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ニジェガロージェッツさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91386]2016年9月11日
ニジェガロージェッツ
[90050]2016年3月8日
ニジェガロージェッツ
[87289]2015年2月14日
ニジェガロージェッツ
[87284]2015年2月12日
ニジェガロージェッツ
[87282]2015年2月12日
ニジェガロージェッツ
[87158]2015年1月18日
ニジェガロージェッツ
[86682]2014年11月17日
ニジェガロージェッツ
[86454]2014年10月13日
ニジェガロージェッツ
[85092]2014年2月12日
ニジェガロージェッツ
[84150]2013年9月28日
ニジェガロージェッツ

[91386] 2016年 9月 11日(日)23:57:45【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市の人口減少について
ご無沙汰いたしております。実質的には1年7か月振りの投稿になります。
先月,神戸市の人口減少について話題になっておりましたが,地元長田区からお話しさせていただきます。小生は震災後の数年間こそ加古川市やニジニ・ノヴゴロド市で暮らしておりましたが,それ以外は長田区でございます。ふと気が付けば,いつの間にか在住歴50年を数えておりました。子供の頃の記憶になりますが,区人口21万人以上を数えた最盛期の昭和40年代の活況もはっきりと憶えております。

[91234] Takashi さん
神戸市の人口減について部外者からの考察

ご賢察,興味深く拝読いたしました。
神戸市の人口減少を語る場合,地元の報道や市民の会話などでは,市経済の不況を物語るニュースをよく耳にします。特に神戸市から企業や工場の移転,あるいは閉鎖といった情報に接することが頻繁にあり,何とも言えない寂しさを覚えます。
例えば工場が街から消えた場合,その工場の従業員とその家族が転出するだけでは済みません。その工場からの受注を基に運営される下請工場,孫請工場も移転あるいは廃業を余儀なくされ,それらの工場群に原材料,資材,機材を納入する業者,機器のメンテナンスを行うサービス業者など,あらゆる方面に影響が出ます。果ては駅前や工場までの道々にあった商店街からも人通りが絶え,商店や娯楽施設の廃業など,暗い話題のスパイラルに陥ります。
そして同様の話が市内各所で繰り返されるようだと,各種企業も神戸市内に事業拠点を置く必要性が問われます。神戸の場合は悪いことに大阪からも遠くなく,神戸支社,支店,営業所の大阪との整理統合という流れが当たり前のように出てくるという懸念がよぎります。

往時の神戸市は,大港湾神戸港を擁する一大工業都市でした。港湾部に隣接して造船,鉄鋼,ゴム等々,重工長大型産業の工場群がひしめき合い,国内最大,世界ではロッテルダム港に次いで2位と言われた神戸港の港勢も活況を呈し,貿易物流のハブ拠点として隆盛を極めていた感がありました。しかし,平成7年の震災で神戸港と工場群が軒並み被災し,モノの流れ変わってしまいました。神戸港は早期に復旧しましたが,今では世界50位にさえ入っておらず(pdfファイル 神戸港の質的変貌-日本銀行神戸支店より),一度変わってしまった物流を元に戻すのは非常に難しく,被災した工場も再建されることなく神戸から去っていったものも少なくありません。
震災後に新都心という看板で開発された「HAT神戸」も,元々は川崎製鉄阪神製造所,神戸製鋼所脇浜工場,岩屋工場などが並ぶ臨港工業地帯でした。

神戸市は大阪との近さから,特に市の東部3区(東灘区,灘区,中央区)は大阪から見れば阪神間の通勤圏に当たり,住宅地としてのイメージも良く,「建てれば売れる」状況にはあるのでしょう。数年前に大阪の女子アナウンサーが深夜のバラエティ番組で,関西で一番人気の住宅地は三宮だと紹介していたのを目にしましたが,長年神戸市民でいる身としては,そもそも市内一の繁華街三宮を住宅地として認識していませんでした。
確かに,工場等が転出した跡地にタワーマンションでも建てば,その町域では人の住まない工業用地や商業地が住宅地に変わったわけですから,一気に人口は増えるでしょうが,都市としての神戸全体を見た場合,果たしてそれで良いのかということになります。神戸市は,大阪の通勤圏にありながらも,昼夜間人口比が100を若干上回っていることから,総合的には独立都市です。当然市内の産業が低迷していれば人口は減る。大阪の衛星都市に成り下がっての人口増加など,神戸市では考えられません。
大阪の下町と神戸の下町を歩いて比べると感じるのですが,昔からの小さな商店街でも大阪の福島区や此花区ではまだ活気があるのに対し,神戸では人口が増えているはずの中央区に於いてでさえ,葺合の大日商店街などでは往時のアーケードがあることから,そこがかつては賑わっていた商店街であることは窺えるが,あまりにも寂しい現実がそこにはあります。
大阪から見て,通勤圏外と言われる兵庫区や長田区では,工場跡地の更地がそのままになっているところも目につきます。

