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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[99869] 2020年 5月 31日(日)14:02:41hmt さん
Re:岐阜県「明治大合併」と「郡の再編成」
[99867] MI さん
フォロー記事に感謝します。

「郡の再編成」と「明治大合併」の順序を入れ替えました。

岐阜県において同日に施行された「郡の再編成」と「明治大合併」。
#36 「編入/郡変更」 という形で まとめられている 変遷情報は、「/」により順序付けされていたのですね。

「郡の再編成」は 1年近く前の「法律」で公布されていたのに、羽島郡に関する言及は
岐阜県美濃国羽栗郡及中島郡を廃し 其の区域を以て羽島郡を置く
だけでした。

新しい羽島郡の姿は、何時になったら知ることができたのか? それは、

法律施行日の前日 M30/3/31 に至り ようやく発せられた 岐阜県告示第58号 を待たなければならない

という状態でした。

そして注意しなければならないのは、この告示による廃置分合は「従前の郡」で行われているということなのです。

この告示を収録した岐阜県令達全書_明治30年 を見ると、羽栗郡と中島郡とに関する記載は 約1頁分ありますが、八神村に関する部分は その区域の増減に関する2ヶ所だけであることを確認しました。
中島郡大須村の一部(字平太島)の区域を八神村に合併す
中島郡小藪村及び午南新田を合し(中略)と八神村の一部(字名列挙)との区域とを以て小藪村を置く

記載がないということで 中島郡八神村の 法人格は維持され、郡変更法律の対象に残った と理解します。

ところで、M30/3/31の 明治大合併告示は、どのようにして岐阜県民に伝えられたのでしょうか?
当時の通信事情からすると、役場の掲示板が精一杯?

[99867]に紹介されたように、官報附録「庁府県公報欄」にも掲載されました。
しかし、それは 明治大合併の施行から 2ヶ月も経過した 明治30年6月になってからでした。

町村廃置分合
町村制第四条に依り各郡町村中 本年4月1日より左記の通 廃置分合す
明治30年6月 岐阜県
細かい文字で2頁4段余。1件毎の改行は省略され、「、」で繋げて記載。
[99866] 2020年 5月 30日(土)14:49:30hmt さん
明治30年 岐阜県羽島郡設置に伴い「新設?された」 15村
[99836]で 岐阜県市町村合併等経過一覧表【岐阜県合併一覧図 又は単に 一覧図 と略称】 を思い出しました。
一覧図 23-24コマの羽島市を眺めながら、当サイトの変遷情報と比較してみました。

その結果、一覧図と年代表と2つの資料につき、それぞれの特徴が見えたような気がしました。
参考までに ご報告しておきます。
関連して、変遷情報岐阜県の #28 と #192 について、軽微な修正意見も記してあります。

具体的には、一覧図 24コマ末尾付近に掲載されている 八神村と小藪村とに関する情報に関するものです。
一覧図の単位段に使われている「旧村単位」で数えると 2+3=5村の関係になります。

岐阜県合併一覧図から明らかなように、町村制施行の初日【1889/7/1】に 八神村は2村が合併して新発足しました。
他県と違い、岐阜県では 町村制初日の合併は例外的で、小藪村側の3村は 旧村規模のまま約8年を経過し、1897/4/1に 岐阜県特有の「郡の再編成と同時の明治大合併」を迎えました。

この地域が所属していた中島郡が、羽栗郡と合併して羽島郡になったことが 無視されていること[99836]はさておき、一覧図の特徴は、明治から昭和に至る合併の大勢を把握することができる点です。

旧区分の 2+3=5村は 【ほぼ】その区分のままで 八神村と小藪村に移行し、1927年(昭和2年)に至り合併。
その桑原村は、戦後 1954年の 10町村合体で、羽島市になった。これが明治から昭和への合併履歴概要です。

