廃藩置県の2~3ヶ月後に行われた、明治4年10月28日から 11月22日にかけての府県再編成は、従来の3府302県を「統合」して3府72県に改めたものではなく、「組替え」て「リセット」する作業でした
[76179]。
単純な「統合」でなかった実例として、このプロセスにより、4県に「分属」することになった 江刺県の事例を紹介しましょう。
2006年に 水沢市などと合併して
奥州市 になった江刺市。
昭和合併前の町名は、
岩谷堂箪笥 で知られる 岩谷堂で、ここが「江刺郡」の中心地でした。
ところが、明治初期の府県のことを調べていると、この地から遠く離れた場所に「江刺県」という名が出没します。
江刺県は、
明治2年8月18日の布告748 により、戊辰戦争終結後の奥羽に新設された 10県の1つであることが、法令全書に記されています。つまり、福島の板倉氏が三河に移され
[7123]、白石に移された南部氏は盛岡への復帰が認められ
[75949]、会津の松平氏も下北半島での再興への道筋がついたところで、福島県・白石県・若松県などと共に、江刺県も誕生したわけです。
岩代国の前記3県は賊軍藩を退去させた跡地ですが、江刺県など三陸の5県は、減封された南部藩や仙台藩の旧領との差分に該当するものでしょう。
岩手県の誕生 には、8月に“松本藩取締地が江刺県に変った”と記してありますが、同じページの 明治4年7月の図を見れば、江刺県の範囲は、江刺郡周辺やその東側の陸前国気仙郡(元は仙台藩)、閉伊郡南部(上閉伊)だけでなく、(新)盛岡県の東側にある 広大な閉伊郡北部(下閉伊)にも及んでいることがわかります。
明治4年7月の図には、現岩手県域の北西部(陸奥国二戸郡)に 江刺県の飛び地が描かれています。
“(明治2年11月)…斗南藩が成立し、三戸県が江刺県へと合併になりました”と記されている地域がこれです。
この三戸県は、元の黒羽藩取締地に明治2年8月にできた九戸県が、9月に八戸県を経て三戸県と改称したものです。
[76243]で引用した「青森県の誕生」には、残念ながら図2の直前に相当する三戸県の時代が 図示されていないのですが、三戸県は旧盛岡藩領北部で、現在の青森県東部から岩手県・秋田県の一部に及んでいた県です。
明治2年8月の 10県新設布告には“陸中国九戸県”と記されていますが、翌月には八戸県(八戸藩と紛らわしい)を経て三戸県と改名しています。実際の管轄地域に合わせて 県庁を陸奥国に移したのでしょう。
短期間しか存在せず、しかも慌しく改名した三戸県ですが、その領域は 旧盛岡藩領の北端(下北半島)に及んでいたはずです。
三戸郡は県庁所在地だったと思われ、その南に続く二戸郡も三戸県の領域でした。
二戸・三戸と下北半島との間には、後の上北郡に相当する地域があります。ここには 明治2年8月の県設置より少し前に 七戸藩が成立しているので、三戸県は、七戸藩の南と北との2つの領域に分断されていたものと思われます。
三戸県について もう一つ。
秋田県公文書館企画展 の一番下に、秋田県の成立を示す チャートがあります。
ここに示されているように、かつての盛岡藩領 陸中国鹿角郡(
湯瀬オフ会2008)は、隣接する陸奥国三戸郡・二戸郡と共に三戸県の南の領域を形成しており、三戸県廃止後は江刺県を経て、明治4年11月の「府県組換え」で秋田県になりました。
戊辰戦争から岩手県成立へ) にも、“江刺県は遠野に本庁を置き、気仙・江刺・閉伊・九戸の一部・鹿角・二戸の各郡で構成されていた”と、鹿角郡への言及があります。
この資料にも、前記「岩手県の誕生」と同様の 廃藩置県後3府302県時代の 江刺県が描かれた地図がありますが、現岩手県域でない鹿角郡が、やはり描かれていないのは 残念なことです。
このような資料を材料として、三陸地域における明治2年の「県」の変遷を、8月と11月を転機として3段階にまとめると、次のようになります。
戊辰戦争で敗れた旧盛岡藩
[75939]の領域のうち、岩手郡など盛岡付近には 13万石に減封された 新盛岡藩
[75949]が成立したが、旧盛岡藩と新盛岡藩との差分は、同様に減封された 仙台藩の差分と共に 政府直轄地になり、当初は官軍諸藩の取締地とされていた。
官軍諸藩取締地には、取締県名が付けられたようである。後に三戸県になった黒羽藩取締地は、明治2年6月頃「北奥県」と呼ばれたらしい。「岩手県の誕生」に出ていた盛岡県(松代藩取締)・花巻県(松本藩取締)・伊沢県(前橋藩取締)、
[75516]で言及した涌谷県(土浦藩取締)・栗原県(宇都宮藩取締)も同類と思われる。桃生県(高崎藩取締)も?
明治2年8月18日になると、太政官布告により、正式に九戸県・江刺県・胆沢県・登米県・石巻県が新設された。
旧盛岡藩北部の北奥県を引き継ぐ九戸県>>三戸県は、八幡平から下北半島に及ぶが、その領域は、県設置の少し前にできた七戸藩により、南側(三戸・二戸・鹿角の3郡)と北側(下北)とに分断されていた。
間もなく、明治2年11月に 旧会津松平家の家名存続が許され、三戸県内に 斗南藩3万石ができることになった。
こうなると、三戸県として残る政府直轄地は、南西部の 陸中国鹿角郡と陸奥国二戸郡の大部分だけ になるから、この2郡を江刺県に編入して、三戸県を廃止した。
これが、本来の「江刺郡」から遠く離れた「江刺県の飛び地」が生まれた経緯であると考えます。
明治4年11月の全国的な「府県組換え」では、江刺県の飛び地にある陸中国鹿角郡は秋田県2に、陸奥国二戸郡は青森県2に組み込まれました。
そして、江刺県の本体側の陸中国、すなわち 閉伊郡・江刺郡・和賀郡東部(黒沢尻)は 盛岡県2に、陸前国気仙郡は 一関県2になりました。
3府302県時代に例外的に大きな県だった江刺県は、3府72県体制の下では、盛岡・一関・青森・秋田の4県に分属することになったわけです。
もっと後まで書いてしまうと、二戸郡と気仙郡とは、明治9年5月に岩手県に戻っているので、現在の所属は2県です。
[23318] Issie さん 奥羽の境界
奥羽北部の4大藩である伊達・南部・津軽・佐竹(秋田)の領域(支藩を含む)と明治2年に奥羽再編で新設された陸前・陸中・陸奥3国の領域,そして現在の宮城・岩手・青森・秋田4県の領域が,いずれも少しずつずれているのがどのような事情なのか,興味深いものがありますね。
鹿角郡・二戸郡・気仙郡など、江刺県の周辺部にあった地域は、このような所属変遷の歴史・境界のずれを示す実例です。
四国4県にも変遷史がありますが、こちらは主として国単位の併合分割であり、郡単位で動いた奥羽4県の変遷史に比べると 動きは単純です。