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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

北海道の旧国名、制定の経緯

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記事数=10件/更新日:2006年2月11日/編集者:YSK

北海道における旧国名の制定の経緯について関連の書き込みを集めました。旧国名については、アーカイブ「信州」と「信濃」って、違いはあるの? −旧国名について−も併せてご参照ください。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[46127]2005年10月24日
デスクトップ鉄
[46176]2005年10月25日
グリグリ
[46203]2005年10月26日
Issie
[46207]2005年10月26日
北の住人
[46255]2005年10月28日
北の住人
[46261]2005年10月28日
デスクトップ鉄
[46265]2005年10月28日
北の住人
[46273]2005年10月29日
Issie
[46338]2005年10月31日
デスクトップ鉄
[46386]2005年11月1日
北の住人

[46127] 2005年 10月 24日(月)21:01:24デスクトップ鉄 さん
北海道の旧国名
初めて書き込みます。ご存知の方後教示ください。

1869年になって制定された北海道の11国はどんな意味があったのでしょうか。

その後の北海道の行政機構の変遷、すなわち1872年の開拓使の札幌本庁・5支庁、1879年の郡区町村制、1882年の3県1局、1897年の支庁制度のなかで、国はどのように位置づけられていたのでしょう。

また、旧国名と同じ名前の市町村が、北見市、釧路市、根室市、石狩市、日高町、手塩町とありますが、それぞれ、市町村名のもととなった地名と国名とはどちらが先行していたのでしょうか。釧路、根室、手塩は現在の市町の位置にあった集落名が国名に採用され、北見、石狩、日高は、市町制施行時に旧国名を採用したという理解で間違いないでしょうか。

ウェブページに「駅名接頭接尾語考」↓というのを掲載しているのですが、北海道の国名についての記載は、われながら歯切れが悪いと思います。
http://desktoptetsu.at.infoseek.co.jp/suffix.htm
[46176] 2005年 10月 25日(火)22:54:08オーナー グリグリ
Re:北海道の旧国名
[46127] 2005 年 10 月 24 日 (月) 21:01:24 デスクトップ鉄 さん
初めて書き込みます。ご存知の方後教示ください。
1869年になって制定された北海道の11国はどんな意味があったのでしょうか。
デスクトップ鉄さん、はじめまして。まだどなたも反応されていないようですね。
ご質問の件、落書き帳の過去ログを記事検索であたってみましたが、ご期待に添うような書き込みは見つからないようです。支庁名であれば、「北海道の支庁名の由来」というアーカイブがあるのですが。

1869年の北海道11国制定の話題については、なんと私自身も書いているのですが、[281][294][295][300][7739]などがありますね。この中でもIssieさんの書き込み[281][7739]が参考になるのではないでしょうか。この質問は、Issieさんの出番かなぁ...
[46203] 2005年 10月 26日(水)21:56:24Issie さん
Re^2:北海道の旧国名
本題の前に…

[46169] mi(わ)
奈良時代に「正式」とされた“漢音読み”の「けいと」ではなく

少し言葉足らずでしたね。
「けいと」が“正式”であったわけではなくて,“「正式」とされた漢音”で読むと「けいと」になったのだけどね,という意味です。念のため。
ちなみに,韓国の「京畿道」や「京釜線」などは“漢音読み”で「けいき道」「けいふ線」と読む習慣であったわけですが,むしろ“呉音”で「きょうき道」「きょうふ線」と読んだ方が実は現地の発音(キョンギ道,キョンブ線)により近かったのですね。今さら日本語音で読む必要はないわけですが。

[46176] グリグリ さん

で,何か呼ばれたようなので,本題。

[46127] デスクトップ鉄 さん
1869年になって制定された北海道の11国はどんな意味があったのでしょうか。

設置当初は,それなりの位置づけがあったように思われます。が,その後の地方制度の整備の流れの中で存在意義が失われてしまったのでしょう。
しかし,それは本州以南の「国」の場合も,ほぼ同様です。

