都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

茨城県茨城市がないわけ

トップ > 落書き帳アーカイブズ > 茨城県茨城市がないわけ
記事数=14件/更新日:2004年1月31日/編集者:special-week

茨城県の県庁所在地は「水戸市」。茨城市は存在しない。現在の北茨城市が市制を施行するときに、茨城市を名乗ることはまかりならん!との意見があったようで、北茨城市は「茨城市」がないのにも関わらず名乗ることが許されなかった。どうして茨城県には茨城市が存在しないのか?

… スポンサーリンク …

★推奨します★(元祖いいね) BANDALGOM グリグリ 北神

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1333]2002年4月28日
あっちゃん
[1334]2002年4月28日
miki
[1356]2002年5月2日
miki
[4849]2002年11月13日
桃象
[6452]2002年12月14日
ken
[16660]2003年6月12日
ken
[18974]2003年8月11日
グリグリ
[19011]2003年8月14日
実那川蒼
[19017]2003年8月14日
special-week
[19018]2003年8月14日
桃象
[19020]2003年8月14日
ken
[19021]2003年8月14日
桃象
[19025]2003年8月14日
Issie
[19031]2003年8月14日
ken

[1333] 2002年 4月 28日(日)21:00:35あっちゃん[実は小学生] さん
岡山の合併&第五の質問
岡山は、倉敷とその周辺と合併する気は無いのでしょうか?
岡山市+倉敷市+総社市+玉野市+灘崎町+早島町+清音村+山手村
+真備町+船穂町で、それに希望により御津郡、赤磐郡、邑久郡等も
入れればいいのではないでしょうか?
僕は岡山人ではないので、岡山のことはあまり分かりませんが、
人口だけをみて考えてみました。

あと、http://uub.jp/zat/mosaka.html の、
「南大阪市ってどこにあるの?」で、
「磯原町以下6町村が合併し一旦「茨城市」を名乗ったのですが、
すぐに「北茨城市」に改称したものです。これは、本当は「茨城市」
としたかったのですが、茨城県の他の自治体から県名と
同一名称を名乗ることに対して横やりが入ったためと言われています。」と
書かれていますが、現在、茨城町が存在していますよね。
これはどういうことなんですか?教えてください。
[1334] 2002年 4月 28日(日)21:46:13miki さん
茨城町
茨城町の場合は旧郡名(茨城郡。東茨城郡と西茨城郡に分割される前の郡名)から取られた由緒ある地名です。県名から取られたのではありません。
それに町ですので、市とは別格と考えてもいいのではないでしょうか?
...間違っていたらごめんなさい。
[1356] 2002年 5月 2日(木)20:40:02miki さん
茨城町・補足
「茨城町」
この町名は54.12.15に公募で決められたものだそうです。
[4849] 2002年 11月 13日(水)12:25:33桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
古地図(川崎市・地名資料館)
TNさんの書き込みにはちょっと驚きましたが,それだけこの掲示板が佳くできていると言うことと,前向きに受け止めることにしました。私もTNさんのコラムは興味深く拝見していただけにちょっと残念な気もします。でも,またいつかは来られることでしょう。

高速道路の路線変更の話は大変面白く読みました。そういうこともあるのですね。

先週は子供の行事の関係で川崎市にあるてくのかわさきを訪れたのですが,この建物の4階には「地名資料館」がありました。4階の一部だけを使った本当にこぢんまりとしたものだったのですが,現在の川崎市にあたる地域の江戸時代の様子(村の分布状況)を示した古地図などが展示されており,とても楽しいものでした。現在の川崎市に相当する地域は武蔵国に属していたのですが,幕府直轄領(代官領),旗本領,寺院領が複雑に入り組んでいたようです。
 また関東13州の古地図のコピーも展示されていたのですが,常陸国の郡名や,当時の街の規模などがはっきりとわかるように描かれており,とても興味深いものがありました。
 県北地方は久慈郡と多賀郡があり,これは現在と全く同じですね。県央地方は那珂郡と茨城郡であり,現在とほぼ同じですね。現在は茨城郡に相当する地域は東茨城郡と西茨城郡に分かれていますね。鹿行地方は鹿嶋郡のみでした。(鹿島郡ではなかったのが意外でした)。県南,県西地方は,現在もある郡名は新治郡のみであり,後は初めて見る郡名ばかりでした。
 県西地方(と言っても江戸時代は大半が下総国に属していたんですけどね)では,江戸時代も下館や結城の方が,交通の要所として街の規模が下妻よりも大きかったらしいことが伺われました。旧下妻中が下妻町に置かれたのは,単に街の規模云々の他にもいろいろな理由が挙げられるようにも思いました。
 古河地域の古地図もありましたが,現在の五霞町に相当する地域の周辺を流れる利根川の流域の様子がはっきりとわかり,これも興味深いものでした。やはり,現在の五霞町に相当する地域は,昔は古河藩のものだったんですね~。

