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okiさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[65419]2008年6月6日
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[65405]2008年6月5日
oki
[65365]2008年6月2日
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[65311]2008年5月30日
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[65136]2008年5月16日
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[65120]2008年5月14日
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[65091]2008年5月11日
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[65081]2008年5月11日
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[65062]2008年5月11日
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[64173]2008年3月31日
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[65419] 2008年 6月 6日(金)02:37:21oki さん
静岡新聞 徳島新聞 配達する人
[65407] EMM さん
全国新聞折込広告部数集計表を見てみました。
これもなかなか興味深いデータでした。
が、気になった点が何点か。

はい、気になる点がいくつか上がってくるだろうと思っていました。
まず、このデータの性格ですが、広告主が新聞に折込広告を入れる場合の、部数(料金)算定の基礎資料として提供されているものです。ローデータは各販売店の新聞ごとの配達部数で、それを折込専門の広告代理店が集計・整理したものだと思います。したがって、販売店側からのデータ提供がなければ、新聞ごとの部数は分かりません。

静岡県は折込に関して全国でも特殊な地域らしく、どのデータを見ても、新聞別の部数が明らかになっていません。わたしが昔使っていたデータでは、上の部数表とは逆に、全国紙を含めてほぼすべてが静岡新聞の部数になっていました。おそらく、業界内の何らかの事情で、販売店が新聞ごとの部数を公表しないのだと思います。

次に、秋田、山形などの地域紙のことですが、これらは、「部数が少なすぎ」「折り込み広告が入らない」ために、集計表に載っていないのだと思います。大崎タイムスのように総部数7000部程度の新聞でも掲載されていますから、紙名のない新聞はそれ以下の部数しかないのでしょう。
販売店が配達するのは一般紙だけでなく、スポーツ新聞や各種業界紙も対象で、市郡単位でまとめれば数百部程度になるものもあると思いますが、これらは部数表には掲載されていません。小規模な地域紙も、これと同じような扱いになっていると考えられます。

なお、この部数表やABC協会の公表する部数は、いわゆる公称部数で、実際の配達部数とは異なります。新聞業界には「押し紙」と言われる慣行、有り体に言えば部数の水増しがあることは公然の秘密です。押し紙について説明し出すとややこしくなるので詳しくはこのサイトなどを見ていただきたいのですが、一般的には公称部数の2割、場合によってはそれ以上の押し紙があると言われています(新聞社自身はもちろん、テレビも週刊誌も報道しないので具体的な数値は不明ですが)。したがって、部数データを見る場合には、この分を割り引いて考える必要があると思います。

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徳島県が際だっている感があるのは、徳島新聞の占有率だけではなく、ライバル紙が無いあたりも影響しているかも。
「とくしん」が他の県紙と比べても際だった占有率を示す理由として考えたのは、ざっと次のようなことです。
・すでに県内で圧倒的な地位を占めているため、県内資本が新たな新聞社を立ち上げて読者を拡大することは困難(販売店もほとんど徳島新聞が抑えていますからね)。
・隣接する香川の四国新聞、高知の高知新聞も県紙であり、中日新聞や西日本新聞のようなブロック紙と違い、各県内のみを購読対象としているので、徳島まで進出する動機に乏しい(もしそれをやると徳島新聞から反撃されかねません。また、山陰中央新報が鳥取県で主な販売エリアとしているのは境港や米子といった島根県に隣接する都市で、距離的には鳥取市より松江市に近い地域です)。
・全国紙にとって、総部数30数万部に過ぎない徳島は、圧倒的な影響力を持つ地元紙を相手に多大なコストをかけて販売合戦を仕掛け、部数を拡大するほどの魅力に乏しい。

ただこのような状況は、多かれ少なかれ、県紙を持つような地域に共通するはずで、ほかにないかな、と思いついたのが、テレビ視聴のあり方です。
以前にも話題になったことがあると思いますが、徳島の民間テレビ局は徳島新聞と関係のある「四国放送」のみ。この局は、一応は日本テレビ系列なのですが、民放が1つしかないことなどから、ほかのキー局の番組も流しています。しかし、県民の多くは四国放送など見ていません。
県の人口が集中する東部の沿海地域には、生駒山上から発射される大阪キー局の電波が直接届き、四国放送と合わせて5局の民放が見られます(場所によっては和歌山放送や神戸のサンテレビも)。この場合、ほかの県と違って地元局の放送ではなく、大阪の放送が直接見える、という点が重要です。テレビでから流れるニュースは朝日新聞ニュースや毎日新聞ニュースでしたし(今もやっているのだろうか)、枚方パーク菊人形祭りのCMも入ります。

