[71256] okiさん
いろいろと用事が重なってちょっと時間が取れませんでした。
この点に関しては、そもそも歴史地名大系に、地頭町や領家町単独の説明はあっても、両者を合わせた「富木」についての記述がまったくない、という点を含め、いささか疑問を抱いているところです。
富来町史は時間の限られる中でとりあえず「富来の指し示す範囲の変遷」が分かるような所を重点的に見てきたため明治以降の所はあまり見てないのですが、そこまで来ると町場の様子の描写もあるようでした。
ところが、江戸時代については前述のとおりな訳で。
しかも、実は江戸期の福浦港については結構詳しく取り上げてあるんですね。
たとえば通史編には「集落中のどの家が何という宿屋だったか」みたいなことも地図付きで書かれていましたし、資料編(どっちの巻か忘れましたが)には「ある時期に福浦港に寄港した北前船の船主や帆の印を記した台帳」なんかも出てるんです。
確かに地区全体の歴史の中で福浦の持つ歴史はかなりのウエイトを占めてくるんでしょうが、後の歴史に繋がるところを考えれば江戸時代の町場の様子についてももっと取り上げてあっても良いような気がする…のにそうなってない。
資料があまり無いから、と言うのもあるかもしれませんが、たとえば戦国期以前だと恐ろしく断片的な資料しか残っていない所の間を想像で埋めている描写がかなりあるんです。
(中には、「そこまで言っちゃっていいんか?」と思うような所もあった)
そこからすると、「資料が無いから」ではどうも自分を納得させられない。
今までに見た資料から得られる感覚では(感覚ですよ)、「富木」は外部向けの名称、もしくは外部からこの地域を見たときの地名という気がします(いちいち示していませんが、江戸時代や明治初期の全国・能登地域レベルの地図で、富来川河口に富木の地名を記したものがかなりあります)。
については、自分がここまで目にした中では正保郷表を除けば旅日記など「外部から見た描写」の方が多いようなので、「遠所者は町場だけを富木というが、あそこはあくまで富木院(富木郷)の一部なんじゃ」と言うことを無言で主張しているのかも…と考えられなくもありません。
でも、そんな事するぐらいならはっきり書いちゃった方が早いし、確実に伝えられる訳で、どうもそれだけでも無さそうな。
結局何がどうなってそうなってるのか直接判断できるような材料はないのですが、何か「真の地元民で無ければ分からないもの」が影に潜んで良そうな気がする…と言う感じ(あくまで感じ)は確かにします。
それと直接関係してくるのかどうかは分かりませんが、「地頭町と他の集落との潜在的な対立感」は間違いなく存在しているようです。
okiさんがリンクして頂いた金大文化人類学教室の地頭町のフィールドノート、実は富来町史を見てきた時一緒に見てきたんです。
その時は時間がなかったのと、現在の状況中心の内容だったことから八朔祭りの関係の所のみしか読んでこなかったんですが、そっちにも「八朔祭りの開催日程の変更に関する地頭町と他の集落との意見対立」に関して「地頭町の、先頭になって祭りを支えてきたと言う矜持」と「他の集落が『地頭町が昔から威張っている』というに感じていた事」が根底にあるような事が書かれています。
この地頭町のフィールドノートだけでなく、その前年に調査された
富来町里本江および風戸に関するフィールドノートと比較するとなかなか興味深い…のですが、もっとストレートな話をするとその「八朔祭りの日程変更に関する対立」、後に完全決裂して2000年から2003年まで祭りが分裂開催されてたんです。
具体的には「富来地区」と「東増穂・稗造第1地区」に別れての開催で、金大のフィールドノートで懸念が書かれていたまさにその通りになっているのです。
(2004年からまた統一開催に戻り、その後はとりあえず(表面的に)ややこしい話はないようですが、日程だけは両者の主張する日程の中間的な時期にしてみたりしている模様)
このように地区の対立感というのは間違いなくある、と言うことなのですが、それが江戸時代の描写とどこまで繋がってくるか、と言うのははっきりしない訳で、「何かもやもやっとしたもの」を持ったまま更に調査を続けねばならない、と言うことだけが言えそうです。
とりあえず次に予定している2つの資料を見た上で、また新たな考察を積み重ねることができるか、あるいは結局進展しないままとなるか…ですね。
そちらの方は週末時間が取れれば見に行ってきたいと思いますが、もしダメだったら盆明け以降になるでしょう。
