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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

ツクシ、トヨ、ヒ、クマソ、・・・、古代九州の地域呼称について

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記事数=13件/更新日:2005年5月22日/編集者:YSK

肥の国、球磨・曽於、筑紫など、九州の古代より続く地域呼称について、そのルーツなどをまとめました。古事記の記述に遡るようなお話に、壮大なものを感じてしまう、アーカイブズ編集長でした・・・。

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★推奨します★(元祖いいね) 般若堂そんぴん BANDALGOM 作々 佐賀県 トライランダー そらみつ

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[9192]2003年2月14日
ペーロケ
[9193]2003年2月14日
YSK
[9230]2003年2月15日
般若堂そんぴん
[9237]2003年2月15日
YSK
[9247]2003年2月15日
Issie
[13689]2003年4月22日
深海魚
[13699]2003年4月22日
ken
[13729]2003年4月22日
ken
[13733]2003年4月22日
Issie
[36721]2005年1月13日
佐賀県
[39868]2005年4月15日
トライランダー
[39884]2005年4月15日
Issie
[39916]2005年4月16日
Issie

[9192] 2003年 2月 14日(金)11:01:16ペーロケ[utt] さん
肥の国
[9170]毛野~上野、下野の話題が出たところで。。。

同じように備前、備中、備後は、もとは「吉備津」
筑前、筑後は「筑紫」でしょうが、
肥前、肥後はどうなのでしょうか?
「筑紫」の紫のほうが転化したとか、
阿蘇山が爆発するため、「火の国」と呼ばれていたことが転化したとか、
じゃあなんで佐賀、長崎が肥前なんだろうか?
しかも有明海を挟んでの飛地ですよね?
下総、上総の並びと同じような事情があるのかもしれませんが、
昔は鳥栖から佐賀、島原を通り、有明海を渡って熊本に行っていたルートが
当時はメインだったのかも?
ところで、「西海道」のルートは、どこを通っていたのでしょうか?
もしくは、肥の国に筑の国(筑後)が侵入したとか?
越前、越中の間に、加賀があるように(え?それはチョット違うでしょ?)

うーん、謎が深まるばかり。
誰か詳しい人いませんか??
[9193] 2003年 2月 14日(金)11:20:28YSK さん
肥前
全くの素人考えで恐縮ですが・・・
肥前の方は、雲仙岳があるからでは?
雲仙岳、阿蘇山のある地域が「火の国」

それと、島原半島と天草諸島とは、昔から交流の歴史があったようですね。
天草の乱で、最後の戦場となったのも、島原半島の原城ですからね。
口之津から鬼池(天草)までフェリーで移動したことがありますが、30分ほどの道のりで、古代から続く海の道に思いをいたしたのでした。

そう、陸上交通が発達した現在ではあまり実感はありませんが、日本では近世あるいは明治期のかなりの時期まで、水上交通が重要な役割を果たしてきたんですよね。この間お話した北前船しかり、瀬戸内の水軍の関連しかり・・・。

とはいえ、やはり肥前と肥後がこのような地勢によって配された真のところは、私も確証あるお話はできませんので、どなたか適切なフォローをお願いできればと思いますね。
[9230] 2003年 2月 15日(土)00:22:25般若堂そんぴん さん
球磨+曽於?
[9212]Issieさん
全くの無責任な想像(妄想)ですが,球磨+曽於≒熊襲(差別用語に近いのかも知れませんが,歴史的用語であることで御容赦ください)のように思えてきました.実際はどうなのか,知りたいところです.
[9237] 2003年 2月 15日(土)02:20:40YSK さん
球磨郡と曽於郡
[9230]般若堂そんぴんさん
手許に、中村明蔵(2001)『隼人の古代史』平凡社新書 があり、その中でこの問題について触れられていますので、概略をご紹介したいと思います。

まず、古代史における通説は、風土記や古事記等の諸記の記述と、球磨郡と曽於郡という地名が古来から南九州に受け継がれてきたことなどから、「熊襲」イコール「球磨贈於」であり、この両地域がいわゆる「熊襲」の根拠地であるとするようです。

