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[97502] 2019年 1月 27日(日)01:14:37【1】YT さん
昭和45年の国勢調査における人口集中地区面積の改訂について 追記
[97499] で疑問点として挙げた以下の点ですが、自己解決しました。

昭和45年の『わが国の人口集中地区』によると、日本全国の人口集中地区面積は沖縄県を除いて6,392.1 km2, 琉球政府下の沖縄県の人口集中地区44.9 km2を加えて6,437.0 km2とされています。これに青梅市と鎌倉市Iの面積の訂正(+2.0 km2と+5.3 km2)を加えると、訂正後の昭和45年の人口集中地区面積は、トータルで6,444.3 km2になるはずです。ところが昭和50年以降の国勢調査報告書では、昭和45年の口集中地区面積はトータルで6,444.1 km2と、0.2 km2少ない値となっており、現在に至るまでこの数値が使われております。東京都(805.6 km2 → 807.6 km2)や神奈川県(502.5 km2 → 507.8 km2)の面積は、それぞれ+2.0 km2, +5.3 km2増えているだけです。丸め誤差が原因とも考えられますが、そもそも昭和50年以前は、人口集中地区の面積は小数点以下第1位までの数字で固定されていますので、昭和45年の数字だけ例外が導入されたとは考えにくいです。よって訂正を行った際、合計を確認しなかっために誤った数値が独り歩きしている気がします。


昭和50年の『わが国の人口集中地区』の方で、長崎県西彼杵郡高島町の昭和45年の人口集中地区の面積が、1.2 km2から1.0 km2に改訂されていました。よって改訂後の総面積は「6,444.1 km2」で正しいことになります。

昭和55年の『わが国の人口集中地区』に記載の、昭和55年の人口集中地区総面積と昭和60年の『わが国の人口集中地区』記載の昭和55年の人口集中地区総面積でも、0.9 km2の違いがあったのですが、こちらも昭和60年版でしれっと大阪府泉大津市の昭和55年の人口集中地区面積が11.8 km2から11.0 km2に改訂されていました。

もう一か所の0.1 km2の改訂は東京都東村山市です。昭和55年版では、東村山市人口集中地区人口が東村山市の総人口(123,798人)の99.4%に相当する118,679人なのに対し、東村山市人口集中地区面積は東村山市の総面積(16.58 km2)の100%に相当する16.6 km2となっていました。昭和55年以降、人口集中地区設定区域が行政全域と一致する場合、面積の情報は行政域面積として採用されている下二桁までの数字を使う(即ち118,679/16.58 ≒ 7,158.0 人/km2)とされていましたが、実際に表に載っていた人口密度は118,679/16.6 ≒ 7,149.3 人/km2の方でした。

まあこの時点で色々矛盾があってもやもやしていたのですが(何故人口集中地区設定の人口が行政域全域じゃないのに、面積の方は行政域全域以上になる?)、これが昭和60年版では遡って総面積の99.5%に相当する16.5 km2に改訂されていました。

いずれにせよ、「正誤表」で対応できなかった修正が、次の国勢調査の報告書で修正されている例が色々あるみたいです。

【東村山市の詳細を追加】
[97499] 2019年 1月 25日(金)23:31:52【3】YT さん
初期の人口集中地区のデータの疑問点
[97021] 他 白桃さん
[97025] 他 千本桜さん
[97032] 他 ekinenpyou さん

数か月前から人口集中地区について話題になっていましたが、[97021][97032]で白桃さんやekinenpyouさんに国土数値情報ダウンロードサービスを紹介して頂いたことにより、自分は総ての人口集中地区のシェープファイルを入手することができました。ただ、シェープファイルを地図上に表示する方法が分からず、とりあえずフリーのSuperMap Viewer2008やQGIS3.44を導入しましたが、まだ使いこなすには至っていません。

それはさておき折角なので、改めて過去に調べた人口集中地区の連担について、人口・面積と変遷の情報をエクセルファイルにまとめ直すことにしました。とはいえ、過去の国勢調査のデータ自体は総務庁のサイトからダウンロードできますが、昭和や平成初期の報告書はpdf化された画像ファイルのままですので、数値を改めて入力し直す必要があります。現在、人口密度の計算で数値をチェックしながら1960年~1975年までの4回分を入力し終えましたが、結婚して子供が生まれてからというもの、深夜に作業するだけの気力が残らず、入力作業も相当時間がかかりそうです。今回は、[97037]でも指摘しました、

