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MIさんの記事が7件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[69393]2009年4月19日
MI
[69274]2009年4月18日
MI
[69252]2009年4月17日
MI
[69163]2009年4月8日
MI
[69150]2009年4月6日
MI
[69141]2009年4月5日
MI
[68959]2009年3月21日
MI

[69393] 2009年 4月 19日(日)10:15:26MI さん
ベデカと鉄道院(省)のガイドブック
 なんだか皆様お楽しみの邪魔をするようでちょっと気が引けるのですが、

[69279] YT さん
Japanisches KaiserreichのBaedekerがあるのか気になります。

について、少々長くなりますがご説明致します。

 ベデカはもちろん基本的に欧州のガイドブックなのですが、だんだんと範囲を広げまして、『コンスタンティノープルと小アジア』『パレスチナとシリア』『エジプト』『インド』『ロシア』『合衆国』『カナダ』なども出版しています。
 『ロシア』は独仏英語で合計11回発行されていますが、いずれも稀覯書です。最後となった1914年版(革命後は改版できなかったのでしょう)は復刻版が出ており、これが手許にあるものです。そのタイトルが、
Russia with Teheran, Port Arthur, and Peking
という何とも壮大なもので、テヘラン、旅順、北京まで網羅してあるわけです。文庫本とほぼ同じ版型ながら、本文・索引590ページ+折込図多数の大部です。それにしても収める地域が余りにも広く、主要都市のみの説明になるのはやむを得ないでしょう。極東で掲載されているのがイルクーツク、哈爾濱、ウラジオストク、ハバロフスク、奉天(現瀋陽)、大連、旅順など、そして北京で巻末を飾っているのです。従って満州までは何とか含まれていますが、残念ながらベデカ『日本帝国』は存在しなかったのです。

 さて、東亜英文旅行案内の復刻版というのが出ています。これは1913年から17年にかけて当時の鉄道院が出版した英文ガイドブックなのですが、解説をご覧ください。非常に高価なので実見はしていません(古書はもっと高いですね)。
 一方、私の手許には1922年鉄道省発行の『朝鮮 滿洲 支那案内』というのがあるのです。これは1919年に出た初版本を増訂再版したものですが、版型や体裁はベデカによく似ています。本文494ページ+索引+折込図多数。その「緒言」を引用します。

 欧米の旅行にはベデカー社、マドロール社等発行の較完全なる旅行案内書ありて、英佛獨語版等任意の撰擇に依り各地到處の國状風物を探求するの方便備はれるも東洋の旅行には曾て這種の案内書に乏しかりしを遺憾とし輓近十数年來我鐡道省は "Official Guide to Eastern Asia" と題する英文東亞案内書第一巻朝鮮、滿洲及西伯利(シベリア…引用者註)、第二及第三巻西南及東北日本、第四巻支那、及第五巻南洋諸島を刊行し、以て東洋観光の指針となしたるより外來旅客竝歐米に於ける東洋研究家の賞讃を博し其の需要日に多きを加へ逐次巻を追ふて改版しつゝあり。
 前記英文東亞案内書に依て得たる經驗は之を邦文に飜して尚且同樣の成果あるべきを思はしむると共に、「近時本邦内地と鮮滿支那方面との交通益々密接なるに連れ、該方面に對する案内書の必要愈々急ならむとするの趨勢あり。乃ち本書は此の要求に應ずるものにして、書中載する所は朝鮮、滿洲、支那各地に亙り、記事の内容より附圖挿畫等に至るまで凡て我英文 Official Guide のそれと同程度のものたらしめむことを期したり。(以下略)

 つまり、鉄道院(1920年以降鉄道省)がベデカのいわば模倣ガイドブックをまず英文で作り、後に邦文版も上梓したということなのです。世界飛び地領土研究会の古~い世界地図の中にある1919年発行の釜山などの都市図は上記初版本のものと思われます。1922年版は本文に加えて地図も改訂されているようです。
 本文の様子を味わって戴くために「釜山概觀」の一節を引用します。

 釜山港は韓半島の末端なる慶尚南通(ママ)の東南角に位し、煙波三十哩の彼方に壹岐、對馬と相對して朝鮮海峡の西水道を扼す。灣内西北一帶は丘山に圍まれ、南方海面には絶影島(周圍約八里)横はり、龍臺、冬柏の兩島と相對して自然の港門を成し、港内水域を東、南二區に分かつ。南灣は一に南濱(みなみはま)と稱し、水淺くして漁船の繋泊に使する位に過ぎざれども、東灣は深くして克く三千噸の亘船を避躱せしむるに足る。由來當港は日鮮修交の唯一関門たり、近時鮮滿鐵道の直通成り、且埠頭海陸連絡設備の面目一新と共に、一躍忽ち歐亞大陸交通上の大玄関たるの地位を占め、逐年發達の状勢あり。最近に於ける人口六萬一千餘、輸出入年額五千七百七十七萬圓を算す。

