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「信州」と「信濃」って、違いはあるの? −旧国名について−

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記事数=30件/更新日:2005年9月14日/編集者:YSK

「信州」は「信濃」の別称で、同じものです。遠く奈良時代から、廃藩置県が断行された明治期までの長い長い間、わが国における地域アイデンティティの基礎をつくっていた旧国名について、関連するメッセージを集めました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[82]2000年12月24日
Issie
[296]2001年6月18日
Issie
[300]2001年6月24日
Issie
[449]2001年11月4日
ケン
[462]2001年11月5日
Issie
[908]2002年2月17日
Issie
[1019]2002年3月3日
Issie
[1753]2002年6月5日
たけもと
[2363]2002年7月31日
Issie
[2364]2002年7月31日
Issie
[3116]2002年9月15日
Issie
[3131]2002年9月15日
Issie
[3770]2002年10月11日
飛騨守
[5101]2002年11月20日
Issie
[5498]2002年11月27日
夜鳴き寿司屋
[5543]2002年11月28日
夜鳴き寿司屋
[5567]2002年11月28日
Issie
[5786]2002年12月2日
Issie
[5799]2002年12月3日
Issie
[9212]2003年2月14日
Issie
[10312]2003年3月3日
えっす
[15290]2003年5月15日
Issie
[16174]2003年5月30日
Issie
[18417]2003年7月19日
太白
[18420]2003年7月19日
Issie
[21549]2003年10月29日
Issie
[21600]2003年10月31日
Issie
[31001]2004年7月25日
KMKZ
[39916]2005年4月16日
Issie
[44892]2005年9月14日
Issie

[82] 2000年 12月 24日(日)20:53:44Issie さん
大隅は「隅州」
> ところで、「大口市」の「大」は大隅に由来しているのかしていないのかは
> 依然として不明と言うことでしょうか? 情報があればお願いします。

恐らく,「大口」と「大隅」は関係ないと思います。
「尾張国」を「尾州」と呼んでそこから「尾西市」という地名が生じたり,「山城国」を「城州」と呼んでそこから「城陽市」という地名が生じたりというように,旧国名を漢字一字で表記する方法がありますが,「大隅国」の場合は通常「大」ではなく「隅」の方が用いられます。つまり,大隅国の別称は「隅州」であり,島津大隅守斉彬の通称が「隅州侯」である,というように。
「大」という字で「大隅」を代表する用法は恐らくないでしょう。

旧国名を漢字一字で表記する場合,通常は以下のように表記されます。
 山城:城  大和:和  河内:河  和泉:泉  摂津:摂
 伊賀:賀  伊勢:勢  志摩:志  尾張:尾  三河:三
 遠江:遠  駿河:駿  甲斐:甲  伊豆:豆  相模:相
 武蔵:武  安房:房  上総・下総:総     常陸:常
 近江:江  美濃:濃  飛騨:飛  信濃:信  上野:上(毛)
 下野:野(毛)  岩代:岩  磐城:磐  陸前・陸中:陸
 陸奥:奥  羽前・羽後:羽  若狭:若  越前・越中・越後:越
 加賀:加  能登:能  佐渡:佐  丹波・丹後:丹
 但馬:但  因幡:因  伯耆:伯  出雲:雲  石見:石
 隠岐:隠  播磨:播  備前・備中・備後:備  美作:作(美)
 安芸:芸  周防:防  長門:長  紀伊:紀  淡路:淡
 阿波:阿  讃岐:讃  伊予:予  土佐:土  豊前・豊後:豊
 筑前・筑後:筑  肥前・肥後:肥  日向:日  大隅:隅
 薩摩:薩  壱岐:壱  対馬:対
 渡島:?  胆振:?  日高:日  後志:?  石狩:石,狩
 天塩:天,塩  十勝:勝  釧路:釧  根室:根  北見:北
 千島:?
それぞれに「州」がついて,「信州」とか「上州」のような呼称が生まれるわけです。

北海道は,さすがに歴史が浅い分,用法が固定化する前に旧国名がすたれてしまったのですが,明治以降に成立した地形呼称や国鉄の路線名などは基本的にこの“一字呼称”の組み合わせや,それに「東西南北・上中下」などを付けて作られていますし,市町村合併によって成立した新自治体が名前の付けかたに困って,“尾張の西”の「尾西市」などのように使われたりするのです。
でも,その用法も一定ではなく,「北越」が「越後」とほぼ等価で用いられるのに対して,「南越」は「越前」全域ではなく,せいぜい福井平野南部の今立郡・丹生郡あたりをさすだけ,というように,地域によってまちまちです。
[296] 2001年 6月 18日(月)23:24:02Issie さん
石狩市
「石狩市」も,「北見市」とおおよそ同じだと思います。
「石狩市」は最近,「石狩郡石狩町」が“市”になったものですが,「石狩町」は1902年に「石狩国 石狩郡」に属する石狩川河口の10町村が合併して発足したもの(石狩市公式HPによる)。
ちなみに「石狩国」は,“上川支庁”の上川盆地と富良野盆地も含めた“石狩川全流域”,そのうち「石狩郡」は下流右岸(左岸は“札幌郡”)と河口両岸を当初の領域としていました。
「石狩町」が「石狩国」に由来するのか「石狩郡」に由来するのか,あるいはその両方なのかよくわかりませんが,このあたりは“内地”の旧国名市町村とほぼ同じですね。

> 釧路、根室の地名が旧国名より古いからです。

そうですね。「クシロ(クスリ)」と「ネムロ(ネモロ)」には国郡が設置される前に集落(都市とはいえそうにない)が成立しています。
[300] 2001年 6月 24日(日)17:40:24Issie さん
胆振国山越郡長万部町
前田 宏治 さん

> ところで、渡島半島の噴火湾沿い北部の部分(長万部・八雲等)は
> 「胆振の国」なのでしょうか?それとも「後志の国」なのでしょうか?

20万分の1の地勢図を見ると長万部町と八雲町からなる「山越郡」は「胆振国」ということになっていますね。ただし,八雲町の南東部は隣りの「渡島国・茅部郡」から編入したものです。
ただ「山越郡」について少し複雑なのは,資料によって1869年の国郡設置段階で「渡島国」に属していたとするものと「胆振国」であるとするものとがあることです。いろいろ突きあわせてみると,はじめ「渡島国」のうちの1郡として設置した直後に「胆振国」に編成替えになった,ということのように思います。噴火湾の沿岸続きということで「胆振国」にしたのでしょうかね。
でも,海路で噴火湾を横断するならともかく,陸路で室蘭方面に移動しようと思っても長万部東方の礼文華海岸の絶壁が障害となります。函館から札幌への鉄道ルートが長らく倶知安・小樽経由のいわゆる「山線」がメインとなっていた所以です。結局,山越郡が「胆振支庁」でも「後志支庁」でもなく「渡島支庁」管内になったのも,その意味では合理的ですね。
[449] 2001年 11月 4日(日)11:29:47ケン さん
旧国名市町村
全国には多数の市町村があり、旧国名市町村も多数あります。
次のとおりです。
青森県むつ市
秋田県羽後町
福島県いわき市、岩代町
群馬県上野村
千葉県下総町
石川県加賀市、能都町
福井県越前町
長野県信濃町
岐阜県美濃市
三重県伊勢市、伊賀町、志摩町
滋賀県近江町
京都府山城町、丹波町、丹後町
大阪府摂津市、和泉市
兵庫県播磨町、淡路町
島根県出雲市、石見町
岡山県備前市、備中町、美作町
山口県長門市
徳島県阿波町
愛媛県伊予市
高知県土佐市、土佐町
福岡県筑後市、豊前市
佐賀県肥前町
宮崎県日向市
鹿児島県薩摩町、大隅町です。
[462] 2001年 11月 5日(月)18:52:33Issie さん
安芸市
高知県の「安芸市」は,藩政時代以来「安芸郡」の中心集落だった「安芸町」に由来する市名です。
律令国制が整備される中で国名や郡名が制定された7~8世紀までさかのぼればどうだかわかりませんが,少なくともそれ以降は広島県の「安芸国」とは全く関係ありません。

同一の県内に県名と同じ(県庁所在地以外の)市町村があるのは,
1:県名の多くが県庁所在地の所属する郡名に由来する
2:町村合併の際に,新町村名をめぐる紛争が起きるのを避けるために,合併前の町村のどれでもなく,なおかつその地域に関係の深い郡名が採用されることが多かった
というあたりが,たいていの理由です。
つまり,全国に「大和」とか「明治」とか「昭和」という地名があるのと同じですね(そのうちの多くは,戦後の市町村合併で消えてしまったけど)。
[908] 2002年 2月 17日(日)17:05:48Issie さん
科野国
そもそも「信濃」という国名が「科野」という意味らしい,とよく言われていますね。
で,「しな」とはシナノキという樹木のことだとか,山がちで階段状の地形(階=しな)によるだとか,諸説があるのですが,起源が古すぎてよくわからないというのが現状のようです。

