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inakanomozartさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[61023]2007年9月3日
inakanomozart
[61002]2007年9月2日
inakanomozart
[60942]2007年8月31日
inakanomozart
[60896]2007年8月29日
inakanomozart
[60893]2007年8月29日
inakanomozart
[60830]2007年8月27日
inakanomozart
[60801]2007年8月26日
inakanomozart
[59573]2007年7月1日
inakanomozart
[59499]2007年6月29日
inakanomozart
[59360]2007年6月23日
inakanomozart

[61023] 2007年 9月 3日(月)21:18:19inakanomozart さん
変則街区符号
[61016] 2007 年 9 月 3 日 (月) 02:30:56 ニジェガロージェッツさん
同じ大阪市の鶴見区の焼野1丁目、焼野2丁目、浜5丁目、諸口5丁目の街区番号の付け方は柔軟というより、奇怪です。
なるほど、一部の実施状況だけで大阪市全体の住居表示実施に対する傾向(実務的には区役所の仕事の範ちゅうだと思われますが)を判断するのは早計ですね。
鶴見区などの例は、小手先の方便で変則的街区符号を採用して、住居表示実施に伴う住民とのトラブルを回避した結果ともとれますね。(この鶴見区の例では、当局側で各町の大きさをどうしてもそろえたかったのでしょうか?)
ただ、住居表示の作業は、ある意味まっとうな旧町名にこだわるもののほか、街区符号に4番や42番はダメなどというものまで様々な住民の要望や苦情をクリアーしながら実施しなけらばならないので、行政当局にも同情すべき点が全くないとは言えないかもしれませんね。
[61002] 2007年 9月 2日(日)20:30:01inakanomozart さん
東府屋
[60987] 2007 年 9 月 2 日 (日) 15:14:23 伊豆之国さん
静岡県伊豆市に「東府屋」という旅館があります(泊まったことはありません)。私が父の故郷・西伊豆に行く際、下田から回ることが多いのですが、修善寺から入ることもありました。
そのときに街道沿いによく「東府屋」の看板が立っていました。この旅館名の由来について、初めは「豆腐屋」の当て字だろうと思っていたのですが、後になって旅行雑誌か何かを見ると、「徳川氏ゆかりの宿であり、『駿府の東』ということで名づけられた」と書いてありました。
私はたった一度ですがこの旅館に泊まったことがあります。
家康の側室で水戸光圀の祖母に当る“お万の方”は、家康としばしば伊豆吉奈(よしな)へ湯治に出かけ、そこで頼宣(紀州家)、頼房(水戸家)を身ごもったそうです。
吉奈の東府屋旅館は、府中(駿府)の東という意味で、今でも徳川家の家紋の印された長持ちや鍋がのこされていると聞き、静岡市ゆかりのお万の方に縁のあるこの旅館にぜひ泊まってみようということで、職場の旅行で泊まったのでした。
かなり昔のことなので、すっかり忘れていたのですが、伊豆之国さんのおかげでにわかに記憶がよみがえりました。
[60942] 2007年 8月 31日(金)20:30:39【1】inakanomozart さん
背割りの住居表示
[60910] 2007 年 8 月 30 日 (木) 02:01:09 ニジェガロージェッツさん
東横堀川の東(糸屋町、内本町、両替町など)では2筋ごとの丁目割で2丁目まで、東横堀川の西(道修町、平野町など)では1,3,4,5丁目は2筋ごとに、2丁目のみ3筋で丁目割が為されていました。なお、東横堀川は中央大通り(町名で言えば「船場中央」、但し昭和13年の地図では中央大通り開通前で「船場中央」という町名は存在せず)以南では1筋分東にずれており、唐物町より南の各町では1丁目が3筋分の長さになっています。