ちなみに、「曽於郡」ですが、現在の曽於郡は明治期の郡区編成によるもので、古来の「贈於」の地域とはかなり位置を異にしています。古来の大隅国の「贈於」にあたる地域は鹿児島湾奥部の国分市や霧島町を中心とした一帯なのだそうです。

しかしながら、同書によると、(1)この球磨地域と贈於地域とでは、文化的に同質性を見出しにくい、(2)風土記の記述にはばらつきが認めらるなど、記紀の記述には信頼性が疑問視される部分がある、などの考察から、必ずしも「熊襲」が「球磨・贈於地域」を根拠地にしていたという論証には結びつかないとしています。

同書においては、記紀の記述にある「熊襲」の居住地は「贈」の地域であるとし、地名には2時の好字を当たられやすいことから、「贈於」と変化したのではないか、また中央政権の命により風土記の編纂を求められた北九州の役人たちが、古来南九州に蛮居した(と大和政権が見なしていた)クマソについて同定しようとした際、「ソ」については同定できたとしても、「クマ」についてはうまく説明できず、球磨地域を「クマ」と結びつけて「球磨贈於」という新語を造語したのではという論を展開していますね。

いずれにいたしましても、古来から南九州にいて大和朝廷に容易に与みせず、「クマソ」と呼ばれたひとびとの根拠地を風土記を編纂した人々が漠然とイメージして、「球磨贈於」という語を作り上げたんではないか、ということですね。
[9247] 2003年 2月 15日(土)09:16:59【1】Issie さん
ひ・そ
[9220] utt さん
ツクシ、トヨ、ヒ、クマソ。なるほど、古事記からですか。

たぶん,これは神話が先にあったのではなくて,この神話が形成された当時の地理感覚を下敷きにできあがった話であるように考えています。
[9237] の YSK さんのお話と通ずるところですね。

ひの国も、肥前、肥後に分かれてなかったら、今ごろ「肥伊」になっていた可能性もあったのでしょうね(笑)

出雲(島根県)を流れる「ひ」という川(ひのかわ)は,やはり古事記にスサノオがヤマタノオロチを退治した話(「草薙の剣」の誕生譚でもありますね。出雲の砂鉄製鉄を下敷きにしたもの,と考えられています)に登場する川ですが,こちらは後に「ひい」と引き伸ばされて現在は「斐伊川」と表記されます。
一方,明治半ばの郡制施行による再編で出雲平野西半の3郡(出雲[しゅっとう]・神門[かんど・こうど]・楯縫)が統合されて「簸川(ひかわ)郡」が新設されますが,ここでは古形の「ひ」が復活していますね。

宮崎、鹿児島は共通の文化圏とゆうことを考えたら、日向は、クマソの国に入りそうな気がします。

確認してみたら,「薩摩国」は8世紀の初めに,「大隅国」は713年に,それぞれ「日向国」から分立,とあります。
元は南九州を漠然と「ひむか」と認識していたのかもしれません。
「大隅国」の設置が遅れたのは,何より「ソ(噌唹)」の地域を本拠とする「ハヤト(隼人)」の抵抗があったからですから,サツマ地域が律令国家の支配に服するようになったのは肥後の側からであったのでしょうね。現在も「薩摩郡」が存在するように,「サツマ」とは本来,川内平野のあたりの地名であったようです。
ハヤトの抵抗は頑強で大隅国設置後も続き,「万葉集」に登場する大伴旅人もハヤト制圧軍の将軍として出征しています。この人は九州に縁が深くて,大宰府の長官であったとき,同時期に筑前国の長官であった山上憶良らと「九州歌壇」のようなものを形作ります。もっとも,旅人自身は藤原氏が急速に成長してきた都から左遷されたと認識していたようですが。

…というわけで,薩摩も大隅ももとは日向の一部,ということになるようですが,これが古事記の「クマソの国」というのには,ちょっと気になることがあります。
だって,「ヒムカ」というのはアマテラス(天照大神)の孫のニニギが降り立ち,さらにそのひ孫の神武天皇がヤマトへの東征に出発したところ,というお話になっていますから。
これが「歴史上の事実」で,しかも「2660年あまり前」のことかどうかは脇に置いておいて,少なくとも日向地域が早い段階からヤマトと関係があったことは事実であるようですから,そこを非服属民の「クマソ」で呼ぶのは,どうだろうか,と思います。
皇室ととりわけ関係の深い(ということにしてある)地域ですから。