ただし,「豊科」は例外。
これは明治になってから「鳥羽」「吉野」「新田」「成相(なりあい)」の4村が合併したときにそれぞれの村の頭文字を並べたもの。
「…しな」になるなんて,いかにもそれっぽくって違和感がないでしょ。
[1019] 2002年 3月 3日(日)20:12:09Issie さん
分割された「国」の略称
考えてみれば,古代に複数に分割された「国」の中で「毛野 → 上毛野・下毛野 → 上野・下野 → 上州・野州」のように,分割されたそれぞれの国が別々の略称を持っているのは異例ですね。
他の場合は,
 総(ふさ) → 上総・下総 → 総(州)
 越(こし) → 越前・越中・越後 → 越(州)
  *ただし,加賀は「加(州)」,能登は「能(州)」
 丹波 → 丹波・丹後 → 丹(州)
 吉備 → 備前・備中・備後 → 備(州)
  *ただし,美作は「作(州)」(「美」の用例もあり)
 筑紫(つくし) → 筑前・筑後 → 筑(州)
 肥(火:ひ) → 肥前・肥後 → 肥(州)
 豊(とよ) → 豊前・豊後 → 豊(州)

括弧をつけて表したように,この略称には「州」を接尾して使用されたり,「上越」「筑豊」「両備」などのような使い方がされますが,この場合,たとえば「越前」でも「越後」でも「越」が略称に使用されます。

 淡海(あふみ) → 近淡海(ちかつあふみ)・遠淡海(とほつあふみ) → 近江(あふみ)・遠江(とほたふみ)
の場合には,「近江 → 江(ごう)州」「遠江 → 遠州」というふうに,それぞれ違う略称が使われるけど,これはお互いに全然違うところにあるわけだから,「毛野」の場合とは違いますよね。

明治初めに分割された「出羽」の場合は「羽前」「羽後」ともに「羽」が略称になっているのですが,「陸奥」の場合,北中部は「陸前」「陸中」「陸奥」で「陸」が略称になっています(分割前の「陸奥」では「奥(州)」が略称ですね)。これがあるから「三陸」という表現があるわけですが,南部は「磐城」「岩代」。それぞれ「盤」「岩」が略称になります。
東北線の郡山から越後新潟(実際は新津)へ分かれる鉄道は当初,「岩越線」という名称でした。郡山が岩代国安積郡に属するからです。でも,後に常磐線(常陸と磐城を通過する路線という意味)の平からの支線と一本化されると,「磐越(西)線」という名前になりました。平が磐城国石城(磐前)郡に属するからです。
[1753] 2002年 6月 5日(水)21:45:10たけもと さん
古志
そういや昔こん平さんの故郷を地図で探してみつけてよろこんでたものです。(^^;)

>近接する「古志郡」や「山古志村」の「コシ」とは「越路」等の
>「コシ」と関連在りでしょうか?

そうですね。かつては北陸一帯は、「越」「高志」「古志」とよばれていました。
意味については「山や坂を越えて行く遠隔の地」という説が有力です。

この「越」の国が律令制になって越前、越中、越後の三国となったのはご存じのとおり。
[2363] 2002年 7月 31日(水)18:42:58Issie さん
日立
>字体の新旧とは趣が異なりますが、旧常陸国である茨城県の日立市、滋賀県滋賀郡の
>志賀町など、同音で比較的簡易な漢字になっている例は、どう解釈するべきだろう?

「日立市」の場合は一応「常陸」とは別個のものと扱うべきだと思います。
「日立」という地名は「常陸」という国名が下地となってはいるのでしょうが,地元には徳川光圀による命名故事が伝えられています。
自治体名も「常陸国」からというより,「日立鉱山」によるものでしょう。
とすれば,別に「常陸」という国名を簡単な字に書き換えた,というものではないと解釈したほうがいいと思います。

「滋賀」と「志賀」はどちらも,漢字以前からあった「しが」という地名に対する当て字ですね。「ちかつあふみのくに(近江国)」の「しがのこほり」に対する漢字表記にはいろいろなバリエーションがあったわけで,結局,明治以降も郡名・県名として生き残ったのが「滋賀」の方
だけども,「志賀」という表記も多く見られますよね。
これも「滋賀」の簡単な文字への書き換え,というわけではないでしょう。

伊勢原市の「石田」にある県立高校は,わざわざ「伊志田」と表記を採用しています。より由緒のありげな表記にした,ということらしいのですが,学校などが意図的に一般的なものとは違う表記を採用することはままあることですね。
[2364] 2002年 7月 31日(水)19:25:38Issie さん
続・日立
少しく言葉足らず。

「日立鉱山」は初め「赤沢鉱山」と言っていましたね。
「日立市」の中心市街地の名前は「助川」だったり「大甕」だったり「多賀」だったり。
「日立鉱山」と,自治体名としての「日立町」とはどちらが先だったのか。
いずれにせよ「日立」の町は「日立鉱山」ないしは「日立グループ」ととに発展してきたわけで,少なくとも国名の「常陸」と自治体名の「日立」の間には何段ものクッションがあるようには思います。
[3116] 2002年 9月 15日(日)10:20:36Issie さん
Re:信州
一応,念のため。

本来,「信州」というのは旧国名の「信濃」の別称です。
信濃国はほぼ現在の長野県と同じ。木曽最南端の旧・神坂(みさか)村の大部分が岐阜県中津川市に編入されていますが,ここだけが「信濃国」と「長野県」の違いです(旧神坂村のうちの馬篭地区ほかは西筑摩郡(現・木曽郡)山口村に編入されました。現在,山口村は中津川市への編入をめざしていますから,これが実現すれば両者のズレは少しだけ大きくなります)。
「信州」は,この「信濃国」の言い換えです。
だから,「信州」と「長野県」は基本的に“ほぼ同じ”。もちろん,木曽も「信州」です(ただし,現在の木曽郡(旧西筑摩郡)のうち,西半の木曽川流域は戦国末期くらいまでは美濃・恵那郡の一部だったと考えられています。ということは,「信濃」ではなかった)。

[3095]
>ガイドブックに「信州」というのが書かれてあれば、長野県だけではなく新潟や山梨の方も掲載されています。
>...これが「長野」と「信州」の違いだそうです。

少なくとも,地元の「信州」にはこういう解釈はありません。

もともと「谷」ごとの地域割拠性が強く,“県都”の長野が大きく北東部に偏っている上に,「長野県」の形成過程で元は「筑摩県」の県庁所在地であった松本の地位を奪ったことによる対立感情から,「長野県」内では「長野」よりも「信濃」「信州」という呼称の方が好まれる傾向にあります。
だから「長野新聞」ではなく「信濃毎日新聞」。「国立長野大学」でも「国立松本大学」でもなく「国立信州大学」。“県歌”として,ほかのどの都道府県よりも広く県民に定着している愛唱歌は「信濃の国」。
ただし,明治・大正期には「信濃」の方が普通で,「信州」がわりと広く用いられるようになったは比較的最近との地元研究者の指摘もあります。

一般に旧国のいずれについても「…州」という別称が定着しています。

[3105]
>「信州=信濃」 「上州=上野」 「長州=長門」 という単純なものではないのかな。

基本的にこういう解釈で結構。
他に「甲州=甲斐=山梨県」「紀州=紀伊=和歌山県+三重県南部」というあたりが現在でも盛んに使われていますね。

[3112]
“ブロック紙”(いくつかの地域をエリアとする)に位置付けられる「中日新聞」は時々キラリとした特集をするのに定評がありますね。東京でもドラゴンズには関係なく「東京新聞」のファンは多いようです。
もっとも,ウチは購読していませんが。
[3131] 2002年 9月 15日(日)22:46:11Issie さん
…州
旧国名は奈良時代に“おめでたい漢字2文字”に統一されたのですが,後にこの2文字のうちの1文字でもってその国を表わし,「…州」と呼ぶ習慣ができあがりました。恐らくは朝鮮半島がそうであるように,中国の地名呼称の模倣だと思われます。
たぶん,これと並行して「氏」でも同じようなことが行われています。
藤原氏 → 藤氏,菅原氏 → 菅氏,大江氏 → 江(ごう)氏,大伴氏 → 伴氏 など
*大伴氏の場合は直接には偶然「大伴」という名前の人物が天皇(淳和天皇)になってしまったので“氏”そのものを変えてしまったのですが,漢字1字というのはこの流れに乗るものでしょう。この時期に創設された「橘」「平」「源」の各氏もそうです。同時に男子の名前も“抽象的な漢字2文字”とする習慣が定着しますから,そうすると「氏・名名」と“中国風”の名乗りをすることができるようになります。

