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琉球の歴史

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記事数=52件/更新日:2020年7月2日

タイトルに「琉球」という地名を使ったのは、同じ南西諸島ですが鹿児島県に属する 奄美群島などの島々にも 言及するからです。
「沖縄県」の領域に制約されることなく、本島中心のイメージが濃い「沖縄」よりも少し広い地域を表す気分。[80962]参照。

Issie さんは、「沖縄と琉球」という記事[16388]で、次のように解説しています。
「琉球」というのは,(中略)中国王朝(具体的には明と清)との冊封関係を背景にした呼称なのでしょうね。

明への朝貢関係は 1372年中山王察度に始まるというから、佐敷の尚巴志による三山統一(1429)よりも半世紀以上前のことです。
そして、実質的には薩摩(島津氏)の支配下になった 1609年以後も、清朝との冊封関係に基づく貿易を続けた「琉球王国」。
中国や日本が消極的な海外政策を取っていた時代に、琉球はマラッカなどとの間の中継貿易で活躍。

しかし、近代日本は、「琉球処分」と(本土から8年遅れの)「廃藩置県」により国内化(沖縄県化)を推進。
建前上の宗主国である清国との間では、当然 領有権問題が発生したが、その決着を見る前に 日清戦争になり、日本は台湾を獲得。
その結果、台湾よりも手前にある琉球全域の日本領有は、自動的に確定?[80962]

このようにして、沖縄県の日本化が進められました。
市区町村変遷情報は、明治29年の沖縄県区制施行と郡編制(5郡設置)に始まり、明治41年の沖縄県及島嶼町村制と、本土に準じた地方制度が整えられてゆく過程を記録しています。
大正3年に行なわれた八重山村の4分割は、石垣島3間切がそれぞれ西表島に子村を持つという琉球王国以来の区画を解体し、新たに島単位の領域に改めるという再編成を内容とするもので、[27588]で特に解説がなされています。

そして、沖縄県の町村は 大正9年勅令第193号により 本土と同じ「町村制」の下になりましたが[64955]、大東亜戦争末期から予想外の大波に翻弄されます。

1945年の米軍上陸>沖縄地上戦>日本の敗北>収容所と軍政>米国統治下の民政>1972年の日本復帰という一連の動きに関する記事は、特集:米国統治下の沖縄 を御覧ください。
但し、本土の「8月15日」に対応する「6月23日」についての記事[80990]は、この特集に追加しました。

占領下では 勅令どころか憲法以上の絶対的な規範とされた マッカーサー元帥指令 SCAPIN-677[56190] (1946) により日本から取り上げられた 「外周領域」には、“北緯30度以北の琉球(南西)諸島” と記されています。
ここで使われた「琉球(南西)諸島」も、北緯30度という線を境界として、ヤク(屋久島)・タネ(種子島)よりも 南にある島[49028] 、つまり 吐喝喇・奄美・沖縄・先島という 南西諸島の大部分の島々を総称しています。

沖縄県発足後の 「琉球国」について。
“沖縄県下琉球国首里城”のような用例(1882)[75974] における「琉球国」は 言わば「地理的な慣称」であり、明治以降ではあるが 一応は正式に制定された「石狩国」等[59112] と完全に同列の存在ではない と思われます。

薩摩・大隅の2国は8世紀初期に日向国から分立とか[9247]。ここで扱う広義の「琉球」は、その外側にあって、奈良時代の「養老令」による「国」[44892]が置かれていない地域だったのでした。奄美が大隅国大島郡という形で内地並みの行政区画になったのは、沖縄県が設置された明治12年のこと[49001]

大東諸島は、便宜上沖縄県所属とされたが、初期の開拓者は八丈島の人で、その後は 全島が 本土資本の製糖会社私有地という 特殊地域になりました。
自作農が耕す「普通の島」になり、製糖会社も含めて沖縄化が進行したのは 戦後のことでした[56334][70399]
大東諸島は、歴史的にも地理的にも「琉球国」に属するとは思われません。小笠原諸島と同様に、「国」について無所属か?

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[3971] 2002年 10月 18日(金)13:42:18ken さん
琉球
[3967]
奄美と琉球の関係は歴史を遡ると3つの段階を考えないといけませんね。

1)まず1609年の島津氏による琉球侵攻ですね。
この段階で、奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
以後明治まで300年近く、島津氏の領土として「ヤマト」の一部としての歴史を刻みますよね。
この年月は、単に元々琉球だったから、というにはちょっと重い年月ですね。

2)さらに、明治初年の「琉球処分」と廃藩置県、
このときに「奄美」をどうすべきだったか、というポイントがありますね。
このとき、奄美は当然鹿児島県ですが、まだ琉球は一応独立国ですし、尚王が爵位を得て東京に移り、琉球藩が成立して、沖縄県が成立し、明治政府から派遣された県知事が赴任しても、辛亥革命で清朝が滅亡するまで、清の武力を借りての琉球王朝再建を目指す「亡命琉球王朝勢力」が福州に存在していましたし。

3)で、この2つを踏まえて、第2次大戦後のアメリカ占領からの返還時の、沖縄&奄美の扱いを捉えねばならないと思います。

まだ、世界中で行われていることですが、占領、既成事実化、入植、同化政策、等々。単にノスタルジックな文化圏というよりももっと、生臭い政治政略の結果でもあるわけです。

歴史をどこまで遡るか。
カリーニングラード州は本来誰のものなのか?というような、非常に難しい問題ですね。
[4027] 2002年 10月 20日(日)01:02:54てへへ さん
奄美ネタ
最近の書込み状況からすると2日も経つと遅レスという感じですが・・・。

[3971]Kenさん
>奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
について補足します。

・1609年 4月 1~5日 薩摩軍が首里城占拠し、尚寧(しょうねい)王は下城、薩摩に連行される。
・1610年 8月 8日 島津家久と共に尚寧王は駿府の家康に謁見。同28日、江戸の将軍秀忠の謁見。薩摩による琉球支配が公式のものとなる。
・1611年10月10日 2年半にわたる抑留が解け尚寧王帰国。「琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。そのため琉球はいったん滅んだが、島津の恩情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再びあたえられた。この御恩は子々孫々まで忘れず、決して島津氏にそむかない」という起請文の提供を強制される。

 鹿児島県の公式サイトでも、一方的に侵略した島津氏が琉球の支配を開始し、中国に対しては琉球国が薩摩藩の領土となったことを隠し独立国としての体裁を保ったとしています。
 つまり、武力により行政権を掌握したのですから基本的には占領です。ただその2年後に奄美群島は琉球から薩摩藩直轄となり、琉球は対外的には独立国のまま薩摩に属するという状況になったので、琉球から薩摩藩への割譲という言い方もされているのだと思います。この扱いの違いが、奄美群島が鹿児島県か沖縄県かということに大きな影響を及ぼします。

 そもそも琉球王朝は13世紀から100年以上かけて支配領域を北に広げ、1571年の尚元王による奄美大島征服で奄美群島は完全に琉球王朝時代になります。この時代の扱われ方は琉球の他の島と大きな違いはないようです。
 1609年以降は琉球も奄美群島も圧政下で砂糖栽培の植民地の様相を呈し、制度なども日本化していきます。ただし、琉球では独立国としての顔を保持することが薩摩にとってプラスであることから、文化面では日本風の苗字や衣服の使用が禁止されています。

 先ほどの薩摩直轄か対外的独立国かの違いは、そのまま明治初年の琉球処分と廃藩置県に現れます。
・1871(明治4)年 7月14日 廃藩置県。奄美群島、琉球ともに鹿児島県管轄となる。
・1872(明治5)年 9月14日 琉球藩設置。尚泰王を琉球藩王とする琉球藩を設置。廃藩置県後の唯一の藩設置。鹿児島県管轄から政府(外務省)直轄に。
・1875年(明治8) 鹿児島県が奄美大島・名瀬に大島「大支庁」を、各離島には支庁を設置。
・1876年(明治9) 琉球が清国に最後の進貢船を送る。
・1877年(明治10) 西南戦争。
・1879年(明治12) 3月11日 軍隊を伴い強制的に琉球藩を廃止。沖縄県設置。琉球王朝の滅亡。日本政府の琉球占領ととらえた琉球国民が清に救援を求め政府に抵抗したあたりの話は [3971]Kenさん のとおりです。清には余裕がなく救援はありませんでした。その後、日清両国間で沖縄を2分割または3分割する分島問題がおこりますが、亡命中の琉球の人の祖国分割抵抗運動などにより、結局まとまらず琉球に対する日本の領有権が事実上確定します。

 さて1945年以降ですが、米国は「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族」として、米軍占領後は韓国のように独立させることも検討していたようです。その際、奄美群島をもともとは琉球の領土とみなし日本から切り離して沖縄の一部に加えることも考えたようです。
・1946年(昭和21) 2月 2日 北緯30度以南の奄美諸島の行政権の米軍管理開始。行政組織が日本から分離した日は沖縄も奄美群島も同じ日。(復帰日は異なります)
・1952年(昭和27) 2月 4日 サンフランシスコ平和条約に基づき北緯29度以北(現在の十島村、三島村)が復帰。
 この条約調印前後の本土復帰運動は奄美群島の方が激しかったようです。復帰要求署名は奄美群島では住民の99.8%(沖縄本島で72%)。また奄美群島では村ぐるみの断食祈願がありました。米国の統治下、渡航許可は那覇経由の申請となり手続きに数週間かかり、本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられ売れず、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップ、米国からの援助は奄美群島よりも軍事上の重要度が高い沖縄本島の復興が優先され、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていきました。つまり、戦争による破壊具合は沖縄の方が大きく、日本と切り離された打撃は奄美群島の方が大きかったようです。
・1953年(昭和28)12月25日 奄美群島が日本に復帰。
・1972年(昭和47) 5月15日 沖縄が日本に復帰。
 双方の復帰までの動きに関連はあったとは思われますが基本的に別々に行われたようです。沖縄県の公式サイトでは、奄美諸島でも独自の復帰運動を展開、とあります。

[3943]桃象@国仲涼子ファン さん
>奄美諸島も好きです。昭和28年に奄美諸島が返還されたとき,鹿児島県に帰属なったのは,やはり失敗だったと思っています。まあ,思いつきと言われれば,それはそうなのですが,やはり奄美諸島は鹿児島県から分離して,1つの県とするか,沖縄県と一緒になった方が奄美・琉球文化圏の発展にいいんじゃないかなと思うんですけどね。

奄美群島の復帰後20年もの間、沖縄県は存在していません。背景としては、今なお尾を引く米軍基地問題も関係してますね。

 今年2002年8月7日に、東京都港区の増上寺で開かれた「沖縄本土復帰30周年(2002年)と奄美本土復帰50周年(2003年)を考える」というテーマのシンポジウムがあり、両地域の独自性を守るべきだとの議論があったそうです。
 一つの文化圏であっても、都道府県が行政区分である以上、奄美群島が鹿児島県に所属したことは必然と思われます。なお所属する都道府県の変更については以前に[3866][370]で論議があったとおりです。
[9247] 2003年 2月 15日(土)09:16:59【1】Issie さん
ひ・そ
[9220] utt さん
ツクシ、トヨ、ヒ、クマソ。なるほど、古事記からですか。

たぶん,これは神話が先にあったのではなくて,この神話が形成された当時の地理感覚を下敷きにできあがった話であるように考えています。
[9237] の YSK さんのお話と通ずるところですね。

ひの国も、肥前、肥後に分かれてなかったら、今ごろ「肥伊」になっていた可能性もあったのでしょうね(笑)

出雲(島根県)を流れる「ひ」という川(ひのかわ)は,やはり古事記にスサノオがヤマタノオロチを退治した話(「草薙の剣」の誕生譚でもありますね。出雲の砂鉄製鉄を下敷きにしたもの,と考えられています)に登場する川ですが,こちらは後に「ひい」と引き伸ばされて現在は「斐伊川」と表記されます。
一方,明治半ばの郡制施行による再編で出雲平野西半の3郡(出雲[しゅっとう]・神門[かんど・こうど]・楯縫)が統合されて「簸川(ひかわ)郡」が新設されますが,ここでは古形の「ひ」が復活していますね。

宮崎、鹿児島は共通の文化圏とゆうことを考えたら、日向は、クマソの国に入りそうな気がします。

確認してみたら,「薩摩国」は8世紀の初めに,「大隅国」は713年に,それぞれ「日向国」から分立,とあります。
元は南九州を漠然と「ひむか」と認識していたのかもしれません。
「大隅国」の設置が遅れたのは,何より「ソ(噌唹)」の地域を本拠とする「ハヤト(隼人)」の抵抗があったからですから,サツマ地域が律令国家の支配に服するようになったのは肥後の側からであったのでしょうね。現在も「薩摩郡」が存在するように,「サツマ」とは本来,川内平野のあたりの地名であったようです。
ハヤトの抵抗は頑強で大隅国設置後も続き,「万葉集」に登場する大伴旅人もハヤト制圧軍の将軍として出征しています。この人は九州に縁が深くて,大宰府の長官であったとき,同時期に筑前国の長官であった山上憶良らと「九州歌壇」のようなものを形作ります。もっとも,旅人自身は藤原氏が急速に成長してきた都から左遷されたと認識していたようですが。

…というわけで,薩摩も大隅ももとは日向の一部,ということになるようですが,これが古事記の「クマソの国」というのには,ちょっと気になることがあります。
だって,「ヒムカ」というのはアマテラス(天照大神)の孫のニニギが降り立ち,さらにそのひ孫の神武天皇がヤマトへの東征に出発したところ,というお話になっていますから。
これが「歴史上の事実」で,しかも「2660年あまり前」のことかどうかは脇に置いておいて,少なくとも日向地域が早い段階からヤマトと関係があったことは事実であるようですから,そこを非服属民の「クマソ」で呼ぶのは,どうだろうか,と思います。
皇室ととりわけ関係の深い(ということにしてある)地域ですから。

もっとも,この手の書物がたいていそうであるように,「古事記」も一貫したストーリー構成にしたがって著述されたものではなくて,いろいろな説話の寄せ集めですから,あちらこちらに齟齬をきたしているのは確かなのですけどね。

ところで,宮崎・鹿児島両県の文化的な同質性ですけれども,これは必ずしも古代(あるいは“超古代”)までさかのぼるわけではなくて,中世以降にこの地域が島津氏によって一体的に支配されたことの方が大きいのでないかと思います。
[9272] 2003年 2月 15日(土)18:48:58ペーロケ[utt] さん
島津
[9241]夜鳴き寿司屋さま
そういえば松山の郊外の松前町にはスクラップになった国産旅客機YS11の機体を使ったレストランがあったのですが、
え~知らないです。
そんなのがあったのですね。今度探してきます。
うーん、松前町もなかなか侮れない。

[9247]Issieさま
「ひむか」の国、クマソとは別の説、天皇の先祖が天から降り立つなど。。。
しかし、古事記の神話も、凄いストーリーですな。
中世以降にこの地域が島津氏によって一体的に支配されたことの方が大きいのでないかと思います。
そうですね。しかし、奄美地方や琉球王朝も実質的には島津の支配下だったようで、
サトウキビ、清朝との貿易品などを上納させていたとの話を聞いたことあります。
島津氏は、「信長の野望」で後方の憂い無く、
比較的楽に天下統一できるパターンですね(^^)
[9278] 2003年 2月 15日(土)21:02:52【1】Issie さん
Re:島津
[9272] utt さん

「古事記」は物語としては実に面白いものです。昨年(だったかな),それを口語訳したものが出版されて,「西アジア一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の厳格な神とは違って,おおらかで大雑把でユルユルの神様たちの世界」なんて紹介が新聞の書評欄に載っていましたが,ま,このユルユルさが古代の日本列島の住民の感覚だったんでしょうかね。
(もっとも,この「口語訳」が“老人の語りかけ調”にするという「余計な味付け」をしている点,私は好きません。もともと「古事記」自体が口承文学あったし,この語りかけ口調を評価する人も多いのですけどね。関係ないことですけど,余計な味付けをしている分,私は「イクラ」も「辛子明太子」も好きじゃないのですよ。それだったら,味付けの度合いの少ない「すじこ」や「たらこ」の方が好き。)

奄美地方や琉球王朝も実質的には島津の支配下だったようで、
サトウキビ、清朝との貿易品などを上納させていたとの話を聞いたことあります。

島津氏が琉球を征服するのは江戸時代が始まったばかりの1609年のことです。
地理的に近いことから,それ以前,おそらくは「琉球」が国家としての形を確立した頃から島津氏との関わりは特別に深かったのでしょうが,この征服によって島津の直接・間接の支配を受けることになりました。
征服された当時,「琉球王国」は本拠地である(狭義の)沖縄だけでなく,奄美と先島(宮古・八重山)の3地域を支配下においていました。したがって,この地域は文化的にも,言語(方言)の上でも同質の地域を構成します(本土と大いに異なる,という点で)。

琉球を征服した島津氏は,このうちの「奄美」を首里の王府から切り離して直接支配下に置きました。これが現在に至るまで奄美が鹿児島県に含まれる根拠であり,また敗戦後に米軍が“かつての琉球王国”に等しい奄美・沖縄・先島の3地域を占領したにもかかわらず,奄美だけをかなり早い段階に日本に「返還」した根拠でもあろうと思います。
そして島津氏は奄美の島々にサトウキビを栽培させて砂糖を専売制下に置き,これを本土に「輸出」することで大きな利益を上げました。ちょうどイギリスが西インド諸島(カリブ海)で行った砂糖のプランテーション経営と似たようなものなのだと思っています。島津家中(薩摩藩)は,すでに奄美で「植民地経営」を経験済みだったのですね。
ただし,薩摩・大隅・日向南部の一般領民が奄美へ移住することは厳しく制限されていたでしょう。したがって,島津氏の支配下にあっても奄美は独自の文化を保ち続けました。

残りの沖縄と先島については,首里王府が存続してその支配下に置き,鹿児島からは監督官が赴任して間接支配とする,という形態をとりました。たとえてみれば,敗戦後の日本が連合国総司令部の監督下に自前の日本政府を組織して,この日本政府が実際の統治を行った,というのと同じようなものでしょうか。
そして,首里王府に外交・貿易権を与えて対外的(特に対中国)には“中国の服属国”たる「琉球王国」として,対中国(初めは明,ついで清)外交とそれに付随する貿易(この時代,どちらが主でどちらが従かわからなくなっていますが)を行わせ,その貿易からあがる利益を吸い上げる(さらに,コッソリ幕府が禁止している密貿易も行っちゃう)。
あるいは琉球特産の芭蕉布や砂糖をやはり本土へ輸出することで利益を上げていたわけです。
[9303] 2003年 2月 16日(日)02:24:34【2】ken さん
琉球処分
[9278]Issie さん
そして,首里王府に外交・貿易権を与えて対外的(特に対中国)には“中国の服属国”たる「琉球王国」として

そうなんですよね。このあたりが琉球の歴史の複雑なところで。

明治の琉球処分時にも、日本による併合を認めず、琉球王朝残党の一派は、清の福州に亡命し亡命政権として活動し、清の軍事力を借りて、日本を駆逐しようと、活動していました。
実際には尚王自身が、東京に招かれての華族生活にすっかり魅了されて、精神的な拠り所を失って行きますが。
清朝の滅亡まで、一応形式的には、親清派の在清琉球王朝亡命政権は存在してました。
島津氏に実行支配されていたとはいえ、外交上は独立国だった、琉球を併合したことについては
、現日本政府、外務省は、「遺憾」には思ってないんでしょうね。

ご興味のある方には以下の本をご一読されることをお薦めしよう、と思ったら、版元品切れですね。図書館ででも。
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=01302903
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=01321676

そういえば、ついでながら、最近刊で、同様に独立国の併合についての本質を考えるきっかけとして、
文春新書の新刊「ハワイ王朝最後の女王」
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=31078478
も、アメリカとイラクのこととかを考える上でも、押さえておいて欲しい、案件です。

日清戦争による、日本の台湾領有よりも、アメリカ合衆国の武力恫喝によるハワイ王国併合の方が最近のことです。

米西戦争も意識的な情報操作の結果、あまり細部が触れられていないのだと思いますが、米西戦争のアメリカの勝利によって、スペインの植民地だったフィリピンはアメリカに「譲られた」と思わされていますね。
しかし、実際には、米西戦争の過程で、スペインの支配力が弱まり、兼ねてよりフィリピン独立を画策していたアナギルドはフィリピン革命政府を樹立、1898年9月29日に初代フィリピン共和国大統領に就任。しかし、米国はこの革命政府を承認せず、約2年間に及ぶ、米軍とフィリピン革命政府との戦闘の末、米国はフィリピンを支配。
というのが実態で、スペインから米国に割譲された、という単純な問題ではなく、米国はフィリピン人と戦争をして、占領したのです。
なので、条約としては1898年に米西両国の条約でフィリピンの割譲が交わされていますが、米国による実効支配が確立したのは1901年のことです。
アナギルドと共に米国と戦ったリカルテ将軍は、米軍に捕らえられ、グアムに流刑、丸木舟で脱走し、ボルネオ、シンガポールを経て、香港に身を隠し、英国官憲に捕まったが、フランス領事に救われ日本に亡命。後藤新平の保護下で、日本国籍を得て、南彦助として、横浜でカフェを経営し、寂しく暮らしたという。
横道にそれました。

日清戦争の結果の下関条約で、台湾の割譲が決まったのは1895年ですから、1898年の米国によるフィリピン侵略と同年のハワイ併合の方が、3年ばかり最近の出来事なのですが、前者についてはやたらと謝罪させられ、後者は正義の権化として君臨しているのは、何か矛盾を感じますよねえ。

何を侵略と呼び、何を正義と呼ぶのか。
政治談議の掲示板ではありませんが、ま、基礎知識として、歴史的事実を押さえないと。
琉球の話から、台湾、ハワイ、フィリピンに飛び火しましたが、本質は同じ要件です。
イラク問題を考える上でも、ハワイ、フィリピン問題を客観的に分析することは彼の国の体質を、冷静に見抜く上で重要です。
[13521] 2003年 4月 20日(日)11:04:56【1】夜鳴き寿司屋 さん
西蔵自治区(チベット)の行政地域(訂正版)
[13507] ken さん

 チベット問題に対するレスをありがとうございます。朝鮮と同じように清朝に朝貢していたとはいえ独立した国家を築いていたチベット社会に対して、中国が征服した側面が確かに強いですね。
 最近の新疆ウイグル自治区における東トルキスタン分離独立運動を民族自決運動でなくビンラディンらと関係するテロリストとして取り締まっているので、チベットと同様に新疆ウイグルに対しても武力による統制が昔も今も続いていますね。
 日本が琉球王朝を沖縄県として編入した事がありましたが、独立国を併合したのでは征服ですね。最近でもインドに併合されたシッキム同様に小国に対しての国際的関心度が低すぎるのもこういった横暴が許されるのでしょうか。イラク戦争にも見られたのですがアメリカ軍の兵士が「独裁から解放する自由の象徴」と見る星条旗も他の国から見れば「侵略者」にすぎません。どんなに「自衛」や「生存」の為として他国の領土に対して武力行使するのは許されない事であると思います。

それを遙かに超える財政的・経済的損失をチベットへの援助によって、中国は蒙っている。

とありますが、確かにチベットを領有しても石油などの天然資源があるとの話はないですし、あっても空気が希薄で過酷な自然環境では経済的な採掘も難しいと思います。
 また武力による統治もコストがかかるうえに、人権問題を引き起こして欧米諸国に非難されるほうが中国政府にとっては大きなマイナス要因ですね。
 住民に対する不満解消のために「アメとムチ」の資金投下を行っているようですが、中国の地図には青海省からラサに向かう鉄道予定線(建設中?)がありますが、支配強化の為だとは思いますがチベット高原に莫大な費用を投入して鉄道を建設しても持ち出しのほうが多そうですね。

[13508] 般若堂そんぴん さん

夜鳴き寿司屋さん,どうか差し出口を御容赦ください.

わざわざの御教示ありがとうございます。かなり簡体字の変換ミスをやっていたようですいませんでした。まだまだ未熟ですね。下記に指定された箇所を訂正しました。

地級行政区

行政名行政府所在地市外局番郵便番号人口(万人)面積(千平方メートル)
拉薩市拉薩市08918500124131662
那曲地区 那曲県089685200037450537
昌都地区昌都県089585400058110154
林芝地区林芝県八一鎮08938560003279699
山南地区乃東県08938560003279699
日喀則地区日喀則市089285700063182000
阿里地区 葛爾県0897859000304683


県級行政区

拉薩市
城関区089185000014523
林周県(甘曲鎮)08918516004512
当雄県(公塘郷)089185150012000
尼木県(塔鎮)08918513003275(誤植もしくは変更?)