本州以南では1900年頃までに「府県・市郡・区町村」という行政区画が確立し,北海道では 北海道庁・支庁体制 が1897年に成立するわけですが,そこまでの過程で政府に一貫した方針があったかと言うと,どうもそのようには思われません。
封建体制から郡県制(中央集権制)へという漠然とした志向は明治最初期から(少なくとも一部の行政担当者には)見られるのですが,たとえば明治4(1871)年の 廃藩置県 でさえ,明確なプログラムに基づいて行われたというよりは,“成り行き”でそうなったものであるように見えます(前述の通り,漠然とした方向性はうかがわれるようですが)。
それぞれの行政区画の性格や位置づけも,その過程で段々と変わって行ったように思われます。

北海道の場合,明治2(1869)年7月[旧暦]に国郡が編成されたとき,開拓使の下で開拓を請け負った各地の藩や個人・寺社にそれぞれの管轄地域を分与した際に,その地域は郡を単位として分与されました。たとえば,胆振国有珠郡の支配が 伊達藤五郎邦成 に与えられた,というように。他の郡についても同様です。つまり,この段階の「郡」は実質的な意味を持った区画でした。
明治5(1872)年の支庁設置,1892年の3県分割の際にも,それは国郡を単位に編成されています。
本州以南よりも1年遅れて1879年に施行された「郡区町村編制法」によって北海道でも「郡」が具体的な権限を持つ行政区画として「郡長」と「郡役所」が設置されました。これは基本的に本州以南の「郡」と同じものですが,まだ開発の進んでいない北海道では1ヵ所の郡役所が数郡をまとめて管轄する体制がとられました。
この「数郡をまとめて管轄する郡役所」が1897年に設置された「支庁」の直接の前身です。

支庁制の実施後,たとえば 胆振国虻田郡 の一部が2度にわたって「室蘭支庁管内」(現胆振支庁)から「岩内支庁」(現後志支庁の一部)および「後志支庁」に移管されるようなことがあって,現在では支庁管轄区域の境界と郡の境界とが一致しないところがありますが,その成立過程を見ると現在の「支庁」は「郡」の機能を引き継いだものと言えるかもしれません。
その一方で「郡」は単なる地域呼称として残り,本州以南よりもずっと早く実質的な行政区画としての役割を失った,と言えるでしょう。

後に「支庁」に引き継がれたとは言え,一時期は実際の権限を持った行政区画であった「郡」に対して,「国」には実質的な行政区画としての権限が与えられることは一度もなく,単なる地域呼称として終始しました。だから,「国」の方は「郡」以上に早くその存在義を失っています。

実はその点では北海道に限らず本州以南も全く同じなのですが,本州以南では奈良時代以来千年以上にわたって実質的な地方区分としてさまざまに用いられてきた歴史があるために,たとえば長野県の人がしばしば「信濃の国」「信州」に特別な感情を抱くように人々の生活に密着したものとなっていたのに対して,北海道の「国」はそのような意味を定着させる間もなく存在意義を失ってしまったのが大きかったのだと思います。