徳島県民にとっての大都会は今も昔も大阪(および神戸)です。東京が日本の中心であるのは分かっていますが、歴史的なつながりが深く、移住者も多い大阪への親近感は非常に強いものがあります。その大阪の情報が、テレビを通してダイレクトに入ってきますから、県外の情報を知るために全国紙を購読する必要がありません。
つまり、県内情報は徳島新聞、県外情報はテレビ、という使い分けができるわけで、とくしんの異常なまでのシェアの高さは、その点が一つの要因ではないかと。今思いついた考えですが。

ただ、県外情報がテレビで得られるためか、徳島新聞の県内ニュース偏重たるや、それはもうため息が出るほどです。実家はずっと全国紙を取っていたので、たまに学校などで徳島新聞を読むと、報道内容の落差に愕然としました。国内外の政治、経済、社会報道はほとんど共同や時事の配信記事で、ほかはすべて県内関係のニュースですからね。

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ついでなので、もう一点、新聞に関わる話題を。
地方は違うでしょうが、東京などの大都市圏の場合、日々新聞を配っているのは多くが新聞奨学生と言われる勤労学生です。販売店に住み込んで新聞を配り、その給与で生活費と学費をまかなっている健気な若者達です。

この新聞奨学生、かつてはすべて日本人でしたが、豊かになった代わりに根性の無くなった日本の若者にはもはや勤まらないようで、ここ10年ほど、わが家への配達をしてくれているのは全員外国から学びに来ている人たちです。覚えているだけで3~4人いますが、一人は17度線を国境にしていた国、ほかは38度線の南の国から来た若者です。
どこの学校に通っているかまでは聞いていませんが、みんな2~3年は継続して流暢な日本語を話せるようになっているので、仕事と学業を両立させた上で帰国しているのだと思います。

こういう形で、日本人がやらなくなった労働の、外国人への置き換えが進んでいるのですね。首都圏のほかの地域や関西圏などでも、自宅への新聞を配っているのは外国人の奨学生、という方は多いのではないでしょうか。
[65405] 2008年 6月 5日(木)02:48:23oki さん
吉野川の潜水橋
[65375] 役チャン さん
例えば河口から100キロまでの間の橋について、吉野川と多摩川をどなたか調べた方はおいででしょうか? 100キロというと、吉野川では阿波池田のあたりか、多摩川だと小河地ダムあたりでしょうか。ついでに両側の自治体の人口などもわかると面白いのですが。

何についても調べてくれている人がいるもので、吉野川の橋の数はこちら、多摩川はこのサイトにデータがあります。
両者を比較すると、吉野川は河口の新吉野川大橋から高知県境に近い大歩危橋までで44橋(高徳線、土讃線の3鉄橋を除く)、多摩川は羽田空港南側の首都高湾岸線から小河内ダム手前の境橋までで62橋(水道管のみの多摩川横断水道橋を除く)です。
一方、流域人口は吉野川が約57万人、多摩川が425万人で、1橋当たりの人口は吉野川約13,000人、多摩川69,000人となります。整理すると以下の通りです。
 橋数人口1橋当人口(含鉄道橋)1橋当人口
吉野川44569536129444712118
多摩川624250000685487457432
多摩川/吉野川1.417.465.31.574.74

なお、輸送手段として同等と考えて鉄道の鉄橋も含めると、吉野川が上記3橋、多摩川が14橋あります。合わせて、吉野川47橋、多摩川74橋で、1橋当たり人口は上の通りです。
吉野川に対する多摩川の比率を計算すると、橋数は多摩川が吉野川の1.4倍ありますが、人口が7倍以上なので、1橋当たり人口では多摩川流域は吉野川の5.3倍、鉄道橋を含む場合でも4.6倍となります。それだけ、吉野川流域の方が単位人口当たりの橋数が多いということです。ただ、これから単純に、
要するに、いかに地方の道路に手厚いか、ということのデータによる説明にもなるかも知れないと思ったからです。
と言えるかどうか。
徳島県の人口は80万人で、世田谷区と同程度。その人口が、東京都、神奈川県を併せたと同じくらいの面積に散在しているわけですから、徳島の人口密度は東京の1/30に過ぎません。同じ1本の橋を架けても、それを日常的に利用する人口に大きな差があり、建設の投資効果が落ちるのは、ある程度は仕方のないことだと思います。もしも、吉野川での1橋当たり人口を多摩川と同じにするべきだ、とするのであれば、紀伊水道から高知県境までで8本の橋しか架けてはいけない、ということになってしまいます。