話を戻して…
それぞれの国名を代表する1字は以下の通り。これに「州」をつければ「信州」や「甲州」のような呼称ができあがります。

<畿内>
大和:和, 摂津:摂, 河内:河, 和泉:泉, 山城:城
*「山城」は奈良時代には「山背」でした。「背州」という言い方がないのは,「山城」になった平安・鎌倉時代以降にこの習慣が成立したことを表わします。

<東海道>
伊賀:賀, 伊勢:勢, 志摩:志, 尾張:尾, 三河:三, 遠江:遠, 駿河:駿, 甲斐:甲, 伊豆:豆, 相模:相, 武蔵:武, 安房:房, 上総・下総:総, 常陸:常
*「三河」には「参河」という表記もあります。「相模」の「模」は正しくは“手へん”。武蔵は当初は東山道。

<東山道>
近江:江(こう,ごう), 美濃:濃, 飛騨:飛, 信濃:信, 上野:上, 下野:野,
陸奥:奥 → 岩代:岩,磐城:磐,陸前・陸中:陸  出羽→羽前・羽後:羽
*陸奥,出羽は明治初年に分割。新国名については「…州」という呼称は定着せず。

<北陸(ほくろく→ほくりく)道>
若狭:若, 越前・越中・越後:越, 加:加, 能:能, 佐渡:佐

<山陰道>
丹波・丹後:丹, 但馬:但, 因幡:因, 伯耆:伯, 出雲:雲, 石見:石, 隠岐:隠

<山陽道>
播磨:播, 美作:作, 備前・備中・備後:備, 安芸:芸, 周防:防, 長門:長

<南海道>
紀伊:紀, 淡路:淡, 阿波:阿, 讃岐:讃, 伊予:予, 土佐:土

<西海道>
筑前・筑後:筑, 豊前・豊後:豊, 肥前・肥後:肥, 日向:日, 大隅:隅, 薩摩:薩, 壱岐:壱, 対馬:対

この応用が「房総半島」であったり,「上越線」や「上越市」であったり(この2つは形が同じですが意味が違います),「阿南市」であったりするわけです。
さらに「三陸海岸←陸前・陸中・陸奥」や「両備バス←備前・備中」などという応用例もあります。
ここでも繰り返し紹介されていますが「上野」「下野」をさらに「毛野」までさかのぼった上での「両毛」という用法もあるのですね。

旧国名がごく普通に通用していた時代はもちろん,現在でも地名を創作する上で大変重宝しているようです。
[3770] 2002年 10月 11日(金)00:33:54飛騨守 さん
れ:飛騨/斐太
[3750]

>交通機関が未発達の時代にあっては

現代でもそうなりますが(笑)
ご友人が安房峠(トンネル?)を通られたそうですが、あのトンネルが完成するまでは、冬季関東方面からは中津川経由または富山経由しかありませんでした。
東海北陸道は明確に高山へ「寄せた」ものです。昔高山本線を飛騨川沿いに通したので、その代償として高速は郡上経由にしたというまことしやかな噂がありますが、やはり金沢を意識して現在のルートになったのでしょう。しかしながら高山を無視する訳にもいかず、当時は清見から分岐する中部縦貫道の計画も無かったので、あのように迂回することになったと思われます。そのお陰で10kmを超える「飛騨トンネル」を掘削する羽目になってしまいました(危険物積載車両は通行禁止となります)。
国府の由来ですが「あの辺りに国府(国衙)があった」という程度のもので、遺構などがある訳ではありません。しかしながら飛騨では縄文遺跡の分布などから古川盆地が高山盆地より早く開けたというのが定説で、また国府町には安國寺があることから僭称したのではないでしょうか。町村合併前国府町の中心部は「広瀬村」でした。(中世豪族「広瀬氏」による)。
斐太の地名ですが高山名産「三島豆」の折込によると鎌倉時代に名馬が出て源頼朝に献上されたので国名を「飛ぶ馬と書いて飛騨と改めた」とありますが、万葉集にも斐太の名が見えますので、これは誤りです。称徳女帝の頃吉備の人で上道臣斐太都(かみつみちのおみひだつ)が飛騨守に任ぜられていますが、この頃から美称して「斐太」というようになったのだと想像していますが、正確な謂れは存じません。「斐太」は「斐陀」とも表記される場合があります。
[5101] 2002年 11月 20日(水)00:33:14Issie さん
相武・武相
[5083] 実は小学生さん,[5079] kenさん,[5096] Firo さん
>相武というのは、相模と武蔵からだと思うのですが、実際のところ、
>神奈川県の旧国名の相模国が,さらに古い時代には、2つに分かれていて、
>その東側を、「相武」(サカム)と言われていたという説があります。

そう,律令国制が整備される以前,大和政権に服属してこの地域を支配していた者が「相武国造」(個人名ではない)と呼ばれたことがあったようですね。その意味では「相模」(本当は2文字め,“木へん”の「模」は間違い。“手ヘン”の「摸」が正解)よりも「相武」の方が古い表記による地名であるようです。
ただ,今現在,相模と武蔵にまたがるという意味で「相武」という言い方が一般的かというと,そうではないようです。むしろ,その意味では「武相」という方が耳にする機会は多いみたい。

現代の用法では,やはり「相武台」を連想しそうです。
昭和天皇が考えたことになっているこの地名(ま,明治天皇が考えたことになっている「習志野」の向こうを張っているんでしょうな),古代の「相武」を踏まえたものなのかどうかわからないのですが,その意味では「相模」の地名であって「武蔵」には直接かかるものではないのかもしれません。
(もっとも,一説に「さがみ(←さがむ)」の語源は「さがむさし」つまり「下武蔵」だというのがあります。)

「相武台」となると,本来はかなり“ピンポイント”な名称で

>昭和天皇が当時の陸軍練兵場を
>行幸した際に、命名したというのが定説

この練兵場,そして市ヶ谷からここに移転してきた陸軍士官学校を指していました。
だから,小田急や相模線の駅名に「相武台前」「相武台下」のように“前”だの“下”だのが付くのです。どちらの駅も相模原市ではなく座間市に属します。
士官学校は戦後,米軍の「キャンプ座間」になっています。
要するに,相模原市と座間市とにまたがっているのですね。発足当時は座間も加えて「相模原町」だったんですけど。
[5498] 2002年 11月 27日(水)21:13:40【1】夜鳴き寿司屋 さん
幕藩体制
[5484]ヤマトタケル さん

>それから昔の「国(尾張の国とか三河の国)」とか「藩(赤穂藩とか松前藩)」はどうして消えたのですか?


日本の「国」の行政単位ですが7世紀に朝廷が行政単位として制定したものですね。細かい一覧はここでは言及しませんが、現在の都道府県に相当します。現在でも旧国名を使う事も多いですが行政単位としては明治初年に陸奥と出羽、蝦夷地(北海道)を分割したのちは行政単位としては消滅しました。例えば武蔵国は埼玉県、東京都、神奈川県の一部に分割した形になっています。また美濃国と飛騨国を統合して岐阜県にしたりしていますが、行政単位としては明治維新より遥か昔の平安時代に有名無実化していますので、法令で廃止されたものではないですが現代でも地域をあらわす名称とだけ存続しているのだと思います。

 「藩」ですが一部の研究者では江戸時代には正式には「藩」の名称を使用しておらず、版籍奉還後に大名家が朝廷より「藩知事」の称号を貰ったのが始めと言う説があります。しかし現在一般では徳川将軍家を頂点とする幕藩体制において領知1万石以上を収めていた大名といい、それ以下を旗本、御家人とされていました。

 そのうち大名の所領する領地を「藩」といいますが、細かい一覧はこの書き込み常連のken さんのやられているホームページ「下総綜合ken究所」のコンテンツの「江戸三百藩HTML便覧 」
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/
をご覧になってください。江戸時代の間でも変遷がありますので。

 また藩の大きさも公称1万石の矮小藩から加賀100万石の前田家まで大きさもバラバラで、現在の石川県と富山県のほぼ全域は前田家の所領でしたが現在の愛媛県では8藩からなっていたり、西国の大名家が江戸周辺にも飛び地を領有していたり、複雑に領知が入り組んでいたりしていました。

 「藩」の名称は明治維新の改革のひとつである廃藩置県で消滅したのですが、行政上飛び地や大きさが異なっていたのでは中央集権の国家体制を進めていくのに効率が悪いのでそれらが離合集散を繰り返すうちに現在の都道府県になったのです。現在までの変遷ですが、これまた書き込み常連のIssie さんのホームページのコンテンツ「府県の変遷」を参照してください。

http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm

kenさん、Issieさんまかせてスイマセン。
[5543] 2002年 11月 28日(木)14:53:36夜鳴き寿司屋 さん
RE:国とは
[5536] f さん

