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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

シリーズ・地域の地理雑学−鹿児島県編−

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記事数=70件/更新日:2006年2月5日/編集者:YSK

鹿児島県内の特色ある地域についてのネタを集めました。なお、奄美地方については、アーカイブ沖縄・奄美情報交差点をご参照ください。

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★推奨します★(元祖いいね) 作々 BANDALGOM いっちゃん

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[78]2000年12月23日
Issie
[1146]2002年3月23日
Issie
[1147]2002年3月23日
たけもと
[7661]2003年1月13日
深海魚
[7947]2003年1月20日
夜鳴き寿司屋
[24278]2004年1月30日
太白
[27170]2004年4月11日
作々
[28628]2004年5月25日
作々
[28660]2004年5月27日
作々
[29376]2004年6月16日
作々
[29391]2004年6月17日
作々
[30011]2004年7月2日
作々
[30135]2004年7月5日
作々
[30682]2004年7月18日
作々
[30941]2004年7月23日
作々
[31024]2004年7月25日
作々
[31459]2004年8月6日
作々
[32574]2004年9月5日
作々
[33098]2004年9月20日
作々
[33713]2004年10月3日
作々
[33785]2004年10月4日
作々
[33833]2004年10月5日
作々
[33876]2004年10月6日
作々
[33917]2004年10月7日
作々
[33967]2004年10月9日
作々
[34016]2004年10月9日
作々
[34052]2004年10月10日
作々
[34080]2004年10月11日
作々
[34553]2004年10月27日
作々
[34573]2004年10月28日
作々
[34596]2004年10月29日
作々
[34621]2004年10月30日
作々
[34658]2004年10月31日
作々
[38629]2005年3月16日
作々
[38655]2005年3月16日
作々
[38681]2005年3月17日
作々
[38717]2005年3月18日
作々
[38747]2005年3月19日
作々
[38770]2005年3月20日
作々
[38796]2005年3月21日
作々
[40305]2005年4月27日
作々
[40327]2005年4月28日
作々
[40367]2005年4月29日
作々
[40410]2005年4月30日
作々
[42575]2005年6月26日
作々
[42598]2005年6月27日
作々
[42623]2005年6月28日
作々
[42648]2005年6月29日
作々
[42683]2005年6月30日
作々
[45525]2005年10月9日
作々
[46347]2005年11月1日
作々
[46348]2005年11月1日
作々
[46405]2005年11月2日
作々
[46409]2005年11月2日
作々
[46441]2005年11月3日
作々
[46446]2005年11月3日
作々
[46456]2005年11月4日
作々
[46457]2005年11月4日
作々
[46471]2005年11月5日
作々
[46473]2005年11月5日
作々
[46490]2005年11月6日
作々
[46491]2005年11月6日
作々
[47678]2005年12月28日
作々
[47679]2005年12月28日
作々
[47695]2005年12月29日
作々
[47697]2005年12月29日
作々
[47727]2005年12月30日
作々
[47729]2005年12月30日
作々
[47741]2005年12月31日
作々
[47743]2005年12月31日
作々

[78] 2000年 12月 23日(土)21:40:00Issie さん
鹿児島県大口の所属
現在の大口市の一部と菱刈町の区域は,もともとは「大隅国菱刈郡」でした。それが明治20年代の「郡制」施行に向けての郡の再編で,「薩摩国北伊佐郡」(現在の大口市の大部分)と合併して「薩摩国伊佐郡」となり,問題の区域は「大隅国」から「薩摩国」へ所属替えになりました。鉄道の開通はこの後なので,駅名には「薩摩」がつくのです。
同じく「大隅国北大隅郡」(桜島)も「薩摩国鹿児島郡」ほかと合併して「薩摩国鹿児島郡」に,志布志を中心とする「日向国南諸県郡」も「大隅国東噌唹郡」と合併して「大隅国噌唹郡」(現曽於郡)となり,それぞれ「大隅国」から「薩摩国」,「日向国」から「大隅国」へ所属替えとなっています。
で,実は大口市の中心部自体は旧・北伊佐郡の区域。つまり,大口はもとから「薩摩国」の所属,ということになりますね。
なお,鹿児島県の「大口」は「おおくち」,横浜線の「大口」は「おおぐち」というのが,正式な読み方です。でも,地元では違っている場合が少なくありません。
[1146] 2002年 3月 23日(土)19:02:22Issie さん
Re:三条と萩と鹿児島の謎
鹿児島本線は現在では八代から海沿いに川内経由のルートで鹿児島へ入っていますが,当初は人吉経由つまり現在の肥薩線ルートで北から鹿児島に入っていました。日豊本線も,はじめは都城から現在の吉都線のルートを通っていました。現在ではローカル線に過ぎない肥薩線と吉都線の合流点である吉松駅が大変に立派なのはその名残です。
で,北から鹿児島に入ってその末端に設けられたのが「鹿児島駅」。蒸気機関車の時代には,機関区などの運転施設はこちらにありました。
川内線とよばれた現在の鹿児島本線が開通したとき,市街地の西側に駅が設置されました。当初は別の駅名(名前は失念)でしたが,のちに「西鹿児島」と改称されました。
こちらの方が鹿児島駅よりも心持ち市の中心に近かったこと,実際に中心自体が西鹿児島駅に近づいていったことなどがあって,徐々に西鹿児島の方がターミナルの地位を奪い取ったようです。

三条の場合,市街地により近いのは三条駅の方ですね。といいつつ,五十嵐川をはさんだ東三条駅も旧市街の東端にあります。駅のロケーションとしては両者にあまり大きな違いはないように思います。
ただ,東三条は後に弥彦線(開業時は私鉄の越後鉄道)とのジャンクションになっている,というのが浮上した条件になっているのかな。

萩駅も東萩駅もどちらも市街地からは同じように遠いですねぇ。そして,三条と東三条の場合のような違いも見られない。駅の規模もあまり変わらないですよねぇ。
東萩の方が浮上した条件は…,さて,何でしょうねぇ。

なお,鉄道の駅はそれ自体が建設の目的地となるような大都市以外,路線の途中に設置される場合に優先されるのは列車運行上の都合です。およそ5kmごとに1駅という間隔かな。
だから,この間隔に合わなければ,北陸線の魚津のように市街地のすぐ近くを通るにも関わらずそこを通過して町外れに駅が設置される,ということがよくあります。
[1147] 2002年 3月 23日(土)20:05:42たけもと さん
萩や鹿児島やら(Re:1146)
西鹿児島の旧名は武(たけ)駅です。

issieさんのおっしゃる通り鹿児島へのルートは北側から入ってくるルートが先でした。西鹿児島地区へ延ばすには城山にトンネルを掘らねばならなかったことも一因のようです。トンネルが掘られて西鹿児島駅ができ、中心街に近くなったのでこちらが発展したと。

萩は東萩の方が中心街へ近いですよ。いまや駅の規模も断然東萩の方が上です。

魚津はちょっと違うような・・。魚津は南とは駅間10kmくらいありますよ。途中に駅がつくられて5kmくらいに結果的になっただけで・・。
[7661] 2003年 1月 13日(月)17:02:27深海魚[雑魚] さん
桜島
本日、久々にNHK 「昼どき日本列島」 を観たところ、鹿児島-桜島のフェリーが紹介されていました。
番組案内役が桜島行のフェリーに同乗する趣向でしたが、いつ見ても雄大な風景ですね。これを見て
「今まで知らなかったのか?」 と笑われそうですが、以下の点について初めて勉強になった次第。

○ フェリーは桜島町営で、同町居住者が優先的に採用される事。
○ 日中の運行頻度は10-15分おきと高く、深夜ないし未明でも一時間間隔で運行されている事。
○ 桜島と大隈半島の接点は、大正年間の噴火に伴う溶岩流の結果、陸続きになった事。

三点目について、桜島の東半分が鹿児島市に属する事と、溶岩流で 「新陸地」 が出現した事の間に
因果関係はないものかと、ふと考えた雑魚でした。ちなみに、「新陸地」 付近を通過していた大隈線は、
全通が 1972年、廃止が 1987年と、僅か 15年の短命路線だったのですね
[7947] 2003年 1月 20日(月)09:00:13夜鳴き寿司屋 さん
大隈半島を巡る鉄道
[7942]はやいち@西国管領 さん

大隈半島ですが、かつては鉄道が走っておりました。日豊本線国分駅から鹿屋を巡り日南線志布志迄行く「大隈線」です。結局は国鉄改革の一環として1987年に廃止された路線ですが全通してからわずか15年目のことでした。鹿児島市と鹿屋市を結ぶ幹線鉄道ですが鹿児島湾をぐるっと廻る為に鹿児島湾を渡る船便の方が速く移動出来る致命的な欠点がありました。また沿線人口が少ないうえに自動車の普及率が高いために鉄道があまり利用されなかった事が廃止につながった理由だと思います。

 鹿児島県内では廃止路線として志布志線(宮崎県西都城~志布志)、宮之城線(川内~薩摩大口)、鹿児島交通南薩線(伊集院~枕崎)などがあります。
[24278] 2004年 1月 30日(金)09:56:16【3】太白 さん
十島村(としまむら)
[24269] hmt さん
[24274] Issie さん
伊豆大島の帰属の話を大変興味深く読ませていただきました。
でも、反応するのは以前から興味があった「トカラ」ネタの方です…。

(hmtさん)
トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。
十島村のHPによれば、「トカラ」の由来は、「トハラ」(奄美方言で沖の海原を表す)、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」、「宝島」の「タカラ」など、諸説あるようです。それが、近世に三島村を含めた有人十島全体が「じっとうそん」と呼ばれるようになり、現在は「としまむら」となっています。
すなわち、「とから」→「じっとう」→「としま」との変遷を経ているわけですが、通称としては現在も「トカラ」の名が根強く生きていることになります。

余計なお世話ですが「十島村」という名称は、「名は体を現していない」典型ですね。村のシンボルマークも「7つの島の団結を示したもの」になっています。

以下は十島村の年表です。

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族が十島列島にも落ち延びて定住(伝説)
嘉禄3年(1227年)十島は川辺郡に属し、平氏系統の川辺氏が支配
宝永元年(1704年)口之島、中之島、宝島に薩摩藩異国船番所、在番を設置。七島の島役は郡司、横目。
文政7年(1824年)宝島でイギリス坂の戦い(英捕鯨船が牛を欲しがったため)
→幕府の外国船打払令のきっかけ
明治4年十島村は廃藩置県の対象外とされ、在藩が引続き郡司・横目と共に行政を担当
明治8年在藩引き揚げ。口之島・中之島・宝島・硫黄島に戸長を置く。副戸長は全島。
明治18年川辺郡十島のうち、下七島は川辺郡帰属のまま金久支庁(翌年大島県庁)管轄、
上三島は大島郡金久支庁西之表出張所管轄となる
明治22年上三島を再編入。市町村制施行から除外され、中之島の戸長が十島全体を統治(?)
明治30年川辺郡より分離、大島郡十島となる。
明治41年「島峡町村制」が施行され、十島村発足。
大正9年本土並みの市町村制実施
大正15年大島県庁を廃し大島支庁を置く。
昭和21年GHQ指令により北緯30度で上三島(竹島・黒島・硫黄島)と分離され軍政下に
昭和26年現十島村で本土復帰運動が起こり、1,970人が署名
昭和27年2月4日に十島村が本土復帰、2月10日に十島村(としまむら)発足(上三島は三島村として同日発足)
昭和31年役場所在地を中之島から鹿児島市に移転し、中之島に支所設置。
昭和35年中之島・口之島に電話開通
昭和48年十島村は大島郡から鹿児島郡へ帰属変更