もう一つ考えなければいけないのは、「同じ1本の橋」と言えるかどうか。かつて、吉野川の特に中下流部には、潜水橋と言われる橋が沢山あり、現在でも一部が残っています
潜水橋とは、出水時に文字通り水流に潜ってしまう橋で、平常時水面からの高さ1~2mくらいのところに、自動車が1台通れる程度の細い橋桁を架けたものです(四万十川水系では沈下橋と呼ばれるようです)。洪水の水圧や流木で流されないよう、水流に直交する断面を可能な限り小さくしてあり、欄干はもちろん、ガードレールすらありません(実物写真はこちらをご覧下さい)。
当然、きわめて危険な代物で、増水時の通行は自殺行為ですし、平水時でも、ハンドル捌きを誤ると水中に落下しかねません。徳島にいた頃には、潜水橋からの落下事故の報道を何度か耳にしたことがあります。

徳島県は交通安全対策として潜水橋の解消を進めているようで、現在吉野川に架かっている新しい橋の相当部分は、潜水橋の架け替えに伴うものでしょう。
それでもまだ9本くらいの潜水橋が残っているようですが、このような潜水橋と多摩川に架かる高速道路橋などとを同列に論じるのは無理があり、正確な比較のためには個々の橋の構造まで調べていく必要があるように思います。

※ 上記を書いている間に[65401] にまん さん の「吉野川と多摩川プラスアルファ」がありましたが、そのまま書き込みます。多摩川の橋はあきる野市より上流の方が多いようで、川幅が狭まって橋が架けやすくなるのではないでしょうか。
[65365] 2008年 6月 2日(月)02:01:56oki さん
新聞三国志
[65313] inakanomozart さん
したがって、静岡新聞のシェアは平均すると51.9%になるのかもしれません。
それにしても、同じ県内で偏りがあるのは静岡県独特の現象かもしれませんね。

これについては昔むかしのアーカイブス地元の言論機関 -地方紙の研究-がありますが、補足すると、静岡以外にも次のような県で地域別に購読紙の偏りが見られます。

青森県:
八戸市と三戸郡はデーリー東北、それ以外は東奥日報で、弘前市を中心とした陸奥新報というエリア紙も存在する。

滋賀県:
全国紙が過半を占めるが、大津市に加えて草津市、守山市など湖南地域に京都新聞が勢力を伸ばす(以前に比べて部数が減っている模様)。彦根市、長浜市、米原市など湖東では中日新聞も比較的強い。

兵庫県:
尼崎~芦屋のいわゆる阪神間諸都市では全国紙が圧倒的だが、神戸市以西では神戸新聞がトップシェア。加古川、姫路など、西部の播州地域ほど神戸新聞の比重が高くなる。

山口県:
基本的に全国紙の地域だが、広島県に隣接する岩国市では中国新聞がシェアトップで、周辺地域にも食い込む。宇部市では宇部日報というエリア紙が一定の比重を占める。下関市に山口新聞があるものの、部数はわずか。

福岡県:
北九州市は山口県と同じく全国紙の地域で、行橋、中間、豊前など周辺地域も同様。西日本新聞は福岡都市圏および筑後地域でトップのシェアを誇り、筑豊は両者が拮抗。ブロック紙である西日本新聞は、佐賀県、長崎県などでも一定の部数を確保。

主なものはこんなところでしょうか。福島県の福島民報と福島民友、沖縄県の琉球新報と沖縄タイムスには地域的な偏りはなさそうです。
また、静岡の場合、中日新聞は浜松と磐田市で全体の1/3弱、ほかでは取るに足りない勢力です。

実は、都市(郡)別の新聞部数を把握しているのは、新聞社よりもむしろ折込屋さん、正確に言うと折込広告専門の広告代理店です。10年近く前に、折込に関係する業務を担当したことがあり、全国データも持っているのですが、古くなっている部分もあるので、こちらの全国新聞折込広告部数集計表を参考にしました。興味があればご覧下さい。


[65309] EMM さん
県内における占有率がトップなのは徳島県の徳島新聞で、なんと県内の80%以上が「とくしん」なんですね。はたから見ると「高すぎ?」と思ってしまうぐらい。
まさしくその通りで、「とくしん」のシェアは圧倒的です。全国紙の部数には、官庁や学校など公共機関での購読や県外からの一時転勤者が結構多いのではないかと思われ、地元民で徳島新聞以外を購読している人はごくわずかです。
父親はその数少ない他紙購読者で、ずっと日経を取っているのですが、困ることがあるそうです。それは、もう高齢なので亡くなる知人がけっこう多く、訃報欄のない日経では死亡の情報が入らず、義理を欠いてしまう畏れがあること。
若者が「紙」の新聞を読まなくなって新聞購読者の年齢層が高くなっているようですが、特に高齢者にとって訃報欄は必需情報であり、地方新聞の存在意義の一斑はそこにある、と言えるでしょう。
[65311] 2008年 5月 30日(金)03:11:55oki さん
逆転駅名総覧
[65282] 鳴子こけし さん
誰か全駅調べてくれないかな~(←他力本願)。

