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千本桜さんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[73357]2009年12月20日
千本桜
[73340]2009年12月17日
千本桜
[73280]2009年12月13日
千本桜
[73208]2009年12月5日
千本桜
[72957]2009年11月26日
千本桜
[72894]2009年11月20日
千本桜
[72228]2009年10月21日
千本桜
[72164]2009年10月12日
千本桜
[72073]2009年9月26日
千本桜
[71771]2009年8月23日
千本桜

[73357] 2009年 12月 20日(日)08:35:30【1】千本桜 さん
頑張れワッキー
[73331] 白桃 さん
自分でもわかりませんが、吉野川の北側に鉄道が走っていたら、(鍛冶屋原線は無視)、脇町は遅くとも昭和の合併時に市制施行をしていたのではないか、
美馬郡の人口分布変遷と徳島本線の関連性を調べるのも面白そうですね。そのためには、明治期からの人口推移が分かればベストでしょうが、あいにく古い年代の資料を持ち合わせていませんので、昭和45年以降の国勢調査人口だけを表にしてみました。(昭和50年以降は確定値ですが、昭和45年の数値は速報値かも知れません)
調査年脇町美馬町穴吹町貞光町半田町一宇村木屋平村
昭和45年19,06110,47211,6438,8129,4065,0923,622
昭和50年19,02610,08110,3858,1218,4573,7323,098
昭和55年19,19410,2309,8788,0137,9152,9292,340
昭和60年19,33110,1489,2607,5287,2832,5301,950
平成2年19,1329,9348,4916,8996,7712,1241,602
平成7年19,0649,4838,1506,5296,3411,7441,505
平成12年18,3769,3107,6325,9635,5901,5471,314
意外にも、鉄道が走っていない脇町・美馬町より、鉄道が走っている穴吹町・貞光町・半田町の人口減が激しいのですね。脇町に焦点を当ててみます。資料がないので推測で書きますが、間違っていたら教えてください。たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
美馬郡の機能的センターが脇町なら、サブセンターは貞光でしょうね。平成の合併で、美馬市(脇町・美馬町・穴吹町,木屋平村)とつるぎ町(貞光町・半田町・一宇村)に分かれて合併したのは、そのような力関係が影響したからでしょうか?。でも、そうだとすると、貞光グループと関係が深そうな美馬町が脇町グループに組込まれていたり、美馬市の市役所が脇町にあらず穴吹だったり、ちょっと理解しにくいところがありますね。
脇町は未訪ですが、貞光・穴吹は自転車で走りました。ウン十年前の8月20日(晴れ)、高知市から徳島市まで走行。大歩危・小歩危の風景と、池田の町の繁華街を見たいという思いが強かったですね。川島か鴨島あたりで薄暗くなり、徳島市に着いたときは夜だったような。その夜は徳島駅で寝ました。元来めんどくさがりで記録するのが苦手ですが、自転車旅行中は気になった場所だけ、短いメモを書き残していました。たとえば次のように。小野田=中心となる所がない。宇部=変な街。小郡=大河原より上。山口=静かだ。福山=情緒全くない街。笠岡=小さい。倉敷=大原美術館(100円)に入る。ゴッホの「アルプスへの道」とゴーガンの「タヒチにて」に感激す。岡山=整った街。宇野=バス待合所に寝る。坂出=商店街安っぽい。丸亀=葉書に丸亀城をスケッチ。等々です。宇部が変な街とか、笠岡が小さいとか、坂出の商店街が安っぽいとか、いろいろ書いてますが、それは、笠岡はもっと大きな街で、坂出の商店街はもっと立派だろうと想像していたからにほかなりません。なので関係者の皆さん、気にしないでください。

追記
なかなか古い記憶が抜けなくて徳島本線と書きましたが、民営化後の1988年にJR四国は徳島本線を徳島線に改称していたのでした。
[73340] 2009年 12月 17日(木)18:49:01千本桜 さん
ハーヌ民国 チョンホワ民国
[73329] 興田小 さん
かつては教えていたが現在は避ける傾向にある表現はほかにもあるのでしょうか?
わたしが思いついたのは「旧大陸」と「新大陸」や「支那」です。
最近は「南朝鮮」も耳にしなくなりましたね。

