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NTJ会長さんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[34690]2004年11月1日
NTJ会長
[34689]2004年11月1日
NTJ会長
[34686]2004年11月1日
NTJ会長
[34680]2004年11月1日
NTJ会長
[34679]2004年11月1日
NTJ会長
[34678]2004年11月1日
NTJ会長
[34624]2004年10月31日
NTJ会長
[34592]2004年10月29日
NTJ会長
[34591]2004年10月29日
NTJ会長
[34590]2004年10月29日
NTJ会長
[34558]2004年10月28日
NTJ会長
[34541]2004年10月27日
NTJ会長
[34538]2004年10月27日
NTJ会長
[34536]2004年10月27日
NTJ会長
[34483]2004年10月25日
NTJ会長
[34482]2004年10月25日
NTJ会長
[34222]2004年10月15日
NTJ会長
[34153]2004年10月13日
NTJ会長
[34151]2004年10月13日
NTJ会長
[34150]2004年10月13日
NTJ会長
[34137]2004年10月13日
NTJ会長
[34117]2004年10月12日
NTJ会長
[34116]2004年10月12日
NTJ会長
[34114]2004年10月12日
NTJ会長
[34113]2004年10月12日
NTJ会長
[34112]2004年10月12日
NTJ会長
[34111]2004年10月12日
NTJ会長
[34108]2004年10月12日
NTJ会長
[33956]2004年10月8日
NTJ会長
[33863]2004年10月6日
NTJ会長

[34690] 2004年 11月 1日(月)17:37:27NTJ会長 さん
「誘致」という言葉には違和感を感じますが…
現在、尾久駅の住所は北区昭和町です。中里にはありません。また尾久車両センターも上中里になります。
ごめんなさいね。地名は当時と現在では違うかもしれないです。
もしくはあたしの聞き違いと思います。
ただ、「尾久駅は尾久には無い」という部分がポイントだったのですが。


でも、コレだけは多少の自信を持ってお答えできそうです。
私もこの説を支持しているのですが、だとすると尾久駅が住民から誘致されたと考えるのは難しい。むしろ尾久に駅をつくろうとしたに対して、三業地でにぎわう尾久住民が、「こんなところに駅をつくるな。つくるなら湿原のところにつくれ」とかなんとか言って、現在の貝塚近辺に操車場や駅をつくらせたのではないかと私は考えます。
この説は流石に、見当違いのようです。
まず、始めに「予定路線ありき」で、そこで、「通すなら駅を作れ」となった模様。
隣接する「田端」も「中里」も、同じ郡の「千住・三河島・日暮里」にも駅があるのに、「尾久」には無いじゃないと。
つまり「鉄道」を誘致したのではなく、「そこに線路を通すなら、駅も作れ」という事のようです。
だいたい、「誘致」という言葉自体、路線そのものを誘う意味の言葉ですよね?
「誘致」ではなくて「代償」ではないかと。
「路線を通すなら、駅も作れ」という、極めて現代的な発想ではないかと思います。

逆に駅を遠地へ追い払うような行為は、明治期に鉄道がまだ周囲に無かった時代の発想でしょう。
昭和初期、それも目の前に通勤電車も通ろうという時代に「つくるなら湿原のところにつくれ」は無いでしょう。
っていうか、地図を見れば判るとおり、日暮里から王子方面へ抜ける路線の別線を作ろうというのに、尾久の中心部まで路線を曲げるなど、ほとんど不可能に近い話です。
本来であれば、現電車線に並行して路線を作りかったところ、用地不足で田端操車場の東へはみ出す位置に辛うじて敷設できたのであって、さらに東へ路線を曲げるなど、鉄道側には全くメリットの無い話。
元来がこのルート、遠距離の旅客列車用の退避ルートなのですから、鉄道側は「あまり駅を作りたくは無かった」というのが、正直な所ではないのでしょうかねぇ。
なんせ、現代では「都心の過疎駅」化しているくらいですし。

尾久駅の開業よりも、王電の方がはるかに早く開業してます。王電の沿線と交通の便や三業地のにぎわいと相まってすでに尾久近辺はかなりの市街地の様相を呈していたはずです。
あたしはコレも、かなり疑問ですねぇ。
飛鳥山下-三ノ輪橋間は大正14年11月に開業との事なので、「三業地として市街化していたから」同区間を延長したのではないでしょうか。
ちなみに王電が伸延してから国鉄尾久駅が開業するまでは、僅かに三年半ですね。
対して「北の大貨物ステーション」田端操車場は明治の誕生ですね。

そこからのあたしの推定では、案外、「始めに田端操車場ありき」なのではないでしょうかねぇ。
頭脳労働系に分類されながら、実質3Kであり体力勝負でもある鉄道員と、艶町の発展は無関係には思えないんですよ。
・・・親父に聞いたら、そのあたり教えてくれるかなぁ・・・無理かなぁ、流石に・・・
[34689] 2004年 11月 1日(月)16:18:04NTJ会長 さん
偶然の産物。
みかちゅうさん、またも湖水の島コレです~。

他の情報を求めて地図を調べているうちに、こんなものを見つけてしまいました。
住所は「新潟県中頸城郡清里村大字馬屋」、湖沼名はゼンリン住宅地図サービスによると「谷入池」の模様です。

・・・あと「島名なし」をなんとかしたいな~
何割かは、きっと「島名不明」なだけの気がするので・・・
(いよいよ、現地調査しか、ない?)
[34686] 2004年 11月 1日(月)14:41:42NTJ会長 さん
報告・尾久の話
[34552][34566] special-week さん
尾久関連について、お約束通り親父に確認してきました。
ど~も、記憶だけで書くと嘘を言ってしまう証拠みたくなってしまっていたようです(汗

