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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

和歌山市紀伊地区と、「紀伊国」の関係

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記事数=5件/更新日:2005年11月10日/編集者:YSK

現在の和歌山県と、三重県南部を範域としたいた「紀伊国(紀州)」ですが、一方において和歌山市内にも「紀伊地区」があります。一見して、なぜ一自治体内の地域がこんな広域地名を?と思われますが・・・。地名「紀伊」の謎に迫ります。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[15290]2003年5月15日
Issie
[15297]2003年5月16日
まがみ
[15325]2003年5月16日
でるでる
[46422]2005年11月2日
デスクトップ鉄
[46432]2005年11月2日
Issie

[15290] 2003年 5月 15日(木)23:41:32【1】Issie さん
紀伊
[15288]雑魚 さん
「紀伊」 とは本来、紀ノ国と伊勢を擁する合造的な半島の名前と感じているのですが

いや,「紀伊」という表記は奈良時代から行われていますから,近代の合成地名とは違うと思いますよ。
それに,「紀伊+伊勢」じゃ「志摩」の立場がないし。
(近世以降の「志摩国」は志摩半島の部分にこじんまりとまとまった小国になっていますが,本来は熊野灘の海岸線に沿って現在の三重県の南・北牟婁地域まで広がっていたようです。中世に入って,だんだんと「紀伊国牟婁郡」に侵蝕されて今のような形になったらしい。だから,古い時代にさかのぼるほど「志摩」は無視できないはずです。)
それともう1つ。
「上野」の「上」,「下野」の「野」のように,「伊勢」を1文字で代表・略記する場合は通常「勢」の方を使います。「勢州」のようにね。
「紀伊+伊勢」の場合,普通は国鉄が路線名に使用したように「紀勢」となることでしょう。

「紀伊」というのは本来「き」という地名であったと思われます。
ただ,「きのくに(紀の国)」とか「きのかは(紀ノ川)」とか「きうぢ(紀氏)」という形では安定しても,「き」1音では日本語としてはどうも不安定なのと,たびたび話題になる奈良時代の「地名は縁起のよい文字2文字で表記せよ命令」で,「紀伊」という表記に“引き伸ばされた”ものでしょう。

阪和線紀伊駅

これは,もともと相当に起源の古い地名なんじゃないでしょうか。

「き(紀)→紀伊」というのは,本来“ピンポイント”な地名です。
古代の名族の「紀氏」がウヂナ(氏の名前)にしたのも,「き」地域を“縄張り”にしていたからですね。逆に,この「紀氏」とかかわりの深い地域も「き」と呼ばれました。京都市南部の伏見地区も「伏見市」になる前は「紀伊郡」でしたね。
現在は和歌山市に属する旧名草郡の「紀伊」地区も,おそらくはそのような「き」地名の1つだと思われます。
そして国名としての「紀伊」は,本来これらの「き」,あるいは「紀ノ川」流域の地域呼称であったものが拡大されて,紀伊半島西半沿岸地域の国名に“出世”をしたものでしょう。

広域的地名を和歌山市の一部地域が名乗るのも

たぶん,ね,これはベクトルが逆だと思います。
[15297] 2003年 5月 16日(金)00:39:02【1】まがみ さん
紀伊国
[15288]雑魚 さん
[15290]でIssieさんがおおよそ語り尽くしてくれていますので、私は補足にとどめます。

紀伊国の本来の国名である「紀」は、「木の国」に由来するとも言われています。豊富な森林資源と熊野川の水流により、木材の積出港として栄えた新宮市の例もあります。

「紀の国」というのは、ここからきたものです。しかし、たびたび言及されているように、712年の詔勅で、国名は「縁起の良い漢字2文字とする」よう命じられたため、紀の国も「紀伊」となりました。「泉」の国が、「和泉」としたのと同様です(例えば[3131])。

「紀」のように、西日本には、一音の国名・地名がわりと多くあるのです。有名どころでは、三重県の県庁所在地「津」も、そうですね。
[15325] 2003年 5月 16日(金)02:56:20でるでる さん
紀伊府中
[15318]雑魚さん
すると紀伊地区には、地元の地名が出世するに足る、何か拠点性めいたものでもあったのでしょうか
[15321]TKS-H さん
「和歌山市役所紀伊支所」の所管区域は「北野,弘西,田屋,小豆島,西田井,府中,上野,北,宇田森の一部」となっています「府中」という大字を見れば、あとは言わずと知れた…ということになるでしょう。

『日本地名大百科』(小学館刊)によりますと、
<紀伊国(きいのくに)>の項より引用
飛鳥に都が置かれた時期には、都と瀬戸内を結ぶ南海道が紀ノ川沿いに通じ、紀伊国は飛鳥の湊としての役割りを果たした。(中略)国府は現在の和歌山市府中とされる

<和歌山市>の項より引用
大和朝廷が成立すると、大和と瀬戸内海を結ぶ要衝となり、河口の紀伊湊(紀水門)は朝廷の朝鮮出兵の基地となった。大化改新以後、南海道に沿って国府や加太駅が置かれ、平安時代にはこれと交差する海岸沿いの熊野参詣道を利用して熊野詣でが盛んに行われた。

