都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
hmtさんの記事が5件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[87504]2015年4月25日
hmt
[87493]2015年4月22日
hmt
[87492]2015年4月22日
hmt
[87486]2015年4月19日
hmt
[87471]2015年4月15日
hmt

[87504] 2015年 4月 25日(土)15:04:27【2】hmt さん
知床半島羅臼町海岸での異変
[87500] 山野さん
海底が数10mほど隆起しているのを地元住民が発見したそうです。

住民が24日朝に発見したのは海岸の状態の変化であり、夕方には更に大きく盛り上がっていたとのこと。NHK北海道

朝日によれば 付着したウニや昆布に鳥が群がっていたとのことであり、これから山からの土砂崩れではなく、海中から隆起した岩と判断したようです。

海中・海底の調査はこれからでしょう。
しかし、朝と夕方で違いが判るほどの大きな隆起が短時間の間に起こったとすれば、その原因探求が待たれます。

釧路地方気象台によると羅臼町付近で火山や地震の活動は 24日には確認されていないとのこと。NHK北海道

スロー地震サイレント地震 などという ゆっくりした地殻変動も発見されつつあるようですね。

リンクした地理院地図は 知床半島の形が見える 20万分の1サイズを選びました。
羅臼町の幌萌町という居住地名は、これを3段階拡大した2万5千分の1サイズになると やっと現れます。

国後島を望む地で起きた今回の異変。探求の結果 何らかの形で防災に役立つ知見が得られればよい と思います。

【追記】
25日の現地調査の結果、現場周辺では がけ崩れなどの大規模な土砂災害が起きているとのこと。NHK

【追記2】
現地を調査した北見工業大学工学部の山崎新太郎助教らによると、海岸より陸側に地滑りが起きていたとのことです。
羅臼町では例年より積雪が多く、一気に雪解けが進んだことで大雨のように地面に水がしみ込み、地中の岩石と岩石の間の摩擦力が低下して滑り始めたとみられる と分析。地滑りの端が海底よりも深い部分に突っ込んで、海面下の地面が押し上げられたという見方が示されました。NHK北海道NEWS WEB
[87493] 2015年 4月 22日(水)16:04:51hmt さん
畿内と近畿
[87492] に引き続き、hmtマガジンの特集「畿内から北陸へ」に関する補足記事です。

特集名に 安易に「畿内」という言葉を使いましたが、これは都が京都に移るよりずっと前の言葉でした。
机上の『大辞林』の説明を見たら、律令国家を形成した諸氏族の居住地域【山背・大和・河内・摂津】を行政上特別扱いして四畿内(和泉の分立後は五畿内)と呼んだとのこと。つまり古代国家の「首都圏」を意味していたのですね。
なお、「畿」の意味は王城から五百里【周では200km余】。(漢和辞典)

具体的な範囲が記されている日本書紀・大化二年(646)改新の詔によると、東は名張の横河、南は紀伊の兄山【葛城】、西は赤石【明石】の櫛淵、北は近江の合坂山【逢坂山】迄でした。
都が難波や飛鳥にあった時代ですから、京都から山一つ隔てただけの近江は畿内ではなく、東山道所属なのでした。

従って、近江から越前へのルートを「畿内から北陸へ」と表したのは問題であることを認めざるを得ません。

そこで考えた屁理屈。ここでは平安時代以後を問題にしているので、畿内の範囲は改新の詔を根拠とするのでなく、「京都が都であった時代の首都圏」と解釈していただきたい。

近江は天智天皇時代に短期間ながら大津京が置かれた実績もありますが、それ以上に平安遷都以来千年以上の間に「首都圏」に組み込まれていました。
タイトルの説明だけならば、「畿内から(近江経由で)北陸へ」を短縮したもの と解釈することもできます。
しかし、「京都基準の首都圏」という形で 近江を畿内の中に取り込む解釈 の方が、むしろ適切なように思われました。

もちろん都に近い国々という意味では、「近畿」という言葉を使う方が一般的でしょう。
白桃さんは[86442]で滋賀県を含むブロックを「畿内」と名付けた後、これを適切でないとして、素直に「近畿ブロック」に修正していました。

今回の記事は、[87452]で使われていた“畿内から北陸方面へ向う街道”に影響されて、畿内と越前とを結ぶルート[87455]から戻れなくなってしまったhmtの悪あがきです。ご容赦ください。
[87492] 2015年 4月 22日(水)13:47:18hmt さん
本州横断運河
[87452] 伊豆之国さん 愛発越え に始まり、敦賀近辺の鉄道に関する記事がいくつか続きました。
そこで、2006年の鳩原ループの記事と合せて hmtマガジンの特集に仕立てることを考えました。

新しい特集の骨格は 何よりも記事 ですが、それと共に「特集のタイトル」と「まえがき」も必要です。
今回「まえがき」に据えたのは、港湾都市・敦賀が交通路の要衝になった原因である その特異な位置です。
本州日本海側で大きく湾入した若狭湾の東部、敦賀湾として更に深く入り込んだ最奥で、その先には琵琶湖。

琵琶湖と言えば 淀川の源流[67664]。ということはシロウト目にも本州横断運河構想に結びつきます。
これについては予備知識がなかったのですが、近代以前の日本ではパナマ運河のような工事は技術的に無理 ということで片付け、鉄道の話につなげて2015/4/16に 登録しました

これで「まえがき」の形は一応できたものの、やはり 本州横断運河構想 が気になります。
調査したところ、本州横断 運河計画 水運ネットワーク というページがあり、これを手掛りに調査を進めてみました。