ということで、全駅調べてみました。
スナフキんさんが、自分のホームページに「日本全国駅名一覧(2008.04.01)」というファイルをアップしてくれていて、9108駅記載されています(大変有り難うございます)。このデータに検索をかけた結果では、皆さんがすでに書き込まれているものを含め、全部で74組ありました。
「組」というのは同字異駅が複数あるためで、関わっている駅は189駅になります。すべて2字の駅で、3字以上の駅には逆転はない模様です。

全部挙げると結構大変なので、面白そうなものを。
まず、複数組の駅が関わっているもの。最大で5駅が関連しているのが4組あり、すべてに「山」の字が関係しています。
駅名読み路線←→駅名読み路線
山下やました東:常磐線←→下山しもやま西:山陰本線
山下やました#東急世田谷線←→下山しもやま土佐くろしお鉄道阿佐線
山下やました能勢電鉄妙見線

本山もとやま名古屋市営東山線←→山本やまもと阪急宝塚本線
本山もとやま四:予讃線←→山本やまもと九:筑肥線
本山もとやま松浦鉄道西九州線

北山きたやま東:仙山線←→山北やまきた海:御殿場線
北山きたやま真岡鐵道真岡線
北山きたやま京都市営烏丸線
北山きたやま#土佐電気鉄道[伊野線]

東山ひがしやま北:函館本線←→山東さんどう和歌山電鐵貴志川線
東山ひがしやま京都市営東西線
東山ひがしやま近鉄生駒線
東山ひがしやま#岡山電気軌道[東山本線]

4駅または3駅では次の通り。こちらは「山」に加えて「田」、「野」、「中」が目立ちます。
田野たの土佐くろしお鉄道阿佐線←→野田のだ西:大阪環状線
田野たの九:日豊本線←→野田のだ阪神本線

神田かんだ東:東北本線←→田神たがみ名鉄各務原線
神田こうだ松浦鉄道西九州線
神田しんでん#鹿児島市営[唐湊線]

中田ちゅうでん四:牟岐線←→田中たなかしなの鉄道
中田なかた東:五能線
中田なかだ横浜市営1号線

山崎やまさき北:函館本線←→崎山さきやま平成筑豊鉄道田川線
山崎やまざき名鉄尾西線
山崎やまざき西:東海道本線

山田やまだ京王高尾線←→田山たやま東:花輪線
山田やまだ長良川鉄道越美南線
山田やまだ阪急千里線

中野なかのわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線←→野中のなか松浦鉄道西九州線
中野なかの東:中央本線
中野なかの上田電鉄別所線

上道じょうとう西:山陽本線←→道上みちのうえ西:福塩線
上道あがりみち西:境線

読みも逆転しているのは4組で、すべて読みが2字です。
駅名読み路線←→駅名読み路線
谷津やつ京成本線←→津谷つや東:陸羽西線
矢野やの西:呉線←→野矢のや九:久大本線
和佐わさ西:紀勢本線←→佐和さわ東:常磐線
和知わち西:山陰本線←→知和ちわ西:因美線

山陰本線の和知駅と下山駅は、逆転駅名を持つ駅同士が同一自治体内で隣接しているまれな例です。ほかにあるかどうかは確認していませんが。

駅間距離では、やはり[65298] 今川焼 さん の谷保←→保谷が一番近そうです。


データの処理を行なっただけで、地図上ですべての駅を確認したわけではないので、間違っていたらごめんなさい、です。
[65136] 2008年 5月 16日(金)01:11:30oki さん
四日市次郎丸村についての考察
[65106] むっくん さん
本当に四日市次郎丸村という1つの村であったのか、という疑問を私は持っています。より正確には、四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成していたと考えるのが自然なのではないか

となると、市区町村変遷情報・広島県に記載されている
2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市次郎丸村

2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市村/次郎丸村
とでも記載した方が実は実情をより良く表していることになります。以上の私の考えに対し、皆様の意見を伺いたい次第です。

私の考えは、「四日市村/次郎丸村」とする必要はない、とするものです。理由は以下に述べますが、この件に関しては四日市次郎丸村の実態と、その表記に分けて考える必要があると思うので、説明を2つに分けます。

