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てへへさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[4142]2002年10月25日
てへへ
[4120]2002年10月24日
てへへ
[4027]2002年10月20日
てへへ
[3721]2002年10月9日
てへへ
[3129]2002年9月15日
てへへ

[4142] 2002年 10月 25日(金)12:31:09てへへ さん
必修科目と選択科目
[4132]黒髪さん
>ところで、皆さんの高校での選択科目はやっぱり「地理」ですか?
>私の高校では「日本史」が必須で、「世界史」と「地理」が選択科目でどちらかを選ばなければいけませんでした。私はもちろん「地理」です。「地理」は人気が無くて、10クラス中2クラスしかありませんでした。

私の高校では「世界史」が必須で、理系では「日本史」と「地理」が選択科目でした。両方とも受けたい授業だったのでさんざん迷ったあげく「地理」にしました。今でも「地理」と一緒に「日本史」の授業も受けたかったと思ってます。

「地理」と「日本史」については

[4140]Firoさん
>どの分野を専攻するにせよ、両輪という気がするんですがね、この2つは。

全く同感です。
[4120] 2002年 10月 24日(木)01:59:30てへへ さん
無番地ネタ
[4088]黒髪さん
>先ほど四街道市のホームページを覗いて来ました。
>市役所の住所が「千葉県四街道市鹿渡無番地」となっていました。
>無番地?番地が無いことかな?

 付けたしです。
 番地は明治時代の地租改正において官有地と民有地を区分したことに始まります。それまでの年貢では国の収入が安定しないことから、土地の価格を基準に税金を徴収することになります。このときの一種の整理符号が地番であり、その表示方法が何々番地なのです。

1874(明治6)年 7月28日 地租改正条例制定。官有地を民有地とを区別し、民有地には地券が発行され、これに基づき税金を払うことになります。現在の固定資産税の始まりです。
1875(明治7)年11月 7日 改正地租名称区分制定。民有地以外は正式に官有地となります。ところが、地租改正事業は極めて短期間に実施されたため、作業漏れによる脱落地が多く、訴訟が絶えません。
1899(明治32)年 4月17日 国有土地森林原野下戻法制定。これにより1900(明治33)年 6月30日までに民有地編入申請したもの以降は、脱落地は全て官民地になります。
 ちなみに現在でも脱落地(ほとんどは財務省所管)を民有地とする申立てることはは可能です。ただしその権利を主張する人が立証しなくてはなりません。

 国有地は国の財産のため税金がかからず、徴税のための登記簿にも載らず、従って地番がなく番地表記上は無番地や番外地などになります。国有地が民有地になる場合は、払い下げ時点で地番がつけられます。しかし国から土地を借りてしばらく利用しているうちに民有地になる場合など、混乱防止や修正の手間と費用を嫌い、当初の無番地のまま使用し続ける場合もあると考えられます。
 四街道市の場合は、国からの払い下げ手続きをしているころの考え方が
[4098]Kenさん
>軍用地だった国有地が払い下げられ、将来、住居表示を整理しようということで、当面の措置で、無番地のままになっているようですね。

ということだったと思われます。
 ただし、[4088]黒髪さんがご指摘の「四街道市役所の位置を定める条例」の施行は1955(昭和30)年3月10日の印旛郡千代田町と旭村が合併して印旛郡四街道町が誕生した日であり、住居表示法はまだ施行されていませんので、後半で言われている「当面の措置」だけのことだったかと思われます。

そして、しばらくして地番が決まったころの考え方が
[4103]fさん
すでに番地はついていますよ。ただ、いまさら書き直すと費用が発生するのでそのままにしているだけです。市役所の総務課あたりに聞くと教えてくれるかも?

