[49725]で、私がほのめかした別寒辺牛の由来、その続きです。なお、前項では「由来の真相」と書きましたが、アイヌ時代の史実は確定していない事柄も数多く、以下に紹介する由来はあくまでも「一説」であると思ってください。他に見解があってもおかしくないと思うので…(アイヌ語地名の由来って、そういうことが往々にしてありますよね)。
ネイチャーウォッチングの際にいただいたウォーキングマップには、塘路湖の中に確かに「ペカンペ(ひしの実)」とあります。塘路湖がペカンペの産地であることは今も昔も変わらないようです。しかし、集落の名前も湖の名前にも「ペカンペ」は現れず、逆にはるか遠い厚岸の方には「ペカンペ」と関係がないのにその名前を付した地名が残っている…。この妙な状況を、同伴してくださった地元のネイチャーガイドの方は「アイヌ部族間の争いが引き起こした結果だ」と説明してくれました。
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塘路アイヌは、その昔は純然たる内陸アイヌであり、日々の食糧は狩猟に頼らざるを得ない、どちらかといえば力の弱いアイヌ部族であったようです。伝説の内容はさすがに覚えていませんが、自然現象による啓示により塘路湖に実るひしの実が食材として有用なことを知った塘路アイヌは、これを機に食に飢えることなく、日々の生活を安定的に送ることのできる部族へと変わり身を遂げました。ひしの実は乾燥させることで長期保存が可能なので、多少の不作年があっても飢えに苦しむことは激減したようです。塘路湖には淡水魚(ハンドルネームが出てきてしまいました、ゴメンナサイ!)も生息しているため動物性たんぱく質にも事欠かず、塘路のアイヌは富める部族になったのです。
それをねたんだのが、どうも厚岸アイヌであったようです。厚岸は海べりであり、内陸はやせた根釧台地ですから、どうしても食材は海産物に重きを置かざるを得ないのですが、こればかりは自然が相手なので獲れる量は一定にはできません。年によっても多い少ないの波があり、生活は決して安定しているとは言えなかったようです。そういった環境にあって、毎年ほぼ一定量の保存食が確保できる塘路の地は、のどから手が出るほど欲しい立地だったことでしょう。こんなことから、厚岸アイヌはたびたび塘路アイヌとの間で対立していました。これは史実として裏づけされており、現に塘路湖を見下ろすサルボ展望台近くには、厚岸の方角を向いたチャシ跡が残されています。これは、厚岸からの攻撃に対する防御のために塘路アイヌが築いた砦であるとされています。
つまり、厚岸のアイヌはペカンペという自分たちの生活を安定させてくれる産物を求めて、塘路に攻め込む、まさにそのルートがこんにちの別寒辺牛川沿いだというのです。確かに、多少の回り道には思えますけど、厚岸から塘路を目指すルートとしてこんにちの別寒辺牛川及び主流上流をたどると塘路湖の東畔に達することができます。私はこの時、周りの地図ともにらめっこして比較的説得力があるなあと思ったのです。