市町村名のもととなった地名と国名とはどちらが先行していたのでしょうか。

11ヵ国のうち,渡島・胆振・日高・後志・北見・千島 には独自の由来による国名ですが,石狩・天塩・十勝・釧路・根室 の5ヵ国はその領域内の地名から取られたものでしょう。それぞれの領域内には同名の「郡」があります。
「郡」の設定にあたっては,国郡設置以前に松前藩の支配下で行われていた地域区分が元になりました。たとえば 釧路郡 は「クスリ」と呼ばれていた領域,根室郡 は「ネモロ」と呼ばれていた領域に設置されたものです。
現在の 釧路市 や 根室市 の起源を「クスリ」「ネモロ」の集落に求めることはできるかもしれませんが,そこから直接に「釧路国」「根室国」という国名に採用された,と言うには微妙なものがあるような気もします。途中にワンクッションがあるような。
「イシカリ」の場合は,川の名前が先か,それとも河口の集落の名前が先か…。
いずれにしろ,ここの場合にはその次に領域名が来て,そこから「石狩郡」「石狩国」という順番になるように思います。
[46207] 2005年 10月 26日(水)23:41:00北の住人 さん
北海道の国名設定
[46127] デスクトップ鉄 さん
[46176] オーナー グリグリさん
[46203] Issie さん
北海道大学附属図書館資料の閲覧サイトにこんなのがあります。
明治2年の国名ノ儀ニ付申上候書付北海道々国郡名撰定上書郡名之儀ニ付申上候書付(いずれも松浦武四郎)
私には訳すのが難しいですが、「国名ノ儀ニ付申上候書付」の冒頭数ページに北海道に国を置く必要性などが書かれており、68州に匹敵し広大である、壱岐・対馬なども68州の内に入っている、諸外国の侵略を食止める必要もある、というような内容のようです、多分。

また、国の範囲と命名についての説明もあります。釧路、根室、石狩、天塩、十勝については、多分、その地方の中心であった江戸期の「商場」「場所」(交易場のようなもの、名称の元はアイヌ地名)を採用し、漢字を当てている様です。分らない漢字があったり解像度が低いので詳しく読んでませんが、内容は、「北海道の支庁名の由来」の通りだと思います。

角川日本地名大辞典によると、釧路市、根室市、石狩市、天塩町の命名も、もとをたどれば「場所」名から来ているようです。北見市は「北見地方(網走支庁管内の通称、由来は北見国?)」から、日高町は「日高山脈(由来は日高国?)」から取ったようですね。
[46255] 2005年 10月 28日(金)14:18:51北の住人 さん
北海道の国
[46207] の追加
1897(明治30)年の郡役所廃止、支庁設置で行政区画としての意義を失った北海道の「国」(詳しくは[46203] Issie さんの説明をご覧下さい)ですが、郵政と鉄道には位置を示すために残った様です。
郵政関係は調べていませんが、手元に鉄道関係の資料があったので紹介します。

支庁設置前である1896(明治29)年の「北海道鉄道敷設法」で北海道の場所を表すのに「国」を用いていますが、1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも「国」を使って場所を表現しています。この法律はその後幾度か追加があり、1953(昭和28)年の時点でも、「国」を使っているようです。1961(昭和36)年の追加では「国」は使ってないようです。(法律の原文は読んでません。)

なお、1862(明治25)年公布の「鉄道敷設法」は本州、四国、九州が対象なんですが、ここに出ている地名は「国」を用いず「府」「県」を使っています。1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも同じで、「国」を使っているのは北海道のみのようです。
[46261] 2005年 10月 28日(金)20:17:54デスクトップ鉄 さん
Re: 北海道の国名
みなさま、回答いただきありがとうございました。

[46203] Issie さん

実はその点では北海道に限らず本州以南も全く同じなのですが,本州以南では奈良時代以来千年以上にわたって実質的な地方区分としてさまざまに用いられてきた歴史があるために,たとえば長野県の人がしばしば「信濃の国」「信州」に特別な感情を抱くように人々の生活に密着したものとなっていたのに対して,北海道の「国」はそのような意味を定着させる間もなく存在意義を失ってしまったのが大きかったのだと思います。

県民性とは「旧国」民性だったと思います(祖父江孝男『県民性』に、淡路、播磨、但馬、丹波、攝津にまたがる兵庫県の県民性がはっきりしない旨の記述があった)。その意味では、北海道の「国」は単なる地域区分で、国としての一体感をもたらす存在ではなかったのでしょうね。

11ヵ国のうち,渡島・胆振・日高・後志・北見・千島 には独自の由来による国名ですが,石狩・天塩・十勝・釧路・根室 の5ヵ国はその領域内の地名から取られたものでしょう。