最も肝心な点から延べますと、「尾久駅」の設置は、住民の要望によるものだそうです。
当時、旧線の電車専用線化に伴って、列車線を設置したとき、そこへ駅を作るように最も強く運動を展開したのが、「尾久」の住民だったのだそうです。
その結果、中里に在りながら「尾久」という駅名になったということです。


ただ、やはり尾久駅の利用者は、鉄道関係者、それも尾久機関区の関係者が大半を占めていた模様です。
尾久機関区の機関士は、八割方が高崎方面からの居住者で、その通勤には尾久駅を使っていたとのこと。
ただし、親父は通勤方向が逆なので、尾久駅は一度も使った事が無いと言っていました。
通常は田端駅、しかし、都合の良い上野から尾久への回送列車があると、それに便乗していたとのこと。
また、尾久駅ではたしかに「改札口」は荒川区側にしかありませんが、鉄道勤務者は改札なんか通らずに、ホームから直接線路へ降りて、機関区へ向かっていた模様です。
上中里から民家の間を抜けるよりも、「自分の敷地」である操車場内を横切ったほうが安心(?)だったという所でしょうかねぇ?
※ 鉄道職員は、多分に回送列車を利用したり、線路上を平気で渡ったりしてた訳ですね。
※ と、言うか、あたしもそういう光景を何度も見た覚えがありますね。
※ 現在でこそ地下道も必要かもしれませんが、鉄道職員には、無用だったということのようです。
※ このあたりは、安全に関する考え方の遍歴を追う必要があるのかもしれません。


ちなみに、駅名等の遍歴は、以下のようになる模様です。
 ・当所は「上野機関庫」が有った。
 ・当所より、「上野」は旅客、「田畑」は貨物という仕事分けになっていた。
 ・「上野機関庫」は、関東大震災で消失し、田端へ合併(?)された。
 ・しかし、操車場機能は旅客と貨物では全く異なるため、旅客専用の「貝塚操車場」が設置された。
 ・大正15年10月、「田端機関庫貝塚給水所」が創立された。
 ・昭和4年6月、尾久経由の列車船開業。「貝塚操車場」は「尾久駅」となる。
 ・昭和5年9月、「田端機関庫尾久分庫」となる。
 ・昭和14年10月、尾久機関区として独立。
 で、旧上野機関庫所属の職員は、大半が尾久機関区所属になったのだそうです。

あと、操車場と駅の関係ですが、旧国鉄の用語では「客扱い、もしくは荷扱いをするか否か」の差なのだそうです。
(現在のJRの用語では、どうなっているかは、わかりません。)
「操車場」が「駅」になったというと一般には奇異な感じを受けますが、どうも国鉄時代には、尾久操車場は尾久駅の構内という扱いだった模様ですね。
(ここ、細かく聞くのを忘れました。再確認が必要ですね…)
また、「貝塚操車場」が客扱いをするようになったったとき、名称が「尾久駅」となったので、「田端機関庫貝塚給水所」は「田端機関庫尾久分庫」へと名称が変わった模様です。
(ちなみに、「尾久の住民が強く運動しなければ、駅が出来た場合には『貝塚駅』だった筈、と言ってました。)


あと、尾久機関区と田端機関区の仕事分けについても大幅に覚え違いしてました。
尾久は当所より高崎線・東北本線の旅客列車扱いが主務で、後に水戸機関区より常磐線の旅客列車扱いを引き継いだのだそうです。
田端はずっと、貨物列車扱い専門だったとのこと。
で、従って下山事件の該当列車は田端操車場から出発していますが、機関車は水戸機関区所属、当時は基本的に同機関区の機関士が常務する規約だったそうなので、「機関士も水戸機関区の筈」とのことでした。


あたしの親父は古参の鉄道マニアみたいなモノで好きが嵩じて機関士になったような人間です。
なので、この方面の話題へ水を向けると、実に様々な話が出てきてしまいます。
その方面に興味のある方には、おそらく興味深い話題が多いと思うのですが、あまりに濃すぎるのでこちら向きでは無さそうです…
[34680] 2004年 11月 1日(月)11:15:16NTJ会長 さん
御成街道の命運?
[34661] EMM さん
ここを見ると、東金御成街道は佐倉城主・土井利勝が家康に気をつかって造ったもの、とあります。
(中略)
いずれにせよ、御成街道が造られたのは徳川家の権力の元での話には違いないのですが、まっすぐになったのは土井利勝の一存、と言うことのようです。
なるほど、そっちの絡みでしたか…
あたしはどうも歴史よりも地理へ傾倒する傾向が強いので、作られた経緯はかなり適当でした。(スミマセン)
郷土史研究会に属していながら、「古道が現状、どのようになっているか?」「この道は、いつ頃作られたか?」などといった方面ばかり、追っていた気がします。
その中で御成街道は、地図上では一直線で作られた経緯から言っても準一級の街道ですので、なぜ、この道が廃れたのかには興味がありました。
歴史的に「なぜ」ではなく、物理的に「なぜ」です。
で、結局のところ最大の理由は、「悪い道だったから」に尽きるのかもしれません。
「悪い道」になってしまった原因は、「一直線に作った」という点へ収斂されます。
北総台地はごく初期の幼年台地地形です。
平坦な準平原へ狭く浅い谷(谷津)が、複雑に進入した地形です。
台地上への降雨はほどんどが伏水流となって、そうした谷津周辺へ集まってきます。
その谷津を横断する形で道を作り「土橋」を儲けた結果、谷津上流側には必然的に池が出来、降雨とともに溢れて道を破壊することになります。
御成の際は、全線整備を行うので問題は無かったのかもしれませんが、平素に使える道では無かった、という事のようです。