もちろん,市も対策を打ってこなかったわけではなく,例えばポートアイランドに先端医療都市を創設したり,観光業に力を入れたりと,人口流出を食い止める政策を打ってきました。経営が厳しいことを承知でも,反対を押し切り神戸空港開港を断行したのも,震災後の低迷する神戸の復権に対する切ない事情があったことと推察します。県や市といった自治体の力では到底及ばない,日本の産業構造の変化もあり,震災からの復興の過程の中でも,失ったものが多すぎる。新産業の創設も大事なことで大いに派手にやってもらいたいところですが,行政には,現状の産業の保守と育成にも倍旧に力を入れてほしいところです。
最近では,兵庫区の神戸港の入り口に位置する,三菱重工業神戸造船所で商船建造を撤退するニュースがありました。造船部門では潜水艦建造に特化するとのことですが,神戸港を代表する三菱の造船所から商船の進水式が消えるのは寂しい限りです。

以上,愚痴ともつかない小生個人の雑感ではありますが,神戸市の人口データ 平成27年中の人口の動きによれば,年間推移として平成24年以降減少にあります。出生から死亡を引いた自然動態では,平成19年以降は連続9年の減少であり,転入から転出を引いた社会動態では平成24年と26年が減少,それ以外は増加を示しています。ここ数年の流れとしては,社会動態はプラスマイナスがほぼ均衡し,年によっては増加にも減少にもなるといったところで,連続して一定の自然動態が減少している分,市人口の減少になっていると見ます。
また,社会動態での相手地域別転入超過によれば,
相手地域平成26年平成27年備考
総計-1421,314
東京都-1,597-1,706
東日本-899-722東京都を除く関東,東北,北海道
愛知県-68-220
中部205216愛知県を除く
大阪府-685-701
阪神6市-967-630芦屋市,西宮市,宝塚市,川西市,伊丹市,尼崎市
兵庫県下1,1331,352阪神6市を除く
近畿276509兵庫県と大阪府を除く
西日本1.4771,592中国,四国,九州,沖縄
海外2,2372,828
その他-1,254-1,204職権による記載,帰化など
となっています。
データからは,神戸市が首都圏への人口供給源になっていることが伺えます。もっとも,東京には全国から人が集まって来ますから,その中での神戸出身者の割合などは,全く目立たないものでしょう。

悪口になってはいけませんから,記事番号のリンクは控えますが,国勢調査人口では2010年が最盛期となった神戸市人口の,2015年調査人口との比較にて,その人口減少の何よりの原因として,これまで人口増加地区であった主に北区と西区で人口が大幅に減少したのが原因だったとの考察を述べておられるのを拝読しましたが,小生は賛同致しかねます。
確かに,「オールドタウン」と揶揄される20年以上前に開発されたニュータウンなどの郊外にある新興住宅地において,入居当時は子供であったのが成人し,親御さんの許より離れて新生活を始める青年たちの転居が,人口減少に直結する訳ですが,第一,その青年たちが新生活を神戸に置くことを選べば,仮に親元の北区や西区や北須磨の人口は減ったとしても,他区に人口が移動するだけで,神戸市全体の人口は減りません。原因はそこにはない。
親元を離れる青年たちが,神戸市内では希望する職に就くのが難しい,魅力ある生活を見出せない,生計を立てるのが厳しい等など,それぞれの理由で神戸を離れていく,これこそが問題であると小生は考えます。
「震災がなかったならば」とよく言いますが,実のところ,この傾向は震災前からあったことです。ただ,当時はまだ神戸市が「公共ディベロッパー」として,須磨区の須磨ニュータウン,西区の学園都市,西神ニュータウン,北区の藤原台,鹿の子台など,各地に宅地造成を続けており,堅調に人口増加にあったために見えづらかっただけのことで,新規の大規模造成の余地がなくなったここ数年では,人口の流出がはっきりと表れたと推察します。

たまたま,今回の国勢調査で福岡市の人口との逆転を許した神戸市の,その人口問題についての報道が,2月ごろのテレビのニュース番組などで特集されており,その受け売りになってしまいますが,それによれば,市内では大学などの高等教育機関は充実しており,学生人口はむしろ増えているとのこと。しかし,卒業後に神戸を去ってしまうことが言われていました。

極論になりますが,これからの街の将来を築いていく期待のかかる青年層が神戸から出ていく傾向にある一方で,既に年金生活に入っておられる老人たちにとっては,神戸の景気動向は関係ありません。むしろ,工場がなくなることで環境が良くなると喜んでいるかもしれない。
都市の人口の高齢化は,当然人口の自然動態がマイナスに振れます。まさに今の神戸市の姿ではないでしょうか。