曲水県(曲水県)08918506001680
推龍徳慶県(東嗄鎮)08918514002679 
達孜県(徳慶鎮) 08918501001373
墨竹工嗄県(工嗄鎮)08918502005620

那曲地区(中心地 那曲県)
那曲県(那曲鎮)089685200015305
嘉黎県(阿扎鎮)089685240013338
比如県(比如鎮)089685230011429
聶榮県(聶榮鎮)089685350010258
安多県(*那鎮)089685340022000 *巾へんに白(字不明)
申扎県(申扎鎮)089685310062414
索県(亜拉鎮)08968522005892
班戈県(普保鎮)089685250029600
巴青県(拉西鎮)089685210010301
尼瑪県(尼瑪鎮)0896853200270000

昌都地区
昌都県(城開鎮)089585400010652
江達県(江達鎮)089585410013200
貢覚県(莫洛鎮)08958542006256
類鳥斉県(桑多鎮)08958556005879
丁青県(丁青鎮)089585570012955
察雅県(烟多鎮)08958543008413
八宿県(白瑪鎮)089585460012564
左貢県(汪達鎮)089585440011726
芒康県(嗄托鎮)089585450011431
洛隆県(孜托鎮)089585540048184
辺*県(草☆鎮)08958555008894土へんに霸




林芝地区 中心 林芝県八一鎮
林芝県(林芝鎮)089486010010237
工布江達県(工布江達鎮)089486020011650
米林県(米林鎮)08948605009471
墨脱県(墨脱鎮)089486070034000
波密県(扎木鎮)089486030014972
察隈県(竹瓦根鎮)089486060031659
朗県(朗鎮)08948604004186

山南地区
乃東県(澤当鎮)08938561002211
扎嚢県(扎塘鎮)08938508002157
貢嗄県(吉雄鎮)08938507002283
桑日県(桑日鎮)08938562002634
瓊結県(瓊結鎮)08938568001030
曲松県(曲松鎮)08938563001936
措美県(措美鎮)08938569004530
洛扎県(洛扎鎮)08938512005570
加査県(安繞鎮)08938564004493
隆子県(隆子鎮)08938566009809
錯那県(錯那鎮)089385670034937
浪☆子県(浪☆子鎮)08938511008109

日喀則(シガツェ)地区
日喀則市08928570003700
南木林県(南木林鎮)08928571008300
江孜県(江孜鎮)08928574003800
定日県(協格璽鎮)089285820014000
薩迦県(薩迦鎮)08928578006400
拉孜県(曲下鎮)08928581004400
昴仁県(☆嗄鎮)089285850027600
謝通門県(☆嗄鎮)089285890014000
白朗県(嗄東鎮)08928573002500
仁布県(徳吉林鎮)08928572002100
康馬県(康馬鎮)08928575005400
定結県(江嗄鎮)08928579005300
仲巴県(扎東鎮)089285880045900
亜東県(下司馬鎮)08928576005100
吉隆県(宗嗄鎮)08928587009300
聶拉木県(拉木鎮)08928583007700
薩嗄県(加加鎮)089285860012400
崗巴県(崗巴鎮)08928577004100

阿里地区(中心地 *爾県) *口へんに葛
*璽県(獅泉河鎮)089785900118087*口へんに葛
普蘭県(普蘭鎮)089785950012539
札達県(托頂鎮)089785960024580
日土県(日土鎮)089785970071963
革吉県(革吉鎮)089785910055287
改則県(改則鎮)089785920099324
措勤県(措勤鎮)089785930022903

 文中の☆は全て上下の字がタテに並ぶ字です。

 チェックしていただけるだけでも良いと思います。本当に感謝しております。尼木県の塔鎮ですが名称が変更されたのかもしれませんですね。また尼瑪県の所在地は変更されたようです。それ以外は単純に私のミスです。

 西康省の省会は康定か雅安とする資料もあるのですね。実際のところは何処でしょうね。この省もチベットの一部を直轄地化したところですので、もう少し資料があってもいいのですが、1947年の中国の省別人口表ならわかるのですが、チベット本体よりも人口が多かったようです。

http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP97.9/fhyo5.htm

中国の漢字は本当に難しいです。単に私が能力がないだけかもしれませんが。


[13506]あんどれ さん

 助かりました、どうしても正しく漢字が出せなかったので良かったです。JIS規格の二次水準を探せばよかったのですね。
 元々WORDで編集してプレビューしたのですが、地名でしか使わないような字の場合には下記のような状態になったので変更したのです。たとえば漢字の「塘」の字ですが、WORDで編集したのですが、プレビューすると「★「メッセージ」に数値文字参照「塘」があります。数値文字参照は使用しないでください。」というメッセージが出るので訂正したのです。

 やはり数値文字参照によるものということは、HTMLとWORDの文字コードが異なっていたのでしょうね。もしかするとWORDで作成したファイルをHTMLに保存すると文字化けするのと同じ現象が起きたのでしょうね。聞いた事が無いのですが、どなたが詳しい方がおられたらいいのですが。
[14139] 2003年 4月 27日(日)21:53:44Issie さん
冊封体制
[14129] グリグリ さん
顧問はどうなんでしょうか。と、Issieさんに振ってしまう(f^^:

あららぁ,振られちゃいましたねえ。

歴史は素人なものですから,きちんとした定義となると自信がないのですが…

[10606] 般若堂そんぴん さん
冊封(さくほう)体制とは中国で天子が冊(さく:みことのり)をもって封爵(ほうしゃく:諸侯として領地を与えその支配者に取り立て,爵位を授けること)をなすことから生まれた言葉で,中国の天子の権力を後ろ盾としてその地域を支配する体制,冊を後ろ盾にした封建制度

私も,おおよそそのように理解しています。
中国を取り巻く周辺民族にとって格別の意義があって,簡単に言えば,周辺民族世界の中で一定の勢力を獲得した支配者が中国の皇帝に挨拶に出向いて,皇帝に服属する代わりに皇帝から当該地域の支配者としての称号を与えられ,その地位を保証される。その際に,周辺民族の側からは「みつぎもの」として,中国皇帝の側からは「ご褒美」として品物の遣り貰い=交易が行われる,という関係かしら。
けれども,そのポイントは時代によって違っているようです。

まずは古代。
ようやくに周辺民族の国家形成に向かったこの時代,最も意味を持ったのは,支配者が中国皇帝から「王」なり「将軍」なりの称号を与えられて自分の地位と支配の正統性,要は“ハクをつける”ことにありました。
日本列島に支配を打ち立てた「倭」の支配者が次々と中国へ使者を送って冊封を受けようとしたのがわかりやすい例だと思います。「倭の五王」の時代には,朝鮮半島への影響力を確保するために半島に関する“より格の高い”将軍号を確保しようと,百済や高句麗の王と激しい競争をしています(結局,失敗していますが)。
6世紀に入ると,列島内での支配権を確立する一方で朝鮮半島への影響力を失ってしまったために,わざわざ中国皇帝からハクをつけてもらう必要がなくなり,“倭”から中国への使者の派遣は断絶します。聖徳太子以降も,中国との国交の必要はあっても「冊封」を受けることはありませんでした。中国皇帝から「日本国王」に任命されずとも,「天皇」の権威が確立していたことが理由にあるのだろうと思います。

中世以降,相互の経済交流が盛んになると,むしろ“品物の遣り貰い”つまり交易によりポイントが移ります。
明朝は交易に関して強力な統制をしいて,建前上,冊封のための使者の往復にともなう品物の遣り貰いに交易を限定してしまいました。
足利義満が明へ使者を送って「日本国王」に任ぜられ,両国間で「勘合貿易」が行われた,というのがそれです。日本などの海上勢力にとっては「貿易の利権」という側面が強いように思います。

統一されたばかりの琉球は明からの冊封を受けることで,東シナ海から南シナ海にかけての海域の交易にかかわる利権を獲得して急速に発展しました。
けれども16世紀に入ると明による交易への統制が弱まり,南海交易で圧倒的なシェアを抑えていた琉球の衰退が始まります。世紀後半,ポルトガルや日本船がこの海域に進出したことがダメ押しとなりました。そして,17世紀はじめ,琉球は島津氏によって征服されることになります。
同じ頃,大陸では明から清への王朝交代が起こりますが,清も冊封体制という,この地域の国際関係の枠組みを継承します。
明治に至るまで清との間に“正式な国交関係”を樹立しなかった日本にとって,冊封を通じて中国とのチャンネルを持っている琉球の存在は重要でした。結果,島津氏は現実には琉球を支配下に置きながら,体外的には琉球と清との間の冊封関係を維持しました。
つまり,琉球王の地位を最終的に承認するのは清の皇帝であり,そのために琉球から清へ「冊封使」と呼ばれる使者が派遣される。そして,この行為を通じて琉球は体外的に中国に服属し,中国の“宗主権”下にある,と理解されるのです。
これが,維新後に近代ヨーロッパ式の国際関係に組み込まれることを選択した明治政府と清との間で琉球(沖縄)をめぐる国際問題に発展する原因となります。

また,清と朝鮮との関係も基本的には琉球の場合と同じであって,これが日本・清・朝鮮間の国際問題となって日清戦争へ至る原因の1つとなるわけです。

…そんな理解でよろしいかしら。
[14270] 2003年 4月 29日(火)16:38:05BANDALGOM[月の輪熊] さん
まとめレス
[14081]夜鳴き寿司屋さん
また北京市内では大きく「韓国料理」の看板のあるレストランや韓国製衣料を扱う店も沢山あり、中国国内では韓国資本が進出しているようでした。また空港内の案内に中国語と英語と日本語と一緒にハングル表記もありました。
日本の焼肉店経営者に在日コリアンが多いように、中国でも韓国・朝鮮料理店経営者には朝鮮族が多いようですね。
北京にも朝鮮族経営の韓国・朝鮮料理店が多いようですし、以前天津に留学していた人が出していたメルマガでも、「朝鮮族経営の韓国料理店によく行く」と書かれていました。

高麗航空ですが中国も含め他の航空会社はアメリカのボーイング製旅客機か欧州のエアバス機であったのに、現在では製造が中止された、旧ソ連製イリュージン62M型機(尾翼付近にエンジンを4発並べた中型機)を使用しており、恐らく欧米の旅客機を運行していない最後の国のようです。
冷房が故障していて、スチュワーデス(この表現も古いか・・・)がうちわを配って歩いているようですね。


[14101]uttさん
少なくとも、私の今の実家(小郡町)では両方見ることが出来ます。
ただ、岩国では、西日本新聞は見かけませんねぇ。。。
となると、いわゆる「県央地域」が境界線で、周南以東は中国新聞のエリア、宇部・小野田以西は西日本新聞のエリアということになってくるのでしょうか。

静岡県では東部が東京新聞(中日新聞東京本社)、中・西部が中日新聞(名古屋本社)と分かれているようですね。
長野県ではかつて松本市から合併関連の新聞記事を送ってもらった時、中日新聞が多かったのですが、諏訪にいた時は中日新聞は見たことがありませんし、松本・木曽・上伊那・飯伊地域で読まれているといったところでしょうか。

滋賀県では中日新聞と京都新聞のエリアがどの辺で分かれるのでしょうか・・・。


[14117]Firoさん
保守王国というのは基本的に、かつての首相経験者とか大物政治家の出身地とか地盤
というイメージがありますね。
基本的に、都市部より地方の方がその傾向があると思いますけど、
(中略)
中曽根康弘、福田赳夫元首相らを輩出した群馬県、
故田中角栄元首相の膝元、新潟県
故竹下登元首相の地元、島根県
故金丸信氏の地元、山梨県
あたりが、代表的な所だと思います。
私の印象では、北海道、埼玉、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、沖縄以外は保守王国という感じがします。
首相経験者や大物政治家の出身地・地盤というイメージは確かにありますが、長野県で田中知事、栃木県で福田知事、千葉県で堂本知事が誕生した時も、いずれも「保守王国で無党派知事」という報道がなされましたし、そこから考えると上記の都道府県以外はすべて保守王国という印象です。


[14158]般若堂そんぴんさん
ベトナムなども冊封体制をとっていたのでしょうか?
朝鮮、琉球、チベット、ベトナムが冊封体制下だったと、高校の世界史で習ったものですが、ベトナムはフランスの植民地になるまで冊封体制だったと思われます。

韓国では「族譜」という先祖代々の家系図のようなものがあり、これがどの家でも大切にされてきましたが、ベトナムにもこれと同じようなものがあるといいます。
韓国人と沖縄人は非常によく似たところがありますが、ベトナム人もまた共通点を持っていると思います。


[14190]三鈴さん
「鹿行」、ずっと「かぎょう」と読むのだと思っておりました。
私も「かぎょう」だと思っていました。
どうもこの手の合成広域地名は音読みするのが一般的なようですね。

しかし「ろっこう」だと読みは違いますが、阪神ファンとしては血が騒ぎますね。
Y大I教授と一緒に、メガホンと缶ビール片手に「国歌」を歌いたくなります^^
[16118] 2003年 5月 29日(木)19:38:43琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
越県合併
最近、越県合併が行われようとしています。そこで私は、鹿児島県与論町を沖縄県側に編入することを提案します。奄美諸島はもともと琉球文化圏ですし、沖縄県との繋がりも強く、進学では沖縄本島に来る学生も少なくなく、特に与論島からは船で沖縄本島へ家電製品の買出しに来たりする人もいるそうです(出所不明な話ですが・・・・)。そういう面でも、距離的な面でも沖縄本島側、特に「名護市+本部町+今帰仁村+伊江村+伊平屋村+伊是名村」+「与論町」という形での越県合併を実現させてほしいと思っています。本部港~与論港の航路の所要時間も、2時間程度と、便利です。
[16388] 2003年 6月 7日(土)00:39:21【1】Issie さん
沖縄と琉球
[16381] ゆう さん
古事記の神話から「かれ伊豫国を愛比売といひ」の、愛比売に新しく字を当てた

県庁所在地でも郡名でもない,というのはこれが初めてなのではなくて,統合以前に中・東予を管轄していた「石鉄(せきてつ)県」(明治5<1872>年旧2月に松山県から改称)と南予を管轄していた「神山(じんざん)県」(明治5<1872>年旧11月に宇和島県から改称)もそうで,なぜか伊予国だけに行われたことなんですよね。
ここに派遣された県令たちに,何がしかのポリシーがあったのですかね。
ちなみに,旧松山藩・久松松平家は徳川一門の「佐幕藩」ですが,旧宇和島藩・伊達家は幕末の「改革派」の1つですよね。維新の進行で取り残されていったようにも見えますが。

沖縄という、郡よりも広い地域を表すけれど県全域を表すものではない名前

「沖縄」とは本来「本島」,あるいは周辺の島々も含めた地域を指す呼称ですね。
「琉球」というのは,おそらくはこの島々の住民自身が名づけたものではなくて,中国から与えられた呼称だと思われます。つまりは中国王朝(具体的には明と清)との冊封関係を背景にした呼称なのでしょうね。
1879年に清朝との冊封関係と「琉球」王朝を否定して「県」を設置するにあたって,明治政府としては「琉球」という呼称を認めることはできなかったのではないかと思います。そして,「琉球」に替わるこの地域全体の呼称として選ばれたのが「沖縄」だったのでしょう。

逆に,戦後この地域を占領して日本政府の統治から切り離した米国は,あえて「琉球 Ryukyu 」という古称を選んでいます。
どうも米国は,少なくとも初めのうち,パナマをコロンビアから無理やり切り離して独立させたように,沖縄を日本本土から切り離すことを意図していたようだ,とも言われていますね。
英語表現としては必ずしも一般的でなかった Ryukyu, Ryukyuan を使用したことに,その意図がうかがえるのかもしれません(ヨーロッパには,16世紀のポルトガル語経由の Lechio:レキオ 系の呼称が行われたことがあります)。
「琉球」か「沖縄」か,というのには,かなり微妙な問題が含まれているのかもしれません。
[22448] 2003年 12月 2日(火)01:50:45くは さん
やいま&みゃーく
 意外と話題に上がっていない先島方面の話題です。

 19日の琉球新報に、八重山地域の新市名の応募の結果が出ていました。
 読みが「イシガキ」の物が最多で、「ヤエヤマ」と「ヤイマ」がそれに続くそうです。残念ながら後者2つを足しても「イシガキ」に届かないとのこと。
 ここは間違いなく「八重山市」に決まるだろうと思ってたんですがね。意外と「やいま市」もいいかなあと。全国のあちこちでひらがな市名に決定したことを落書き帳で知るたびに画面の前で溜息をついている私でも、「やいま市」なら許すぞー、とか(笑)。
 結局、石垣市民が多いせいなんでしょうか。せめて同字は避けて「いしがき」と平仮名にした票もあることでしょうが、さすがにこれは漢字で書いてもらいたいもんです。

 多良間の件などでいろいろと揉めている宮古地域について、25日の琉球新報に新市名の案が出ていました。
 なんと! 法定協議会の一押しの案は、「宮古市」。
 岩手県に宮古市があるものの、「同名ではいけないという法的拘束力はない」とのことです。この楽観的な協議会に、アララガマ精神を垣間見た気がします(笑)
#決して誹謗中傷のつもりではありません。念のため…。
 確かに、宮古市よい良い名前は無いですよね。「宮古島市」だと他の島の立場がないし、官庁等の同名回避に良く使われる「沖縄宮古市」も変だし(そもそも先島では「沖縄」といったら本島のことですし)、「みやこ市」は論外(「京」みたいですよね)。
 密かに岩手の宮古市の合併に期待していたのですが、あいにく今後も「宮古市」ということで。

 いずれも合併自体も決定していませんし、どうなることでしょう。
#無責任な個人的願望としては、両地域はできれば合併してもらいたくないですが。
#もし一つずつになるとしたら……「やいま市」と「みゃーく市」が一押しです(笑)
[26610] 2004年 3月 26日(金)23:53:28【2】hmt さん
日本の手を離れている間に紛争の種がまかれた尖閣諸島
尖閣諸島がニュースで話題になっているので、ひとまず地理と歴史のおさらい。
現在の地籍は 沖縄県石垣市登野城。 これは石垣市の中心部の地名です。
実際にある場所は 西表島の北約150kmにある 3.8km2 の魚釣島(釣魚台)を主島とし、その東に南小島・北小島と岩礁、更に北東に久場島(黄尾嶼)、ずっと東に大正島(赤尾嶼)。

政府の基本見解 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/ にあるように、1895年1月14日に日本領土に編入されました。
これは日清戦争中のことですが、1885年以来数回にわたる実地調査により、清国を含めて どの国にも所属している証跡がない無人島であることを確認した上で、国際法で言う無主地の「先占」として日本の領土とする閣議決定をしたようです。1903年には沖縄県八重山郡大浜間切登野城の地籍を設定。

1884年頃から古賀辰四郎による開発が始まり、1909年通称古賀村の人口248人とあります。羽毛の採取が行なわれたアホウドリは絶滅しました。1932年には魚釣島・北小島・南小島・久場島が払下になり、近年まで埼玉県に住む古賀さんの私有地のままだったようです。
政府は2002年10月に魚釣島など三つの島に賃借権を設定したということです(読売社説2004/3/25)。米軍管理の久場島以外の私有3島を、正式に国の管理に移す意思を表明したものでしょう。【2】

第2次大戦後は米国の施政権下になり、久場島と大正島は米軍の射爆場になりました。
そのまま沖縄返還…となれば問題なかったのでしょうが、日本の手を離れている間に新事実が明らかになりました。
東シナ海の海底資源を調査していたECAFE(国連・アジア極東経済委員会)が、「沖縄諸島と台湾、日本の間の大陸棚の縁や、黄海・渤海には石油埋蔵の可能性が高い」として、尖閣諸島海域にも大規模な海底油田・天然ガス田があるという考えを発表したのです(1968)。

この海底資源に最初に反応したのが台湾で、1969年中華民国行政院は東シナ海大陸棚の主権的権利を先ず主張し、翌年にはガルフその他の米国系石油企業と探査・試掘の契約を結んだりしました。東シナ海大陸棚の北側海域には日本・台湾・韓国の石油鉱区設定が重複し、1970年には3国で領有権を棚上げして、石油を共同開発する協議が行なわています。

こうした事態の進展のなかで、それまで何もしなかった中国は、1970年末になって 「尖閣諸島は中国の領土であり、その周辺の海域は中国の海であり、したがってその海域の資源に対して中国は主権的権利を持っている。日本・台湾・韓国の協議は中国の資源を掠奪する企みである」との強硬な抗議を行なっています。

このようにして1972年5月15日を迎え、米軍施政権下に発生した領有権争い付きの尖閣諸島は、沖縄返還協定に基づき施政権が返還される南西諸島全島の一部として日本復帰。

「尖閣」という名は、なんとなく中国的な響きですが、1900年に調査・探検をした黒岩恒が、急峻な岩山が屹立し海食崖に囲まれた地形から命名した由。

「中国福州・琉球間の航海に関する16世紀以来の文献に釣魚台(魚釣島)・黄麻嶼(北小島)・黄尾嶼(久場島)・赤尾嶼(大正島)が記されている」という中国の領有権主張の根拠に対して、日本政府は 「これらの文献記載は航路の目標に過ぎず、1895年の無主地の先占行為は 国際法上有効である」と反論しているようです。

【1】補足
地学的に見ると、尖閣諸島は東シナ海大陸棚の東縁にあり、沖縄トラフを隔てた八重山諸島と自然地理上は区別されているようです。中国側の大陸棚に乗っていることは、領有権問題には関係ないはずですが。
[27588] 2004年 4月 22日(木)01:10:16【2】Issie さん
Re:分割された自治体
[27505] 地名好きさん
[27570] 両毛人 さん

ある意味,非常に特殊な例かもしれませんが,

沖縄県八重山郡八重山村が 1914年4月1日 に,同郡石垣村・大浜村・竹富村・与那国村 に完全4分割されています。

沖縄では琉球処分による「琉球藩」廃止・「沖縄県」設置後も,さまざまな分野で王国以来の旧制度が温存されていましたが,地方行政区画についても同様でした。
王国時代,域内の「村(むら)」や「島」が数ヵ村ずつ「間切」という区画にまとめられ,それがさらに「島尻」 「中頭」「国頭」「宮古」「八重山」その他にまとめられるというもの。
で,八重山は明治初めの段階で「大浜間切」「石垣間切」「宮良間切」に分けられていました。

1908年4月1日に「本土」よりも遅れて「沖縄県及島嶼町村制」が施行されて(那覇と首里には一足早く「区制」が施行),従来の「間切」が自治体としての「村(そん)」に,「村(むら)」がその下位区分の「字」に編成されました。
このときに八重山では,3間切を一括して全体で1つの「八重山村」が編成されました。
ところが,1914年4月1日にこの「八重山村」が分割されて,上記4村の成立となったわけです。
…この場合,旧八重山村の法人格は消滅して,新4村に“分割相続”されているのではないかしら。

ところで,王国末期の八重山3間切の区画は少し特殊で,石垣島に3つの間切が編成された上に,そのそれぞれが西表島に管轄下の村を持つ,という区画でした。つまり,西表島の村には「大浜間切」所属のものと「石垣間切」所属のもの,「宮良間切」所属のもの,のそれぞれがありました。
“親村”-“子村”という関係なのでしょうかね。
普通の「水平的」な村の括りとは異質の「垂直的」な関係が連想されます。

旧八重山村分割後の4村は,従来の間切の区画を解体して,島単位の領域設定(石垣島に石垣村と大浜村,竹富島・西表島その他が竹富村,与那国島には与那国村)となりました。

この4村はそのまま「町」となり「市」となって,1964年に大浜村が石垣市に編入された以外,そのままの区画で現在に至ります。

竹富町役場が石垣島にある,というのに,このあたりも関係あるのでしょうかね。

…というわけで,「例のページ」に沖縄県を(暫定)公開。
[28741] 2004年 5月 29日(土)23:32:50hmt さん
硫黄鳥島の所属
[28574]だんな さん [28642]hmtで硫黄が登場したついでに硫黄の付く地名を検索してみました。

Mapionの住所では6ヵ所。
東京都小笠原村硫黄島、鹿児島県三島村硫黄島、沖縄県久米島町硫黄鳥島の他に硫黄沢(宮城県)、硫黄内(福島県)、硫黄田(ゆおうだ福島県)。
国土地理院の25000分1地形図検索の地名注記では、長野県飯山市の「硫黄」というそのものズバリの地名の他に、硫黄山(北海道、東京都、岡山県、広島県、大分県、宮崎県)、硫黄岳 (青森県、長野県、鹿児島県)、硫黄尾根・硫黄乗越 (長野県)、硫黄川(北海道、福島県、新潟県)、硫黄沢(宮城県、福島県、群馬県、新潟県、富山県、長野県)など多数出てきます。
さすが火山国日本。
島では、南硫黄島・北硫黄島 (東京都)の他に昭和硫黄島 (鹿児島県) もありました。

元素(Ag)由来の地名としてアルゼンチンと銀座を挙げたことがりますが[22273]、硫黄は、金・銀・塩などと共にそれに由来する地名群を持っている数少ない物質だと思います。
試みに「石灰」を調べてみたら長崎市本石灰町、北海道石灰川、愛媛県石灰山が出てきました。

ところで、最初に出てきた沖縄県久米島町硫黄鳥島。
徳之島の西方にあるのに鹿児島県でなくて沖縄県。しかも久米島という遥かに離れた島に所属しています。
記憶によると、琉球所属は王府を通じて硫黄貿易をコントロールしたかった薩摩の意図によるものだったとか。
ちょうど100年前(1904年2月)の爆発で島民全員が久米島に移住していますが、もともと久米島出身の人たちによって硫黄採掘がされていたのでしょうか?
[29851] 2004年 6月 29日(火)00:02:08【1】hmt さん
列島・諸島・群島
[29813] 作々さん
「列島・諸島・群島」コレクションというのは如何でしょうか。この3つ、定義が曖昧なところもあって、混合して使用されているのもあるようなんですが。

「列島・諸島・群島」に一応の区別はあるのでしょうが、おっしゃる通り、別名として同じように使用される例が多数あります。例えば八重山列島、八重山群島、八重山諸島は同じ「島群」(以下、この言葉を使います)です。