本土で、集落名が国名に出世したのは、紀伊だけだと思いますが、さすがに明治になって制定された北海道では、多くの集落名が国名に採用されたのですね。

出雲市、日向市など国名を命名した市町村は、駅名に「市」・「町」をつけています。ところが、北海道の北見、釧路、根室はつけていない。このうち、釧路、根室は、国名よりも先行して存在した地名を採用したのだから、本土の国名市とは事情が異なります。かつては、天塩町と日高町にも国鉄の駅があり、手塩は手塩駅、日高は日高町駅だった。とすれば、やはり、北見は野付牛からの改称時に北見市駅とすべきでなかったのかと思います。

[46207] 北の住人 さん
明治2年の国名ノ儀ニ付申上候書付、北海道々国郡名撰定上書、郡名之儀ニ付申上候書付(いずれも松浦武四郎)

同じころ日本の版図に組み込まれた沖縄には国を設置せずに、北海道だけに置いたのは、松浦武四郎の上申書によるものだったのでしょうか。

[46255] 北の住人 さん
支庁設置前である1896(明治29)年の「北海道鉄道敷設法」で北海道の場所を表すのに「国」を用いていますが、1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも「国」を使って場所を表現しています。この法律はその後幾度か追加があり、1953(昭和28)年の時点でも、「国」を使っているようです。1961(昭和36)年の追加では「国」は使ってないようです。(法律の原文は読んでません。)

たしかにそうです。「鉄道敷設法」別表で、北海道だけは、「石狩国白石ヨリ胆振国広島ヲ経テ追分ニ至ル鉄道及広島ヨリ分岐シテ苫小牧ニ至ル鉄道」のように国名を用いているのです。「日本国有鉄道百年史」(たぶん第3巻)に北海道の鉄道網の拡大を示す地図が掲載されており、その地域区分も「国」になっています。

ところで、国名が身近に使われているのは、鉄道の駅名です。最初に国名を冠したのは、筑前植木で、筑豊鉄道が九州鉄道に合併した1897年10月、既設の九州鉄道植木駅と区別するために、国名を冠した。その後、1906年の鉄道国有化により私鉄が買収され、多くの国名駅が設置されています。

それでは、遠隔地の同じ地名の駅と区別するために、なぜ国名を冠したのか。当時は、国名のほうが県名(支庁名)よりもなじみがあったのでしょうか。
[46265] 2005年 10月 28日(金)23:19:41北の住人 さん
北海道の国名
[46261] デスクトップ鉄 さん
本土で、集落名が国名に出世したのは、紀伊だけだと思いますが、さすがに明治になって制定された北海道では、多くの集落名が国名に採用されたのですね。
国名に採用されたのは「集落」名というよりも「領域」名と言った方が良いと思います。[46207] の「商場」「場所」は集落というよりも、漁場・交易などを行う一定の範囲を指しています。交易は鮭・鱒が中心だったので、その範囲はある川の河口から海岸線一帯で、隣の場所の境界までだったわけです。また、定住していたわけではないので、当初は集落というものが無かったと思います。
石狩・天塩・十勝・釧路については、「国」の範囲を設定するのに「川」を使っていると考えられます。これらの川は、比較的規模の大きな「場所」の名となっており、その河口が現在の都市名となっています。「川」名が先か「集落」「領域」名が先かということが問題となりますが、集落は後からできたものであり、「川」名が先のようです。

北海道に「国」を置いた理由は勉強不足で良く分りません。開拓殖民上の理由や対外的に必要だったのではないかと今の所考えていますが。
[46273] 2005年 10月 29日(土)10:43:51【2】Issie さん
続続・北海道の国名
[46261] デスクトップ鉄 さん
同じころ日本の版図に組み込まれた沖縄には国を設置せずに、北海道だけに置いたのは、松浦武四郎の上申書によるものだったのでしょうか。