[73330] Issie さん
学校で(公式に)教わったとなると
記憶が定かではないのですが、中学校で教わったのは「北朝鮮」「南朝鮮」だったような。「北朝鮮」は工業国で、「南朝鮮」は農業国という教えられ方をしたような・・・。ところが、姉が残して行った昭和29年発行開成館の中学社会科地図には、南北ひっくるめて「ハーヌ民国(韓国)」と記載されているのですよ。ちなみに、中国の名称については、ページによって「中国」だったり、チョンホワ(中華)民国だったりしています。もちろん、私の時代はハーヌ民国とかチョンホワ民国という教えられ方はしていませんけど。
[73280] 2009年 12月 13日(日)08:44:24千本桜 さん
国機関の統廃合
宮城県内における国機関の統廃合の話題を二つ。仙台法務局は、県北部の築館支局(栗原市)を来年2月、古川支局(大崎市)に統合して廃止する方針を決めました。これで、面積800平方キロメートル、人口77,000人の栗原地域から法務局がなくなります。栗原地域の中心機能が集まる築館は、平成17年9月実施の消費購買動向調査で商圏消失が判明。その後も商圏回復ができないままです。そして、今度の法務局支局廃止と、なにかと寂しい状況にあります。一方、県南部では昨年4月、白石公共職業安定所(白石市)が大河原公共職業安定所(大河原町)に統合されて大河原公共職業安定所白石出張所になりました。白石市・角田市より人口が多い柴田町。白石市・角田市より中枢機能の集積が進む大河原町。また一つ、仙南地域の市町逆転現象が進んだようです。どうして、「市」「町」「村」などと、面倒くさい3種類に分けなければならないのかとボヤキながら今年も終わろうとしています。
[73208] 2009年 12月 5日(土)21:20:47千本桜 さん
国土地理院発行地図販売代理店
[73205] hmt さん
地図販売店一覧 を見ると、そのすべてを取り揃えているのは、東京でも、日本橋の ぶよお堂、駿河台下の 内外地図[73200]、それに渋谷から1km余先の青葉台にある 日本地図センター だけのようですね。
(財)日本地図センター は国土地理院の外郭団体ですから性格が異なりますが、(株)武揚堂と内外地図(株)に日本地図共販(株)を加えた3社は国土地理院発行地図の元売捌所ですから、品揃えが多いというか、揃えて置かなければならない立場にあるのでしょう。武揚堂、内外地図、日本地図共販の元売捌所3社を通じて、全国の国土地理院発行地図販売代理店(書店など)に流れる仕組みになっていますので。
[72957] 2009年 11月 26日(木)06:54:28千本桜 さん
井原
[72944]白桃 さん
特に井原市では、白桃としては珍しく結構時間をかけて歩きました。
井原は未訪地ですが、恩ある人の生まれ故郷ということもあって興味がありました。それに、旧市街(小田川沿いの谷口集落)を置き去りにしたまま、大胆に新市街(井原駅前地区)を造成している点でも関心がありました。旧市街を置き去りにしたまま新市街を造成したというのは、あくまで地形図や空中写真を見ての印象です。つまり、真上から見下ろした印象です。これを横からの目線で見て、どんな印象を受けられましたか。井原の規模の街で駅前通りが片側二車線(両側で四車線)というのは、ゆとりある空間に感じませんでしたか。たぶん、旧市街と新市街のコントラストが明確な都市だろうと想像しますが、いかがでしたか。それに、旧市街(谷口集落)の区域は旧山陽道から少し逸れているのですね。微妙な逸れ方。なんで?、と考え込んでしまいそうな逸れ方です。
[72894] 2009年 11月 20日(金)13:01:57千本桜 さん
八女郡福島町
[72893]Issie さん
福岡 八女郡福岡町 ほか →1954. 4. 1 福岡市 →八女市
県名に釣られた誤打だとは思いますが、正しくは、福岡 八女郡福島町 ほか →1954. 4. 1 福島市 →八女市ですね。
[72228] 2009年 10月 21日(水)08:15:15【1】千本桜 さん
町場名と藩政村名、公称と通称
[72164]で、古くからの町場名が明治期の新町村名に引き継がれた事例を挙げましたが、もう少し詳しく書いてみます。町場の規模はさまざまで、菅生宿下戸沢宿のように戸数50戸あるかないかの町並みでも町場は町場です。ちなみに、いまも菅生の町場の通称は「町」。そして下戸沢の町場の小字名も「町」です。しかし、このように小規模な町場ですと、その名が明治22年の新町村名に影響を及ぼした可能性は低くなります。影響を及ぼすには、それなりの規模と都市機能の集積が必要になります。そこで、江戸期の仙台藩で商業活動が許されていた町場を選出し、それを便宜上の「町場」とします。商業活動を許された町場は、おおむね規模の大きな町場でもあります。宮城県史は仙台藩の在方商業の統制について次のように記述しています。
藩指定の町場以外では原則として在方の商業は禁ぜられ、農民の商人化はもとより厳重に取り締まられた。領内の町場は、中期において77、享保19年(1734)に89、幕末に96に増加しており、ここで定期に日市が開かれ、商業取引が行われた。
として、江戸中期における77の町場名と市日を紹介しています。町場の内訳は、現在の岩手県に属するものが一関、水沢など31町場。宮城県に属するものが古川、気仙沼など46町場です。では、宮城県に属する46の町場名と明治期の新町村名の関わりを見てみましょう。まず、町場が属した藩政村名と明治22年の新町村名を調べ、次の5つに分類します。