他方、小笠原諸島と小笠原群島とは区別して用いられます。
すなわち、小笠原群島は3列島(北から聟島列島・父島列島・母島列島)の総称ですが、小笠原諸島はこの3列島と硫黄列島(火山列島)を含む4列島に、更に西之島と西之島新島(両島は地続きになった)・南鳥島・沖ノ鳥島を含めて用いられます。南鳥島・沖ノ鳥島は “地理的には” かなり離れていますが、 “行政的に” 小笠原諸島に含まれているのだと理解します。

例えば我が地元(鹿児島)を例に少し書きますと、
南西諸島 なんせいしょとう 薩南諸島,琉球諸島
薩南諸島 さつなんしょとう 大隅諸島,吐喝喇列島,奄美諸島
大隅諸島 おおすみしょとう 種子島,屋久島,口永良部島

「南西諸島」 という呼び名は、もともと海上保安庁で使われていたものが広く使われるようになったようです。帝国書院の「復刻版地図帳」[25914]により記載状況を調べると、1934年版と1950年版には見当たらず、1973年版には記載されています。
鹿児島県の薩南諸島には 作々さんの挙げられた3島群と 三島村所属の上三島が含まれます。1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った「上三島」[24269]は、現在では大隅諸島に含めることもあるようですが、戦前は「吐喝喇列島(川辺十島)」に含まれていました。なお、草冠のある字は JIS外で表示できないために、作々さんにならって「喝」で代用しました。
ついでに触れておきますが、種子島北端や上三島と同緯度にあるにもかかわらず、草垣群島は薩南諸島に含まれません。薩摩半島西側の笠沙町に属するために“薩南”ではないのでしょう。しかし、甑島列島・宇治群島・草垣群島を総称する“薩西諸島”という呼び名は聞いたことがありません。

【1】脱字修正のついでに補足
種子島等は大隅国なので 大隅諸島と呼ばれるのは 当然として、ここや奄美の島々の総称が “薩南”諸島 であるのは何故でしょうか? 長期にわたる薩摩政権支配の間に“(広義の)薩摩の南部”という認識が生まれていたのでしょうか。

南西諸島ファミリーにおいて、島群の包括関係は 最大4階層の複雑な入れ子構造です。
勿論最初は「日本列島」
ア! 第0階層 日本列島を含めれば5階層でした。
第1階層 南西諸島の内訳=薩南諸島 + 琉球諸島
第2階層 薩南諸島の内訳=大隅諸島 + 上三島 + 吐喝喇列島 + 奄美群島
第2階層 琉球諸島の内訳=沖縄諸島 + 先島諸島 + 大東諸島
第3階層 沖縄諸島の内訳=沖縄島 + 伊平屋伊是名諸島 + 与勝諸島 + 慶良間諸島 + 久米島等
第3階層 先島諸島の内訳=宮古群島 + 八重山群島 + 尖閣列島

島群の呼び名や包括関係については、「島嶼大事典」(日外アソシエーツ1991)の呼び名と包括関係を用いましたが、歴史的な変化があります。

例えば1934年版では、前記のように南西諸島はなくて薩南諸島・琉球(諸島という字が入っていない)になっており、小笠原諸島は現在の小笠原群島の範囲で、同じ大きさの字で硫黄列島が別に存在します。この 1934年版を良く見ると、この 2島群と伊豆七島(現在の伊豆諸島)を含む図のタイトルは「豆南諸島」となっています。

豆南諸島の名は[19744]kenさんに登場し、本を引用した紹介文が記されています。
孀婦岩、須美寿島、ベヨネーズ列岩、鳥島という名前は聞いたことがあるかもしれない。これらの無人島群が豆南諸島。
昔、広い範囲で使われていた「豆南諸島」が、近年のダイバー用語では狭い意味で復活したのでしょうか。
これらの無人島群については、この落書き帳だけで通用する呼び名として、私が命名した「南方四島」[22460]もあります。
そうそう、南方と言えば、伊豆諸島と小笠原諸島の総称としての「南方諸島」の名が平凡社の「日本大地図帳」等に見えます。

これを使うと、南方諸島ファミリーは
第1階層 南方諸島の内訳=伊豆諸島 + 小笠原諸島
第2階層 伊豆諸島の内訳=伊豆七島 + 式根島・青ヶ島・鳥島等
第2階層 小笠原諸島の内訳=小笠原群島 + 硫黄列島 + 西之島等
第3階層 小笠原群島の内訳=聟島列島 + 父島列島 + 母島列島

「復刻版地図帳」に戻って、戦後の1950年版では、ユーラシア図の中に琉球列島・小笠原列島の名が見えます。日本の統治下でなかったので、日本図の部には出ていないのですね。
1973年版になると、現在とほぼ同じ伊豆諸島・小笠原諸島・(やや小さい字で)硫黄諸島になっています。
[44892] 2005年 9月 14日(水)21:47:42Issie さん
[44857] ニジェガロージェッツ さん
期待通りのご意見を頂戴し、有難うございます。

いやぁ,これはこちらも同じだったりします。

私があそこで“かぎカッコ”つきの「国」という表記をして,「明治2年末」と時期を限定したのは「国」の意味をできるだけ限定しようと思ったからでした。つまり,政府によって「公式に」定められた地方区画としての「国」に限定する,ということ。

奥羽以南の「国」については,遠くさかのぼって奈良時代(8世紀)の「令」(718年改定,757年施行の「養老令」が“形式上”は幕末まで有効であった)と,その“施行細則”である平安時代前期(10世紀)の「延喜式」(927年完成,967年施行)に“根拠”を求めることができます。
律令そのものは慶応3年末の 王政復古 で“形式上”にも効力を失ったようですが,明治元年末の奥羽両国の分割や明治2年の 北海道11ヵ国 の設置は,奈良時代以来の「令制国郡」の延長としての“公式な地方区画”と理解しておくことができると思います。

「北海道11ヵ国」の場合には次の文章で始まる明治2年8月15日付の太政官布告(通番734)がその根拠になると思われます。
--------------------------------------------------------------------------------------
「蝦夷地自今北海道ト被称十一ヶ国ニ分割国名郡名等別紙之通被 仰出候事」
(蝦夷地,自今「北海道」と称せられ11ヵ国に分割,国名・郡名等別紙の通り仰せ出だされ候こと。)
以下,国名・郡名を列挙(ヨミガナを添えて)
--------------------------------------------------------------------------------------

北海道の北の“島”について,明治3(1870)年2月に「開拓使」が「北海道開拓使」と「樺太開拓使」に分割されていますから,少なくともこの段階までにこの島の“公式地名”が「樺太」に定められてはいたのでしょうが,「樺太国」という地方区画を設置する“公式の措置”はとられたのかどうか。

あそこで「琉球」を「国」に数えていないのも,今ここで限定しようとしている“令制国”であったとは言いがたいと考えるからです。

1993年前半の大河ドラマ「琉球の風」(←中身はあまり感心しませんでしたが)は冒頭,羽柴秀吉が明智光秀を滅ぼした後の宴会で 亀井これ矩 という武将(ポール牧)が「琉球守」の称号を求めて許される,という場面から始まりました(この場面,本能寺の変で終わった前年の「信長」で秀吉を演じた仲村トオルがそのまま出てくるという,前作の続編のような演出で驚かされました)。亀井は称号とは別に 因幡鹿野城 の城主となり,次の代に 石州津和野 に移転して廃藩置県に至ります。
「琉球守」という称号は,「筑前守」や「日向守」と同様に「琉球国」という区画を想定してのものだと思われますが,島津氏の琉球征服(慶長14/1609年)に先立つ秀吉の時代,どんなに交流が深くても 琉球 は日本から全く独立した国であったから,「琉球国」は「筑前国」や「日向国」のような“日本国内の地方区画”としての“令制国”と同列に扱うことはできないでしょう。むしろ,「琉球国」と同格なのは「倭国」ないし「日本国」であると思われます。

琉球が「日本の一部」であることを主張した明治政府がこの地域に設置したのは「琉球“藩”」(明治5/1872年)であり,「沖縄“県”」(1879年)でありました。
結局,琉球諸島には“令制国”は置かれずじまいでした。

何かをリストアップする際には“明確な基準”があった方がよいと思います。
そこで,この“企画”で「国」を列挙するにあたって,“公式の地名”としてその定義をできるだけ狭めてみたわけなのでした。
けれども,そこから離れた場所で「国のように認識される」ことがあったことを否定するものではありません。
[46273] 2005年 10月 29日(土)10:43:51【2】Issie さん
続続・北海道の国名
[46261] デスクトップ鉄 さん
同じころ日本の版図に組み込まれた沖縄には国を設置せずに、北海道だけに置いたのは、松浦武四郎の上申書によるものだったのでしょうか。

[46265] 北の住人 さん
北海道に「国」を置いた理由は勉強不足で良く分りません。開拓殖民上の理由や対外的に必要だったのではないかと今の所考えていますが。

私は,それまでの「遠方の連中が都の天子(中国なら皇帝,日本なら天皇)に貢物を贈ってきたら“服属した”とみなす」という東アジア的な曖昧な領域観ではなく,16世紀以来のヨーロッパで鍛えられて19世紀には“世界標準”とされるようになった「近代国家」観に基づいて,
要するに“日本の領域”として正式に編入する行為であった,と考えています。

明治2(1889)年当時,全国を一律に区画する区分は「道・国・郡」しかありませんでした。
この段階では“空間的な地域区分”(道・国・郡)と“実際の統治上の行政区分”(府・藩・県)は一致しない,ある意味“次元の違う”ものでした。ちょうど「北海道」が設置されたのと同じ時期に 版籍奉還 とそれに対する天皇(政府)の回答である 知藩事任命 とが行われて「藩」が“正式な制度上の行政区画”になり,知藩事(それまでの大名)たちは“天皇によって任命される地方行政官”となったのですが,その領域は政府直轄の“府・県”同様,飛地だらけのものでした。
“府県”が“国”に代わって“空間的な地域区分”として広く受け入れられるようになるのは,廃藩置県後の府県再編を経てさらに時間の経った明治半ばまで待たなければならないようです。

沖縄や樺太(当時は[一応]日本領で“も”あった)ではできなくて北海道でできたのは,まず,「館藩」(旧松前藩)の管轄であった最南部4郡(爾志・檜山・津軽・福島)を除いて全域が“政府直轄”であったことが挙げられるのではないかと思います。
樺太はロシアとの共有地でしたから,相手国との調整が必要に思います。
「沖縄」とはこの段階,沖縄本島とその周辺だけをさす地域名であって,“公式”には「琉球」と呼ぶのだと思うのですが,ここの場合,
1)その帰属に関して清との調整がついていない
2)具体的な行政区分が画定されていなかった(「場所」は商人たちの“請負区域”に過ぎない)旧蝦夷地とは違って,琉球には首里王府による統治機構が整えられていて,新たに行政区画を画定する必要はない
3)琉球は「鹿児島藩」の管理下におかれていて,政府の直接支配が及ばない
あたり,特に3)が最も大きな理由ではないか,と思います。
1879年の 琉球処分 で「沖縄県」が設置されても,かなり長い間従来の行政区画が温存され,国頭・中頭・島尻・宮古・八重山 という「郡」は,要するにそれまでの区画の呼称を変えただけのものでした。

[46261] デスクトップ鉄 さん
本土で、集落名が国名に出世したのは、紀伊だけだと思いますが

[46265] 北の住人 さん
国名に採用されたのは「集落」名というよりも「領域」名と言った方が良いと思います

「紀伊」も,基本的に「石狩」と同じだと思います。千年以上も時代が違いますが。
もし,デスクトップ鉄さん が和歌山市の「紀伊地区」について仰っているのであれば,それは違うと思います。
紀伊地区は1959年に和歌山市に編入された元の 海草郡紀伊村(発足当時は 名草郡) ですが,この「紀伊」という村の名前自体は1889年の“明治の大合併”によって発足した新自治体が新たに採用した“新地名”です。少なくとも江戸時代,ここに「紀伊村」という村があったわけではありません。その点で,野付牛町 が市になるにあたって「北見」を採用したのと基本的には同じ性格のものです。
阪和線の「紀伊駅」は,開設当時ここが 紀伊村 だったからですね。

反対に,たとえば「丹波」の国名の由来は,現在は京丹後市に属している 旧中郡峰山町 の「丹波」地区にルーツがあると考えられています。
この辺りから範囲を徐々に拡大して一国の名前となったわけです(「丹後」は後に 丹波 から分割されました)。
このようなパターンは「土佐」などにも見られ,あるいは「大和」も元々は現在の桜井市付近の地名だと考えれていますから,同じ性格のものと言えそうです。

でも言うまでもないことですが,その当時(5~8世紀)の集落と現在の集落とが直接に連続するわけではありません。京丹後市の「丹波」集落が,古代の「丹波」そのものでは,たぶんないでしょうね。
一般的に,現存する集落の多くが直接にさかのぼれるのは大略“太閤検地”,あるいはもう少しさかのぼっても室町時代あたりまでであって,それ以前と以後では集落の性格そのものが本質的に違う,と考えています。
[48992] 2006年 2月 5日(日)12:01:25白桃 さん
奄美は薩摩か大隅か、はたまた琉球か?
[48986]白桃
は予想通り、どなたからも飯能な市。
結論から言いますと、A群は国で人口が一番多い市、B群は国で人口が一番少ない市。「国」とはもちろん、武蔵、相模、讃岐など。畿内七道66カ国に対馬、壱岐の2国を追加して68国のこと。「ろくじゅうよしゅう」は64州ではなく、六十余州のことのようですね。
佐渡、若狭、因幡、対馬、壱岐は1国1市ですから、A=Bなのです。X市は下総国で一番人口が多い千葉市、Y市は大隅国で一番人口が少ない西之表市(18,198人)。(参考:垂水市は18,926人)
ところで、種子島は大隅でいいのかな?屋久島、種子島は私が持っている地図に「大隅諸島」と書いておりましたから、大隅にしちゃいました。(苦)
問題は8枠です。1国1市はもうないのですが、奄美諸島が薩摩でも大隅でもないのなら、「奄美」という国を勝手に作って…。で、Z市は甘味、いや奄美市。本当にこれでいいのでしょうか?皆様の異論反論、オブジェクションをお待ちしております。(さきほどの地図には大隅諸島、トカラ列島、奄美諸島もあわせて薩南諸島と書いておりますが…)
ところで、道州制にでもなると、十番勝負でこのような問題が出せなくなりますね。(笑)
[48993] 2006年 2月 5日(日)12:54:50作々 さん
奄美(大島郡)の所属の件
早速反応しておきます。

[48992] 白桃 さん
ところで、種子島は大隅でいいのかな?屋久島、種子島は私が持っている地図に「大隅諸島」と書いておりましたから、大隅にしちゃいました。(苦)
はい。最初は多ネ(衣偏+執)国というのがあったようですが、9世紀初めに熊毛、馭謨の両郡は大隅国に併合されたようです。


問題は8枠です。1国1市はもうないのですが、奄美諸島が薩摩でも大隅でもないのなら、「奄美」という国を勝手に作って…。で、Z市は甘味、いや奄美市。本当にこれでいいのでしょうか?

以下、角川の地名辞典の「大島郡」の項からの引用です。
明治12年4月8日太政大臣三条実美通達に『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事」と見え(旧記雑録),この通達により,同年7月同諸島にも郡制区画が定められ,ここに大島郡が成立する。
明治12年4月7日までは琉球国、8日からは大隅国になったということでしょうか。
[48994] 2006年 2月 5日(日)14:03:42むっくん さん
Re:奄美は薩摩か大隅か、はたまた琉球か?
[48992] 白桃 さん
奄美諸島が薩摩でも大隅でもないのなら、「奄美」という国を勝手に作って

言語学見地から見てみましょう。

日本語の方言は大きく分けて(1)本土方言(2)琉球方言に分かれます。
そして、(2)琉球方言は、(ア)北琉球方言(イ)南琉球方言に分かれます。
そして、(ア)北琉球方言は(a)奄美徳之島諸方言(b)沖永良部与論沖縄北部諸方言(c)沖縄中南部諸方言に、
(イ)南琉球方言は(d)宮古諸方言(e)八重山諸方言(f)与那国方言に分かれます。
さて、奄美本島、喜界島、徳之島は2-ア-a に、沖永良部島、与論島は2-ア-b に属しています。
言語学見地からは奄美は琉球と一体のものとみなせますね。

次に文字の歴史をみて見ましょう。

奄美諸島や沖縄本島には、琉球列島に古代から伝わる「ユタ」と呼ばれる民間信仰の伝道者は共通の独自の文字を古来より持っていました(「ユタ」は文字を信仰の教えを文書としてしたためる秘伝の物として一般人には一切伝えませんでした)。
ところが、琉球王国の統一を成し遂げた「尚巴志」は、本来は九州から南下して来た「倭寇」の血を引く人物であり「ユタ」が継承して来た琉球の由来に関わる伝承を否定しなければ正統な統治者としての資格を失う危険性を危惧して「ユタ」を弾圧しました。
ただ、この時には、「ユタ」は文字を守り抜きました。
その後、1609年に薩摩の島津氏が琉球王国に攻め入り、奄美諸島を琉球王国から割譲させました。その後の島津氏の統治が熾烈を極めて、「ユタ」が守り抜いた伝承を書き記した文書を焼き払い、「ユタ」を怪しげな教えを布教してまわる者として弾圧しました。その結果、島津氏の直接統治下での奄美諸島からはほぼ独自の文字は消えました。沖縄本島では直接統治ではなかったのでわずかながら独自の文字は残ったのですが、昭和20年の沖縄戦でわずかながら残った文書はすべて灰となりました。

文字の歴史という点でも、奄美地方は琉球と一体であるといったほうがいいですね。
[48998] 2006年 2月 5日(日)17:30:11白桃 さん
奄美の件
[48993]作々さん
明治12年4月7日までは琉球国、8日からは大隅国になったということでしょうか。
[48994]むっくんさん
言語学見地からは奄美は琉球と一体のものとみなせますね。
文字の歴史という点でも、奄美地方は琉球と一体であるといったほうがいいですね。
お二人ともどうも有難うございました。
そうすると、奄美地方は幕藩体制時代には琉球国ということになり、畿内七道プラス対馬・壱岐の68国の外にあったとしたほうが宜しいようですね。やっぱり[48986]の8枠は無理がありました。
平成の大合併前まで「1国1市」は、佐渡(両津市)、若狭(小浜市)、飛騨(高山市)、志摩(鳥羽市)、但馬(豊岡市)、淡路(洲本市)、因幡(鳥取市)、美作(津山市)の8つ。
対馬市、壱岐市が出来て2つ増えたかわりに、下呂・飛騨、志摩、養父・朝来、淡路・南あわじ、真庭・美作の各市が生産されたことにより5つ減り、結局5国になりました。それにしても、鳥羽市と洲本市はなにか可哀相な気がします。
[49001] 2006年 2月 5日(日)18:37:44Issie さん
Re:奄美の件
[48998] 白桃 さん
奄美地方は幕藩体制時代には琉球国ということになり

というのは少し微妙で,慶長14(1609)年の琉球侵攻以来,奄美は首里王府の支配から離れて島津氏(薩摩藩)の直接支配下に置かれました。以降は,いわゆる「琉球王国」の領域には含まれないと考えた方がいいと思います。明治5(1872)年の「琉球藩」に奄美(大島地方)は含まれず,鹿児島藩→鹿児島県に所属しています。

[48993] 作々 さん
明治12年4月8日太政大臣三条実美通達に『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事」と見え(旧記雑録),この通達により,同年7月同諸島にも郡制区画が定められ,ここに大島郡が成立する。

1879(明治12)年4月,というのが重要ですね。
この年の3月に明治政府は警察と軍隊を派遣して琉球藩(首里王府)を解体し,4月4日に「沖縄県」を設置しました。大島地方の大隅国編入は,これと連動する措置なのでしょうね。

大隅国に編入されるまでの奄美は(当然,沖縄・宮古・八重山も),「北海道」設置以前の松前地・蝦夷地と同じく“国郡制”の外にあったと考えた方がいいでしょう。そして,国郡制の中の一地方区分である「大隅国」と,本来は“外国”の呼称である「琉球(王)国」(←この呼称,厳密にはかなり微妙な意味の使い分けがあるのだそうです)とは同等のものと捉えるべきではないと思います。

このような政治的な区画とは別の次元で,言語的・文化的に奄美が沖縄と一体であるのは むっくん さんの [48994] の通りです。ただ,敗戦後に「琉球諸島」の一部として米軍の占領下に置かれた数年間を除いて,17世紀以来沖縄とは切り離されて鹿児島の支配ないしは管轄下に置かれたことによる微妙な違いはあるようです。
[49028] 2006年 2月 6日(月)22:41:02【1】Issie さん
南島
[49024] 白桃 さん
歴代の権力者がなぜ奄美を軽視?したのだろう、

軽視をする以前に,隠岐・壱岐・対馬,あるいは ヤク(屋久島)・タネ(種子島) が「日本の中」と理解されていたのに対して,奄美以南は「日本の外」と理解されていたからだろうと思います。

日本書紀や続日本紀には「アマミ」や「トカン」(徳之島),「イラン」(沖永良部),「アコナハ」(沖縄)から定期・不定期に貢物を携えた使者がヤマトにやってきたという記事があるそうです。「中国」の皇帝の“徳を慕って”周辺民族の支配者が貢物を贈ってくるという東アジアの国際関係をミニチュア化してヤマト中心に置き換えたものですね。
奄美以南は「南島」と呼ばれていますが,ヤマトの直接支配の外と概念されているのでしょう。
実際にヤマト政権から律令国家の支配が恒常的に及んだのはようやく ヤク・タネ までであって,だからそこよりも南には「国」も「郡」もないのです。

中世を通じて日本の南端は「鬼界ヶ島」と理解されていました。
『平家物語』では平家打倒のための鹿ヶ谷の陰謀に加わった僧俊寛らが流された島として登場します。後に俊寛とともに流された公家は許されて都に帰ったけれども,俊寛だけは許されずに絶海の孤島で孤独のうちに死んだ,というエピソードが語られます。実際には,もう少ししたたかに島で暮らしていたようですが。
ただし,この「鬼界ヶ島」というのは多分に漠然とした存在であって,具体的な島を指すものでは必ずしもないようです。奄美に「喜界島」がありますが,中世にイメージされていたのはもっと九州に近く,大隅諸島の三島村,あるいはせいぜいトカラ列島(十島村)あたりのことであったようです。

そして奄美は,日本の勢力の支配の及ばないまま,言い換えれば「日本の一部」となることのないまま,14~15世紀までに沖縄(本島)の勢力によって統合され,「琉球の一部」となりました。
17世紀はじめに島津氏の支配下に置かれて初めて「日本」の支配領域に組み込まれたのです。
古代の律令国家にとっては「国・郡」を設置することは自らの支配の及ぶ領域と主張する上で重大な意味を持つわけですが,近世・江戸時代には「国・郡」は地域を区分した単位の呼称に過ぎず,別に「無所属」であっても特に困ることはなかっただろうと思います。実際,松前の福山城下はどこの「国」にも属さず,とりあえず「松前地」と呼ぶことで済んでしまっていますよね(本当は「蝦夷地」ではない)。無人(ぶにん)島=小笠原も,どの「国」にも属していません。
島津氏としても,言ってみれば「植民地」にあたる奄美について,別に「国」や「郡」に所属させる必要性を感じてはいなかったのではないかと思います。

北九州市は、どっちかに決めろ、と言われたら筑前か豊前のどっちなんでしょう?

別に決める必要はないと思うのですが,「敢えてどちらか」と言えば,とりあえず小倉の属する豊前なんでしょうかねえ。でも,やっぱ意味ないと思います。
[56334] 2007年 1月 21日(日)16:17:26hmt さん
米国統治時代の「琉球」(3)「みなと村」と「ウフアガリジマ」
米軍統治の初年、沖縄諮詢会や「石川市」など16市が誕生した1945年は民政府発足前であり、従って公報[56322]によって行政記録を調べることはできません。そこで、当時を回想した 沖縄タイムスの記事 を参照します。

偶然にも本土で「玉音放送」のあった1945年8月15日に第1回の「石川会議」。
5日後の第2回会議で15人の委員を選出して「沖縄諮詢会」が発足。
米軍はこの沖縄諮詢会に「地方行政緊急措置要綱」を作成させ、これに基づき知念、前原、胡差、石川、漢那、宜野座、古知屋、大浦崎、瀬嵩、田井等、辺土名、平安座、粟国、伊平屋、慶良間、久米島の十六地区を市に指定
とあります。

同じ記事は、那覇港湾作業隊の労務管理のために、沖縄民政府知事によって設置された特別な行政自治体・「みなと村」についても言及しています。

1947年5月1日、那覇市と真和志村の各一部が「みなと村」として分立してから、3年3月後に那覇市に編入されるまで存続。
那覇市HP に、“1950年(昭和25年)8月1日みなと村を編入”と記録されているくらいですから、市町村変遷情報の対象でしょうか?

