明治4年11月の府県再編成につき、先ず兵庫県の具体的な事例を、太政官布告と兵庫県HPの県域図とにより示しました
[76179]。
総論については 時間をちょっとだけ戻します。
廃藩置県の行なわれた明治4年7月に 民部省を統合して 地方行政を握った大蔵省
[76135]は、全国を 76府県に改める案を 正院に上申しました。これが 9月2日ですから、府県再編成布告の2~3ヶ月前のことです。
廃藩置県前の藩の領域を引きずった 305府県を「統合する」のではなく、一旦 全国を白紙に戻して、国や郡を組み合わせた「まとまった領域からなる府県」に再編成する。
この大事業を必要とした理由の 第1として挙げるべき事情は、やはり 県の規模が小さすぎたことです。
約 150もあった 3万石以下の小藩を含めて、261藩すべてが県になったのですから、小さな県が軒並みと言えるほどに乱立していました。20万石以上の規模を持つ藩は 僅かに約20という有様では、財政負担能力は限られており、効率的な行政運営も困難です。
第2は 県の領域が分散していたことです。江戸時代の知行地の石数は、村や字という小単位の寄せ集めにより、所定の数値に合わせたものでした。第1次兵庫県の県域図が「虫食い状態」になっていたのは、寄せ集め知行地由来の故であったものと理解されます。
明治4年7月の 261県に引き継がれた「寄せ集めの領域からなる藩」には、広域に亘る飛び地もありました。
ここでは、17世紀から 武蔵国榛沢郡岡部(現深谷市)の陣屋を本拠としていた「岡部藩」を例として説明します。
大阪城勤務が多かった岡部藩安部氏は、慶応4年 新政府に恭順した際に、本拠を 三河国八名郡半原(現新城市)に移すことを嘆願し、認められました。こうして岡部藩改め 「半原藩」になり、廃藩置県では「半原県」になりました。
岡部藩の地元である 武蔵国(一部は上野国)の所領は 旗本時代に由来する 約5000石だけであり、加増で得た 三河国7000石、摂津国(現豊中市)8000石と分散した所領は、そのまま半原県に引き継がれていました。これでは、2万石の小さな県の県政を 効率的に行えるわけがありません。
明治4年9月の大蔵省案区画には3つの原則があったとされます。
大藩中心・国が基準・石高30~40万石(大島美津子1985,1994)。
40万石という数字は、全国 3000万石を 73国(北海道11国を除く)で割った値に近いものです。
大藩は この規模を越えていますが、大蔵省案では 金沢藩を3県、山口藩を2県、鹿児島藩を3県に分割しています。これは藩構成国(加越能・防長・薩隅日)の数と同じですから、結局は 平均 40万石の約 75府県というのが、再編成の基準だったとわかります。
この基準に照らせば、甲斐全国 31万石を管轄する 甲府県(甲斐県)は、そのまま 新設する県として通用しますが、県名は甲府の所在する 山梨郡 から名付けた「山梨県」と改められました。
ちょっと判らないのが、改称前の県名です。
山梨県HP を見ると、“明治2年7月 甲斐府を廃し甲府県と改め”、“明治4年11月 甲府県を山梨県に改め” と記され「甲府県」です。しかし
法令全書668・
地方沿革略譜 いずれも「甲斐県」。
中央政府は 一旦は公式に 甲斐府改め甲斐県 としたが、すぐに現地で愛着のある?「府」の文字を使った「甲府県」に改められた ということでしょうか。
同じ基準から、大和国 50万石も、新設する県として適当な規模です。大和国には 廃藩置県前からの(旧)奈良県・五條県の他に、藩に由来する 郡山・小泉・柳生・田原本・高取・柳本・芝村・櫛羅の諸県がありましたから、事実上 10県を統合した形になります。新設県名には 県庁所在都市の 奈良 が使われました。
金沢藩があった加賀・越中・能登の3国には、3県が設けられることになりました。
明治4年11月20日の石高 を見ると、金沢県 46万石・新川県 68万石・七尾県 46万石。石高の多い越中国は、射水郡を 七尾県所属とする 調整を行っています。3県合計 160万石は、金沢・富山・大聖寺の3藩合計 122万石より だいぶ多くなっています。
鹿児島藩があった薩摩・大隅・日向3国にも、鹿児島県 32万石・都城県 43万石・美々津県 14万石(合計 89万石)の3県設置。
鹿児島県管轄 に琉球15島が記されていますが、この中には、大島など 奄美五島が含まれています。3国と3県とは、加越能のケースよりも大きな食い違いがあります。
山口藩のあった周防・長門2国は、大蔵省案で 豊浦県と三田尻県の2県になっていました。 M4/11/15に
防長2国で89万石余 という数字は、山口藩 36万9千石余に 岩国6万石・徳山4万石・豊浦5万石・清末1万石を加えた 53万石という数字よりもずっと大きく、これだけ規模ならば、2県案も当然と思われます。
しかし、最終的には山口県になりました。大久保・木戸の外遊中に、大蔵大輔の井上馨が 山口県を復活させてしまったのか?
同様に 原案では 高知県・中村県の2県になっていたのが統合され、土佐全国管轄に変ったのが 高知県49万石。
逆に、原案の彦根県が 分割されたのが 近江国で、大津県 45万石と 長浜県 40万石の 2県になりました。もっとも、翌年初めには 滋賀県と犬上県とに改称され、更に9月には統合して滋賀県になっていますから、1国2県時代は10ヶ月でした。でも、この過程を経て、譜代の大藩だった 彦根は 県の名から消された だけでなく、県庁所在地の地位も失いました。
結局のところ、大蔵省の 76府県案は、2減1増の結果、タイトルの3府72県になったわけです。