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神戸誕生 〜神戸駅と市役所の位置等からみた都市・神戸の成立〜

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記事数=9件/登録日:2003年9月28日/編集者:YSK

神戸市における中心駅として位置づけられるJR神戸駅。しかしながら、鉄道路線の収斂の状況や、周辺の繁華街の大きさなどからは、JR三ノ宮駅がその位置にふさわしいのではないかとも思えます。このことからは、都市・神戸の成立の背景が垣間見えるようです。神戸駅と市役所の位置などから、都市・神戸の成立と、その後の変遷について迫ります。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1761]2002年6月6日
深海魚
[1772]2002年6月6日
f
[1774]2002年6月6日
Issie
[1775]2002年6月6日
Issie
[1776]2002年6月6日
f
[1777]2002年6月7日
Issie
[1780]2002年6月7日
深海魚
[4452]2002年11月3日
ニジェガロージェッツ
[4498]2002年11月4日
ニジェガロージェッツ

[1761] 2002年 6月 6日(木)09:44:17深海魚[雑魚] さん
神戸駅の謎
神戸を通過する度に思う事なのですが、神戸駅とは元々どんな駅だったのでしょうか?
路線区分上、東海道線と山陽線の境界駅でずばり市名を冠し、JTB時刻表に拠れば
県都神戸市の代表駅(これはJTBが固有に決めた事?)となって居ます。然し一方、
繁華街は三ノ宮界隈で特急停車もこちら。役所の最寄り駅は、市役所と中央区役所が
三ノ宮で県庁が元町。東海道線が神戸まで開通した時点で、三ノ宮駅も在ったろうし、
そう考えると、神戸駅の位置付けが良く判らないですね。

上記の市代表駅に限って云えば、岐阜県の各務原市も然り。千葉県の富津市の場合は、
富津地区の市街を考慮してか、上総湊から大貫に移った様子ですね。
[1772] 2002年 6月 6日(木)19:09:22f さん
Re: 神戸駅の謎
神戸駅が開業した当時の市街地は、神戸駅周辺にありました。
もともとこのあたりの中心は、古代以来の港町であった兵庫津でしたが、慶応3年の
兵庫開港以降は、兵庫津と居留地に挟まれる地域が神戸の都心として栄えることに
なります。神戸駅はまさにその位置にあったのです。
神戸市役所も神戸駅徒歩数分の位置にありましたし、新開地、栄町大通、元町通
には、その当時からたくさんの小売り店舗が並んでいます。
一方、三ノ宮駅は開業当時は現在の元町駅の位置にありましたが、昭和6年に
現在地に移動し、三宮地区はこのころからターミナルとして発展していきます。
阪急が三ノ宮まで延伸するのは昭和11年のことです。昭和32年の市役所移転、
昭和40年のさんちかタウンのオープンなど、この当たりの時点で三宮地区が
都心としての地位を固めたと考えられます。
[1774] 2002年 6月 6日(木)20:03:02Issie さん
Re:神戸駅の謎
最近,私の発言は暴走気味ですね。すみません。気をつけよう。

で,本題。

>東海道線が神戸まで開通した時点で、三ノ宮駅も在ったろうし、
>そう考えると、神戸駅の位置付けが良く判らないですね。

簡単に言えば,鉄道開通当時の三ノ宮は市街地のはずれだったのです。
三ノ宮にも元町にも駅はなかった。

大きな目で見ていくと,神戸/兵庫という街は開港前の幕末以来,市の中心が徐々に東に移動しつづけています。
楠木正成のお話にも登場するように,中世以来幕末までこのあたりで名の通った都市は「兵庫」でした。通商条約で開港する約束になっていたのも兵庫でしたね。
ところで,湊川をはさんで兵庫の北に隣接しているのが「神戸」です。
幕府最末期に幕府と反幕府派の政争の道具になるなど紆余曲折の末,実際に開港場として整備されることになったのは「神戸」の方でした。
そのようなわけで,鉄道の開通した明治初めの段階では,湊川を境に北の「神戸」と南の「兵庫」が“双子都市”のように市街地を形成していました。
「神戸駅」は,その湊川の河口近くに設置されました。恐らくは「神戸」だけでなく,「兵庫」もターゲットにしたロケーションだったのでしょうね。
(なお,湊川はその後の大改修で大幅にルートが変更されています。現在,湊川公園や新開地の繁華街となっている場所がかつての湊川の跡です。)