【類型1】町場と藩政村が異名なものの内、町場名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)町場=川崎。藩政村=前川村。明治22年新町村=川崎村

【類型2】町場と藩政村が異名なものの内、藩政村名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)該当するものがありません。

【類型3】町場と藩政村が異名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=金津。藩政村=尾山村。明治22年新町村=藤尾村

【類型4】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=高城。藩政村=高城本郷。明治22年新町村=松島村

【類型5】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に絡んでいると思われるケース。
(例)町場=白石。藩政村=白石本郷。明治22年新町村=白石町

【類型1のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
川崎前川村川崎村(柴田郡)なし
亘理小堤村亘理町(亘理郡)なし
吉岡今村吉岡町(黒川郡)なし
松山千石村松山村(志田郡)なし
小牛田南小牛田村小牛田村(遠田郡)なし
涌谷馬場谷地村涌谷町(遠田郡)なし
宮野下宮野村宮野村(栗原郡)明治8年下宮野村など3村が合併して宮野村
佐沼北方村佐沼町(登米郡)なし
登米寺池村登米町(登米郡)明治6年寺池村など4村が合併して登米村
飯野川相野谷村飯野川村(桃生郡)なし
類型1は、藩政村名を採らずに、町場名を採って明治期の新町村名にしたケースです。小堤村・今村・馬場谷地村は明治22年、合併しないで単独で町村制の町に移行し、町場名をもって亘理町・吉岡町・涌谷町に改称しました。佐沼は北方村に属する宿場町(通称佐沼町)ですが明治22年、北方村から分離して自治体の佐沼町になりました。明治22年に前川村など5ヶ村が合併して発足した川崎村は、前川村の町場名「川崎」を新村名にしています。松山村・小牛田村・宮野村・登米町・飯野川村も町場名が新町村名に繋がっています。

【類型2のリスト】
類型2は、町場名を採らずに、藩政村名を採って明治期の新町村名にしたケースです。しかし、該当するものがありません。町場名と藩政村名が異なる場合は、【類型1】のように町場名が引き継がれるか、【類型3】のように双方とも引き継がれずに新名称が立てられています。江戸期に商業取引を許されたほどの町場は、ネームバリューもステータスも藩政村より勝っていたのでしょう。仙台藩では、町場名が藩政村名を抑えて新町村名に引き継がれることはあっても、藩政村名が町場名を抑えて新町村名に引き継がれることはありませんでした。勿論これは、それなりの規模と都市機能を有した町場があった場合の話です。有効な町場がない場合は藩政村名を新町村名にしている例も多々あります。

【類型3のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
金津尾山村藤尾村(伊具郡)なし
米岡西野村米山村(登米郡)なし
横川福地村大川村(桃生郡)なし
類型3は、町場・藩政村・新町村の名称が全て異なります。町場名・藩政村名とも新村名に引き継がれなかったケースです。明治22年、尾山村と藤田村が合併し、新村名は旧村名から1文字ずつ採って藤尾村になりました。旧村はその大字になりましたが、通称町場名「金津」は今も健在で、公称大字名の尾山や藤田よりも汎用されている感じさえします。江戸期からの町場名「金津」「米岡」「横川」が明治期の新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。