十島村といえば、「村内に役場が無い」ということで有名(?)なわけですが、歴史をみる限り、少なくとも明治41年以降昭和31年に至るまで、十島村の行政中心は中之島にありました。それが、昭和31年に鹿児島に移転しており、島外の役場設置は「必然」とはいえません。むしろ、電話も電気もなかった昭和20年代以前に、しっかり中之島に行政中心があったわけです。
ただし、村のHPを見ると、
県本土とのかかわりは、益々緊密の度合を増していったことから、昭和31年4月1日から役場庁舎を鹿児島市へ移転した。
とあり、竹富町のように、島相互の交通の便が悪いことによるものではないですね。島の開発を陳情しやすいように県庁近くに役場を置いたことを示唆しています。

また、重箱レスですが、十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足(上三島は三島村として同日発足)とありますので、同名期間はない(ないし6日間)ではないでしょうか? >hmtさん

【訂正機能にて追加】
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、その後「大島支庁」になっていることから、どうやら他の「府県」とは位置づけが異なるようですね。
[27170] 2004年 4月 11日(日)13:30:16作々 さん
お祭り話
お疲れ様でございます。

今回は祭りの話題。
来月5月16日に今年で7回目を数えます渋谷・おはら祭りが行われます。
(正確にはメインの踊りが16日にあると言うことで、11日から1週間ほど展示会などの催し物はあるようです。)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwht9683/ohara/index.html

おはら祭りと言えば、地元鹿児島では毎年11月3日文化の日(2日は前夜祭)に行われている祭りです。
前身は鹿児島市の市制60周年記念のパレード(1959年、昭和24年)で、その後祭りは色々と形を変えながら1961(昭和36)年から現在のような「踊り連」方式となり、1968(昭和43)年からは毎年11月3日に行われております。(この日が選ばれた理由は過去統計的に雨が少ない日だからとか。)

渋谷と鹿児島ということで、その繋がりについては渋谷・おはら祭りのHPでも触れており、
鹿児島出身の彫刻家・安藤照氏が初代のハチ公像を作ったこと(ちなみに現在の2代目は息子の武士氏のもの)ほか色々とあるようですが、やはり渋谷氏の存在は欠かせないでしょう。
渋谷氏は元は武蔵国秩父郡を治めていた秩父氏の一族で、後に相模国高座郡渋谷庄(今の綾瀬近辺?)を与えられたことにより、その子孫が渋谷氏を称するようになりました。後にこの一族が武蔵に移住し、それが今の「渋谷」という名称の由来ともなるわけですが、渋谷氏を最初に名乗った重国の長男・光重が戦功を挙げ、恩賞として賜ったのが今の鹿児島県の薩摩郡の地頭職でした。それが現在のどのあたりかというのは、その地に赴いた光重の子供たちの名乗った苗字が東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城だったことからも分かります。東郷氏らは戦国島津を支える武将として活躍します。因みに日露戦争時にロシアのバルティック艦隊を破った連合艦隊司令長官・東郷平八郎はこの子孫です。

さて、おはら祭りで踊られるのが鹿児島おはら節と鹿児島ハンヤ節ですが、やはりここでは「花は霧島 煙草は国分~」で始まる鹿児島おはら節のほうに触れてみたいと思います。
その由来は諸説あるようですが、中でも有力なのが現在の都城の安久(ヤスヒサ)地方の郷士が歌っていた安久節(ヤッサブシ)を伊敷村原良(ハララ)の郷士が持ち帰り、小原良節と呼ぶようになったと言う説です。
このおはら節、歌詞のほうもいくつか種類があるようですが、ここでは鹿児島市のHPに紹介されていたほうを取り上げますが(下記リンク)、
この中だけでも、霧島、国分、桜島、安久(お囃子のヨイヤサットの部分)、松原、草牟田川(甲突川の昔の異名?)、伊敷、原良と言った県内の地名が出てきます。
http://www.city.kagoshima.kagoshima.jp/kanko.nsf/alldoc/5109
また、このほかにも加治木、重富、吉野、永良部などと言った地名が出てくるものもあります。
このように民謡には他にも地元の地名が出てくるものがあるのではないでしょうか。

まあそんなこんなで1ヶ月先の話になりますが、渋谷にお越しの際は是非お立ち止まりください。
(別に実行委員でも何でもないんですけどね。)
[28628] 2004年 5月 25日(火)23:53:18【2】作々 さん
志布志、東郷、料理
[28603] 月の輪熊 さん
月野村は現在大隅町の一部ですね。
有明町の前身が西志布志村だったわけですが、この時の分村の名残でしょうか。
の町村制施行によって誕生した志布志村ですが、その2年後には士族の横暴が原因でまず月野村が分村、そして同年今度は地形的な理由で東志布志村、西志布志に分裂しています。西志布志村はその後昭和30年に野方村の一部を編入して(大字山重。大崎町内の飛び地部分)、昭和33年に町制を施行して有明町となります。

そうなると今度志布志町・有明町(+松山町)が合併すれば、一部は元の形に戻ることになりますね。
分村後の各村の構成を町村制施行前の町村(ややこしい)で表すと、
・東志布志村:帖村、安楽村、志布志町、夏井村、内之倉村、田ノ浦村
・西志布志村:蓬原村、野井倉村、伊崎田村、野神村、原田村
・月野村:月野村
と言った具合です。これらは今も知名として残っているので容易に場所等も分かるかと思います。
因みに、明治35年のそれぞれの本籍人口(県統計)は
東志布志:11244人、西志布志:6099人、月野:2384人
だそうです。

[28605]
母方の祖母の実家は旧士族で、薩摩示現流の師範だったようです。
示現流と言えば東郷重位。島津家久(忠恒)の剣術指南役を務めた人物ですね。
ところで彼と渋谷氏を祖とし、後に東郷平八郎を生んだ東郷家とは無関係のようですね。


[28584] 猫使い さん
[28610] N-H さん
その気持ち、よく分かります。私も鹿児島出身ということで鹿児島産のものを贔屓してしまいますね。例えば「どっちの料理ショー」でも地元の食材が出てきたらそっちに傾きます。

##志布志村に2箇所ほど訂正
[28660] 2004年 5月 27日(木)01:29:23【2】作々 さん
志布志、そして明治期の鹿児島
[28653] 重ねてこの下に書きますが、まずはここで投稿
…と思っていたら、意外と長くなってきたので新規投稿に変更。

[28649] 月の輪熊 さん
分村前の「志布志村」は、「志布志町」を含む町村が合併しながら「町」ではなく「村」になったのですね。
志布志町(明治期)は江戸期には町畠村と呼ばれていたところで、廃藩置県の時に一時は帖村に併合されますが、明治12年に志布志町として分立しています。この町畠村、江戸期に志布志郷の繁栄とともに農村部(帖村)と分かれた部分らしいです。町村制施行以前の町というのがどういった感じで付けられたのかは知りませんが、恐らくは商業の町と農村といったイメージなのかと思われます。

ところで、町村制施行時に鹿児島県では町制を施行したところはありませんでした(因みに村数は115)。
これはどこかで読んだのですが(角川の日本地名大辞典だったかなぁ…)、当時の士族が町人(=町民?)になることを嫌ったからといったようなことが書いてありました。当時の町になるための要件は不勉強のため知りませんが(今と一緒で地域ごとに違ったのかしら?)、結局最初に町制を施行したのは1912(明治45)年の加治木町で、町村制施行から23年も経っています。

参考までに1902(明治35)年の鹿児島県の人口トップ10+加治木村。
この時点での加治木村の人口は県の16位だったりします。
鹿児島市57,802人現在の鹿児島市の中心部
谷山村28,018人1967年鹿児島市と合併。現鹿児島市谷山、上福元など
頴娃村23,690人現頴娃町。一部(大字十町、仙田)を開聞町として分離
東南方村22,709人現枕崎市
串木野村20,925人現串木野市
指宿村17,677人現指宿市(今和泉村と合併)
伊作村17,453人現吹上町(永吉村と合併)
伊敷村17,194人現鹿児島市伊敷、草牟田、小野など
阿久根村17,088人現阿久根市(下出水村(三笠町)と合併)
10知覧村16,743人現知覧町
16加治木村13,427人現加治木町
*参考値(5/27 9:30頃追記)
東志布志村11,244人
西志布志村6,099人
月野村2,384人
19,727人
[29376] 2004年 6月 16日(水)23:40:53作々 さん
でこん占い
こんばんは。

[29363] 淡水魚 さん
大根占って古代からあった地名のようですね。もっとも昔は大禰寝でしたけど。
古く禰寝院は大隅郡にあり、北俣、南俣に分かれ、北俣を大禰寝院、南俣を小禰寝院と称していたようです。ここで北俣は現在の鹿屋市南部に大根占、南俣は根占、佐多、田代にあたるようです。
江戸時代にもなると、北俣、南俣と呼ばれることはなくなり、禰寝は根占と表記するようになったようです。また、現在の大根占は大根占郷、根占は小根占郷または根占郷と称されるようになったようです。

大根占町のキャラクターは大根なのです。いいですね、ユニークで。
大根占は加工用大根の生産が盛んで、「だいこんジョギング大会」なんてのも開かれたようです。
http://www.toukei.maff.go.jp/shityoson/map2/46-01/486/agriculture.html
http://www.town.onejime.kagoshima.jp/onejime3/onejime02.htm

さて、大根占町の結論は25日にはでるようですが、どうなることやら。
田代町長:
「(前略)田代町が否定されるよりはありがたい」
2町で行くのか??
[29391] 2004年 6月 17日(木)01:33:47【2】作々 さん
喜入
給黎/喜入
[29382] Issie さん
「きいれ:喜入・給黎」という地名/名字も関東の人間にはなじみがなくて
給黎郡は『和名抄』によると、「岐比礼」と読み「給黎郷」の一郡一郷だったようですね。喜入町のHPによると、給黎郡創設は646年とあります。
「給黎」が今の「喜入」に改められたのは、島津久豊が対立していた伊集院頼久を追放した1414年と市のHPにはあります。その後1495年に島津忠国の7男忠弘が領主となって封ぜられたときに「喜入氏」を称していることから、15世紀であることは間違いないようです。
ところで、明治期には「給黎郡喜入村」と表記するようになっています。これは江戸時代(1664年)に幕命によって「喜入郡」から「給黎郡」に改められたためだとか。明治29年に給黎郡は廃され、喜入村は揖宿郡に編入されています。

さて、喜入氏は1593年には日吉郡永吉(現吹上町)に転封されます、その後喜入の地に入ってきたのが肝付氏ということになります。
それにしても苗字と地名が一致しないと、何か違和感がありますね。
まぁ肝付氏にしても、禰寝氏にしても、もしくは菱刈氏にしても元は戦っていたんですからね。勢力を抑えるには仕方ないのかな。


*[29388] Firo さん
今給黎数子さんではなく、今給黎教子(きょうこ)さんですよ。
鹿児島県日置郡吹上町生まれとのことで、喜入氏との繋がりがあるのかもしれませんね。

…と思ったら、今給黎氏は伊集院一族でした。
複雑だ…。
[30011] 2004年 7月 2日(金)22:03:02作々 さん
30000件記念~吾平と姶良~
お疲れ様です。
30000件達成おめでとうございます。
さて、今年10月12日の薩摩川内市から始まる市町村の合併によって、現在96ある鹿児島県内の市町村は約1/3にも減少することが予想されます。そんなわけで自治体が消えてしまう前に書けることは書いておきましょうと言うことで、30000回を記念して書かせていただきます(本当は偶々このタイミングで上がっただけ)。
テーマは「市区町村雑学」にもある、「姶良町」と「吾平町」について。

姶良町の名称の由来は姶良郡、吾平町は吾平山陵だそうです。
山陵とは、天皇・皇后の塚墓のことで、吾平山稜は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、御母君・玉依姫(タマヨリヒメノカミ)のものとされています。この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川、吾平町中心を北流し、肝属川に合流しています。
吾平町は町制施行前は姶良村でした。