かなり悲壮な雑感ばかり書き綴りましたが,このような空気が流れている中でも,現実の神戸市人口は先に述べたように,今のところ社会動態は転出と転入が拮抗しています。海外からの転入も目につきますが,これも神戸市の持つ底力かと感じる次第です。
また,大阪から見て通勤圏外と言われる兵庫区や長田区へは,JR線に乗れば三宮から数分(新長田で7分)しかかかりません。しかし,どうも大阪からは全く別の都市圏に感じられるそうで,これも神戸の存在感がそう言わしめているのでしょうか。

長田区のお話もさせていただくところでしたが,長くなりましたので,近日のうちに別稿として改めます。
[90050] 2016年 3月 8日(火)01:18:45ニジェガロージェッツ さん
盛岡市玉山区
[90015] ピーくん さん
地域自治区・玉山区の終了のご連絡ありがとうございます。期日が来ましたら区コレクションに反映させていただきます。
[87289] 2015年 2月 14日(土)03:09:23【1】ニジェガロージェッツ さん
高取山
地元ネタ続きで恐縮です。
グリグリさんご編集の「自治体越えの地名」への情報提供に[87282]にて神戸市の区境を越える地名として「中一里山」を挙げましたが、もうひとつ小生の地元に「高取山」がありました。馴染みがありすぎて、空気みたいにすっかり気にせずにおりました。
長田区高取山町/須磨区妙法寺高取山
「高取山町」の読みは「たかとりさんちょう」ですが、「妙法寺(字)高取山」も「たかとりさん」でしょう。地元ではこの山を「たかとりやま」とは呼びません。

「高取山」については、実際に標高329mの高取山が存在していますが、念のための説明になりますが、[87282]で書いた「一里山」については、そのように呼ばれる山が実際にあるわけではありません。
ちょうど長田区に高取山町と一里山町とがあり、どちらにも山頂があるので、遠い将来に一里山町にある山を「一里山」と呼び、整備される可能性はあるかもしれませんが、現状では難しいでしょう。
高取山頂上一帯は高取神社の神域として市民に親しまれ、六甲全山縦走路が通るハイキングコースにもなっていますが、一里山町はかつて石切り場のあったところで、ハイキングコースもなく、鉄塔をつなぐ電線の巡視路の他にはいくつかの怪しい獣道のようなものがある程度です。ただ、治山事業は細々と続けられているようですが、山頂から南側は石切り場の崖になっており、ここを市民公園のように整備することはないでしょう。小生は北側から山頂に向かって藪を掻き分けアプローチしてみましたが、辿り着けませんでした。

ところで、口、中、奥の一里山について、「中一里山」は山田町下谷上の字に、「口一里山」は神戸港地方の字に現存し、昔は長田村や夢野村にも字があったことは[87282]に書きましたが、残る「奥一里山」についても、山田町にその名の字があるのか探してみました。ところが、神戸市の地番参考図の北区の索引に出ていないことから、現存していないかもしれません。
歴史的にも口、中、奥の名称は、あくまで神戸側の福原庄から見た呼び方であり、当時の山田庄の人々が自身の地に「奥一里」という地名は付けなかったのでないかと推測します。

[87269] グリグリさん
自治体名、町名、大字、小字のどのような組み合わせでも採用します。
全国各地の自治体の境界は、山頂や尾根筋を通ることが多く、共通の山の呼び名を冠した「字」レベルの細かな地名となると、探していけば全国至る所に境界の両側に散らばっているということはないでしょうか?
杞憂だとよいのですが。

[87285] ペーロケ さん
私は由来が異なるとは書きましたが、「関係がある」とは一言も書いていませんよ。
ならば、貴稿[87283]にて
どちらかといえば、大分市寒田のような扱い近いのかもしれませんね。
とお書きになられたのか。臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町に跨る西寒田と、場所の離れた大分市寒田とについては、グリグリさんは[87265]
両者は無関係ではないのは間違い無さそうですが、同じ地域が分断されたのではなく、神社由来の関係のようであり
と関連性を述べておられ、過去にはokiさんが[76694]にて分かりやすく両者の関係を詳説しておられます。
もちろん、ペーロケさんもそれらをお読みになったことでしょう。
[87265]にてグリグリさんが示された基準を問題視されていますが、寒田の例は自治体越えの地名として収録するのには無理があるものの、無関係ではないから「微妙」とおっしゃられている、と小生は理解しています。「無関係だけどたまたま同じ名前になったという例」が混じるとは考えられません。
[87284] 2015年 2月 12日(木)22:08:22【1】ニジェガロージェッツ さん
ニジニ・レス No.653
↑何年ぶりだろう、このタイトル

