[8951]ken さん
私は,基本的には「広域地名」に基づく自治体名は否定しません。
これは今回の大合併に限らず,「昭和の大合併」や「明治の大合併」,あるいはこのような制度になるずっと以前から繰り返しあったことだと思います。
逆にピンポイントな地名がどんどんと拡大されて広域地名となったことも(その最たる例が「ヤマト(大和)」。これは本来,奈良盆地南東隅の「シキ(磯城)地方」,現在の桜井市付近の初瀬川扇状地周辺の地名だったと考えられています。ここがヤマト王権の発祥の地であり,その呼称が順次拡大されていった,ということのようです)。
確かに「東かがわ市」には正直,もう少し工夫したらいいんじゃないの,と思うこともないわけではないし,安易に既存の広域地名を,しかも“ひらがな表記”にして採用してしまうのもどうかとは思いますが,それでもそのような呼称を採用するに至るにはそれなりの事情があるのだろうと,一応の好意的な解釈をしたいと思います。
基本的には地元の意思を尊重したい。もっとも,地域住民の「総意」で決定するのは住民投票にかけでもしない限り不可能でしょう。少し以前の「さいたま市」の区名騒動のように,地域住民の考え方もさまざまですから,「総意」を形成することさえ困難かもしれない。
それでも,その最終判断はその地域住民に任されるべきだろう,と思うのです。
(そうそう,私は「さいたま市」という自治体名は“ひらがな表記”も含めて容認します。逆に言えば,「さいたま(埼玉)」というのは今や旧埼玉郡域の,まして地名発祥の地の行田の独占物ではないからです。ひらがな表記の「さいたま」は,そのような「旧埼玉」の呪縛を断ち切る効果があるのかもしれません。意識されているかどうかは,わかりませんが。)
旧国名ではないけれど「伊那市」なんてのも伊那谷は広いですからねえ。
実は,これは「広域地名」ではないのです。
この町の核となった中心集落が元々「伊那町」という名前でした。
ここが「伊那」の地名の発祥の地かどうかはわかりません。少なくとも,在郷の市場町としての「伊那町」が成立するのは近世に入る前後のことでしょう。
たとえ発祥の地あったとしても,この集落自体は古代にさかのぼるわけではなく,ある一定の広がりを持つ「伊那」という地域の中に成立した商業集落が「伊那町」と呼ばれるようになったのだとすれば,これは昨今の事例とさほど変わらないのかもしれません。
上水内郡の「信濃町」の場合,これは1955年に「柏原村」と「富士里村」が合体したときに「信濃村」としたことに始まります。これとは別に「信濃尻村」というのがあって,これは1889年の「明治の大合併」の際に野尻村を初めとする野尻湖周辺の村が合体してできたものです。
この「信濃村」と「信濃尻村」,それに「古間村」が1956年に合体して「信濃町」となります。
合体の過程で,「柏原」なり「野尻」なりを名乗るのは不適当と判断されることがあったのかもしれません。
私には自治体名よりも,国鉄が駅名を「柏原」から「黒姫」に改称してしまったことのほうが腑に落ちません。
むしろ勿体ないと思ったのは,下伊那郡の「南信濃村」の方です。1960年に「遠山村」と「木沢村」とが合体して発足したのですが,これに残存する「上村」を加えた地域の呼称が「遠山郷」なんですよね。こちらの方を大事にした方がよかった気がする。
もっとも「遠山郷」は,北信“奥信濃”の「秋山郷」(下水内郡栄村)とともに“山国信州”でも「とんでもない山奥」の代名詞ですから,その点で敬遠されたのかもしれません。
なお,「黒姫村」は存在しました。長野県ではなく,新潟県に。
しかも頸城地域ではなく,中越の刈羽郡に。
実はこれは妙高・黒姫山塊のそれではなく,柏崎の南東方,米山とならぶ刈羽地方の名山「黒姫山」にちなみ,この山の麓の3村が1956年に合体して発足しました。1957年に北部の一部が,68年には残った地域全部が柏崎市に編入されて消滅しました。
「丹波」という地名があります。
“旧国”では「丹後」に属する京都府中郡峰山町の旧村名です。
実はここが「丹波国」の地名の発祥地なのです。ここのピンポイントな地名が順次拡大されて「丹波国」なる地域呼称が成立しました。その後の「丹波」は分割され,都(平城京)からより遠いこちら側が「丹後国」となってしまいました。
…という経緯を踏まえれば,このあたりの町村合併で成立する新自治体が「丹波市」を名のる資格は十分にあるのです。
そうしたとき,現在の丹波側はどのような反応をするべきか。
現実には「丹波」が選考対照には上がってきてはいないようですけどね。