古代、姶羅郡(文献によって吾平、姶良などもあり)は現吾平町近辺にあったと推定されています。713(和銅6)年の大隅国建国の際、贈於、大隅、姶羅、肝属の4郡(字には揺れがあります)が日向国から分離されたころのことです。後に桑原郡、菱刈郡が分離して大隅国は6郡となりますが、その6郡時代の10世紀に書かれた『和名抄』によると、そのころの姶羅郡には、野裏(現大崎?)、串伎(現串良)、鹿屋(現鹿屋中心部)、岐刀(現鹿屋市高隈?)の4郷が置かれていることが分かります。そして、姶臈(あいら)郷(吾平町)は姶羅郡ではなく大隅郡にあります。これらのことから、郡の移動があったことが推定されています。

現在の姶良郡ですが、この姶羅郡とはまったくの別物です。古代の姶羅郡は荘園の発達によって早々に消滅しています。

姶羅郡が復活するのは近世になってからのことです。桑原郡の帖佐(答西)郷が一郡として分離したことが始まりとされています。姶良郡は元は始羅(しら)郡と呼ばれていました。それが次第に「姶羅郡」と混同されるようになり、近代以降姶良郡に統一されたようです。「始」と「姶」、確かに字は似ています。ちょっと見ただけでは判別がつきませんね。何しろ今でも姶良郡を始良郡で間違えている例が多いですから。(試しに検索してみるととんでもない数ヒットします。)


さて、明治期町村制施行以降の「アイラ」自治体の変遷
1889(明治22)年
市制町村制施行。姶良郡内には加治木、重富、蒲生、山田、帖佐、溝邊の6村が誕生。
姶良郷の麓、上名、下名の3村が合併して姶良村が成立。
大姶良郷の大姶良、南、獅子目、西俣、野里、濱田、横山の7村が合併して大姶良村が成立。
1896(明治29)年
郡区画改正より桑原郡の横川、栗野、吉松、牧園、西襲山の5村、西囎唹郡の敷根、清水、東襲山、福山、国分、東国分、西国分の7村を姶良郡に編入。
1941(昭和16)年5月27日
大姶良村が花岡村と共に鹿屋町と合併し鹿屋市に。大姶良は大字となる。
1942(昭和17)年4月1日
姶良郡帖佐村に町制施行、帖佐町に。
1947(昭和22)年10月15日
姶良村が町制施行と同時に吾平町と名称変更。
1955(昭和30)年1月1日
帖佐町、重富村、山田村の一部が合併して姶良町となる。

そして、2005年には霧島市と錦江市の誕生により、姶良郡は湧水町(吉松、栗野)のみとなる可能性があります(今溝辺町が揺れていますけど)。
[30135] 2004年 7月 5日(月)00:58:59【1】作々 さん
蒲生
[30127] 般若堂そんぴん さん
「蒲」の標準和名はガマです.(中略)ガマも,昔は「カマ」と発音されていたのかも知れませんね.
[30134] Issie さん
岩波の古語辞典を見てみたら,「かま」という見出しで出ていました。
万葉仮名での表記例に「加麻」というものがあるそうなので,やはり「かま」だったのでしょうね。
戦国時代に名将・蒲生氏郷を生んだ蒲生氏やその出身である近江の蒲生郡蒲生町などは濁って「がもう」ですね。それに対して鹿児島の蒲生町は濁らずに「かもう」です。近江のほうは手元に資料などがなくてちょっと分かりませんが、鹿児島の「蒲生」の所見は日本後記の「蒲生駅」のようです。その後12世紀ごろその地に入った「蒲生氏」も「かもう」であることから、少なくともそのころは濁らずに呼んでいたのかなと思います。
鹿児島の地名は(先頭ではありませんが)濁音が難しい地名が山川町、鶴田町など少なくないですね。

*誤字訂正。
[30682] 2004年 7月 18日(日)12:20:10作々 さん
そうめん流し
こんにちは。
本当に暑い毎日が続いております。
こんな日には、そうめん流しを食べに行きたいと思うのは、鹿児島県民たる所以でしょうか。

そうめん流し。これがどれほど有名なものなのか、調査したこともないので分かりませんが、鹿児島で言うそれは竹の上を流すそれとは違います。鹿児島で「そうめん流し」と言えば、かのタモリ氏が「あれはそうめん流しでなくてそうめん回しだ」と言っていたような回転式(円卓式)のもののことを指します。
この回転式のそうめん流し器を作ったのが、当時開聞町助役でのちに町長になった井上廣則氏。
それまでは全国と同じように竹を使ったものを用いていたようですが、1960年代初頭、回転式そうめん流し器が完成。この発明により町は大きく変わることになります。

それまで開聞岳と池田湖しか無かったと言っても過言ではないかもしれない開聞町は、この回転式そうめん流し器と、後に「水の里百選」にも選ばれた1日10万トンもあるという水温13度の湧き水をもとにした「そうめん流し」が大ヒット、「唐船峡」のそうめん流しは年に30万人訪れる一大名物となりました。
因みにこの回転式そうめん流し器の特許は井上氏から開聞町に委譲されています。

最後に唐船峡の名前ですが、
昔この地方が奥深い入り江にあった時代に、唐の船が出入りしていたということから土地の字名唐船ケ迫にちなんで
名付けられたそうです。

そう言えば、竹の上を流した経験はないなぁ…。

↓涼しそうなそうめん流しの絵
http://www.coara.or.jp/~sugi/sugi-y/yuboku/tousenkyou/new_page_1.htm
[30941] 2004年 7月 23日(金)23:24:48【1】作々 さん
枕崎・知覧
約1ヶ月前(6月22日)に書き始めたこの文章が表にでる日が漸くやってきました。

枕崎市と知覧町の合併後新市名称募集の詳細が出ましたが(拙稿[30937])、ここで困ったことが。それは枕崎、知覧をそのまま使ってはならない(名称の一部ならば可)とされている点です。もし、隣りの川辺地区が「川辺市」とかにでもしていれば、「南薩市」とか「薩南市」も可能だったでしょうが(本当はこういう名は嫌ですけど)、「南さつま市」が決まっているだけにそれも適いそうにありません。
しかしそうなると、どう名付けましょうか。いくら川辺郡だからといって川辺町抜きで「川辺市」は違和感ありますし、まったく別名にするにも両市町の個性が強すぎてどうもなぁ…って感じがします。
そういうわけでいつものように両市町の変遷を調べてみました。

<枕崎市>
中世以降、現在の枕崎は鹿籠(かご)と呼ばれていました。戦国時代に喜入季久が移住の後、明治維新まで約300年間は喜入氏の私有地となります。

1869(明治2)年
別府村が(河辺郡)鹿篭村から分村
1881(明治14)年
鹿籠村が東鹿籠、西鹿籠、枕崎の3村に分裂
1889(明治22)年
東鹿籠、西鹿籠、枕崎、別府の4村が合併し、東南方村が成立(因みに、南方とは属していた郷名に由来)
1918(大正7)年
村役場が東鹿籠から枕崎に移転
1923(大正12)年
町制施行と同時に枕崎町に改称
1949(昭和24)年
市制施行、枕崎市に

<知覧町>
知覧の名は鎌倉初期の資料に初めて見えるようです(知覧院)。知覧の地は室町時代以来(一時期転封されますが)幕末まで、佐多島津家(18世紀に島津姓を賜る)の支配にありました。

1882(明治15)年
西別府村が(給黎郡)知覧郷から分村し、西元村と塩屋村が成立
1883(明治16)年
東別府村が分村、その南部は南別府村となる
1889(明治22)年
旧知覧郷の厚地、郡、西元、塩屋、永里、瀬世、東別府、南別府の8村が合併し、知覧村となる
1896(明治29)年
川辺郡に所属
1932(昭和7)年
町制施行、知覧町に

このように、知覧は鎌倉時代からある由緒ある地名です。それに対して枕崎はどうでしょうか。
「枕崎」の所見を調べていたんですが、今のところ一番古いのが1767年の資料に出てくるのが分かりました。地名の由来は、その昔、浦の岩瀬に枕箱に入った御神体が漂着したのを住民が発見、近くの森に堂宇を建てて安置したことから、だそうです。
枕崎の名称が本格的に表舞台に出てくるのは、明治時代にカツオ漁の発展とともに経済の中心が枕崎(現在の市街地のほう)に移り、村役場が移転したころからです。

枕崎はいわずと知れたカツオ(節)の街。
知覧は、小京都(武家屋敷)、特攻、茶で知られています。

どちらも個性があり、個人的には両方ともに「残しておきたい」感は強かったりします。知名度は知覧の方があるのかなぁ。そんななかで今のところの私の中での第1候補は、無理やり組み合わせた「知覧崎市」。
…と思ったけど、これはダメなのかしら(翌日追記)。
でももっといい名前がありそうな気もします。勝手に今回はいっちゃんさんのご意見にも期待してます。

#気が付けばこれが201件目でした。
[31024] 2004年 7月 25日(日)19:20:32作々 さん
桜島
[31016] 両毛人 さん
桜島って、希少山名でよいのでしょうか。

姶良カルデラの中央火山丘として、いくつかの火山を含む複合火山である。主なものに北岳・中岳・南岳があり、今活動しているのは南岳である。
(引用:山川出版社『鹿児島県の歴史散歩』)
鹿児島湾北部に位置し、中央部に北岳(御岳)、中岳、南岳の火口を持つ円錐状の火山が連なった火山島。
(引用:角川日本地名大辞典46鹿児島)

桜島は大正3年の、火山灰が偏西風に乗って遠くはカムチャッカ半島まで届いたとさえ言われる大噴火によって、溶岩が幅360メートルの瀬戸海峡を埋め大隅半島と陸続きになりました。このときの大噴火の凄さを今に伝えるものとしては、黒神埋没鳥居(腹五社神社)も有名です。

ところで桜島は古くは向島と呼ばれていたようです。由来には鹿児島の向かいに位置しているから、四方から望める位置にあるから、などあるようです。正式名称が桜島に変更されたのは元禄11(1698)年12月24日、島津第21代綱貴のときだそうです。
こちらの由来には大隅守「桜島忠信」の名からとったという説、五社大名神社の祭神「木花佐久夜姫」の由来し、咲夜島→桜島と転化したという説など諸説あるようです。

因みに桜島のローソンは茶色、なんてことも書いてみたりして。

結局のところ、「島」と付くくらいなので元々は島の名前で、それが複合火山としての名前としても使われるようになったのかなと思います。


#[31021] オーナー グリグリ さん
テキストリンク機能
早速使ってみました。

[31019] 両毛人 さん
シリーズ・地域の地理雑学-鹿児島県編-
大変嬉しく思うとともに、責任を感じてしまいます。
今後も鹿児島の素晴らしさを伝えていければと思いますので、よろしくお願いいたします。
[31459] 2004年 8月 6日(金)12:10:56【1】作々 さん
知覧の郡移動、郷について
現在名称募集中の枕崎市・知覧町。
その知覧町の歴史を調べていて興味深いなと思ったのが知覧の郡移動でした。

その昔「和名抄」のころはまだ「知覧」の呼び名はありませんでしたが、今の知覧の位置にあったのであろうと推測されている「川上郷」は河辺郡にありました。その後、川上郷は知覧院として河辺郡から独立します。
江戸時代に入り、島津家は中世以後の伝統に倣う形で薩摩国を14郡とし、知覧を独立した郡として編成していましたが、これに江戸幕府が待ったをかけます。つまり寛永4(1664)年、幕府に提出した郡名の記載について、「和名抄」にはそのような郡は出てこず、薩摩は13郡(*)だとして訂正を求められたらしいのです。結局これに従い知覧郡は廃止、隣の喜入郡と合併して「給黎郡(←こちらも古来の表記に改めています)知覧郷」となることになりました。
この体制は明治に入って明治29年の郡区画改正で川辺郡に移動するまで続くことになります。