[87161] グリグリさん
「神戸レンガプロジェクト」へのメッセージ付きレンガに参加しました。元町商店街などに敷き詰められましたとのことですが、自分の目では確認しませんでした。

神戸へのメッセージ、ありがとうございます。神戸の一市民として、ひとりの被災者として、神戸へ想いを馳せていただいたこと、感謝の言葉を述べさせてください。
震災の年、小生は加古川市へ避難し、長田区と加古川市との往復ばかりで、元町など都心に出掛けることが少なかったのですが、確かに元町通商店街のうち、三丁目にあたる「元町3番街」の街路の所どころにメッセージの書かれたレンガが敷き詰められていたのを記憶しています。初めて目にしたときは心に沁みるものがありました。

日曜日に須磨区の人口を調べに中央図書館へ行った際に元町へ足を延ばし、20年を経た今、レンガはどうなっているかを確かめてきました。西の六丁目から東の一丁目まで足元を注視しながら通り抜けましたが、三丁目に20メートルほどの間隔でメッセージ入りのレンガが敷かれていました。
ただし、元町3番街はこの商店街の中でも人通りの多いところで、20年の間に随分と擦れてしまっており、中にはもう字が読めないメッセージもありました。震災8年後の2003年4月には、メッセージレンガの全面改修工事が完了し、復元が成されましたが、それからもすでに12年が経ちました。


[87196] スカンデルベクの鷲 さん
[87199][87200] ピーくん さん
地域自治区の廃止のお知らせ、ありがとうございました。情報の「区コレクション」への反映はスカンデルベクの鷲さんとピーくんさんの書き込みに気づいてすぐに更新しましたが、御礼のご挨拶が遅くなってしまいました。


[87283] ペーロケ さん
早速、一里山への反応ありがとうございます。ただし、
ちょっと悩ましい例を見つけました。
ちっとも悩ましくありません。全く無関係です。

拙稿[87282]でご紹介した神戸の一里山の件は、まだ江戸時代が始まっているかさえ怪しげな時代の慶長9(1604)年の「中一里山論争」に遡る地名です。「一里」の起点になっているのは神戸側の海岸線であり、そこから北へ1里までにある山地を「口一里山」とし、次の1里までを「中一里山」、3里目を「奥一里山」として、神戸背山の領域を3分割して当時の福原庄と山田庄とが争ったものです。
この中一里山論争については、非常に詳しく書かれた研究論文慶長十年中一里山裁許絵図の一里塚についてがあります。

ペーロケさんは西宮の一里山の由来を、甲山を基点として4キロ(=1里)との説をお書きですが、これをしても神戸の一里山との関連は全くないと言わざるを得ません。
ペーロケさんご自身が
個人的にはコレクション対象外とするのが妥当と思います。
と、書いておられるとおりです。

西宮市と神戸市は「同じ地域ではない」、とは言い切れない(そもそも隣り合っています
同じ地域ではありません。慶長年間に遡る古い「字」の話に、第二次世界大戦後の神戸市域と西宮市域が隣接していることが、どうして『「同じ地域ではい」と言い切れない』となるのでしょうか?
グリグリさんが[87265]にて述べておられる掲載基準との整合性から述べておられるように解釈しますが、由来も違い、場所も無関係で、何も共通点がない以上、収集の趣旨からは外れるものと思料します。

完全否定する根拠を探すために西宮市の一里山町の由来を調べてみたところ、「にしのみやインターネットテレビ」のサイトに、町名の由来 一里山町と田近野町という動画がありました。
10分間の動画ですが、面白いので見入ってしまいました。一里山町については6分過ぎより始まっていますが、その由来については
一里山町
昭和27年に命名。旧字名ではない。
一里山は一里塚にちなむ場合が多い。この地に一里塚があったか不明だが、町は旧街道に面している。
と説明しています。「西国街道の一里塚があったかも?」といったもので、甲山基点4キロという話も出ていません。
[87282] 2015年 2月 12日(木)02:07:18【2】ニジェガロージェッツ さん
中一里山
いろいろとレスをしなければならないのですが、それらは後日に別稿を起こすことにして、今日は情報提供を先にさせていただきます。
自治体越え地名の話題が続いていますが、字まで見ていくと神戸にも複数の区にまたがるデカイのがあります。