しかし、当サイトの変遷情報を調べてみると、明治30年の組換は、もっと複雑であったことが解ります。

岐阜県変遷情報 #28【新設/郡変更】 の詳細の記載。【便宜的な記号を括弧内に補って引用】
【#28-1】中島郡【b1】小藪村,【c1】午南新田,【d1】大須村及び【a1】八神村を廃し【#28-2】【b2】小藪村,【c2】午南新田, 【d2】大須村の内 字平太島を除く区域並びに【a2】八神村の内 字前野,字法六,字尾崎及び字外ニ等の区域 をもって 【b3】小藪村を置く
【#28-3】郡廃置により羽島郡小藪村とする

同じく #36【編入/郡変更】 の詳細の記載。
【#36-1】中島郡【d3】大須村を廃しその内【a3】字平太島の区域を八神村に編入する
【#36-2】郡廃置により羽島郡八神村とする

村単位で整理すると、最も単純な午南新田は、【c1】で廃止、【c2】【b3】で小藪村新設。
大須村は分村消滅。【d1】で廃止。【d3】により一部は八神村に編入。残りは【d2】で小藪村新設。
その小藪村は、中島郡の村が【b1】での廃止を受け、【#28-2】で4村の区域を集めて、【b3】で新設。
【#28-3】羽島郡小藪村として新発足しました。

最も複雑怪奇なのは、八神村の変遷です。中島郡八神村が【a1】で廃止された後、最終的には【#36-2】で羽島郡八神村になるのですが、変遷情報の変遷種別は「編入/郡変更」となっています。

変遷情報によると、#28 の【a2】で 八神村の一部は 新しい小藪村の一部になり縮小しました。
しかし、八神村には 分村消滅した大須村から 【a3】字平太島の区域を編入することによる 区域の拡大もあり、これが「編入」と記されています。

変遷情報には、勿論同日付の「八神村新設」記録はなく、【a1】の 八神村廃止 は 誤解と思われます。
この記事の冒頭に記した 変遷情報岐阜県の #28 の軽微な修正意見がこれです。

羽栗郡・中島郡→羽島郡の郡変更について、岐阜県変遷情報 #192 には、次の記載があります。
羽栗郡, 中島郡 の区域をもって 羽島郡 を設置することに伴い 羽栗郡 川島村, 笠松町, 竹ヶ鼻町, 柳津村, 中島郡 堀津村 と 新設された 15村を 羽島郡 所属とする【1897/4/1】

この中に中島郡八神村の名が見当たりません。では「新設された 15村」に含まれているのか?

Issieさんの 市町村の変遷で調べようと思ったが、多数の県のデータへのリンクが消失しており、愕然としました。

気を取り直して、Wikipedia 羽島郡 を見たら、M30/4/1 郡制施行に備える 羽島郡発足の記事中に「新設された 15村」と覚しき村々が列挙されていました。
しかし、最後に記された八神村は、記号←を用いた 14村と異なり、文章で「編入」と説明しています。
中島郡八神村の残部が大須村の残部(字平太島)を編入して羽島郡八神村となる。

つまり、「新設された 15村」という表現に使われた「新設」は「新設合併」に限定されたものでなく、広く「編入」を含む領域変更を意味するものと理解されます。

変遷情報岐阜県 #192 の表記も、同様の問題点を含んでいると思われるので、例えば次のような注記を加えたら如何でしょうか。
注【15村の内訳】:新設合併 14村と 八神村【編入】

これが、この記事の冒頭に記した 変遷情報岐阜県の #192 の軽微な修正意見です。
[99836] 2020年 5月 24日(日)14:59:18【1】hmt さん
岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)
[99832] MI さん
フォロー記事をいただき、ありがとうございます。
ウェイバックマシンへの収録を紹介していただいた 「岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)」について。

この資料については、私も[81240]で言及したことがあります。少し長いですが引用します。
-----------------
【白桃さんの】[81239]でご紹介いただいた資料は、岐阜県全域にわたる明治以来の行政区域変遷を表形式で集大成したものです。
[81236]で例示された個別情報とは毛色が違う集積情報ですが、「変遷情報図書室」には、このような資料もぜひ 収録していただきたい と思います。
この『岐阜県の市町村変遷』は、以前に【平成合併最中】むっくんさんから紹介していただいた資料 『岐阜県市町村合併等経過一覧表』 と同じものではなかろうか というのが、私の推測です。
[66845][66846]において言及されたコマ数が、今回のファイルと一致しているのが 推測の根拠ですが、記事が岐阜県HPに付けたリンクは現在では切れており、個人的な保存もしていなかったので、ファイルの比較ができません。
このように、Webから消えていなくても、ホームページの組替などにより、資料の行方が不明になることはしばしばあります。
変遷情報図書室に保存されていれば安心して利用できます。
-----------------