1.四日市次郎丸村の実態
この村について考えるには、むっくんさんも触れられた寺町村の説明から始めなければなりません。
寺町村は天保国絵図記載の石高が2800石という大村ですが、実際には4つの村に分かれていました。遅くとも16世紀初めには次郎丸方など4地域からなっていたと見られ、江戸時代初頭に四日市次郎丸、吉行、土与丸、助実の4村に分立します。
慶長6年(1601)に福島正則の行なった検地では寺町村として一括され、それ以降も、天保郷帳など幕府に提出された文書では寺町村とされていますが、広島藩内部の文書では独立した4つの村として扱われていたようです。庄屋などの村役人も各村ごとに居たと思われます(4村分立の正確な年次は不明です。また、このように幕府に出す文書と各藩内部の文書とで、村の扱いが異なることはままあることです)。
次に四日市と次郎丸ですが、文書上に名称が初めて現れるのはともに天文年間(1630~50年頃)で、それ以前から地名が存在したことは確実です。次郎丸は、上に述べた寺町村を構成する地域の一つ、次郎丸方として初出しています。四日市は天正年間(1670~90年頃)に4の日に市を開いていたとされ、その後山陽道(西国街道)の宿場になっています。次郎丸の一部が町場になったもので、街道に沿って人家が密集する地域が四日市、その周りの田園地帯が次郎丸であったと考えられます。町場と農村という2つの地域からなっていたわけですが、先のように近世初頭から、2つ合わせて四日市次郎丸村という1つの村を構成しており、江戸期を通じて、庄屋職も1人しか置かれていません。
なお、天保国絵図では寺町村のほかに四日市町屋敷分、四日市田畠分が高付けされていますが、これは町場である四日市の分を別に表記しただけで、実際には、上記のように四日市次郎丸村という1つの村でした。
これを証拠立てる資料が、明治3年の郷村高帳です。廃藩置県の前年の文書で、この種の文書としては広島藩が最後に作成したものだと思いますが、「四日市次郎丸村」の文字がはっきりと読み取れます。これから推定して江戸期の広島藩内では、国絵図など幕府文書の記載とは無関係に、四日市次郎丸村として扱っていたことは確実です。
当然、明治以降も四日市次郎丸村という1つの村であり、四日市村/次郎丸村の中に四日市村、次郎丸村があったのではない、と考えます。
(※以上の記述は、「日本歴史地名大系 広島県の地名」(平凡社)および「角川地名大辞典 広島県」に基づいています。)

2.四日市次郎丸村の表記
むっくんさんは、
素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません
との表現を繰り返されていますが、これは、引用されている各種明治期文書の次のような縦書表記について述べられたものだと思います。
 四 次
 日 郎
 市 丸
  村
(※以下では、このような表記を「併称表記」と呼び、横書きでは「四日市|次郎丸村」と書くこととします、これに対して、「四日市次郎丸村」のような表記を「連称表記」と呼びます。あくまでも、ここだけの便宜的な呼び方です)。
「四日市|次郎丸村」という併称表記が、「四日市次郎丸村」の連称表記と異なることは事実です。しかし、それが直ちに、四日市村、次郎丸村の2村が存在したという結論に結びつくわけでありません。
むっくんさんが「四日市村/次郎丸村」の表記にこだわるのは、歴博の旧高旧領取調帳データベースにそのような記載がなされていたからではないかと思うのですが、その元資料も縦書きであった、ということに注意が必要です。おそらく、そこには「四日市|次郎丸村」の併称表記がなされており、それを「四日市村/次郎丸村」としたのは、歴博の担当者の解釈だと思います。また、
町制を施行して西条町となった県告示について、広島県史・年表(別編1)(編・出版:広島県、1984)には、賀茂郡四日市村・次郎丸村を合併し西条町と改称(明治23年広島県告示第97号)と記載されています。
とあるのも、明治期資料の併称表記を「四日市村・次郎丸村」と解釈したものでしょう。したがって、四日市、次郎丸の双方に「村」を付した「四日市村/次郎丸村」の表記は、原資料のどこにも存在しないはずです。
さらに
地方行政区画便覧によると明治19年1月当時についてでは、四日市次郎丸村が2箇所記載されています。
とありますが、これも考えすぎではないでしょうか。当該箇所には、上段に戸長役場所在地、その下に戸長役場が所管する村名を記載しています。ここは単に、四日市|次郎丸村所在の戸長役場が、四日市|次郎丸村、土与丸村、吉行村の3村を管轄していることを示しているだけ、だと思います。