【類型4のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
高城高城本郷松島村(宮城郡)なし
真坂真坂村一迫村(栗原郡)明治8年真坂村と清水村が合併して真坂村
狼河原狼河原村米川村(登米郡)明治8年狼河原村と鱒淵村が合併して米川村
釜谷釜谷浜大川村(桃生郡)なし
柳津柳津村麻崎村(本吉郡)明治8年柳津村と黄牛村が合併して麻崎村
志津川志津川村本吉村(本吉郡)明治8年志津川村など3村が合併して本吉村
津谷津谷村御嶽村(本吉郡)明治8年津谷村など3村が合併して御嶽村
馬籠馬籠村御嶽村(本吉郡)明治8年馬籠村など3村が合併して御嶽村
類型4は、町場と藩政村が同名なのに、双方とも新村名に引き継がれなかったケースです。新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。ただし、志津川についてのみ感想を記します。志津川村は明治8年に周辺2村と合併して本吉村になりました。なぜ志津川ほどの町場が、その名を捨てて本吉村になったのだろう。たぶん、本吉郡の中心としての自負および中心でありたいという願望が込められていると推測します。しかし、そこには「本吉」と言う名の町場はありません。本吉村を名乗ってみたものの、そこにあるのは「志津川」と言う名の町場です。おそらく、どこか不安定でおさまりが悪かったのでしょう。明治28年に志津川町に改称しています。明治期に成立した亘理郡亘理町や登米郡登米町は、そこに「亘理」「登米」と呼ばれる町場があるから、ぶれないのです。しかし、昭和の合併で成立した柴田郡柴田町や牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)などは、いまだに地名としての定着がぶれているように感じられます。

【類型5のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
白石白石本郷白石町(刈田郡)なし
大河原大河原村大河原町(柴田郡)なし
船岡船岡村船岡村(柴田郡)なし
村田村田郷村田村(柴田郡)なし
角田角田本郷角田町(伊具郡)なし
丸森丸森村丸森村(伊具郡)なし
金山金山本郷金山村(伊具郡)なし
岩沼岩沼郷岩沼町(名取郡)なし
中新田中新田村中新田町(加美郡)なし
宮崎宮崎村宮崎村(加美郡)なし
古川古川村古川町(志田郡)なし
三本木三本木村三本木村(志田郡)なし
岩出山岩出山本郷岩出山町(玉造郡)明治5年岩出山本郷が岩出山村に変更
田尻田尻村田尻村(遠田郡)なし
高清水高清水村高清水村(栗原郡)なし
築館築館村築館村(栗原郡)明治8年築館村と成田村が合併して築館村
岩ヶ崎岩ヶ崎村岩ヶ崎町(栗原郡)なし
沢辺沢辺村沢辺村(栗原郡)なし
金成金成村金成村(栗原郡)明治8年金成村と畑村が合併して金成村
若柳若柳村若柳町(栗原郡)なし
石森石森村石森村(登米郡)なし
米谷米谷村米谷村(登米郡)明治8年米谷村と楼台村が合併して米谷村
小野小野本郷小野村(桃生郡)なし
鹿又鹿又村鹿又村(桃生郡)なし
気仙沼気仙沼本郷気仙沼町(本吉郡)なし
類型5は、町場・藩政村・新町村が共に同名のケースです。藩政村と新町村が同名のため、一般には藩政村名を継承したと思われているようです。それを否定するつもりはありませんが、町場名も大きく影響しただろうと私は思うのです。なぜなら、ここで取り上げた46ヶ所の町場は商業活動を許された町場ですから、大なり小なり都市性格を有しています。このような町場のネームバリューは、藩政村の名を上回っていたのではないでしょうか。それは、類型1から推測できます。類型1は町場名と藩政村名が異なりますが、すべて藩政村名を捨てて町場名を新町村名に採用しています。その逆に、町場名を捨てて藩政村名を新町村名に採用した自治体はありません。類型5で風変わりなのは古川です。通称「古川」と呼ばれる町場は、藩政村でいうと古川村・大柿村・稲葉村・中里村に跨がっていました。新幹線古川駅の開業で中心街が駅前に移動するまで、古川の中心街は七日町でした。しかし、この七日町は地籍上は古川村ではなく大柿村の内にあったのです。でも、江戸期や明治期の人は七日町界隈に行くことを、「大柿村に行く」とは言わずに「古川に行く」と言っていたと思うのです。

近年、地図や道路案内板やネットを見ていると、公称が本流で、通称は傍流に押しやられ過ぎていると感じます。住所に対する感覚が昔と変わってきたので仕方ないのでしょうが・・・。