ここまで書いて思うことは、この道「軍用道路」説が強いのですが、現実には軍用にすら向かなかった、「仮普請道」だったのかもしれません。
とはいえ、台地上では問題は無かった筈なので、街道筋自体は生き残ったという事でしょうね。
[34679] 2004年 11月 1日(月)11:07:05NTJ会長 さん
並べ方~
[34666] ゆう さん
郵便番号の場合、郵便番号簿の「以下に掲載がない場合」の番号で代表させれば並べられそうですね。でも政令指定都市はどうしましょう…。それから1桁目の“0”を“1”の前にするか“9”の後にするかで流儀が分かれそうです。
「100-0001 千代田区 千代田」
郵便番号制定の要因はコレを先頭へ持ってくる事ではないかと思いますので、解答は決まってしまっているような。
"0"で始まる地域は、あとから分割追加した場所ばかりですよね?

> 素朴な疑問なんですけど、市外局番='0'+郵便番号 なんて場所は有るんでしょうかねぇ?
どうやら、なさそうです。惜しいのは次の3県辺りです。
あ~、意外なほど重ならないんですねぇ。
あたしは、「沖縄あたりには有るんじゃないか?」と推定していたのですが・・・(ちょっと残念です。)

[34434]Issieさん
どちらがお好みですか?
「札幌市」もよろしく~

☆意表を突いて、経度順、緯度順というのもアリなのかも?
[34678] 2004年 11月 1日(月)10:53:00NTJ会長 さん
(申請書が)溶解人間?
[34638] オーナー グリグリ さま
メールボックスの隅々を探したのですが、引っ越しのドタバタに紛れて紛失してしまったのか、登録申請のメールが見あたりません。
はぅぁ、了解いたしました。
結構、細かく調整した色合いなので、自宅へ帰って「申請受付メール」を確認して、再申請させて頂きます~。
CGIとかは結構、想定外の動作をしてくれたりするので、そういうのはアリガチですね…
[34624] 2004年 10月 31日(日)00:04:30NTJ会長 さん
人間になれない訳(^^;
[34601] みかちゅう さん
いえ、とっくに申請してますです、半月以上前に・・・(^^;
と、言うわけで、グリグリさんの体調が、早く良くなることを祈るばかりです。
・・・それとも・・・却下されちゃったのかしらん?

次に図書館に調査しに行くときには結局忘れてしまっているので本当に助かります。
あぁ、迷惑かな~、などと思っていたのですが。
よかった・・・(^^)
[34592] 2004年 10月 29日(金)19:36:21NTJ会長 さん
湖水の島コレクション・・・その3・・・
うぅぅ・・・
はやく人間になりた~ぃ・・・じゃなかった、はやく書き込みを修正できるようになりたい・・・

みかちゅうさん、さらに調査情報です。
☆香川県
観音寺市 (古川町)→ 航空写真
市のサイトにあった航空写真です。
コレを見ると、島というには語弊がありそうな・・・
下側の方形の公園化されているらしき部分は、まぁ、島っぽくありますが・・・

早明浦ダム湖名 → 早明浦湖
ダム関連のサイトに、ダム湖名が明記されていました。

(調査は続く・・・?)
[34591] 2004年 10月 29日(金)19:06:42NTJ会長 さん
湖水の島コレクション・・・
みかちゅうさん、「再調査予定の島を勝手に確認し隊」のNTJ会長です。(ぉぃ
以下、確認してきました~

☆福岡県
夜須町 中島池 (島名なし) 備考:ゼンリンの住宅地図サービスでは、本土に地続き。

ほぼ間違いないという所までいったのですが、湖水名を確実に確認するために、とうとうゼンリン住宅地図にまでアクセスしてしまいました・・・(^^;
とりあえずコレで、未確認はまたゼロですかね~?
[34590] 2004年 10月 29日(金)18:20:12NTJ会長 さん
湖水の島コレクション 追加候補。
みかちゅうさん、こんなの見つけちゃいました・・・

精進湖 (島名不明) 他に3つの島あり (ウォッちずでは、計6つあり、下方の小湖にも3島あります。)

みかちゅうさんの条件は満たしているようですし著名な湖の島なので、たぶん編集時の記載漏れじゃなかろ~かと・・・
[34558] 2004年 10月 28日(木)11:14:31NTJ会長 さん
しばらくおまちくだい・・・・m(__)m
[34552] special-week さん
ちょっとお伺いしたいのですが、この尾久は常磐線が担当だったのはいつぐらいの話でしょうか?1949年に起きた下山事件で、下山総裁をはねたとされる常磐線の列車は、田端機関区の列車です。これ以前ならともかく、これ以後に田端は東北本線と言われると、ちょっと違和感があります。
親父に、田端機関区と尾久機関区の役割分担を確認してみます。
すみませんが詳細はしばらくおまちください・・・

一応、確認できた事だけ、挙げておきますね。
 ・尾久機関区所属の機関車は「旅客用」だったらしい(だから、エリート意識が高かったのかも?)
 ・下山事件の轢断列車は、貨物編成で、運転士は田端機関区所属、機関車は水戸機関区所属だった
 ・列車運用の関係で、機関士、機関車とも、例外は多数あったらしい

と、いった所のようです。
なので、旅客の線区が「担当」なだけで、「専用」ではなかったのかもしれないです。
細かいことは、土日にでも確認してまいります~
[34541] 2004年 10月 27日(水)18:18:03NTJ会長 さん
アーカイブズ:どうして尾久駅はつくられたのか?
このアーカイブズ、「決定解答」が見つからないままになっているように見受けます。
で、あたしの「知っている解答」なぞ。

