことができたことは、誇りに思って良いと思います。
ただ、東京の一部のように、旧町名は守り通したものの、バブル期の地上げで地域のコミュニティが完全に破戒されてしまったところもあります。
そういうところがあることを思えば、金沢のように旧町名の復活に向けて動くことができるのは幸せなことと考えるべきなんでしょうか。