1948年の長野県諏訪郡「ちの町」(→茅野町→茅野市)よりも先で、 ひらがな自治体名 の先駆?[39] 
一応、雑学の材料に使える可能性があるので、グリグリさんに提供しておきます。


沖縄本島から東360kmに目を向けて、南大東村・北大東村の村制施行(1946.06.12)に触れます。
占領時代の「琉球」における市町村変遷の中で、異色の存在です。

沖縄の人々にとって、東方は未知の大海が広がる異なる世界「ウフアガリ(大東)」で、沖縄の文化はこの島には及んでいませんでした。

西洋に知られたのは16世紀スペイン人。19世紀になるとロシア船がボロジノ諸島と命名、アメリカのペリーも確認、イギリスも海図に記録。明治18年(1885)になると日本が南北の大東島に「沖縄県所轄」の国標を建て、諸外国にも領有を宣言しました(1892)。沖大東島も1900年に編入。

東方洋上にあるこの島に人が定住したのは1900年。上陸を拒み続けてきた険しい岸壁を克服した開拓者は、沖縄でなく八丈島の人々でした。
八丈島出身の玉置半右衛門(鳥島でアホウドリの羽毛採集)が南大東島に移民を送り込み、サトウキビ栽培を始めたのです。
玉置商会は、1903年には北大東島にも移民を入れ、沖縄からの出稼ぎ労働者も入って、リン鉱石採掘事業も試みました。

やがて南北大東島の経営権は本土の企業(東洋製糖→大日本製糖)に移りますが、全島が社有地で、交通・郵便・学校・病院などすべてを会社が経営。島内だけで通用する金券の発行や出入島管理まで会社だったとか。地方自治とは無縁の存在でした。

1945年の敗戦による沖縄の米国統治は、本土企業に支配されていた離島の立場を一変させ、この島も「普通の島」になりました。
1946年には沖縄民政府告示第4号の1により「南大東村」と「北大東村」が誕生。
やがて、製糖業にも沖縄資本が進出。沖縄化が進行してゆきます。

1964年、「土地所有権は農民にある」との高等弁務官最終決定が出て、これを受けた民政府布告により農民は自分の土地を耕作できるようになりました。
余談ですが、この時の高等弁務官Paul Wyatt Caraway中将は、沖縄返還に反対で、キャラウェイ旋風と呼ばれた強権発動政策は、内外に波紋を広げました。

南大東島というと、ラジオの気象通報[28888]でお馴染みの地名でしたね。
「鉄」の方では、宮脇俊三さんの本にもある砂糖黍鉄道の廃線跡ですか。

北大東村には「ラサ」という地名があります。南大東島より更に南方にある沖大東島(ラサ島)ですが、リン鉱石の島ということで共通する北大東村の飛び地になっているのでしょう。<[34494]

ラサ島は、1807年にフランス軍艦が「平坦な」という意味で命名したという「外国語由来地名」。
1911年、恒藤規隆がラサ島燐鉱合資会社を設立し、現在でも全島がラサ工業の私有地。1956年に米軍の射爆場。立入禁止の無人島です。
あ、ラサ島は[21501] 夜鳴き寿司屋さんで既出でした。
[64955] 2008年 5月 2日(金)23:25:28【4】むっくん さん
沖縄県・島嶼の自治制度
明治21年に公布された市制町村制については今までも議論されてきました。しかしながら町村制(明治21年法律第1号)第132条の
此法律は北海道、沖縄県其他勅令を以て指定する島嶼に之を施行せす別に勅令を以て其制を定む
との部分についてはあまり議論がなされていません。
そこで町村制が施行されなかった北海道・沖縄県・島嶼部の内、沖縄県・島嶼の自治制度の各種法制度面をまとめてみました。本稿では町村部をとりあげます。


まず町村制が施行されないことになった島嶼の範囲については明治22年勅令第1号(町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件)(M22.1.17)で
町村制第132条に依り町村制を施行せさる島嶼左の通指定す

東京府管下
 小笠原島 伊豆七島
長崎県管下
 対馬国
島根県管下
 隠岐国
鹿児島県管下
 大隅国大島郡
  大島 徳ノ島 喜界島 沖永良部島 与論島
 薩摩国川辺郡
  硫黄島 黒島 竹島 口之島 臥蛇島 平島 中之島 悪石島 諏訪ノ瀬島 宝島
と規定されます。

その後明治29年法律第55号(M29.3.30)によって、明治22年勅令第1号に記載されている薩摩国川辺郡の島々は大隅国大島郡に所属することになります。


そして明治37年勅令第63号(島根県隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)(M37.3.12)にて島根県管下隠岐国の町村も遅ればせながら町村制が施行されることになります。
第一条 島根県管下隠岐国の町村に町村制其の他町村の制度に関する法令の規定を適用す
(略)
第三条 本令施行の期日は県知事の具申に依り内務大臣之を定む
この明治37年勅令第63号は内務省令第6号(M37.4.13)により明治37年5月1日より施行されます。
しかしながら、島根県管下隠岐国の町村は内地と同じ町村制が施行されはしたのですが、明治22年勅令第1号の『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定からは外れません。


明治40年には、ここまで町村制が施行されなかった地域のために、新たなる法制度明治40年勅令第46号(沖縄県及島嶼町村制)(M40.3.16)が創られます。
この明治40年勅令第46号(沖縄県及島嶼町村制)は、内務省令第25号(M40.10.12)で明治41年4月1日より沖縄県に施行、内務省令第30号(M40.12.28)で東京府大島には明治41年4月1日より東京府八丈島には明治41年10月1日よりそれぞれ施行され、内務省令第1号(M41.2.3)で明治41年4月1日より鹿児島県大島郡及長崎県対馬国に施行されます。


大正7年には、大正7年勅令第335号(長崎県対馬国、島根県隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)(T7.8.30)が公布され
左に掲くる町村に於ては町村制及之に附随する命令に依る但し郡長に関する規定は之を島司に関する規定と看做す
  長崎県対馬国の町村
  島根県隠岐国の町村

附則
1 本令は大正8年4月1日より之を施行す
2 本令施行前為したる処分に対する異議訴願又は訴訟に関しては仍従前の例に依る
3 対馬国の町村に於ける従前の町村規則中町村条例を以て規定すへき事項に関する規定は之を町村条例を以て規定したるものと看做す
4 本令施行の際必要なる事項は内務大臣之を定む
と島根県管下隠岐国の町村制度を定めた明治37年勅令第63号が全文改正されます。この勅令によって長崎県対馬国の町村も内地と同じ町村制が施行されたことになります。
しかし内地と同じ町村制が施行されたにも関わらず、この時点では島根県管下隠岐国及び長崎県対馬国の町村は明治22年勅令第1号の『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定からは外れません。


大正9年には大正9年勅令第45号(大正七年勅令第三百三十五号(長崎県対馬国、島根県隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)中改正ノ件)(T9.3.24)が公布され
大正7年勅令第335号中左の通改正す
「但し」の下に「郡長を置かさる地に在りては」を加へ「島根県隠岐国の町村」の次に左の如く加ふ
  鹿児島県大島郡の町村
  沖縄県の町村

附則
1 本令は大正9年4月1日より之を施行す
2 本令施行前為したる処分に対する異議、訴願又は訴訟に関しては仍従前の例に依る
3 鹿児島県大島郡及沖縄県の町村に於ける従前の町村規則中町村条例を以て規定すへき事項に関する規定は之を町村条例を以て規定したるものと看做す
4 本令施行の際必要なる事項は内務大臣之を定む
と大正7年勅令第335号(長崎県対馬国、島根県隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)が改正されます。この勅令によって鹿児島県大島郡の町村、沖縄県の町村も内地と同じ町村制が施行されたことになります。
しかし、この時点では鹿児島県大島郡の町村が明治22年勅令第1号の『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定からは外れません。このことは以前の島根県管下隠岐国の町村及び長崎県対馬国の町村の事例と同じです。


その後大正9年勅令第193号(島嶼町村制)(T9.6.25)で
沖縄県及島嶼町村制中左の通改正す
「沖縄県及島嶼町村制」を「島嶼町村制」に改む
第1条中「沖縄県及」を削る
(略)
明治40年勅令第46号(沖縄県及島嶼町村制)は改正され、勅令の対象から沖縄県が外れ、対象は島嶼部のみとなります。
この改正は明治40年勅令第46号(沖縄県及島嶼町村制)に大正7年勅令第335号(長崎県対馬国、島根県隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)及び大正9年勅令第45号(大正七年勅令第三百三十五号(長崎県対馬国、島根県隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)中改正ノ件)(T9.3.24)を反映させたもので、実態としては微改正と言えるものです。


その後大正10年になり、大正10年勅令第190号(町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件)(T10.5.3)が
町村制第157号の規定に依り島嶼を指定すること左の如し
  東京府管下
   小笠原島及伊豆七島

附則
1 本令は大正10年5月20日より之を施行す
2 大正7年勅令第335号は之を廃止す
と公布・施行されます。この時、明治22年勅令第1号(町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件)及び大正7年勅令第335号(大正9年勅令第45号の改正分を含む)が廃止されます。
この時になって、ようやく島根県管下隠岐国の町村、長崎県対馬国の町村、鹿児島県大島郡の町村は『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定から外れたことになります。
このことは即ち、大正7年勅令第335号及び大正9年勅令第45号により、長崎県管下対馬国・島根県管下隠岐国・鹿児島県管下大隅国大島郡では有名無実となっていた明治22年勅令第1号(町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件)を、現状に合わせたものであると考えられます。


その後、大正15年勅令第217号(島嶼町村制中改正ノ件)(T15.6.24)で大正9年勅令第193号(島嶼町村制)は微かながら改正されます。

そして昭和15年になり、昭和15年勅令第238号(大正十年勅令第百九十号(町村制ヲ施行セサル島嶼指定)中改正島嶼町村制廃止ノ件)(S15.4.1)
大正10年勅令第190号中左の通改正す
「小笠原島及伊豆七島」を「伊豆七島中小島及鳥島並に小笠原島中北硫黄島、南硫黄島、南鳥島、中ノ鳥島及沖ノ鳥島」に改む

附則
1 本令は公布の日より之を施行す
2 島嶼町村制は之を廃止す
3 (略)
が公布されます。この勅令で、大正9年勅令第193号(島嶼町村制)によって改正された明治40年勅令第46号(沖縄県及島嶼町村制)は廃止され、大正10年勅令第190号(町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件)は改正されることになります。
この勅令により初めて、少なくとも本州以南の町村制の制度が一本化されることになります。
#私が北海道の町村制度について調べていないため、ここでは“少なくとも本州以南の”と記述しています。実際は日本全国の町村制の制度が一本化されたのかもしれません。


その後昭和18年になり、昭和18年勅令第446号(町村制ヲ施行セザル島嶼指定ノ件)(S18.5.25)
町村制第157号の規定に依り島嶼を指定すること左の如し
  東京府管下
   伊豆七島中小島及鳥島並に小笠原島中北硫黄島、南硫黄島、南鳥島、中ノ鳥島及沖ノ鳥島
  北海道庁管下
   占守郡、新知郡及得撫郡の島嶼

附則
本令は昭和18年6月1日より之を施行す
が公布され、ここで大正10年勅令第190号が廃止されます。


この後、昭和18年勅令第446号(町村制ヲ施行セザル島嶼指定ノ件)のみが存在した状況で(昭和18年6月19日勅令第509号での改正はありますが)戦後を迎えることとなります。昭和18年勅令第446号は地方自治法施行令 (昭和22年5月3日政令第16号)により廃止されることとなります。この廃止日の昭和22年5月3日は、地方自治法 (昭和22年4月17日法律第67号)の実施日と時を同じくしています。


(注)勅令は官報より引用しています。なお、法律・勅令中のカタカナは平仮名に、漢数字はアラビア数字に、旧字体は新字体に引用者が置き換えています。

(訂正)
【1】大正9年勅令第193号の条文を追記
【2】昭和18年勅令第446号の実施後、廃止されるまでの経緯を追記
【3】(注)の直前の一文を修正
【4】年月日を一箇所修正
[64956] 2008年 5月 2日(金)23:31:23【3】むっくん さん
沖縄県・島嶼の自治制度PART2など
[64955]の続きです。
本稿では[64955]では触れなかった沖縄県の区制、そして沖縄県の郡制度について取り上げます。

(1)区制

町村制(明治21年法律第1号)第132条で
此法律は北海道、沖縄県其他勅令を以て指定する島嶼に之を施行せす別に勅令を以て其制を定む
とされたように、沖縄県では明治21年に公布された市制町村制は実施されませんでした。


沖縄県では、市制町村制における市制に相当する制度明治29年勅令第19号(沖縄県区制)(M29.3.7)が創られ、内務省令第2号(M29.3.10)で明治29年4月1日より施行されました。
明治29年勅令第19号の第96条に記載されているように、那覇と首里に最初に区制が施行されました。

その後沖縄県区制(明治29年勅令第19号)の全部改正がなされ、(新)沖縄県区制(明治41年勅令第43号)(M41.3.17)が明治41年4月1日より施行されました。この(新)沖縄県区制は、明治40年勅令第46号(沖縄縣及島嶼町村制)(拙稿[64955]参照)の施行に合わせて改正されたものと考えられます。


その後、(新)沖縄県区制は1921年に那覇区及び首里区に市制が施行されたことで有名無実化し、勅令の実効性が喪失したものと考えられます。


(2)郡制度
大和朝廷の支配下に無かった沖縄県には、明治になっても郡というものは存在しませんでした。
それが、勅令第13号(M29.3.7)によって沖縄県にも郡が設置されることとなり、この勅令は内務省令第2号(M29.3.10)によって明治29年4月1日より実施されました。
沖縄県に郡というものが出来たのはおそらく郡制との関係だとは思われますが、郡制が廃止になって郡が自治体ではなくなっても、地理的名称たる郡は現在も残ることになりました。


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[64955]及び本稿の沖縄県・島嶼の自治制度に関連してですが。。。
>88さん

市区町村変遷情報・沖縄県に、沖縄県に1896(明治29)年4月1日に郡が出来たことを記載した方がよいのではないでしょうか。

島根県の隠岐国の各町村に町村制が施行されたのは1904(明治37)年5月1日ですので、市区町村変遷情報・島根県の当該箇所の修正をお願いします。
参照:明治37年勅令第63号(島根縣隠岐国ニ於ケル町村制度ニ関スル件)(M37.3.12)、内務省令第6号(M37.4.13)

鹿児島県大島郡に島嶼町村制施行が施行されたのは1908(明治41)年4月1日ですので、市区町村変遷情報・鹿児島県の当該箇所の修正をお願いします。
参照:明治40年勅令第46号(沖縄縣及島嶼町村制)(M40.3.16)、内務省令第1号(M41.2.3)

なお、明治40年勅令第46号(沖縄縣及島嶼町村制)の施行にあわせ、鹿児島県では鹿児島県令第41号(M41.3.20)で


来る4月1日より大島郡に沖縄縣及島嶼町村制施行に付村名称及其区域並村役場位置左之通之を定む

新村名村役場位置区域即旧村名備考
名瀬村旧金久村金久村, 伊津部村, 仲勝村, 有屋村, 浦上村, 大熊村, 朝仁村,
小宿村, 知名瀬村, 根頼部村, 有良村, 蘆花部村, 小湊村, 名瀬勝村,
伊津部勝村, 朝戸村, 西仲勝村
竜郷村旧瀬花留部村秋名村, 幾里村, 嘉渡村, 円村, 龍竜郷村, 久場村, 戸口村,
中勝村, 大勝村, 浦村, 瀬花留部村, 屋入村, 蘆徳村, 赤尾木村
笠利村旧中金久村中金久村, 里村, 外金久村, 川上村, 屋仁村, 佐仁村, 用村,
笠利村, 辺留村, 須野村, 宇宿村, 万屋村, 手花部村, 喜瀬村, 用安村,
節田村, 和野村, 平村
大和村旧思勝村国直村, 湯湾釜村, 津名久村, 思勝村, 大和浜村, 大棚村,
大金久村, 戸円村, 名音村, 志戸勘村, 今里村
焼内村旧名柄村西古見村, 管鈍村, 花天村, 久慈村, 古志村, 篠川村, 阿室釜村,
宇検村, 久志村, 生勝村, 芦検村, 田検村, 湯湾村, 須古村, 部連村,
名柄村, 佐念村, 平田村, 阿室村, 屋鈍村
東方村旧古仁屋村油井村, 久根津村, 手安村, 古仁屋村, 清水村, 嘉鉄村, 蘇刈村,
伊須村, 阿木名村, 勝浦村, 網野子村, 節子村, 嘉徳村, 小名瀬村,
阿鉄村
住用村旧西仲間村市村, 山間村, 役勝村, 石原村, 西仲間村, 神屋村, 見里村,
東仲間村, 川内村, 摺勝村, 城村, 和瀬村
鎮西村旧於斎村瀬武村, 薩川村, 芝村, 実久村, 阿多地村, 須子茂村, 嘉入村,
西阿室村, 瀬相村, 俵村, 三浦村, 武名村, 木慈村, 押角村, 勝能村,
諸数村, 生間村, 渡連村, 諸鈍村, 野見山村, 秋徳村, 於斉村, 伊子茂村,
花富村, 興路島, 池地村, 請阿室村
喜界村旧湾村湾村, 赤連村, 中里村, 荒木村, 手久津久村, 上嘉鉄村, 浦原村, 川嶺村,
羽里村, 山田村, 城久村, 滝川村, 島中村, 早町村, 塩道村, 長嶺村,
白水村, 嘉鈍村, 阿伝村, 花良治村, 大朝戸村, 西目村, 中間村,
中熊村, 坂嶺村, 伊砂村, 伊実久村, 小野津村, 志戸樋村, 佐手久村
亀津村旧亀津村亀津村, 亀徳村, 徳和瀬村, 諸田村, 神之嶺村, 井之川村,
下久志村, 尾母村, 白井村
島尻村旧伊仙村喜念村, 佐弁村, 目手久村, 中山村, 面縄村, 古里村, 検福村,
伊仙村, 阿三村, 阿権村, 木之香村, 犬田布村, 崎原村, 小島村,
糸木名村, 八重等村, 馬根村
天城村旧阿布木名村山村, 花徳村, 母間村, 轟木村, 手々村, 金見村, 与名間村, 松原村,
浅間村, 阿布木名村, 兼久村, 大津川村, 当部村, 瀬滝村, 西阿木名村,
岡前村
和泊村旧和泊村和泊村, 和村, 手々知名村, 喜美留村, 国頭村, 西原村, 出花村,
畦布村, 根打村, 玉城村, 内城村, 大城村, 皆川村, 古里村, 後蘭村,
田舎平村, 永嶺村, 瀬名村
知名村旧知名村知名村, 屋子母村, 大津勘村, 徳時村, 島尻村, 正名村, 田皆村,
下城村, 上城村, 久志検村, 赤嶺村, 余多村, 上平川村, 下平川村,
屋者村, 芦清良村, 黒貫村, 瀬利覚村
与論村旧茶花村茶花村, 立長村, 麦屋村, 足戸村, 那間村, 古里村
十島村旧中之島中之島, 宝島, 悪名島, 口之島, 平島, 臥蛇島, 黒島, 竹島, 硫黄島,
諏訪瀬島


と村々の廃置分合がなされました。同日に島嶼町村制が実施された長崎県対馬国でも、島嶼町村制の実施と同日付で村々の廃置分合が行われました。現在市区町村変遷情報においては、明治の大合併の記載では
「自治体」にこだわらないで実態的な区域の変更を記録する([64892]hmtさん)
という方向に向かっているように見受けられます。鹿児島県大島郡と長崎県対馬国の廃置分合も記載する方向で是非検討願います。


(注)鹿児島県令第41号(M41.3.20)は鹿児島県市町村変遷史(著:鹿児島県総務部参事室、出版:鹿児島県、1967)103-108頁より引用しました。なお、県令中のカタカナは平仮名に、漢数字はアラビア数字に引用者が置き換えています。
[65138] 2008年 5月 16日(金)12:22:22hmt さん
村の中に「国境線」が引かれてしまった十島村
[65126] むっくん さん
鹿児島県大島郡十島村の事例を思い出しました。

本論に入る前に、88さんに連絡。
明治41年内務省令第1号により、沖縄県及島嶼町村制が 鹿児島県大島郡に施行された結果 誕生した 大和村、名瀬村… 十島村(じっとうそん) の16ヶ村は、長崎県対馬国の13ヶ村と同様に「市制町村制施行時の情報」として記載されるべきものではないでしょうか。ご検討願います。

それはさておき
大正9年(1920)に「本土なみ」の「町村制による村」になった十島村(トカラ列島)ですが、敗戦後の1946年になると マッカーサー司令部覚書 によって、思いがけず村の中を通る北緯30度に「国境線」が引かれてしまいました。
当然のことながら、村は 奄美と共に日本の施政権から外された「下七島」と、鹿児島県に残された「上三島」とに分断されました。

1951年9月調印のサンフランシスコ平和条約では、北緯29度以南の南西諸島(奄美・沖縄)のアメリカによる信託統治を受け入れざるを得ないことになりましたが、29度と30度の間にあったトカラ下七島の日本復帰が決まりました。
平和条約に基づくトカラ復帰の具体的な手続きは、[65126]で(4)として記されたSCAP覚書と暫定措置に関する政令で行なわれ、とりあえず昭和26年(1951)12月5日に、変則的な「自治体でない十島村」が誕生しました(鹿児島県市町村変遷史109頁)。
下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。

2ヶ月後には 鹿児島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令(昭和27年政令第13号) が制定され、1952年2月10日から施行されたので、変則的な制度はごく短期間で終りましたが、この約2ヶ月は、「自治体でない十島村」(下七島)と「自治体である十島村」(上三島)と、異なる制度の下の2つの「じっとうそん」が共存していたのですね。

参考までに、小笠原諸島復帰に伴う暫定措置により、「自治体でない小笠原村」が設置されたのは 1968年6月26日 で、こちらは議員と村長の選挙により「自治体たる小笠原村」が実質的に発足した 1979年4月22日まで10年以上も変則的な状態が続きました[53248]

ポツダム政令(注)の結果、上三島の十島村は自動的に分村した結果になったので、

ポツダム政令というのは、“「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官(SCAP)ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ”法律事項であっても緊急勅令などの命令で定めることを可能にした占領下の特別な制度の一種でした。
リンクした条文
この政令施行の際現にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿児島県大島郡十島村となるものとする。
から明らかなように、…暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)により置かれた「自治体でない十島村」が、その区域(下七島)のまま、自治体の「十島村」になるという内容であり、上三島が“自動的に分村”するということではありません。

[56242]でリンクした 《特定外周領域》の淵源とその系譜 には、
下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、
と記されていることからも、「自動的に分村」ではなく、上三島の住民は、ポツダム政令によって新しく設置される「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたものと思われます。
「新たに分村」という言葉を使っていますが、既に1946年に強制的に分離させられた村が「元の鞘に戻らない」という意味ですから、「分村」の適切な用法ではありません。

分村及び村の名称変更の条例を制定
と鹿児島県市町村変遷史に書かれているそうですが、条例で制定したのは、新しい自治体として生まれる下七島の「十島村」と同じ字になることを避けるために「三島村」にする名称変更(2月10日実施)だけでしょう。
「分村」を村条例で定めるのは手続きとしておかしいし、以前から存在している自治体なのだからその必要もないと思われます。

下七島の「十島村」も、新発足にあたり、「としまむら」と呼ぶように変えました 十島村HP
旧・十島村(じっとうそん)と区別するためでしょう。

最後に、トカラ列島に関するトピックスを記した過去記事を一つ紹介[56250]
皆既日食も1年少し後に迫りましたね。
[65198] 2008年 5月 20日(火)20:35:59【2】88 さん
市区町村変遷情報 沖縄及び島嶼について
[64955][64956] むっくん さん
沖縄県・島嶼の自治制度に関する整理をありがとうございます。
制度史については、基本となる市制・町村制については自分なりにある程度整理したつもりなので、残るは沖縄、島嶼、北海道、大都市だと自覚し、順次取り組んでおります。島嶼については私も調べていたのですが、[64955] むっくんさん
しかし内地と同じ町村制が施行されたにも関わらず、この時点では島根県管下隠岐国及び長崎県対馬国の町村は明治22年勅令第1号の『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定からは外れません。
といった矛盾を整理できず袋小路でした。[64955][64956] むっくん さんのおかげですっきり整理できました。これらについて表形式で整理すると次のとおりだと思います。ホントは村名・島名、勅令・内務省令を組み合わせようとしたのですが、表が複雑かつ膨大になるので割愛しました。すべてではありませんが、大半の勅令や内務省令は確認済みです。

小笠原(*1)小笠原(*2)伊豆(*3)伊豆(*4)伊豆(*5)伊豆(*6)伊豆(*7)隠岐国対馬国大島郡(*8)大島郡(*9)沖縄県
M22.4.1
M37.5.1町村
M41.4.1沖島
M41.4.1沖島
M41.4.1沖島沖島沖島
M41.10.1沖島
T8.4.1町村
T9.4.1島嶼島嶼町村町村町村
T12.10.1島嶼
S15.4.1町村町村町村町村町村
S22.5.3地自地自地自地自地自地自地自地自地自地自地自
S43.6.26地自

*1*2を除く全部
*2北硫黄島,南硫黄島,南鳥島,中ノ鳥島,沖ノ鳥島
*3大島
*4八丈島(青ヶ島を除く)
*5利島,新島,神津島,三宅島,御蔵島
*6八丈島(青ヶ島)
*7八丈小島
*8大隅国大島郡大島,徳ノ島,喜界島,沖永良部島,与論島
*9薩摩国川辺郡硫黄島,黒島,竹島,口之島,臥蛇島,平島,中之島,悪石島,諏訪ノ瀬島,宝島、M30(1897).4.1に大隅国大島郡に

各府県の市制町村制施行時に「町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件」により町村制を施行しなかった島嶼等
沖島「沖縄県及島嶼町村制」施行
島嶼「島嶼町村制」施行
町村「町村制」施行
地自「地方自治法」施行
これらをまとめて、M22(1889).4.1からM23(1890).2.15にかけての45府県における市制町村制施行以降の、沖縄・島嶼において、郡区町村編制法などから新たに町村制あるいはそれに相当する近代地方制度を新たに導入し、市区町村変遷情報市区町村変遷履歴情報 市制町村制施行時の情報に記載すべき情報は次のとおりと考えています(北海道を除く)。なお、タイトルや説明文等は追って修正したいと考えています。[65138] hmt さんでご指摘のあった、鹿児島県大島郡に施行された沖縄県及島嶼町村制(16村)を含みます。
年月日地域内容備考
M22(1889).4.1~各府県市制町村制(順次)
M29(1896).4.1沖縄県沖縄県区制(2区)
M37(1904).5.1隠岐国町村制(1町11村)
M41(1908).4.1沖縄県沖縄県及島嶼町村制(1町48村)
M41(1908).4.1東京府大島沖縄県及島嶼町村制(6村)
M41(1908).4.1長崎県対馬国沖縄県及島嶼町村制(13村)
同上鹿児島県大島郡沖縄県及島嶼町村制(16村)
M41(1908).10.1東京府八丈島沖縄県及島嶼町村制(5村)
T8(1919).4.1長崎県対馬国沖縄県及島嶼町村制→町村制*
T9(1920).4.1鹿児島県大島郡,沖縄県沖縄県及島嶼町村制→町村制*
T12(1923).10.1東京府利島,新島,神津島,三宅島,御蔵島島嶼町村制(10村)
S15(1940).4.1東京府小笠原(大半),八丈島(青ヶ島)町村制(6村)
同上東京府伊豆大島・八丈島島嶼町村制→町村制*
S22(1947).5.3東京都八丈小島地方自治法
同上全国市制町村制→地方自治法*
S43(1968)6.26東京都小笠原復帰地方自治法(北硫黄島等には初)

注)*は制度の変更によるもので、市制町村制等「施行後」とみなし、個別には記載せず、説明書き等で対応しようかと思います。[65018]むっくんさんご指摘のように、個別情報で対応しようとすると、例えばS22(1947).5.3の地方自治法施行について、全市町村を変更しなくてはならなくなるからです。

これには、奄美群島や沖縄などが日本政府の統治から離れたり復帰したりの動きを反映していません(小笠原に関しては、北硫黄島等が島嶼町村制等を施行することなく地方自治法施行となったので記載したのに過ぎません)。伊豆諸島([24269] hmt さん)やトカラ列島([56242] hmt さんほか)の取扱いも含めて、何らかの記述が必要かとも思いますが、後日とします。

私が未確認なのは、これらの制度施行と同時に従来の町村が合併したので良いのか、ということ。
[64956] むっくん さん ご紹介の鹿児島県大島郡に沖縄県及島嶼町村制を施行した際の件は、鹿児島県令を確認していただいているので同日付けで間違いないようですが、例えば島根県隠岐国の町村制施行に際しては、諸文献ではM37(1904).4.1に各町村が合併するとともに町村制施行、とあります。合併もM37(1904).5.1付けと考えるのが他の例から鑑みると自然だとは思いますが、島根県令を確認していないので推測どまりです。また、同様の件は沖縄県や北海道でもあります。
作業の省力化のため、同日付けで合併・新制度施行とみなして入力し、その後誤りがあれば修正しようかとは思っていますが・・・・。

【訂正記録】2009.9.12
[71887]hmtさんの指摘により88さんからの依頼で表の一部を修正(計5カ所)
[69050] 2009年 3月 29日(日)21:28:10【2】Issie さん
イワシの島
[69048] hmt さん
琉球王国を征服した島津家が、日本では徳川家に臣従していたようなもの?