この駅は、実は通過する「東北本線」ではなく、「常磐線」と関わりの深い駅だったようです。
現在でこそ、「田端操車場」と「尾久操車場」となっていますが、かつては「田端機関区」と「尾久機関区」でしてた。蒸気機関車のねぐら(笑)ですね。
で、田端は東北本線、尾久は常磐線が担当でした。
この「尾久機関区」の従事者向けの駅が「尾久駅」だったというのが、正解らしいです。
つまり、地域住民の利便性には無関係で、国鉄の内部事情によるものだった、と。
同様の例は、総武快速線が新小岩へ停車する理由らしいです。

あと、尾久機関区の所属機関士には、相当なエリート意識があったようです。
さらに、田端機関区に対して、強い対抗意識をもっていた模様です。
そして、上野-仙台間の所要時間を競っていたとのこと。(数分差だった模様)

尾久駅前がかつて栄えていた最大の理由は、この「機関区」関係者の存在によるもだったのではないでしょうか。
(蒸気機関車勤務後は、風呂は必須の要素だったようですし。)

※以上、かつて尾久機関区勤務だった、親父の昔話からの情報でした。間違ってたら、ごめんなさい。
※親父の古いダブルの8ミリフィルムには、在りし日の尾久機関区の実務光景などが残っています。

PS.親父は「おぐきかんく」と発音してました~
[34538] 2004年 10月 27日(水)15:19:35NTJ会長 さん
直線の道は・・・
[34502] さん
30年ほど前までは、「(近世の)東海道や東山道といった幹線道路さえ地形(傾斜)に合わせて曲がりくねっており、
大規模な土木工事を伴う直線的な道路は、近代までほとんど例がなかったのではないか。」と考えられていました。
こう考えられていたのにも不思議は無いですね。
造成以後の御成街道の歴史が、それを物語っています。
当所何代かは、東金牧への鷹狩にこの道を使った模様ですが、以降はほとんど利用されなくなりました。
なんせ、「原野」だった下総台地を直線に抜ける道である上、強引に直線に作ったため、谷地傾斜部ではとんでもない急坂。
庶民がマトモに使える道ではなかったわけです。
船橋から湾岸を寒川村(現千葉市中央区寒川町付近)へ至り、そこから都川の谷地経由で房総半島頸部を横断するのが順当。古来の千葉街道(現国道14号旧道)と東金街道(現国道126号)は、そういった経路を通っています。
結果、御成街道は、寂れた裏道となり、諸所で分断されてゆく事となりました。

・・・ところで
御成街道が一直線に作られた(作られてしまった)理由ですが、個人的には、以下のような経緯だったのではないかと推定しています。

徳川家康>東金牧へ至るまで、経路が複雑で不便じゃ。船橋宿あたりから、東金牧へ至る道を整備せぃ。
某家老>殿が、船橋宿から東金牧へ至る、直通の道を整備せよと仰せじゃ。
某奉行>船橋宿から東金牧への直通道を造成せぃ!よいか、大殿のご意向に在らせられるぞ!
名主衆>ひぇぇ!えらい事になった!船橋宿から東金牧まで、直線の道じゃと!ど~したらいんだっぺかぁ?


鉄道については、道路よりも地形による制約が大きいことや、城下町などでは町外れに駅を作らざるを得なかった
経緯があるので一概には言えませんが、JR(旧国鉄)と私鉄を比較すると、やはりJRの幹線は主要都市間の連絡
を主眼に置き、旧来の集落を軽視した「権力寄り」の構造を持っているように感じられます。
むしろ、「無視」に近いかもしれません。
一方で「旧来の集落」側にも問題があったようです。当所は、佐倉から銚子へ、ほぼ直線で伸延する計画だったのですが、経由地の芝山が鉄道通過に強く反対し、結局、横芝・成東経由で銚子に至る路線となりました。
(岡蒸気のような喧しいモノを通したら、仁王様がお怒りになる、という理由だったそうです・・・)
他方、佐倉から成田、利根川沿い経由で銚子へと至る路線も建設され(現成田線)、芝山は陸の孤島の如く取り残される事になります。
かつて、成田不動尊と人気を二分する程であった芝山仁王尊は寂れてゆく事となります。
後年、芝山の地が再び脚光を浴びるのは、再びの建設反対運動、成田空港問題の時を待たねばならなかったのは、因縁的でもあります。
そして・・・空港建設の見返りとして、芝山にはついに鉄道が・・・
[34536] 2004年 10月 27日(水)14:11:03NTJ会長 さん
四街道のこと。
[34498] 両毛人 さん
ちなみに、拙ページには、掲示板「地域の旅人」がありますので、こちらへメッセージを頂けますとありがたいと存じます。
書き込みさせて頂きました。イキナリ書いて良いものやら、二の足を踏んでいたところでした。

[34516] ken さん
両毛人さんに案内されて、[4108]へも辿り付きました。

実は私は、かつて四街道市(当時は町)の郷土史研究会に属していまして、そこの先生は四街道の町史を編纂された方でした。
その一環で、「四街道」の地名発祥について詳細に探求したところ、「駅」以前に「郵便局」の開設があり、それが地名発祥の源、とまで突き止めた経緯があります。
さらにそれ以前には四街道十字路は「よつかど」と呼ばれていたという所まで、突き止める事が出来た経緯があります。
「四街道町史」は、現在も四街道市役所で入手可能ではないかと思います。