以上の結果
上述の各文献の記載内容からは私の仮説を否定するよりは肯定した方がいいのではないか、と私は考えます。特に地方行政区画便覧と広島県史の記述は、私の仮説に立った方が説明しやすいのではないでしょうか。
という主張は、その前提が崩れてしまうと考えます。

-------------------------------------------------------------------
以上から、「四日市村/次郎丸村」ではなく、現在の市区町村変遷情報の通り「四日市次郎丸村」の連称表記で記載する方が適切である、というのが私の結論です。
むっくんさん、いかがでしょうか。
(※以上の説明では、明治になって併称表記がなされるようになったのはなぜか、という疑問が残り、それに対する考えもあるのですが、あまりに長くなったのでここら辺でやめておきます)。
[65120] 2008年 5月 14日(水)01:40:22oki さん
正距方位図法_その2
[65116] にまん さん
探しているのは「東京中心の正距方位」の地図です。国境と主要都市が記載されていて、A3~A4程度に印刷できるとベストです。

地図サイトではありませんが、PTOLEMYという地図ソフトがあります。
私自身はここのところ利用していないので、どの程度詳細な地図が描けるのか分かりかねるのですが、東京中心の正距方位地図の作成は可能です。
[65091] 2008年 5月 11日(日)22:58:42oki さん
明治初期の地図情報について
明治大合併期までの市区町村変遷に関し、文字資料としては近代データライブラリなどを参照できるようになっています(特に、むっくん さんの「[62863] 市制町村制施行時の府令県令(ver2)」には大変お世話になっています。これだけの資料を発掘していただいたことに感謝いたします)。
加えて、ネット上で明治初期の地図情報を公開するサイトも増えてきました。皆さん、あまり触れられることがないようなので、私の知っているものをご紹介しておくことにします。

1.関東地方
歴史的農業環境閲覧システム
明治初期から中期にかけて作成された「迅速測図」のうち、関東地方の分を閲覧できるようにしたサイトです。確認した限りでは、明治13~15年時点の地図のようです。明治前期の市区町村変遷に興味がなくとも、地図好きであれば見逃せないサイトだと思います。

2.大阪府(および隣接地域)
大阪市立図書館イメージ情報データベース 地形図をさがす
「2万分の1仮製地図」を選ぶと、明治10年代の地形図の閲覧が可能です。画面が小さくて見にくいですが、現在の地形図を参照しながら閲覧すれば、見たい地域に素早くたどり着けると思います。
ちなみに、このサイトで「妙見山」を見ると、[65062]でご報告した山下町/村が、明治18年測量時点で山下「町」となっていることを確認できます。

3.奈良県
奈良県立図書情報館 絵図展示ギャラリー 古地図・地図
「大和全国地図」、「大阪府奈良県管内細見全図」などが明治10年代の地図です。後者は奈良県が大阪府と一体であった時期のもので、大阪府管内の摂河泉3国と大和国が1枚の地図に描かれています。

4.徳島県
徳島県立図書館 デジタルライブラリ 所蔵絵図
「阿波国全図」が明治3年の地図です。ほかに、明治合併期直後のものと見られる「徳島県明細全図」があり、合併後の村とその中の大字との領域が分かります。

5.岡山県
デジタル岡山大百科 コレクション一覧 絵図・古地図
(「絵図・古地図」ページには直接飛べず、「コレクション一覧」へのリンクです)
「岡山県管内地図 岡山県管内図」が明治12年、「岡山県三国地図」が明治18年の地図です。両者を比較すると、大多府村は明治12年から18年の間に日生村から独立したようです。

以上のうち、1以外では、明治前期のほか江戸期の絵図や大合併期以降の古地図も閲覧可能なので、興味のある方はご覧下さい。
また、これら以外で、村レベルの位置確認が可能な明治前期の地図を閲覧できるサイトをご存じの方は、教えていただければと思います。
[65081] 2008年 5月 11日(日)18:05:34oki さん
メンバー登録のご報告
昨日、メンバー登録をいたしました。皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

改めて自己紹介をしておきますと、出身地は徳島県阿南市、現住地は東京都江戸川区です。経県値の登録もしておきました。点数は167点で、こちらのメンバーでは平均的です。愛媛、島根、沖縄と3県も未踏県があるのが痛いところです。

現在、天保郷帳の藩政村から明治大合併期までの推移を調査・入力しているところですが、枝村まで対象にしており、独立・合併などのデータが整備されていないこともあってなかなか進んでいません。藩政村の地図上の位置も入力しているので、ある程度整理できれば、データをプロットしてGoogle Earthなどで閲覧可能にしたいと思っているのですが、いつになることやら。