ところでこれまで鹿児島の古い地名を挙げるときに何となしに使ってきた江戸時代の「志布志郷」[28660] や「知覧郷」[30941] などの「郷」についても一度書いておこうと思います。
ここで言う「郷」とはかつては「外城」と呼ばれていたものです。
中世、島津家は領内各地に防衛拠点として「外城」を置き、そこに内政上の一機能を持たせました。その後江戸時代、幕府の「一国一条令」により城は全廃されることになりますが、「外城」という名称とともにその政治的機能は残されることとなります。外城は薩摩に51、大隅に42、日向の諸県郡に20の計113あったそうです。
各外城の中心には麓と呼ばれる武士の集落があり、その中にはには地頭仮屋と呼ばれる役所が置かれましたが、この「麓」のなかには地名として今でも残っているところもあります(出水市麓町加世田市麓町溝辺町麓など)。
「外城」から「郷」への改称があったのは天明4(1784)年のことだそうです。


最後に、これは地理的な理由もあるかとは思いますが、知覧には明治12年から29年にかけて給黎、揖宿、川辺、頴娃の4郡を統括する郡役所が置かれていたそうです(明治14年から20年は阿多郡も統括)。当時は薩摩半島南部の中心だったんだなぁと実感。

私、「知覧」っていう響きが凄く好きだったりします。

*13郡:「和名抄」に出てくるのは鹿児島、谿山、揖宿、頴娃、給黎、河辺、阿多、日置、出水、高城、薩摩、甑島、伊作(いさく)。
但し、中世にもなると伊作郡は無くなり、それにかわって伊佐郡が登場します。
[32574] 2004年 9月 5日(日)22:27:20作々 さん
南風~種子島~
お疲れ様です。

でるでるさんの合併情報でも既報のとおり、種子島二町合併協議会では、9月6日から11月1日まで2ヶ月弱に渡って合併後新町名称の募集が始まります。

応募形式は公募で、特に制限は設けないということです。主な募集要項は、
・一人1件につき1点、何点でも応募可能
・漢字(かな付き)、ひらがな、カタカナ
・既存の町名は使用しない
となっております。

というわけで、今回も種子島について調べてみました。

種子島は古くは「多○嶋(多禰嶋)」と書いたようで、日本書紀がその所見のようです。当時は現在の種子島や屋久島などを総称するものとして用いられ、800年代に「朝貢が少ない」ことを理由に大隅国に編入されるまで「多○国」は国に准ずる扱いを受けていたようです。
*多○→多<衣偏+執>

さて、中種子町、南種子町ともにその名称は1989(明治22)年の市制町村制施行(明治の大合併)時にそれぞれその地理的位置から付けられたものです。
因みに今回の合併には絡みませんが、西之表市も町村制導入時には北種子村を名乗っていましたが、1926(大正15)年の町制施行時に「西之表町」となり、その後1958(昭和33)年に市制を施行しています。この「西之表」はかつては島主(領主)であった種子島氏の本城のあったところ(当時は赤尾木と呼ばれたらしい)で、村役場や熊毛郡役場も置かれた中心地でした。地名の由来としては、
学問・技芸などあらゆる文化、文明を受け入れる「西の表玄関」として安政年間から
称されるようになったとのことです(参考:ワーキング・ホリディin種子島HP)。
一足早く町制を施行することになった北種子村(当時)は、「北種子村」は種子島を3分する意の名称で、対称関係を離れた一町の名称としては相応しくない、として、新たにその中心地であった西之表から取って町名としたそうです。

さて、種子島と言えば、鉄砲伝来の地(門倉崎)であり、ロケット基地ですが、やはり自治体の名称としては「?」ですね。
普通にいけば、島の名前を取っての「種子島町」や「種子町」なんでしょうか。
熊毛も無くはないか。採用はされないでしょうけど。
[33098] 2004年 9月 20日(月)02:43:04作々 さん
長島
お疲れ様です。

9月20日より、今度こそ長島地区合併協議会の新町名称募集が始まります。
ほぼ1島1町なのでさほど書くこともないかなとも思いましたが、一応調べてみました。
長島は長島本島と諸浦島、伊唐島、獅子島、などの島々で構成されています。「長島」の由来は、郷土史によると、肥後と薩摩の中間に位置する中島ということからではないか、とされているようです。
その長島で特筆すべきことは、その昔長島は肥後国天草郡に続していた(肥の国仲島)と言うことでしょうか。それが変わるのは中世のことです。

時は戦国時代。長島は長島氏が城(堂崎城)を構え支配していましたが、天文23(1554)年、当時肥後国を治めていた相良氏の弾圧を受け、城主・長島鎮真は薩摩国和泉に逃亡。その後、長島の地には天草越前守が入りました。
しかし、永禄8(1565)年、当時野田城主だった島津忠兼が長島を攻略、これ以降は島津領となります。(このへんの詳細については、長島町のHPの歴史のページにも載っております。)その後一時的に出水などとともに秀吉の蔵入地となりますが、慶長4(1599)年からは正式に鹿児島藩の支配に置かれることとなります。長島は薩摩国和泉(出水)郡に属するようになったようです。いつから薩摩国になったかは分かりませんが、少なくとも文禄年間(1592~96)の資料には薩摩国の長島として登場しているようです。

さて、東町は町制施行前は東長島村、同様に長島町は西長島村という名称でした。やっぱりすんなり新町名称は決まりそうな気はしますがね…。
[33713] 2004年 10月 3日(日)22:29:35作々 さん
さよなら市町村 1~薩摩郡鹿島村~
10月12日の薩摩川内市の誕生から鹿児島県でも本格的に平成の市町村合併が始まります。
ここではこれから消えていく自治体を記憶に留めるべく、書き記していきたいと思います。

薩摩郡鹿島村(46391)

甑島列島の中央部、下甑島の北部に位置するこの村は1949(昭和24)年、下甑村から大字藺牟田が分離して誕生しました。
村名の由来は、村内にある「鹿島神社」。

村の西部に位置する「鹿島断崖」は、奇岩・大岩が点在する景勝地であるほか、ウミネコの繁殖南限地でもある景勝地です。
村では手打網やキビナゴ漁を主とする漁業が盛んで村の主産業となっています。
また、村制施行以来の交通死亡事故ゼロの日本一記録を継続中です(10月11日までで20284日)。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡鹿島村藺牟田は薩摩川内市鹿島町藺牟田となります。

村の花:シロカノコユリ、村の木:ツバキ、村の鳥:ウミネコ
2004年9月1日現在の人口: 816人
[33785] 2004年 10月 4日(月)23:13:43【1】作々 さん
さよなら市町村 2~薩摩郡祁答院町~
薩摩郡祁答院町(46387)

1955(昭和30)年に黒木村、大村、藺牟田村の3村が合併して成立しました。
町名は公募により決定。この地域がかつて属していた江戸時代の広域地名「祁答院」からとったものです。この地名の由来には、紫尾山麓の紫尾山祈祷院神興寺の「祈祷院」からと言う説と鎌倉時代の「建久図田帳」の火同丸(けどうまる)からという説があります。

町の南西部にある「藺牟田池」のまわりには流水プールやサイクリングコース、町営のそうめん流し「竜仙館」などのレジャー施設があるほか、マラソンや花火大会などのイベントも行われる県民の憩いの場として賑わいを見せています。
町は稲作のほかイチゴやブドウの栽培、また肉牛の養育も盛んなところです。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡祁答院町○×は薩摩川内市祁答院町○×となります。

町の花:アジサイ、町の木:ウメ
2004年9月1日現在の人口:4,453人
[33833] 2004年 10月 5日(火)23:36:38【1】作々 さん
さよなら市町村 3~薩摩郡入来町~
薩摩郡入来町(46382)

入来町は1948(昭和23)年に入来村が町制を施行して成立しました。
町名の「入来」は平安時代からある地名で、「(税物が)入り来たる」というところに由来していると言われています。

町中央部に位置する麓地区の武家屋敷は、中世からの古い町並みが見られる観光の名所です。また、町内にはパラグライダー施設や町の名産であるキンカンに因んだ「きんかんの里」などのレジャー施設もあります。
産業面では、キンカンのほかにも茶や水稲の栽培、肉牛やブロイダーの飼育が盛んです。
また、入来町には「君が代」発祥の地とする説もあります。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡入来町○×は薩摩川内市入来町○×となります。

町の花:ヒマワリ、町の木:イヌノキ、イメージキャラクター(マスコット):金柑ぼうや
2004年9月1日現在の人口:6,206人
[33876] 2004年 10月 6日(水)23:37:54作々 さん
さよなら市町村 4~薩摩郡下甑村~
薩摩郡下甑村(46390)

甑島の南部に位置する下甑島は、1889(明治22)年の町村制施行時に6ヵ村が合併して成立しました。
「甑」は、串瀬戸はヘタノ串にある甑大明神(上甑村)を祭る巨岩が甑(セイロ)の形に似ていたことに由来します。

村には武家屋敷やキリシタン殉教地の記念碑などの歴史的名所が各地に見られるほか、スクーバダイビング、マリンスポーツなどのポイントも数多くあり、遊覧船「おとひめ」では観光や海釣りを楽しむこともできます。このほか、初夏になるとウミガメの産卵も見られます。
また、下甑村は漫画「Dr.コトー」の舞台でもあります。
村の主産業はキビナゴ漁を主とする漁業で、そのほかにも水産加工業も盛んです。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡下甑村○×は薩摩川内市下甑町○×となります。

村の花:カノコユリ、村の木:ツバキ、村の鳥:メジロ
2004年9月1日現在の人口:2,675人
[33917] 2004年 10月 7日(木)23:41:08作々 さん
さよなら市町村 5~薩摩郡東郷町~
薩摩郡東郷町(46383)

東郷町は、1952(昭和27)年に上東郷村を東郷村と改称し、即日町制施行して成立しました。
東郷の由来には、古代の「詑万郷」を2分した際に、西部を高城郡、東部を東郷郡としたと言う説や、昔川内川は入り江で、その東部(東江)というところからきていると言う説があります。

ブドウ狩り、イチゴ狩り、ミカン狩りなどの観光農園が町内各所に数多くあり賑わいを見せているほか、秋になると川内川で味わうことのできる「鮎づくし」も人気を集めています。また、ガラス工芸や陶芸を楽しめるスポットもあります。
町の主産業は川内川支流の豊かな水を利用したフルーツの栽培です。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡東郷町○×は薩摩川内市東郷町○×となります。

町の花:コウバイ、町の木:クロガネモチ、イメージキャラクター(マスコット):うめマル、梅香
2004年9月1日現在の人口:5,972人
[33967] 2004年 10月 9日(土)00:09:32作々 さん
さよなら市町村 6~薩摩郡上甑村~
薩摩郡上甑村(46389)

上甑島と中甑島に跨るように存在する上甑村は、1889(明治22)年の町村制施行時に8ヵ村が合併して成立しました。
島名、村名の「甑」については、[33876] (下甑村)を参照。

村の北東部には約4キロに渡る「長目の浜」と呼ばれる景勝地があり、海跡湖を形成しています。このほかにも、なまこ池や貝池、甑島の名の由来となった「甑大明神」などの観光スポットるほか、遊覧船「かのこ」によるクルージングも楽しめます。
村ではアジ、キビナゴなどを中心とした漁のほか、真珠の養殖も行われています。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡上甑村○×は薩摩川内市上甑町○×となります。

村の花:カノコユリ、村の木:ツバキ、村の鳥:メジロ
2004年9月1日現在の人口:1,821人
[34016] 2004年 10月 9日(土)23:17:56作々 さん
さよなら市町村 7~薩摩郡里村~
薩摩郡里村(46388)