という具合だったのではないとか思います。

 余談ですが、住居表示という概念がでてくるのはもう少し後です。
1962(昭和37)年 5月10日 住居表示法施行。公共の福祉に資することを目的にして、道案内にわかりやすい表記ができるようになります。
 住居表示されたところは番地が順に並びわかりやすくなりますが、その反面、文化遺産とも言える大字レベルの地名までもが一緒に整理されていくことになります。
[4027] 2002年 10月 20日(日)01:02:54てへへ さん
奄美ネタ
最近の書込み状況からすると2日も経つと遅レスという感じですが・・・。

[3971]Kenさん
>奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
について補足します。

・1609年 4月 1~5日 薩摩軍が首里城占拠し、尚寧(しょうねい)王は下城、薩摩に連行される。
・1610年 8月 8日 島津家久と共に尚寧王は駿府の家康に謁見。同28日、江戸の将軍秀忠の謁見。薩摩による琉球支配が公式のものとなる。
・1611年10月10日 2年半にわたる抑留が解け尚寧王帰国。「琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。そのため琉球はいったん滅んだが、島津の恩情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再びあたえられた。この御恩は子々孫々まで忘れず、決して島津氏にそむかない」という起請文の提供を強制される。

 鹿児島県の公式サイトでも、一方的に侵略した島津氏が琉球の支配を開始し、中国に対しては琉球国が薩摩藩の領土となったことを隠し独立国としての体裁を保ったとしています。
 つまり、武力により行政権を掌握したのですから基本的には占領です。ただその2年後に奄美群島は琉球から薩摩藩直轄となり、琉球は対外的には独立国のまま薩摩に属するという状況になったので、琉球から薩摩藩への割譲という言い方もされているのだと思います。この扱いの違いが、奄美群島が鹿児島県か沖縄県かということに大きな影響を及ぼします。

 そもそも琉球王朝は13世紀から100年以上かけて支配領域を北に広げ、1571年の尚元王による奄美大島征服で奄美群島は完全に琉球王朝時代になります。この時代の扱われ方は琉球の他の島と大きな違いはないようです。
 1609年以降は琉球も奄美群島も圧政下で砂糖栽培の植民地の様相を呈し、制度なども日本化していきます。ただし、琉球では独立国としての顔を保持することが薩摩にとってプラスであることから、文化面では日本風の苗字や衣服の使用が禁止されています。

 先ほどの薩摩直轄か対外的独立国かの違いは、そのまま明治初年の琉球処分と廃藩置県に現れます。
・1871(明治4)年 7月14日 廃藩置県。奄美群島、琉球ともに鹿児島県管轄となる。
・1872(明治5)年 9月14日 琉球藩設置。尚泰王を琉球藩王とする琉球藩を設置。廃藩置県後の唯一の藩設置。鹿児島県管轄から政府(外務省)直轄に。
・1875年(明治8) 鹿児島県が奄美大島・名瀬に大島「大支庁」を、各離島には支庁を設置。
・1876年(明治9) 琉球が清国に最後の進貢船を送る。
・1877年(明治10) 西南戦争。
・1879年(明治12) 3月11日 軍隊を伴い強制的に琉球藩を廃止。沖縄県設置。琉球王朝の滅亡。日本政府の琉球占領ととらえた琉球国民が清に救援を求め政府に抵抗したあたりの話は [3971]Kenさん のとおりです。清には余裕がなく救援はありませんでした。その後、日清両国間で沖縄を2分割または3分割する分島問題がおこりますが、亡命中の琉球の人の祖国分割抵抗運動などにより、結局まとまらず琉球に対する日本の領有権が事実上確定します。

