好きな祭りは博多祇園山笠、操る言語は博多弁、TULIPで好きな曲ベスト5に“博多っ子純情”が入り、初詣の三社参りは櫛田神社・住吉神社・警固神社と2つが博多のお宮、JRで利用頻度が一番高いのは最寄りの原田駅ではなく博多駅。博多愛は強い私です。
[95537]白桃さん
ここで【かぱぷうさんへの質問】です。
福岡市の市制施行時に、博多と福岡の住民(または議員?)の間で市名に関して大バトルがあったという話を聞いています。当時の人口も非常に拮抗していますが、現在の福岡市の「中心」って「博多」か「福岡」のどちらですか?これは、非常に難しくかつデリケートな問題で、決定しない方がよいかもしれないのですが、個人的な見解を是非お聞かせいただきたいものです。
こう問われては出てこないわけには参りませんっ!!
(んなこと息まきながら、登場が遅くなってしまいましたが^^;)
まず、福岡・博多の歴史を簡単に押さえておきましょう。
古代より大陸の玄関口として開かれた博多の街、国際交流の拠点として大陸から来た使節の迎賓館の役割をもつ「鴻臚館(コウロカン)」が置かれ、中世においては日宋貿易の貿易となり、やがて“博多商人”と呼ばれる有力豪商が育っていきました。その一方で、古代の白村江の戦いで大敗した後は新羅が攻めてくるのではないかと懸念されたり、中世では元が本当に攻めてきたり(元寇)と他国からの危険にさらされた地域でもありました。戦国期には相次ぐ戦乱で焼け野原となりますが、1587年に豊臣秀吉が当地を平定。博多商人と連携した自治都市・博多を作り、復興にあたって“太閤町割”を実施しました。この町割は現在の博多の街の区画として現在も残っております。
余談ながら、根っからの博多の人間で秀吉のことを悪く言う人をあまり聞きません。太閤町割が博多祇園山笠においての“流”(ナガレ:「恵比寿流」「土居流」といった祭りのブロック割)の確立に大きな役割を果たしたことがあるものと思われます。
…と、ここまでは『博多の歴史』です。福岡のふの字も出てきておりません。
福岡という地名が出てくるのは関ケ原の戦いの後、当時豊前中津藩の藩主であった黒田長政が筑前五十二万石を与えられたときからです。長政は小早川の居城であった名島城(福岡市東区)に入りましたが、名島城は手狭で防御面で問題があったことから、街を流れる那珂川の西岸・那珂郡警固村福崎の地を選び築城することにしました。その際、この地を黒田家ゆかりの地である備前国福岡にちなんで「福岡」と命名したのです。当時の博多の街の中心は那珂川東岸にあり、博多全体を取り込んでこの地域全体を福岡と呼ぶこともアリだったのかもしれませんが、黒田藩は博多地域の町人による自治を事実上認めます。
このとき双子都市「武家の街・福岡」「町人の街・博多」という枠組みが生まれました。
明治に入ってもこの棲み分けは変わりませんで、博多の街の方が華やかだったのですが、行政所管が福岡側にあったからでしょうが、少しづつ博多の優位性が揺らいでいきます。1878年の郡区町村編制法によってこの地域は福岡区となりました。もちろん、博多側は面白くありません。1889年の市制施行を迎えるにあたって市名を決める際の議会では福岡側と博多側が真っ向で対立しました。この話、いろいろと尾ひれがついているようなのでどこまで信じていいのかよくわかりませんが、一般的に言われているのは「福岡市派と博多市派の間で市名について採決を行った結果、こともあろうに同数。本来は投票権がない議長(福岡側の人)が議場に降りて投票に加わって福岡市多数で決着」「折衷案として、1889(明治22)年に博多側に設置された九州鉄道(のちに国有化)の駅は博多駅」というところです。
この結果、地図上から「博多」という地名が姿を消しました。地域の名称であった「博多」はどこぞの町名ではなかったからです。地名としての「博多」が復活するのは、1969(昭和44)年になされた住居表示で「博多駅中央街」「博多駅前」「博多駅東」「博多駅南」の町名が発足したときでした。
#ただ、この一帯は当初から開けていた博多地域とは少し離れた場所です。ちなみに1972(昭和47)年の政令指定市施行に伴い「博多区」が発足しますが、区域は広く元来は博多と呼ばれていない福岡空港や雑餉隈のあたりも博多区となりました。このため、福岡では旧来からの博多地域のことを分かりやすく示すために“博多部”と呼ぶことがあります。