行政上は1878年の郡区町村編制で神戸と兵庫セットで「神戸区」となりました。これがそのまま,1889年の「市制」施行で「神戸市」となります。
県庁も市役所も神戸側。元町の裏山に置かれました。
これは当然,港の整備によってその背後の元町地区周辺が商業地区として発展したからですね。相対的に兵庫の地位は徐々に低下します。
なお,この段階の「神戸区→神戸市」の東境は旧生田川跡(こちらは当時すでに),現在の新神戸駅から三ノ宮駅前を経て海岸に至る大通りです。

こうして商業港としての神戸港の発展に比例して元町地区,ついで三ノ宮地区が“業務中心地区”として発展してゆきました。新幹線の岡山延長で布引の滝直下に新神戸駅が設置されると,こちらまで拡大することになるのですね。

一方,兵庫の方には海岸部が埋め立てられたりして工場が進出し,地味な工業地区となってしまいました。今の兵庫駅あたりのたたずまいからは,昔の港町・兵庫の面影はよほど捜さなければ見つけることができません。
「兵庫県」という県名だけが,かつての名残をとどめている,というところでしょうか。この県名は県庁の系譜をたどっていくと,幕府の「兵庫奉行所」に行き着くからです。
なぜ「兵庫」かと言えば,江戸時代にメジャーだったのはこちらだし,幕府が開くと約束したのは「兵庫」だったからですね。なお,兵庫奉行は幕末に新設された奉行職です。
[1775] 2002年 6月 6日(木)21:20:16Issie さん
神戸市役所の位置
[1774]の発言は,1886(明治16)年頃の地図を見ながら書いたのですが,よく見ると「三ノ宮停車場」の注記がありました。そう,だいたい現在の元町駅のあたりです。

で,この駅の裏手に県庁と「郡区役所」の記号があるのですね。
県庁は今の位置と同じですから問題がないのですが,「郡区役所」の方。
実はもう1つ,神戸駅の北西方にも同じ記号があるのです。だいたい現在の神戸大学医学部の位置かな。
どちらかが「神戸区役所」(市制施行前なので)で,どちらかが「武庫・菟原(うはら)・八部(やたべ)郡役所」だと思われるのですが,現神大医学部の方は微妙に「神戸区」の区域から外れるのでこちらが「郡役所」で,県庁の隣りの方がやはり「区役所」でしょうかね。
1935年頃の地図では f さんの発言のとおり,神戸駅の近くに市役所があります。

で,1935年頃には神戸駅周辺は「湊東(そうとう)区」になっています。元町・三ノ宮のあたりが「神戸区」。
それで1886年の地図をもう一度よく見ると,神戸駅のある湊川北側地区も「兵庫」の一部に見えてきます。確かに1935年の地図で湊東区と神戸区の境になっているあたりに1886年の地図でも境界線の記号があります。
行政上は1886年当時,両者一体で「神戸区」ですからその意味での境界線でないと思うのですが,こちらが「神戸」と「兵庫」の境界だったのかもしれない。
とすると,神戸駅は兵庫地区に設置された,ということになるのかな。

「中央区」は1980年に葺合(ふきあい)区と生田区を統合して設置したものです。すでに三ノ宮地区が都心になって久しいですから,新区役所は当然に三ノ宮駅至近の位置に新設されたのですね。

