お久しぶりです。今回は、岡山県にも百万都市が誕生してかもしれない、という話をネットで見つけましたので紹介したいと思います。
要約(以下敬称略)
1961年(昭和36年)、3選を果たした岡山県知事・三木行治は岡山・倉敷両市を中心として東は邑久町・牛窓町、西は鴨方町、南は児島半島まで含む33市町村を合併させて「大岡山市」をつくる構想を明かします。理由は、当時重工業の無かった岡山県に企業を誘致するためにありました。
県主導の百万都市構想は経済団体の支持を得て、ほとんどの自治体で賛成議決を行い、実現は間近でした。
ところが肝心の岡山・倉敷・児島(当時)の3市は同調しませんでした。1962年(昭和37年)末、岡山・倉敷の2市は(それぞれの市議会では合併派が多数だったにもかかわらず)合併協議会から離脱しました。そして合併期日の1963年(昭和38年)1月13日が過ぎ、ついに頓挫してしまいました。
当時の岡山市長・寺田熊雄(社会党出身)は合併そのものは反対ではなく時期と方法に問題がある、と述べています。その一方当時の倉敷市長・高橋勇雄(倉敷レーヨン出身)は合併期日前、公印の市長印を隠して上京し消息不明となり、怒った三木は県警に「高橋を逮捕しろ」と指令を出したそうです。高橋は対立の責任を取り1964年(昭和39年)辞任します。病院で知らせを聞いた三木は喜び、翌日亡くなります。
この構想が実現していれば岡山市は広島市・北九州市と対等になれたのに、と思うと「平成の合併」でも岡山市にとって政令指定都市への道は厳しい情勢ですのでつくづく残念です。
参照 倉敷歴史ミニ辞典
http://www.fmkurashiki.com/program/egakon/kurasikirekisi/030103.htm 内の1月24日付の記事