それよりもDIDの設置でわけがわからないのは、

■□
□■

のように、交差点を挟んでDIDが接している場合、「我が国の人口集中地区」付録の地図の解像度だと、「点で接している」としか言えない状況で、両者を同一のDIDとするのか、別のDIDとするのか、2種類のケースがある点です。


について、昭和35年と昭和40年のケースで、問題点を指摘した地図画像ファイルを作成しましたので、それについて投稿します。また昭和45年以前のケースで国勢調査報告書自体に誤りがるという事例が複数見つかりましたので、それについてもまとめます。なお今日になってQGIS3.44で地図上にシェープファイルを表示させる方法が分かりましたが…SuperMap Viewerで作成したシェープファイル由来のみの画像を今回は用います。

昭和35年(1960年)の国勢調査で初めて人口集中地区が設置されましたが、同一自治体内で連続しているようにしか見えないのに、わざわざ別個の人口集中地区とされてしまっている例が全国で多数散見します。例えば『わが国の人口集中地区』収録の地図では、広島市Iと広島市IIはどうみても同一自治体内で連担してますが、人口集中地区としては別にされています。その同じ広島県の呉市Iと呉市IIまわりのシェープファイルをこちら(外部アップローダ)に示しますが、『わが国の人口集中地区』に表示された地図にせよ、今回のシェープファイルにせよ、一点で接しているように見えます。同様のことが福岡市Iと福岡市IIIの連担(外部アップローダ)でも言えます。

一方、昭和40年の松原市Iと羽曳野市IIIの方に関しては、『わが国の人口集中地区』収録の地図では、羽曳野市III(外部アップローダ)や松原市I(外部アップローダ)に示すように、それぞれが一点で接しているようにみえます。ところがシェープファイルの方では、こちら(外部アップローダ)に示すように、接していません。(なお某所に投稿した昭和40年の阪神地区に取り込まれている「松原市I(河内天美)」は、「松原市II」の間違いであることが判明しました。)

『わが国の人口集中地区』収録の地図では、分かりにくいのですが、該当箇所は日本で5番目に大きい古墳である大塚山古墳(雄略天皇陵墓参考地)の北側で、近鉄南大阪線の北側の道路で接しているように見えます。先程地図を読み込ませることに成功したQGIS3.44で、該当する昭和40年の大阪府のファイルを読み込んだところ、どうも松原市Iのシェープファイルの座標が西方向にずれているのではないかという気がします。

【追記:QGIS3.44の使い方が分かって来たので、現在の地図に昭和40年の大阪府松原市I~羽曳野市III周辺の人口集中地区のシェープファイルを載せた画像を作成してみました(外部アップローダ)。『わが国の人口集中地区』収録の地図の羽曳野市III(外部アップローダ)や松原市I(外部アップローダ)が正しいとすると、松原市Iから大塚山古墳の北側の方まで伸びているはずの人口集中地区が、シェープファイルを作成した際に誤ってカットされてしまったことになります。】

以上のほか、昭和40年の『国勢調査報告 第1巻 人口総数』では、昭和35年の美唄市II→昭和40年の美唄市I、昭和35年の北海道の美唄市I→昭和40年の美唄市II、となっているのに対し、昭和40年の『わが国の人口集中地区』では美唄市I→昭和40年の美唄市I、昭和35年の美唄市II→昭和40年の美唄市IIとなっています。地図等との比較から美唄市の人口集中地区は番号が入れ替わっていたとするのが正しいことが分かります。ならば『国勢調査報告書 第1巻 人口総数』の方が正しいのかといえば、そんなことはなく、『国勢調査報告書 第1巻 人口総数』では昭和35年の京都府宇治市II→昭和40根の宇治市II、昭和35年の宇治市III→昭和40年の宇治市IIIとなっているのに対し、『我が国の人口集中地区』の方では、昭和35年の宇治市II→昭和40年の宇治市III、昭和35年の宇治市III→昭和40年の宇治市IIとなっており、こちらに関しては『我が国の人口集中地区』の情報の方が正そうです。複数の図書館で昭和40年の『我が国の人口集中地区』の中身を確認しましたが、残念ながら正誤表の存在が確認できませんでした。