[46265] 北の住人 さん
北海道に「国」を置いた理由は勉強不足で良く分りません。開拓殖民上の理由や対外的に必要だったのではないかと今の所考えていますが。

私は,それまでの「遠方の連中が都の天子(中国なら皇帝,日本なら天皇)に貢物を贈ってきたら“服属した”とみなす」という東アジア的な曖昧な領域観ではなく,16世紀以来のヨーロッパで鍛えられて19世紀には“世界標準”とされるようになった「近代国家」観に基づいて,
要するに“日本の領域”として正式に編入する行為であった,と考えています。

明治2(1889)年当時,全国を一律に区画する区分は「道・国・郡」しかありませんでした。
この段階では“空間的な地域区分”(道・国・郡)と“実際の統治上の行政区分”(府・藩・県)は一致しない,ある意味“次元の違う”ものでした。ちょうど「北海道」が設置されたのと同じ時期に 版籍奉還 とそれに対する天皇(政府)の回答である 知藩事任命 とが行われて「藩」が“正式な制度上の行政区画”になり,知藩事(それまでの大名)たちは“天皇によって任命される地方行政官”となったのですが,その領域は政府直轄の“府・県”同様,飛地だらけのものでした。
“府県”が“国”に代わって“空間的な地域区分”として広く受け入れられるようになるのは,廃藩置県後の府県再編を経てさらに時間の経った明治半ばまで待たなければならないようです。

沖縄や樺太(当時は[一応]日本領で“も”あった)ではできなくて北海道でできたのは,まず,「館藩」(旧松前藩)の管轄であった最南部4郡(爾志・檜山・津軽・福島)を除いて全域が“政府直轄”であったことが挙げられるのではないかと思います。
樺太はロシアとの共有地でしたから,相手国との調整が必要に思います。
「沖縄」とはこの段階,沖縄本島とその周辺だけをさす地域名であって,“公式”には「琉球」と呼ぶのだと思うのですが,ここの場合,
1)その帰属に関して清との調整がついていない
2)具体的な行政区分が画定されていなかった(「場所」は商人たちの“請負区域”に過ぎない)旧蝦夷地とは違って,琉球には首里王府による統治機構が整えられていて,新たに行政区画を画定する必要はない
3)琉球は「鹿児島藩」の管理下におかれていて,政府の直接支配が及ばない
あたり,特に3)が最も大きな理由ではないか,と思います。
1879年の 琉球処分 で「沖縄県」が設置されても,かなり長い間従来の行政区画が温存され,国頭・中頭・島尻・宮古・八重山 という「郡」は,要するにそれまでの区画の呼称を変えただけのものでした。

[46261] デスクトップ鉄 さん
本土で、集落名が国名に出世したのは、紀伊だけだと思いますが

[46265] 北の住人 さん
国名に採用されたのは「集落」名というよりも「領域」名と言った方が良いと思います

「紀伊」も,基本的に「石狩」と同じだと思います。千年以上も時代が違いますが。
もし,デスクトップ鉄さん が和歌山市の「紀伊地区」について仰っているのであれば,それは違うと思います。
紀伊地区は1959年に和歌山市に編入された元の 海草郡紀伊村(発足当時は 名草郡) ですが,この「紀伊」という村の名前自体は1889年の“明治の大合併”によって発足した新自治体が新たに採用した“新地名”です。少なくとも江戸時代,ここに「紀伊村」という村があったわけではありません。その点で,野付牛町 が市になるにあたって「北見」を採用したのと基本的には同じ性格のものです。
阪和線の「紀伊駅」は,開設当時ここが 紀伊村 だったからですね。

反対に,たとえば「丹波」の国名の由来は,現在は京丹後市に属している 旧中郡峰山町 の「丹波」地区にルーツがあると考えられています。
この辺りから範囲を徐々に拡大して一国の名前となったわけです(「丹後」は後に 丹波 から分割されました)。
このようなパターンは「土佐」などにも見られ,あるいは「大和」も元々は現在の桜井市付近の地名だと考えれていますから,同じ性格のものと言えそうです。

