[46422] デスクトップ鉄 さん
「7世紀以前、紀伊地区は「紀」と呼ばれていた。
私の方でも少し調べてみました。
で,
[15290] とは矛盾するようなのですが…
紀伊国府が置かれていた和歌山市の「紀伊地区」
紀伊地区の中にある「府中」という大字(明治の大合併以前の“名草郡府中村”)が,かつてここに紀伊国府があったことを物語っています。現在では,この府中地区から隣りの直川地区(名草郡直川村→海草郡直川村,1958年に和歌山市へ編入)にかけての地域に国府があったと比定されているようです。
1889年の明治の大合併に際して,府中村に加えて 弘西村・北野村・田屋村・小豆島(あずしま)村・西田井村・上野村・北村 の各村が合体して“新しい自治体名”として「紀伊村」が“選び出された”ときに,かつてここが紀伊国府所在地であったことが根拠になったことはあるかもしれません。
「紀伊国」は,大化政権以降,律令国制が整備されていく過程で,それに先立つ「紀国造(きのくにのみやつこ)」と「熊野国造」の領域を統合して編成されたものであるようです。
そして,紀伊国の国府は 紀国造(直[あたい]姓紀氏) がその領域支配の根拠地としていた辺りに置かれたものであると考えられています。
つまり,「き」と呼ばれた“領域”の政治的中心であったことが予想されます。さらに言えば,その「き」という領域の支配者であるから「紀国造」に任ぜられ,その一族に「紀直(きのあたひ)」という“ウヂ・カバネ”が与えられたのでしょう。
けれども,その領域の中心という“点”(後の紀伊国府付近)の名前が「き」であったかどうかは,わかりません。
今のところ,明確にさかのぼって追跡できるのは,“紀国造”の領域(おおよそ 紀ノ川 の中・下流域とその南側一帯?)が「き」と呼ばれていた,というところまでだと思います。
そして,“熊野国造”の領域まで含めて「国」が編成されたとき,北部の「き」が国全体の呼称として採用された,ということであろうと考えています。
「イシカリ」の場合,どうも“川”の名前が最初に成立したものであるようですね。
そして松前藩の支配下,この川の流域の交易を商人に請け負わせる“領域”としての「場所」の呼称として「イシカリ場所」と呼ばれるものが成立した。
(もしかしたら,「場所」という言葉についてまだ誤解なさっているかもしれません。
[46207] で 北の住人さん が説明なさっているように,「場所」とは今日私たちが用いているような“点”としての意味ではなく,多くの場合は河川の流域のような広さを持った“領域”を「場所」という言葉で呼んでいるものです。)
「イシカリ場所」と呼ばれる“領域”内の交易場が河口に成立する。そして,その交易場が“場所”全体を代表して「イシカリ」と呼ばれるようになり,それが現在の 石狩市 のルーツとなった。
一方で1869年,国郡画定にあたって イシカリ川 の流域全域(およびアツタ,ハママシケの領域)をもって「石狩国」が設定された。
つまり,「イシカリ」という“領域”の名前がより広い「国名」として採用され,一方で領域内の“ある地点”(石狩集落→石狩市)の名前ともなったわけで,
それは元来は“紀国造の領域”の名前である「き」が,元の 熊野国造 の領域も加えた「国」の名に拡大されたという点で「石狩」と同じ,と言ってみたわけです。