>千葉県の富津市の場合は、富津地区の市街を考慮してか、上総湊から大貫に移った様子ですね。

合併以来長い間,旧富津町役場ではなく,上総湊にある旧天羽町役場を市役所としていたものが,だいたい“真ん中へん”の大貫地区に市役所が移転したからですね(けっこう前のような気がするが)。
[1776] 2002年 6月 6日(木)23:17:54f さん
Re: 神戸市役所の位置
詳しい地図が手元にないので、ちょっともどかしいのですが...
神戸市が誕生した時点での市役所は、今の中央区相生町にありました。
当時の地名でいえば東川崎町です。ここにはそれまで神戸区役所
があったはずですが、Issie さんの参照している地図にはありますで
しょうか?
と、書いてからよく見ると、神戸区役所が東川崎町に来たのは1887年の
ことだと資料にありました。それ以前は北長狭4丁目つまり県庁の横ですね。

その後、前投稿で申しましたとおり1909年になって神戸駅近くに
移転してきます。正確には生田区橘通1丁目、今の神戸地方裁判所
の隣です。今の加納町の位置に落ち着くまでには、まだ間がありまして
湊川駅近くの今の兵庫区役所の隣にあった時期もあります。(1950年ころ)

> とすると,神戸駅は兵庫地区に設置された,ということになるのかな。
当時の感覚では湊川を境に兵庫と神戸を分けるのが当然だったのでしょう
から神戸駅は、やはり名前の通り神戸地区にあるとみるのが正しい
理解であると信じます。(ここで言う湊川はその当時の流路と考えてください)

ついでに県庁の位置について。
兵庫県が最初に設置された時点では切戸町(兵庫地区)にあったはずです。
その後、坂本村移転を経て、今の神戸地方裁判所の位置に移転し、現在地に移転した
のはどうやら明治6年のことのようです。
[1777] 2002年 6月 7日(金)00:46:21Issie さん
Re^2: 神戸市役所の位置
「1886年頃の地図」は2万分の1,「1935年頃の地図」は5万分の1の地形図(の復刻版)なので細かい地名はよくわかりません。
1886年は特に市制・町村制が施行される前のものですから,区画については少し分かりづらいものがあります。
神戸駅周辺の「湊東区」は1945年に神戸区と統合されて「生田区」と改称され,さらに1980年に葺合区と統合されて「中央区」になる。かつての「神戸」の後身と言うべき中央区と兵庫区の境界は現在ではおおよそかつての湊川ですね。

>現在地に移転したのはどうやら明治6年のことのようです。

兵庫県に限らず,この1873年頃まではどの府県もかなり流動的だったようですね。
以前にも触れたのですが,下総西部に設置された「印旛県」の県庁は当初予定していた“県名どおり”の印旛郡佐倉に設置されることのないまま1873年に「千葉県」に統合されてしまった。こういう例は少ないないようです。
兵庫県の場合は廃藩置県4ヵ月後の明治4(1871)年11月の府県再編で摂津北西部の県域がほぼ確定して以来(この府県再編以前と以後では同じ府県名であっても本質的に違うものと考えた方がいいですね),1876年8月に隣接3県(飾磨・豊岡・名東)の全部または一部を合併して現在の兵庫県となるまでは大きな変化はないわけですが,県庁の移転は続いていたのですね。
そして「兵庫」から「神戸」へ県庁が移された。

※お気づきかもしれませんが,幕末から明治初期にかけての日付表記に関して私は,「旧暦」が使用されていた明治5(1872)年末までは「元号優先・(換算)西暦併記」,太陽暦が採用された1873年以降は「原則西暦のみ」という方針にしています。もちろん,私個人の「ローカル・ルール」ですがね。
本当は換算の便利さから西暦に統一したいのだけど(だって,元号じゃ不便だもん),特に年末では元号と西暦でズレが生じてしまうのですね。王政復古のあった「慶応3年」は西暦換算で1867年だけどクーデタのあった旧暦12月9日は太陽暦ではすでに翌年の1868年となっていた,なんてね。
そんなわけで,元号表記に慣れた方には申し訳ないのですが,そういう表記法をとっていますので,よろしくご理解をお願いいたします。
あ,もちろん,他の方が元号表記をなさるのに私が文句を言うものではありませんよ。
[1780] 2002年 6月 7日(金)09:33:45深海魚[雑魚] さん
神戸
>兵庫津と居留地に挟まれる地域が神戸の都心として栄えることになります。
成る程、元々はこちらの方が要衝だった訳ですね。湊川神社の存在は特に
関係無いのかな? 三ノ宮が商業集積地として発展するのは、大分後の事に
なる訳ですね。新幹線駅の存在も与した訳か。

