[9192] utt さん
[9193] YSK さん
いやぁ,つい柄にもなく「ミュージックステーション」を視てしまいました。
お目当ては テツ&トモ。
でもやっぱり,NHKの「爆笑オンエアバトル」ほど面白くなかったの,「何でだろう」。
というわけで,utt さん の「何でだろう」。
肥前、肥後はどうなのでしょうか?
「肥前・肥後」に分割されるのは8世紀に律令国制が整備される過程のことで,それ以前は YSK さん のお答えの通り,「ひ」と呼ばれていたようです。
「古事記」の冒頭にある有名な「国生み神話」に次のような説話があります。
・イザナキ,イザナミの男女2柱の神が“天つ神”の言葉(命令)を受けて結婚し,日本の国土を生んだ。
・その中の1つが「ツクシ(筑紫)の島」である。
・「ツクシの島」には4つの顔がある。
・1つは「ツクシ(筑紫)の国」,名は「シラヒワケ」。
・1つは「トヨ(豊)の国」,名は「トヨヒワケ」。
・1つは「ヒ(肥)の国」,名は「タケヒムカヒトヨクジヒネワケ」。
・いま1つは「クマソ(熊襲)の国」,名は「タケヒワケ」。
というわけで,ここでは「ツクシの島=九州」が「ツクシ」「トヨ」「ヒ」「クマソ」の4つの地域に分かれる,としています。
で,律令国制では,このうち「筑紫(つくし)」が「筑前」「筑後」,「豊(とよ)」が「豊前」「豊後」,「肥(ひ)」が「肥前」「肥後」に分割されたということになります。
「古事記」に記載された名前によれば,「日向(ひむか→ひゅうが)」も「ヒ」から分かれたようにも感じますが,実のところはどうなのでしょう。
南九州の「薩摩」「大隈」,つまり古事記の言う「クマソの国」が“ヤマト”の支配下に完全に入るのは7世紀から8世紀初めにかけてのことです。
もっとも,日本語では「ひ」という一拍の単語は極めて不安定です。「ひのくに」という形になって初めて安定するように思われます。
それは「き(紀)」が地域呼称としては極めて不安定で,「きのくに」という形にするか,あるいは奈良時代の「地名はすべからく“縁起のいい漢字2文字”にすべき」という詔勅に基づき,「紀伊」と2拍に引き伸ばされたのと同じ事情があるのだろうと思います。
ただ,幸いなことに「ひ」の場合は,「肥前」「肥後」に分割され,それぞれ「ひぜん」「ひご」という“安定”な形を獲得したので,「きぃ」のように延ばす必要はなかった。
雲仙岳、阿蘇山のある地域が「火の国」
私もそのように思いたいと思っているのですが,何分「ひ」だけではあまりにも語の形が単純すぎて,本当のところの語意を探り当てることは難しいのではないかと思います。
ところで,「ひ」というのが後の「肥前」「肥後」両国をあわせた全域をさす名称であったかと言うと,そうではなかったように思います。
肥前の北半分は,現在の佐賀・長崎両県にまたっがて全体が「松浦郡」ですね。「まつら(マツロ)」というのは「魏志倭人伝」にも登場する,たいへんに古い地域呼称です。
また,肥後の南部の「クマ(球磨)」というのも一定の地域的まとまりを持つものであったような感じがしますね。
これら「マツラ」や「クマ」というのは,もともと「ひ」とは“別の国”であったのではないか,そんな気もします。
律令国制以前に「国造」制が整備されたとき,「火国造(ひのくにのみやつこ)」というのが現れますが,その支配地域は後の菊池郡を中心とする肥後(熊本県)北西部であったようです。
で,この「松浦郡」を削除すると,肥前は主に有明海側斜面ということになります。
この有明海沿岸地域,今のように陸地が拡大するのは干拓の進んだ近世以降のことですよね。
それ以前の有明海は今よりも大きかったし,当時の土木技術では乱流する筑後川のそばに接近することなどとてもできなかったことでしょう。
とすると,マツラ地域を除いた肥前南部と筑前・筑後との交通は容易ではなかったかもしれません。
むしろ,YSK さん の言われるとおり,天草・島原を媒介とするつながりがあったのかもしれない。
(そういえば,雲仙の火山活動が激しかった頃,昔の火山活動を表す言葉として「島原大変・肥後迷惑」というのが紹介されていましたね。江戸時代に雲仙が噴火したとき,もちろん直下の島原が直接の被害を受けたわけだけど,この噴火で島原の山体が崩壊して有明海に流れ込み,そのせいで発生した津波が対岸の肥後に大きな被害をもたらした,というお話。これは自然災害だけど,こんなことも含めて肥前と肥後の関係は密接ですね。)
とは言え,律令制を導入するに当たり「国」を再編する過程で,「ひ」は2つに分割された。その際,有明海が「分割された“ひ”」の境になったけど,「遠の朝廷(とおのみかど)」たる大宰府を基準に考えて,より近い位置にある現在の佐賀・長崎県域が「肥前」,より遠い現在の熊本県域が「肥後」なったのだろうと考えています。
分割された「肥前」の国府は現在の佐賀市付近,「肥後」の国府は現在の熊本市付近に置かれました。
都(平城京)を起点とする“官道”たる「西海道」は,現在の鳥栖付近で二手に分かれ,1本は肥後国府すなわち現在の熊本方面へ,もう1本は肥前国府すなわち現在の佐賀付近を通り,大村・諫早・島原から現在のフェリー同様に有明海を渡って熊本へ到達していたようです。