神戸市北区山田町下谷上の字に「中一里山」というのがあるのですが、小字にもかかわらずその範囲が広大で、同じ神戸市の区で接していないのは東灘区と垂水区のみという、実に灘区六甲山町中一里山との境から、西区伊川谷町布施畑との境まで、直線距離で10キロに及ぶ東西に細長い領域を持ちます。
Googleの地図による領域の図示では、東は再度公園あたりで切れていますが、実際には灘区六甲山町中一里山との境である、通称「まむし谷」と呼ばれる沢に達しています。
(pdfファイル神戸市地番参考図を見ると中一里山だけではなく、シャクナゲも両区に跨っている)
東隣の灘区六甲山町中一里山も、元々は山田町下谷上中一里山の一部だったところを、昭和47年5月の六甲山町新設によって下谷上より切り離され、当時の兵庫区(北区は昭和48年8月設置)より灘区に移管された部分です。

この中一里山については、12年前の拙稿[15879]に「一里山論争」として書き込みした場所です。
江戸期より「一里山論争」という六甲山脈南の神戸(兵庫)側と、北の山田側に、両者の境界を巡っての紛争が起きています。
これは、神戸の背山である六甲山脈に属する一連の山域を、南から一里ごとに「口一里山」「中一里山」「奥一里山」と称して三つに分け、それぞれがどちら側の所領かを争ったものですが、結局「口」と「中」は旧兵庫と神戸側の村々が入会権を持ち、「奥」は山田村の所属になり、互いに他を侵せない取り決めになったようです。

[15879]を補足すると、入会権(共同で利用する権利)こそ兵庫と神戸側の村々に認められましたが、中一里山の領域は山田に属しており、それが現在の山田町下谷上中一里山に至っています。
長田区雲雀ヶ丘の大部分も元は山田町下谷上中一里山に属し、昭和40年の町の起立と同時に兵庫区より長田区に移管しています。同様に昭和55年に町の設定と同時に灘区に移管した摩耶山町も北区山田町下谷上でしたから、ここも中一里山だったのでしょう。もちろん、北区南部の町々、ひよどり台(昭和50年起立)、ひよどり北町(昭和53年起立)、ひよどり台南町(平成16年起立)、中里町(平成元年起立)は元々中一里山の一部でした。

一方、中一里山の南に連なる「口一里山」については、現在残っているものでは「中央区神戸港地方口一里山」があります。中央区で町の起立していない山間部のうち、旧生田区(旧神戸区)の部分が神戸港地方ですが、そのうち、堂徳山、市章山、碇山を結ぶ稜線の北側一帯の北区との境界までが(字)口一里山で、唯一大龍寺の敷地周辺のみ(字)再度山となっています。
また、長田区には「一里山町」が存在し、この町は昭和16年に林田区長田村(字)口一里山の一部に起立した町で、兵庫区の里山町もまた、昭和24年に兵庫区夢野村(字)口一里山に起立した町名です。

コレクション「自治体越えの地名」にこれらが該当するかの判断は、ご収集のグリグリさんにお任せするとして、「中一里山」と「口一里山」を、その歴史的な背景を踏まえて別々の地名と捉えた場合では、
北区山田町下谷上中一里山/灘区六甲山町中一里山
のみの該当になり、
「一里山」でひとつの地名として捉えた場合には、
北区山田町下谷上中一里山/中央区神戸港地方口一里山
北区山田町下谷上中一里山/長田区一里山町
も該当します。
また、中一里山と同じく、昭和47年5月の六甲山町新設により分割された兵庫区山田町上谷上(字)シャクナゲについては、
北区山田町上谷上シャクナゲ/灘区六甲山町シャクナゲ
が該当しますが、上谷上側のシャクナゲについては、pdfファイル神戸市地番参考図しか見つかりませんでした。

なお、12年前の拙稿[15879]には、訂正すべき部分がありました。
大正11年に「神戸都市計画区域」が設けられ、その区域に当時の神戸市全域(現在の中央、兵庫、長田、須磨区)に、武庫郡8カ町村(現在の灘、東灘区)と山田村(北区南部)のうち「奥一里山」と呼ばれる神戸の背山が加えられました。
このうち、「奥一里山」は「中一里山」の間違いです。

「神戸港地方 こうべこうじがた」ですが、(中略)神戸区の区域となった「口一里山」「中一里山」の部分に付けられたようです。
この文章より「中一里山」は削除し、「口一里山」のみ該当します。