>行政単位としては明治維新で廃止されたものだと思います。

>これは完全に間違い。武蔵国を分割して埼玉県等にした事実はありません。県の前身は藩であり、藩は大名の知行地が元になっています。したがって複数の国にまたがったりしていて、国の領域とはまったく別の体系です。

 国を分割したとするのではなく、この場合は藩及び天領を再編成したとすべきでしたね。Issieさんのホームページ「・・・第1次府県統合によって国郡を単位とした3府72県に統合されるまでの府藩県の変遷」との記述を参考にしたまでで、旧国の郡単位(明治の県の再編では国は解体しても郡の解体の例はなかったはずです)で再編したと判断しました。

ただ国を単位で再編成と説明した方が言いかと思いましたので、それに則して訂正しておきます。

>まあ、実際には国の行政機関は平安時代(?)くらいになくなっていますので、名目上のことを言っても始まりませんが。このあたりのことは、京都から東京に遷都する法令が出ていないので名目上は今でも京都が首都であると主張できる)ことと似ているかもしれません。

 確かに旧国名についての法令も首都についての法令も存在しませんね。他にも日本の国章の規定もありませんが。
 そういえば東北・北海道の国名を命名したのは程度で行政単位としては、あまり意味はなかったですね。朝廷の行政機関は武士の台頭から有名無実化してしまい、江戸時代では大名が「日向守」とあたかも朝廷の国司のごとき称号を名乗っていても名称だけでしたね。
[5567] 2002年 11月 28日(木)22:47:36Issie さん
国郡制
[5536] f さん
>藩は明治時代初期の廃藩置県で県に生まれ変わりましたが、国は廃止されていませんよ。ただそれを使う習慣がなくなっただけです。

[5543] 夜鳴き寿司屋 さん
>明治の県の再編では国は解体しても郡の解体の例はなかったはずです

そうですね。これは f さんの言い方が適当だと思います。
「県」と「国」とは別の体系による区分ですから,「国」が「廃止・解体」されて「県」に置き換えられたわけではなくて,「府県-市郡-区町村」という体系が公私両面で定着するとともに,従来の「国-郡」という体系が使われなくなり,次第に表面から姿を消した,ということです。
それでも時々顔を出しますよね。「さぬき市」とか「飛騨市」とか…。まだ「国」が生きている証拠です。

「国(くに)」「郡(こおり/ぐん)」という行政区画が公式に位置付けられたのは8世紀に確立した「律令制」によるものです。その整備が始まるのは7世紀後半の天武朝(もしかしたら,もう1つ前の天智朝=近江朝)にまでさかのぼるようですが,現在の形がほぼ確立するのは奈良時代半ばのことです。今の表現を使えば,718年制定(701年の大宝令を改定)・757年施行の「養老令」を“根拠法令”としています。
「令」とは現在の“行政組織法”に相当しますが(「律」は“刑法”),この「令」によって国内は「国-郡-里」という体系に区分されました。ただし,末端の行政区分に当たる「里」は,奈良時代後半になると「郷」という単位に変わります(詳しくはもう少し複雑なのだけど,ここでは省略)。

一方で平安時代には「荘園」が形成され,それが都のエライ人(皇族・上級貴族・大寺社)の所に集まってくるとともに「不輸・不入の権」を獲得して「国」の行政機関(国衙,国庁,国府などと呼ばれる。少しずつ意味が違うけど)の支配が及ばないところとなります。荘園は「○○荘」と呼ばれ,これも地域区分の単位となっていきます(「荘」は「庄」とも書かれます。つまりこの場合,この2つの字は“同じ字”です。たとえば「本荘」も「本庄」も同じ地名です)。
それに対して,国府の支配下にある地域を現在の用語では「公領」「国衙領」と呼びますが,「国領」とも呼ばれました。各地に存在する「国領」という地名はこれに由来します。
律令制では中央から国府に派遣される行政官(国司:長官(かみ)=守,次官(すけ)=介,三等官(じょう)=掾)が「国」の行政を行うことになっているのですが,平安時代後期に荘園制が確立するのと並行して国司は実際には任地へ赴任せず,「国」は中央の有力貴族の領地に近い存在に変質して,国司の代理として派遣された「目代(もくだい)」が現地採用の国府の役人(在庁官人。地元の有力武士)を統括して行政実務(主に税の徴収)を行うようになりました。
こうして地方行政レベルでの律令制(国郡制)は形骸化してゆきます。

鎌倉時代,「守護・地頭」支配を通じて地方現地での支配権は武士のものになります。荘園では,名目上の支配者である公家や寺社と現地での支配者である武士との間で“縄張り”を折半したりもしたのですが,戦国時代までに彼らの名目上の支配権も失われます。
この間,「国」は全国を適当に区分する単位として律令時代以来のものがほぼそのまま使用され続けますが,「郡」や「荘園」は様々に分割されました。「荘(荘園)」を分割する単位として「条」が使われたりもします(上条・中条・下条,北条・南条・西条・東条など)。

16世紀末の豊臣秀吉の天下統一によって久しぶりに成立した強力な中央政権の下で,かなり混乱していた「郡」が再編され,同時に「国」の範囲も確定されました。明治以降の「国」の領域は,この時のものを基本的に継承しています。
また,全国的に行われた検地によって「村」が基礎的な行政単位として位置付けられました。「村」単位で期待される収穫高が算定され,年貢を徴収する基礎単位ともなりました。
こうして整理された「国-郡-村」という区画を単位にして,大名や旗本に対する領地の“あてがい”が行われました。で,そうしてあてがわれた大名の領地が「藩」と呼ばれる,幕府の直轄地が「天領」と呼ばれるわけです。

明治維新で天領や旗本領などが没収され明治政府の直轄領となりました。政府はそこに「府」(主要都市など)や「県」を設置します。
1869(明治2)年の「版籍奉還」で諸侯(大名から改称)たちが所領の支配権を天皇に返還し,改めて天皇から「知藩事」に任命される,という手続きを経て,はじめて「藩」が“公式の行政区画”として位置付けられます。
そして1871(明治4)年の「廃藩置県」で「藩」が廃止されて「県」に置き換えられたのです。

この間,「国」は全くいじられていません。
“根拠法令”たる「養老令」は形式上は実に幕末まで行き続けて「王政復古の大号令」(慶応3年末,太陽暦では年が明けて1868年初)でようやく廃止されるのですが,「国」はとっくに政治上の実質を失って慣習上の地域呼称になってしまっていたので関係なかったのでしょうね。そしてそれっきり,そのまんま現在に続きます。
「郡」は1890年の「郡制」で府県と町村の間の“制度上”の行政区画として郡役所と官選の郡長,および郡会と郡参事会が置かれますが,1921年・1926年の2段階に分けて行政上の機関は廃止されました。以来,単なる地域呼称として現在に至ります。
そして「市」は「郡」に含まれないという規定により,市の増加とともに郡の範囲は徐々に縮小しているのです。
[5786] 2002年 12月 2日(月)21:43:35Issie さん
上総・下総
[5779] らるふ さん
>上総と下総って、どっちがどっちかよく迷うんですよね。

これは当初の東海道が三浦半島から浦賀水道を渡って房総半島へ上陸するのを“順路”としていたからでしょうね。市原郡の上総国府(市原市)から,葛飾郡の下総国府(市川市)へというのが順路だったのでしょう。
実際,ヤマトタケルノミコトはこのルートで「東征」を行っています。
横須賀の「走水」,千葉県の「木更津」「君津」「袖ヶ浦」なども,この伝説に由来する,なんてよく言われますね。もっとも,「木更津」や「君津」なんてのは実はたいへん新しい地名なのですが。
なお「かずさ(上総)」というのは,もちろん「かみつふさ」の縮約形です。「しもうさ(下総)」は「しもつふさ」。“ウ音便”と母音の融合とで「シモーサ」と発音するようになっちゃったのですね。

「武蔵」は当初,東海道ではなく東山道に属していました。鈴鹿の関から海沿いに足柄を越えて坂東(関東)に入るルートではなく,不破の関(関ヶ原)から重畳の山並みを越え,碓氷坂から坂東へ入って奥州へ抜ける,というルートの一環。とは言え,武蔵国府は東海道本道からも東山道本道からも甚だ外れたところにあるので,どちらに属そうが…ってな感覚だったのでしょうかね。
ともかく,古代に武蔵豊島郡の東縁を切り取る隅田川(荒川)から東,下総国府台下を流れる太日川(渡良瀬川=現江戸川)まで,荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川の沿岸ということで,実際ここを横断して武蔵国府(府中)から下総国府(市川国府台)まで河を渡るのは困難なんでしょうね。
[5799] 2002年 12月 3日(火)00:29:42Issie さん
房総は島にあらず
[5796] らるふ さん
>上総・下総の上下については、結局「房総半島はほとんど島」という理論なのですね。