なんか本筋からかなり離れてきたので…元々の富来町史を見に行った目的が「富来を関した広域地名の指し示す範囲が何か書かれていないか」でして、関連の所はメモってきました。
並べてみると色々興味深いのですが、これはまた改めて触れたいと思います。
あとはですね…「旧・富来町内の藩政村から現在の大字までの変遷をまとめると、結構興味深そう」とか、「広域地名の変遷を考えていく上でややこしい立ち位置にあるのは富来よりもむしろ稗造っぽい」とか色々あるんですが、そこまで持って行けるはるか手前で暴発してしまった自分が恨めしい。
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[71254] 千本桜さん
一番重要な点が見てもらえていないようなので、整理し直した上であえてもう一度書きます。
「仮説→調査→考察」と思考を進めるとして、千本桜さんは仮説を重要視される方だと思います。
一方、私は自分としては調査を重視したい質だと思ってます。
そこら辺で「手法的な齟齬」が発生する可能性、はありますが、そう言ったところはすりあわせ様は十分あると思うので、実際には総門台になってこないと思います。
ただ、そんな中で前から思っていたのが、「あんまり仮説に重点を置きすぎて、調査に入る前に相手方の地域の地雷・落とし穴的案件を踏んづけてしまったり、思わぬ逆鱗に触れてしまったりしかねないんじゃないか」、と言うことでした。
…まさか自分がその地雷原になろうとは思ってもいませんでしたが。
[70774]、あるいは
[70779]で一度一息置いて頂いていれば、多分トントンと話は進められたと思うのです。
ところが、
[70836]辺りから「準地元民ながら感じる『なんか違う』という感覚」がわき上がってきて、調査と考察が右往左往し始めたんです。
そして、そのうちに心の中を支配した思いは「なんで、なんで千本桜さんは富来そのものを直視しようとしてくれないんだ」。
いや、一生懸命見ようとされていたのは認めます。
が、これまで書かれている内容ではあくまで断片的な資料や大河原町、原町などを通しての推測、でしょう?
一方で私は「富来の現地の風景そのものが(しばらく前の記憶ではありますが)」思い浮かんでいる。
そして「何か違うんだが、上手く伝えられない、まとめられない」もどかしさが蓄積していって、やがて暴発した。
多分、okiさんの書き込みが無かったとしても、多分そのうちに噴出させていたでしょう。
準地元民でしかない、千本桜さんの人となりをある程度見知ったEMMでさえこうなるのです。
ご自身があまり造詣が深くない地域の話を「そこの地元民や縁者」と議論しようとする場合は、「仮説は一度腹の中にしまっておいて」「相手方の地域の情報を可能な限り集めて、それこそ頭の先からつま先までその情報に一度どっぷりと浸かって」「その上で考察、議論を始める」べきだと思うのです。
また、もし「相手方の地域の情報」を議論したい相手に求めたいのであれば、相手に要らぬ予断を与えないようにした方がバイアスのかかっていない情報を得られるのでは無いでしょうか。
とにかく、どこに「地元民や縁者ならではの、地域感情にねざした憤怒を呼び起こす逆鱗」はどこに隠れているか分からない…と言うことです。
とにかく、ストレートに失礼な書き方をしたのは私ですから大きな事を言える立場には無いのでしょうが、常日頃「大河原の歴史を知らないまま地名をどうこう言う住民や行政に対する憤怒」を明言し続けている千本桜さんであれば、少なくとも「地元民としての心情」だけは理解して頂けるものと信じています。
あと、石川や新潟の話以外ではEMMも大きな事は言えないような立場ですから、自戒の意味も込めて書いておきます。
#あと、頭を冷やしてみると、「そもそもの前提が間違ってるんじゃないか」という気もしてきました。
事の発端は「富来という地名を積極的に残そうとしたのではないか」「西海地区も積極的に手を挙げたのではないか」という推測であった訳ですが、もしかすると「富来町役場の法から働きかけたが、結局富来地区と西海地区しか手を挙げなかった、他の地区が消極的であった」可能性はのないか、と言うことです。
富来と志賀の合併が協議されていた期間は先に示した通りまさに「伝統の八朔祭りが分裂開催していた時期」であり、町としては各地区を必要以上に刺激するようなことはできなかったはずなので。
でもこれも推論でしか無く、結局の所は富来町内の議論の推移がはっきりしないと明確なことは言えません。
やはり富来町議会の議事録等の調査が必要なのかもしれません。