海運・貿易によって天下を握った平清盛。その嫡男・平重盛が越前国司であった時代に 敦賀琵琶湖の運河が計画されたという伝説があるそうです。敦賀から笙の川を遡り、深坂峠を切り開いて大川で近江塩津に至るルートでした。その名も「堀止地蔵」という別名を持つ深坂地蔵が 計画断念の遺跡とのこと。参考

近世にも いくつかの計画があり、19世紀初頭に 大阪商人の資金で山中峠経由ルートの改修が行なわれ、幕末まで利用され活況を呈した と記されていました。
地理院地図を見ると、七里半越【現在の国道161号】の国境【「くにざかい」という地名らしい】には 389mと記され、付近にはスキー場が作られています。疋田で合流する笙の川の支流・五位川は 曳舟によってどこまで遡れたものか知りませんが、いずれにせよ近江側の知内川とを結ぶ全区間を 無理に舟運でつなぐというものではなく、道路による峠越えを併用した 現実的なルートであったようです。

幕末の加賀藩運河計画は実現しなかったものの、新湊博物館「高樹文庫」資料中の越前・近江関係には 越前近江糧道測量絵図 慶応三年 その他が残されています。

近代になると 1903年にアメリカが着工した パナマ運河【1914開通】に倣った 閘門式運河計画が登場。
1905年には 貴族院で 日本海から琵琶湖経由大阪までの汽船通船計画が採択されたが、日露戦争で実現できず。参考

昭和恐慌をようやく抜け出た頃の 田辺朔郎による運河計画も、5億円の工費とあって 実現は前途遼遠と伝えられています。

最後に戦後の高度経済成長時代。
海外では 外洋の航行が可能な大型船を五大湖に通じる セントローレンス海路 が1959年に開通。
今度の本州横断ルートは、伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ計画で、三重県が熱心だったそうです。
大野伴睦氏を会長とする建設促進期成同盟会を 1962年に設立。岐阜県に港を作る構想もあったようです。中日新聞

でも、もう高速自動車道の時代が近づいており、1965年には名神高速道路が全線開通。
運河構想が日の目を見ることはありませんでした。
[87486] 2015年 4月 19日(日)16:13:08hmt さん
「ただそれだけ」の地名
[87477] じゃごたろさん
[87481] inakanomozartさん 
「ただそれだけ」につられて、もう一つ。
10年前、合併前の中川根町時代ですが、地名(じな)という地名を取り上げた ゼンリン地図豆の記事 をリンクしておきます。最後の文に注目。

以下は、「ただそれだけ」にしては長すぎるフォロー記事です。

地名(じな)の説明:「(山がちの地域の中で 居住に適した)土地のあるところ」という意味であるとのこと。

地図豆の連載は中断していますが、せっかくなので 「豆27:地図には地名は書いていない」も読んでみましょう。
ここには「居住地名」と本来の「地名」との区別が解説されています。 [56419]などに落書き帳の関連記事もあるので 参照してください。

[87481]で言及されたように 静岡県大井川沿いの地名(じな)に関しては 過去記事 で話題になりました。

その中に「徳山の盆踊り」というヒントがありましたが、大井川鉄道で地名駅から11.2km先に駿河徳山駅があります。
[29164]に記されているように 徳山の盆踊りも 国指定重要無形民俗文化財 ですが、これから思い出した極めて特徴のある地名が、盆踊りとしては全国最初の指定を受けた(1981) 秋田県西馬音内(にしもない) でした。
[87471] 2015年 4月 15日(水)20:08:11【1】hmt さん
北陸新幹線整備の基本計画は長野経由が前提
[87469] グリグリさん 北陸新幹線に乗車 
[87457]で私が言いたかったことの本質は…(中略)…長野経由前提ということだったのか と言う点です。

もっと詳しい情報をお持ちの方がおられるとは思いますが、とりあえず。

北陸新幹線について、全国新幹線鉄道整備法第四条に定められた基本計画は昭和47年6月決定のようです。
その公示を国土交通省サイトで閲覧することはできませんでしたが、S47/7/3の運輸省告示第243号であり、起点:東京都、終点:大阪市、経過地:長野市付近、富山市付近とされているようです。参考

基本計画がこのように長野経由と定められた理由。それは、上記法律の第三条に示された
全国の中核都市を有機的かつ効率的に連結するもの
に沿ったものであると思います。
北陸新幹線は、やはり長野新幹線でもあるのですね。

【追記】
長野五輪開催が大きく影響したのでしょうか。

オリンピック冬季大会開催都市への国内立候補は戦前(1935)に始まり、1961年にも山ノ内町などが立候補したが札幌市に敗れたそうです。札幌大会の実現は1972年でした。
長野県では県内の候補地一本化ができなかったのが敗因と考え、三度目の正直を合言葉に具体的に動き出したのが1985年でした。翌年に国内立候補した都市は、長野市・旭川市・山形市・盛岡市。国内候補地選定1988を経て 1991年に IOCでの最終選定を獲得しました。

「長野でもできるのか?」 「できるさ。サラエボ【1984年開催地[86112]】だってやったんだから。」
こんな会話が交わされた 昭和60年(1985)でも、長野市が北陸新幹線の経過地と明記されてから10年以上も後のことです。

1998年の長野五輪開催は、北陸新幹線の軽井沢・長野間フル規格化着工決定(1990)には影響したと思います。
しかし、ずっと前に決定していた ルートの選定 には無関係です。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示