 だいぶ長くなってきましたので、一旦切りまして、日本国内版については後述します。
[69274] 2009年 4月 18日(土)08:26:11MI さん
ベデカ
[69270] Issie さん
日本語だと,もっと皆さんの参考になるのでしょうが。

 気が利かなくて申し訳ありませんでした。この場なら何語でも大丈夫と思ってしまっていました。でも間髪を入れず [69273] YT さん から逐語訳をして戴きまして助かりました。YT さん どうも有難うございました。
 ただ一点だけ。5万人というのは外国人に限定したものではなく、フィウメの全人口であり、その(主な)構成がイタリア人とクロアチア人であるという意味ではないでしょうか。

それにしても何でそのような古い本が家にあるのでしょうか?

 旅行ガイドブックとしてのベデカ(Baedeker)は現在も刊行されていますが、第一次大戦前、及び戦後第二次大戦までに出版された現物を手に取ると、これはもう虜になってしまいます。
 本文は [69252] でご覧いただいたような簡潔かつ詳細な説明がぎっしり。写真は一切用いずに、色刷りの地域図や都市図が折り込まれているのですが、これが芸術的に美しい。
 往時は日本人が洋行する際に必携だったようですから、国内の古書店にも比較的見られますし、海外の古書店やオークションを利用すれば、ものにもよりけりですが手に入ります。改めて書棚を数えましたら35冊ありました。

 収集家のためのHP もありますし、インターネット・アーカイブ で、実際の本文を見ることもできます。
[69252] 2009年 4月 17日(金)05:58:29MI さん
Fiume
[69250] YT さん
[69246] Issie さん

 ピンポイントですが、手許にある1913年版のベデカ Oesterreich-Ungarn (独語版)にある、Fiume の説明をご紹介します。

Fiume (kroat. Rieka), das roemische Tarsatica, im Mittelalter St. Veit am Flaum, der einzige Seehafen Ungarna, mit 50000 Einw. (Italiener, Kroaten), liegt malerisch am n.oe. Ende des Quarnero.

 勿論このあとも説明は続きますが、取り敢えず街の名前に関する部分だけ抜き出しました。ご参考までに。
[69163] 2009年 4月 8日(水)22:03:40MI さん
粟島浦と粟島浦村
[69153]88 さん
これにつきましては、3つの資料のようにM42(1909)に改称があったのか、あるいは、上記の2件と同様にM22(1889).4.1付けの市制町村制施行時から「粟島浦村」であってM42(1909)にはその正誤表が出たのか、なお詳しい資料を発見できればお教えいただければ幸いです。それまで、暫時保留とさせていただきます。

[69162]むっくん さん
さて、以上から判断すると、内務省からこの改称の許可が降りたのはおそらく明治31(1898)年であると私は推測します。そして県令もしくは県告示が出たのはその後ですので、明治31(1898)年~明治32(1899)年6月の新潟県県令もしくは新潟県告示を調べればおそらく見つかるのではないでしょうか。

 ご検討やアドバイスを有難うございます。特に むっくん さんから整理いただきました近代デジタルライブラリーについては、必要部分を pdf にダウンロード済でしたが、改めて状況がよく把握できました。
 明治22年から大正初年にかけての「新潟県公報」「新潟県報」は、すでに一通り県公文書館で目を通しています。その中で「石地町村」「北大瀁村」についての正誤が判明し、また南魚沼郡杤窪新田から杤窪村への改称(明260609県告示445)や北蒲原郡蓮潟新田から蓮潟村への改称(明270518県告示182)なども明らかになったのですが、粟島浦についてのみが見つからないのです。
告示はしっかり確認したつもりですから、正誤で見逃しているのがあるのかもしれません。

 全国の市町村変遷をまとめる上で、地元以外の府県告示を調べるのは困難ですから、ここ数ヵ月は週末に県立図書館で官報をひたすら捲り、市町村変遷について記された広告を拾っています。今度もう一度県報も確認してみようと思います。
[69150] 2009年 4月 6日(月)22:30:57MI さん
岸和田市は同一市名で新設合併ですが、小浜市と筑後市は編入です
[69149]オーナー グリグリ さん、早速のご検討有難うございます。
3例のうち岸和田市については私も見逃していたようです。
 岸和田市例規集によれば、

廃置
昭和17年3月20日
内務省告示第157号

市制第3条及町村制第3条ニ依リ昭和17年4月1日ヨリ大阪府岸和田市、泉南郡春木町、山直町及南掃守村ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ岸和田市ヲ置ク