四街道駅については、「千代田村と旭村の間で、自村への新駅の誘致合戦」は、ほとんど無かった模様です。
なぜなら当時の両村の中心位置と四街道駅を結ぶと良く判ります。
[4110]の引用中図中にある、「大砲試射演習場」の南端位置に駅を設置したというのが事実のようです。
それに両村とも、当時は駅開設を要望できるほどの、規模は無かったようですし。

昭和の合併時の興味深い話としては、千代田町の「北部五部落」と旭村の「馬渡」が佐倉市へ編入になった経緯で、
住民の意向だったという点ですね。
※部落という呼称は、当地では差別用語ではなく、ごく普通に「集落」の意味合いで使われていたようです。
その結果、誕生した四街道町にはちょっとした「謎かけ」が残る事になりました。
『町で一番北にあるのに「南小」とはこれ如何に?』
[34483] 2004年 10月 25日(月)11:13:21NTJ会長 さん
四街道、という地名・・・
[34281]両毛人さん
サイトへのレスをこんな所へ書いてしまってすみません、各位殿。

さて「四街道」という地名ですが、実は陸軍の関係で作られた「郵便局」が由来というのが、現在の定説になっております。
下志津原の、特に周囲に何も無かった場所に作られた郵便局であったため、石碑のあった位置の「よつかど」から、「四街道」という名を創作、郵便局名に付与、その後開通した総武鉄道の駅名にも採用され、地名として定着したようです。
市名の由来を追うと郵便局名に行き着いてしまうというのも、珍しい例かもしれません。

四街道は誕生が純粋軍都であっため、「最繁栄期」は歴史的関係から戦前末期までといえるかもしれません。
戦後、学都を目指す動きもありましたが、諸般の事情により頓挫、現在では千葉市周辺のベッドタウン以上の意味合いを持てないナミの小都市となってしまいました。
現在の住民の大半は、旧開拓地等を転用したニュータウンへの流入人口で占められています。

なお、四街道駅は、軍事目的の駅であったため、千葉と佐倉の都市の中間駅であるにも関わらず、長年貨物扱いのある駅で、近年まで興味深い鉄道遺構も存在していました。


また、地名からは離れますが、四街道付近にはもうひとつ、歴史的に興味深い遺構(?)があります。
それは「御成街道」という道で、船橋市から東金市までを一直線に結んだ、旧街道です。
この道、地図上で確認するとその直線ぶりがうかがえますが、現在ではかなり寸断されてしまいました。
直線の道というと近年の産物のようですが、実はこの道、徳川家康が東金牧での鷹狩のために作らせたという、かなりとんでもない歴史を秘めています。
伝承では、別名「一夜街道」とも言われ、周辺農民を総動員した、突貫工事で作られたようです。
さらに「提灯道路」という別名と、こんな伝承も残されています。
『「一直線の道を作れ」と命令をされ、どうやって「一直線にするか」で、工事に当たる農民たちは困惑した。
そのとき、一人の頭の良い子供がおり、「提灯を並べれば簡単だよ」と言った。
それをヒントに昼は旗を立て、夜は篝火を炊いて、一直線の道路を作ることができた。』

・・・この道の歴史も裏を返せば、軍用地接収同様に、権力に翻弄されてきたこの地域の影の歴史を物語っていると言えるかもしれません。

さて、台地・谷地をお構いなしに一直線の道路を作りましたので、狭谷地通過部分は急峻は坂となり、底部では谷地を堰き止める形になりました。
その結果、この道の谷地通過位置には池が出来、現在でもかなりの数が残されています。
前掲の「長沼池」も、たしかこうした池の一つだったと記憶しております。

地名に、そして、地形にも人の歴史あり、ですね・・・
[34482] 2004年 10月 25日(月)10:36:41NTJ会長 さん
長沼原・・・(汗
[34281]両毛人さん
[34286]今川焼さん

あわわ・・・超地元ネタを見落としていたとは・・・(大汗

えっと。
以下、記憶だけを頼りに記載しますね。
「長沼原」は「下志津原」と隣接すると考えても良い原で、両者の境になる位置には小谷津があります。
「長沼」といういう地名の元になった沼は、もともとこの谷地に存在した小沼のようです。
長沼池という名称だった模様ですね。
このページを見ると、「六方野」から「長沼原」や「下志津原」が区分されていった事も推定できます。


さて、両毛人さんのページ、興味深く拝見させていただきました。
地元のことを、こんなに詳しく読ませていただけるとは思いもしませんでした。

ただ、惜しむべくはこの地域特有の、「軍用地への強制接収」という大きな事態を記載されていない事かもしれません。
この地域は、陸軍への接収前には、それなりに開墾された土地もあり、谷地沿いにはいくつかも集落もあったのですが、演習場への接収により、強制的に移住させられたという歴史があります。
(私事ですが、あたしの義伯母の実家は、そうした強制接収に遭って移転させられた集落に属していました。ただ、旧集落名だけは地名として生き残ったようで、両毛人さんの記事にもその名が現れています・・・「宇那谷」という地名です。)
そして・・・
その後広大な軍用地は、御記載のとおり「(昭和20)年に、復員軍人や外地からの引揚者、戦災者などがこの地に入植し、」となる訳なのですが、逆にそれはそうした「強制接収」をされた旧住民へは、土地が返却されなかった事実をも物語っています。

なお、「比較的新しく開発された土地らしく、街路は碁盤目状に区画されており」という部分ですが、実は、軍用の砲撃場だったために旧来の街路が全て破壊されいたのが主要な原因です。
(未開拓だった訳ではないんです・・・)
軍用地内にあった演習用の道路は、そのまま現在の主要道路となっており、「区画された」角度とはこれらの道路は直交していなかったりします。
演習道路の「名残」は、地名にも残されています。「遠近五差路」。これは、「とおちか・ごさろ」と読みます。「とおちか」・・・これ由来は「トーチカ」なんですね。演習弾の着弾確認用のトーチカが、この五差路付近に有ったのだそうです。