誤字を1文字訂正しました。
[72164] 2009年 10月 12日(月)09:57:07【1】千本桜 さん
明治期の市町村名に影響を及ぼした町場名
角川地名大辞典は富来町の町名由来を中世以来の院名によるとしています。しかし、明治22年に町村制施行で誕生した富来村の村名決定にあたっては、院名「富来」よりも町場名「富来」が強く影響しているのではないかと思います。中世富来院の区域に位置する藩政村は明治22年、下記のようにA~Gの7村に統合されました。
合併前の藩政村町村制による合併後の新村名
A地頭町村・領家町村など7村富来村
B今田村・東小室村など16村稗造村
C相神村・八幡村など11村東増穂村
D酒見村・大福寺村など4村西増穂村
E風無村・風戸村など3村西海村
F鹿頭村・赤崎村など6村西浦村
G西谷内村・藤瀬村など9村釶打村
過去に富来院に属していたことを理由に富来村を名乗れるなら、A~Gの7村はいずれも富来村を名乗れたはずです。しかし、富来村を名乗ったのはAであり、Bは稗造村、Cは東増穂村、Dは西増穂村、Eは西海村、Fは西浦村、Gは釶打村を名乗りました。なぜAは富来村を名乗り、B~Gは富来村を名乗らなかったのでしょう。それは、すでにAの区域内に「富来」と呼ばれる町場が存在していたからだと思います。推測ですが、Fの鹿頭村やGの西谷内村の人たちは、Aの地頭町・領家町に形成された町場へ行くことを「富来に行く」と言っていたのではないでしょうか。地頭町村や領家町村は地籍上の名称で、これを公称というのでしょう。しかし、それと同等またはそれ以上に「富来」という通称が汎用されていたのだろうと思います。それは、天保国絵図が地頭町村を富木村と表記していることや、正保郷帳が地頭町村の代わりに富木村を用いて「富木村 領家町 町本江村」として高付していることからも推測できます。

公称と通称の混用はどこにでもあることで、能登国でも公称の村名と通称の町場名が混用されています。そもそも、七尾・輪島・穴水という町場はあっても、七尾村・輪島村・穴水村という藩政村はありませんでした。七尾は藩政期の所口村や府中村などに跨がって展開する町場の名称です。江戸期や明治初期の能登の村人にとって、七尾の町に遊びに行くのは楽しみだったはずです。そのとき彼等は「七尾に行く」という言い方を多用し、「所口に行く」という言い方は少なかったと推測します。地名の汎用性としては、公称の村名「所口」より通称の町場名「七尾」が勝っていたように思います。明治22年、所口村・府中村・小島村・藤橋村が合併して町村制下の七尾町になります。同じように、輪島も藩政期の風至町・河井町に跨がる町場の通称です。この通称の町場名「輪島」が明治22年に発足した輪島町に繋がっています。また、穴水も藩政期の大町村・川島村に跨がって形成された町場の通称です。この穴水と言う町場の名が、明治22年発足の穴水村の村名決定に大きく影響していると思います。そして、富来もまた同じだと思います。

公称村名とは異なる通称町場名を持つものとして、[71220]で原ノ町宿(現・福島県南相馬市)、登米宿(現・宮城県登米市)、水沢宿(現・岩手県奥州市)をあげました。以上は、なじみの深い東北地方の中から3例をピックアップしたものです。このような事例は東北地方や能登地方以外にもたくさん転がっています。たとえば美作国の真庭郡(現・真庭市)では、藩政期の垂水村に通称「落合」と呼ばれる川舟港町があり、その名が明治22年に発足した落合村の村名に影響しています。同じく、藩政期の高田村に通称「勝山」と呼ばれる城下&宿場があり、その名が明治22年発足の勝山村に直接結びついています。しかも、高田村は他村と合併せずに単独で町村制の村に移行したのに、あえて勝山村に改称しています。と言うことは、当時すでに藩政村「高田」よりも町場「勝山」の名が地名として勝っていたのでしょう。勝山・落合と並ぶ真庭郡の拠点町場に「久世」がありますが、こちらは藩政村名も「久世」、町場名も「久世」ですから問題はなかったようです。