さらに昭和40年の『わが国の人口集中地区』では、関西のデータを中心に、昭和35年の人口集中地区が昭和40年になって分割されたのか、昭和35年の人口集中地区が昭和40年の人口集中地区Iに成長し、一方で別に昭和40年の人口集中地区IIが形成されたのか、表記法の統一が中途半端が故の曖昧表記が生じており、人口集中地区の地図の情報からの再チェックが必用そうです。

次の昭和45年の『わが国の人口集中地区』からは正誤表が存在し、割と重要な訂正がなされております。人口密度の訂正や面積・人口の割合と増加率の訂正を除くと、重要な訂正は以下の点です。

表側表頭
209 相模原市I面積 (km2) 昭和45年19.213.2
209 相模原市I面積 (km2) 昭和40年16) 8.317) 5.1
209 相模原市II面積 (km2) 昭和45年13.219.2
209 相模原市II面積 (km2) 昭和40年17) 5.116) 8.3
222 羽曳野市I人口 昭和40年12) 882114) 6823
222 羽曳野市I面積 (km2) 昭和40年12) 1.114) 0.7
222 羽曳野市II人口 昭和40年13) 337812) 8821
222 羽曳野市II面積 (km2) 昭和40年13) 0.712) 1.1
222 羽曳野市III人口 昭和40年14) 682313) 3378
222 羽曳野市III面積 (km2) 昭和40年14) 0.713) 0.7

また

東京都青梅市の人口集中地区面積および神奈川県鎌倉市の人口集中地区I面積は、再測定の結果、つぎのように訂正する。
・東京都青梅市の人口集中地区面積 ― (旧) 3.8 km2 (新) 5.8 km2
・神奈川県鎌倉市の人口集中地区I面積 ― (旧) 10.0 km2 (新) 15.3 km2

昭和45年の[『わが国の人口集中地区』によると、日本全国の人口集中地区面積は沖縄県を除いて6,392.1 km2, 琉球政府下の沖縄県の人口集中地区44.9 km2を加えて6,437.0 km2とされています。これに青梅市と鎌倉市Iの面積の訂正(+2.0 km2と+5.3 km2)を加えると、訂正後の昭和45年の人口集中地区面積は、トータルで6,444.3 km2になるはずです。ところが昭和50年以降の国勢調査報告書では、昭和45年の人口集中地区面積はトータルで6,444.1 km2と、0.2 km2少ない値となっており、現在に至るまでこの数値が使われております。東京都(805.6 km2 → 807.6 km2)や神奈川県(502.5 km2 → 507.8 km2)の面積は、それぞれ+2.0 km2, +5.3 km2増えているだけです。丸め誤差が原因とも考えられますが、そもそも昭和50年以前は、人口集中地区の面積は小数点以下第1位までの数字で固定されていますので、昭和45年の数字だけ例外が導入されたとは考えにくいです。よって訂正を行った際、合計を確認しなかっために誤った数値が独り歩きしている気がします。

なお昭和55年以降、全域が人口集中地区となった自治体に関しては小数点以下第2位までの面積(km2)が使われるようになりますし、平成17年以降だと、小数点以下第2位までの面積の数字を足しても合計が合わない(小数点以下第2位よりも細かい数字を用いている?)という状況となっています。

初期の連合人口集中地区の数値に関しては別の機会にまとめます。

【訂正1:後半の丸め誤差の説明を訂正】
【訂正2:松原市I~羽曳野市IIIの人口集中地区の分布示す画像ファイルを追加でアップロード】
【訂正3:その他誤字訂正】
[97046] 2018年 11月 28日(水)23:46:19【1】YT さん
DID上の隠れ大都市:明石と川越
すみません。[97027]で、

(川越は2005年以降完全に京浜とつながったような気がしますが、ちょっと2005年の集計結果が手元にないので確認できません)
と書きましたが、リンク先に示すように2015年現在も、柳瀬川を境とするDIDの途切れは健在で、富士見市~ふじみ野市~川越市~狭山市~入間市~飯能市と続く、DID上の隠れ大都市川越は今なお健在のようでした。

明石~垂水と阪神を結ぶラインも、山の方の妙法寺付近で分離したままのようです。

【地理院地図へのリンクの方法を修正】
[97037] 2018年 11月 26日(月)18:18:24【1】YT さん
DIDが点で接している場合の判断
[97019] 白桃さん
[97025] 千本桜さん
[97032] ekinenpyou さん