もっとも,この手の書物がたいていそうであるように,「古事記」も一貫したストーリー構成にしたがって著述されたものではなくて,いろいろな説話の寄せ集めですから,あちらこちらに齟齬をきたしているのは確かなのですけどね。

ところで,宮崎・鹿児島両県の文化的な同質性ですけれども,これは必ずしも古代(あるいは“超古代”)までさかのぼるわけではなくて,中世以降にこの地域が島津氏によって一体的に支配されたことの方が大きいのでないかと思います。
[13689] 2003年 4月 22日(火)01:55:39深海魚[雑魚] さん
筑紫 = ちくし? つくし?
[13679] 紅葉橋瑤知朗さん
今の函館駅より20キロほど離れた、渡島大野駅(大野町)に作られるとか。
進行方向転換を良しとしない限り、上磯、大野、七飯の何れかという印象ですね。ちなみに、渡島大野ですと、
下り優等列車の分離区間である為、現行の札幌方面行の特急は経由しませんね。

[13681] yamadaさん
私が小学校の頃福岡高校は福岡県の高校だと思っていました。
福岡県立福岡高は実在しますよ。岩手県立福岡高と同様に旧制中学を前身とする老舗で、岩手側に遅れる事
16年の 1917年創立です。富山県福岡町にも県立福岡高が存在します。探せばまだあるかな。

ちなみに福岡県立福岡高は、同じ福岡市内の修猷館、筑紫丘と併せて、進学面での 「県立御三家」 (または
独自のカリキュラムに関して以前書込みした城南を加えて 「四天王」 かな。) とでも呼ぶべき陣容にあります。
その一角である筑紫丘高、タモリの母校にして漫画 「東大快進撃」 に登場する 「知識ヶ丘学園」 のモデルと
思しき由、以前言及しましたが、通常 「筑紫」 と聞くと、「多事争論」 ……… もとい筑紫平野、つまり筑後川の
下流域一帯を連想し、福岡市も本来 「筑紫」 の地域呼称を以って括り得る地域なのかな、などと少々腕組み。
(福岡市南区で 「筑紫丘」 を名乗るのは、高校の他、小中学校もあります。「筑紫女学園」 は中央区に所在。)

ちなみに、筑紫野市は博多湾側と有明海側の両水系の分水界付近に中心街があり、非常に含蓄がある立地と
唸る雑魚でありました。
[13699] 2003年 4月 22日(火)11:23:43【1】ken さん
re:筑紫
[13689]雑魚さん
筑紫 = ちくし? つくし?
[13691] スナフキん さん
西鉄の駅に「筑紫」を「ちくし」と読む駅があります
<中略>
かつて国鉄の急行列車で「つくし」というのも

突然、戦国武将の話で恐縮ですが、筑紫広門という九州の武将がおりますが、私の職場の同僚だった方で、この末裔の筑紫さんがいらっしゃいましたが、「つくしさん」と呼ばれると、「ち、く、し、でございます」、といちいち、訂正してましたね。
「哲也さん」とも親疎の程は、伺いませんでしたが、ご親戚だそうで。

通常 「筑紫」 と聞くと、「多事争論」 ……… もとい筑紫平野、つまり筑後川の下流域一帯を連想し、福岡市も本来 「筑紫」 の地域呼称を以って括り得る地域なのかな、などと少々腕組み。

筑紫国→分割、筑前・筑後ということで、筑前・筑後領域内は、「筑紫」でいいんじゃないですかね。

「隋書」には
都斯麻(つしま=対馬)を経て一支(いき=壱岐)、継いで竹斯(ちくし=筑紫)国に至る。
ともあり、「ちく」のようにも思いますが、
「筑紫 つくし」の方が多量のサイトがヒットしますね。古事記など。