上甑島北東部に位置する里村は、1891(明治24)年に上甑村から大字里が分離独立して成立しました。
里村としては江戸期の「薩藩政要録」が初見です。

北部にはトンボロ(陸繋砂洲)と呼ばれる特殊な地形があり、 2つの島を結ぶ、長さ1.5キロ、幅250~1000メートル、海抜2.3メートルの砂洲の上には集落が広がっています。
村ではダイビングや釣りのほか、船底から海中の風景を楽しむことができる半潜水型の水中展望船「きんしゅう」の運航など、その美しい海を生かしたレジャーが盛んです。
産業面では、早期二期作の稲作のほか、刺網や一本釣り、養殖などの漁業が盛んです。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡里村里は薩摩川内市里町里となります。

村の花:カノコユリ、村の木:ツバキ、村の鳥:メジロ
2004年9月1日現在の人口:1,458人
[34052] 2004年 10月 10日(日)22:38:26【1】作々 さん
さよなら市町村 8~薩摩郡樋脇町~
薩摩郡樋脇町(46381)

樋脇町は、1940(昭和15)年に樋脇村が町制を施行して成立しました。
町名は中世の樋脇城に由来しています。

町内には江戸中期からあるという良質の温泉・市比野温泉があります。また、町はホッケーを推進しており、九州で初の日本ホッケー協会公認のホッケー専用のコートもあります。
町は稲作のほかイチゴや茶の生産が盛んで、また肉牛、養豚を中心とした畜産も盛んです。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの薩摩郡樋脇町○×は薩摩川内市樋脇町○×となります。

町の花:コスモス、町の木:ツバキ
2004年9月1日現在の人口:7,739人
[34080] 2004年 10月 11日(月)18:56:21作々 さん
さよなら市町村 9~川内市~
川内市(46202)

川内市は1940(昭和15)年に川内町が市制を施行して成立しました。
川内は昔は「千台」と表記されていました。これは天照大神の孫であるニニギノミコトが、同所に千の台を重ねて宮城を構えたことに由来するとされています。江戸期以降には現在の「川内」の表記となりますが、これは川内川と高城川の内側にあるということに由来すると言われています。

九州新幹線の部分開業に合わせた川内駅周辺のほか、臨海部では原子力発電所川内港の整備も進んでいます。
観光面では、かつて国府が置かれていた川内には国分寺跡史跡公園新田神社などの歴史スポットのほか、名湯100選にも選ばれている川内高城温泉などもあります。
毎年8月16日に行われる県内最大規模の「川内川花火大会」と、9月22日に行われる、長さ365メートル、直径35センチ、重さ5トンの大綱を引っ張り合う川内大綱引は市のビッグイベントです。

2004年10月12日からは薩摩川内市となり、これまでの川内市○×は現行どおり薩摩川内市○×となります。

市の花:キンモクセイ、市の木:クロガネモチ、市のイメージキャラクター(マスコット):せんちゃん
2004年9月1日現在の人口:73,078人

薩摩川内市の章 (了)
[34553] 2004年 10月 27日(水)23:59:03作々 さん
さよなら市町村 10~揖宿郡喜入町~
さよなら市町村・第2弾は、11月1日に1市5町が合併して誕生する新・鹿児島市編です。

揖宿郡喜入町(46321)

喜入町は1961(昭和31)年に喜入村が町制を施行して成立しました。
町名の喜入は中世以来の郷名に由来しています。古くは薩摩国13郡の1つに「給黎郡」が存在し、「岐比礼(きひれ)」と訓じられていました(和名抄)。その後1414年に島津久豊がこの地を領有していた伊集院氏を破った際に、戦勝を祝して「喜入」と改めています。

海岸沿いにある県内第1号の道の駅喜入には天然温泉やスライダー付きの室内温水プールがあり、錦江湾越しに桜島が見えるというロケーションもあり、多くの利用者で賑わっています。町南部の生見海水浴場はキャンプのできる海水浴場として家族連れにも人気です。
平野部が少なく、シラス台地が広がるという恵まれない土地条件ながら、温暖な気候を利用した促成栽培や畜産に力を入れています。
海岸沿いに並ぶ石油基地は町の重要な財源となっています。

2004年11月1日からは鹿児島市となり、これまでの揖宿郡喜入町○×は鹿児島市喜入○×町(但し喜入町喜入は鹿児島市喜入町)となります。

町の木:メアサスギ、町の花:ツワブキ
2004年9月1日現在の人口:12,526人
[34573] 2004年 10月 28日(木)23:48:16【1】作々 さん
さよなら市町村 11~鹿児島郡桜島町~
鹿児島郡桜島町(46302)

桜島町は1973(昭和48)年に西桜島村が町制を施行した際に、同時に改称して成立しました。
「桜島」の由来については拙稿[31024]をご参照ください。

日本有数の活火山「桜島」は、霧島屋久国立公園や海中公園に指定されてる県を代表する景勝地です。桜島フェリー発着所からすぐの西へ広がる大正溶岩地帯には約3kmのなぎさ遊歩道が整備されています。
世界最大の桜島大根や日本最小の桜島小ミカンは町の名産として有名です。また、カンパチやブリの養殖など水産業も盛んです。

2004年11月1日からは鹿児島市となり、これまでの鹿児島郡桜島町○×は鹿児島市桜島○×町となります。

町の木:アコウ、町の花:サクラ、町のイメージキャラクター:マグマ21
2004年10月1日現在の人口:4,482人
[34596] 2004年 10月 29日(金)23:37:57作々 さん
さよなら市町村 12~日置郡松元町~
日置郡松元町(46364)

松元町は1960(昭和35)年に上伊集院村を松元村と改称し、即日町制施行して成立しました。
町名は、かつての役場の位置が上谷口の小字松元にあったことや 1954(昭和29)年に新設された駅の名が薩摩松元駅だったことに由来しています。

町は南九州西回り自動車道で松元ICから5分、JRでも鹿児島中央駅まで10分前後という鹿児島市内への交通の利便性から宅地化が進み、県内でも有数の人口増加地域となっています。
歴史のある茶の産地で、昔ながらの手もみ茶ができる町として知られています。
また、卓球の町を宣言するほど卓球が盛んで、様々な大会も開かれています。

2004年11月1日からは鹿児島市となり、これまでの日置郡松元町○×は鹿児島市○×町となります。

町の木:イヌマキ、町の花:キク、町の花木:ツツジ
2004年10月1日現在の人口:12,505人
[34621] 2004年 10月 30日(土)23:27:07作々 さん
さよなら市町村 13~日置郡郡山町~
日置郡郡山町(46365)

郡山町は1956(昭和31)年に郡山村に下伊集院村の一部を編入し、町制を施行して成立しました。
町名は古代からの地名で、かつて日置郡の郡衙が置かれていたことに由来すると言われています。

平野部の少ない土地柄ながら、その自然を生かして、町北部の八重山近辺にはアスレチック施設のある八重山公園やキャンプ場が整備されています。また、恵まれた温泉資源を生かした温泉複合施設「スパランド裸・楽・良」も町の名物です。
産業面では、町の特産物レイシ(にがうり)の栽培のほか、稲作や園芸作物の栽培、畜産業も盛んです。

2004年11月1日からは鹿児島市となり、これまでの日置郡郡山町○×は鹿児島市○×町(但し郡山嶽は鹿児島市郡山岳町、厚地は花尾町)となります。

町の木:イヌマキ、町の花:カンナ
2004年10月1日現在の人口:8,325人
[34658] 2004年 10月 31日(日)23:03:58作々 さん
さよなら市町村 14~鹿児島郡吉田町~
鹿児島郡吉田町(46301)

吉田町は1972(昭和47)年に吉田村が町制を施行して成立しました。
町名は中世の吉田郷に由来しています。

鹿児島市街と空港からそれぞれ30分という立地の良さから企業の進出が増え、鹿児島市のベッドタウンとしての機能もあり、人口も増加傾向にあります。
町内には総合教育センター青少年研修センター自治研修センターといった県の教育関連機関があり、「教育の町」を推進しています。
都市近郊的農業が盛んで、軟弱野菜の栽培が行われています。中でもレイシ(にがうり)は町の特産として、県内外に出荷されています。

2004年11月1日からは鹿児島市となり、これまでの鹿児島郡吉田町牟礼岡×丁目は鹿児島市牟礼岡×丁目に、
鹿児島郡吉田町○×は鹿児島市○×町(但し東/西佐多浦は東/西佐多町)となります。

町の花木:キンモクセイ、町のイメージキャラクター:よしだスタチャン
2004年10月1日現在の人口:11,776人

新・鹿児島市の章 (了)
[38629] 2005年 3月 16日(水)00:00:07【1】作々 さん
さよなら市町村 15~薩摩郡宮之城町~
さよなら市町村・第3弾は、3月22日に3町が合併して誕生するさつま町編です。

薩摩郡宮之城町(46384)

宮之城町は1955(昭和30)年に(旧)宮之城町が山崎町と合併して成立しました。
町名の宮之城は、1595年に北郷時久が赴任してきたときに出身の都城に因んで名付けたものと長い間考えられていましたが、 最近ではそれ以前の書状にも使われていたことが分かっています。

江戸時代には島津家の分家、宮之城島津家が統治した場所で、宗功寺公園などの文化財があります。
町北西部、出水市との境に聳える紫尾山は、好天の時には東に霧島連山、西に東シナ海、 南に桜島、開聞岳、西には甑島、天草諸島、雲仙など、360度雄大な景色を楽しむことができます。
また、宮之城ちくりん館宮之城伝統工芸センターなど豊富な竹林に因んだ施設もあります。
昔から養蚕の盛んなところでしたが、最近は稲作のほか、ミカンやイチゴ、トマトの栽培が盛んです。

2005年3月22日からはさつま町となり、これまでの薩摩郡宮之城町○×は薩摩郡さつま町○× (但し宮之城町屋地はさつま町宮之城屋地)となります。

町の木:イヌマキ、町の花:サツマカンラン、町のイメージキャラクター:チクリンぼうや
2005年2月1日現在の人口:17,094人
[38655] 2005年 3月 16日(水)23:52:55作々 さん
さよなら市町村 16~薩摩郡鶴田町~
薩摩郡鶴田町(46385)

鶴田町は1963(昭和38)年に鶴田村が町制を施行して成立しました。
町名は中世以来の鶴田郷からきています。 その由来には、水流(湿地)が多かったから名付けられたという説や、 その昔鶴がよく飛来していたことから名付けられたという説があるようです。

町北東部には、西日本最大級の多目的ダムの鶴田ダムがあります。 ダム湖(大鶴湖)がヘラブナやアユなど魚の宝庫であるほか、 左岸高台にあるダム公園は桜の名所と知られており、提灯によってライトアップされた夜桜を楽しむことができます。
町北西部の紫尾神社は毎年初詣に一万人を超える参詣者で賑わいます。 また、その拝殿の下から湧き出る紫尾温泉は別名「神の湯」とも呼ばれています。
古くから産業の主体は農業で、水稲のほか、葉タバコやイチゴの栽培が盛んです。

2005年3月22日からはさつま町となり、これまでの薩摩郡鶴田町○×は薩摩郡さつま町○×となります。

町の木:シイ、町の花:アジサイ、町のイメージキャラクター:つるちゃん
2005年2月1日現在の人口:4,755人
[38681] 2005年 3月 17日(木)23:41:16作々 さん
さよなら市町村 17~薩摩郡薩摩町~
薩摩郡薩摩町(46386)