東横堀川を挟んだ地域の丁目割の現状と過去のそれとの対比について的確な情報ありがとうございます。
なかなか興味深いものがあります。
実は、この地域の住居表示実施状況は、一般の住居表示地区とは大きく異なる点があり、以前からこの地域について興味の目を向けていました。
というのは、町の境界が道路・鉄道・河川・水路などの恒久的施設等によって区切られているのではなく、昔ながら背割り式の町割りのまま住居表示されているからです。
もちろん、背割りの部分(例えば道修町と平野町の間)には、かつては「背割溝」があったであろうし、現在もそれが残っていたり、あるいはその名残のようなものがあるため、比較的町の境界を設定するのに困難がなかったせいなのかもしれません。
しかし、そのような状況下にあっても、大阪市以外の場合は、例外的に町境にしている例が散見される程度で、この地域のように全面的に採用されているのは、大変特異な例だと思われます。
そのほか街区符号の“渡辺”(久太郎町四丁目)とか“A・B・C”(上町)など、原則に必ずしもとらわれない大阪市の住居表示制度に対する柔軟な対応には、感心させられます。
[60896] 2007年 8月 29日(水)09:34:04【1】inakanomozart さん
番町ものがたり
[60853] 2007 年 8 月 28 日 (火) 00:43:54  ペーロケさん
「東二番丁」は[6024]YSKさんによると
ちなみに、この東○番丁というのは、第一義は、街路の名前で、現在の一番町通りが「東一番丁」で、そこから東に「東二番丁」、「東三番丁」、・・・と割り出されたものです。
とあり、最近話題の距離由来っぽいなと思いつつ、一番町通りと平行ではありませんね。単に「東にある二本目の大きな通り」という意味なのかな~?と勝手に推測しております。
[60857] 2007 年 8 月 28 日 (火) 02:33:50  ペーロケさん
2~5番丁はおよそ120mでほぼ等間隔に並んでいますね。ということは、やはり距離由来なのかな。

城下町によくある「○番町又は○番丁」の『番』は、序数の一番、二番・・・の番ではなく、「番=番方→武家」の意味だと思われます。
したがって、一番目、二番目・・・の通り(物理的にはそのとおりの形態だが)の意味で、「○番+町」としたというより、「番方(武士)の町→番町」に一、二・・・を付けたと考える方が自然だと思われます。

城下町における武家地は、一般的には町名が付けられていなかったようですが、多くの旗本や中級武士の屋敷が並んだ地域では何らかの区別が必要で、このような町名が付けられたものだったのではないでしょうか?
なお、固有名詞であるので「2~5番丁」という表記よりも、「ニ~五番丁」の表記の方が適当だと思われます。
[60893] 2007年 8月 29日(水)08:27:00inakanomozart さん
江戸の本町
[60843] 2007 年 8 月 27 日 (月) 22:26:59【1】 Issieさん
現在の「日本橋本町」は江戸橋から北へ昭和通りに沿いに四丁目まで,「日本橋本石町」は呉服橋から外堀通りの東側に四丁目まで となっているのですが,つまり江戸時代の町とは通りの向きが違うのですね。

「本町」は、家康が江戸入りして町割りをはじめたとき、まず最初に手をつけた地のようですね。
まさしく本町であったわけで、本当の江戸っ子とは本町生まれの者だけだとする説もあるようです。
江戸期では日光街道である本町三丁目、本町四丁目、大伝馬町一丁目と続くこの道は、今では小伝馬町の通りの裏道のような感じですが、薬問屋などがならぶ大変賑やかな町だったようですね。
今でも塩野義製薬など製薬関係の事業所が多いのはその名残なのでしょう。

「本町」が東西の通り沿いの町名から南北の向きの町名に変更されたのは昭和の始めのようで、多分関東大震災後の区画整理等で大幅に町名が変更された結果だったのでしょう。
旧日本橋区は、昔の町名が比較的残っている地域なのですが、それでも昭和の始めに大幅に整理統合されてしまった結果が残っているにすぎないのですね。
震災が奪ったものは、生命や物理的な財産ばかりではなかったというのは言いすぎでしょうか?
[60830] 2007年 8月 27日(月)08:00:00【1】inakanomozart さん
三丁目の角から
[60826] 2007 年 8 月 27 日 (月) 02:51:31 ニジェガロージェッツさん
道を尋ねられた場合の会話にも、「2丁先の角を北へ1丁上がって・・・」という言い方が、言う方も聴く方も何の違和感もなく理解しています。
こういう言い方は、かつてはあちこちの町々で聞かれたような気がします。
実際にはそんなに頻繁に聞いた記憶があるわけでもないのに、なぜか妙になつかしいという感じがします。
こういう言い方が生きている町が実際にあると知ってうれしくなってしまいました。
現在の住居表示制度では、ひとつの町が4~5丁四方の大ブロックとなってしまって、距離の「丁」とのギャップが大きすぎて、こういう言い方も大半の町で廃れてしまったような気がします。(もちろんメートル法の普及のせいもあるでしょうが・・・)

例えば大阪の谷町。現在の大阪市中央区谷町は新住居表示がなされていますが、新住居表示前とその町域はあまり変わりなく、丁目数も同じです。その長さ約2.6kmに9丁目ですから、1丁目平均289mになります。
谷町だけが例外と言うわけではなく、大阪の場合は新住居表示実施前の地図を見ると1丁目平均がだいたい200m前後のところが多いように感じます。
関西方面の地名については疎いのですが、
大阪城下の町名の付け方は、基本的に城から東西に伸びる通り沿いに付けられていて、南北の通りはいわゆる横丁で、基本的に町名はつけられていなかったようです。(南北の通りを「筋」というのは、このためだとか・・・)
したがって、谷町○丁目などは、明治以降に付けられた町名ということはないのでしょうか?