==
[6452] 2002年 12月 14日(土)14:41:53【1】ken さん
自己レス
考えて見ると、既存の自治体名とバッティングせず、県内の他の地域に気兼ねなく「県名」=「市名」を付けられるのは、「沖縄市」の先例はあるものの、「愛媛市」くらいしか、ないのでは?
「北茨城市」も当初「茨城市」にしようとして、東・西茨城郡の地域からクレーム付いて、「北」を付けたのではなかったでしたっけ?

さいたま市は、行田市からクレーム付いたけれど、強行突破しましたが。

あと、「北海道市」「北海市」はあるか。。。
[16660] 2003年 6月 12日(木)12:42:12ken さん
茨城市
[16646]utt さん
[16627]kenさん
北茨城市って、「茨城市」にしようとして、駄目食らったんですよね。
今でも手続き上、合併を伴わない改名なんて可能なのですか??
ちょっと思い違いがあるといけないので、念のため・・・
北茨城市が「茨城市」にしようとしたのは、市制施行時で、「北茨城市」になって後で「改名」しようとしたわけではありません。

市になるときに「茨城市」になろうとしたら、行田と同様ですが、東西茨城郡各町村からの反対を喰らって、「茨城市」をあきらめ、「北茨城市」にしたんです。(よね?)
[18974] 2003年 8月 11日(月)15:28:11【1】オーナー グリグリ
瞬間に存在した市
[18875] TKS-H さん
「たった一日」という表現はどうもしっくり来ません。24時間はそういう状態が存在していたかのごとく錯覚してしまいます。
(中略)
「一瞬で消滅」というほうが好ましいかなという気がしています。「即日改称」というのも耳になじんだ言葉ではありますが、要するに即座に改称されたということです。
(中略)
無論、こういうのも広義の「たった一日」の部類に属するのだ、日単位に切り上げて一日とするのだということであれば、それならそれで一向にかまいません。
どうも、適切な指摘をありがとうございます。[18877]で Issie さんも書かれていますが、「瞬間の市」の意味で「たった一日の市」と使ったわけですが、「瞬間に存在した市」「一日で消えた市」という表現の方がより相応しいようです。雑学ページは修正しました。

[18947] TKS-Hさん
新市誕生寸前の動きを追ってみます。
ドキュメンタリータッチによる詳細な新市誕生前夜の緊迫した状況説明に感謝します。各町村の思惑が錯綜する様子が描き出されて興味深いです。それにしても、「茨城市」から「北茨城市」への名称変更の真相が今一つつかめないのは、情報が意図的に隠蔽されているのでしょうか。
[19011] 2003年 8月 14日(木)04:48:49【1】実那川蒼[あんどれ] さん
群馬県群馬市、茨城県茨城市
[18993](uttさん)
あと、県名が都道府県庁所在地名と一致しない場合が考えられますが、例えば群馬町などの県名と同一の町村が人口増加して市制を敷く可能性もありますので、現時点で都道府県名と同じ自治体名がない県名で考えますと、

群馬町って現在3万6000人くらい人口があるんですね。
ついでに、似たような茨城県東茨城郡茨城町の人口も約3万6000人です。

そういえば昭和40年代に、地方自治法で合併自治体でなくても3万人以上で市に昇格できる特例が設けられた(そのため、この時期に新しく誕生した市が集中した)ことがありましたが、あれはどういう背景だったのでしょうか。合併自治体だけ優遇するのはおかしいという意見が出た上の産物のように思えるのですが。

今回もそういう特例が設けられれば「群馬県群馬市」や「茨城県茨城市」が誕生するかも?
[19017] 2003年 8月 14日(木)11:30:59【1】special-week さん
茨城市はできるか?
[19011]
あんどれ様

今回もそういう特例が設けられれば「群馬県群馬市」や「茨城県茨城市」が誕生するかも?