とありますので、この辺り一帯には、かなり古くから相応の拠点性があったようですね。
[46422] 2005年 11月 2日(水)18:41:53デスクトップ鉄 さん
和歌山市紀伊地区
[46273] Issie さん
もし,デスクトップ鉄さん が和歌山市の「紀伊地区」について仰っているのであれば,それは違うと思います。
紀伊地区は1959年に和歌山市に編入された元の 海草郡紀伊村(発足当時は 名草郡)ですが,この「紀伊」という村の名前自体は1889年の“明治の大合併”によって発足した新自治体が新たに採用した“新地名”です。少なくとも江戸時代,ここに「紀伊村」という村があったわけではありません。

紀伊国府が置かれていた和歌山市の「紀伊地区」の地名が紀伊の国名に出世したというのは、他の文献で調べても出ていないので、私の勘違いのようです。しかし、アーカイブでIssie さんの別の投稿を見つけました。

[15290]
「き(紀)→紀伊」というのは,本来“ピンポイント”な地名です。
現在は和歌山市に属する旧名草郡の「紀伊」地区も,おそらくはそのような「き」地名の1つだと思われます。
そして国名としての「紀伊」は,本来これらの「き」,あるいは「紀ノ川」流域の地域呼称であったものが拡大されて,紀伊半島西半沿岸地域の国名に“出世”をしたものでしょう。

「7世紀以前、紀伊地区は「紀」と呼ばれていた。これが紀の国の国名に採用され、国名がのちに紀伊となり、明治になって「紀」の起源である紀伊地区の村名として逆輸入された。」ということでしょうか。

また
「紀伊」も,基本的に「石狩」と同じだと思います。千年以上も時代が違いますが。
ですが、「石狩は国の領域より狭い「場所」名が国名に採用された。紀伊は集落名が国名に採用されたわけではではない」とすれば、「基本的に同じ」とおっしゃる意味がよくわかりません。ご教示いただければ幸いです。
[46432] 2005年 11月 2日(水)20:55:14Issie さん
Play back “き”
[46422] デスクトップ鉄 さん
「7世紀以前、紀伊地区は「紀」と呼ばれていた。

私の方でも少し調べてみました。
で,[15290] とは矛盾するようなのですが…

紀伊国府が置かれていた和歌山市の「紀伊地区」

紀伊地区の中にある「府中」という大字(明治の大合併以前の“名草郡府中村”)が,かつてここに紀伊国府があったことを物語っています。現在では,この府中地区から隣りの直川地区(名草郡直川村→海草郡直川村,1958年に和歌山市へ編入)にかけての地域に国府があったと比定されているようです。
1889年の明治の大合併に際して,府中村に加えて 弘西村・北野村・田屋村・小豆島(あずしま)村・西田井村・上野村・北村 の各村が合体して“新しい自治体名”として「紀伊村」が“選び出された”ときに,かつてここが紀伊国府所在地であったことが根拠になったことはあるかもしれません。

「紀伊国」は,大化政権以降,律令国制が整備されていく過程で,それに先立つ「紀国造(きのくにのみやつこ)」と「熊野国造」の領域を統合して編成されたものであるようです。
そして,紀伊国の国府は 紀国造(直[あたい]姓紀氏) がその領域支配の根拠地としていた辺りに置かれたものであると考えられています。
つまり,「き」と呼ばれた“領域”の政治的中心であったことが予想されます。さらに言えば,その「き」という領域の支配者であるから「紀国造」に任ぜられ,その一族に「紀直(きのあたひ)」という“ウヂ・カバネ”が与えられたのでしょう。
けれども,その領域の中心という“点”(後の紀伊国府付近)の名前が「き」であったかどうかは,わかりません。

今のところ,明確にさかのぼって追跡できるのは,“紀国造”の領域(おおよそ 紀ノ川 の中・下流域とその南側一帯?)が「き」と呼ばれていた,というところまでだと思います。
そして,“熊野国造”の領域まで含めて「国」が編成されたとき,北部の「き」が国全体の呼称として採用された,ということであろうと考えています。

「イシカリ」の場合,どうも“川”の名前が最初に成立したものであるようですね。
そして松前藩の支配下,この川の流域の交易を商人に請け負わせる“領域”としての「場所」の呼称として「イシカリ場所」と呼ばれるものが成立した。
(もしかしたら,「場所」という言葉についてまだ誤解なさっているかもしれません。[46207] で 北の住人さん が説明なさっているように,「場所」とは今日私たちが用いているような“点”としての意味ではなく,多くの場合は河川の流域のような広さを持った“領域”を「場所」という言葉で呼んでいるものです。)
「イシカリ場所」と呼ばれる“領域”内の交易場が河口に成立する。そして,その交易場が“場所”全体を代表して「イシカリ」と呼ばれるようになり,それが現在の 石狩市 のルーツとなった。
一方で1869年,国郡画定にあたって イシカリ川 の流域全域(およびアツタ,ハママシケの領域)をもって「石狩国」が設定された。

つまり,「イシカリ」という“領域”の名前がより広い「国名」として採用され,一方で領域内の“ある地点”(石狩集落→石狩市)の名前ともなったわけで,
それは元来は“紀国造の領域”の名前である「き」が,元の 熊野国造 の領域も加えた「国」の名に拡大されたという点で「石狩」と同じ,と言ってみたわけです。

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