公称村名より通称町場名が勝っていたために改称したと思われる事例は宮城県にもあります。藩政村の小堤村は単独で町村制の町に移行したのに、町場名をとって亘理町に改称。同じく今村は吉岡町に改称。馬場谷地村は涌谷町に改称しています。岩手県の遠野や広島県の竹原もそうですね。藩政村の岩手県横田村は単独で町村制の町になり遠野町に改称。広島県下市村も単独で町村制の町になり竹原町に改称しています。亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原の共通点は、明治期に警察署が置かれたことからも分かるように、地域の中心性を担った町場だということです。このような場合、公称の村名より通称の町場名の方がステータスが高くなるのでしょう。小堤村、今村、馬場谷地村、横田村、下市村がそれまでの公称村名を捨て、通称町場名の亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原を新自治体名に採用したのは、そのような背景があってのことではないでしょうか。もっとも、亘理、遠野、竹原については、郡名、通名、荘名などの広域地名も絡んでいますから、それらと町場名の複合由来とすることもできます。しかし、直に影響を及ぼしたものは何かをつきつめれば、江戸期の町場名が明治期の町村名に影響している可能性は非常に高いのです。角川地名大辞典は宮城県亘理町の項で下記のように記述しています。
明治22年~現在の亘理郡の自治体名。小堤村の街衞地域を古くから亘理駅と称していたことから町名に採用。
小堤村の町場が古くから亘理駅と呼ばれていたので、新自治体名は「小堤」を用いず「亘理」にしたと言うことです。郡名、荘名、郷名などの広域地名と同じ名称の市町村については、その名称由来を郡名、荘名、郷名にあるとするだけでなく、域内に郡、荘、郷と同名の町場が存在していないかを確認する必要があると思うのです。

城下町、宿場町、港町、在郷町といった町場は、元来それ自体が一つの施設だろうと感じています。施設ですから名称が必要になります。その名称が地籍上の村名と同名の場合もあれば、異なる場合もあったのでしょう。

書込み訂正機能で下記のとおり訂正しました。
明治22年発足の穴水町の町名決定→明治22年発足の穴水村の村名決定
[72073] 2009年 9月 26日(土)11:09:40千本桜 さん
富来・西海の冠称
志賀町に移行した旧富来町域の住所は、自治体+大字+小字+番地で機能しますから、理論的には地区名(明治22年から昭和29年までの村名)を付さなくても住所として成り立ちます。しかし、実態は地区名を付す地区もあれば付さない地区もあって、統一されていません。。
1・富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付す
2・西海地区は大字名の前に地区名「西海」を付す
3・福浦地区は地区名を付さない
4・熊野地区は地区名を付さない
5・稗造地区は地区名を付さない
6・東増穂地区は地区名を付さない
7・西増穂地区は地区名を付さない
8・西浦地区は地区名を付さない
富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付けます。西海地区も大字名の前に地区名「西海」を付けます。しかし、福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区は大字名の前に地区名を付けません。どうして、こんなふうになったのでしょう。それが話題の発端でしたね。これに関しては、EMMさんとokiさんが「富来」「西海」の冠称を考察しておられますが、いずれも現段階では推測の域を出ておらず、明確な答えに至っていないようです。お二方にしてそうなのですから、私などには難しすぎて分かるはずもありません。思いますに、合併がらみの住所取り扱いは、往々にして論理よりも情緒に左右されたりするものです。情緒に左右されて決定したものを当事者不在のままあれこれ考えても、結局は推測の域を出ないで終わるでしょう。いっそのこと、当事者の町役場に問い合わせてみたらいかがでしょう。たった4年前のできごとですから、いきさつを憶えている方もおられるはずです。ただし、「富来」「西海」の冠称理由が明らかになったとしても、なぜ他の地区は地区名を冠称しないのかという疑問が残ります。それに対しては、「他の地区からは地区名の冠称要望がなかったから」という、あっさりした他人事のような答えが返ってきて肩透かしを喰らいそうな気がします。ですから、仮説→検証→考察などと堅苦しいことを言わずに肩の力を抜いて、もっと自由に地域を考えることを楽しみましょう。私は、そのようにします。