とりあえず、今後ともおつきあいをお願いいたします。
[65062] 2008年 5月 11日(日)01:08:56oki さん
山下町/村
ご無沙汰しております。

[65038] 伊那谷さん
[65048] むっくん さん

山下町/村について、むっくん さんが挙げられた以外の資料を含め、江戸末期~明治合併期までの経緯を整理してみました。

No調査時点出版年資料名編著者山下?備考
1天保9.5天保国絵図江戸幕府笹部村之内山下町
2明治最初期不明旧高旧領取調帳明治政府なし
3明治13年明治14.3郡区町村一覧内務省地理局山下村
4明治14.1.1不明第4回共武政表陸軍省参謀本部山下町山下町・下財屋敷併せて105戸480人
5明治14年中明治18.8明治14年兵庫県統計概表兵庫県庶務課山下町
6明治16.12明治18.4地名索引内務省地理局山下町
7明治17.7?明治17.11兵庫県管内郡区町村名一覧福本虎蔵山下村調査時点は識語の時点。内容は郡区町村一覧の引き写しでは?
8明治19.1明治20.10地方行政区画便覧内務省地理局山下町
9明治22.4.1明22.5.14兵庫県市町村名称区域及役所役場位置福永惟精山下村/山下町調査時点は県令施行日
10明治22.4.1明22.11.13新旧対照市町村一覧和泉橋警察署山下村同上
11明治22.4.1明25.9.20兵庫県報類纂第2冊明治22年今井馬吉,山下三郎山下村同上

まず、山下という地域は、遅くとも天保期(1830~40年代)から「町」と呼ばれていたことが分かります。笹部村の枝村の扱いですが、国絵図では山下町の北側に古城跡が記され(今も城山があります)、町の北隣に下財屋敷(現在は下財町)の地名があることからすると、中世に国人土豪クラスの居館があって一定の商業機能を備え、それが近世に引き継がれたのかもしれません。ただ、資料4で明治14年の人口が山下町、下財屋敷併せて500人弱ですから、さほどの規模ではなかったと思われます。
次に、資料2では山下の名称が記載されていないので、幕末明治移行期はまだ笹部村の枝村であり、資料3の明治13年までに独立して山下「村」になったと考えられます。
それ以降、資料4~資料8(明治14~19年)は基本的に山下「町」であり、資料3、4の調査時点が正しいとすれば、明治13年中に町になったのでしょう。なお、資料7では「村」ですが、この資料は町村の配列が資料3(郡区町村一覧)と同一であり、後者を引き写したものではないかと思います(資料7の時点は巻頭の識語の執筆時で、実際の調査時点は記載されていません)。
以上であれば、江戸時代に農村の枝村として小さな町場であった地域が、明治に入って独立、その後町になった、というよくある話です。奇妙なのは、明治合併時の資料9~11で山下「村」となっている点です。特に9の場合、東谷村を構成する旧村名としては山下「村」なのに、東谷村の役場所在地としては山下「町」である、という摩訶不思議な記載になっています。

この説明として考えられるのは次の3点。
1.資料9、10、11で、単純に町を村と誤植した。
2.資料8(地方行政区画便覧)の調査時点である明治19年1月から、合併県令の公布された明治22年2月までの間に、町から村に変更された
3.県が認定する公式の自治体名は「村」であるが、地元では江戸時代以来「町」と呼ばれており、それを採用する資料があった

以上のうち、3は伊那谷さんの
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
と同じような考えですが、兵庫県や内務省の公式資料である5、6、8に山下「町」とあるので、ちょっと採用しがたい。
2は、まったくないとは言い切れませんが、いったん町になった自治体が村に戻った例を知らないので、考えにくいと思います(明治維新後、大合併期までに町から村になった例をご存じの方はご教授下さい)。
1については、資料9は町、村の両方が記載されているのでどちらかが誤記であることは明白ですし、10も下財屋敷を下財屋村と誤植していることから、ほかにも誤りがある可能性は高い。11は県庁に直接調査を依頼しているため信頼性はありますが、誤植がないとは言い切れません。

したがって、私としては、町を村と誤植した可能性がもっとも高いと考えますが(3つの資料が揃って誤植した、とするのは躊躇する面があるものの)、伊那谷さん、むっくんさん、いかがでしょうか。