薩摩町は1954(昭和29)年に求名村、永野村、中津川村が合併して成立しました。
町名は薩摩国、薩摩郡に由来しています。

町中央部にある観音滝公園は、グラウンドゴルフやキャンプ、ガラス工芸やそば打ちの体験のほか、 桜や紅葉などの景観も楽しめるレジャー施設です。 公園内には観音寺温泉もあり、様々な種類の温泉を楽しむことができます。
町は1990(平成2)年より梅の里づくりを進め、南高梅の栽培面積は九州一を誇っています。
このほかにも水稲、葉タバコ、茶、園芸作物などの栽培が盛んです。

2005年3月22日からはさつま町となり、これまでの薩摩郡薩摩町○×は薩摩郡さつま町○×となります。

町の木:モミジ、町の花:コスモス、町の竹:孟宗竹
2005年2月1日現在の人口:4,266人

さつま町の章 (了)
[38717] 2005年 3月 18日(金)23:41:54作々 さん
さよなら市町村 18~姶良郡栗野町~
さよなら市町村・第4弾は、3月22日に2町が合併して誕生する湧水町編です。

姶良郡栗野町(46446)

栗野町は1932(昭和7)年に栗野村が町制を施行して成立しました。
町名は中世以来の栗野郷、栗野院からきています。 一説には霧島山(木患触*1峰<クルフシミネ>)の麓を意味する木患触*1野<クシノ>に由来するとされています。

町中央部にある丸池は日本の名水百選の一つで、1日に3トンもの霧島山麓の澄んだ水が湧き出し、 春には桜、夏には蛍を楽しむことができます。
町東部には霧島アートの森(野外美術館)があり、豊かな自然の中で世界の芸術に触れることができます。
古くから稲作が盛んで、日本棚田百選の一つでもある国見岳麓の幸田地区の棚田では、現在でも有機農法による棚田米が作られています。またほかにも果樹栽培や、山麓部での酪農も盛んです。

2005年3月22日からは湧水町となり、これまでの姶良郡栗野町○×は姶良郡湧水町○×となります。

*1:木患=木偏+患

町の木:ケヤキ、町の花:ノハナショウブ、町のイメージキャラクター:栗太郎
2005年2月1日現在の人口:7,897人
[38747] 2005年 3月 19日(土)23:53:05作々 さん
さよなら市町村 19~姶良郡吉松町~
姶良郡吉松町(46447)

吉松町は1953(昭和28)年に吉松村が町制を施行して成立しました。
かつて筒羽野(つつはの)と呼ばれていたこの地は、16世紀に島津義弘によって吉松に改名されたと言われています。

竹中池公園は、恵まれた湧水を利用したそうめん流しと町営プールがあり、特に夏場は賑わっています。
町には魚野、上床といったパラグライダーのポイントがあり、町主催のイベント「スカイフェスタ“よしまつ”」も開かれています。
栗野岳中腹の雑木林に自生しているヒガンザクラは、日本における自生南限地として、国の天然記念物にも指定されています。
肥沃な水田を利用した稲作や広大な原野に根ざした畜産が盛んであるほか、トマトやキウイフルーツの栽培も行われています。

2005年3月22日からは湧水町となり、これまでの姶良郡栗野町○×は姶良郡湧水町○×となります。

町の木:ウメ
2005年2月1日現在の人口:4,775人

湧水町の章 (了)
[38770] 2005年 3月 20日(日)23:34:29作々 さん
さよなら市町村 20~肝属郡大根占町~
さよなら市町村・第5は、3月22日に2町が合併して誕生する錦江町編です。

肝属郡大根占町(46486)

大根占町は1933(昭和8)年に大根占村が町制を施行して成立しました。
町名は中世の大禰占院に由来しています。

町のほぼ中央に位置する神川大滝公園は、神川七滝の雄とも呼ばれる幅25m、高さ35mの神ノ川大滝をはじめとして、 ソーメン流しやバーベキュー(期間限定)も楽しめる「大滝の茶屋」、バードウォッチングも楽しめる「野鳥の森」があります。 また、高さ68m、全長130mの吊り橋、大滝橋からの滝の風景もすばらしく、夜間は22時までライトアップされます。
錦江湾沿いの町営温泉「トロピカルガーデンかみかわ」は、好天時には錦江湾越しの開聞岳や佐多岬も眺望できます。
町の主産業は農業で、キヌサヤエンドウなどの施設園芸のほかハウスインゲンやばれいしょの栽培が行われています。

2005年3月22日からは錦江町となり、これまでの肝属郡大根占町○×は肝属郡錦江町○×となります。

町の木:クスノキ、町の花:ツツジ
2005年2月1日現在の人口:7,203人
[38796] 2005年 3月 21日(月)17:09:34作々 さん
さよなら市町村 21~肝属郡田代町~
肝属郡田代町(46488)

田代町は1961(昭和36)年に田代村が町制を施行して成立しました。
町名は中世の郷名に由来しています。

1977年に県立自然公園の指定を受けた花瀬は、公園内の花瀬川の川床が約2キロに渡る千畳敷の石畳で敷かれ、 水の花を思わせ美しいところです。春は桜やフジの花の名所としても知られています。 この花瀬には、キャンプ場やバンガロー村などもあり、特に夏場は賑わいます。
茶の名産地であるほか、肉用牛、豚、ブロイラーといった畜産も盛んです。

2005年3月22日からは錦江町となり、これまでの肝属郡田代町○×は肝属郡錦江町田代○×となります。

町の木:ヤマモモ、町の花:ヤマフジ、町のイメージキャラクター:でんしろう
2005年2月1日現在の人口:3,343人

錦江町の章 (了)
[40305] 2005年 4月 27日(水)00:06:53【1】作々 さん
さよなら市町村 24~日置郡日吉町~
さよなら市町村・第7弾は、5月1日に4町が合併して誕生する日置市編です。

日置郡日吉町(46366)

日吉町は、1955(昭和30)年に日置村と吉利村が合併して成立しました。
町名は旧村名の頭文字を取った合成地名です。

毎年6月に行われる「せっぺとべ」は400年の歴史を持つ五穀豊穣を願う伝統行事です。
町東部の岩井田にかつてあった深固院は、鹿児島ではお馴染みのしんこ団子(米粉の焼き醤油団子)の発祥の地です。
産業面では、温暖な気候を活用した野菜や斜面を使用した果樹栽培が盛んです。
また、町の特産物である「日置瓦」は町章のデザインにも採用されています。

2005年5月1日からは日置市となり、これまでの日置郡日吉町○×は日置市日吉町○×となります。

町の花:ツツジ、町の木:ツバキ、町のイメージキャラクター:ひよしまる
2005年3月1日現在の人口:5,687人
[40327] 2005年 4月 28日(木)00:03:31作々 さん
さよなら市町村 25~日置郡吹上町~
日置郡吹上町(46367)

吹上町は、1955(昭和30)年に伊作町と永吉村が合併して成立しました。
町名は日本三大砂丘の一つに数えられる吹上浜に由来しています。

県立自然公園にも指定されている吹上浜はウミガメの産卵地であるほか、潮干狩りや釣りでも賑わいます。
吹上砂丘によって形成された砂丘湖の薩摩湖はバラやツツジといった花々が楽しめるほか、 毎年10月には花火大会が開かれ、多くの人を集めます。
産業面では、温暖な気候を活用した野菜や斜面を使用した果樹栽培が盛んです。

2005年5月1日からは日置市となり、これまでの日置郡吹上町○×は日置市吹上町○×となります。

町の花:ツツジ、町の木:サザンカ、町のイメージキャラクター:亀丸くん
2005年3月1日現在の人口:9,919人
[40367] 2005年 4月 29日(金)00:38:08【1】作々 さん
さよなら市町村 26~日置郡伊集院町~
日置郡伊集院町(46363)

伊集院町は、1956(昭和31)年に旧伊集院町と下伊集院町の一部が合併して成立しました。
古くからイスノキの多い地域で、「イス」と呼ばれていたが、平安時代に倉院が置かれた際に院の名を「イス院」と呼ぶようになり、やがて「伊集」の字が当てられ、「伊集院」と書くようになったと言われています。

一宇治城跡はかつて戦国初期の当主・島津貴久の居城だったところで、フランシスコ・ザビエルとの謁見が行われたところです。
町内には関ヶ原の戦いで馴染みの島津義弘の菩提寺・妙円寺跡(現徳重神社)があり、毎年10月には鹿児島の三大行事の一つ、鹿児島市から徳重神社までの約20キロを参詣する妙円寺参りが行われます。
町は企業進出のほか、鹿児島市のベッドタウンとして人口も増加傾向にあります。
鹿児島市近郊という地理的条件を活かした近郊農業に力を入れています。
また、炒り粉と白アンを使った伊集院饅頭は町を代表する名物です。

2005年5月1日からは日置市となり、これまでの日置郡伊集院町○×は日置市伊集院町○×となります。

町の花:ウメ、町の木:イス
2005年3月1日現在の人口:24,323人
[40410] 2005年 4月 30日(土)00:38:18作々 さん
さよなら市町村 27~日置郡東市来町~
東市来町は、1937(昭和12)年に東市来村が町制を施行して成立しました。
町名は古代以来の市来院の東部を占めたことによります。

町は湯~陶ぴあ「こけけ王国」を掲げ、観光を促進しています。
美山(苗代川)は薩摩焼発祥の地として知られており、数多くの窯元があります。
町北部の湯之元温泉は約350年に発見されたもので、江戸時代は島津藩直営の湯として、そして現在も良質の温泉として好評です。
名勝「江口蓬莱」近くの物産館「江口蓬莱館」は新鮮な海の幸・山の幸で人気を博しています。
町内には観光農園が多く、夏はブドウ、秋はミカン、冬はイチゴなどと四季を通じて楽しむことができます。

2005年5月1日からは日置市となり、これまでの日置郡東市来町○×は日置市東市来町○×となります。

町の花:カンナ 、町の木:サザンカ
2005年3月1日現在の人口:13,297人

日置市の章 (了)
[42575] 2005年 6月 26日(日)01:51:55【1】作々 さん
さよなら市町村 28~曽於郡末吉町~
さよなら市町村・第8弾は、7月1日に3町が合併して誕生する曽於市編です。

曽於郡末吉町(46464)

末吉町は、1922(大正11)年に末吉村が町制を施行して成立しました。
町名の「末吉」は、町内にある住吉神社の住吉が転化したものです。

町はメセナ末吉(メセナ:文化・芸術活動に対する支援)を掲げ、町の文化振興に取り組んでいます。中でも今年で12年目を迎える「メセナ総合大学」は生涯学習の場として高い評価を得ています。
町の南東部に位置する花房峡は安楽川渓谷など自然に溢れるスポットで、「花房峡憩いの森」には、バンガローやキャンプ場、ゴーカート上などの遊具施設もあり、人気を集めています。
「曽於牛」の主産地であるほか、最近は有機農業にも力を入れています。

2005年7月1日からは曽於市となり、これまでの曽於郡末吉町○×は曽於市末吉町○×となります。

町の花:カンナ、町の木:モクセイ
2005年5月1日現在の人口:19,794人
[42598] 2005年 6月 27日(月)00:45:05【1】作々 さん
さよなら市町村 29~曽於郡財部町~
曽於郡財部町(46463)

財部町は、1926(大正15)年に財部村が町制を施行して成立しました。
町名の由来には、古代に太陽信仰を司る財日奉部が置かれたことによるという説があります。

町北部の大川原峡は、桐原の滝などの大小の滝や渓谷のほか、キャンプ場やレンタルサイクルなど自然を楽しめるスポットです。すぐそばの悠久の森では、四季の花々や小鳥の囀り、水の音などを楽しむことができます。
町中央には奈良時代に創建された、町名とも関わり深い日光神社があります。神社から城山公園までの道は、春には美しい桜並木街道となります。
水稲のほかタバコの栽培や畜産も盛んです。また、林業も盛んで、スギやヒノキが植林されています。