今回のご指摘に基づき、改めて 旧・川小牧村が掲載されている 64コマを閲覧してみました。

武儀郡と加茂郡の境界【津保川】に接する地域であること。明治28年~大正2年には、東岸【表では下の加茂郡側】が西岸【表では上の武儀郡側】に突出していることが読み取れます。
明治30年の4村合体以後に名乗った「富岡村」の村名表示について。
合併を示す明治30年の縦線の近くには表示なし。遥か左方の富岡村末期(昭和30年近く)のみに記載。
この表示方式は、長期間存続した町村にとっては分かり難い。スペースが許せば始期と末期との重複記載が望ましい。
…と今更望んでみても、編成合併当時 この表を作った担当者に届くわけがない無理注文。

【追記】
図中の誤表示に気付きました。大正2年の境界変更を示す縦線【加茂郡大平賀村突出の左端】の位置です。

富岡村の郡名が加茂郡であったことは、右上のタイトルからも明白ですが、更に 17コマ関市【元は武儀郡】には 「昭和24.10.1 旧大平賀村は富田村へ編入」との記載があり、郡の境界に位置する村の遍歴は、戦後も続いていました。
現在も津保川東岸の仲間共に、加茂郡富加町所属となっています。マピオン

最後に、
大平賀村から離れますが、この大きな表は 市町村合併を対象としたものであり、明治30年4月1日 稲葉郡設置など 「郡の変遷」に関する情報は無視されています。
[99831] 2020年 5月 23日(土)15:15:55【1】hmt さん
大正2年には消滅していた 岐阜県加茂郡大平賀村
岐阜県の明治30年は、郡の再編成を伴う 「明治の大合併」 があったことで知られています。(1897/4/1)

その一環として、加茂郡でも 肥田瀬村, 鋳物師屋村, 市平賀村, 大平賀村の新設合併による 富岡村 ができ、合併した4村は廃止されました。

ところが、大正2年(1913/7/1)になってから、「大平賀村の一部」の 境界変更記録 #219 がありました。
その詳細を見ると、境界変更対象区域は 町村制施行前の「旧・川小牧村」の区域でした。

では、大正2年境界変更の対象にならなかった「大平賀村の残部」の存否。それはどうなったのか?

変遷情報岐阜県には その後の記録がなく、もちろん現存も していません。
大平賀村は、明治30年大合併の2年前に加治田村の一部との境界変更をした過去がありましたが、これは無関係。

疑問が残るのは、明治30年に富岡町になって消滅したと思われる「旧・川小牧村」区域が、大正2年境界変更の記録で「大平賀村の一部」と記されていた点です。

そこで、改めて変遷情報源の調査を試みました。
大正2年という時代から、NDLの官報・広告欄【[80444]参照】に記載されている可能性があると判断。

先ず、NDLの検索画面に 施行日1913/7/1前後の日付 10日澗を入力してみました。
「岐阜県」や「境界変更」での絞り込みはできず、この後は 力尽く の調査になりました。

たどり着いた 大正2/6/27の官報第273号本文には、「国の直轄事項」関係が多数掲載されています。
彙報【雑報】の後、21/25から広告欄になります。

地方自治体である 岐阜県の「村境界変更」が掲載されているのは、広告欄の 22/25 左頁でした。

加茂郡富岡村大字大平賀の内 黒ケ谷、小竹原、南坂、山下、川ノ上、下南坂、坂本、南大水、北大水、川平の十字を同郡同郡加治田村に編入し来る7月1日より施行す

順番は違いますが変遷情報詳細に (旧川小牧村) と記されていた 10字(あざ)との同一を確認できます。
そして、境界変更の対象が「大平賀村の一部」でなく、「富岡村大字大平賀の内」であることが明らかでした。
現在の変遷情報は、二次資料に基づく誤記を引き継いだものと推察されます。