結局、私も、筑紫 = ちくし? つくし?
[13729] 2003年 4月 22日(火)18:29:31ken さん
re:筑紫 = ちくし? つくし?
[13689]雑魚さん
筑紫 = ちくし? つくし?
[13699]で隋書に
都斯麻(つしま=対馬)を経て一支(いき=壱岐)、継いで竹斯(ちくし=筑紫)国に至る。
とある、と書きましたが、
万葉集第20巻に
阿志加良能 美佐可多麻波理 可閇理美須 阿例波久江由久 阿良志乎母 多志夜波婆可流 不破乃世伎 久江弖和波由久 牟麻能都米 都久志能佐伎尓 知麻利為弖 阿例波伊波々牟 母呂々々波 佐祁久等麻乎須 可閇利久麻弖尓
という防人の長歌あって、万葉仮名ですか?これ

読みは
足柄の、み坂給はり、返り見ず、我れは越(く)え行く、荒し夫(を)も、立(た)しやはばかる、不破(ふわ)の関、越(く)えて我(わ)は行く、馬(むま)の爪、筑紫(つくし)の崎に、留(ち)まり居て、我れは斎(いは)はむ、諸々(もろもろ)は、幸くと申す、帰り来までに

意味は
足柄(あしがら)の坂を通り、振り向かず、私は越えていく。荒々しい男でさえたじろぐ不破(ふわ)の関を越えて、私は行く。筑紫(つくし)の崎に留まって、私は慎み守ろう。(故郷の)みんなが幸せであるように祈ります、私が帰って来るまで。
とのことで、

ここでは、筑紫に「都久志」の字を使ってますね。
これは明らかに「つくし」ですね。
[13733] 2003年 4月 22日(火)18:59:43【1】Issie さん
Re^4:筑紫 = ちくし? つくし?
[13689]雑魚さん
[13729]ken さん

「万葉集」では「都久志」と書いているのがあるそうですよ,と言おうとしたら,ken さん が紹介してくださいましたね。
「筑紫」にかぎらず,古い時代には「筑」は「つく」と読むことが多かったようです。
筑紫が分割された「筑前」「筑後」では既に「ちくぜん」「ちくご」となっていますけれど。

信濃(長野県)の「筑摩郡」には「束間」という別表記があることから,古い地名としては「つかま」と読む習慣です(現在でも松本市の“筑摩地区”は「つかま」と読みます)。
けれども近代以降の郡名としては「ちくま」と読むことになっています。
同様に,1896年に福岡県で郡制を施行するために従来の御笠・席田(むしろだ)・那珂3郡が統合して新設された「筑紫郡」は「ちくし」と読むことになっています。

ところで,ちょうどその頃(日清戦争前後)に流行した「元寇」という唱歌(永井健子 詞・曲)には「こころ筑紫の海を波押し分けて行く」というフレーズがあります。一種の掛け言葉ですが,これは「つくし」と読まなければ意味はありませんね。
“古い地名”としては「つくし」,近代の地名としては「ちくし」という,使い分けがされているのかもしれません。
いずれにせよ,ある時期から「つくし」「ちくし」の両方の読み方が行われていたことは確かなのでしょう。

「小豆島」も元々の呼び名は「あづきしま」でした。
中世以降,「しょうづ」ないし「しょうど」と“音”(らしきもの)で読むことが多くなってきたようです。そのうちに「しょうど島」という読み方で定着したのでしょうね。
小豆島は1878年の郡区町村編制法によって単独の「小豆郡」となりました。このときに郡名については「しょうず(しやうづ)」と読むことになったようです。
「ど」という慣用音ではなくて,「づ(ず)」一応「きちんとした」一般的な音読み(「正式」とされる“漢音”ではなくて“呉音”ですが)で読もうとしたのでしょうかね。
「筑」を「つく」でなく「ちく」で読んだのも同じ文脈に属するのかもしれませんね。

そうそう,出身地・居住地…
バレバレだと思うのですが,自己申告でしょうね。

出身地:千葉県習志野市 (出生地と区別するとして)
居住地:神奈川県相模原市
[36721] 2005年 1月 13日(木)13:52:35佐賀県 さん
昭文社「日本地図帳」より(2)
 今度は熊本県の地名と風土からです。