2005年7月1日からは曽於市となり、これまでの曽於郡財部町○×は曽於市財部町○×となります。

町の木:ヤマザクラ、町のイメージキャラクター(マスコット):きららちゃん
2005年5月1日現在の人口:10,352人
[42623] 2005年 6月 28日(火)01:01:24作々 さん
さよなら市町村 30~曽於郡大隅町~
曽於郡大隅町(46461)

大隅町は、1955(昭和30)年に岩川町、恒吉村、月野村が合併して成立しました。
町名は大隅半島の中央部に位置することに由来します。

毎年11月3日に行われる岩川八幡神社の例祭「弥五郎どん祭り」は900年の伝統を持つ県下三大行事の一つで、元々は隼人鎮圧の慰霊祭という説があるそうです。
町南部の大鳥峡は、森林で囲まれた奇岩、怪石の渓谷のほか、バンガローやそうめん流しの設備も整備されています。
町東部には西南戦争の官軍の犠牲者を葬った官軍墓地があります。
産業面では「弥五郎スイカ」と名付けられたスイカやハクサイの栽培のほか、畜産業も盛んです。

2005年7月1日からは曽於市となり、これまでの曽於郡大隅町○×は曽於市大隅町○×となります。

町の花:ツツジ、町の木:ウメ
2005年5月1日現在の人口:12,641人

曽於市の章 (了)
[42648] 2005年 6月 29日(水)00:44:11【1】作々 さん
さよなら市町村 31~肝属郡高山町~
さよなら市町村・第9弾は、7月1日に2町が合併して誕生する肝付町編です。

肝属郡高山町(46484)

高山町は、1932(昭和7)年に高山村が町制を施行して成立しました。
町名は、かつては神山(こうやま)と表記されていたものが、いつしか高山と書くようになったと考えられています。

戦国時代に大隅を治め、島津家と激しく争った肝付氏の本拠が置かれたのが、かつてこの地にあった高山城でした。
毎年10月に四十九所神社で行われる「やぶさめ祭り」は五穀豊穣を願う祭りで、約900年の伝統を持つ町の一大イベントです。
役場近くにある二階堂家住宅は1810年ごろに建てられた、鹿児島県南部に代表的な「オモテ」と「ナカエ」が直交する雁行型の寄棟作りの家で、国の重要文化財に指定されています。
デコポンやハウスミカンなどのミカン類の栽培が盛んであるほか、県有数の米の生産地でもあります。

2005年7月1日からは肝付町となり、これまでの肝属郡高山町○×は肝属郡肝付町○×となります。

町の花:キク、町の木:イス
2005年5月1日現在の人口:14,166人
[42683] 2005年 6月 30日(木)01:12:15【1】作々 さん
さよなら市町村 32~肝属郡内之浦町~
肝属郡内之浦町(46483)

内之浦町は、1932(昭和7)年に内之浦村が町制を施行して成立しました。
町名は、古代、この地に景行天皇が熊襲征伐のために内裏(だいり=天皇の住居)を置いたという伝承に由来し、後世に内裏(うちのうら)から表記が改まったと言われています。

日本で一番宇宙に近い町のひとつ。役場南部の山腹に位置する「内之浦宇宙空間観測所」では、合併直後の7月6日にエックス線天文衛星「ASTRO-E2」を搭載するM5ロケット6号機の打ち上げを予定しています。
本土で一番早く、1月下旬から2月中旬に開花する内之浦のサクラは、「ロケット桜」と呼ばれて親しまれています。
ポンカンやたんかんの栽培が盛んであるほか、最近は施設園芸に力を入れています。また、かつてキヌサヤエンドウは市場で日本一の評価を受けたこともあります。

2005年7月1日からは肝付町となり、これまでの肝属郡内之浦町○×は肝属郡肝付町○×となります。

町の花:カンナ、ハマユウ、町の木:クスノキ、町のイメージキャラクター(マスコット):ウッピーくん
2005年5月1日現在の人口:4,385人

肝付町の章 (了)
[45525] 2005年 10月 9日(日)01:01:10作々 さん
さよなら市町村 33~日置郡市来町~
さよなら市町村・第10弾は、10月11日に1市1町が合併して誕生するいちき串木野市編です。

日置郡市来町(46361)

市来町は、1930(昭和5)年4月1日に西市来村が町制を施行、同時に改称して成立しました。
町名は、町名は古代以来の市来院に由来します。

町の中央部に位置する「観音ヶ池町民の森」ではツツジやアジサイ、花ショウブなどの花々のほか、キャンプ施設もあり一年を通して楽しめます。中でも春は千本桜が咲き誇り、昼夜花見客で賑わっています。
役場近くの「市来ふれあい温泉センター」は、大浴場のほか、家族湯、露天風呂、岩風呂などさまざまな温泉があり、人気を集めています。
町の名産には、ポンカンやミカン、ちりめんなどがあります。

2005年10月11日からはいちき串木野市となり、これまでの日置郡市来町○×はいちき串木野市○×となります。

町の花:ツツジ、町の木:クロガネモチ
2005年9月1日現在の人口:6,992 人
[46347] 2005年 11月 1日(火)00:00:30作々 さん
さよなら市町村 35~川辺郡笠沙町~
さよなら市町村・第11弾は、11月7日に1市4町が合併して誕生する南さつま市編です。

川辺郡笠沙町(46341)

笠沙町は、1940(昭和15)年11月10日に笠沙村が町制を施行して成立しました。
町名は、古事記の「笠沙之御前」、日本書紀の「吾田長屋笠狭之崎」の場所に推定されていることに由来します。

杜氏の里笠沙は、手作りのよる焼酎の製造工程を見学できます。
笠沙恵比寿からの半島沖の海でのクルージングでは、ニタリクジラやハシナガイルカなどのウォッチングができます。
カツオやアジなど漁業が盛んで、片浦港、野間港、野間池港などの良好の港があります。

2005年11月7日からは南さつま市となり、これまでの川辺郡笠沙町○×は南さつま市○×となります。

町の花:サツマノギク、町の木:コクテンキ、ノマツツジ、町の鳥:イソツグミ
2005年10月1日現在の人口:3,428 人
[46348] 2005年 11月 1日(火)00:04:16作々 さん
さよなら市町村 36~川辺郡大浦町~
大浦町は、1961(昭和36)年11月1日に大浦村が町制を施行して成立しました。
町名は、中世以来の村名に由来します。

町西部の亀ヶ丘はパラグライダーのメッカであるほか、開聞岳や吹上浜、リアス式海岸、東シナ海に沈む夕日などを望めるビュースポットでもあります。
吹上浜に繋がる越路浜はアサリやハマグリの潮干狩りのほか、ウィンドサーフィンなどを楽しむこともできます。
開拓地を利用した早期米や、走り新茶、ポンカンなどの栽培が盛んです。

2005年11月7日からは南さつま市となり、これまでの川辺郡大浦町(大字なし)は南さつま市大浦町となります。

町の花:ムクゲ、町の木:ヤマツバキ
2005年10月1日現在の人口:2,689 人
[46405] 2005年 11月 2日(水)00:29:42作々 さん
さよなら市町村 37~川辺郡坊津町~
川辺郡坊津町(46343)

坊津町は、1955(昭和30)年11月1日に坊津村が町制を施行して成立しました。
町名は、583年に百済の僧日羅が当地を訪れ、上の坊、中の坊、下の坊の3つの坊舎仏閣を建立したことに由来すると言われています。

リアス式海岸には奇岩怪岩が多く、なかでも双剣石は国の指定を受けた名勝です。
町北部には鑑真記念館があり、鑑真の偉業や功績を知ることができます。
日本三津の一つと知られる当地には、江戸時代には薩摩藩の外城が置かれ、密貿易が行われており、当時の遺跡も現存しています。
ポンカンやタンカンの栽培が盛んであるほか、沿岸漁業なども行われています。
今回の合併により、秋目の飛び地がなくなります。

2005年11月7日からは南さつま市となり、これまでの川辺郡坊津町○×は南さつま市坊津町○×となります。

町の花:ツワブキ、町の木:クロガネモチ
2005年10月1日現在の人口:4,164 人
[46409] 2005年 11月 2日(水)01:12:56作々 さん
さよなら市町村 38~日置郡金峰町~
日置郡金峰町(46368)

金峰町は、1956(昭和31)年9月30日に阿多村と田布施村が合併して成立しました。
町名は、霊峰・金峰山に由来します。

道の駅きんぽう木花館では、農産物や特産品の販売のほか、そば打ちの体験などもでき、好評を博しています。
金峰2000年橋は日本一の歩道付車道の木橋です。
町の主産業は農業で、なかでも米の早期栽培では全国への出荷も増えています。このほかにもタバコや茶の栽培、畜産も盛んです。
今回の合併により、日置郡が消滅します。

2005年11月7日からは南さつま市となり、これまでの日置郡金峰町○×は南さつま市金峰町○×となります。

町の花:サルスベリ、町の木:キンモクセイ、町のイメージキャラクター(マスコット):ちよまる
2005年10月1日現在の人口:7,935 人
[46441] 2005年 11月 3日(木)00:12:46【1】作々 さん
さよなら市町村 39~加世田市~
加世田市(46211)

加世田市は、1954(昭和29)年7月15日に加世田町と万世町が合併して成立しました。
市名は、日本書紀の「吾田長屋笠狭之崎」に由来し、笠狭田(かさだ)が転化したものと考えられています。

毎年ゴールデンウイークには「吹上浜砂の祭典」が開かれ、50基を超える砂像群が人々を魅了します。
市の中央部の竹田神社は、戦国時代を支えた島津四兄弟の祖父忠久(日新公)を祀る神社で、境内の「いにしへの道」は忠良のいろは歌の石碑が並び、市民の憩いの場となっています。
また、市は日本初の世界室内自転車競技選手権日本大会が開催された地で、「サイクルシティ」を宣言しており、自転車に関するイベントも数多く催されています。
市の特産品としては、「かごしまブランド第1号」のかせだカボチャのほか、栽培面積日本一を誇るキンカンの栽培が盛んです。

2005年11月7日からは南さつま市となり、これまでの加世田市○×は南さつま市加世田○×となります。

市の花:カンナ、市の木:イヌマキ
2005年10月1日現在の人口:23,449 人

南さつま市の章 (了)
[46446] 2005年 11月 3日(木)06:54:10【1】作々 さん
さよなら市町村 40~姶良郡溝辺町~
さよなら市町村・第12弾は、11月7日に1市6町が合併して誕生する霧島市編です。

姶良郡溝辺町(46444)

溝辺町は、1959(昭和34)年4月1日に溝辺村が町制を施行して成立しました。
町名の由来には、天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと)が豊玉姫を「見初め」たという神話に基づくという説があります。

鹿児島の空の玄関口にあたります。
町中央部の上床公園は、霧島連山や桜島、天気のいい日は遠くは開聞岳まで見える景勝地で、グランドゴルフ場のほか、ローラースライダーや草スキー場などのあるスポーツ公園などが整備されています。
バレル・バレープラハはプラハの街並みを再現したテーマパークで、本場チェコ料理が楽しめるレストランや地ビール、ボヘミアングラス工房などのショップがあります。また、併設されている酒匠工房GENでは、焼酎工場内の見学やオリジナル焼酎の試飲ができます。
日本書紀や古事記にも記述のある高屋山陵は天津日高彦火火出見尊の御陵と伝えられています。
茶のほか、ナシやブドウ、イチゴの栽培が盛んで観光農園も数多くあります。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの姶良郡溝辺町○×は霧島市溝辺町○×となります。

町の花:ウメ、町の木:シュロ、町のイメージキャラクター(マスコット):カッピィ
2005年10月1日現在の人口:8,715 人
[46456] 2005年 11月 4日(金)00:38:35作々 さん
さよなら市町村 41~姶良郡横川町~
姶良郡横川町(46445)