>当時の感覚では湊川を境に兵庫と神戸を分けるのが
兵庫は港町として、神戸とはどの様に機能分化されて居たのでしょうか?
城下町・・・・・・ではないだろうな。

神戸と云えば、もう一点面白いと思うのは神戸電鉄沿線です。実際に乗って
驚いたのですが、鈴蘭台以南の山間部は並行道路も無く、本当に難所と云う
印象でした。福知山線にしても宝塚から三田にかけて武庫川の谷が険しいし、
六甲山地に拠り鰻の寝床宜しく東西に伸びる阪神地区の特質が見て取れます。

水系で見ると、鈴蘭台を基準として新開地方面が新湊川、粟生方面が明石川、
三田方面は谷上地区で意外や加古川、その先が武庫川と云う感じでしょうか。
丁度鈴蘭台の辺りが分水界なのかな。良くぞここまで宅地開発が進捗したと
思いますが、これも神戸電鉄が新開地で神戸高速鉄道と接続した 1968年の
後に本格化したのでしょうね。

余談。先に私の出身高校の迷物行事について言及しましたが、同様の行事は
男子校系の古参高校で時々見られる様ですね。軍事行軍の名残と云う側面も
在るのかな。昨年「ブロードキャスター」で似た様な行事が紹介されました。
件のチャーザァ村の秀才も多数通ったと思われる新潟県立長岡高校で、未明
ダミーの米俵を担いで巻から長岡までマラソンでリレーすると云う行事です。
丁度、小泉内閣が誕生して間も無い頃、首相発言で「米百俵」が人気となり
国漢学校の後身である同校が、三根山藩からの米供出に肖った内容ですね。
こう云う「長距離遠足」の事例を御存知の方が居たら、御教示を賜りたく。
[4452] 2002年 11月 3日(日)00:14:45ニジェガロージェッツ さん
神戸雑感
[4387]神戸在住のhiroさんから、果たして神戸は「都会」と呼べるか、との問いかけがあり、すぐに茨城県在住の雑魚さんから[4390]で「神戸は都会である」と明確に断言されていました。雑魚さんのように他府県にお住まいで、しかも地理に大変造詣の深い方から「都会」と認めて頂き、神戸っ子の一人として嬉しい限りです。
少し遅れレスになりましたが、1962年以来36年間(とはいっても1962-63年の記憶は当然ない)神戸市長田区に住む私からも神戸について述べさせて頂きたく存じます。
神戸(旧市街地)は南に海に面し、北には急峻な六甲山系が迫り、甚だ東西に広く南北に狭い市街地であるということは広く知られているところです。この奥行きのない云わば直線的な狭い市街地に東からはJR線を中心に北に阪急線、南に阪神線が平行して走り、西からはJR線と山陽電鉄線が平行して走り、他に神戸高速鉄道線、神戸電鉄線、市営地下鉄線が等が走っています。
このため、旧市街地においては大部分の地域が鉄道駅まで徒歩で行ける足回りの良さであるがために、駅から他の交通機関への乗り継ぎの必要性が少なく、それぞれの駅勢圏は狭くなっており、駅前に人が集中しにくい傾向にあります。このことは各鉄道駅の乗降者数が大都市の割りに極めて少ないことにも現れています。この各駅勢圏人口の少ないことが駅前の商業核を相対的に貧弱にさせ、訪れる人や住民が「神戸は都会だろうか?」と疑問に感じることと存じます。

