[18894]ken さん
意外なところの地名由来の名家
鎌倉の八幡宮東隣の谷戸を「名字の地」とする「二階堂氏」も,地味ながら全国に散らばって繁栄した一族ですね。
大隈地方出身の元官房長官もこの流れだったかな。
細川興元は細川幽斎藤孝の次男
ああ,そうですか。「慶長15年」というタイミングといい,「元」の字といい,てっきり本家筋の人を探し出して取り立てたものか,と一瞬思ったもので。「1万石」くらいなら,ちょうどいいかな,なんて…。
もう,本家筋をはばかることもなくなった(…くらいに,細川宗家が没落した) ということなんでしょうかね。
足利将軍家・信長・秀吉・家康と見事に主人を乗り換えて
足利義秋(→義昭)担ぎ出し以来の同志で同じ教養人でありながら「馬鹿正直」であった明智光秀と,割りに世渡り上手な細川藤孝…なんて,少し意地悪な対比をしたお話もありますよね。
下野芳賀郡を中心に1万石をもらい、茂木に居所を構え、大名となります。
(略)
常陸筑波郡などを加増、居所を谷田部に移す、
基本的に芳賀郡と筑波郡の領地を2世紀半にわたって守りきった,ということになるのかな。
まさか間もなく廃藩置県が行われるなど夢にも思わなかったとは思うのですが,そのわずか半年前に藩庁を「創業の地」である茂木に戻したのはどういうことなのでしょう。
ま,おかげで,廃藩置県後,宇都宮県に統合されるまでの4ヵ月にわたって「茂木県」が存在したのでした。
さて,以下が本題。
(以前にも触れたことがある気がするのですが…)
相模原市の田名という地区には相模川に沿って「烏山用水」という用水路があります。
「烏山」とは,下野=栃木県の烏山のこと。
なぜこんなところに「烏山」か? というと,ここ(高座郡田名村)が烏山藩・大久保家の領地で,つまりこの用水路は江戸時代後期に烏山藩の事業として建設されたので,そう呼ばれるのでした。
田名に限らず,相模原台地一帯には旗本領に混じって烏山藩の領地が散在していたわけです。
幕府が解体されて,旧幕府領と旗本領は明治政府直轄となり,高座郡の場合は「神奈川県」の管轄となりました。
ところが明治政府には当初,「藩」を解体する方針など全くなかったので(それどころか,版籍奉還を経て,初めて“公式の行政区画”として「藩」を公認するわけです),藩の領地はそのままでした。
つまり,田名村その他は「神奈川県」ではなく,「烏山藩」の飛び地のままだった,というわけ。そして,廃藩置県の結果,藩に代わって「烏山県」の管轄となる。
お隣の津久井郡(明治初めまでは「郡」よりワンランク低い「津久井県」)に属する村々の多くは幕府領または旗本領で,伊豆の韮山代官の支配下に入っていたので,こちらは「韮山県」に属することとなりました。
「茂木県」の場合は,お互いに割りと近接した芳賀郡と筑波郡(の各一部)を主な管轄地域としていたので,県庁所在地が茂木でも谷田部でも,さほど苦労はなかったかもしれません。
けれども,相模原・津久井の(全部ではなく)いくつかの村が,はるか彼方に県庁を置く「烏山県」なり「韮山県」なりの飛び地となっている状態は,どう考えても不合理ですね(高座郡内には外にも「佐倉県(下総)」や「西大平県(三河)」などの飛び地がありました。要するに廃藩置県まで各旧藩の飛び地だったわけです)。
廃藩置県4ヵ月後の明治4年11月,全国の府県の抜本的再編を行って「郡」を単位とする一円的な区画が設定されました。
おかげで高座郡は北の相模原(←当時は,このような呼称はまだなかったらしい)から南の湘南海岸(←やはり,まだなかったらしい)まで全域が「神奈川県」(当初の予定は足柄県)の,同じく津久井郡は全域が「足柄県」の管轄になったのでした。
近代的な地方制度を整備していく過程として当然の措置です。
(この過程で「郡」と「県」の上下関係が逆転しました。)
さて,ここでもしばしば話題になっていますが,山梨県の道志村が神奈川県の横浜市への編入を求めています。
ことの判断は,最終的には横浜市民と道志村民の意思に委ねられるべきものと思うのですが(それにしても,単純な人口数では「わが国最大の人口を抱える“市”」である横浜市と道志村とでは著しく不公平です。ここをどのように解決したらいいのでしょう),1つだけ危惧しているのは,
これが「前例」となって,全国で同じような「空間を超えた合併」が行われ,つまり大小さまざまな飛び地が生まれるとしたら…
これって,明治初めまでの「飛び地だらけ」の状態に戻ってしまうのと結局は同じなのではないのかな,ということなんですね。
…何か,「逆行」してるんじゃないの? と,つらつら思っているところなのでした。
(まさか,こんなことが全国で無制限に行われるとは思いたくないのですが。)