間違いがあり、それに12年間も気がつかなかったこと、謹んでお詫び申し上げます。

【2】長田区雲雀ヶ丘、灘区摩耶山町の記述を追加
[87158] 2015年 1月 18日(日)02:15:10ニジェガロージェッツ さん
文化
日付が変わりましたが、小生の自宅を全壊させ、店と仕事場を全焼させたあの忌まわしい記憶から、早くも20年の1・17を迎えました。神戸市のサイトには、昨12月より阪神・淡路大震災「1.17の記憶」と題して、震災当時の写真画像をオープンデータとして公開しています。小生の住む長田区だけでも264件もの画像が出てくる膨大なものです。
それよりも目が釘付けになったのが、関連サイトとしてリンクの張ってある震災写真アーカイブマップです。このサイトでは、長田区の新長田駅の南北と、その西に隣接する鷹取東、野田北部の、震災前後の町並みと現在の街並みが閲覧できるもので、20年、あるいは20数年前の失われた新長田界隈が鮮明に蘇ってきます。
しかしながら、雑な言い方をしてしまえば、今も昔も新長田は新長田なもので、そこに暮らしている者としては、どちらも「我が街」に違いはなく、同じ空気が流れているようにさえ感じていました。もちろん、その変貌振りは事実として認識していても、改めて当時の街並みに接してみると、あまりもの違いに驚愕します。建物が違うのは当然ですが、まず道路が違う。同じ道路が昔はこんなにも道幅が狭かったのかと気づかされます。

さて、新長田界隈は大規模な再開発事業が展開されて街並みは一新されましたが、震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
震災関連の報道ではあまり取り上げられませんが、長田区を隅々歩いていると、むしろこういった以前の街並みが残っている地域が、復興の影で衰退の一途を辿っているのではと強く感じます。

表題の「文化」という言葉、語頭にアクセントを置いて「ぶンカ」と読めば「カルチャー」の意味ですが、関西方言で「ブんカ」と読めば全く意味が違ってきます。これは「文化住宅」を意味しますが、[54539] Issieさんのおっしゃる関東など標準語でのモダンな文化住宅とも違って、当地では木造2階建てで4~10世帯程度が入居できるアパートのことを言い、その多くが昭和30年代から45年ぐらいまでの高度経済成長時代に建てられたものです。何が文化なのか良く分かりませんが、それまでの長屋などの集合住宅には浴室がなく、小さいながらも風呂場があるのが「文化的」だろうと言ったという説、などを聞きます。

その当時の神戸市では重工業が盛んな都市として人口は増加の一途を辿っており、一方で須磨区北部や現在の西区(当時は垂水区西神地区)のニュータウン群は開発前のことで、増加する神戸市人口の受け皿として、長田区では既存市街地の新長田界隈からは距離のある、高取山周辺の山麓部や丸山や名倉など北部の、坂道の多い丘陵地帯が所狭しと開発され、文化住宅も数多く建てられました。震災前にはこれらの文化住宅でも空き家となっているのは少なかったように記憶しています。
しかし、今では多くの文化住宅がまるで廃墟の如くになっています。神戸市を覆う不況もあるでしょうが、震災からの復興過程で新長田駅周辺などの便利なところに大規模な再開発があり、一方で郊外の西区などには広い一戸建て住宅の多いニュータウン群が出来、文化住宅の需要が急減したのでしょう。坂道の多さ、交通アクセスの見劣りなども不利に働いていることでしょう。とはいえ、解体するのも多額の経費かかり、更地にした後の土地利用などのことで、潰すに潰せないと放置しているのが現状でしょうか。
長田区の空き家率は18%を超え、市内9区の中では最も高くなっているようです。(神戸の住宅
特に文化住宅での空き家の問題、復興の影となった神戸特有の問題なのか、全国的な問題なのかは分かりません。
時代遅れの文化住宅など、確かに見劣りはするでしょうが、ライフスタイルに合わせれば、家賃も安く、魅力があるとも聞きます。これらの空き家を活用していくのか、それとも空き家のまま社会問題化してしまうのか、本格的に人口減少時代を迎えた神戸市、特に兵庫区以西の各区で非常に気になるところです。
[86682] 2014年 11月 17日(月)00:12:41【3】ニジェガロージェッツ さん
湊川隧道
地元ネタにて恐縮です。
土木の日(11月18日)を記念し、その直近の日曜日である昨日は、湊川隧道が10時から15時まで特別に一般公開され、ここを通り抜けることができ、去年につづいて今年も行ってきました。あまりにもローカルな話題にて、まず「湊川隧道とは何ぞや?」からご説明しなければならないでしょうか。詳しくは湊川隧道保存友の会のサイトや、兵庫県の関連ページをご覧ください、と言ってしまえば身も蓋もないので、ここでは明治30年代の神戸の街との湊川との関係を主に述べてみます。

