現在の地名としては疑問のあるので、番外編と名付けます。
江戸・東京の原
“武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草よりいでて 草にこそ入れ”(万葉集・東歌)と詠まれた武蔵野の中に開かれた江戸ですから、江戸市中諸処に原があった筈です。ここでは 神田の秋葉ヶ原 (秋葉ノ原) と護持院ヶ原、東京になってから出現した三菱ヶ原・戸山ヶ原を取り上げてみます。
秋葉ヶ原(あきばがはら)
ここは、神田川の北岸、筋違御門(万世橋付近)と和泉橋の間に設けられた防火地帯で、遠江の秋葉神社を勧請しました。
…と書いて、江戸切絵図で神社を探したら、アレレ…火除地はあるが、神社が見つかりません。
明治4年の東京大絵図には、「鎮火社」があるんですが。もしかすると秋葉神社は案外新しいのかもしれません。
明治16年測量の5000分の1にも 「鎮火神社・字秋葉ノ原」 の字がありますが、オフ会で披露した明治40年の東京市全図では、その場所が 「秋葉原貨物停車場」 となっています。神田川に通じる船溜もある物流拠点でした。駅名は慣用で「ヶ」を省いたのでしょうが、これが誤読の原因になりました。
貨物駅だけならば誤読されても影響は小さかったのしょうが、関東大震災後の1925年に山手線環状運転が開始されると、旅客駅も開業し、駅名標には「あきはばら」と書かれました。
永井荷風は「秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。」と書いています。(断腸亭日乗 大正15年7月12日)
このようにして火伏せの神様・秋葉大明神が忘れられたまま、世界に知られた AKIHABARA で、2004年2月10日 突如として
「ヤマギワソフト館」炎上!
護持院ヶ原
森鴎外の小説「護持院原の敵討」の舞台です。江戸切絵図を見ると、現在は気象庁がある 「一橋殿」 (徳川慶喜)の屋敷と御堀を隔てた対岸に 「二バンアキチ」 とあります。将軍綱吉の信任を得た隆光の大伽藍「護持院」があった跡地です。なお、敵討は天保六年だけでなく弘化三年にもあったようです。
三菱ヶ原
現在の千代田区丸の内。江戸時代は大名屋敷が建ち並び 「夕立を四角に逃げる丸の内」 と川柳に詠まれた土地ですが、明治になって1872年の銀座大火で焼けた後、東京鎮台の兵営がありました。兵隊屋敷が麻布に移転した跡地は、大蔵大臣 松方正義に頼まれた三菱の第二代社長岩崎彌之助が約35万平方メートルを128万円で購入、
三菱ヶ原 と呼ばれました。1894年にコンドルの設計した赤煉瓦造り3階建の三菱1号館 (hmtは東9号館時代に見たことがあります) が建設され、次第にオフィス街になってゆき 「一丁ロンドン」 と呼ばれるのですが、
[33135]電車唱歌【2番】の頃は、まだまだでした。
戸山ヶ原
13万6千坪の尾張藩江戸下屋敷だったところです。23区内最高峰?の箱根山
[11061] 44.6mは、池を掘った土で築いた庭園内の玉圓峰(丸ヶ獄)の跡ですが、庭園内に 「小田原宿」 と俗称される宿場町が造られたことから、築山が 「箱根山」 と呼ばれるようになったようです。
川柳に「雲助がないがお庭の不足なり」とあるように、米屋、酒屋、菓子屋、薬屋、瀬戸物屋、本屋、絵屋、扇子屋、植木屋、さらには弓師、矢師、鍛冶屋といった職人の店、医師の家まであったそうです。
このような屋敷も安政2年の江戸大地震や翌年の台風被害を受け、安政6年には御殿全焼。
明治6年(1873)に尾張下屋敷跡は陸軍用地になり、翌年戸山学校。さらに陸軍病院、近衛騎兵連隊、陸軍幼年学校などが次々に建てられました。
1910年には日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機に搭乗して飛行実験。狭い射撃場に見物人が押しかけ、滑走しただけで飛行はしませんでした。日本最初の飛行は代々木練兵場(代々木公園)になりました。
戸山ヶ原
[34089]の名は、明治になってからでしょうね。範囲は尾張下屋敷跡だけでなく、その西側に及んでいます。1879年にアメリカ南北戦争の英雄で元大統領のグラント将軍夫妻が来日したのを機会に、ここに洋式競馬場ができました。明治30年(1897)頃の1:20000集成図には1885年に開通した山手線の内側に競馬場(後に目黒へ、そして府中へと移転)が見えます。現在の早大理工学部のあたり。
そうそう。尾張下屋敷跡の 「箱根山通り」 付近には、落書き帳メンバーの方の職場がありますね。
あと、江戸の 「〇〇原」 で落せないのが 「吉原」 ですが、その方面には詳しくないので。