ただ留意が必要なのは、どの資料にも誤記、誤植は必ずあるだろうということ。たとえば、「地方行政区画便覧」の巻末には2ページにわたって正誤表が記載されており、その中には漢字の間違いとともに町と村の誤記も多数見受けられます。このような誤りは他の資料にもあるはずで、何らかの疑問が生じた場合、可能な限り複数の資料を援用してその整合性から当否を判断するしかないと思います。と言っても、一つの資料が間違っていた場合(特に県や国の公的資料)、他の資料にも誤りが連鎖する場合があってなかなか難しいとは思いますが。
[64173] 2008年 3月 31日(月)04:36:19oki さん
盛岡仁王村について
[64165] hmt さん
これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。
これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

hmt さんがあげられたうち盛岡仁王村(等)は、ほかの村から市になったものとは性格が違うと思うので、以前に調べた結果を記しておきます。

盛岡は南部藩20万石の城下町であり、幕末明治初期、東北のみならず全国でも有数の都市に数えられ、市制施行時の最初の市の一つであったことはご存じの通りです。
通常であれば盛岡レベルの城下町は、郡区町村編制法の下で、区にはならないものの、旧城下町を構成した町々が単独の自治体として郡に直属するのが通例です(多くの場合、各町には城下名が冠称されます)。その中で盛岡のみ、旧城下が解体されて仁王村、志家村、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の「村」になっています(これらの村には盛岡が冠称されています)。
その理由はよく分かりませんが、はっきりしているのは、盛岡城下が村に分解されたのは1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行時ではなく、明治4(1871)年だということです。
南部藩は戊辰戦争の結果いったん改易され、改めて白石13万石に転封されることになりましたが、償金70万両を納めることを条件に盛岡13万石への復帰が許されました。しかし、敗戦、転封、所領の10郡から4郡への縮小などのため、最終的に藩財政が破綻、明治3(1870)年、他藩に1年先がけて廃藩し、盛岡県となっています。
盛岡城下町の各丁、小路が、城下形成以前の旧村に属せられ、城下が(形の上で)消滅するのが翌明治4(1871)年です。廃藩と旧城下町の消滅に何らかの関係があると見るのが妥当でしょうが、理由は不明です。考えられるのは、明治新政府の南部藩に対する懲罰、あるいは南部藩から明治政府に対する恭順の意の表明、というところです。ただ、明治政府にとってのA級戦犯である若松や仙台、長岡でも、旧城下町はそのままの形で維持され、盛岡のように村になってはいませんから、明治政府側の意向とは考えにくい面があります(長岡藩も盛岡と同様、明治3年に財政破綻によって廃藩しています)。南部藩内部には、明治政府への恭順派と反政府派との対立があったようで、盛岡城下の解体にはそれが影響している可能性がありますが、詳しいことは分かりません。

いずれにせよ、盛岡は他の大規模城下町とは異なる形で「村」とされたわけですが、それによって住民が四散したわけではありません。明治5年以降の記録である第1回共武政表で盛岡の人口が25,457人、1880(明治13)年の第2回共武政表で32,735人、1886(明治19)年の地方行政区画便覧で盛岡仁王村をはじめとする6ヶ村の人口が30,069人(盛岡仙北町村、山岸村、新庄村3ヶ村の人口が含まれていません)、1889(明治22)年の合併時点で31,581人等々の状況で、旧城下の人口がそのまま維持され、おそらくは増加傾向を示していたと考えられます。
盛岡が市町村制施行時に最初の市の一つになったのも、市となるに十分な人口と、「都会輻輳ノ地」と呼ぶに相応しい市街地を備えていたからでしょう。その意味で、盛岡仁王村などを「村だけで市になった事例の第1号」と呼ぶのは誤解を招きかねない表現だと思います。行政区画として「村」であったことは事実ですが、そもそも盛岡城下を「村」にしたこと自体が例外的、変則的な事態で、実際には他の城下と同じく、南岩手郡に直属する町の集合体であり、人口集積の面でも、「村」と呼ばれるべき実態はなかったからです。
なお、盛岡市は、仁王村、志家村の全域と、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の各一部(旧城下町部分)が合併して成立しますが、9村の村名は大字として維持され、その下に58の小字が設定されています。この小字が、本来の盛岡の町名に当たるものでしょう。ただ、大字が維持されたために、市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸などといった表記になったようです。実際には、岩手県の公式文書でも「大字仁王字」の部分が表記されず、盛岡市内丸などとされたようですが。

新旧対照市町村一覧で「仙北町の内」とあるのはよく分かりません。1886(明治19)年の地方行政区画便覧で仙北町村なので、1889(明治22)年の合併時までに仙北町に改称していることは考えにくいのですが、この間の文書が入手できないので、確言はできません。
仙北町(ちょう)は北上川西岸に位置しますが、東岸中心に形成された盛岡城下の一部でした。仙北町村(まちむら)は、城下の一部である仙北町に、北上川西岸の周辺農村を併せて成立した村であったかと思われます。


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