島津家は琉球を征服したけれど「琉球王」は名乗りませんでしたね。
奄美だけを直接支配下に編入して,(狭義の)沖縄と先島(宮古・八重山)は首里王府を存続させて間接支配下に置いた…。340年ほど後のアメリカ合衆国と日本との関係と同じ?
東アジアとヨーロッパとでは「国」や国際関係がお互いに別の理屈で成り立っていますから,一方で“よく似た面”を認めても,すべてを全く同じ概念でとらえることはできませんよね。

“封建制度”について,日本とヨーロッパで一番違う点の1つは,日本では1人のお殿様が同時に複数の「藩」の当主たり得ないこと。ヨーロッパでは1人の人が同時に複数の領域の当主であることは珍しくない。
たとえば,18世紀半ばのハプスブルク家の女当主である マリア・テレジア は「オーストリア大公」であると同時に「ハンガリー王」,「ベーメン(ボヘミア)王」であり,さらにオーストリア系ハプスブルク家相伝の“王未満”の各領地の領主でありました。ただ,ハプスブルク家が世襲してきた「神聖ローマ皇帝」の地位だけは,彼女が“女性”であるために継承できず,夫の ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファン(フランソワ・エティエンヌ) が フランツ1世 として皇位につきました。
ちなみに,マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの娘の1人が マリア・アントーニア。フランス語では マリー・アントワネット と呼ばれます。

さて,ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム)や薩摩の島津家は,それぞれイングランドと琉球を武力で征服しましたが,「国際関係の妙味」の結果として“島の飛び地”を手に入れたのが後に「イタリア王家」となるイタリア北部ピエモンテの領主 サヴォイア家 の ヴィットーリオ・アメデーオ2世。
この家系は「サヴォイア」という“名字”が表すように,元々はアルプス南西麓の サヴォイア(フランス語では サヴォワ。1992年の冬季オリンピックが開かれたアルベールビルが属します)の領主でした。やがて,山奥から東の平地である ピエモンテ に支配地を広げ(三河の山奥から平地の岡崎に出てきた 松平氏 のように!),2006年の冬季オリンピック開催地の トリノ を首都としていました。
経過が複雑なのでここでは結果だけ書くと,1713年のスペイン継承戦争の結果,「サヴォイア公」であったヴィットーリオ・アメデーオ2世は,スペインのハプスブルク家が継承していた「シチリア王」の地位を手に入れました。そして,1720年には(オーストリアの)ハプスブルク家との間でシチリアとサルデーニャ(サルディニア)を交換し,「サルデーニャ王」を名乗ることになりました。その結果,サヴォイアとピエモンテとサルデーニャからなる「サルデーニャ王国」が成立しました。首都は相変わらず,ピエモンテのトリノ。それでも「サルデーニャ」なのは,「王」を名乗るこちらの方が「サヴォイア公」よりも格が上だからです。
後に,サヴォイア家のサルデーニャ王国はイタリア統一の主役となります。その過程で,サヴォイアとニッツァ(ニース)がフランスに割譲されました。「イタリア王」への道と引き換えに“名字の地”を失ったのですね。岩出山(のち仙台)60万石と引き換えに 伊達郡 を失った 伊達政宗 のように。

で,ここでまた「プロイセン」と同じ現象が…。
「サルデーニャ王国」にとって,“本体”とは王国の名前となっている サルデーニャ か,それとも首都トリノのある ピエモンテ か。あるいは,王家発祥の地の サヴォイア(サヴォワ) か。

※ところで,サヴォイア家の発祥の地は現在のイタリアとフランスにまたがる地域でした。ものの本によると,この地域で話される「方言」(地域語)は,“標準的な”イタリア語とフランス語の間,“遷移的”な特徴を示すのだとか。サヴォワは現在,フランスの領域に含まれますが,イタリアの領域に含まれる ヴァッレ・ダオスタ(アオスタ谷) はイタリアにおいてフランス語が公用語として認められている特別な地域です。
そして,サヴォイア家の宮廷では長くフランス語が公用語として用いられていたようです。イタリア統一の主役の1人である カヴール も,フランス語話者で実はイタリア語が苦手だったらしい。イタリア統一によって,サヴォイア家とその宮廷も「イタリア化」していったのですね。

なお,英語の サルディニア Sardinia は「イワシの島」という意味,…というのは逆で,この島の特産であったイワシをこの島にちなんで sardine と呼ぶようになった,と言われています。
[69110] 2009年 4月 3日(金)06:45:57【1】むっくん さん
島尻郡鳥島
[69095]YTさん
戦前の国勢調査や日本帝国人口静態統計では、島尻郡鳥島という区分が存在します。鳥島という地名はいくつかありますが、おそらく硫黄鳥島のことでしょう。
久米島町HP町の概要によりますと、久米島の北側に鳥島、北東のかなり離れた所に硫黄鳥島があります。
まず「硫黄鳥島」という地名は、沖縄県史資料編13硫黄鳥島(編:沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室、出版:沖縄県教育委員会、2002)299頁(災害情報データベースHP資料2(PDF)2コマ)によると
木下亀城が1935年の論文に、また赤嶺康成が「琉球全図」に表記してから、この名が定着したといわれている。たしかにそれ以前は、単に「鳥島」となっており、『琉球国由来記』や『球陽』などの古文書にもそうなっている。斎藤用之助著『鳥島移住始末』にも同様の記述になっている。しかしながら、久米島には仲里村に属する「鳥島」と称する無人島があり、この島との混同を避けるために、もう一つは移住した鳥島集落との混同を避けるために、「硫黄鳥島」という呼称は必要だったといえる。
とあります。
#斎藤用之助とは明治36(1903)年4月の爆発に伴い、具志川間切(後の具志川村で久米島の西側半分を占める)に移住を決めた時の島尻郡長。ちなみに久米島の東側半分は仲里間切で後の仲里村。

これはYTさんのご推察の通りのようで、当時は硫黄鳥島のことを単に鳥島と呼んだようです。

次に、鳥島(硫黄鳥島)の変遷です。

郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42.12.10)によりますと、自治体としての鳥島は明治38(1905)年3月31日に消滅していることになっています。
沖縄県統計書明治37年(著:沖縄県内務部第一部、出版:沖縄県、明40.3.25)(明治37年12月31日現在)では、郡区間切島の欄に鳥島があります。しかしながら沖縄県統計書明治38年(著:沖縄県第一部、出版:沖縄県、明40)(明治38年12月31日現在)では、郡区間切島の欄より鳥島が消え、さらに村及字名の欄のどこにも鳥島が記載されていません。このことは、どこかの間切に編入されたのではなくて文字通りの消滅であったことを裏付けています。

さてそれでは鳥島の区域がどこの間切の所属になったかです。
鳥島の区画は、久米島の具志川間切に移住した鳥島の住民が所有権を持ち続けていたようで、具志川間切の所属とされました。(参考:硫黄鳥島全島移住のときの島尻郡長齋藤用之助
後に刊行された沖縄県統計書明治39-40年(著・出版:沖縄県警察部、明40.12.8)では具志川間切の所属下に鳥島との文字が見え、具志川間切の下で鳥島が復活したことが分かります。
また沖縄県史資料編13硫黄鳥島312頁(資料2(PDF)15コマ)の写真10には、具志川間切が具志川村となった後の明治45年の時点のことですが、
島尻郡具志川村字鳥嶋区長を命す
明治45年6月3日 島尻郡役所
とあります。そしてこの区長が任命されたことを島尻郡長であった斎藤氏は、
「県下の町村の字で議事機関である区会を設け居るのじゃ、今は此の鳥島丈である。字鳥島に区会の設定が許可せられ居るのは、字有財産の管理の為である。……字鳥島は、1ケの独立村即ち旧鳥島の時代に一個の独立自治団体であったと云ふことも許可の一事由になって居る」
と説明されています。


その後、勅令第45号(沖縄縣間切並東京府伊豆七島及小笠原島ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件)(明40.3.16)が内務省令第24号(明40.10.12)によって明治41(1908)年1月1日より沖縄県に施行されました。
この勅令は間切を村(町村制未実施地域の村)とし、村(沖縄県に従来よりある間切の下位区分)を字とするものでした。
この時に具志川間切の区域は具志川村となりました。

その後、勅令第46号(沖縄縣及島嶼町村制)(明40.3.16)が内務省令第25号(明40.10.12)で明治41(1908)年4月1日より沖縄県に施行されることで、具志川村には村制(沖縄県及島嶼町村制)が施行されました。


さて市区町村変遷情報を見てみます。
まず初めに現在の市区町村変遷情報の担当者は、概ね1990年以前は88さん、1990年以降はでるでるさんです([56598]でるでるさん)。そして88さんの現在の方針ですが、市制町村制施行以後の記載を優先しておられるようです。そのため、沖縄県の市区町村名は明治41(1908)年4月1日(一部は明治29(1896)年4月1日)までしか遡れません。

市区町村変遷情報・沖縄県(市制町村制施行時)の明治41(1908年)年4月1日の欄を見てみますと、
30 新設/村制 島尻郡具志川村 島尻郡 具志川村, 上江洲村, 仲村渠村, 西銘村, 仲地村, 山里村, 兼城村, 嘉手苅村, 大田村, 「硫黄」鳥島
と記載されています。先にも述べたとおり旧来の村(沖縄県に従来よりある間切の下位区分)は明治41(1908)年1月1日に消滅しているため
30 村制 島尻郡具志川村 島尻郡 具志川村
と記載するのが正しいことになります。
#明治41(1908)年4月1日の沖縄県の他の箇所の記載もすべておかしいようです。

この後、明治41(1908)年1月1日の時点に遡った時に改めて、
新設/村制 島尻郡具志川村 島尻郡 具志川間切, 具志川村, 上江洲村, 仲村渠村, 西銘村, 仲地村, 山里村, 兼城村, 嘉手苅村, 大田村, 鳥島
との記載がなされるのでしょう。

---------------------
以下余談です。

沖縄県の間切の下にあった旧来の村というのは村落共同体としての自然村であり自治制度を持っていませんでした。自治制度を持たないという意味で、本州などの藩政村とは同等に扱っていいのか議論があると思います。しかし、規模としては、小規模な藩政村と同等でした。
間切というのは傘下の村落共同体としての自然村たる複数の村の範囲を治めるために琉球王国が作った行政区画で、Wikipediaでは上手く説明されているので引用しますと、
現在の日本で言えば、理念的には都道府県にあたるが、現実の面積から言えば、現在の市町村に相当する。
といったものです。その後明治32(1899)年1月1日より施行された勅令第352号(沖縄県間切島規定)(明31.12.22)によって、間切は島と共に大日本帝国の行政区画として扱われることになりました。

市区町村変遷情報に記載するにあたり、行政区画であるか否かという点を重視するならば、明治41(1908)年1月1日の時点での記載は
新設/村制 島尻郡具志川村 島尻郡 具志川間切, 具志川村, 上江洲村, 仲村渠村, 西銘村, 仲地村, 山里村, 兼城村, 嘉手苅村, 大田村, 鳥島
ではなくて
村制 島尻郡具志川村 島尻郡 具志川間切
となるのでしょう。
[69111] 2009年 4月 3日(金)16:29:29hmt さん
伊平屋・伊是名は、久米島から硫黄鳥島まで連なる「もう一つの列島」に属する?
[69095] YT さん
沖縄県の伊平屋村と伊是名村は、戦前は島尻郡所属で、琉球政府管轄の時期に北部地区(国頭郡)所属になり(中略)1972年6月7日以降再び島尻郡所属になっていますが、このような郡の組み換えは市町村変遷情報の調査の対象外でしょうか?

問いかけられたオーナーグリグリさんでも、市区町村変遷情報担当でもないのに横レスで失礼。
落書き帳のごく初期に、Issieさんが投げかけた疑問[722]
伊是名・伊平屋の場合にはどういう事情があるのやら。
から2年後に、同じくIssieさんの記事[27598]がありました。

---------抜粋して引用---------
もともと伊平屋・伊是名両島は王国時代には「島尻方」所属とされていました。それが琉球処分後,沖縄県にも徐々に「本土並み」の制度が導入される過程で,郡制の施行によって,そのまま「島尻郡」所属となりました。
戦後,米軍占領下で新しい統治体制が整備されていく過程で,両村は「北部地区」の管轄下に組み込まれたようです。位置関係からすれば,自然な話ではありますね。
市町村については戦前のものが「復活」するわけですが,(中略)結局「郡」は使われていないようですね。
「郡」という区画の使用されていなかった時期のこととて,「島尻郡→国頭郡」という所属変更手続きは行われなかったのではないか,と考えています。
「本土復帰」後,【地方公共団体コード上の扱いでは「国頭郡→島尻郡」という所属変更が行われたことになっているが】,自治省告示では該当するものを見つけることができませんでした。
---------引用終---------

この経過からすれば、【コードではなく】伊平屋村・伊是名村そのものの所属郡変更に関する日本の手続きは行なわれておらず、市区町村変遷情報の対象外ということのようです。
Issieさん[27598]も、次のように記しています。
そうすると,多くの資料でそうであるように,両村は「ずっと島尻郡」ということになるのかもしれません。

手続き的なことはさておき、私が関心を持ったのはその実体、つまり琉球王国時代から「島尻方」所属とされていた理由です。

既に[69110]むっくんさん が参考資料としてリンクした 硫黄鳥島全島移住のときの島尻郡長 齋藤用之助 の中に、次のような記載がありました。

【硫黄鳥島は】琉球王国時代は久米島を中心とした久米方に属しており、現在の感覚とは異なり、久米島が、沖縄本島より西に点在する島々の中心であったことがわかる。
本島西岸に浮かぶ伊平屋島や伊是名島も久米方に属しており、現在も久米島が属する島尻郡に属する。

なるほど、久米島を本島として、渡名喜島・粟国島・伊是名島・伊平屋島・硫黄鳥島と連なる「もう一つの列島」が存在して、沖縄・奄美と連なる列島の北西に並行しているようです。
慶良間諸島もこちらに入るのかもしれませんが、本部半島先端の伊江島だけは沖縄本島の付属島です。
久米島を親分とする列島に属する島々は、緯度から言えば徳之島くらいの硫黄鳥島まで、すべて同じ島尻郡ということで納得。
[28741]の末尾に疑問符付きで記した久米島との関係も、リンク文書により了解。

なお、硫黄鳥島の面積 2.60 km2 は、昭和44年にやっと国土面積に算入されました[67240]
[69541] 2009年 4月 24日(金)06:56:09【1】むっくん さん
市区町村変遷情報・沖縄県(市制町村制施行時)
[69153]88さん

以前[69110]拙稿のコメント文で
#明治41(1908)年4月1日の沖縄県の他の箇所の記載もすべておかしいようです。
と書きました。しかしながらこれだけ書かれても、おそらく88さんは「どのように記載すればよいのだろう」とおそらく困惑されるものと推測しました。
そこで[69110]拙稿を書いた後に、沖縄県の間切&島&村&区の変遷を沖縄旧慣地方制度(著・出版:沖縄県内務部第一課、明26.6.24)及び明治30~40年の各年度の沖縄県統計書を基として、IssieさんHPをも参考にしつつ、私もまとめてみました。その表より間切&島&村&区の変遷の概略を以下に記しますので、参考になれば幸いです。

ここで紹介する変遷は那覇と首里に区が設置され、島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の5郡が設置された1896(明29).4.1以降に限定します。

出来事
1903(明36)村々の合併、分立がなされる。
1903(明36).4.__那覇区に一部の村が編入される。
1905(明38).3.31島尻郡鳥島の廃止。鳥島の区域は島尻郡具志川間切の一部となる。
1906(明39).10.__首里区に一部の村が編入される。
1906-1907(明39-40)島尻郡具志川間切の傘下で鳥島が復活。
1908(明41).1.1勅令第352号(沖縄県間切島規定)(明31.12.22)で指定された間切及び島が村へと名称を変える。
参考:勅令第45号(沖縄縣間切並東京府伊豆七島及小笠原島ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件)(明40.3.16)、内務省令第24号(明40.10.12)
1908(明41).3.31島尻郡糸満町、宮古郡4村、八重山郡八重山村の成立。(注)
県令第22号(島尻郡兼城村ヲ分割シテ二箇町村ト為シ、宮古郡ニ四箇村ヲ置キ及八重山郡ノ全区域ヲ八重山村ト称スルノ件)(明41.3.28付)
1908(明41).4.1沖縄縣及島嶼町村制の施行。
参考:勅令第46号(沖縄縣及島嶼町村制)(明40.3.16)、内務省令第25号(明40.10.12)


ではどのように記載するかですが、1908(明41).4.1には上記にも記しましたように一切の廃置分合はなされていませんので、

1村制島尻郡小禄村島尻郡 小禄村
2村制島尻郡豊見城村島尻郡 豊見城村
3村制島尻郡兼城村島尻郡 兼城村
4町制島尻郡糸満町島尻郡 糸満町
5村制島尻郡高嶺村島尻郡 高嶺村
6村制島尻郡真壁村島尻郡 真壁村
7村制島尻郡喜屋武村島尻郡 喜屋武村
8村制島尻郡摩文仁村島尻郡 摩文仁村
9村制島尻郡具志頭村島尻郡 具志頭村
10村制島尻郡東風平村島尻郡 東風平村
11村制島尻郡玉城村島尻郡 玉城村
12村制島尻郡知念村島尻郡 知念村
13村制島尻郡佐敷村島尻郡 佐敷村
14村制島尻郡大里村島尻郡 大里村
15村制島尻郡南風原村島尻郡 南風原村
16村制島尻郡真和志村島尻郡 真和志村
17村制島尻郡仲里村島尻郡 仲里村
18村制島尻郡具志川村島尻郡 具志川村
19村制島尻郡渡嘉敷村島尻郡 渡嘉敷村
20村制島尻郡座間味村島尻郡 座間味村
21村制島尻郡伊平屋村島尻郡 伊平屋村
22村制島尻郡粟国村島尻郡 粟国村
23村制島尻郡渡名喜村島尻郡 渡名喜村
24村制中頭郡西原村中頭郡 西原村
25村制中頭郡浦添村中頭郡 浦添村
26村制中頭郡宜野湾村中頭郡 宜野湾村
27村制中頭郡中城村中頭郡 中城村
28村制中頭郡北谷村中頭郡 北谷村
29村制中頭郡読谷山村中頭郡 読谷山村
30村制中頭郡越来村中頭郡 越来村
31村制中頭郡美里村中頭郡 美里村
32村制中頭郡具志川村中頭郡 具志川村
33村制中頭郡与那城村中頭郡 与那城村
34村制中頭郡勝連村中頭郡 勝連村
35村制国頭郡名護村国頭郡 名護村
36村制国頭郡恩納村国頭郡 恩納村
37村制国頭郡金武村国頭郡 金武村
38村制国頭郡久志村国頭郡 久志村
39村制国頭郡国頭村国頭郡 国頭村
40村制国頭郡大宜味村国頭郡 大宜味村
41村制国頭郡羽地村国頭郡 羽地村
42村制国頭郡今帰仁村国頭郡 今帰仁村
43村制国頭郡本部村国頭郡 本部村
44村制国頭郡伊江村国頭郡 伊江村
45村制宮古郡伊良部村宮古郡 伊良部村
46村制宮古郡下地村宮古郡 下地村
47村制宮古郡城辺村宮古郡 城辺村
48村制宮古郡平良村宮古郡 平良村
49村制八重山郡八重山村八重山郡 八重山村

と記せばよいものと考えられます。


(注)県令第22号(島尻郡兼城村ヲ分割シテ二箇町村ト為シ、宮古郡ニ四箇村ヲ置キ及八重山郡ノ全区域ヲ八重山村ト称スルノ件)(明41.3.28付)は那覇市歴史博物館に1993年に横内家より寄贈された文書の一つ『沖縄県町村諸規定』でしか現在はその本文を確認できないようです。なお、施行日は郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42.12.10)の記載に従いました。沖縄県勢要略(著・出版:沖縄県内務部、明44.3.3)によれば明治41(1908)年3月中であることには間違いはないようですが。

#現状の市区町村変遷情報では1903年で合併した村は合併が反映されていない形で、分立した村は分立が反映された形で、那覇区&首里区への編入は反映されていない形で概ね記述されているようです。
[69542] 2009年 4月 24日(金)07:49:19【1】88 さん
市区町村変遷情報小レス(市制町村制施行時 沖縄県)
[69095] YT さん 、[69110] むっくん さん、[69111] hmt さん、[69117] YT さん、[69126] グリグリ さん
沖縄県の伊平屋村と伊是名村について
「総覧」M41(1908).4.1島尻郡伊平屋村として沖縄県及島嶼町村制施行
S14(1939).7.1島尻郡伊平屋村字伊是名、字仲田、字諸見及び字勢理客が島尻郡伊是名村として分立
その後郡変更なし
「幕末以降総覧」M41(1908).4.1島尻郡勢理客村,我喜屋村,野甫村,島尻村,田名村,仲田村,諸見村,伊是名村が合併し島尻郡伊平屋村が発足、沖縄県及島嶼町村制については記述なし
S14(1939).7.1島尻郡伊平屋村字伊是名、字仲田、字諸見及び字勢理客が島尻郡伊是名村として分立
その後郡変更なし
「辞典」M41.4.1島尻郡の伊平屋島(伊是名村,仲田村,諸見村,勢理客村,田名村,我喜屋村,島尻村,野甫村)が村制施行し島尻郡伊平屋村が発足、「合併」との記述はなし、沖縄県及島嶼町村制については記述なし
S14(1939).7.1島尻郡伊平屋村字伊是名、字仲田、字諸見及び字勢理客が島尻郡伊是名村として分立
その後郡変更なし
このように、郡変更についてはどの文献にも出てきません。よって、当面の編集作業として、そのまま郡変更はなかったものとして取扱わせていただきます。
もっとも、[69111] hmt さん に[27598]Issieさんの記事をご紹介いただき、また、[69118] Issie さんでも、次のようにお言葉を頂きました。
そもそも琉球政府には(公式の)行政区画としての「郡」という制度は行われていなかったのだと思います。
(中略)
1945~1972年の沖縄は,要するに一言で言えば「事実として日本ではない」。
私は、市区町村変遷情報の編集作業に当たっては、[55681]冒頭に述べた各種文献(市区町村変遷情報のトップページにも紹介があります)を参考にするとともに、S22(1947).5.3以降の官報に搭載された総理府告示等については、官報情報検索サービスで確認しています(原則)。これには、S47(1972).5.15までの沖縄県の市町村の変遷については官報に登載されていません。にもかかわらず、前述の各文献にはさまざまな変遷が掲載されており、これらを基に、市区町村変遷情報(沖縄県)を作成している次第です。
この時期の沖縄県の市町村の変遷が、どのような根拠を持っているのか、不思議です。琉球政府の公的文書を探すことが早道なのかもしれません。
私自身、沖縄県の制度については十分理解できておりません(北海道と沖縄県は複雑で苦手です)。今後もいろいろと調べたいとは思いますが、皆様からもお知恵・根拠資料の提供・ご教示をいただけると幸いです。