また、大阪城の西に広がる東西の道沿いにつけられた町(道修町、平屋町など)も、現在の地図でみるかぎり、たしかに丁目区分は、3筋目ごとで250mほどになっていますね。
江戸期では、この地域の丁目区分は、原則として2筋目ごとの170mほどになっていたようです。
これは、一つの街区の間口が60間でなく40間になっているため、距離の1丁と合わず、2つの街区ごとの丁目となっていたのではないでしょうか?
たしかに距離の1丁からすると1.5倍ほどになっていますが、分かりやすく筋から筋までを丁目区分とするということからすると、許容範囲になるのではと勝手に納得しています。(笑)
でも、もっとたしかな丁目区分の根拠があるのかもしれませんね。
[60801] 2007年 8月 26日(日)10:00:00【1】inakanomozart さん
駿府の「○丁目」
[60790] 2007 年 8 月 25 日 (土) 23:11:55  ニジェガロージェッツさん
「丁目」とは元来、距離を示す単位?

私の場合は、地元のかつての駿府の町名の付け方からして、それは自明のことだと思っていました。
したがって、現在の住居表示制度による「○丁目」は、本来の○丁目の意味から大きくはずれ、
(施行当初の住居表示実施要領では、ひとつの町(○○町○丁目)の大きさは、面積はもちろん標準世帯数まで明示され、一般市民が住所を頼りに家を捜しあてる容易さよりも、あきらかに行政当局による管理のしやすさを優先した区分だと思われる。)
「A町一丁目、A町二丁目・・・・」というより「第一A町、第二A町・・・・」とでもすべきだとさえ思っていました。

駿府にかぎらず、江戸時代の人為的に町割れされた城下町の多くは、「字」のようなブロック単位の町ではなく、欧米の都市の住所表示方のごとく、通りに町名がつけられ、丁目は文字どおり一丁ごとだったのではないでしょうか?

駿府を例にとると、駿府城の南西面に碁盤の目状につくられた町は、正確に一丁四方(約110メートル四方)の街区でした。
駿府は96カ町と言われているのですが、
町名の付け方は、通りの辻から辻までの通り沿い両側一丁ごとに、「○○町○丁目」又は「○○町(丁目なしの町で、以下仮に「単独町」とします。)」と付けられていました。
(丁目の起点は、城と平行な通りは城から見て右手から、直角な通りは城に近い方から一丁目、二丁目・・・、したがって現在の静岡駅から言うと遠い方から一丁目となる。)
したがって、例えば、三丁目といえば一丁目の角から、「三丁め」までの距離(約220m~330mの間)で、現在の住居表示制度より、よほど分かりやすいものでした。
(駿府の「○丁目」は「町」の下位区分ではなく、96カ町というのは丁目の付く町も1町と数え、「単独町」と「○○町○丁目」は同等に町年寄を選出し、駿府の行政に参加していた。)

この町名の付け方は、戦前まで残されていたのですが、1940(S15)年の静岡大火で中心部のほとんどが焼失したあとの道路の新設や拡幅に伴い、残念ながら、行政上の管理しやすさを優先させたためか、かなり大幅に町名が整理・統合されてしまいました。(町名変更の施行は1945年)
(昔の町名や、その付し方を残す方法もあったと思われますが、当時の困難な社会情勢では町名の保存などに関心をいだく人もほとんどなかったのでしょう。)

すなわち
1 丁目の多い町は、一、二丁目に統合再編
  (例:呉服町や両替町など「一~六丁目」を「一丁目、二丁目」に再編。現在でも「呉六商店街」などの呼称にその片鱗を見ることができます。)

2 2~3丁の町は、単独町と統合のうえ丁目を削除
  (例:七間町一~三丁目、札の辻町ほかを統合して「七間町」とする。)
  
3 道路が大幅に拡幅された「下石町(しもごくちょう)一~三丁目」などは、他の単独町と統合のうえ、ブロック式の常磐町一~三丁目を新設
  (この時代においては、町名の付け方についても中央政府の意向が強く反映されていると思われますが(今でも?)、この町名の新設の仕方は、現在の住居表示制度につながる町名・町割り区分の考え方の芽生えが見られるように感じます。)