NDL官報に基づく変遷情報の修正は、現在では 多数の事例について 利用されているようです。
最近の一例を挙げると、[99336]むっくんさん ご指摘による埼玉県 #27 の事例等の修正 [99387]

上記調査も、これに倣ったものですが、膨大な NDL官報からの検索が不手際と思われます。
変遷施行日はわかるが、必ずしも施行日付とは一致しない官報発行日を絞り込めない。
可能ならば、地名や変遷種別をキーワードとする検索が望ましいが、広告欄は検索対象になっていないようだ。
適切な手段をご存知の方があれば、ぜひご教示をお願いします。
[99799] 2020年 5月 19日(火)13:47:29【1】hmt さん
日本の西端・与那国町トゥイシ
今回の十番勝負・問六の出題は「都道府県の中で東端西端の経度差が一番大きい市」でした。[99768]
問六との直接の関係はないのですが、十番勝負終了の機会をとらえ、日本最西端の自治体として知られる沖縄県八重山郡与那国町の西端についての情報を記しておきます。

2年前の平成30年(2018)3月のことになりますが、当時の天皇・皇后ご夫妻は 与那国島を初訪問され、「日本国最西端之地」という碑石もご覧になりました。

ところが、その翌年、つまり令和元年になった直後の 2019/6/1 に、国土地理院は 与那国島にある岩礁「トゥイシ」の名を「二万五千分の一地形図」に新たに記載しました。
もっとも、岩礁か島かを決める権限は国土地理院にもないとのこと。
その結果 日本の最西端は 僅か 260mほどですが 北北西へ動いてしまったとのことです。

国土地理院の報道発表資料では、該当する資料を発見することができなかったのですが、調べてみると マスコミには多数の報道があり、その視点も多様なものでした。
その中から NHK東京新聞日経八重山毎日デイリー新潮 などのネタを利用して、下記のようにまとめてみました。

トゥイシは、もともと潮が引いた干潮時には岩が水面上に現れることがわかっており、五千分の一図では海岸線の一部。海図にも記載されており、日本の排他的経済水域(EEZ)面積への影響はないとのこと。名前の由来には「とがった石」「砥石」などの説。

二万五千分の一地形図では、原則として、満潮時に 7.5m四方以上あることを基準に 島や岩などを記載している。

従来の地形図でのトゥイシの扱い:満潮時に海面下に隠れてしまう「隠顕岩」の存在範囲を記載。名称は記載なし。
しかし、干潮時も水面上に出ている可能性があり、国土地理院のドローンチーム「ランドバード」が「陸地に該当するのか否か」を調査し、2017年7月の調査結果で、大潮の満潮時も海面上に出ていることを確認。

2019年3月、与那国町の申請により地形図に追加記載することになり、2019/6/1から国土地理院HPで公開。
与那国島の地形図については、自衛隊駐屯地の整備など更新事項が種々あり、これらを含む全面的見直しを行った結果のようです。今回追加された地名は8カ所。

国土地理院>日本の東西南北点の経度緯度から、沖縄県 ★ の 西端 をクリックすると、「トゥイシ」という地名のある地理院地図が現れます。

# 上記★を付けた東西南北端ページのurlは、「県データ/沖縄へそ」と読めます。「県のへそ」を収録する予定で名付けてあるのでしょうか? 参考[11132][11313][48636]

地名コレクション:東西南北端も修正しておきました。

日本の民間人にとり、東端・南鳥島、南端・沖ノ鳥島、北端・択捉島は訪問不可能。
唯一 民間人訪問が可能だった最西端が 与那国町西崎(いりざき)から無人のトゥイシになった現在、アクセスできる可能性はあるのか? 

デイリー新潮に掲載された回答を引用して、この記事を終ります。
「うーん、容易にアクセスはできませんよ。地図だと近いように見えるでしょうが、西崎は岬ですから、海側は断崖。ここに降りることはできません。大潮の時にでも、大きく迂回して行けば……いや、やめた方がいいですね」
「観光面では、これまで通り、最西端は西崎でいきますよ。最西端の碑も変えません。」(与那国町総務課)


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