いいえ。ここには“島”であるかどうかという問題は一切含まれていませんよ。
また,現実に「安房・上総・下総3国」は“島”ではありません。
なぜなら,本来は利根川も渡良瀬川も太平洋ではなく東京湾に注いでいたからです。下総も現在の千葉県でおしまいではなく,茨城県の結城地方や猿島地方までが下総に含まれていたわけですから。下総と下野の国境,つまり茨城県と栃木県の県境は原っぱです。

現在の利根川の下流区間は本来は鬼怒川の下流なのですが,まだ堆積のそれほど進んでいなかった古代,現在の龍ヶ崎のあたりから下流が陸とも沼とも区別のつかない沼沢地であったことは事実です。また,下総国府(市川)を過ぎた東海道の続きが,現在の取手のあたりで鬼怒川下流の沼沢地をおそらくは船で渡って常陸国府(石岡)へ向かったことは確かでしょう。
けれども,結城・猿島のことを考えれば房総が“島”であるという感覚はなかったと思います。

ここは単純に東海道の順路に沿って,都(平城京)から近い順番に「上総」「下総」となっているだけです。
なお,武蔵が東山道から東海道に所属替えになると,東海道の順路は相模国府(大磯?)→武蔵国府(府中)→下総国府(市川)→常陸国府(石岡)というルートになり,上総国府(市原),安房国府(三芳村府中)へは市川で分岐する支線ルートとなっています。だから,以前とは逆に 下総→上総→安房 という順序になったのです。
[9212] 2003年 2月 14日(金)21:38:45Issie さん
「ひ」の国
[9192] utt さん
[9193] YSK さん

いやぁ,つい柄にもなく「ミュージックステーション」を視てしまいました。
お目当ては テツ&トモ。
でもやっぱり,NHKの「爆笑オンエアバトル」ほど面白くなかったの,「何でだろう」。

というわけで,utt さん の「何でだろう」。
肥前、肥後はどうなのでしょうか?

「肥前・肥後」に分割されるのは8世紀に律令国制が整備される過程のことで,それ以前は YSK さん のお答えの通り,「ひ」と呼ばれていたようです。
「古事記」の冒頭にある有名な「国生み神話」に次のような説話があります。
・イザナキ,イザナミの男女2柱の神が“天つ神”の言葉(命令)を受けて結婚し,日本の国土を生んだ。
・その中の1つが「ツクシ(筑紫)の島」である。
・「ツクシの島」には4つの顔がある。
・1つは「ツクシ(筑紫)の国」,名は「シラヒワケ」。
・1つは「トヨ(豊)の国」,名は「トヨヒワケ」。
・1つは「ヒ(肥)の国」,名は「タケヒムカヒトヨクジヒネワケ」。
・いま1つは「クマソ(熊襲)の国」,名は「タケヒワケ」。

というわけで,ここでは「ツクシの島=九州」が「ツクシ」「トヨ」「ヒ」「クマソ」の4つの地域に分かれる,としています。

で,律令国制では,このうち「筑紫(つくし)」が「筑前」「筑後」,「豊(とよ)」が「豊前」「豊後」,「肥(ひ)」が「肥前」「肥後」に分割されたということになります。
「古事記」に記載された名前によれば,「日向(ひむか→ひゅうが)」も「ヒ」から分かれたようにも感じますが,実のところはどうなのでしょう。
南九州の「薩摩」「大隈」,つまり古事記の言う「クマソの国」が“ヤマト”の支配下に完全に入るのは7世紀から8世紀初めにかけてのことです。

もっとも,日本語では「ひ」という一拍の単語は極めて不安定です。「ひのくに」という形になって初めて安定するように思われます。
それは「き(紀)」が地域呼称としては極めて不安定で,「きのくに」という形にするか,あるいは奈良時代の「地名はすべからく“縁起のいい漢字2文字”にすべき」という詔勅に基づき,「紀伊」と2拍に引き伸ばされたのと同じ事情があるのだろうと思います。
ただ,幸いなことに「ひ」の場合は,「肥前」「肥後」に分割され,それぞれ「ひぜん」「ひご」という“安定”な形を獲得したので,「きぃ」のように延ばす必要はなかった。

雲仙岳、阿蘇山のある地域が「火の国」

私もそのように思いたいと思っているのですが,何分「ひ」だけではあまりにも語の形が単純すぎて,本当のところの語意を探り当てることは難しいのではないかと思います。

ところで,「ひ」というのが後の「肥前」「肥後」両国をあわせた全域をさす名称であったかと言うと,そうではなかったように思います。
肥前の北半分は,現在の佐賀・長崎両県にまたっがて全体が「松浦郡」ですね。「まつら(マツロ)」というのは「魏志倭人伝」にも登場する,たいへんに古い地域呼称です。
また,肥後の南部の「クマ(球磨)」というのも一定の地域的まとまりを持つものであったような感じがしますね。
これら「マツラ」や「クマ」というのは,もともと「ひ」とは“別の国”であったのではないか,そんな気もします。
律令国制以前に「国造」制が整備されたとき,「火国造(ひのくにのみやつこ)」というのが現れますが,その支配地域は後の菊池郡を中心とする肥後(熊本県)北西部であったようです。

で,この「松浦郡」を削除すると,肥前は主に有明海側斜面ということになります。
この有明海沿岸地域,今のように陸地が拡大するのは干拓の進んだ近世以降のことですよね。
それ以前の有明海は今よりも大きかったし,当時の土木技術では乱流する筑後川のそばに接近することなどとてもできなかったことでしょう。
とすると,マツラ地域を除いた肥前南部と筑前・筑後との交通は容易ではなかったかもしれません。
むしろ,YSK さん の言われるとおり,天草・島原を媒介とするつながりがあったのかもしれない。
(そういえば,雲仙の火山活動が激しかった頃,昔の火山活動を表す言葉として「島原大変・肥後迷惑」というのが紹介されていましたね。江戸時代に雲仙が噴火したとき,もちろん直下の島原が直接の被害を受けたわけだけど,この噴火で島原の山体が崩壊して有明海に流れ込み,そのせいで発生した津波が対岸の肥後に大きな被害をもたらした,というお話。これは自然災害だけど,こんなことも含めて肥前と肥後の関係は密接ですね。)

とは言え,律令制を導入するに当たり「国」を再編する過程で,「ひ」は2つに分割された。その際,有明海が「分割された“ひ”」の境になったけど,「遠の朝廷(とおのみかど)」たる大宰府を基準に考えて,より近い位置にある現在の佐賀・長崎県域が「肥前」,より遠い現在の熊本県域が「肥後」なったのだろうと考えています。

分割された「肥前」の国府は現在の佐賀市付近,「肥後」の国府は現在の熊本市付近に置かれました。
都(平城京)を起点とする“官道”たる「西海道」は,現在の鳥栖付近で二手に分かれ,1本は肥後国府すなわち現在の熊本方面へ,もう1本は肥前国府すなわち現在の佐賀付近を通り,大村・諫早・島原から現在のフェリー同様に有明海を渡って熊本へ到達していたようです。
[10312] 2003年 3月 3日(月)20:18:52【1】えっす さん
旧国名と苗字
題名の通り、旧国名の苗字を調べました。
もしかしたら過去ログにあったかもしれません。

旧国名苗字データ
旧国名順位世帯数
蝦夷地
蝦夷なしなし
東山道
陸奥4353514
出羽4186687
下野なしなし
上野なしなし
信濃9116213
飛騨1700477
美濃28961150
近江13663049
東海道
常陸9201210
下総11199152
上総9538198
安房1717075
武蔵4019733
相模6993324
甲斐30717733
伊豆3882711
駿河5040520
遠江なしなし
三河3278980
尾張5398473
伊勢11973643
志摩32271005
伊賀16182433

一旦、これだけを書き込みしておきます。
後日、続きをアップしたいと思います。
間違いなどありましたらどんどん指摘して下さい。
[15290] 2003年 5月 15日(木)23:41:32【1】Issie さん
紀伊
[15288]雑魚 さん
「紀伊」 とは本来、紀ノ国と伊勢を擁する合造的な半島の名前と感じているのですが