「六方野」「長沼原」「下志津原」は、「習志野原」と並んで、旧日本軍による影響を色濃く残した土地でもあります。
同時に、戦後の混乱期に旧来の住民の存在とは無関係に、「引揚者」へ分配されてしまったという歴史も持っています。
「なぜ、開拓が可能であったのか?」という部分に、実は闇の歴史が埋れていたりします・・・
[34222] 2004年 10月 15日(金)13:22:21NTJ会長 さん
山の神といえば・・・
[34214] EMM さん
山がご神体の神社もたくさんありますね。

むしろ、著名な山の大半はご神体かも・・・。
日本では、結構山頂に巨石遺跡が多かったりして、相当に太古(縄文期?)から崇められていたようですしねぇ。
日本神話に多大な影響を与えているギリシャ神話でも神の座は「オリュンポス」ですし、インドでもヒマラヤは神の座と崇められていましたので、山は世界的な信仰対象なのかもしれません。

穿った見方をすれば、エジプトは周囲が砂漠なので目立つ山が無いので、人工的に山を作った…のかもしれないですね。
[34153] 2004年 10月 13日(水)19:28:59NTJ会長 さん
山地コレクション
ぽつぽつ、ぽつぽつ、雨垂れ式ですみません。

讃岐の民さん、山地コレクション、1件見つけてきました。
 新潟県 弥彦山地 やひこ 弥彦村,寺泊町 弥彦山(634m),多宝山(634m) 弥彦神社御神体
サイズは丘陵級ですが、「弥彦丘陵」とは呼ばない模様です。
[34151] 2004年 10月 13日(水)19:03:20NTJ会長 さん
市の配列、別解?
[34032]M.K. さん
[34130]ゆう さん

誰でも知っている例ですが、郵便番号と市外局番もありますねぇ。
ただ、これらの番号順に並べると、かなり不思議な順番になります。(笑
・・・まだやった事は無いんですけど(^^;

素朴な疑問なんですけど、市外局番='0'+郵便番号 なんて場所は有るんでしょうかねぇ?
沖縄あたりにあるかも?とも思うのですが・・・
[34150] 2004年 10月 13日(水)18:56:13NTJ会長 さん
空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ
[34125] EMM さん ・・・地理に縁が薄いのでだいぶ悩みましたが、掲載してしまいます・・・

そのような事があり得ると考えると、ZAT本部の所在地は防御上極めて問題があると言えます。
(ZAT本部は飛行可能で、緊急時は周辺に危害を及ぼさない位置に移動する、と言うことになっていましたが…)
防衛上の問題と言うなら、基地まで怪獣に攻め入られる方が、実は問題ではないかと。
亜米利加で言えば、ペンタゴンに直接攻撃されるよ~なものですよぉ。(攻撃されたけど。)
立地的に考えた場合、ZAT基地は「発信基地」、対してMAC基地は「前線基地」と考えれば理解しやすいのではないかと…
ちなみに化特隊基地は「怪獣研究所」を兼ねていたので、特殊な立地にあり、
ウルトラ警備隊基地は「地下サイロ構造」だったので、地下に有った・・・んじゃないかなぁ。

そういう訳でZAT基地は、「発信基地」と考えると「首都機能防衛」という意味なら最適な場所だったような気がします。
怪獣が襲来する最多コースが東京湾~東京港である事を考慮すると、遥々静岡県or山梨県から首都まで来る事に比べれば、遥かに現実的な気がします。
さらに基地に飛行移動機能まで付与されている事を考慮すると、防衛能力としては十二分な気もしますけどね。

・・・でも
「秘密基地」の発信口がこんなところにあった、ゴレンジャーのほうは、理解不能…


まぁ、「ウルトラマンタロウ」は昭和期ウルトラシリーズの中でも一番子供向けの設定になっている作品なので、そこら辺深く考えられていなかったのかも。
というか、ほとんどお笑い路線でした(^^;
結果、視聴者離れを招いたのも事実…てか、巨大南夕子で見限った一人なので(__;
[34137] 2004年 10月 13日(水)11:08:58NTJ会長 さん
下志津原は、落選かも・・・
[34129] 今川焼 さん
(1)昔から「~原」と呼ばれる野原(原野)で、今もそうである。
(2)昔は「~原」と呼ばれる野原(原野)であったが、今は市街化され「~原」という地名だけが残っている。
(3)昔は「~原」と呼ばれる野原(原野)であったが、今は市街化され「~原」という地名も残っていない。
うわぁ・・・
下志津原はズバリ(2)に該当してます(大汗

[34111]の後日談を書かせて頂きます・・・
戦後、広大な用地は開拓地となり、農地化されてゆきました。
しかしそこで、高度成長時代を迎えます。
このサイトで書くのは釈迦に説法なのですが、東京にはドーナツ化現象が発生し、
急速に郊外へ市街化領域が拡大してゆきました。
さらに、成田空港の建設が始まり、それに伴って下志津原を通過する東関東自動車道が建設されます。
また、自動車道に沿って、航空燃料輸送用のパイプラインが埋設される事になります。
当時の四街道町長はその見返りとして、自動車道の「両側」に側道を建設するよう要求しました。
一方、国鉄総武線は電化され、さらに東京直通の快速列車が運行されるようになります。
下志津原は列車・自動車の両面で、完全に東京の通勤圏内となったのでした。