アーカイブズ「ツクシ、トヨ、ヒ、クマソ、・・・、古代九州の地域呼称について」に関連する話なのですが、
 阿蘇は火の山、天草は水の国。火と水の国熊本は古代隈の地、菊池市の中心隈府や球磨郡・球磨川などにその名を残し、長く肥後国を構成していた。古代国名はまた蘇あるいは襲(そ)として知られ、筑紫・豊・日向と並立していた。肥は火だろうというが、なかなかの大国で、大化の改新後の体制では肥前・肥後の2国に分かれた。肥前は今の佐賀・長崎両県だが、どうしたことか、肥後との間に筑後国をはさんでいる。太古、筑後川の下流一帯は海辺の沼沢地だったろうが、筑後川の堆積が進行するにつれて陸化し、この川の流域を領域とする筑後国が伸びた。肥の国はここを避けて、むしろ海上を媒体として天草・島原・彼杵・松浦の諸地方と連絡したのだろう、まさに水の国だ。
 ところが、この肥の領域たるや阿蘇をはじめ金峰山・雲仙岳・多良岳・経ヶ岳・五島の諸火山があって、この点では火の国ぴったり ~
と書かれています。(引用が長くなり、また見づらくて済みません。)

 この内容は、アーカイブズに納められている、皆さんの書き込みを一部裏付けたり補ったりできるものではないでしょうか。

 私独自の考えを書き込むほど知識がないのが残念ですが、参考までにお知らせしておきます。
[39868] 2005年 4月 15日(金)16:35:24トライランダー さん
RE:筑紫平野、両筑平野
[39857] 佐賀県 さん

筑紫平野の件ですが、筑後地方は確かに筑後平野という呼び名が一般的ですね。
しかし、両筑平野や南筑平野という呼び方は現地ではあまり一般的ではありません。
そもそも、この地域ではあまり平野があるという意識が無いのではないでしょうか?
佐賀平野に関しては、、[39855]中島悟さんの示された
 →佐賀県側:佐賀平野
    →東半:狭義の佐賀平野
    →西半:白石平野など
が概ね一般的であると考えます。

ちなみに、地理教科書では「つくし」平野と言いますが、現地では「つくし」と呼ぶ人は殆どいません。「ちくし」が一般的です。西鉄電車の駅名や旧村名も「ちくし」です。筑紫高校、筑紫丘高校、筑紫台高校、筑紫路、筑紫野市・・・全て「ちくし」と呼びます。「つくし」と呼ぶのは零細観光バス会社ぐらいですね。

また、両筑とは、狭義に旧浮羽郡、旧朝倉郡を指します。現在の久留米市田主丸町、うきは市、甘木市、筑前町、朝倉町、杷木町、東峰村が該当します。
南筑は筑後地区南部という捉え方が一般的でしょうが、南筑高校が久留米市、南筑交通(バス会社)が大川市(現在は西鉄バス久留米に吸収)ぐらいしか思い浮かびません。

ちなみに北筑高校、東筑高校は北九州にあります。
[39884] 2005年 4月 15日(金)22:31:45【2】Issie さん
ちくし
[39868]トライランダーさん
ちなみに、地理教科書では「つくし」平野と言いますが、現地では「つくし」と呼ぶ人は殆どいません。「ちくし」が一般的です。

朝日新聞の…,と言ったら古いですね,
TBSのニュースキャスターの 筑紫哲也さん は「ちくし」さんですね。この人は,豊後日田の出身だそうですが。

福岡県の「筑紫郡」は近代以降は「ちくし郡」と読む習慣ですから,現地では「ちくし」と読むほうが普通であると思われます。

一方で「つくし」というのは,古代にこの地方に対して行われていた呼称に基づく“歴史的”な読み方であるように思います。
で,恐らく「全国区」なのは,こちらの方。
日清戦争の頃に作られて流行した「元寇」(永井建子 作詞・作曲)という唱歌には

 こころ筑紫の海に 浪押し分けて往く
 ますら猛夫(たけを)の身 仇(あだ)を討ち還らずば
 死して護国の鬼と 誓ひし箱崎の
 神ぞ知ろし召す 大和魂(やまとだま)いさぎよし

という一節があります。ここに現れる「筑紫」は,蒙古軍が押し寄せた「筑紫」の浜辺と「心を尽くす」とをかけた表現です。この場合,「つくし」と読まねば,この掛詞は成立しません。
日本史で登場する古代地名の「筑紫」が「つくし」であることと合わせて,現地以外の人々には「つくし」と読む方が一般的なのでしょう。