 群馬市はともかく、茨城市は誕生しない。というのが私の考えです。というのは、北茨城市が市制施行する際に茨城市を名乗ろうとしたのに、北茨城市と改称させられていますよね。

 これで茨城市ができたら北茨城市は黙っているとは思えません。それは安芸高田市(予定)からも伺えますね。高田市という自治体はすでにありません。それなのに、安芸高田市とするのは陸前高田市、大和高田市、豊後高田市に配慮したものでしょう。茨城市にもそれが当てはまると思います。
 茨城市誕生の可能性は果てしなく低いのではないでしょうか?茨城町は東茨城郡なので、「東茨城市」となりそうです。私個人の意見では、こういった方角市名はできるだけ避けたいのですが…
[19018] 2003年 8月 14日(木)11:48:49桃象 さん
茨城市
[19017]
茨城市誕生の可能性は果てしなく低いのではないでしょうか?茨城町は西茨城郡なので、「西茨城市」となりそうです。私個人の意見では、こういった方角市名はできるだけ避けたいのですが…

茨城町は東茨城郡です。また茨城町は水戸市の南部に位置し,茨城県全体から見れば,県央地域に属しています。ですから,「西茨城市」という名称にはあまり現実味がないようにも思われます。古河市,総和町,三和町が合併して「西茨城市」を名乗るのならば,それなりにうなづけるものがあるとは思うのですが。

現在茨城町は「単独町制」「水戸市との合併」の両案をめぐって町執行部と町議会の水面下の折衝が行われているようです。水戸市も中核市になるための手段として,茨城町や大洗町との合併を水面下で模索しているとの話も聞かれます。

==
[19020] 2003年 8月 14日(木)13:33:14ken さん
re:茨城市はできるか?
[19017] special-week さん
北茨城市が市制施行する際に茨城市を名乗ろうとしたのに、北茨城市と改称させられていますよね。
なぜ仮称させられたか経緯をご存知であれば、北茨城市は茨城市になれず、茨城町は、茨城市になれることはお解かりと思うのですが。

一応、茨木市との「同音回避」も理由にはあげてますが。
「茨城」町は現在の自治体名でもあり、東西茨城郡内ですし、反対する根拠がないでしょう。
[19021] 2003年 8月 14日(木)13:44:06桃象 さん
東茨城市
[19017]
茨城市誕生の可能性は果てしなく低いのではないでしょうか?茨城町は東茨城郡なので、「東茨城市」となりそうです。

おや,いつのまにか「西」が「東」に替わっていますね。

様々な仮定を踏まえた上での話と言うことは十分に承知していますが,やはり「東茨城」という市名もちょっとどうかなと思います。詳しいことはissieさんにお願いしたいとも思うのですが,「東茨城郡」という名称は元々の「茨城郡」を東西に分割した上での命名であったとも思うのです。しかし,現在は「茨城」という名称は,元の茨城郡の範囲をはるかに越えて,茨城県全体を指す地域名として定着しているようにも思われます。また,茨城県には「県東」地域に相当する地域がありません。そのような状況の下で,あえて「東茨城」という市名をどれほどの人が支持するかどうかは微妙なのではないでしょうか。

ひらがなで「いばらき」市とする線は十分あり得るかもしれません。既に,茨城県には「つくば市」「ひたちなか市」があり,新たに「こが市」が誕生する可能性もあります。つまり,茨城県ではひらがな市名に対する抵抗感が比較的少ないようにも見受けられます。

むしろ,私は茨城町が市に昇格したとき,茨城市を名乗ることは十分に可能とも考えています。北茨城市の場合は当時の詳しい状況は伺い知る由もありませんが,茨城県の最北に位置するのに「茨城市」を名乗るのはおこがましいというような圧力も多分にあったのではないでしょうか。しかし,茨城町は県都水戸市に隣接し,地勢的にも茨城県のほぼ真ん中に位置しています。茨城町としてそれなりの歴史を築いてきたこともあり,単独市制をしいたときに「茨城市」を名乗ったとしても,周囲の抵抗は余りないのではとも思う次第です。

==
[19025] 2003年 8月 14日(木)18:58:14【2】Issie さん
むはらきのこほり (茨城郡)
東茨城郡域町村の合併の成否,「東茨城市」ないし「茨城市」の呼称の是非については触れませんが…