国土地理院の地図は、国道を赤色で表示し、人口集中地区の境界線も赤色で表示しています。そのため、判読しにくい個所が生じています。地図をどんどん拡大してみましょう。すると、鎌倉市の稲村ガ崎と坂ノ下の間は境界線が途切れずに連担していることが判読できます。なので、連担する大船、腰越、鎌倉は3地区あわせて1つの鎌倉市人口集中地区になり、それに連担する逗子市、葉山町の人口集中地区も大東京DIDに組み込まれます

例えば[97019]白桃さんで取り上げられている腰越と鎌倉のDIDは[97025]千本桜さんにもある通り
現状(H27)ごくわずかな領域がつながっているだけですが、平成7年以降現状に近い領域になったらしく、
平成2年はもう少し広い領域(連担が明瞭)だったようです。(DID面積はH2→H7で27.6→24.1km2と縮小)

先程図書館で歴代の「我が国の人口集中地区」収録の地図を閲覧してようやく意味がわかりました。平成27年度版の収録の地図の方では「鎌倉海浜公園」という文字の上の方にDIDが設置されているようですが、該当する箇所には公園はなく、道路そのものがDIDとして設置されているようですね。

ekinenpyou さんも分析されていますが、1960年(S35),1965年(S40)には、該当する道路周辺にはDIDはなく、1970年(S45)には腰越方面に向けて太い帯状のDIDが設置され、1975年(S50)~1990年(H2)は腰越と鎌倉中心部が太いDIDで接続されていたが、1995年(H7)から突然、鎌倉市内のDIDの設置が地形にそったきめ細かなものに変更となり、それと同時に坂ノ下は一本の道だけでDIDが繋がる状態となり、現在に至るようです。まあ理不尽といえば理不尽ですが、国勢調査の地区ごとの担当の裁量によるところが大きいのか、あるいは市街化調整区域の設置が絡んでいるのか、その辺の事情は分かりません。

それよりもDIDの設置でわけがわからないのは、

■□
□■

のように、交差点を挟んでDIDが接している場合、「我が国の人口集中地区」付録の地図の解像度だと、「点で接している」としか言えない状況で、両者を同一のDIDとするのか、別のDIDとするのか、2種類のケースがある点です。単に地図の解像度が悪いだけで、別のローマ数字が降られているは、「本当は両者は接していないから」という解釈も成立しますが、そうなってくると、異なるDIDについて地図から「接している」と判断して加算した場合、それが本当に接しているの?という疑問も生じ得ることになります。手元にDIDのチェックをした時のメモがないので記憶が曖昧ですが、確か1960年~2005年までの間で、10箇所近く悩むようなシチュエーションがあったように記憶しています。

【追記】あと、「我が国の人口集中地区」付録の地図では、それぞれの地図でタイトルに示されるメインとなる市区町村について、DIDが実線と実線内の赤枠で囲われて示され、周辺のDIDは斜線の赤枠で示されることで、複数のDIDが接していたり、近くに存在することを察することができるのですが、確か周辺のDIDの記入漏れがそこそこあったと思います。
[97027] 2018年 11月 24日(土)17:51:15YT さん
DID人口の合算について
最近仕事と私生活がリアルに忙しくて、余りこちらに書き込む余裕がなかったのですが、DID人口の話題が出ているのでひさびさに書き込みます。

[97019]白桃 さん

[69204][80928]にも書きましたけど、その昔1960年~2000年の間について、地図の上で連続したDIDを足した人口を算出し、某所に投稿したことがあります。その後の2005年分を含め、図書館で『我が国の人口集中地区』の地図を確認しながら国勢調査報告書のコピーに連続の有無を総てメモっておりましたが。それらのメモは実家に置いて来てしまっており、現在すぐに確認はできません。今日白桃さんの投稿に気付き、そういえば『我が国の人口集中地区』では鎌倉周辺はどういう変遷となっているのかしらん?と思って昼間に仕事場から数分の距離にある某図書館に行きましたが、今日は休館日で確認できませんでした。