「筑」という字は,古代には地名表記の場では「つく/つか」という音に当てはめる方が一般的であったようです。
信濃の「筑摩郡」は古代には「つかま郡」という読み方でした。「束間」などという表記も行われていました。
後に「筑紫」と同様,「ちくま」と読む方が一般的になりますが,松本には“復古的”な立場から南郊外に「筑摩(つかま)」と読む地区が存在します。
ついでに言えば,本来は「つかま」と読んでいた「筑摩(ちくま)郡」と,恐らくは語源をふまえた漢字表記と思われる「千曲(ちくま)川」とは偶然の一致であって,直接の関係はないものと思われます。
[39916] 2005年 4月 16日(土)20:54:51Issie さん
筑子節
[39915] ひげねこ さん
筑前・筑後は「ちくぜん」「ちくご」なのに、どうして筑紫だけ「つくし」なんだろう。

はじめに「つくし(筑紫)」という地名があって,それを後から「筑前・筑後」に分けたからです。

「筑」という漢字は中国の古代楽器を表わす文字であったようです。
講談社が刊行中の「中国の歴史」シリーズの第3巻『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』(鶴間和幸著,2004年)に詳しい説明があるのですが,5本の弦を張った楽器で竹のバチで弦をたたいて演奏したものとか。ピアノと同じ原理の楽器です。
で,この文字を輸入したとき,母音も子音も貧弱な日本語では「チク」という音で受け入れました。
異体字に「竺」という字もあります。

この文字にあてはまる日本語の概念はなかったらしく,固定化した“訓”はないようです。
ただ,「筑子」と書いて「こきりこ」と読ませることはあるようですね。「こきりこ」も“楽器”の名前です。「筑(ちく)」とは,だいぶ違うものですが。

一番初めにあったのは「つくし」という地名です。
現代日本語の発音とは若干違っていたはずですが,おそらくは列島固有の言語による地名でしょう(列島共通の「日本語」の形成過程のことでしょうから,あえて言えば「つくし語」でしょうかね)。
漢字が輸入されてから,これに「筑紫」という字が当てはめられました。[39884] で触れたとおり,地名に関しては「つく/つか」という音にはめる習慣でした。

奈良時代に入って律令国郡制が整備されていく過程で「筑紫」は南北に分割されて「筑前/筑後」となりました。
そして,この分割された新国名は中国語(漢語)の理屈に従って創作された“和製中国語地名”です。
「つくし」の場合には,「つくし」という地名が先にあってこれに「筑紫」という漢字があてはめられたものですが,「筑前/筑後」の場合は漢字表記が先にあって,さて,これをどう読むか,というものでした。
そこで恐らく,より“標準的な音”に近い「ちくぜん/ちくご」という読み方が定着したのではないか,と思います。

これは,列島固有語で「こし(越)」と呼ばれた地域を分割した3国が,それを表記する漢字の“標準音”に近い読み方で「越前(ゑちぜん)」「越中(ゑッちゆう)」「越後(ゑちご)」と呼ばれたことを考えると見えやすいと思います。
もっとも,「とよ(豊)」を分割した「豊(ぶ)前」「豊(ぶン)後」は,“標準音”の「ホウ」からはまだ遠いものですが。

「筑紫郡」は,明治になって郡制施行(福岡県では1896年)のために 御笠・席田(むしろだ)・那珂 の3郡が統合された新設された郡ですね。
このとき新設された郡名は,奈良時代以降の朝廷で「最も正式」とされた“漢音”(でも,例外は枚挙に暇がなく…。最大の例外は「京(きょう)」)で,「ちくし」と読むのを“正式”としたものと思われます。

たとえば,こんな整理が可能かもしれません。
・近現代の福岡県の地名としての「筑紫」は「ちくし」と読むのが普通であるし,“公式”の読み方として多く採用されている。
・古代,この地域を指していた“歴史的”な地名としての「筑紫」は「つくし」と読む習慣である。

少なくとも,どちらか一方が「全くの間違い」で全否定されるべき存在である,というわけでは決してないものと思います。

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