いや,「紀伊」という表記は奈良時代から行われていますから,近代の合成地名とは違うと思いますよ。
それに,「紀伊+伊勢」じゃ「志摩」の立場がないし。
(近世以降の「志摩国」は志摩半島の部分にこじんまりとまとまった小国になっていますが,本来は熊野灘の海岸線に沿って現在の三重県の南・北牟婁地域まで広がっていたようです。中世に入って,だんだんと「紀伊国牟婁郡」に侵蝕されて今のような形になったらしい。だから,古い時代にさかのぼるほど「志摩」は無視できないはずです。)
それともう1つ。
「上野」の「上」,「下野」の「野」のように,「伊勢」を1文字で代表・略記する場合は通常「勢」の方を使います。「勢州」のようにね。
「紀伊+伊勢」の場合,普通は国鉄が路線名に使用したように「紀勢」となることでしょう。

「紀伊」というのは本来「き」という地名であったと思われます。
ただ,「きのくに(紀の国)」とか「きのかは(紀ノ川)」とか「きうぢ(紀氏)」という形では安定しても,「き」1音では日本語としてはどうも不安定なのと,たびたび話題になる奈良時代の「地名は縁起のよい文字2文字で表記せよ命令」で,「紀伊」という表記に“引き伸ばされた”ものでしょう。

阪和線紀伊駅

これは,もともと相当に起源の古い地名なんじゃないでしょうか。

「き(紀)→紀伊」というのは,本来“ピンポイント”な地名です。
古代の名族の「紀氏」がウヂナ(氏の名前)にしたのも,「き」地域を“縄張り”にしていたからですね。逆に,この「紀氏」とかかわりの深い地域も「き」と呼ばれました。京都市南部の伏見地区も「伏見市」になる前は「紀伊郡」でしたね。
現在は和歌山市に属する旧名草郡の「紀伊」地区も,おそらくはそのような「き」地名の1つだと思われます。
そして国名としての「紀伊」は,本来これらの「き」,あるいは「紀ノ川」流域の地域呼称であったものが拡大されて,紀伊半島西半沿岸地域の国名に“出世”をしたものでしょう。

広域的地名を和歌山市の一部地域が名乗るのも

たぶん,ね,これはベクトルが逆だと思います。
[16174] 2003年 5月 30日(金)20:42:43【1】Issie さん
甲斐国の所属
[16141] ken さん
千葉県には支庁があり、千葉県のサイト上や、県の各種資料での支庁の並び順は

ああ,そういうものもありますよね。
支庁の場合もそうですが,千葉県では郡区町村編制法下の「千葉市原郡役所」以来,千葉郡と市原郡とはセットに扱われることが多いですから(私が受験した頃の県立高校の学区も千葉市と市原市は確か同じ学区でした。もっとも,私は直前に県立高校を受けるのをやめましたが。私は旧千葉郡=習志野市に住んでいたので,私が受けようとしたのも旧千葉郡=千葉市の高校でしたよ),そうすると
 千葉→市原→東葛飾→…
という順序となるのかもしれません。
…とは言っても,自治体コード導入直前の統計では前に述べたとおり,安房郡から房総半島を北上しているわけだし,導入当時は既に消滅していたのだから,「本来どこに入るだろう」なんてことをここで想像してみてもあまり意味がないような気もします。

[16142] 紅葉橋瑤知朗 さん
今度は山梨県が問題児

古代の区分では,甲斐国は「東海道」に所属します。

律令制の下での「道」には「国」の上位の行政区分としての意味と,各国府を結ぶ官道そのものを指す意味の両義がありました。中央からの命令や地方からの報告,あるいは地方同士の情報はこの官道を「逓送」することで末端まで伝えられました。「道」とは,その逓送ルートでもあったのです(「逓送」って,職務上あたしもよく使うんだけど,これって,やっぱ「お役所言葉」かしら)。
奈良時代,「東海道」は駿河国府(静岡)から足柄峠を越えて相模国府(大磯),三浦半島の走水(横須賀市)から浦賀水道を渡り上総の天羽郡(富津)で上陸して,上総国府(市原)→常陸国府(石岡)というルートが幹線とされていました。これに,短距離の支線が伊豆国府(三島),下総国府(市川)へ分岐し,さらに長い支線が現在の御殿場付近で分岐して篭坂峠・御坂峠を越えて甲斐国府へ向かっていました。
(甲斐国府の所在地は「甲斐府中=甲府」ではなく,現在の石和のあたりと考えられています。現在の「甲府」,すなわち甲斐府中が成立するのは中世の武田氏の支配下でのことです。おそらくは,律令国制が形骸化した後,源平抗争期から鎌倉初期にかけて,甲斐源氏の本流として甲州一円に支配権を確立した武田氏が国府の機能を吸収したことによるものだと思います。)

一方,「東山道」は近江から不破の関(関ヶ原)を越えて美濃に入った後,現在の中津川から木曽へは入らずに神坂(みさか)峠を越えて伊那谷へ入った後,善知鳥(うとう)峠から松本平→上田平を経て(信濃国府は当初上田にあったものが,後に現在の松本に移転した,と考えられています),碓氷峠から上野(こうずけ)→下野→陸奥・出羽,とつながっていました。

「武蔵国」は当初,東山道に属していました。
東海道の相模国府(大磯)から分岐して,現在の海老名・町田あたりを通過して武蔵府中に至り,さらに所沢→(東)松山を経て高崎・前橋あたりで東山道に合流する,という支線ルートがありました。
で,奈良時代には武蔵国府へは東山道本線上の上野国府から向かうというルートがメインとされていたのですね。だから,武蔵は東山道に属していました。
しかし,奈良末期から平安初期にかけての時期に,「東海道」の本線ルートの変更が行われて,相模国府から海老名(実は,相模国府の所在地には“大磯説”と“海老名説”の2つがあります。)→町田→関戸(多摩市)→武蔵府中を経て,豊島から荒川・利根川(中川・江戸川)下流の低湿地を突っ切って下総国府,さらに常陸国府へ,というルートに付け替えられました。その結果,武蔵は「東山道」から「東海道」へ所属替えになっています。

だから,再度整理すると
<東海道>:伊賀→伊勢→志摩→尾張→三河→遠江→駿河→伊豆→甲斐→相模→(武蔵)→安房→上総→下総→常陸
<東山道>:近江→美濃→飛騨→信濃→上野→下野→陸奥→出羽
となるのです。

けれども,戦国末期の武田氏支配以来,“東海道”の甲斐と“東山道”の信濃との結びつきは強いですよね。
武田晴信(信玄)の後継者は「諏訪四郎」勝頼でした。織田・徳川連合軍の高遠攻めで討ち死にした信玄の五男は,松本平北部の古代以来の豪族の名跡を継いだ「仁科五郎」盛信でしたね。武田氏滅亡後,三・遠・駿・甲・信の5ヵ国は徳川家康の縄張りとされたのでした。
後北条氏滅亡後の豊臣政権期から江戸時代,この地域は細切れにされますが,特に甲州と信州の諏訪・松本地方との結びつきは強まりますよね。
方言区分でも,この地域は「~ずら」圏としての特徴を共有します(下伊那南部と木曽は,信州のほかの地域とかなり方言的特徴を異にします。また,千曲川流域の東北信地域の方言も,諏訪・松本地域とは微妙に違います)。その点では,同じ「東山道」の美濃・飛騨よりも,甲州との共通点の方が多いかもしれません。

実は,「東山地方」という表現がしばしば使われるのは方言研究の分野なのですが,この点では甲州(山梨県)や,場合によっては駿河(駿豆地方出身の学生が「~(だ)らぁ」というのを,学生時代によく耳にしました)も含むのが妥当なのかもしれません。
つまりは,「フォッサマグナ」の西を限る「糸魚川・静岡構造線」沿いに特徴を共有する方言が分布する,ということです。
[18417] 2003年 7月 19日(土)20:13:10【1】太白 さん
上総と下総
[17485] 両毛人 さん
京に近いほうを「上」遠いほうを「下」とした

[17496] Issie さん
房総の場合,半島の南側が「上総」,北側が「下総」です。
これは,奈良期には東海道が相模国府(海老名,または大磯)を経た後,横須賀の走水から浦賀水道を渡って房総半島に上陸するルートを順路としていた名残です。

 私も、この話を聞いたことがあります。確かに、京都から見ると、「相模→(海路)→安房→上総→下総」という順になりますね。源頼朝も石橋山(?)で挙兵して敗れたあとこのルートを経たように記憶しています。
 しかし、更級日記によれば、菅原孝標女は、「あずまの国のはて」である上総国府(現在の市原市でしょうか。市原駅前には更級通りがあります)から京都に帰る際、まず陸路で下総へ向かうルートを通ったようです。平安当時の国司が使った「公式な(?)ルート」が東京湾の陸路経由だったとなると、京都→上総→下総というルートが「順路」だったとは思えないのですが。
 それとも、「方違え」か何かで菅原孝標女は「変則的なルート」を採ったのかな…。