でも言うまでもないことですが,その当時(5~8世紀)の集落と現在の集落とが直接に連続するわけではありません。京丹後市の「丹波」集落が,古代の「丹波」そのものでは,たぶんないでしょうね。
一般的に,現存する集落の多くが直接にさかのぼれるのは大略“太閤検地”,あるいはもう少しさかのぼっても室町時代あたりまでであって,それ以前と以後では集落の性格そのものが本質的に違う,と考えています。
[46338] 2005年 10月 31日(月)21:47:46デスクトップ鉄 さん
北海道鉄道敷設法
[46255] 北の住人 さん
支庁設置前である1896(明治29)年の「北海道鉄道敷設法」で北海道の場所を表すのに「国」を用いていますが、1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも「国」を使って場所を表現しています。この法律はその後幾度か追加があり、1953(昭和28)年の時点でも、「国」を使っているようです。1961(昭和36)年の追加では「国」は使ってないようです。(法律の原文は読んでません。)

なお、1862(明治25)年公布の「鉄道敷設法」は本州、四国、九州が対象なんですが、ここに出ている地名は「国」を用いず「府」「県」を使っています。1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも同じで、「国」を使っているのは北海道のみのようです。

1922年改正の「鉄道敷設法」は、すでに開業した幹線を補完する支線の敷設を定めたものです(建主改従路線の政友会内閣による「我田引鉄」法です)。幹線の敷設を定めたのは、1892年の「鉄道敷設法」と1896年の「北海道鉄道敷設法」ですが、この「北海道鉄道敷設法」は、提案された時点の条文と表記法が異なっていました(「日本国有鉄道百年史」第4巻による)。

1896年2月10日に提案の法案では、敷設すべき鉄道として
・旭川ヨリ以東十勝釧路ヲ経テ網走ニ至ル鉄道
・旭川ヨリ宗谷ニ至ル鉄道
・奈与呂ヨリ網走ニ至ル鉄道
・小樽ヨリ函館ニ至ル鉄道
と、国名を使用していません。
ところが、5月14日に交付された法律には、
・石狩国旭川ヨリ十勝国十勝太及釧路国厚岸ヲ経テ北見国網走ニ至ル鉄道
・十勝国利別ヨリ北見国相ノ内ニ釧路国厚岸ヨリ根室国根室ニ至ル鉄道
・石狩国旭川ヨリ北見国宗谷ニ至ル鉄道
・石狩国雨龍原野ヨリ天塩国増毛ニ至ル鉄道
・天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道
・後志国小樽ヨリ渡島国函館ニ至ル鉄道
と、2路線が追加され、なぜか国名が付け加わったのです。1896年当時の北海道の行政区分は、支庁制制定前の3県1局の時代です。

なお1862年公布の「鉄道敷設法」は、すべて府県名表示です。1922年改正の「鉄道敷設法」も、北海道以外は、佐渡と淡路を除きすべて府県名表示です。

[46261]
「日本国有鉄道百年史」(たぶん第3巻)に北海道の鉄道網の拡大を示す地図が掲載されており、その地域区分も「国」になっています。
と書きましたが、第4巻でした。
[46386] 2005年 11月 1日(火)20:12:41【1】北の住人 さん
北海道の国
[46338] デスクトップ鉄 さん
「北海道鉄道敷設法」の提案時には「国」が使われていなかったという話、そこで、こんなことが起こったのではないかと想像してみました。
「奈与呂というのはどこだ。聞いたことないよ。」
「地図によると天塩国のこの辺だね。」
「それじゃ、分り易いように国も入れてくれ。」
この1896(明治29)年頃の名寄には、村がまだできていなかったようです。

道路はどうなっているのかと思い、 日本の道で古い法令類をあたってみると、内務省告示「國道表」で、北海道以外にも「○○国」が大正4年まで使われていました。

鉄道も道路も地図が絡んでいるので、地形図はどうなのか調べた所、昭和30年代頃まで「国」の境界線があり、欄外の行政区画の説明で「国」が使われています。「道路」については大正までですが、地図上「国」という概念は、昭和にも残っていた様です。

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