それでも、いまのところ住居表示の実施をまぬがれている中心市街地では、呉服町・上石町(かみごくちょう)・七間町など、通り沿いに町名を付ける(したがって町境は背割り)という基本はある程度残っています。
この地域が住居表示の実施で、それこそ「中央○丁目」などとブロック式のあじけない町名に変えられないことを願っています。

また、○丁目が一丁ごとの区分となっている例は、ほとんどの町名が変えられてしまっている東京の銀座(江戸時代の町名は「新両替町」)などでも、その名残を見ることができます。
かつて銀座は中央通り沿いの4丁だったのですが、現在の一丁目から四丁目(中央通りの裏側の町々をのみ込んではいますが)の丁目境は、一丁ごとのほぼ昔のままです。

以前の私の投稿と重複する部分もあり、また「丁目」の話題から少々脱線気味になってしまいました。(請御容赦)
[59573] 2007年 7月 1日(日)20:47:55inakanomozart さん
380万人のざんげ
[59562] 2007 年 7 月 1 日 (日) 12:58:51  みやこ♂さん
富士山を眺めるのに、静岡県が表側で山梨県が裏側と、誰が決めたのでしょう?
無意識とは存じますが、ちょっと不用意ですよ。
そのシルエットの印象の違いから、表富士・裏富士という言い方はかなり昔からあると思われます。
静岡県内では、県のHPでも表富士という言い方が使われていますし、県民も普通に使っていると思われます。
また、山梨県側の立場で「裏富士は美しい」と言った表現のHPも容易にみつかります。

表富士・裏富士という言葉自体に、表側の優位性を込めることはほとんどなく、単に南側から見た富士山、北側から見た富士山と言った程度のことだと思われます。
もし、表富士という言い方がけしからんということですと静岡県民総ざんげしないといけないのでしょうか?

富士山に関する静岡県のHP
[59499] 2007年 6月 29日(金)00:17:56inakanomozart さん
藤枝市と岡部町の合併
[59491] 2007 年 6 月 28 日 (木) 21:58:03  揖斐の山さん
市議会のページで6月定例会に於いて、議案の所に藤枝市・岡部町合併協設置についてとあるが、これは議案が通過したと見て良いのであろうか
昨日夕の静岡県内向けローカルニュースによると、藤枝市議会6月定例会は最終日の28日、岡部町との法定合併協議会設置案を賛成多数で可決したということです。(岡部町議会は18日に可決済み)
なお、合併の方式は編入合併、合併の期日は09年1月1日とすることで合意しているということです。
[59360] 2007年 6月 23日(土)09:00:00inakanomozart さん
地目変更など雑感
[59349] 2007 年 6 月 22 日 (金) 21:55:57  リトルさん
地目変更は、「道路敷寄付」「農地指定」などへの関連でも無い限りは、それほどひっ迫感がないので、
現場レベルでは、手数料を嫌って、「分筆のついでに地目も直して」と手続きの押し付け合いです。
ですからEMMさんの言われる様な、放ったらかしによる現実とのかい離は、色々あり興味深いです。
なぜ、法務局では現況との違いを放置しておくのかいつも疑問に思っています。
多分、地目が現況と違っていようが、単に登記事務を所掌する立場では何も困ることがないし、あまりにも当り前にありすぎてしまって、収拾がつかないからなのでしょうね。
(地目には関係ないことですが、「住基法違反」を事実上容認(詳細自粛)していたりするのもなんだかなぁ・・・)

一方、市町村(特別区は都)の立場では、固定資産税を賦課するうえで、現況の土地の利用状況の把握は不可欠な事項なので、自ら調査し、必死に実態把握に努めていると思われます。
田と畑の違い(田・畑輪換の土地は、固定資産税の課税上の評価では「田」と認定するようです。)などでは、大きな評価の違いはないでしょうが、農地転用の手続きをとらずに評価水準が全く異なる現況宅地(駐車場など)にしてしまっている土地などもめずらしくないようですから・・・
(最近、未登記家屋の固定資産税を支払っていない某議員が話題になりましたが、建築確認を受けず、登記もしていない家屋などゴマンとあるので、むしろ賦課する側の技術上の稚拙さが問題だとも言えるでしょう。新聞などは法の建前からしか批判しませんが・・・)

まあ、世の中なんでもシワ寄せは、建前と本音をどのあたりで使い分けるのか判断できない一般庶民にツケが来ている気がしないでもないです。


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