 思いつきですが、房総方面に向かうには2つのルートが存在し、国名を決める際に、「総」の中でより中心であった地域が「上総」になった…とか。違いますかね…。
[18420] 2003年 7月 19日(土)21:26:18【2】Issie さん
Re:上総と下総
[18417] 太白 さん
しかし、更級日記によれば、菅原孝標女は、「あずまの国のはて」である上総国府(現在の市原市でしょうか。市原駅前には更級通りがあります)から京都に帰る際、まず陸路で下総へ向かうルートを通ったようです。

「上総」「下総」が設置された奈良時代初めの「東海道」のルートは 相模→上総→下総→常陸 というものでした。
ところが後に(「武蔵」が「東山道」から「東海道」に編成替えになった771[宝亀2]年ごろ?),このルートは変更されて 相模→武蔵→下総→常陸 というのが東海道の“本線”になりました。下総国府の置かれた現在の市川市からは“支線”が分岐し,現市原市に置かれた上総国府,三芳村のあたりに置かれた安房国府を結んでいました。
平安時代の「更級日記」の頃,上総から都へ帰るには 上総→下総→武蔵→… というのが「順路」だったのですね。

後で気づいたのですが,瀬戸内海ルート西端の防長2州には

 上関(周防・熊毛郡)→ 中関(周防・佐波郡)→下関(長門・豊浦郡)

というセットがありましたね。
海路に川上も川下もあるはずがありませんから,これなど「都」から距離による典型例といえるでしょう。

もう1度,「上総・下総」に戻って…

律令国郡編成に先立つ“国造制”の時代,のちの上総・下総のそれぞれに「海上(うなかみ)国造」が配置されていました。それぞれを区別するために,上総の方を「上海上(かみつうなかみ)国造」,下総の方は「下海上(しもつうなかみ)国造」と呼ぶこともあったようです。
律令国郡の下では「上総」「下総」に分かれたので,ともに「海上郡」となりました。下総の海上郡は現存しますが,上総の海上郡は近世初めに「市原郡」に統合されました。

両総には「埴生(はぶ)郡」という郡もダブって存在していました。
1873(明治6)年に上総・安房を管轄していた「木更津県」と下総を管轄していた「印旛県」が統合されて「千葉県」が新設されたとき,上総の埴生郡は「上埴生郡」,下総の埴生郡は「下埴生郡」となって区別することになりました。
明治半ばの郡制施行の際,「上埴生郡」は「長柄(ながら)郡」と統合されて「長生郡」となり,「下埴生郡」は「印旛郡」に編入されて,ともに消滅しています。
もし,近世初めに上総の「海上郡」が統合されずに明治まで残っていたら,千葉県発足時点で埴生郡同様に「上海上郡」「下海上郡」となっていたかもしれません。

※そうそう,
市原駅前には更級通りがあります

「五井駅」ですね。
郡制下で「市原郡役所」が置かれ,合併前の「市原町」の中心だったのは1つ千葉寄りの「八幡」(駅名は「八幡宿」)だったのですが,いつの間にか地位が逆転していますねぇ…。
[21549] 2003年 10月 29日(水)20:33:16【3】Issie さん
津の国
[21547] わたらせG さん
「泊」も「津」と同義ですが、泊のほうが古い言い回しのようです。

単語としてみた場合,動詞「とまる」の派生形(連用形)である「とまり」よりは,これ以上単語として分解することのできない「つ」の方が古そうに見えますけどね。

カタカナの「ツ」の元になった漢字は「川」。これを「正しい書き順」で続け書きしたのが平仮名の「つ」。
このことはつまり,「川」という漢字を「つ」と読むことがあったこと,あるいは日本固有の単語である「つ」に「津」だけではなく「川」という漢字が当てられることがあった(しかも,割とポピュラーに)ことを示唆します。

ところで,「きのくに」とは「紀伊国」のこと。「ひのくに」と言えば「肥前/肥後」の古称(現在ではほとんど 肥後=熊本県 が独占している感がありますが)。
では,「つのくに」とは…?

これは「摂津国」の旧称です。
「難波(なにわ)の津」と,その後背地,というほどの意味でしょうね。
内陸の大和盆地を本拠とする政権によって律令制度が整備されていく中で,難波は内陸の都城(藤原京および平城京)に対する外港として,さらには2度にわたって難波自体が「都」となったこともあって,ここに置かれた難波宮を管轄する「津の国」には,通常の国に配置される「国司」よりもワンランク高い「摂津職(せっつしき)」が置かれました。「津(の国)の行政を摂(と)る職(つかさ)」という意味です。
…とすると,本来は「津」だけが固有名詞で,「摂津」とは固有名詞を含む複合語であった,とみなすことができるのかもしれません。

地方行政官として通常の国司よりもワンランク上であった「摂津職」の長官は「摂津大夫」。
律令制の下では「長官」はどのような漢字で表記しようとも(卿・頭・督・守・…)は「かみ」と読むのが原則とされていて,したがって「大夫」も「かみ」と読むのですが,そのまま「たいふ/だいぶ」さらに「たゆう/だゆう」と読まれることもありました。
江戸時代後期,航海中に遭難してロシアに漂着した船乗りの1人である「津太夫(つだゆう)」の名前も,元の形は「摂津大夫(せっつ[の]だいぶ)」。今の表現で言えば「大阪府知事」という意味なのですね。

摂津職と同格なのが,京(藤原京→平城京→長岡京→平安京)内の行政を担当する「京職(きょうしき)」。ただし,こちらは京を東西半分に分割して,それぞれに「左京大夫」「右京大夫」以下の官員が配置されたので,現在の「京都市長」よりも権限は半分ということになります(なお,これは左右両京で管轄区域が完全に二分されていて,江戸時代の南北町奉行が月交代で江戸全域を担当していたのとは違います。)

地方行政官の中で摂津職や京職よりも,さらにはるかに格が高いのが「遠の朝廷(とおのみかど)」である大宰府で,長官の「大宰帥」は中央の「大納言」(現在の内閣のメンバーに相当)のやや下。摂津大夫と同格なのは,ようやく,次官である「大宰大弐」です。

けれども都が平安京に移されたときに,難波宮が廃止されました。
淀川上流の長岡,ついで葛野(平安京)への遷都には,大和盆地の都:平城京と外港:難波宮の機能を統合する意図があった,とも説明されています。
ともかく,難波宮が廃止されるとともに「摂津職」も廃止され,「摂津国」も通常の国と同様に「摂津守(せっつのかみ)」を長官とする通常の国司の支配する国となりました。

そして,この段階までに「摂津」の2文字は分かちがたいものとなり,「津」ではなく「摂」の方がこの国を代表する漢字として,「摂州」「北摂」などという用法が定着することとなりました。
[21600] 2003年 10月 31日(金)21:44:04【1】Issie さん
[21584] 月の輪熊 さん
しかし、「穂の国」が存在したというのは初めて知りました。

これは「石城(いはき→いわき)国」「石背(いはしろ→いわしろ・いわせ)国」「諏方(すは→すわ)国」の場合とは違って律令国制の1段階前,「国造(こくぞう/くにのみやつこ)制」の下での地域呼称です。
この地域の旧来の支配者がヤマト政権の支配を受け入れて「ほのくにのみやつこ(穂国造)」の地位を「安堵」された,その支配領域の呼称ですね。
律令制を整備する過程で「国」の下位区分である「こほり(評→郡)」に位置づけられて「ほのこほり」と呼ばれることになり,やがて「宝飫郡」という表記が定着しました。
「参河(みかは)国」内の1郡,という位置づけですね。
「宝飯郡」への変化は,[21569] あんどれ さんのご説明のとおりです。

ただし,「飫→飯」という表記の変化はこの地域独自の現象ではなく,日本全国で普遍的に「自由に交換の可能」な漢字ペアーの1つでした。
以前に触れたことのある「おほ(おふ)」というウジ(氏)名および地名に「飫富」という字が当てられて,これが後に「飯富」と表記されるようになり,読み方も「いいとみ」となった,という例は各地に見られます。あるいは「飯富」という表記で「おぶ」と読むことも少なからずあります。
「飫」と「飯」は,“漢字としては”本来お互いに全く別個の文字ですが,日本での漢字使用の習慣では両者相互の取り替えが自由なのですね。

「ほのこほり」のように,元々は短かったのが引き伸ばされた地名には,伊予の「ゆのこほり」というものもあります。「湯の郡」,つまり「温泉(おんせん)郡」のことです。

[21595] なお さん
今まで長野県の南北分割の表現が見つからなかったので

長野県では,近代以降(というより,長野県と筑摩県の統合以降でしょうが),旧長野県域の「北信」と旧筑摩県域(のうちの信濃国部分)の「南信」とに分割する習慣が定着しています。
両者はさらに,「東信」=南・北佐久,小県 と(狭義の)「北信」=埴科,更科,上・下高井,上・下水内;「中信」=木曽,東筑摩,南・北安曇 と(狭義の)「南信」=諏訪,上・下伊那 とに区分されます。
奈良時代の一時期設置された「諏方国」の領域は,当然に諏訪を中心として伊那谷の北部または全部を領域としていたと考えられています。