湊川といえば、楠木正成が大往生を遂げた古戦場(湊川の合戦)としても有名で、兵庫の市街地を流れ、明治期にはその西側を湊西区、東側を湊東区として兵庫の市街地を二分していました。しかし、20世紀以降の神戸には「湊川」という河川はもはや存在せず、現在流れているのは「新湊川」と呼ばれています。
日清日露の両戦間期の神戸市に於いては、急速な市街地の発展が見られ、神戸区、湊東区はすでに発展の余地はなく、早々に狭い市内は飽和状態となることは明白でした。明治29(1896)年には西隣の湊村4か村全村(平野、石井、烏原、夢野)、林田村8か村全村(今和田新田、吉田新田、御崎、東尻池、西尻池、長田、駒ヶ林、野田)、須磨村10か村のうち1村(池田)を編入し、旧市内の4区会(葺合区、神戸区、湊東区、湊西区)に湊区、林田区を加えて6区会が設けられました。
この新市域を加えた神戸市では、湊西区出在家町の新川運河より林田区東尻池村の浜辺に至る兵庫運河の開削(明治32年完成)以外に、「3大土木工事」と呼ばれるプロジェクトが行われ、東から葺合区葺合町の山間部に五本松堰堤を築堤し布引貯水池の建設(明治33年完成)、湊区烏原村に立ヶ畑堰堤を築堤し烏原貯水池の建設(明治38年完成)、そして湊西区兵庫港地方から林田区長田村に至る湊川の付け替え工事(明治34年竣工)で、いずれも水利工事でした。

従来の湊川は湊区湊川町1丁目と湊西区東山町1丁目(湊川町、東山町ともに当時はなく大正期に起立した町名で、正しくは湊区石井村、湊西区兵庫港地方と書くべきですが、現況と照らしてわかりやすいので、ご容赦のほど)に架かる洗心橋より下流は、今の東山商店街、から新開地本通り,川崎本通りを流れ神戸港に注いでおり、当時の神戸市都心部を貫き、今ある湊川公園があたかも橋上公園に見える(下を通る道路は歴とした「湊川トンネル」)ことからも分かるように、天井川を形成し大雨の度に洪水を引き起こす暴れ川で、市街地への被害だけでなく、この土砂の流入による神戸港の埋没が問題視されていました。
多くの河川がそうであるように、上流より運ばれる土砂は河口沖合いへ堆積され、海岸線は沖へ突き出た形になります。湊川河口も兵庫津の沖合いへと成長し、江戸時代初期には「川崎町」の町名が付けられています。その後はさらに東に突き出し、河口右岸は兵庫津の出町となり、こちらは「東出町」「西出町」、左岸は「東川崎町」と名づけられました。いずれも江戸時代に出現した町名で、現在に至っています。
明治のはじめには河口の東出町や東川崎町にアメリカ人が製鉄所を建造したり、加賀藩が造船所を造ったりしたものの後に官営の兵庫造船所となり、それを薩摩出身の川崎正蔵氏が明治19年に払い下げを受けて開業したのが川崎造船所です。地名の湊川川崎と創業者の川崎姓が偶然の一致を見たものです。
新開地本通りに続く現在の国道2号線以南の旧湊川跡地は「川崎本通り」と呼ばれていますが、こちらは川崎重工業正門に向かう道であることから、東川崎町からの地名由来というよりも、企業名のにおいがプンプンします。
なお、河口の湊川川崎は明治時代の地図上では「湊岬」と表記されています。

さて、付け替えられることになった湊川は洗心橋からは西へ向かい、林田区長田村を流れる苅藻川に合流させるのですが、途中に標高85mの会下山が立ちはだかります。同じく明治4年に付け替えとなり、紀州人の加納宗七が請け負った新生田川の付け替え工事(旧生田川は現在の加納町)では、葺合村の開削工事でことが足りましたが、時を経ること30年の土木技術の進歩もあり、会下山にトンネルを打ち抜くことになりました。これが湊川隧道です。しかし、それでも人力掘りにレンガ積みですから、相当な難工事であったことは想像に難くありません。全長600mにおよぶ湊川隧道は、当時では河川トンネルとしては世界最大規模のものだったそうで、明治中期の土木技術を窺い知る、貴重な歴史土木遺産です。

一方、付け替えられて新たに市街地「新開地」と命名された旧湊川については、洗心橋から下流へは金比羅橋(現在の湊川公園辺り)、新橋(現在の新開地駅辺り)、湊橋(湊町1丁目辺り)、土橋(東出郵便局辺りか?)の4つの橋が架かり、総じて天井川で、湊橋の少し下流を通った山陽本線(現在のJR線)の線路も川底をトンネルで抜いて敷かれていました。
現在の新開地商店街を歩くと、神戸高速新開地駅を出て北側(新開地1・2丁目)は結構勾配のある坂道となり湊川公園に至ります。この勾配は、この坂道を境に、下流の土手は兵庫神戸の市街地と同じレベルにまで削剥し平坦にしたことを物語っています。