…現在の下志津原の姿は、もうお判りかと存じます。
ただ、それでもまた辛うじて、周辺領域には広い農地が残ってはいますが、その消滅も時間の問題かもしれません…

少なくとも広辞苑定義の「原」には、もはや完全に該当していません。
定義のフォーマットをお借りしますね。
(2a)昔は「~原」と呼ばれる野原(原野)であったが、今は農地化され「~原」という地名だけが残っている。
 昭和30年代には、こんな状況でした。日本の大部分の原が、こんな状況ではないかと。

(2b)昔は「~原」と呼ばれる野原(原野)であったが、今は宅地化され「~原」という地名と若干の農地が残っている。
 現在は、こんな状況になっております・・・大都市通勤圏では、みんなこんな状況ではないでしょうか。

さらに・・・
(2c)昔は「~原」と呼ばれる野原(原野)であったが、今は完全に宅地化され「~原」という地名だけが残っている。
(2d)昔は「~原」と呼ばれる野原(原野)であったが、今は完全に都市化され「~原」という地名だけが残っている。
と、なるのではないかと。

なお、
(1a)昔は「~原」と呼ばれる荒地(野原では無かったようです)であったが、今は緑地化され「~原」という地名だけが残っている。
麻綿原は、こんな状況です。現在は、麻綿原高原と呼ばれる場合が多いようです。

・・・原コレクション、成因による分類と、現状によるランクを儲けると良いかもしれませんね。
(大変そうですけど・・・)
[34117] 2004年 10月 12日(火)18:47:28NTJ会長 さん
湖水の島コレクション、参考展示品(その3)
ううう・・・自分色登録してないと、書込訂正できないんですね・・・

湖水の島コレクションで、「位置確認中」になっていた部分を調査してきました。

三重県 いなべ市(旧・大安町)
 両ヶ池 (島名なし)

大阪府 堺市
 菅池 (島名なし) MapFanWeb
 鶴田池 (島名なし) MapFanWeb

堺市内では、こんなのも見つけました
 城ヶ池 島名不明 MapFanWeb
 大泉池 島名不明 MapFanWeb ウォッちずでは島。

修正する場合に、ご活用いただければ幸いです、みかちゅうさん・・・。
[34116] 2004年 10月 12日(火)17:46:20NTJ会長 さん
湖水の島コレクション、参考展示品(その2)
なんだか、やたら連続書込すみません・・・・
日本三名園には、何れも当然の如く池に島がありますねぇ。
 石川県 兼六園
 茨城県 偕楽園
 岡山県 後楽園
こうしてみると、「公園内の島」も、採用すべきか否かが微妙ですねぇ・・・
[34114] 2004年 10月 12日(火)17:32:42NTJ会長 さん
湖水の島コレクション、参考展示品…
あまり、参考にはならないと思いますが、一応、記憶にある「千葉県内の、公園内の島」を集めてみました。
みかちゅうさん、採用の当落は、お任せいたします・・・
富津市 富津公園内・大池 島名不明 (島の規模は十分だが、これを湖水と呼ぶか否かが…)
千葉市 千葉公園内・綿打池 島名不明 (三宝寺池の島が計数内なら…)

千葉市 美浜園内・池名不明 島名不明 (たぶん、落選。この規模を採用すると果てが無い。)
千葉市 千葉市動物公園内・池名不明 島名不明 (同上。)
千葉市 青葉の森公園内・池名不明 島名不明 (見つけてしまったので、一応…)

参考出品・・・(見つけてしまったので一応、です。)
市原市 養老川 島名不明 (多数有るようですが、川の砂州は計数外ですよねぇ?)
佐原市 利根川/常陸利根川/横利根川/外浪逆浦 加藤洲・他 (参考:川の州の採用を見送る根拠に…)
[34113] 2004年 10月 12日(火)16:03:04NTJ会長 さん
半島コレクションと、丘陵コレクション
半島コレクションの追加です。

館山半島
 マイナーですが、房総半島南端の館山市・千倉町・白浜町の領域、
 概ねJR館山駅~千倉駅以南を指します。
 主な岬としては、房総半島の項で挙げられている、野島崎,洲崎 が そのまま該当します。
 なお、房総半島側の主な岬としては、上記のほか「太東岬」を挙げる事が出来るかもしれません。

ちなみに千葉県在住の者としては、房総半島の「主な市町村」が「館山市,鴨川市 他」というのはかなり違和感が有りますねぇ(^^;
むしろ、「千葉県中南部全体」もしくは「旧国名・上総~安房 地域」というイメージが強いです。
(と、言うか、千葉県全体を房総半島と認識している傾向があるかも?)

あと、素朴な疑問なのですが、「銚子半島」の領域は、どのあたりまでなんでしょかねぇ?
利根川を境界線とするのか、茨城県側も含むのか・・・?

あと、丘陵コレクション、千葉県でもう一個、忘れてました。

館山丘陵
 これも安房丘陵の一部で、館山半島部分を示す呼称です。
 安房丘陵本体とは、JR外房線の通る領域の構造谷で隔てられています。

・・・また思い出すかもしれません・・・すみません・・・
[34112] 2004年 10月 12日(火)15:35:13NTJ会長 さん
丘陵コレクション
千葉県で、一応二つ追加です。

嶺岡丘陵
 安房丘陵の一部です。
 鴨川市嶺岡浅間を主峰とする丘陵です。
 (隣接する、千葉県最高峰、愛宕山を含むか否かは、判らないです。)
 マイナー地名のようですが、地質学方面ではよく出てくる名前のようです。

銚子丘陵
 銚子半島の丘陵部です。
 検索結果では、この名称では出てきませんでしたが、あたしは小学生時代に、この名称で教育された記憶があります。
 逆に「銚子半島」の名称のほうは、記憶に有りませんでした。