時代が進むと、徐々に福岡側が街としての力をつけてきます。福岡側の中心となった街は、天神。
菅原道真公を祀った水鏡天満宮が町名の由来となったこの街は、城下町福岡の武家屋敷が所在していました。明治維新により天神は役割を失いますが、警察や県庁・市役所といった役所が置かれ官庁街として体裁を整えていきます。1924(大正13)年、福岡~久留米間で九州鉄道が開業(現在の西鉄・1889年に博多~千歳川間で開通した、のちに国有化される九州鉄道とは別の会社)。この福岡駅が置かれたのが天神でした。1936(昭和11)年に福岡駅に隣接するターミナルデパート・岩田屋が開業しましたが、この頃は福岡一の繁華街はまだまだ博多。九鉄電車の乗客が伸び悩んでいたこともあり、開業の折には口の悪い者から「天神やらに誰が買い物に来るとか?狸や?狐や?」などと揶揄されたりもしたそうです。それでも少しずつながらも商業集積が進んでいきました。
天神が大きく伸びるのは戦後です。1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲で福博の街は壊滅的被害を受けますが、先に復興に向けた大きな動きを見せたのは博多ではなく天神でした。1946(昭和21)年秋に西鉄福岡駅・岩田屋の西側に「新天町」商店街を創業。1948(昭和23)年には岩田屋や新天町、西鉄などが集まり、親睦団体「都心界」を発足させます。都心界発足には岩田屋が大きな役割を果たしましたが、岩田屋の影響が強くならないよう、発言権も運営経費もすべて加盟者で平等となるようにし、天神地区の商人が一体となって「天神地区を都心にしよう」という気概で街を盛り上げていく土壌を作りました。こうして天神は力をつけ、急速に発展し、九州一の繁華街の地位を確立していきます。
ただ、天神の発展を語る上で忘れてはいけないことがあります。天神に岩田屋を創業した中牟田家、新天町創業の中心的役割を果たした人達、そして明治末期に私財を投げ打って市内電車開業に尽力して天神発展の礎を築き、天神を南北に貫くメインストリート「渡辺通り」にその名を残す渡邉與八郎、みんな博多商人だったのです。
1975(昭和50)年、山陽新幹線が博多まで開通。福岡市は新たな九州の玄関口の役目も担うようになります。東京や大阪に本社を置く企業が九州の拠点を構え、その様は「支店経済」とも言われました。それらの企業の多くが支店を構えたのが博多駅周辺や“博多部”一帯で、今では「繁華街・天神」「ビジネス街・博多」と立場が逆転してしまいました。
現在の博多の商業集積はどうなっているのでしょう。地盤沈下してしまった“博多部”では福岡市が中心となり下川端地区再開発事業を展開、1999(平成11)年に商業施設「博多リバレイン」が開業しますが、苦戦が続いています。1995(平成7)年に開業した「キャナルシティ博多」は健闘していますし、2011(平成23)年に博多駅が新しくなり開業した「JR博多シティ」と、隣接する地に2016(平成28)年に開業した博多マルイが入居する「KITTE博多」は天神地区が脅威に感じるくらいの活況を呈していますが、キャナルも博多駅も“博多部”ではありません。今や、福岡の人が「博多で買い物をする」といったらこれは十中八九で博多駅周辺のことを指します。
…ちっとも“簡単に”とはいきませんでした(^^;
さて、質問に対するお答えですが、現在の福岡市の中心を問われたときの答えは「博多」ではないことはお分かりいただけると思います。もちろん“博多部”でも博多駅周辺でもありません。
では「福岡」?それも否ではないでしょうか。
“博多部”も天神も、福岡市というエリアに属する街々のひとつなので、「博多か福岡か」は比較できる範囲ではないと私は考えます。「“博多部”は福岡ではない!だから博多か福岡かという選択肢はアリ!」という見方もできないこともありませんが、ちと苦しいのではないかと。
私の答えは…。再び
[95537]白桃さん
(「天神」というご回答はご勘弁ください。笑)
白桃さんが「ご勘弁ください(笑)」とおっしゃる、まさかの「天神」を満を持して答えさせていただきます(笑)