最後に話は湊川隧道に戻りますが、この隧道は永らく「会下山トンネル」または「会下山隧道」と呼ばれており、地図にもそのように表記されていました。角川書店昭和63年発刊の「兵庫県地名大辞典」にも「会下山トンネル」の項目で出ています。
しかし、平成7年の大震災に隧道が被災した際、その修復工事で構内より「湊川隧道」と書かれた建設当時の銘板が発見されたことにより、現在ではこれが正式名称として認められることとなりました。「会下山・・」としたのは、前出の湊川公園の下を走る道路を「湊川トンネル」と呼ぶことから、これとの混同を避けたのかと推測します。
平成12年12月には、北側に新たに倍の断面積をもつ「新湊川トンネル」が竣工、通水し、明治時代から100年に渡って流れた湊川隧道は河川トンネルとしての役目を終えることとなりました。

【2】川崎本通りに関する記述を追加
【3】訂正(誤)夢野村→(正)石井村 湊川町1丁目の明治時代の大字名
[86454] 2014年 10月 13日(月)14:11:32ニジェガロージェッツ さん
パナフィジン島
[85818] グリグリさん
地図の作成お疲れ様です。7月13日についに47都道府県が出揃ったこと、大変遅くなりましたが謹んでお祝い申し上げます。
小生もいつも楽しく拝見させていただいております。

さて、[85731] にてリリースのご案内のあった東京都の地図のうち、鳥島が小笠原村の所管になっています。確かに、小笠原村の母島列島の妹島に付随する小島で「鳥島」という島は存在しますが、地図に描かれている鳥島は、形状と大きさから、これはどの町村にも属していない東京都直轄で八丈支庁が管理する鳥島のことでしょう。この鳥島に合わせてベヨネース列岩、須美寿島、孀婦岩の四島については、hmtさん[22460]の「南方四島」問題にて
これら「南方四島」につき、青ヶ島を飛び越えたかたちで八丈町が領有権を主張し、青ヶ島村が強く反発した結果、わが国で唯一どこの市町村にも帰属しない地域として東京都八丈支庁が管理している。
と記述があります。また他の「鳥島」と区別するためか「八丈鳥島」とも「伊豆鳥島」とも呼ばれているらしいです。明治期には島のアホウドリ捕獲のため、移住者があったものの、1902(明治35)年8月の大噴火で住民125人全員死亡(気象庁)という、恐ろしい火山災害がありました。

#鳥島の件、地図のリリース直後から気になっていたのですが、すぐに誰か常連さんからのご指摘があるだろうと推察し、発言は控えていたのですが、記事検索したところ無さそうなので、時期を逸してしまいましたがご報告まで。既にご指摘があったのであればご容赦のほど。

ところで、何気なくソ連製の日本地図を眺めていると、パナフィジン島(остров Панафидина)と書かれていました。すぐ横にトリシマ(Торисима)と括弧書きで注釈がありましたから、件の八丈支庁鳥島のことです。
気になって調べてみても詳細なものはなく、ただロシア語版のウィキペディアでは「パナフィジン島」で出ていました。ロシア帝国の海軍士官で欧露部トヴェリ県出身のパナフィジン・ザーハル・イヴァノヴィチ(1786~1830)という人物が1819~20年にヴォロジノ号にて地球一周に出た際に、日本南方の太平洋上に島を発見し、これを「三丘島(остров Трех Холмов)」と名づけ、その後、クルーゼンシュテルン海軍大将により「パナフィジン島」と改称したようです。

日本領土で他国に日本名以外で呼ばれている地名、結構あるのかな?
[85092] 2014年 2月 12日(水)09:05:54ニジェガロージェッツ さん
США[スシャー]
久しぶりに落書き帳を閲覧しています。なんだか懐かしい気分です。
出勤前の取り急ぎ指摘のみにて失礼いたします。

[85076]hmtさん
アメリカ合衆国は、United States of America の翻訳で、S に相当する С の部に入っています。

この一文を見ると States の S かと誤解を与えるので、補足しておきます。
アメリカ合衆国はロシア語で
Соединённые Штаты Америки [サイヂニョーンヌィェ シタートゥイ アメーリキ]と言い、
一般には США と略されています。
つまり、S(ロシア語で С)に相当するのは United です。
なお、語順も英文そのままなのですが、ロシア語で Америка[アメーリカ]が、「アメーリキ」に変化しているのは、英文of 「~の」と同じで格変化(生格)しているからです。
[84150] 2013年 9月 28日(土)00:23:38ニジェガロージェッツ さん
早速の修復作業ありがとうございました
[84146] グリグリさん
『区』以外にも同様の不具合があったとのことで、膨大な作業であったと推測します。いつもながらのサイト管理作業へのご尽力、頭が下がります。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。


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