選定基準に見合うようでしたら、追加を御願いします。
[34111] 2004年 10月 12日(火)13:47:06NTJ会長 さん
下志津原・薀蓄
[34084]今川焼 さん
現在、「原コレクション」を北海道から中部地方までリリースしています。

おぉ、超地元の「原」が掲載されていて嬉し~です(^^)
で、下志津原については何も備考が無いようなので、知っている事を。

当所は下総台地の一部の地名で、今川焼さんの分類で言うと典型的な
(1)扇状地や洪積台地のように水の便が悪く、開発の遅れたあるいは未開発の平坦地。
に、該当します。
元々下総台地は上流域が無いため、水利の便は非常に悪く地形的には幼年台地地形であるため、耕作可能な領域は狭い谷地に限られていました。
特に下志津原の領域は遥か北方の佐倉市下志津南方に広がる不毛地で、江戸期頃まではほとんど入植が行われていませんでした。
何れの方向も不毛地が広がる事から、別名「六方ヶ原」とも呼ばれ、六方の地名は千葉市の地名に残されています。
江戸時代末期になると、平坦で未入植である地を生かして、佐倉藩の砲術演習所が設けられます。
さらに明治期へ入ると陸軍砲兵射的学校が創立され、陸軍射撃学校・陸軍野戦砲兵学校へと発展します。
旧総武鉄道により、開通時に「四街道駅」が開設されたのは、この影響によります。
その後駅周辺には、「軍城下町」が形成され、現・四街道市の原型となります。
陸軍野戦砲兵学校は砲の射程増大に伴い、数次に及ぶ拡張を繰り返し、広大な領域を持つに至ります。
敗戦後、同領域は広大な原野として残され、ここに初めて入植が開始されます。
入植時に、六方に「鹿放」の字を当てたため、「鹿放ヶ原」という名称も出来ました。

原コレクションでは、「下志津原」の別名として、「六方ヶ原」「鹿放ヶ原」の名を併記して頂けると幸いです。

長文、失礼いたしました。
[34108] 2004年 10月 12日(火)12:15:15NTJ会長 さん
怪獣送信劇・・・(誤変換
[33926]KMKZ さん
地理に関係の無いツッコミでごめんなさい。
> 最初の超高層ビルである霞ヶ関ビルが完成したのは1968年ですが1967年に放映されたウルトラセブンでは建設中の霞ヶ関ビルの鉄骨の上にガイコツ怪獣が腰掛けるシーンがありました。

なんか、すっごく引っかかるモノがあるので確認してみました。
こんなサイトがヒットしました。
と、言う訳で、ウルトラマンのシーボーズですね、やはり。
セブンはハードSFを標榜した作品だったので、「ビルに腰掛ける」ような怪獣は居なかったような。

ちなみに上記サイトは、円谷系のロケ地に詳しいようなので、「怪獣に破壊された都市」のサブソース源に良さそうです。(^^)
[33956] 2004年 10月 8日(金)18:55:08NTJ会長 さん
何故タワーに登るのか? そこにタワーが有るからさ・・・
[33907] 地球人 さん
第1カテゴリー 「正式名称が、自治体名+タワー」
第2カテゴリー 「正式名称が、自治体名+タワー+α」(αはどの位置でも可)
第3カテゴリー 「通称名が、自治体名+タワー(+α)」

ふむふむ・・・
正式名称が、「タワー+自治体名」の場合にも、第一カテゴリーになるのでしょうかねぇ?
まぁ、そんなの、無いとは思うのだけれど・・・・
万一発見された場合には、準第一カテゴリーといった所でしょうか?
第二カテゴリーは、「正式名称に、自治体名と"タワー"の文字を含むもの」と読み替えると判り易そうですね。
で、第3カテゴリーで、+α が付いているものは、準第3カテゴリーといった所かなぁ?

銚子タワー、正式名称が「銚子ポートタワー」であれば、第2カテゴリーになるんですが、検索すると、「銚子タワー」ばかりでますね。
あたしも記憶では、「銚子タワー」だったのですが、地図で検索すると出てくる名称が「ポートタワー」なんですよねぇ・・・
正式名称で第二カテゴリー、加えて認知度では第三カテゴリーに属しているということでしょうか。

ポートタワー繋がりでもう1件。
千葉ポートタワー
タワーの建設目的は様々ですが、コイツの目的は「記念碑的存在」で、ほとんど存在意義の無いタワーです。
流石、あたしの地元・・・(__;

で、タワーの分類ですが、名称によるカテゴリー分類の他、建造目的及び用途による横軸分類も儲けると面白いかもしれません。

ちなみに前述の「日本海タワー」などは、建造目的は水道塔だった記憶があります。
その上階を転用して展望台になっておりました。
[33863] 2004年 10月 6日(水)16:34:57NTJ会長 さん
・・・昔からバカとなんとかは・・・
[33828] 地球人 さん
自治体名+タワー
高いところへ登るのが好きで、昔、旅先であちこち、登ったものです。(__;
で、記憶に幾つか引っかかるモノが有ったので、検索してみました。
他の方の発言と重複していた場合には、ごめんなさいです・・・

銚子タワー 正確には、銚子ポートタワーという名称のようですね。

新潟タワー レインボータワーが正しい名称っぽいですね。
新潟市内には他にも、日本海タワーっていうのもあります。



タワーはこちらのサイトが詳しいみたいです・・・
でも・・・見ているうちに、「タワー」の定義がわからなくなって来ました。
「タワー」と名が付いて展望台が有れば良いのなら「ランドマークタワー」が何故入らないのか、
それはビルだって言うのなら、コンクリート製でタワーと名の付かない通天閣は立派なタワーだし・・・(悩


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