東茨城郡域町村の合併の成否,「東茨城市」ないし「茨城市」の呼称の是非については触れませんが…
[19021] 桃象 さん
「東茨城郡」という名称は元々の「茨城郡」を東西に分割した
そのとおりです。1878(明治11)年の「郡区町村編制法」による行政区画の再編の際に,それまでの「茨城郡」が東西に分割されて「西茨城郡」「東茨城郡」となりました。県都の水戸は東茨城郡の所属。
「茨城県」という呼称は,廃藩置県後の明治4(1971)年11月(旧暦)の府県統合の結果,常陸北部5郡(真壁・茨城・那珂・久慈・多賀)をもって編成された「県」の県庁が「茨城郡水戸」(東西分割以前)に置かれたことによります。
一方,常陸南部6郡(鹿島・行方・河内・信太・新治・筑波)は,下総東部3郡(香取・海上・匝瑳)とともに1県に編成され,県庁所在地の「新治郡土浦」により「新治県」と称することになりました(なお河内郡と信太郡は,郡区町村編制法による郡の統合で「稲敷郡」となっています)。
1875(明治8)年に新治県は茨城県に統合され,同時に隣接する千葉県との間で利根川を境に領域の交換を行って,現在の茨城県および千葉県の領域が“ほぼ”成立しました。
さて,問題の「茨城市」の誕生が話題になったとして,それが東・西茨城郡内,あるいは茨城県全体の中での位置から問題が持ち上がることは十分に予想されることですが,もう1つ,意外なところからクレームがつく可能性があります。
それは,石岡市。
実は石岡市の“売り”の1つは,「“いばらき”発祥の地」。
現在の石岡市(旧称:常陸府中)は「新治郡」から市になったのですが(だから,1875年以前は茨城県ではなく新治県に所属),古代は「茨城(むばらき)郡」に属していました。
(※「茨城:むばらき」の実際の発音は「んばらき」に近かったと思われます。「薔薇」も「むばら=んばら」から「ばら」になったんですよね。もちろん「茨」も同様。
「ん」という文字が成立・普及するのは中世になってからで,“かな”の成立した平安時代には表記のしようがなかったので「むはら」などと表記したのです。「いばら」はその変化形の1つです。
逆に言えば,「茨城/茨木」を「ばらき」と読むこともあるわけです。そうすると「原木」などの地名に通じますね。)
石岡市内には「茨城廃寺跡」という史跡があります。
旧称の「常陸府中」が表すように,この地には常陸国府が置かれていたと考えられています。つまり,常陸国府の所在郡は古代には「茨城郡」であったわけです。
そして「茨城(廃)寺(むばらきでら)」の存在は,ここが「茨城郡」の中心であり,茨城郡衙(郡家)もまたこの地に置かれたことを暗示しています(茨城郡衙跡は見つかっていません)。
石岡市にとってみれば,自分の所こそ「常陸」の,そして「茨城」の中心である,という誇りがあるかもしれません。
かつて「さいたま市」に「埼玉(さきたま)郡」の中心であった行田市からクレームがついたように,石岡市が「茨城市」にクレームをつけることは十分あり得るように思います。
(蛇足ですが,「さいたま市」は「大宮=武蔵一宮・氷川神社」が所在するように古代以来,「埼玉」ではなく「足立郡」の中心地です。中世末まで泥沼のような所であった現東京都足立区が「足立」を代表するなど,不本意なことかもしれません。それは,千葉県市川市から見た「葛飾」も同様。)
「新治郡」という地名も,日本武尊の東征伝説で彼が歌ったとされる「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」という歌(の一部,というよりは従者への問いかけ)に登場するように,古代以来のものです。
しかし,古代の「新治郡」は現在とは違って筑波山の北西側の地名でした。1954年に隣接2村と合体して「協和村」(現協和町)となった「旧真壁郡新治村」が古代の新治郡を伝えるものです。
中世の混乱期を経て,近世までに「新治郡」は筑波山を越えて,古代の「茨城郡」の南西部に当たる現在の位置に“移動”しました。そして,古代の新治郡域は「真壁郡」の一部となって,近代に至る,というわけです。