ですので、ご説明の通りと考えられます。
 しかし小浜市と筑後市については、有料の官報情報検索サービスですべて調査済でして、

● 総理府 告示 第二百十九号
 市村の廃置分合
 地方自治法第七条第一項の規定により、福井県大飯郡加斗村及び宮川村を廃し、その区域を小浜市に編入する旨、福井県知事職務代理者から届出があつた。
 右の廃置分合は、昭和三十年二月二十一日からその効力を生ずるものとする。
 昭和三十年二月二十一日
内閣総理大臣 鳩山 一郎

● 総理府 告示 第三百四十七号
市町の廃置分合
 地方自治法第七条第一項の規定により、福岡県三瀦郡西牟田町を廃し、その区域を筑後市に編入する旨、福岡県知事から届出があつた。
 右の廃置分合は、昭和三十年三月十日からその効力を生ずるものとする。
 昭和三十年三月十日
内閣総理大臣 鳩山 一郎

 従って、これらに関しては「同一市名で新設合併」には当たりません。
市区町村変遷履歴情報【福井県】の宮田村は宮川村の誤りでしょう。更に上記告示文中、その宮川村は遠敷郡なのですが、訂正されないままのようです。

 以上、併せてご検討下さい。
[69141] 2009年 4月 5日(日)21:57:45MI さん
Re: 同一市名で新設合併した市
 皆さんこんばんは。[69124]オーナー グリグリ さんの「同一市名で新設合併した市」を見て、ちょっと探してみました。[68959]でも述べたように私は市町村変遷を調べているのですが、このような場合、合併前後では同一名ながら区別が必要であろうとの考えから、例えば姫路市1と姫路市2のようにしてデータベースを構築しています。そのようなサフィックスをつけた市を検索したところ、[69124]にない、次の3例がありましたのでご報告致します。

1944(昭和19)年0401に山口市と吉敷郡小郡町、阿知須町、大歳村、平川村、秋穂二島村、名田島村、陶村、嘉川村、佐山村が合体して山口市に
1944(昭和19)年0401に徳山市と都濃郡櫛ケ浜町、富田町、福川町、夜市村、湯野村、戸田村、大津島村が合体して徳山市に
 この2例は告示を確認していないのですが、『市町村名変遷辞典』『全国市町村名変遷総覧』によれば、単なる編入ではないように思われます。ただ徳山市は周南市になってしまいましたから、吉原市や児島市と同様の例になるのかもしれません。

1954(昭和29)年0701に三木市及び美嚢郡志染村を廃し、その区域をもって三木市を置く
 これは昭290628総理府告示0553号の文面通りです。

 [69124]同一市名で新設合併した市のフォーマットにすれば、次のようになるのでしょうか。

21山口市山口県1929年4月10日1944年4月1日
22三木市兵庫県1954年6月1日1954年7月1日

3徳山市山口県1935年10月15日1944年4月1日2003年04月21日
都濃郡徳山町が市に昇格都濃郡櫛ケ浜町,富田町,福川町,夜市村,新南陽市,熊毛郡熊毛町,
湯野村,戸田村,大津島村と新設合併都濃郡鹿野町と新設合併(周南市)

以上、ご確認を戴ければ幸いです。
[68959] 2009年 3月 21日(土)20:37:47MI さん
石地町村は存在しなかった
皆さんはじめまして。MI と申します。

 数年前から市町村変遷を調べており、何度となくこちらも拝見しておりました。本日、[68863][68950]で石地町改称の件に気付きましたので、確認を兼ねてご紹介したいと思います。
 しんたん さんが参考にされた新潟県の県令ですが、現行新潟県法規類纂によれば、明治二十三年の県令甲第三十七号は南魚沼郡上関村役場位置に関するもののようです。
 私が実見したところでは、新潟県公報の1890(明治23)年4月18日正誤で、

明治二十二年(三月)県令甲第二十二号改称市町村名中刈羽郡 石地町村 ハ 石地町 ノ衍

とあります。つまり1889(明治22)年4月1日に石地村と尾町村が合併した時点で石地町になっていたのです。
 似たような状況にあるのが中頸城郡「北大瀁村」です。これも1890(明治23)年5月2日正誤で、

明治廿二年(三月)県令甲第二十二号改称市町村名中中頸城郡 北大瀁村 ハ 大瀁村 ノ衍

と訂正されています。下柳町新田、大谷内新田、柳町新田、寺田新田、富田新田、上柳町新田、中柳町新田、岡田新田、下池田新田、中城新田、片津村、姥谷内新田村、西湊新田村、大坂井村、田中新田、上泉新田村が合併して大瀁村になったのですね。

 しかし「粟島浦」から「粟島浦村」へについては、新潟県立文書館や県立図書館に何度も足を運んでおりますが、いまだにその日付を特定できていません。情報がありましたら是非お知らせいただきたいと思います。


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