※「諏訪」と「諏方」の違い,つまりこの場合“ごんべん”の有無は,さほど重要な問題ではありません。「訪」と「方」は完全に「誤差の範囲内」で,気にする必要は全くありません。「参河」と「三河」とは,“全く同じ漢字の異表記”に過ぎません。
「石城」と「磐城」,「石背」と「岩瀬」「岩代」もお互いに交換可能なセットなのですね。

地名の表記や読み方なんて,所詮大雑把で適当なものなのです。
みんなが使えば,それが「正しい」。それだけのことです。
[31001] 2004年 7月 25日(日)06:51:08【2】KMKZ さん
阿波が粟で安房が阿波
[30955]KMKZの記述、"国造本紀には共に「阿波」と表記されているそうです。"は誤りでした。
房総半島の「あわ」の方が「阿波」と表記されています。[30955]は修正しました。

所在地律令制後の国名律令制前の国名(国造本紀)
四国阿波
房総半島安房阿波

また、国造本紀に記載されている律令制前の国名には既に上下分割や前後分割の例が存在していました。

律令制前の国名所在地
上海上、下海上上総海上、下総海上
上毛野、下毛野上野、下野の南部
上道、下道備前上道、備中下道
三野前、三野後美濃

追記
下海上の所在地を追加
[39916] 2005年 4月 16日(土)20:54:51Issie さん
筑子節
[39915] ひげねこ さん
筑前・筑後は「ちくぜん」「ちくご」なのに、どうして筑紫だけ「つくし」なんだろう。

はじめに「つくし(筑紫)」という地名があって,それを後から「筑前・筑後」に分けたからです。

「筑」という漢字は中国の古代楽器を表わす文字であったようです。
講談社が刊行中の「中国の歴史」シリーズの第3巻『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』(鶴間和幸著,2004年)に詳しい説明があるのですが,5本の弦を張った楽器で竹のバチで弦をたたいて演奏したものとか。ピアノと同じ原理の楽器です。
で,この文字を輸入したとき,母音も子音も貧弱な日本語では「チク」という音で受け入れました。
異体字に「竺」という字もあります。

この文字にあてはまる日本語の概念はなかったらしく,固定化した“訓”はないようです。
ただ,「筑子」と書いて「こきりこ」と読ませることはあるようですね。「こきりこ」も“楽器”の名前です。「筑(ちく)」とは,だいぶ違うものですが。

一番初めにあったのは「つくし」という地名です。
現代日本語の発音とは若干違っていたはずですが,おそらくは列島固有の言語による地名でしょう(列島共通の「日本語」の形成過程のことでしょうから,あえて言えば「つくし語」でしょうかね)。
漢字が輸入されてから,これに「筑紫」という字が当てはめられました。[39884] で触れたとおり,地名に関しては「つく/つか」という音にはめる習慣でした。

奈良時代に入って律令国郡制が整備されていく過程で「筑紫」は南北に分割されて「筑前/筑後」となりました。
そして,この分割された新国名は中国語(漢語)の理屈に従って創作された“和製中国語地名”です。
「つくし」の場合には,「つくし」という地名が先にあってこれに「筑紫」という漢字があてはめられたものですが,「筑前/筑後」の場合は漢字表記が先にあって,さて,これをどう読むか,というものでした。
そこで恐らく,より“標準的な音”に近い「ちくぜん/ちくご」という読み方が定着したのではないか,と思います。

これは,列島固有語で「こし(越)」と呼ばれた地域を分割した3国が,それを表記する漢字の“標準音”に近い読み方で「越前(ゑちぜん)」「越中(ゑッちゆう)」「越後(ゑちご)」と呼ばれたことを考えると見えやすいと思います。
もっとも,「とよ(豊)」を分割した「豊(ぶ)前」「豊(ぶン)後」は,“標準音”の「ホウ」からはまだ遠いものですが。

「筑紫郡」は,明治になって郡制施行(福岡県では1896年)のために 御笠・席田(むしろだ)・那珂 の3郡が統合された新設された郡ですね。
このとき新設された郡名は,奈良時代以降の朝廷で「最も正式」とされた“漢音”(でも,例外は枚挙に暇がなく…。最大の例外は「京(きょう)」)で,「ちくし」と読むのを“正式”としたものと思われます。

たとえば,こんな整理が可能かもしれません。
・近現代の福岡県の地名としての「筑紫」は「ちくし」と読むのが普通であるし,“公式”の読み方として多く採用されている。
・古代,この地域を指していた“歴史的”な地名としての「筑紫」は「つくし」と読む習慣である。

少なくとも,どちらか一方が「全くの間違い」で全否定されるべき存在である,というわけでは決してないものと思います。
[44892] 2005年 9月 14日(水)21:47:42Issie さん
[44857] ニジェガロージェッツ さん
期待通りのご意見を頂戴し、有難うございます。

いやぁ,これはこちらも同じだったりします。

私があそこで“かぎカッコ”つきの「国」という表記をして,「明治2年末」と時期を限定したのは「国」の意味をできるだけ限定しようと思ったからでした。つまり,政府によって「公式に」定められた地方区画としての「国」に限定する,ということ。

奥羽以南の「国」については,遠くさかのぼって奈良時代(8世紀)の「令」(718年改定,757年施行の「養老令」が“形式上”は幕末まで有効であった)と,その“施行細則”である平安時代前期(10世紀)の「延喜式」(927年完成,967年施行)に“根拠”を求めることができます。
律令そのものは慶応3年末の 王政復古 で“形式上”にも効力を失ったようですが,明治元年末の奥羽両国の分割や明治2年の 北海道11ヵ国 の設置は,奈良時代以来の「令制国郡」の延長としての“公式な地方区画”と理解しておくことができると思います。

「北海道11ヵ国」の場合には次の文章で始まる明治2年8月15日付の太政官布告(通番734)がその根拠になると思われます。
--------------------------------------------------------------------------------------
「蝦夷地自今北海道ト被称十一ヶ国ニ分割国名郡名等別紙之通被 仰出候事」
(蝦夷地,自今「北海道」と称せられ11ヵ国に分割,国名・郡名等別紙の通り仰せ出だされ候こと。)
以下,国名・郡名を列挙(ヨミガナを添えて)
--------------------------------------------------------------------------------------

北海道の北の“島”について,明治3(1870)年2月に「開拓使」が「北海道開拓使」と「樺太開拓使」に分割されていますから,少なくともこの段階までにこの島の“公式地名”が「樺太」に定められてはいたのでしょうが,「樺太国」という地方区画を設置する“公式の措置”はとられたのかどうか。

あそこで「琉球」を「国」に数えていないのも,今ここで限定しようとしている“令制国”であったとは言いがたいと考えるからです。

1993年前半の大河ドラマ「琉球の風」(←中身はあまり感心しませんでしたが)は冒頭,羽柴秀吉が明智光秀を滅ぼした後の宴会で 亀井これ矩 という武将(ポール牧)が「琉球守」の称号を求めて許される,という場面から始まりました(この場面,本能寺の変で終わった前年の「信長」で秀吉を演じた仲村トオルがそのまま出てくるという,前作の続編のような演出で驚かされました)。亀井は称号とは別に 因幡鹿野城 の城主となり,次の代に 石州津和野 に移転して廃藩置県に至ります。
「琉球守」という称号は,「筑前守」や「日向守」と同様に「琉球国」という区画を想定してのものだと思われますが,島津氏の琉球征服(慶長14/1609年)に先立つ秀吉の時代,どんなに交流が深くても 琉球 は日本から全く独立した国であったから,「琉球国」は「筑前国」や「日向国」のような“日本国内の地方区画”としての“令制国”と同列に扱うことはできないでしょう。むしろ,「琉球国」と同格なのは「倭国」ないし「日本国」であると思われます。

琉球が「日本の一部」であることを主張した明治政府がこの地域に設置したのは「琉球“藩”」(明治5/1872年)であり,「沖縄“県”」(1879年)でありました。
結局,琉球諸島には“令制国”は置かれずじまいでした。

何かをリストアップする際には“明確な基準”があった方がよいと思います。
そこで,この“企画”で「国」を列挙するにあたって,“公式の地名”としてその定義をできるだけ狭めてみたわけなのでした。
けれども,そこから離れた場所で「国のように認識される」ことがあったことを否定するものではありません。

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