「富来・西海地区」と「他の地区」の扱いが異なるということは、両者に何らかの地理的相違があってのことかも知れません。地形図を用いて相違点を探してみたいと思います。最初に、次の手順で五万分の一地形図に各種境界線を描き入れます。
1・五万分の一地形図4面「剣地」「穴水」「富来」「七尾」を接合して1枚の地形図にします。
2・地形図に描いてある旧富来町の境界線を太く赤い線でなぞります。
3・Yahoo! 地図などを参照して、地形図に大字の境界線を細く赤い線で描き込みます。
4・富来・西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の境界を太く赤い線でなぞります。
5・各大字の機能中心地点を探し出し、それぞれの位置に赤い点を落します。
こうして、地形図に自分の手で境界線を描き進むうちに、大字の領域と集落の関係が見えてきます。小さな村落が多い中、小規模ながら町並みを形成している集落も見られます。赤崎、風無風戸、酒見、地頭町領家町高田、福浦港などです。このうち、赤崎、酒見、福浦港の町並みは、それぞれの帰属大字にすっぽり収まって、他の大字にハミ出ていません。ところが、風無と風戸の町並みは途切れることなく連続し、大字界を跨いで一つの町並みになっています。同じように、地頭町、領家町、高田の町並みも連担して、三つの大字に跨がって一つの市街地を形成しています。このような場合、藩政村や大字と言ったククリではククリ切れない別種のククリ感覚が生まれるはずです。

町の場末の縄のれんで、鳥羽一郎さん、金井克子さん、瀬川瑛子さん、ちあきなおみさんが、「浦霞」「一ノ蔵」を注ぎながら、「富来」の話で盛り上がっています。三重県出身の鳥羽さんが、宮城県の酒を呑んでも、富来の話をしても、よそ者が出過ぎるな、などと言う人は誰もいません。ちょうちん一つ、椅子五つ、他人の肩も気にならぬ。そんな小さな居酒屋での会話です。
【鳥羽一郎】俺は、♪「兄弟船」を唄うたび、風無と風戸の村を思い出すんだ。
【金井克子】♪「波の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている」という歌でしょう。「命の花」ってなに?。
【鳥羽一郎】「命の花」とは、風無と風戸ことさ。二つは兄弟のように繋がって海辺に張り付いているだろう。
【瀬川瑛子】ほんとだわ。風無と風戸の家並は連続しているのね。
【ちあきなおみ】そーね。風無と風戸は二つで一つなのね。もう切り離せないという感じ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、風無・風戸を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが西海さ。
【瀬川瑛子】私はね、♪「命くれない」を唄っていると、地頭町と領家町が浮かんでくるのよ。
【鳥羽一郎】♪「生まれる前から 結ばれていた そんな気がする 紅の糸」か。地頭町と領家町を表わしてるね。
【金井克子】地頭町と領家町も二つ併せて一つの町場になってるわ。まるで夫婦の関係ね。
【鳥羽一郎】♪「だから死ぬまで ふたりは一緒」というわけか。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町と領家町も二つで一つよね。高田を加えると三つで一つ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、地頭町・領家町・高田を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが富来さ。
【ちあきなおみ】私の歌に♪「さだめ川」というのがあるけど、知ってる?。
【瀬川瑛子】♪「あなたの愛に 次の世までも ついて行きたい 私です」という歌でしょう。
【鳥羽一郎】「次の世までも・・・」って、富来町が消滅して志賀町に移行することを暗示してるね。
【ちあきなおみ】そーね。富来町がなくなっても、風無と風戸は西海というククリの中で結ばれていたいのね。
【瀬川瑛子】そーよ。志賀町になっても、地頭町と領家町は富来というククリの中で結ばれていたいのよ。
【鳥羽一郎】もしもだよ、風無と風戸の町並みが山で断絶されていたなら、どうなるだろう。
【金井克子】そのときは、♪「他人の関係」よ。♪「あなたはあなた そして私はわたし」という感じね。
【鳥羽一郎】風無は風無、風戸は風戸か。すると「西海」というククリ感が弱まるだろうな。
【瀬川瑛子】地頭町と領家町の町並みが農地や山林で分断されていたなら、どうなるの。
【金井克子】もちろん、♪「他人の関係」よ。♪「地頭は地頭 そして領家は領家?」という感じね。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町や領家町の前に「富来」を付けたいという気持も薄らぐわね。
【瀬川瑛子】結局、「富来」「西海」を付けたのは、大字と集落の関係にも原因がありそうね。
【鳥羽一郎】まあ、少しはね・・・。そんなところだろう。
こうして、地理談義に盛り上がりながら、場末の縄のれんの夜は更けて行くのでした。もちろん、これはフィクションです。どのように受けとめるも、読み手の皆さん次第です。ただ、私がはっきり言えることは、大字と集落の関係の処理がお粗末になってしまった町が東北地方の某所にあるということです。そして、旧富来町は、まだそのような事態におちいっていないので救われるということです。