またhiroさんは「神戸三宮ははっきり言って大都市というには程遠いくらい普通の街です。」と仰っていますが、この「普通」の意味するところが解せません。「普通」と言う言葉は聞き手によって如何様にでも解釈しうる言葉で非常に曖昧な言葉なのですが、ここでは恐らく、「普通」にある人口30万人程度の県庁所在地の都心並みの街を意味するのか、また大都市圏内に「普通」にある副都心或いは地域商業核クラスの街を意味するかのどちらかだと推察します。
ここで、人口151万人の神戸市と似た規模の大都市では、185万の札幌市、147万の京都市、137万の福岡市が挙げられますが、札幌、福岡の都心部はそれぞれ北海道地方、九州地方をバックボーンにもった一大中心地を形成しており、近くに大阪を控えた神戸の三宮とは別格ですが、京都の四条河原町と比べて見れば、それほど見劣りがするとは感じません。また、私の知っている人口136万のニジニノヴゴロド市都心の大ポクロフスカヤ街や人口110万のカザン市都心のバウマン街とくらべても何の遜色もありません。
また、現在の神戸の都心といえば三宮地区ですが、これも戦後に始まったことで、戦前の三宮は単に「交通の要衝」ぐらいの位置付けだったそうです。戦前の神戸市の中心だったのは湊川新開地で、数多くの映画館、劇場を擁した大繁華街で、市役所のあった神戸駅北側は行政の中心地でした。それが戦後、新開地地区の一部が米軍キャンプに永く占拠されたことや、赤線の廃止で隣接する福原(ふくわら。「ふくはら」ではない)から遊郭が消えたこと、映画産業の斜陽化もあり神戸の中心は元町、三宮へと東進し、1950年代後半になり「三宮トリオ」と言われた神戸市役所、神戸新聞会館、神戸国際会館(共に1995年1月17日の大震災で全壊)が建設されるにおよび、三宮の都心化が決定付けられました。

さて、一般に都市の優劣は人口でランキングされがちですが、この人口とは当然「夜間人口」のことです。しかし、人口で都会度を測るには「昼間人口」のほうがより実態にちかいと考えられます。
2000年10月1日の国勢調査によれば東京23区および政令指定都市各市の昼間人口は次の通りです。

都市名昼間人口夜間人口昼夜間比率
東京23区11,125,1358,092,268137.5
大阪市3,664,4142,595,394141.2
横浜市3,091,1663,414,86090.5
名古屋市2,514,5492,148,949117.0
札幌市1,820,7571,797,479101.3
京都市1,584,6261,454,368109.0
神戸市1,536,7161,492,143103.0
福岡市1,531,1741,336,662114.6
広島市1,163,4051,124,765103.4
川崎市1,097,0901,249,02987.8
仙台市1,090,1621,007,628108.2
北九州市1,044,9961,010,127103.4
千葉市858,702883,00897.2
(昼夜間人口ともに年齢不詳人口を含まない。夜間人口が国勢調査人口より少なめに出ているのはこのためです。)

これで見ると、首都圏は東京の一人勝ちですが、その他の政令市はそれなりに頑張っていると言えそうです。神戸市は大阪に近接し同一都市圏内にありながらも市全体としては決して大阪の郊外都市ではなく、独立した都市と言えるのではないでしょうか。もちろん「神戸に住み、京都に学び、大阪に働く」といった京阪神三都物語を地で行くライフスタイルもあり、また神戸市東部の東灘区などは大阪のベットタウン化しつつあるとの指摘もありますが、その東灘区でさえ昼夜間比率は100を少し下回っているに過ぎません。また、似たような規模にあり共に都心区の横浜市中区と神戸市中央区を比べると
横浜市中区(昼)250,575(夜)123,851昼夜間比率202.3
神戸市中央区(昼)280,227(夜)107,886昼夜間比率259.7
となり、神戸の都心も都会として恥ずかしいものではないと思います。