なお鎌倉に関して言えば、1970年以前は藤沢I~茅ヶ崎I~鎌倉II(腰越)と、鎌倉I~逗子~戸塚区II(笠間)~葉山が独立しており、藤沢や鎌倉まで京浜に飲み込まれたのは1975年以後のようです。その一方で、2000年の段階では阪神と京都、阪神と明石~垂水、京浜と川越などが分離するなど、色々合算に悩むところもあります(川越は2005年以降完全に京浜とつながったような気がしますが、ちょっと2005年の集計結果が手元にないので確認できません)。2000年の例だと、定規を使って地図を測った結果、以下のDIDが分離しているとする自作のテキストファイルメモが手元に残っていました。

我孫子市I(京浜地区)~取手市I 約1.2 km (利根川対岸)
志木市(京浜地区)~富士見市I(富士見地区) 約50 m (接するのは時間の問題?)
大井町I(川越地区)~大井町II(富士見地区) 約30 m (接するのは時間の問題?)
鶴ヶ島市II(川越地区)~鶴ヶ島市I(坂戸地区) 約50 m (過去に接しているケースあり)
所沢市I(京浜地区)~所沢市II(川越地区) 約500 m
上尾市(京浜地区)~蓮田市 約300 m
袖ヶ浦市I(京浜地区)~木更津市I 約920 m
大磯町I(京浜地区)~大磯町II(小田原地区) 約80 m (接するのは時間の問題?)
岩倉市(名古屋地区)~一宮市I(岐阜地区) 約2.3 km
岩倉市(名古屋地区)~江南市 約860 m
扶桑町(犬山地区)~江南市 約110 m
春日井市I(名古屋地区)~春日井市II(高蔵寺地区) 約170 m
東海市(名古屋地区)~大府市I 約740 m
刈谷市I(刈谷地区)~大府市I 約900 m
安城市(安城地区)~知立市I(刈谷地区) 約120 m
大津市I~大津市II(草津地区) 約160 m (瀬田川対岸; 過去に接しているケースあり)
大津市VII(京都地区)~大津市I 約1.7 km
八幡市(阪神地区)~島本町(京都地区) 約640 m (淀川対岸)
高槻市I(阪神地区)~高槻市II(京都地区) 約280 m
堺市I(阪神地区)~堺市II(光明池地区) 約100 m (接するのは時間の問題?)
神戸市須磨区II(阪神地区)~神戸市垂水区I(明石地区) 約1.2 km
神戸市須磨区II(阪神地区)~須磨区I(妙法寺桃山台地区) 約50 m (崖あり)
神戸市垂水区I(明石地区)~垂水区II(妙法寺桃山台地区) 約60 m (第二神明道越し)
北九州市門司区~下関市I 約400 m (門司区側は関門橋の中途までDID設定)
北九州市小倉南区I(北九州地区)~北九州市小倉南区II 約30 m (過去に接しているケースあり)
北九州市小倉南区II~北九州市小倉南区III 約400 m
苅田町~北九州市小倉南区III 約50 m (過去に接しているケースあり)

[81009]にも書きましたが、一番の問題点は水面調査区を介して隣接している場合、その水面調査区の設置場所を調べる術が自分にはわからない点です。

例えば北九州市の場合、1960年と1965年は、若松地区と他の北九州市の諸地区は分離していましたが、1970年には橋を介して一個の巨大なDIDとなります。ところが1975年~1985年には橋の上のDIDの設置がなくなり、両者は再び分離します・・・が、「連合人口集中地区」として連結する扱いとなっています。

1960年
696,134人/66.8km2八幡市I/小倉市/門司市/戸畑市 (全国5位)
75,721人/7.5km2若松市I

1965年
787,849人/84.2km2北九州市[八幡区I/小倉区/門司区/戸畑区] (全国5位)
80,038人/11.4km2北九州市若松区

1970年
857,409人/110.1km2北九州市[八幡区I/小倉区I/門司区/戸畑区/若松区] (全国5位)

1975年
922,081人/134.3km2北九州地区 [福岡県] (全国7位)
【1】843,382人/121.5km2北九州市[小倉北区/八幡西区/門司区/八幡東区/戸畑区/小倉南区I]
/中間市/水巻町 [福岡県]
【2】78,699人/12.8km2北九州市若松区 [福岡県]

水面調査区や準人口集中地区を含め、その詳細を調べる方法が分からないのがもどかしいです。


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