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[69095] YT さん 、[69110] むっくん さん、[69111] hmt さん、[69117] YT さん、[69126] グリグリ さん
島尻郡鳥島 について
「総覧」M41(1908).4.1島尻郡具志川村として沖縄県及島嶼町村制施行、それ以前の村名等は記載なし
「幕末以降総覧」M41(1908).4.1付けで島尻郡具志川村,上江洲村,仲村渠村,西銘村,仲地村,山里村,兼城村,嘉手苅村,大田村,硫黄鳥島が合併し島尻郡具志川村が誕生、沖縄県及島嶼町村制については記述なし
「辞典」M41.4.1付けで島尻郡の具志川間切(兼城村,仲村渠村,具志川村,仲地村,山里村,上江洲村,西銘村,大田村,嘉手苅村)が合併し島尻郡具志川村が誕生(硫黄鳥島の記述なし)、沖縄県及島嶼町村制については記述なし
「便覧」記載なし(同書は「旧市町村名便覧」であり、島尻郡具志川村は同書刊行時には消滅していないため(現在は島尻郡久米島町)。同書の新版には具志川村自体の記載はあるが同村発足前の村名については同書は記載しない方針なので記述はないと思われる」)

この時期の沖縄県における町村制度の変遷については、[69110] むっくん さんが上手くまとめてくださっていますが、年表形式で再整理します。
M32(1899).1.1M31(1908).12.22勅令第352号沖縄県間切島規程施行(施行日は同勅令附則第20条による)
間切、島を法人(=自治体)とする
M41(1908).1.1M40(1907).3.16勅令第45号
沖縄県間切島並東京府伊豆七島及小笠原村ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件施行
(第一条 沖縄県ノ間切島ハ之ヲ村ト改メ(後略)  第二条 間切島内ノ村又ハ島ハト字シテ其ノ名称ヲ存ス)
(施行日はM40(1907).10.12内務省令第24号による)
「間切」及び「島」を「村」とする(「村」=法人、自治体)
従前の間切・島の中の「村」「島」は字として名称は残す(≠法人)(≠自治体)
M41(1908).4.1M40(1907).3.16勅令第46号沖縄県及島嶼町村制施行
(施行日はM40(1907).10.12内務省令第25号による)
従前の制度を近代の制度(沖縄県及島嶼町村制)に切換えて施行

要約して再掲すると、
~M31(1898).12.31間切及び島は事実上法人かつ自治体(間切・島の中の「村」「島」は自治体ではない)
M32(1899).1.1~間切及び島を法人(=自治体)として正式に位置づけ
M41(1908).1.1~間切及び島を村に名称変更(間切・島の中の「村」「島」はそのまま「字」で自治体ではない)
M41(1908).4.1~沖縄県及島嶼町村制施行(事実上は何も変わらず)
ここでいう「自治体」とは、「域内のことを自治的に決定する制度がある」という趣旨です。もちろん現行の自治体とは制度は異なるものの、単なる行政上の区画(官公署の所轄範囲)や地理的名称ではない、との趣旨です。

(硫黄)鳥島の島民の全住民がM36(1903)の硫黄鉱の噴出を契機に移住したとのことですが、上記経緯から見ると、この時期の(硫黄)鳥島はいわゆ自治体ではなく、字に相当するものであったようです。[69095] YT さんがご紹介されているように、この(硫黄)鳥島を事実上の「字」でありながら人口統計処理上別計上したようではありますが、何らかの別の事情があったのではないかと推測するくらいしかできませんが。
このため、現編集内容どおり、(硫黄)鳥島の記述は割愛させていただきます。とはいえ、M41(1908).4.1の沖縄県及島嶼町村制施行を市区町村変遷情報では現在のところ事実上の「起点」と捕らえているので、「有史以前」とも言えます。もっとも、「起点」をM32(1899).1.1の沖縄県間切島規程施行と捕らえる考え方もあるかもしれません。

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[69126] グリグリ さんで紹介していただきましたが、現時点では、市区町村変遷情報では、
明治29年(1896年) 4月1日 沖縄県 沖縄県区制施行 2区設置/沖縄県ノ郡編制ニ関スル件施行 5郡設置島尻郡の設置は、
島尻各間切, 久米島, 慶良間諸島, 渡名喜島, 伊平屋諸島, 鳥島, 大東島 の区域をもって島尻郡を設置
と記載しています。これは、M29(1896).3.7勅令第13号沖縄県ノ郡編制ニ関スル件によります。
ここで言う「鳥島」は、伊平屋諸島の次に掲載されていることから見ても「硫黄鳥島」のことで、鳥島は久米島に含まれていると考える方が自然でしょう。

明治41年(1908年) 4月1日 沖縄県 沖縄県及島嶼町村制 1町48村設置で島尻郡具志川村の沖縄県及島嶼町村制施行の情報で、具志川村となった従前の町村名として、硫黄鳥島を記載していました。

IssieさんのHPの市町村の変遷 沖縄県を拝見して、上記の制度の変遷を当てはめるとみると、確かに、具志川間切については、那覇・島尻郡(1908~1960)を参考にすると、
~M29(1896).3.31具志川間切
M29(1896).4.1~島尻郡具志川間切
(M29(1896).3.7勅令第13号沖縄県ノ郡編制ニ関スル件施行)
M41(1908).1.1~島尻郡具志川村
(M40(1907).3.16勅令第45号
沖縄県間切島並東京府伊豆七島及小笠原村ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件施行)
M41(1908).4.1~島尻郡具志川村
(M40(1907).3.16勅令第46号沖縄県及島嶼町村制施行)
と、むっくんさんの見解のとおりであることがわかります。
#ちなみに、Issieさんの上記HPによると次の解説が添えられています。
村は旧区画における間切内の区分としては「むら」,町村制(沖縄及島嶼町村制)施行による旧間切については「そん」と読む。

しかし、例えば、M41(1908).4.1~の宮古郡平良村を見てみると、上記IssieさんのHP中の宮古郡の変遷(1908~1960年)によると、旧区画(M26(1893).5)では次の間切であるようです。
 平良間切の一部(東仲宗根村,東仲宗根添村,西仲宗根村,荷川取村,西原村,大浦村,島尻村,狩俣村,大神村,池間村,前里村)
 砂川間切の一部(下里村,西里村,松原村)
 下地間切の一部(久貝村→平良村に改称済)
 多良間島の一部(塩川村,仲筋村,水納村)
ただし、つまり、M41(1908).4.1~の宮古郡平良村に対応する、M41(1908).1.1~3.31までの表現は、
(1)宮古郡平良村
(2)宮古郡平良村の一部,砂川村の一部,下地村の一部,多良間村の一部
のどちらと表現すべきなのかわかりません。これは、それぞれ、
(1)M41(1908).1.1で村(←間切)の再編が行われた(M41(1908).4.1では再編(廃置分合)はなかった)
(2)M41(1908).1.1では村(←間切)の再編が行われず従前の間切・島を村と呼称変更した
(M41(1908).4.1の沖縄県及び島嶼町村制施行時にあわせて再編(廃置分合)を行った
との意です。このいずれであるかの資料を有しておりません。M41(1908).4.1の沖縄県及び島嶼町村制施行時の、従前の村名及び(再編があればその)再編状況がわかる根拠資料を発見できれば、と思いますが・・・。
[69110] むっくん さんの考察を踏まえ、明治41年(1908年) 4月1日 沖縄県 沖縄県及島嶼町村制 1町48村設置の情報をすべて、
村制 島尻郡 具志川村 島尻郡 具志川村
のように、「字」である○○村を町村名のように記述することは適切でないため修正しようと思いますが、上記の情報を追って調査したいと思います。また、いい情報源があればご教示いただければ幸いです。
なお、M41(1908).1.1付けの変遷情報
村制 島尻郡 具志川村 島尻郡 具志川間切
は、やはり、「有史以前」に相当するため、将来構想として市制町村制施行以前に達した場合(他県で言うとM22(1889).4.1以前の合併等を記載するようになってきたとき)まで、保留しておきます(ただし、間切の再編の時期・有無も要調査)。

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と、実は本日朝6:30頃に本原稿を書き上げ、再度読み返してから投稿しよう、としていたところでその30分後に[69541] むっくん さん の投稿がありました。あわせて読み比べたほうが、読み手にとっても便利と思いますので、先に私も投稿しておきます。本稿の末尾部分の解答がむっくんさんからあったようですが、それに関しては追って対応・投稿します。
[70399] 2009年 6月 6日(土)18:51:07hmt さん
6がつ むいか に 雨 ざーざー ふってきて…
タイトルは、「♪ ぼうが1ぽんあったとさ…」で始まる えかきうた の一節です。
梅雨(つゆ)入り前の豪雨を警告する歌?

[70384] k-ace さん
気象観測所の市町村別分布を興味深く拝見しました。

57の気象台(55市1区1村)、19の測候所(11市6町2村)・79特別地域気象観測所

気象台の多いこと、測候所の少ないことに驚きました。

気象庁の 機関一覧 により 57の気象台の内訳を見ると、いくつかの地方気象台を統括する「管区気象台」が札幌、仙台、東京、大阪、福岡。そして、管下に3地方気象台を持つのに、なぜか「管区」のつかない沖縄気象台。これで6つ。
「海洋気象台」を名乗るのが、函館、舞鶴、神戸、長崎の4つ。
そして、上記気象台がない 38県に一つずつ(大部分は県庁所在地)と、広い北海道に5つ、離島のある沖縄県に3つ、これで46。
まだ一つ足りません。京都にもありました。

気象台の数から除外された「航空地方気象台」は、一覧の下の方にあります。
その所在地を記してみると、東京は大田区羽田空港、成田は成田市古込、中部は常滑市セントレア、関西は田尻町泉州空港中と、3つまでが交通由来町名コレクションの仲間でした。

そして、もう一つ除外されたのが「高層気象台」。これは、一覧のトップに記された本庁関係の中にある、別格の存在。
現在はつくば市の町名が変更されていますが、1920年の設立当初は、筑波郡小野川村館野という地名でした。アメダスの地点名は「つくば」ですが、「館野」という地名は、高層気象の観測点として現在も使われています。

ラジオゾンデによる高層気象の観測は、館野以外の地点でも行なわれています。
天気予報でよく耳にするのが「輪島上空 5,500m」。その他にも観測船および昭和基地を含む 各地点 で実施。

気象庁の機関一覧に記された「測候所」は 18です。“19の測候所(11市6町2村)”[70384]は、“18の測候所(11市5町2村)”の誤記と思われます。
2006年の 地上気象観測所一覧 には、41の測候所が記されていました。観測員が常勤する測候所から、無人観測体制への転換が進み、2007~2008年に合計 23の測候所が「特別地域気象観測所」に変更されたのですね。

よく知られた富士山測候所も、1999年にレーダー観測が廃止になり、残る観測装置も2004年に無人化されました。「富士山特別地域気象観測所」に正式に移行したのは 2008年でした。
先に挙げたラジオゾンデ観測点の中で、地点名が「米子」なのに、官署名が鳥取地方気象台となっています。これは、米子の無人化に伴ない、鳥取所属の観測員が米子で観測していることを示しているのでしょう。

最初の話題に戻り、57の気象台の所在地の中に「村」が1つあるのが目を引きます。
沖縄県島尻郡南大東村。

人々の上陸を拒み続けてきた険しい断崖ゆえに、沖縄の文化が及んでいなかった南大東島を、サトウキビ栽培で開拓したのは八丈島の人々でした。本土企業の経営から、戦後の米軍統治を経て沖縄化という歴史を[56334]で記しましたが、ラジオの気象通報でお馴染みの地名であることも、ちょっとだけ言及しました。

沿革 を見ると、前身の中央気象台南大東島観測所の創立は、戦時中の1942年となっています。敗戦後も業務を再開したので、戦後間もない頃の気象通報でも、南大東島の名がラジオから流れ、この島の存在を知るきっかけになりました。

ラジオの気象通報が出たついでに、[28888] ニジェガロージェッツ さんの記事に登場する観測点を、前記気象庁HPの機関一覧、地上気象観測所一覧と対比させてみました。
さすがに有名地点だけあって、大部分が地方気象台や測候所の地位を確保していますが、一部は特別地域気象観測所に変更されています。
なお、最新(2009/6/4現在)かつ詳細な観測地点のリストは、pdf になりますが、地域気象観測所一覧 です。

現在のリストに現れない地名が「足摺岬」です。「清水測候所」改め「清水特別地域気象観測所」(所在地は土佐清水市足摺岬)の 沿革 を見ると、足摺測候所と呼んだ時代もあったが、昔から官署名は清水測候所なんですね。
地点名が「足摺岬」から「清水」なったのはいつなのでしょうか?
ラジオの気象通報も最近聞いたことがありませんが、「足摺岬」の名が聞けないとしたら、残念ですね。
[72124] 2009年 10月 3日(土)03:51:30【2】YT さん
琉球の不自然な人口増加
[72118] hmtさん

明治治12年(1879)の本籍人口[72084]が、明治5年からの7年間で何倍になったのか、調べてみました。
全国では1.08倍ですが、トップは沖縄県の1.86倍。

この人口統計は1月の数値ですから、3月に行なわれた 琉球処分 で沖縄県が設置される直前です。
沖縄にとっては、激変の時代だったのでした。

実のところ琉球の人口変動には相当不自然な点があります。

琉球の人口に関しては、薩摩藩の藩政史料により1632年ごろより本籍人口の統計が残っています。人口は薩摩藩の指導の下で琉球王国がまとめたものですが、これら沖縄・奄美の人口は、徳川吉宗以降に幕府がまとめた全国人口調査には含まれて居ません。つまり当時の幕府の認識では琉球も奄美も、国外でした。一方で蝦夷地は、1807年以降は樺太を含めすべて日本の領土であることを主張し、統計でもアイヌ人の人口までカウントするようになります。

元号西暦本琉球(沖縄群島)道之島(奄美群島)
寛永9年1632年108,958
寛永13年1636年111,669
万治2年1659年112,764
寛文5年1665年110,241
寛文年間1670年頃110,21131,377
寛文12年1672年116,483
延宝5年1677年122,213
貞享元年1684年129,995
元禄3年1690年128,567
元禄12年1699年141,187
宝永3年1706年155,10849,472
宝永4年1707年155,261
正徳3年1713年157,760
享保6年1721年167,672
享保14年1729年173,969
宝暦11年1761年188,530
明和9年1772年174,21174,910
寛政12年1800年155,65074,593
文政9年1826年140,56577,667
嘉永5年1852年132,67885,125

その後第一次琉球処分により琉球藩が成立し、薩南諸島こと奄美群島は統計上薩摩国の一部となっています。どういうわけか明治12年の第二次琉球処分(沖縄県成立)後は、奄美群島は統計上大隈国の一部となっています。この辺はどういう根拠で移動したのかは定かではりません。

元号西暦本籍人口現住人口備考
明治5年旧暦1月29日1872年3月8日166,789166,789第一次琉球処分,明治6年2月調の数字で代用
明治6年1月1日1873年1月1日166,789166,789実際は明治6年2月調
明治7年1月1日1874年1月1日167,073166,766
明治8年1月1日1875年1月1日167,320167,156
明治9年1月1日1876年1月1日167,572167,218
明治10年1月1日1877年1月1日167,822
明治11年1月1日1878年1月1日168,064
明治12年1月1日1879年1月1日310,545第二次琉球処分,明治13年1月調の数字で代用
明治13年1月1日1880年1月1日310,545
明治14年1月1日1881年1月1日356,801357,266入寄留人口のみで現住人口を計算
明治15年1月1日1882年1月1日358,880359,584入寄留人口のみで現住人口を計算
明治16年1月1日1883年1月1日360,770361,877入寄留人口のみで現住人口を計算
明治17年1月1日1884年1月1日363,836364,701
明治18年1月1日1885年1月1日366,864367,874
明治19年1月1日1886年1月1日372,508373,587
明治19年12月31日1886年12月31日377,290378,809
明治20年12月31日1887年12月31日373,145375,280
明治21年12月31日1888年12月31日372,437374,266
明治22年12月31日1889年12月31日378,852381,142
明治23年12月31日1890年12月31日405,031406,622

と、まあ明治23年までの琉球藩、沖縄県の人口変遷をまとめましたが、『日本全国戸籍表』などに記載の明治5年と明治12年の人口は、実は明治6年と明治13年の数字で代用されています。そして明らかに人口増加のおかしい点があります。すなわち第二次琉球処分の前後の2年間(明治11年~明治13年)で、ほぼ本籍人口が倍増しています。いくらなんでも2年間で人口(しかも本籍人口)が倍増することは、たとえ本土から集団移住があったとしてもありえないので、解釈は一つしかあり得ません。つまり本土からの役人が介入したことにより、それまで隠されていた人口が明らかにされたということです。

人口が隠蔽された原因ですが、おそらく税の主体が人頭税であったことが考えられます。これに対し本土では地租が税金の主体であり、人頭税が敷かれた藩は余り多くありません。そのため比較的本土の本籍人口は実態を反映していると考えられています。

また本土での人口調査のきっかけは、元々はキリシタン取締りのための宗門人別改帳の導入にあるわけですが、琉球では薩摩藩と清国の二重支配構造のために、余り寺請制度が徹底されなかったのでしょう。
[74376] 2010年 3月 18日(木)16:00:15【3】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (4)沖縄県区制 と 北海道区制
市の変遷 がデビューした機会に、これと深い関係を持つ「区制度の変遷」に関する情報を整理しています。

明治初期、最初は戸籍編成のために設けられた「区」は、やがて土地人民に関する事件一切を取扱う行政機構になりました。
区に大小を付けるところも多く、明治5年大蔵省布達第164号で大区小区制が原則になりました[58214]

[37785]
【島崎藤村誕生の地は】正確に書けば「筑摩県第八大区五小区馬籠村」でしょうが、…
[62550] [62613]
明治初年の地図を眺めてみると、明治8年 「東京四大区小区分絵図」の11小区の西側(第八大区四小区)に「朱引外」の字
【漱石の】父・夏目小兵衛は明治5年には第四大区の御用掛(明治6年12月区長)になっています。

しかし、この大区小区は 「市の変遷」に登場する区とは あまりにもかけ離れた存在 であるので、当面無視し、「市」の直接の前身と考えられる郡区町村編制法の 36区から このシリーズを始めました[74334]

実は [74334]で書き落していたのですが、明治11年の郡区町村編制法は、北海道では一足遅れて明治12年に施行され(おそらく明治12年7月23日 開拓使乙第4号布達[62816] 未確認、北海道には 2区(札幌区・函館区)が誕生して、郡区町村編制法の区(A1)は合計38区になったはずです。
但し、京都府伏見区は明治14年早々に 廃止

1889年施行の市制によって、37区のうち 14区はそれぞれ単独で「市」になりました。、三大都市にあった 21区は特例法により“従来の区”として存続しましたが、市域内に移行したので「A2」として区別しました[74335]。市制の対象外とされた北海道の札幌区・函館区だけが「A1」のまま。
1898年三市特例法廃止により三大都市の区は市制60条により市の中に設置された区になり(B1)、1900年の市制改正を受けて、1908年には「二十万市」である名古屋に4区が設置されました(B2)。[74354]

このように、市制に基づく区の制度は 1889年に一応はできていたものの、実際に発足したのは 1898年でした。
そして、この間に地域を限定して別の種別の区が発足していました。

それは、明治29年(1896)4月1日に施行された勅令第19号 沖縄県区制 です(C1)。
第1条 此の勅令は沖縄県に於て区と為す地に行ふものとす
第96条 此の勅令を施行する場合に於て初めて区と為す地は那覇首里の各区域とす

この区のために 全部で98条という 膨大な条文が作られていますが、その内容を見ると、議決機関(区会)はあるものの、県知事の強い監督下に置かれ、自治機能は弱かったようです。同日施行の勅令14号【261コマ】にあるように、那覇区長は島尻郡長が、首里区長は中頭郡長がそれぞれ兼任しており、本当に郡とは別なの?という感じです。
ここで、郡の名が出てきましたが、島尻・中頭・国頭・宮古・八重山の5郡も、同日施行の勅令第13号【260コマ】によるもので、沖縄県では「区」はもちろん、「郡」も史上初登場でした[64956]

地域限定による新種の区は、北海道にもでき(C2)、上記郡区町村編制法の区(A1)と置き換わることになりました。
明治30年(1897)5月29日公布の 北海道区制(明治30年勅令第158号) がそれです。

この北海道区制も、府県に施行された市制に比べて自治が制限されていたようです。助役は 明治32年改正 で導入されたものの、参事会は設けられず。

施行日は、一旦 拓殖務省令 で同年10月1日と定られたものの延期され、明治32年勅令第378号による助役制導入などの修正を経て、明治32年(1899)10月1日に 施行されることになりました。同年の内務省令第44号

[71731]では“ 議会を備えた自治制度への第一歩ということで準備期間が必要だったのでしょう。”と書きましたが、いろいろと複雑な事情があったものと推測します。ついでに言うと、北海道一級町村制も先の拓殖務省令の明治31年1月1日施行から 2年以上延期されています[63738]

このような波乱はありましたが、明治32年(1899)10月1日に実現した「北海道区制」は、自治体への第一歩でした。
最初の北海道区制施行地は 明治32年内務省令第46号 により、札幌区・函館区・小樽区が指定されました。

この勅令の公布から施行に至る2年間には、北海道特有の制度である (3代目)「支庁」制度 ができ、すぐに(1897/11/5から)施行されています。
支庁制度施行時点の北海道では、郡区町村編制法による札幌区・函館区が存続しており、この2区は郡と同列に支庁の管轄区域に入りました。というか、函館支庁の管轄区域=函館区(A1)でした。

北海道区制で指定された明治32年(1899)10月1日の函館区(C2)は、従来の函館区(A1)に加えて亀田郡亀田村の内がその区域に加わったということだけでなく、区が支庁の管轄区域外になったという違いがあります。

本来のテーマの「区」から離れますが、支庁制度改正勅令 が示すように、管轄区域の消滅により従来の函館支庁はなくなり、亀田支庁は支庁位置を七飯村から管轄区域外の函館区に移し、(新)函館支庁に改称 しました。

地域限定の区は、その後も北海道(C2)では旭川(1914)、室蘭(1918)、釧路(1920)と増殖した後、1922年に6区がすべて市制の市になりました。
沖縄県の区(C1)は 明治41年改正[64956]の前後共に 2区(那覇・首里)のままで、1921年に市制を迎えました。

沖縄県区制・北海道区制関連で、昔の記事を紹介。
市制施行日と市の誕生日は、アーカイブズ第3号 のURLが示すように この落書き帳の古典的な話題です。
グリグリさんの[40621]が決定版になり、その後[43070]で市名誕生日が追加されています。

…ということで今更なのですが調べ直してみたら、落書き帳の草創期に M.K.さんの発言があり、那覇市が 41番目、札幌・函館・小樽3市が 52番目を獲得している 置市時期順 が提示されていました。

[140][154] M.K. さん
全国市長会館が発行する『日本都市年鑑』(中略)では、札幌市や那覇市について、「北海道区制」「沖縄区制」に基づいて区となった日を「置市」の日と扱っていたようですが……
手持ちのデータを若干修正したのですけれど、ついでにそれをウェブページにもしてみました。【URL修正↑】

[159] Issie さん
視点を変えればこういう配列も「あり」だと思いますよ。
それぞれの「市」にとってみれば,こちらの日付の方が重要かもしれませんね。
[75967] 2010年 8月 13日(金)04:01:01【1】YT さん
奄美群島の帰属する旧国は大隅?薩摩?琉球?
ちょっと旧国の話題が出ていたので、ひさびさに便乗します。

大正7年の『日本帝国人口静態統計』や『日本帝国統計年鑑』には「旧国別本籍人口」というのが掲載されています。これによると、「五畿八道」の八番目のメンバーとして北海道が分類されているのですが、「琉球」と「小笠原島」の二つは、ともに西海道・東海道に分類されず、最後に持ってきてます。これらからすると「琉球」と「小笠原島」は共に同等の「旧国相当」とみなしてもいいし、むしろ「琉球国」は「旧国」として扱う法的根拠などはあるのでしょうか?