ついでに、旧富来町(石川県志賀町)と旧河北町(宮城県石巻市)の大字を比較してみます。両町を比較するのは、面積が同じで人口も似通っているからです。面積と人口は1965年の数値です。
【旧富来町】
面積=124平方km、人口=15,000人、大字数=59、大字の平均面積=2平方km、大字の平均人口=254人、中心になる大字=地頭町・領家町、中心になる町場名=富来。
【旧河北町】
面積=124平方km、人口=19,000人、大字数=17、大字の平均面積=7平方km、大字の平均人口=1,118人、中心になる大字=相野谷、中心になる町場名=飯野川。
両町を比較すると、旧富来町の大字は旧河北町の大字に比べて小規模なことに気が付きます。人口の少ない大字とその人口を書き出します。人口は角川地名大辞典を参照しました。
【旧富来町の人口の少ない大字、人口100人以下の大字】
深谷0人、大鳥居3人、六実8人、灯9人、八千代10人、中泉13人、江添20人、香能20人、日用23人、楚和30人、入釜47人、地保52人、日下田53人、阿川55人、切留65人、生神67人、豊後名73人、八幡座主74人、牛下77人、栢木77人、広地77人、草江80人、大西85人、荒屋86人、小窪87人、尊保89人、田中93人、谷神93人。
【旧河北町の人口の少ない大字、人口1,000人以下の大字】
北境241人、尾の崎312人、馬鞍406人、東福田448人、成田520人、中野566人、皿貝634人、中島697人、長面762人、福地870人、針岡870人、釜谷891人、三輪田940人、大森954人。
旧富来町には人口100人以下の大字が28ありました。現在ではもっと増えていると思われます。それに対し、旧河北町には人口100人以下の大字がありません。大字の規模が明らかに異なっています。旧富来町深谷は人口0人ですから集落はありません。能登の大字は歴史的に一大字一集落とはいうものの、現実において大鳥居、六実、灯、八千代、中泉、江添、香能、日用、楚和などが単独の集落として成り立っているのだろうか?と、ふと思うのです。

[71891] oki さん
「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、
富来院、富来郷といった遠い過去へのノスタルジアより、合併で消滅しようとしている富来町への惜別の思いが「富来」を冠称させたのだと思います。まして、富来地区住民にすれば、西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の住民よりも、その思いは強かったことでしょう。

[71997] oki さん
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
とすると、[71947] で今川焼さんが紹介して下さった陸奥国白河郡石川郷も除外対象になると思います。中世に白河郡から石川郡が分郡してますので。また、現行石川町の名称由来が石川郡にあるのかと言うと、一概にそうとも言い切れません。明治7年に藩政村下泉町村、内槇村、外槇村、高田町村が合併して石川村が生まれましたが、すでに江戸期より下泉町村、高田町村に跨がる町場は「石川町」と呼ばれていました。明治7年発足(明治22年町制)の石川村は江戸期の町場名「石川町」に由来し、昭和30年発足の石川町は明治22年町制施行の「石川町」に由来しているとも考えられるからです。もし、昭和30年発足の石川町の名称が郡名由来だとすると、同じ石川郡に属していた浅川町、平田村、玉川村、大東村が、なぜ石川町または石川村を名乗らなかったのかと言う疑問が残ります。

[72059] 白桃 さん
岡山、倉敷周辺は「小都邑」が一杯あって複雑怪奇、結構面白いですよ
それが、岡山県東部の海寄りの地域になると、片上、伊部、牛窓、長船、邑久など「小都邑」というよりも「小小都邑」ばかりで、なかなかのみこめません。特に、藩政村「尾張」を中心とした自治体が、郡名と同名の邑久町を名乗っていたのが複雑怪奇。和気を知りたい。それにしても牛窓って、「窓」がつくから覗き見したくなりますね。一度はぶらり町歩きをしたくなるような旅情をかき立てられる地名です。
[71771] 2009年 8月 23日(日)20:32:25千本桜 さん
了解しました
[71767] オーナー グリグリさん
了解しました。グリグリさんにまでご心配をおかけいたしまして申し訳ございませんでした。


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