 さて1945年以降ですが、米国は「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族」として、米軍占領後は韓国のように独立させることも検討していたようです。その際、奄美群島をもともとは琉球の領土とみなし日本から切り離して沖縄の一部に加えることも考えたようです。
・1946年(昭和21) 2月 2日 北緯30度以南の奄美諸島の行政権の米軍管理開始。行政組織が日本から分離した日は沖縄も奄美群島も同じ日。(復帰日は異なります)
・1952年(昭和27) 2月 4日 サンフランシスコ平和条約に基づき北緯29度以北(現在の十島村、三島村)が復帰。
 この条約調印前後の本土復帰運動は奄美群島の方が激しかったようです。復帰要求署名は奄美群島では住民の99.8%(沖縄本島で72%)。また奄美群島では村ぐるみの断食祈願がありました。米国の統治下、渡航許可は那覇経由の申請となり手続きに数週間かかり、本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられ売れず、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップ、米国からの援助は奄美群島よりも軍事上の重要度が高い沖縄本島の復興が優先され、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていきました。つまり、戦争による破壊具合は沖縄の方が大きく、日本と切り離された打撃は奄美群島の方が大きかったようです。
・1953年(昭和28)12月25日 奄美群島が日本に復帰。
・1972年(昭和47) 5月15日 沖縄が日本に復帰。
 双方の復帰までの動きに関連はあったとは思われますが基本的に別々に行われたようです。沖縄県の公式サイトでは、奄美諸島でも独自の復帰運動を展開、とあります。

[3943]桃象@国仲涼子ファン さん
>奄美諸島も好きです。昭和28年に奄美諸島が返還されたとき,鹿児島県に帰属なったのは,やはり失敗だったと思っています。まあ,思いつきと言われれば,それはそうなのですが,やはり奄美諸島は鹿児島県から分離して,1つの県とするか,沖縄県と一緒になった方が奄美・琉球文化圏の発展にいいんじゃないかなと思うんですけどね。

奄美群島の復帰後20年もの間、沖縄県は存在していません。背景としては、今なお尾を引く米軍基地問題も関係してますね。

 今年2002年8月7日に、東京都港区の増上寺で開かれた「沖縄本土復帰30周年(2002年)と奄美本土復帰50周年(2003年)を考える」というテーマのシンポジウムがあり、両地域の独自性を守るべきだとの議論があったそうです。
 一つの文化圏であっても、都道府県が行政区分である以上、奄美群島が鹿児島県に所属したことは必然と思われます。なお所属する都道府県の変更については以前に[3866][370]で論議があったとおりです。
[3721] 2002年 10月 9日(水)12:59:12てへへ さん
re:我が千葉県!!!!
[3703]
>実際、私も小4(くらい)の時に、「すすむ千葉県」という教科書を社会の時間に配られ・・・

「すすむ千葉県」ですか。私も千葉県民でしたので懐かしいです。千葉県の略図のかっこいい書き方が印象的でしたのでご紹介します。 浦安と銚子、富津岬と太東岬の南北位置を、関宿-野島崎の距離の1/3ずつの位置にすると千葉県の略図がかっこよく書けるというものです。
[3129] 2002年 9月 15日(日)22:34:26てへへ さん
re:博覧会ネタ
>[3070]

>1980年代後半、バブル景気だった頃、多くの博覧会が開催されました。

 わが国で最初に開かれた国際博覧会は1970年の大阪万国博覧会ですが、[3070]は地方博覧会に限った話なので、80年代後半に限らずこれも仲間に入れてください。

1981年 ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)

 理由はこの博覧会が地方博覧会のハシリだからです。
 当時の神戸市長・宮崎辰夫氏の都市経営手法は、
・大規模事業の財源には国の補助に縛られない起債を活用。
・独立採算制の外郭団体経営にも注力。
・収益は造成地売却益などと共に、福祉・医療・教育などに還元。
など、当時としては斬新なもので、“株式会社神戸市”と呼ばれ、以後の都市経営に大きな影響を与えました。後に続く地方博覧会もこの博覧会が成功したことが影響しています。

 ともあれ、私にとっては初めて行った博覧会だったので、とにかくすごい人の波だったこと、未来を感じさせる博覧会だったこと、新交通システム(神戸新交通ポートアイランド線)、が印象に残っています。


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