もっと古い明治8年の『日本地誌提要 』 (pdf)では、目次を見れば判るように、「小笠原島」は「伊豆」の付属物として東海道に組み込まれ、「琉球」は「対馬」の後ろに配置されて「西海道」に分類されています。このことからすると「琉球」は「旧国」として認識されており、「小河原島」は旧国として認められていなかったらしいことは伺えます。ただもっと衝撃なのは、州南諸島、つまり奄美群島が「薩摩」の付属物として扱われていることです。

明治7年調の『日本全国戸籍表』』の人口を良く見ると、本籍人口(薩摩59万、大隅22万)から薩南諸島(約11万人)は大隅ではなく薩摩にカウントされていることがわかります。一方明治13年調の『日本全国民籍戸口表』では、大島郡はすでに大隅国にカウントされています。どうやら明治12年の第二次琉球処分をきっかけに明治12年4月8日[48993]に大島郡が設定され、帰属が大隅になったことが決定したようです。

それでは明治よりも前の江戸時代はどこに帰属していたのでしょうか?
江戸時代、奄美群島の実質的な支配者は薩摩藩でした。幕府に報告した人口調査(武家・又者を原則として除く)を見ると、
西暦薩摩大隅
1804年238,493114,166
1822年250,831107,603
1828年251,649104,218
1834年248,364103,096
1840年239,89197,228
1846年241,79799,212

一方薩摩藩の史料(武家を含む)によりますと、

西暦薩摩大隅日向諸県郡道之島(=奄美群島)本琉球(=沖縄)
1800年(全身分)373,046177,31276,97174,593155,650
1826年(全身分)404,774169,83076,59877,667140,565
1826年(領民人口)253,011108,29039,86776,81375,402
1852年(全身分)393,527157,11174,72785,125132,678
1852年(領民人口)236,71598,92938,59282,78267,805

薩摩藩の藩制史料の人口から、武家と又者、出家、被差別民・出家・流刑人を除いた人口を領民人口としてまとめてみました。すると薩摩・大隅の武家除外人口を比較すると、薩摩藩は江戸幕府の前では奄美群島を日本の領土(大隅または薩摩)として扱わず、あくまで琉球国の領地として扱っていたという、とんでもない事実が浮かび上がります。

なら薩摩侵攻以前は奄美はどういう扱いだったのでしょうか?

『和名類聚抄』では、屋久島は大隅国馭謨郡(謨賢郷、信有郷)、 種子島は熊大隅国毛郡(熊毛郷、幸毛郷、阿枚郷)として扱っているようですが、奄美群島は記載されていません
じゃあ奄美群島が日本の領土に組み込まれたのは、案外新しいのでしょうか?

平安末俊寛が流された鬼界ヶ島は当時薩摩に所属したとされているそうですが、鬼界ヶ島の場所が諸説あり、奄美の喜界島説よりも薩南諸島の硫黄島説の方が有力だそうです。まあいずれにせよ平安時代末期には、多禰国扱いだった種子島・屋久島は大隅扱い、その他の薩南諸島は本来は薩摩扱いという区別があったようです。中央の勢力が弱くなってその辺の区別がうやむやになり、江戸時代以降は薩摩藩では建前上琉球国扱いとなり、明治に入って一時期薩摩扱い、その後大隅扱いという歴史を踏んだと思われます。

さらに奄美が大隅に組み込まれた後も、郡の組み換え等で細かく島が所属旧国毎移動していますが、その辺は落書き帳メンバーの方が詳しいと思いますので割愛します。

【追記】江戸時代以前の琉球国というのは、あくまでも明・清の冊封国としての琉球国であって、旧国ではありません。面白いことに江戸時代の人数帳では、琉球や奄美が集計外とされている一方で、北海道は「蝦夷・松前」という呼称で旧国と並んで集計され、東山道に収録されていることです。さらに幕府は1798年に東蝦夷地を、1807年に西蝦夷地を天領とて松前藩から召し上げており、場所制度を通じてアイヌ人人口を日本人の領民人口としてカウントし始めます。幕府の記録では蝦夷地・松前藩の総人口は1822年に6万1948人ですが、内和人が3万7138人、アイヌ人が2万4810人です。2万4810人のアイヌ人は、松前藩の直轄地である六箇場所に472人、国後などを含む東蝦夷地に1万2119人、西蝦夷地に9648人、北蝦夷地、すなわち樺太に2571人とあり、19世紀初頭の江戸幕府は半分本気で樺太経営を考えていたようです。
[75974] 2010年 8月 13日(金)19:52:32【1】hmt さん
国内地域の「国」 (2)琉球国
[75973]に続いて、明治時代に主として使われた 近代の「国」の由来。

[75967] YT さん が言及された奄美の 大隅国編入 に関し、【追記】で 布告文をリンクしておきます。

明治12年太政官布告第15号
鹿児島県管轄大島喜界島徳ノ島沖永良部島与論島を以て大島郡と為し大隅国へ被属候条此旨布告候事

また、引用された作々 さんの記事[48993] に対する [49001] Issie さん のコメントを 参考までに紹介しておきます。

大隅国に編入されるまでの奄美は(当然,沖縄・宮古・八重山も),「北海道」設置以前の松前地・蝦夷地と同じく“国郡制”の外にあったと考えた方がいいでしょう。そして,国郡制の中の一地方区分である「大隅国」と,本来は“外国”の呼称である「琉球(王)国」(←この呼称,厳密にはかなり微妙な意味の使い分けがあるのだそうです)とは同等のものと捉えるべきではないと思います。

[75973]の冒頭で言及した「国」という言葉の多義性が出てきました。

ここで出てきた「琉球国」について、[75948] 実那川蒼 さん の発言がありました。
廃藩置県が明治4年で、北海道の旧国設置は明治2年だから廃藩置県よりも前です。琉球は廃藩置県と同時に旧国としての琉球国が設置されていますが、これは琉球王国を形式上引き継いだものと考えたほうがよさそうです。

この記事から私が疑問に思ったのは、日本の本土で行われた「廃藩置県」が、当時まだ存在していた「琉球王国」の領域に“旧国としての琉球国を設置”することにつながるのだろうか? ということです。

廃藩置県の詔書350や太政官布告353を収録した明治4年法令全書は既に[75949]でリンクしてありますが、少し後のページまでめくってみても、琉球国を設置の記事はありません。
筋から言えば、国内事項である廃藩置県が、事実上の支配下にあるとはいえ外国である「琉球王国」に影響を及ぼすわけがない。そう言えば、ひょっとして太政官でなく、外務省?と思って法令全書総目を見たら、まだ外務省はありません。

Wikipediaの琉球国 (令制)に、“廃藩置県に伴い琉球王国を鹿児島県へ編入した際に設定された令制国”という説明と、"世界大百科事典(平凡社)の解説による" という脚注がありました。図書館で調べてみたのですが、脚注に該当する解説を見つけることができず、謎のままです。

理論的には、琉球王国を支配していた薩摩藩が 廃藩置県により消滅したのだから、琉球王国は 開放された。
そんなことはないですね。旧・薩摩藩の支配下にあった琉球王国に対して、廃藩置県後の鹿児島県が事実上の支配を継続したことは、十分にあり得ることです。でも、それは事実上の支配であり、(薩摩国・大隅国・日向国と同列の)琉球国を正式に設置するというものではなかったでしょう。

非公式のものならば、琉球国を薩隅日三国と同列に扱った事例は、藩政時代からあります。
鹿児島県立図書館 史料集第24集
本書は,「薩摩国・大隅国・日向国・琉球国郷村高帳五冊」「薩隅日惣高並郡郷村調」…を収載したものである。

[4027] てへへ さん には、次のように記されています。
・1871(明治4)年 7月14日 廃藩置県。奄美群島、琉球ともに鹿児島県管轄となる。
“鹿児島県管轄”と書いてありますが、これも正式の国内管轄ではなく、“事実上の鹿児島支配継続”を意味するものと理解します。

[59112] hmtでは、琉球国について 次のように記しています。
北海道と同様の国名郡名を定めた布告は見当たりませんが、“明治15年…沖縄県下琉球国首里城ヲ陸軍省ニ受領ス”という用例から見ると、地理的名称の「琉球国」も、「石狩国」などと同列であったと思われます。

明治15年には、もちろん日本国内の「琉球国」で問題ないのですが、沿革からいうと、「石狩国」などと完全に同列ではないようです。
つまり、律令時代の国名を引き継いだ山城国・大和国…、明治の布告で新規に命名した渡島国・石狩国…という2グループのいずれにも属さない、かつては名目的には外国であった「琉球王国」に由来する琉球国ということになります。
[76021] 2010年 8月 15日(日)20:08:26Issie さん
琉球国
[75974] hmt さん
この記事から私が疑問に思ったのは、日本の本土で行われた「廃藩置県」が、当時まだ存在していた「琉球王国」の領域に“旧国としての琉球国を設置”することにつながるのだろうか? ということです。

[75957] で私が 沖縄 について

国設置郡設置市町村設置備考
沖縄1871年?1896年1908年島嶼町村制

と書いて,1871年に疑問符をつけたのは,全く同じ疑問を感じたからです。
何より「廃藩置県」というタイミングがいかにも変。「廃藩置県」とは文字通り「藩」と「県」に関する改革ですが,この当時の「府藩県」は国・郡とは全く別の理屈で編成された区画であって,「藩ヲ廃シテ県ヲ置」いても「国」や「郡」に関する改革ではないはずだからです。「府県」という区画と「国郡」という区画がリンクするのはこの年の10~11月に実施された府県統合からです。
で,もしかしたらこのとこを言っているのでは? と思い当たるのが,これ。

-------------------------------------------------------------------------------------
十一月十四日 (布告)
今般西海道従来ノ諸県ヲ廃シ左ノ県々被置候事
 但廃県従前管轄ノ地所当未年ヨリ物成郷村等新置ノ県々ヘ可引渡事

(中略)

鹿児島県
 大隅国
  熊毛郡 駆謨郡
 薩摩国一円
  外琉球国

(以下略)

明治4年11月14日 (太陽暦:1871年12月25日)
「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第595
-------------------------------------------------------------------------------------

手前味噌ですが 自分のページ からコピーしました。

ここにある「外琉球国」というのが,それでしょうかね。
でも,これは「廃藩置県」ではありません。「廃藩置県後の整理」ではありますが。そこまで拡大解釈して「廃藩置県で琉球国を設置」と考えますか?
けれども「外(ほか)」という書き方は,これがたとえば「薩摩国」と同列と捉えることはできないように思います。“半外国”の「琉球(王)国」がこれまで「鹿児島藩」(通称:薩摩藩)の“付庸国”とされてきたものを,そのまま(国郡単位の)「新・鹿児島県」に引き継いだ,と読むべきものではないかと考えます。
日本が正式に琉球を“自国の一部”と対外的(特に対・中国)に表明したのは1872(明治5)年の「琉球藩」の設置ですね。中国(清朝)の皇帝から「琉球国王」に封ぜられるのではなく,日本の天皇が「琉球藩王」に任命する。でも,ここで設置されたのは「藩」であって,「国」ではありません。これを「琉球国設置」と読めるだろうか。
[75967] で YT さんが紹介されている『日本地誌提要 』。目次での扱いはご紹介の通りなのですが,p.8 には

-------------------------------------------------------------------------------------
凡(およ)ソ五畿、七道、七十三国、二京、三府、六鎮、六十県。皇居ヲ東京ニ定メ、開拓使ヲ置テ、北海道十一国ヲ経理シ、琉球ヲ封ジテ藩属王国トス。
--------------------------------------------------------------------------------------

とあります(句読点は現代表記,漢字は常用漢字体,合略仮名は個別の仮名に改めました)。
そのあとに続く「建置」の節に列挙された国名によれば,“73国”とは 畿内(5)・東海道(15)・東山道(13)・北陸道(7)・山陰道(8)・山陽道(8)・南海道(6)・西海道(9)・二島(壱岐・対馬:2) と,ここまでの合計です。さらに「琉球壱国」と「北海道拾壱国」を加えて全部で“85国”としています。
ここでは「琉球国」を他の「国」と同列に扱っているようですが,説明文によれば,そのようになったのは「琉球藩王」が封ぜられた1872(明治5)年と捉えるべきでしょう。「廃藩置県」ではなく「第1次琉球処分」です。

そこに今さら「令制国」という呼称を持ってくるのもどうだか。「律令」(“現行法”として生きてきたのは「養老律令」(757年施行)ですね)が“正式な文書”で廃止されていないことは確かとしても,すでに「王政復古」「政体書」を経て律令とは全く違う根拠の上に明治政府の支配体制が構築されつつあることは明らかです。今さら「律令が根拠」などとは言えないでしょう。“適切な呼称”が見当たらないために,とりあえず何らかの呼び方をしなければならないのも,もっともなのですけどね。
 
ついでに上の「新・鹿児島県」設置の布達,「大島郡」もありません。

[75967] YT さん
どうやら明治12年の第二次琉球処分をきっかけに明治12年4月8日[48993]に大島郡が設定され、帰属が大隅になったことが決定したようです。

州南諸島、つまり奄美群島が「薩摩」の付属物として扱われていることです。

…からですね(話の都合上,順番を逆にして引用します)。
では,「大島」が属しているのは「薩摩国」? それとも「琉球国」?
[76048] 2010年 8月 17日(火)19:19:10hmt さん
国内地域の「国」 (3)琉球「国王」が 琉球「藩王」になった 明治5年
[75974] hmt
「廃藩置県」が…“旧国としての琉球国を設置”につながるのだろうか?
廃藩置県…を収録した明治4年法令全書、少し後のページまでめくってみても、琉球国を設置の記事はありません。
理論的には、琉球王国を支配していた薩摩藩が 廃藩置県により消滅したのだから、琉球王国は 開放された。
そんなことはないですね。…琉球王国に対して、…鹿児島県が事実上の支配を継続したことは、十分にあり得ることです。

[76021] Issie さん
私が 沖縄 について…1871年【の琉球国設置】に疑問符をつけたのは,全く同じ疑問を感じたからです。
で,もしかしたらこのとこを言っているのでは? と思い当たるのが,…明治4年太政官布告 第595
ここにある「外琉球国」というのが,それでしょうかね。でも,これは「廃藩置県」ではありません。

廃藩置県から4ヶ月も(!)経過してから、「琉球国を鹿児島県の管轄下にする」旨の 太政官布告 が出されているのですね。
「薩摩国一円」の次の行に、一字下げて「外琉球国」と記された書式は、大隅国の内訳として記された2郡(種子島・屋久島【注】)と同じですが、「外(ほか)」という字で、薩摩国の内訳でなく、別の属国(付庸国)であることを示しているようです。

【注】馭謨(ゴム)郡とは 珍しい地名 ですね。和名抄に〈五牟〉の訓があり、古代地名で語頭が濁音である唯一の例だそうです 出典 。Issie さんの頁の駆謨郡は誤記。

琉球国が薩摩国や大隅国と同列の「国」ならば、「薩摩国一円」と並列に「琉球国一円」と記せばよいわけです。
わざわざ一字下げた「外琉球国」という記載により、琉球国は 依然として北海道を含む 国内84国 とは異なる存在であることが示されています。
つまり、廃藩置県によって、国内 85番目の「国」として 琉球国 が設置された事実はなかったことがわかります。

明治4年11月14日に鹿児島県管轄になった「琉球国」は、尚氏を国王とする琉球王国に他なりません。

版籍奉還の明治2年に、内地事情の調査と自発的な版籍奉還とが国益になることを進言した人物(津波古改正)が琉球に居たようですが、腐儒の気狂として斥けられました。
当事者たる琉球の王府は、明治4年7月の廃藩置県で鹿児島藩から(理論的には)開放された(かもしれない)ことを知らず、また 11月の第一次府県統合布告により、(新)鹿児島県の管轄下になったことが明文で規定されたことも知らずに 過ごしていたと思われます。

翌明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明したのが、琉球処分に至る公式手続の最初でしょう。ここで 琉球の置かれた状況 を確認させたつもりでしたが、現実には 琉球側は 政権交代の意味を 十分には認識しなかった と思われます。

この後、日本政府内では 琉球処分方針についての議論が行なわれました。大蔵省(井上馨)の完全併合案や、清国との衝突を恐れる左院(立法府)の現状維持案もあったが、結局は 外務省の漸進案 が採用され、琉球に居た伊地知を通じて、琉球王府に対して、新政府への使節派遣を 求めました(6月24日)。

伊江王子朝直を正使とする一行は、明治5年9月14日に参朝して上表文を奉呈。これを嘉納した明治天皇から賜った 詔勅 には、「琉球藩王と為し華族に列す」という文字がありました。

これは日本側からの一方的な通告であり、琉球にとっては突然のこと。
国王尚泰は、「薩摩の附庸」であった地位から、「琉球藩王」として「藩屏」つまり直轄の地位になった。
従来から将軍の代替わりの時に江戸に赴いてきた慶賀使節のつもりで上京したのに、少し様子が違う。
でも、元々「ノーと言える琉球」ではないし、格が上がったと受け止めて、単純に喜んだのかもしれません。

この時の琉球使節は、慶長15年(1610)年に薩摩に割譲した道之島五島(奄美)の返還と減税とを求めたようです。
減税はある程度実現。奄美の代り(?)に小笠原下賜の話も出たが、これは多事政局に流され、うやむやになったとか。
[76049] 2010年 8月 17日(火)19:22:03hmt さん
国内地域の「国」 (4)「琉球国」は地理的呼称として 85番目の「国」になる
[75973][75974][76048]の続き
こんな具合にして、琉球「国王」尚泰を 琉球「藩王」に任命した結果、日本側の見方では、外国としての「琉球国」はなくなります。
でも、清国その他諸外国との関係に決着を付けて、名実共に琉球を国内化するのはまだ先のことであり、行政的には「琉球藩」になった地域について、地理的呼称としての「琉球国」が使われ続けます。

このように、日本国内 85番目の「国」である「琉球国」に変化していったのは、明治5年琉球藩設置以降ではないでしょうか。

[76021] Issie さんの発言も、同じ趣旨であると理解します。
ここでは「琉球国」を他の「国」と同列に扱っているようですが,説明文によれば,そのようになったのは「琉球藩王」が封ぜられた1872(明治5)年と捉えるべきでしょう。「廃藩置県」ではなく「第1次琉球処分」です。

[75967] YT さん からは、次の問いかけがありました。
「琉球国」は「旧国」として扱う法的根拠などはあるのでしょうか?

確かに奥羽・北海道については太政官布告があるし、「国界変更」に関する明治時代の法律もあります。
しかし、武蔵国と下総国の境界が東に移った「法的根拠」となるとはっきりしません。律令制が実効を失ってから後、地理的呼称として習慣的に使われてきた「国」に、「法的根拠」を求めることはないと思います。
琉球国も、明治5年以降 習慣的に使われてきた「国」である という程度の理解でよいのではないでしょうか。

琉球に関連して、奄美の属する「国」のこと。
[48992] 白桃 さん
奄美諸島が薩摩でも大隅でもないのなら、「奄美」という国を勝手に作って…。
[48993] 作々 さん
明治12年4月7日までは琉球国、8日からは大隅国になったということでしょうか。
[75967] YT さん
平安時代末期には、【種子島・屋久島以外の】薩南諸島は本来は薩摩扱いという区別があったようです。(中略)江戸時代以降は薩摩藩では建前上琉球国扱いとなり、明治に入って一時期薩摩扱い、その後大隅扱いという歴史を踏んだと思われます。

このように、いろいろな議論があるのですが、私としては、「明治12年4月8日より前は無所属」でよいと思います。
[49001] Issie さん
大隅国に編入されるまでの奄美は(中略)“国郡制”の外にあったと考えた方がいいでしょう。


武蔵国と下総国との境界が隅田川から江戸川へと移ったように、全く同じ「領域」のままではないが、律令時代からの「国名」を引き継いでいる 66ヶ国。対馬・壱岐の2島を加え、奥羽2国が7ヶ国に再編成されたので 73ヶ国。明治2年の北海道 11ヶ国[59112]を加えて 84ヶ国。

これに、かつての外国(薩摩の附庸国)を国内化したという特別な経歴を持つ「琉球国」が加わり、日本国内地域呼称としての「国」は 85ヶ国になりました。

元々は行政組織の名前であった「都道府県」が、広域地域呼称としても既に定着している現在、「国」の存在意義は明治時代に比べて薄れていますが、種々の場面で生き続けています。
[76118] 2010年 8月 29日(日)23:10:15【2】Issie さん
小説・琉球処分
本当は別の本を探すつもりで講談社文庫の棚を見ていたら,たまたま新刊本で表題の本が目に留まったので買って読みました。

 大城立裕 『小説 琉球処分』

講談社文庫としては新刊なのですが,もともとは1959~60年に「琉球新報」に連載された古い作品なのですね。まだ米軍統治下にあった時代の。で,1968年に講談社で単行本化される際に末尾を書き足したとのこと。それがこの時期に文庫化されたというのも,だいぶ意味深なものであるようです。文庫本解説を 佐藤優 さんが書いていることも含めて。

お話は,廃藩置県後の明治5(1872)年5月,「鹿児島県」から派遣された役人が首里近郊の村を視察しているところから始まります。

[76048] hmt さん
翌明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明した

この 伊地知 がこのお話の最初の登場人物の1人です。そして,

伊江王子朝直を正使とする一行は、明治5年9月14日に参朝して上表文を奉呈。これを嘉納した明治天皇から賜った 詔勅 には、「琉球藩王と為し華族に列す」という文字がありました。

ここから,琉球王府の王族・士族たちと日本政府から派遣されてくる役人(伊地知貞馨→松田道之→鍋島直彬)との“堂々巡り”(いくら繰り返しても前に進まない)の攻防の果てに1879(明治12)年の(第2次)琉球処分に至る過程が描かれています。あとがきによれば,新聞連載当時は首里城明け渡し前夜までで連載打ち切りとなり,単行本化の際に前藩王・尚泰が東京に向かうまでの(またも繰り返される全く同じ構図の)攻防から日清戦争直前までの部分が書き足されているとのこと。

当事者たる琉球の王府は、明治4年7月の廃藩置県で鹿児島藩から(理論的には)開放された(かもしれない)ことを知らず、また 11月の第一次府県統合布告により、(新)鹿児島県の管轄下になったことが明文で規定されたことも知らずに 過ごしていたと思われます。

全くこうした状態から,

国王尚泰は、「薩摩の附庸」であった地位から、「琉球藩王」として「藩屏」つまり直轄の地位になった。
従来から将軍の代替わりの時に江戸に赴いてきた慶賀使節のつもりで上京したのに、少し様子が違う。
でも、元々「ノーと言える琉球」ではないし、格が上がったと受け止めて、単純に喜んだのかもしれません。

「格が上がった」というよりも「薩摩の重し」が取れたと思って,やはり単純に喜んでいたものが,だんだん様子が違うことに気がついて戸惑いを深め,日本政府からつきつけられる要求に何も決められずに最後は警察力を伴った松田「琉球処分官」に押し切られる琉球藩高官の姿は,読んでいて実にじれったく思いました。
最初に紹介したとおり,この作品の作者は沖縄の人であり,最初に発表されたのは米軍統治下の沖縄の新聞でした。沖縄の人の側から見た琉球処分と言えるかもしれません。恐らくは,松田道之が帰任後にこの間の公文書等をまとめた「琉球処分」に多くをよっているのでしょうが。
沖縄県にようやく町村制が施行されるのが1908(明治41)年。ここまで引っ張ることに立ち至った背景がわかる気がします。

ところで,

[76048] hmt さん
結局は 外務省の漸進案 が採用され、琉球に居た伊地知を通じて、琉球王府に対して、新政府への使節派遣を 求めました(6月24日)。

とあります。このお話の中で日本側の在現地機関は 鹿児島県(旧鹿児島藩)在番奉行所 → 外務省琉球出張所 → 内務省琉球出張所 → 沖縄仮県庁 と名前を変えてゆきます。1872年に使節派遣を求める達し文を発したのは 鹿児島県参事 の大山綱良,東京で使節の応対をしたのは 外務卿 の副島種臣,そして藩王冊封後の「琉球藩」を当初管轄したのは「外務省」だったのですね。
1872年段階では「内務省」はまだありませんでした。地方行政を含めた民政一般は 大蔵省 の管轄で大蔵卿は大久保利通。ただし,大久保たちは岩倉使節団の一員として外遊中だったので,留守政府で実際に大蔵省を切り盛りしていたのは大蔵大輔の井上馨だったと思われます。この政府が1871年11月の(第1次)府県統合を進めたのですね(作業が10月末に始まってますから,路線自体は大久保大蔵卿が敷いたのかもしれませんが)。
外務省管轄だから「外国」だとは単純には言えませんが,大蔵省管轄の大隅(または鹿児島県)以北と違う扱いであったことは確かでしょう。ちなみに,北海道および(当時は日本領で“も”あった)樺太を管轄する「開拓使」は他の“省”と同格という位置づけでした。
副島外務卿と交渉をして琉球藩の「国体」についてそれなりの“言質”を得て喜んでいた琉球側は,「明治6年の政変」で副島が失脚(辞職)したことで最初の不安を抱きます。そして,大久保が内務省を創設すると琉球藩も外務省から移管されて,以後,大久保内務卿と最後には「処分官」となる松田が一方の主役となることになります。最後にコマを進めたのは大久保暗殺後に内務卿となった伊藤博文でした。