[19021] 桃象 さん
「東茨城郡」という名称は元々の「茨城郡」を東西に分割した

そのとおりです。1878(明治11)年の「郡区町村編制法」による行政区画の再編の際に,それまでの「茨城郡」が東西に分割されて「西茨城郡」「東茨城郡」となりました。県都の水戸は東茨城郡の所属。
「茨城県」という呼称は,廃藩置県後の明治4(1971)年11月(旧暦)の府県統合の結果,常陸北部5郡(真壁・茨城・那珂・久慈・多賀)をもって編成された「県」の県庁が「茨城郡水戸」(東西分割以前)に置かれたことによります。
一方,常陸南部6郡(鹿島・行方・河内・信太・新治・筑波)は,下総東部3郡(香取・海上・匝瑳)とともに1県に編成され,県庁所在地の「新治郡土浦」により「新治県」と称することになりました(なお河内郡と信太郡は,郡区町村編制法による郡の統合で「稲敷郡」となっています)。
1875(明治8)年に新治県は茨城県に統合され,同時に隣接する千葉県との間で利根川を境に領域の交換を行って,現在の茨城県および千葉県の領域が“ほぼ”成立しました。

さて,問題の「茨城市」の誕生が話題になったとして,それが東・西茨城郡内,あるいは茨城県全体の中での位置から問題が持ち上がることは十分に予想されることですが,もう1つ,意外なところからクレームがつく可能性があります。
それは,石岡市。

実は石岡市の“売り”の1つは,「“いばらき”発祥の地」。
現在の石岡市(旧称:常陸府中)は「新治郡」から市になったのですが(だから,1875年以前は茨城県ではなく新治県に所属),古代は「茨城(むばらき)郡」に属していました。
(※「茨城:むばらき」の実際の発音は「んばらき」に近かったと思われます。「薔薇」も「むばら=んばら」から「ばら」になったんですよね。もちろん「茨」も同様。
「ん」という文字が成立・普及するのは中世になってからで,“かな”の成立した平安時代には表記のしようがなかったので「むはら」などと表記したのです。「いばら」はその変化形の1つです。
逆に言えば,「茨城/茨木」を「ばらき」と読むこともあるわけです。そうすると「原木」などの地名に通じますね。)

石岡市内には「茨城廃寺跡」という史跡があります。
旧称の「常陸府中」が表すように,この地には常陸国府が置かれていたと考えられています。つまり,常陸国府の所在郡は古代には「茨城郡」であったわけです。
そして「茨城(廃)寺(むばらきでら)」の存在は,ここが「茨城郡」の中心であり,茨城郡衙(郡家)もまたこの地に置かれたことを暗示しています(茨城郡衙跡は見つかっていません)。
石岡市にとってみれば,自分の所こそ「常陸」の,そして「茨城」の中心である,という誇りがあるかもしれません。
かつて「さいたま市」に「埼玉(さきたま)郡」の中心であった行田市からクレームがついたように,石岡市が「茨城市」にクレームをつけることは十分あり得るように思います。
(蛇足ですが,「さいたま市」は「大宮=武蔵一宮・氷川神社」が所在するように古代以来,「埼玉」ではなく「足立郡」の中心地です。中世末まで泥沼のような所であった現東京都足立区が「足立」を代表するなど,不本意なことかもしれません。それは,千葉県市川市から見た「葛飾」も同様。)

「新治郡」という地名も,日本武尊の東征伝説で彼が歌ったとされる「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」という歌(の一部,というよりは従者への問いかけ)に登場するように,古代以来のものです。
しかし,古代の「新治郡」は現在とは違って筑波山の北西側の地名でした。1954年に隣接2村と合体して「協和村」(現協和町)となった「旧真壁郡新治村」が古代の新治郡を伝えるものです。
中世の混乱期を経て,近世までに「新治郡」は筑波山を越えて,古代の「茨城郡」の南西部に当たる現在の位置に“移動”しました。そして,古代の新治郡域は「真壁郡」の一部となって,近代に至る,というわけです。
[19031] 2003年 8月 14日(木)23:38:28ken さん
続:茨城市
[19025] Issie さん
実は石岡市の“売り”の1つは,「“いばらき”発祥の地」。

なるほど、常陸府中にはそういう由緒もあったのですか。

しかし、たとえ、そうではあっても、茨城町は自治体名として、(それほど長い歴史ではないですが)、「茨城」町を既に今、名乗っているわけで、市名と言っても、単純昇格で名称変更はしないわけですから、磯原町や、裏飲み屋市の場合とは、条件が違うように思います。
鹿嶋市のような重複回避は別として、それ以外の理由で、町が市に昇格する際、名称について、「市」になるからといって、「現」町名の「継続使用」を何か特別、配慮をしなければいけない、要因はないような気もするのですが。

本題は、[19011]あんどれさんの、単独昇格の3万市を認めるべきかどうか、の方が、肝なんですが。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内

… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

パソコン表示スマホ表示