以上、郷土愛も手伝い、長々と書きました。郷土愛に毒された書き込みであることを割り引いてお読みください。
[4498] 2002年 11月 4日(月)03:11:29ニジェガロージェッツ さん
神戸雑感 2
[4455]雑魚さん
神戸市の「中央駅」がJRでいえば神戸駅になるのか三ノ宮駅になるのかですが、現在ではご指摘の「何はさておいて先ず三宮へ」の通り、三ノ宮駅でしょう。一般に都府県名と都府県庁所在地と中央駅名の三者は一致するのが多いのですが、兵庫県神戸市三ノ宮駅のように三者バラバラになっているのは極めて珍しいそうです。(他に例があれば教えてください)
では神戸駅の位置付けですが、Issieさんが[1775]でご推察の通り、神戸と兵庫を別の都市と見た場合、明治初期の行政区画でいえば旧兵庫の外れに当り神戸ではありません。兵庫の中心は現在の地下鉄中央市場前駅付近にあったのですが、旧兵庫の範囲は旧湊川の両側に広がり、湊川の東を「湊東」、西を「湊西」と称していました。ただし、神戸駅が設置された湊東地区については当時はまだ湊川河口付近を除いて市街化しておりませんでした。神戸と兵庫が統合された後は丁度両者の中間にあたる神戸駅北側を市の行政の中心地区とし、旧湊川を埋め立てて出来た新開地が一大繁華街になったのは[4452]に述べた通りです。当時の神戸っ子たちは神戸駅を「大ステーション」、三ノ宮駅(現在の元町駅に位置)を「小ステーション」と呼んでいたそうです。ですから、かつて(戦前まで)は神戸駅が文字通りの「中央駅」だったのでしょう。(その後、神戸市が区を設けた際に出来た湊東区は旧兵庫のうちの湊東地区に旧坂本村と旧荒田村を加えた範囲です)

神戸牛・・・
神戸に住んでいながら永らく口にしていません。スーパーでも肉屋でも一番安い肉を買っております。みじめ・・・

[4462]でるでるさん
一般に神戸の夜景は山から(中央区諏訪山にあるビーナスブリッジからが市街地から近くおすすめ)のイメージが多いのですが、海からの眺めも絶景です。レストラン船での夜間クルーズもいいですよ。

[4483]YSKさん
私の拙文を好意的にご評価いただきお恥ずかしい限りです。
一度是非、神戸を歩いてみてください。ただ最近の神戸、特に震災後は単に「小奇麗な街」になり過ぎたような気が致します。以前は何かこう大都市特有の「ドス黒い凄み」みたいな所があったのですが。
港にしても1970年代ぐらいまでは異常なほどに活気の漲った勢いみたいなのを感じられたのですが、コンテナ化が進んだ上に、造船不況もあってか、今はまるで公園みたいな港になっています。

[4484]夜鳴き寿司屋さん
その長田区の焼け野原で私も彷徨っていました。私の店はその焼け野原のど真ん中でした。
しかし今に思えば不思議と悲壮感はなかったです。それより、あの時の住民パワー、凄かったです。

[4485]いなさん
国道2号線の上を、土砂運搬用のホッパーが土を積んで空中を鋼索線で海のほうへ引かれて行っているのは須磨のベルトコンベア―のことでしょうか。今でも稼動していると思いますよ。神戸空港島の造成に活用していることと思います。空港島はすでに一部が海上に陸地を見せています。

[4491]雑魚さん
神戸市西郊の溜池群はこの地域が慢性的に水不足だったためです。神戸市西区西部より加古川左岸までの一帯は「印南野台地」と呼ばれ、丁度お皿を伏せたような緩やかな台地を形成しています。このため、加古川の水は台地一帯には流入せず、加古川やその支流の美嚢川から疎水が引かれています。淡河町というかつて美嚢郡に属した村が1958年2月1日に神戸市に編入されましたが、この編入には美嚢川上流の淡河川からの淡河疎水が現在の神戸市西区域の農村地帯に通じていたたことに関連していたそうです。溜池の多さ、25000分の1地形図「東二見」は壮観です。

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