もう1つところで,このお話に登場する琉球側の人物のほとんどは,「王子」「按司」「親方(うぇーかた)」「親雲上(ぺーちん)」,「里之子(さとぬし)」,「筑登之(ちくどん)」という“位階”を持っています。極めて困窮して行商人や薩摩系寄留商人の雇用人となっている若者も含めてほとんど全員。つまり,農民などの庶民はほぼ全く登場しない。要するに,一連の過程で日本政府の方針に強く抵抗したのは,琉球人口のうちのごく一部である士族階級の者(さむれー)だけだった,という描き方をしているのですね。実際,そうだったのかもしれません。
このあたり,士族階級をどのように評価するかというのも結構重要な問題かもしれません。

琉球(沖縄)の日本への「併合」の歩みについて,これもたまたまか,意識してか,NHK教育テレビの「歴史は眠らない」シリーズ(火曜夜10:25~10:50)が7月のテーマとして取り上げていました(小森陽一「沖縄・日本400年」)。放送はもう終わってしまいましたが,テキストは今でも本屋さんで売っています。ざっと通し読みするのにちょうど良い本だと思います。
(6月のテーマ:ひろさちや「智慧の結晶 お経巡礼」と一緒の冊子。こちらも面白い。)
[80851] 2012年 5月 15日(火)20:29:29hmt さん
沖縄が日本に戻って 40周年
1972年5月15日、沖縄は 日本に復帰しました。
日米間の外交用語としては「沖縄返還」という言葉が使われていましたが(沖縄返還協定)、国内法では「沖縄復帰」(沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律)と呼んでいます。

日本に復帰したことは確かですが、本当に沖縄の人の手に戻ったのか?
今日の天声人語には、米軍普天間飛行場の県内移設に反対する集会で歌われていた言葉が紹介されていました。
沖縄を返せ 沖縄に返せ

40年以上前の祖国復帰運動の際には、“沖縄を返せ 沖縄を(日本に)返せ”と繰り返されていたこの歌。
復帰後も市街地に隣接して残った 普天間基地反対集会では、“沖縄を 沖縄に 返せ”に変っており、本土との連帯感は失わたことを感じたとのこと。13年前の取材経験。

沖縄県の記念日としては、6月23日の「慰霊の日」[79651]の方が重視されていると思われますが、5月15日の「本土復帰記念日」[79643]もあり、復帰 40周年記念事業も実施されているようです。

前置きはこのくらいにして、都道府県市区町村における「沖縄」。
先ずは 市区町村変遷情報 沖縄県 を確認しましたが、1972 (S47).5.15には何も記録されていません。

沖縄復帰特別措置法には、次のように規定されていました。
第三条  従前の沖縄県は、当然に地方自治法に定める県として存続するものとする。
第七条  沖縄の市町村は、地方自治法 の規定による市町村となるものとする。

明治32年法律第64号「府県制」で定められた「従前の沖縄県」は、昭和20年6月の沖縄戦以来機能を失っていたが 【潜在的には存在していたと考えることができ】、日本復帰後は、地方自治法に定める「沖縄県」として「当然に」存続する。
本土の道府県が、昭和22年5月3日から「当然に」地方自治法に定める道府県として存続しているのと同じこと。

市町村の方は、昭和20年6月の機能喪失から日本復帰までの間にも「変遷」があるので、沖縄県と違って、この期間を「カラ期間」にするわけにはゆきません。
第七条では、【第二条で定義された地域である】沖縄の【米軍統治下での変遷を経た】市町村は、地方自治法 の規定による市町村と 「なるものとする」 としています。

このようにして、嘉手納基地近くに成立していた コザ市 は、日本復帰により地方自治法 の規定による市になりました。現在沖縄市を名乗るこの市は、カタカナ市名でも落書き帳の話題になりました。
コザ市という名の由来については、越來村(ごえくそん)の胡屋(ごや)の誤読ではないかなどと言われているようですが、コザ村からの市制自体は既に琉球政府時代になっている 1956年であり、手続的には問題ないと思われます。

市になった手続自体がもっと怪しいのは、石川市 でした。石川県と無関係の沖縄に「石川市」はさておき、「市」になった拠り所は、戦争終結から間もない 1945年9月に米軍から出された「地方行政緊急措置要綱」とされています[4680]。出典[4985]
この時に各地の収容所にできた「市」は、沖縄本島12市と粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市であると伝えられます。
これは「市町村」制度の中における「市」ではなく、「市区班」という機構の中での「市」であり、明らかに普通の意味での「市制」ではありません[56322]

1945年中には収容所から各居住地区への移動が始まり、新たに公布された「沖縄行政機構改革要綱」により、順次 戦前の市制・町村制が復活しました。これによって石川市と同じ頃生まれたその他の15の「市」は、すべて1946年までには消滅していますが[1260]、首都?【沖縄諮詢会所在地】の「石川市」だけが最後まで残りました。
石川収容所解散、沖縄民政府の移転により、人口は激減したのに 強引に居残った石川市[1272]は、日本復帰で「地方自治法の規定による市」の地位を獲得。2005年の合併による うるま市誕生まで存続。

石川市はおそらく例外的な事例で、一般的には次の程度のことが言えるのではないでしょうか。[1260][56322]参照
戦争で徹底的に破壊された沖縄の地方行政制度は、米軍統治下で徐々に整備が進められ、1948年には米軍政府指令第26号「市町村制」で、自治体が復活した。
更に1953年には琉球政府の「町村制」実施で、更に日本の制度に近いものになったと思われます。
そして、1972年の日本復帰で地方自治法体制に。
[80962] 2012年 6月 15日(金)17:25:41【2】hmt さん
沖縄・琉球・南西諸島
沖縄の日本復帰 40周年に上梓した hmtマガジン「米国統治下の沖縄」に続いて、薩摩の侵攻や琉球処分を含む琉球の歴史に関する記事をまとめたいと考え、準備中です。

特集のタイトルですが、「沖縄の歴史」では、どうもピッタリ来ません。
「琉球処分」という言葉もあるし、やはり「琉球の歴史」の方がよいようです。
そこで、琉球とは何処なのだろうか? ということになります。

沖縄とは どう違うのか?
沖縄県の大東諸島は琉球か? 先島群島・尖閣諸島は?
鹿児島県の奄美群島は入るのか?
種子島・屋久島を含まないのは確かだろうが、平和条約発効による日本独立(1952/4/28)の少し前まで米国の統治下にあった吐喝喇群島(下七島) = 鹿児島県大島郡【当時】十島村[65138] は琉球の一部だったのか?

沖縄にしても琉球にしても、沖縄県や琉球国・琉球政府のような統治機構のからんだ「行政地名」ですが、自然地名としては、「南西諸島」というのもあります。これは、種子島北端から鹿児島県三島村(上三島)を経て草垣群島に至る 北緯30度50分付近よりも南に位置する島々の総称で、海洋情報部技報2009 の 7/9コマに 第11図として示されています。

互いに オーバーラップした範囲を持つこれらの地名 沖縄・琉球・南西諸島 について、考察します

最も広く使われている「沖縄」は、「沖縄県」という地方自治体の行政範囲として明確な区画を持っており、最も使いやすい言葉かもしれません。しかし、[22448] くは さん が指摘しているように
そもそも先島では「沖縄」といったら本島のことです
から、「長野(市)」と区別できる「信州」を好んで使った知事のように、「沖縄(本島)」と「沖縄県」とは区別して使うのが本筋かもしれません。

では、琉球は? 15~19世紀に存在した「琉球王国」や、20世紀米国統治下の「琉球政府」が、それぞれの時代に持っていた区画は変動しており、一義的に決まらないことは「沖縄」の場合以上でしょう。

奄美群島について言うと、ここは 15世紀に沖縄を統一した琉球王国の領土になったものの、1609年の薩摩軍侵攻により 琉球から島津家に割譲されたので、琉球支配時代は 160年余で終りました。

そして1945年からの米国支配時代には、奄美群島民政府(1950)を経て 琉球政府が行政を担当する形になり、1953年のクリスマスプレゼントで奄美は日本に復帰しました。これにより奄美出身だった 当時の琉球銀行総裁は、琉球からすれば「外国人」になってしまい、総裁職から追放されるというハプニングがありました。「琉球の範囲」が変化した実例です。

先島群島では、15世紀に八重山統一の動きがあり、石垣島の オヤケアカハチ が西表島を支配する宮古島の豪族と争っていました。そこに介入したのが 沖縄勢力で、独立派の反乱(1500)が不成功に終った結果、先島群島は 琉球王国に併合されました。

それ以後の先島群島は 琉球の一部でしたが、明治になって 琉球処分をめぐり、清国との領有権問題が起きました。
その交渉で、日本側が先島群島の割譲案を出したことがあります。この妥協案に 清国は一旦は同意したものの、調印をためらって棚上げにされました(1881)。宮古・八重山分島問題
結局は日清戦争で事実上の決着がつき、日本の領有が確定しました(1895)。

東京都による尖閣購入が話題になっていますが、それどころではなく、八重山・宮古が中国領土になる可能性もあったのでした。
[26610]を書いた時には知らなかったので、全く言及していません。
【追記】
先島群島では、1937年まで西部標準時が使われていました。

いろいろと脱線しながら書きましたが、要するに、「琉球」という地名の表す範囲は、一義的に決まるものではなく、それを使う人、分野、時代背景などを考慮して適宜判断されるという、当然の結論になりました。
あまり気にせずに、hmtマガジンの「特集:琉球の歴史」の準備を進めることにしましょう。
[80990] 2012年 6月 23日(土)17:56:27【1】hmt さん
(沖縄県)慰霊の日
沖縄県公文書館の 慰霊の日 というページは 4年前のものですが、今日 6月23日は 沖縄県の「慰霊の日」で、糸満市摩文仁での「沖縄全戦没者追悼式」の他、県内各地で慰霊祭が行われました。

「大東亜戦争」と呼んでいた大戦の末期、日本各地は 米国を主とする連合国軍による 激しい攻撃を受けました。
戦前からの日本領土・マリアナ群島【[35703]の53】は 1944年に攻撃を受け、7月にサイパン島、8月にテニアン島と 相次いで陥落。
これが「日本領土内」で 行なわれた、「一般住民を巻き込んだ地上戦」の 初期の事例であると思います。
サイパンでは バンザイクリフ の話で伝えらるように 民間人の犠牲者も多数出ました。

マリアナ諸島は、その後 日本本土を空爆する基地として使われ、東京など多くの都市[74935] は大被害を受け、広島と長崎とには 原子爆弾を投下されるに至りました。
室蘭・日立など艦砲射撃による攻撃を受けた都市もあります。飛行機と違い飛び去らない軍艦は、一段と怖い存在だったとか。

マリアナの次に狙われた離島は 小笠原諸島です。ここに居た一般住民は強制的に本土に引揚[56162]
飛行場のあった硫黄島[79266] では、日本の守備隊と攻撃軍との間で激しい地上戦がありましたが、住民巻き込みは回避されました。

このような経過の後で、連合国軍が上陸したのが、桁違いに多くの住民がいた沖縄本島です。
一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦により、日本側だけで推定約 19万人の生命が失われたと伝えられています。
沖縄県外出身の戦死者 7万人弱を差し引くと、沖縄県民の死者は 推定 12万人余となります。
これは 沖縄県(先島諸島以外の2市3郡)の人口の 1/4 にも相当します。
もちろん、人命だけでなく、住民の財産と文化遺産も失われました。

「6月23日」は、糸満の摩文仁にあった日本軍の司令部が壊滅し、組織的戦闘の終結した 1945(昭和20)年の日付です。
しかし、1961年7月24日に制定された 住民の祝祭日に関する立法 においては、「6月22日」と定められていました。
そして、1965年の改正 により「6月23日」に変更。

要するに、正確な日付を確定することが困難なくらいの状況にあったわけです。
そのくらいだから、司令部の壊滅を知らない兵士による 散発的な戦闘は続きました。
避難していた住民が米軍に投降したのも、もっと遅れたことでしょう。

本土における「終戦の日」は、国民への情報伝達が、「玉音放送」により一斉に行なわれた 「8月15日」です。
# 正式の戦争終結日は、1945年9月2日です[80411]
沖縄における「終戦の日」は、本土とは 訳が違っていたのでした。
[85717] 2014年 6月 14日(土)09:38:45【2】hmt さん
沖縄県島尻郡北大東村字ラサ
[85715] グリグリさん
それよりも沖大東島は南大東村ではないのはどういう経緯なんでしょうね。ラサ工業の支配関係でしょうか。

公式には沖大東島ですが、この記事では親しみを込めて「ラサ島」の通称を多用します。
僅か 1.15km2のラサ島は、夜鳴き寿司屋 さん による最初の記事 [21501]が伝えるように、一時は2000人が生活する島でした。
それだけの人口を支えた産業は リン鉱石採掘事業でした。
軍艦島[24547]には及びませんが、同じ会社の人々が密集した鉱山町ならではの特殊な世界でした。
事業の端緒は、明治40年(1907)農商務省肥料砿物調査所長 恒藤規隆による発見 でした。
ラサ工業 会社沿革に見るように、1911年会社設立。1937年に島の払下げを受け、現在も島全体が会社の私有地です。

南大東島30.57km2と北大東島11.94km2とは ずっと大きな島で、ラサ島の北方約 150~160kmに位置します。
琉球の人々は ウファガリ(大東)島の存在は知っていたものの、島の険しい断崖は 琉球文化圏の進入を拒んでいました。
明治33年(1900)の開拓開始は、玉置半右衛門が企画した八丈島移民による 南大東島のサトウキビ栽培でした。
この2島の経営は、玉置商会→東洋製糖→大日本製糖と移り、移民出身地も琉球人が多数になり、身分差紛争も解決へ。
しかし、この2島も 島全体が会社の私有地で、戦後になるまで 地方自治とは無縁の存在でした[56334]

戦前の南北2つの大東島とラサ島。経営する会社は別ですが、どこの市町村にも含まれない面積[74280]でした。
国勢調査人口には 大正9年の島尻郡「大東島」7393人から始まるデータがありますが、昭和10年、15年と人口減が続き、5844人になっていました。
1500人もの減少は、昭和初年の世界恐慌で ラサ島での事業が中断した影響と考えると勘定が合いそうです。
ラサ島での採掘は昭和16年に復活。ここで初めて家族連れの移民が許されましたが、戦争の激化と資源枯渇で撤退。

沖縄での地上戦が直接この地に及ぶことはありませんでしたが、爆撃を受けて製糖工場や測候所が破壊されました。
戦後は米軍の支配下になり、沖縄民政府告示第4号の1で 南大東村と北大東村とが誕生しました(1946年6月12日)。
しかし、撤退した日本の会社は土地の所有権を主張して争い、すぐには自作農による「普通の農村」に生まれ変われませんでした。

1964年になり、島を訪れた Caraway高等弁務官の決定により、大東諸島の農民は 念願の「自分の土地」獲得への道を開かれました[56334]
沖縄返還に反対する主張を掲げ、ライシャワー大使とも反目したこの人物。日本や琉球政府の評判は悪かったのですが、この大東島問題に関しては、人々に歓迎される結果をもたらしました。

南大東島を支えた産業が サトウキビ栽培などの農業であったのに対して、戦前の北大東島では リン鉱山が主力でした。
北大東島では鉱山の閉山後に離島者が多数出て、これが戦後2村の人口格差に反映していると思われます。
ラサ島のリン鉱も 戦時中までで掘り尽くされ、無人になった島は米海軍が訓練する射爆撃場になりした。
なんとなく、N の悲劇?[40421]を思い出させる末路です。

そして、1972年の沖縄復帰によってラサ島も日本に戻りました。
その際に、地理的には やや近い南大東島を飛び越して、北大東村所属になったのですね。
その経緯が わからぬまま、[56334]では次のように記しましたが、これだけでは説得力がないので、少し補足。
リン鉱石の島ということで共通する北大東村の飛び地になっているのでしょう。

ラサ工業自身も既にラサ島での仕事をやめており、どこの所属になってもよい立場です。
でも、どうせ納める固定資産税ならば、同じ仕事でご縁のあった 北大東島に恩返しをしたい。
その程度の経緯ではないかと推察します。

おまけ
海保11管内在日米軍海上訓練区域 には沖縄に米軍の射爆撃場がいくつも紹介されていました。
ラサ島の 沖大東島射爆撃場 は最大の射爆撃場のようです。
尖閣諸島にも、赤尾嶼(大正島)、黄尾嶼(久場島)と2つの射爆撃場があるが、こちらは沖縄復帰以後使われていない様子です。
[85727] 2014年 6月 15日(日)12:18:03むっくん さん
沖大東島
[85717] hmt さん
沖大東島の所属について、以前[69564] 拙稿にて法的根拠について記載していますので再度紹介します。
-------------
沖縄民政府告示第4号の1
琉球列島米国軍政府の命に依り大東島を沖縄民政府行政区域に編入し左村を設置す
1946年6月12日 沖縄知事 志喜屋孝信
南大東村
北大東村(沖大東島を含む)
-------------
これによりますと、北大東村の発足時より、沖大東島も北大東村の一部であったことがわかります。
[85729] 2014年 6月 15日(日)23:57:47hmt さん
Re:沖大東島
[85727] むっくん さん
5年前の記事で紹介していただいた 1946年の沖縄民政府告示を再録していただき有難うございます。
記事検索すれば すぐに出るようになっていたのに、検索を怠っていた手抜きのために お手数をかけました。

これにより、戦後1946年の北大東村設置と同時に沖大東島もその区域に編入されたことが明らかになりましたが、変遷情報には どのように記すべきなのでしょうか? >以下、グリグリさん 宛です。

大東諸島は別として、沖縄県の大部分には明治41年(1908年) 4月1日に 沖縄県及島嶼町村制が施行され、これは変遷情報にも記されています。
大正9年勅令第45号 により、沖縄県には実質的に町村制に近い「隠岐方式」[84196]が適用されました(1920/4/1施行)。
その後の改正により、沖縄県に正式に町村制が施行されたのは 大正10年(1921)5月20日でした。
この2段階の制度改正を含む市町村の法的根拠の記載が必要なことは、既に むっくん さん により指摘されていますが(例えば[83646])、現在まで変遷情報に記載されていません。

それはさておき、
大東諸島については、市町村制度の枠外であった地域に【日本の法律に基づいたものではないが】1946年に新設された村です。
従って、1947年の地方自治法施行に際して 東京都八丈小島に新設された2村 と同様の扱いになるのではないでしょうか。

そして村が新設された「北大東村」の変更対象/変更内容欄を「北大東島、沖大東島」とすれば、この時点で2島が南大東島と別の村としてグループ分けされた(戦前の会社支配時代の枠組みを変更)事実も明示されると思います。
[97663] 2019年 4月 28日(日)13:46:46【2】hmt さん
沖縄「屈辱の日」を知ってますか?
3年前の4月28日の琉球新報の記事です。
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。
敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙された。
過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。

自民党圧勝により、現在に続く自公政権・安倍晋三内閣が成立した 2012年末の総選挙
その翌年の2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。

hmtマガジンでは、琉球の歴史に この記事を追加し、米国統治下の沖縄では、1950年国勢調査人口表へのリンクを修正します。

【追記】
「沖縄の歴史」のサイトマップ
先史時代から現代に至る 広範囲な事項が含まれ、琉球の過去を知る 有用な参考資料 と思われます。
宮古・八重山分島問題[80962]の出典から探っているうちに、このサイトマップに及びました。
[99340] 2020年 4月 5日(日)17:18:38【1】hmt さん
琉球処分
昨日4月4日は 1879年に 沖縄県が設置された日 でした。明治12年太政官布告第14号
ローカル祝日とされている県も多い「県の誕生日」ですが、沖縄県の受け止め方は、様子が違うようです。

【追記】
公式書類上では日本全国に布告された M12/4/4とされている「第二次琉球処分の日付」ですが、沖縄の人たちの心に深い傷跡を残した日付は、突然に 武力による威嚇を伴って 知らされた 「M12/3/27」 であったようです。【追記終】

沖縄県公文書館のページ あの日の沖縄をご覧ください。
沖縄県の誕生は、琉球人の視点では、500年余の歴史を持つ琉球王朝の 事実上滅亡。
その厳しい変化を実感した出来事でした。

琉球の歴史 を遡ると、江戸時代初期の 1609年に 日本の薩摩に征服され、奄美を失いましたが、沖縄と先島については 首里の王府が存続しました。
鹿児島による間接支配を受けながらも、対外的には【“中国の服属国”たる「琉球王国」として】外交・貿易権を行使し、稼いでいました。

明治になると、その影響は琉球にも及びます。
明治4年 廃藩置県の結果 一旦鹿児島県管轄になった「琉球国」[76021]は、明治5年には 政府(外務省)直轄の琉球藩になりますが、その
明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明したのが、琉球処分に至る公式手続の最初でしょう。ここで 琉球の置かれた状況 を確認させたつもりでしたが、現実には 琉球側は 政権交代の意味を 十分には認識しなかった と思われます。

琉球藩王・尚泰王の名で 最後の清国進貢船を送ったのは 明治9年(1876)[4027]

前記「あの日の沖縄」には、次のように記されていました。
この琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の措置は、政府の公文書にちなんで「琉球処分」と呼ばれます。

「琉球処分」という言葉について。
当時の公文書にズバリの例は未発見でしたが、松田本人の使用した言葉であるようです。参考
後に生まれた呼び方かもしれませんが、内務大書記官の彼は、「琉球処分官」松田道之 という 肩書により呼ばれるようになったようです。その時、沖縄は

明治12年4月4日の変化は、形式的には 日本本土で明治4年に行なわれた「廃藩置県」と同様です。
しかし、武力による威嚇を伴い実行され、「処分」にふさわしい厳しさを伴う変化であったようです。

琉球処分時代に見られた人口の異常な変化についての記事もありました。[72118]
[72124] YT さん
第二次琉球処分の前後の2年間(明治11年~明治13年)で、ほぼ本籍人口が倍増しています。いくらなんでも2年間で人口(しかも本籍人口)が倍増することは、たとえ本土から集団移住があったとしてもありえないので、解釈は一つしかあり得ません。つまり本土からの役人が介入したことにより、それまで隠されていた人口が明らかにされたということです。
人口が隠蔽された原因ですが、おそらく税の主体が人頭税であったことが考えられます。これに対し本土では地租が税金の主体であり、人頭税が敷かれた藩は余り多くありません。そのため比較的本土の本籍人口は実態を反映していると考えられています。
[99927] 2020年 6月 23日(火)15:51:04【1】hmt さん
さとうきび畑
沖縄戦が終結してから 75年経過した(沖縄県)慰霊の日です。 

糸満の摩文仁にあった日本軍の司令部が壊滅し、組織的戦闘が終結した 1945(昭和20)年の日付に基づくものですが、1965年の改正により 6月22日から変更されたものです。
正確な日付の確定が困難なくらいの状況であったことは、[80990]に記しました。

一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦により、日本側だけで推定約 19万人の生命が失われたと伝えられています。
沖縄県外出身の戦死者 7万人弱を差し引くと、沖縄県民の死者は 推定 12万人余となります。
これは 沖縄県(先島諸島以外の2市3郡)の人口の 1/4 にも相当します。

「鉄の暴風」に例えられる沖縄戦は、「人のいのち」だけでなく、琉球文化にも壊滅的打撃を与えました。
最近の東京新聞日曜版「大図解」シリーズ。No.1462 失われた文化財-沖縄戦-

私が今回の記事のタイトルに選んだのは、「ざわわ ざわわ ざわわ」というリフレインで知られる『さとうきび畑』という歌です。
1964年、復帰前の沖縄を訪れた作曲家の寺島尚彦が作詞・作曲した 11連の歌。
1967年初演とされていますが、1970年代に沖縄返還への関心が高まり、流行したとのことです。
森山良子の歌がよく知られていますが、その他にも多数の歌手が歌っています。

2012年4月1日に 中城郡読谷村の さとうきび畑 の一角に この歌の 歌碑 が建てられたそうです。

読谷村(よみたんそん)は 人口約4万人で、日本最多の村。
東シナ海岸の村で、南は嘉手納町と隣接。沖縄戦の当時は読谷【当時の名は 読谷山村 ゆんたんざそん】にも 嘉手納にも飛行場がありました。

読谷村の戦跡によると、閣議決定に基づき1944年7月から「足手まといになる老人と子どもを戦闘地域から移し、食糧を確保する」ということを目的とする「県外疎開」が実施されました。しかし、疎開者を乗せた対馬丸がトカラ列島を航行中に潜水艦の魚雷攻撃により沈没[56250]。読谷山村民90人も犠牲になりました。

1944/10/10の空襲などを経て 1945/4/1に比謝川河口から米軍が上陸。
日本軍の守備は手薄であり、米軍は 当日中に2つの飛行場を占領。4/5頃には米軍が宜野湾以北の中部一帯を制圧。
その後、首里を攻め落された守備軍司令部が糸満の摩文仁に後退、6月23日に最後の抵抗も終了。

読谷村の歌碑に戻ると、基金募集のコンサートなど、草の根運動で集めたお金で、完成に至ったとのこと。
この歌にふさわしいエピソードです。歌碑に刻まれた「ざわわ」は、各連6回で合計 66回。

歌詞の主人公に見立てられた少女は、「大図解」で知った ウチナーグチを使えば
カンポーヌ クェヌクサー【艦砲射撃の 喰い残し】

【2連】昔 海のむこうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で
【3連】あの日 鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で
【4連】そして わたしの生まれた日に いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で

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