横川町は、1940(昭和15)年4月1日に横川村が町制を施行して成立しました。
町名は、古代の横川院に由来します。

町中央の丸岡公園は、1周1,500メートルのゴーカート場やプール、バンガロー施設などがあるほか、霧島連山が望める景勝地として人気を集めています。
大隅横川駅は、築100年を超える古い駅舎として、隼人町の嘉例川駅とともに人気があります。
安良神社は大隅五社に数えられる神社で、そこに伝わる仮面は日本最古のものと言われています。
稲作のほか、高冷地での野菜の栽培が盛んです。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの姶良郡横川町○×は霧島市横川町○×となります。

町の花:サクラ、町の木:ケヤキ、町のイメージキャラクター(マスコット):ピュアちゃん
2005年10月1日現在の人口:5,317 人
[46457] 2005年 11月 4日(金)01:00:46作々 さん
さよなら市町村 42~姶良郡福山町~
姶良郡福山町(46451)

横川町は、1929(昭和4)年11月1日に福山村が町制を施行して成立しました。
町名は、永禄4年(1561年)の島津氏と肝付氏の戦いで福山の仁田尾(廻)城が戦場となった際に島津軍大将貴久の弟忠将が戦死したため、「禍を転じて福となす」ということで、名付けられたという説があります。

町の中央には、パークゴルフ場とまきばドームが併設されており、まきばドームには、ゲートボール場10面、テニスコート5面、フットサル3面などの多目的ホールです。
宮浦宮の夫婦イチョウはともに樹齢1千年以上といわれるもので、その根元付近には西南戦争の際に政府軍の軍艦から打ち込まれた砲弾の跡があります。
福山は全国的にも知られた黒酢の生産地であるほか、肉牛や小ミカン(錦江パール)の生産も盛んです。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの姶良郡福山町○×は霧島市福山町○×となります。

町の花:ヤマツバキ、町の木:イヌマキ
2005年10月1日現在の人口:6,998人
[46471] 2005年 11月 5日(土)01:05:30【1】作々 さん
さよなら市町村 43~姶良郡牧園町~
姶良郡牧園町(46448)

牧園町は、1940(昭和15)年4月1日に牧園村が町制を施行して成立しました。
町名は、宿窪田(大字)にかつて牧園という集落があり、かつて放牧地であったことと、牧園小学校が町村名に先立って地名「牧園」を使用していたことから、同一名称を望む声があったことにより決まりました。

霧島屋久国立公園の一部にあたり、坂本龍馬・おりょう夫妻が日本初の新婚旅行に訪れた塩浸温泉をはじめ、安楽温泉新川温泉ラムネ温泉関平温泉林田温泉丸尾温泉硫黄谷温泉湯ノ谷温泉明礬温泉新湯温泉など数多くの温泉がある。
霧島町との間にある大浪池は日本一高い所にある火口湖で、登山口からの約40分の道程は手ごろな登山コースとして人気があります。
みやまコンセールは県の「霧島国際芸術の森」構想の中核施設として建てられたもので、コンサートのほかピアノの発表会などが開かれています。
観光事業が主管産業。ほかにも茶の栽培や畜産が盛んです。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの姶良郡牧園町○×は霧島市牧園町○×となります。

町の花:ミヤマキリシマ、町の木:モミジ、町の鳥:ホオジロ
2005年10月1日現在の人口:8,961人
[46473] 2005年 11月 5日(土)02:30:59作々 さん
さよなら市町村 44~姶良郡霧島町~
姶良郡霧島町(46449)

霧島町は、1958(昭和33)年11月3日に霧島村が町制を施行して成立しました。
町名は天孫降臨の伝説から来ており、1934(昭和9)年に霧島山が日本初の国立公園に指定されたことを機に付けられました。

澄んだ空気に囲まれて、雄大な自然の花々を楽しみながらの霧島連山トレッキングが人気。
霧島神宮は建国神話の主人公、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が祀られています。
霧島神宮温泉郷湯之野温泉などの温泉も好評を博しています。
子牛などの畜産業や野菜の栽培に力を入れています。また、霧島連山を中心とした観光業も盛んです。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの姶良郡霧島町○×は霧島市霧島○×となります。

町の花:ミヤマキリシマ、町の木:アカマツ
2005年10月1日現在の人口:5,785人
[46490] 2005年 11月 6日(日)01:03:12作々 さん
さよなら市町村 45~姶良郡隼人町~
姶良郡隼人町(46450)

隼人町は、1954(昭和29)年4月1日に旧隼人町と日当山町、清水村の大字姫城の一部が合併して成立した隼人日当山町が1957(昭和32)年4月1日に改称して成立しました。
町名は隼人塚に由来します。

町内には、熊襲の穴隼人塚鹿児島神宮などの多くの史跡があります。
新川渓谷と呼ばれる景勝地にある妙見温泉日当山温泉などの温泉郷も人気があります。
嘉例川駅は昔ながらの古い駅舎が人気です。
毎年、鹿児島神宮で行われる初午祭は450年の伝統を重ねる町を代表する伝統行事です。
国分隼人テクノポリスの指定を受けて以来、多くの企業の進出がし、工業団地を形成しています。
平野部での稲作や施設野菜の栽培、台地での茶や畜産が行われています。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの姶良郡隼人町○×は霧島市隼人町○×となります。

町の花:ヤマツバキ、町の木:カンナ、町のイメージキャラクター(マスコット):隼人くん、カンナちゃん
2005年10月1日現在の人口:37,082人
[46491] 2005年 11月 6日(日)02:08:28【1】作々 さん
さよなら市町村 46~国分市~
国分市(46212)

国分市は、1955(昭和30)年2月1日に国分町が市制を施行して成立しました。
市名は大隅国の国府が合ったことに因みます。

大隅国分寺跡には、六重層塔や観音像、仁王像などがあり、当時を偲ばせています。
上野原縄文の森は竪穴式住居を中心に縄文時代の遺跡が発見されたところで、当時のムラの復元や展示館などの縄文文化を体感できる施設があります。
城山公園は3万を越えるという四季折々の花々や観覧車やゴーカートなどの施設、北に霧島連山、南に桜島を望める景色など人々の憩いの場となっています。
半導体などの工場のほか、稲作、観光農園などの農業も行われています。

2005年11月7日からは霧島市となり、これまでの国分市○×は霧島市国分○×、
但し国分市上之段の一部は霧島市国分上野原縄文の森に、同川内の一部は霧島市国分上野原テクノパークとなります。

町の花:ハナタバコ、コスモス、町の木:クロガネモチ
2005年10月1日現在の人口:56,462人

霧島市の章 (了)
[47678] 2005年 12月 28日(水)00:15:19作々 さん
さよなら市町村 47~曽於郡輝北町~
さよなら市町村・第13弾は、2006年1月1日に1市3町が合併して誕生する新・鹿屋市編です。

曽於郡輝北町(46462)

輝北町は、1956(昭和31)年4月1日に囎唹郡(当時)市成村と肝属郡百引村が合併して成立しました。
町名は中国で畜産の盛んな驥北地方に由来するもので、畜産の隆盛を願うとともに、北極星のごとく大隅地方の北部で輝く町という意味が込められています。

平成3年から4年連続で星空日本一に選ばれた星降る町です。
標高550メートルの高台のきほく上場公園には輝北天球館があり、九州最大級の口径65cmカセグレン式反射望遠鏡が設置されているほか、天体のビデオ映像、惑星や星雲などの写真展示等があります。
またこのほかにも、きほく上場公園には、森林浴に最適なふれあいの森やキャンプ施設などがあります。
東部の平房地区はゲンジボタルやヒメボタルが自然繁殖する自然豊かな場所で、毎年5月下旬には「ホタルを見る夕べ」が開催されます。
畜産業と林業が盛んです。特に名産の白豚は「スターポーク」のブランドで高い評価を受けています。

2006年1月1日からは鹿屋市となり、これまでの曽於郡輝北町○×は鹿屋市輝北町○×となります。

町の花:ツバキ、町の木:ツツジ
2005年12月1日現在の人口:4,160人
[47679] 2005年 12月 28日(水)00:26:21作々 さん
さよなら市町村 48~肝属郡串良町~
肝属郡串良町(46481)

串良町は、1922(昭和7)年5月15日に西串良村が町制を施行して成立しました。
町名の由来には諸説ありますが、文部省「天然物集第12集」によると、「クシ」は奇で秀絶を意味し、君主の字義を持ち、「ラ」は柱を意で君主の所在地=首都を意味し、その土地柄を表しているとあります。

町中央の平和公園は、旧串良海軍航空基地の跡地で、戦没者の慰霊塔があるほか、春には約2000本の桜並木が美しく咲き誇ります。
秋には園内食べ放題のオレンジパークがオープンし、温州みかんやネーブルなど、みかん狩りが体験できます。
東部の大塚山公園からは、東に志布志湾、南西に開聞岳が眺望できます。
畑地かんがいによる園芸と豚が主体の畜産業が盛んです。また、内水面漁業によるウナギの生産も盛んです。

2006年1月1日からは鹿屋市となり、これまでの肝属郡串良町○×は鹿屋市串良町○×となります。

町の花:バラ、町の木:イヌマキ、町のイメージキャラクター(マスコット):くしらん坊
2005年12月1日現在の人口:13,352人
[47695] 2005年 12月 29日(木)00:28:35作々 さん
さよなら市町村 49~肝属郡吾平町~
肝属郡吾平町(46485)

吾平町は、1947(昭22)年10月15日に姶良村が吾平村に改称、同時に町制を施行して成立しました。
町名は吾平山陵に由来します。

県下の神代三山陵のひとつに数えられている吾平山上陵は、神武天皇の御父君、御母君の御陵で、全国でも珍しい岩屋の陵として知られています。
西部の県立大隅国立公園は、季節の花々が咲く花の広場のほか、ゴーカート場やキャンプ場があり、人気があります。
黒羽子と角野の観光農園では、イチゴやブルーベリー、ミカンなど年中通して果物狩りができます。
かぼちゃやメロンなどのハウス園芸や有機農業が盛んです。

2006年1月1日からは鹿屋市となり、これまでの肝属郡吾平町○×は鹿屋市吾平町○×となります。

町の花:ツワブキ、町の木:ヒゼンマユミ、町の花木:サクラ
2005年12月1日現在の人口:7,364人

新・鹿屋市の章(了)
[47697] 2005年 12月 29日(木)01:03:42作々 さん
さよなら市町村 50~揖宿郡山川町~
さよなら市町村・第14弾は、2006年1月1日に1市2町が合併して誕生する新・指宿市編です。

揖宿郡山川町(46422)

山川町は、1930(昭51)年5月1日に山川村が町制を施行して成立しました。
町名は近世の郷名に由来しています。

町南部の長崎鼻パーキングガーデンがあり、熱帯・亜熱帯植物や動物ショーが行われ、家族連れに人気があります。
フラワーパークかごしまは日本最大級の花のテーマパークで、鹿児島の花や樹木のほか世界の熱帯植物が植栽されています。
山川砂蒸し温泉は、東シナ海と開聞岳が望める天然の砂蒸し温泉です。
西大山駅は、日本最南端のJRの駅です。
農業と水産業を基幹としており、温暖な気候を活かした春出し野菜の栽培や鰹節の生産が盛んです。

2006年1月1日からは指宿市となり、これまでの揖宿郡山川町○×は指宿市山川○×となります。

町の花:キンギョソウ、ヤマガワホウサイ、町の木:ギョボク、リュウガン、町の蝶:ツマベニチョウ
2005年12月1日現在の人口:10,335人
[47727] 2005年 12月 30日(金)00:21:22【1】作々 さん
さよなら市町村 51~揖宿郡開聞町~
揖宿郡開聞町(46424)

開聞町は、1955(昭和30)年4月1日に開聞村に利永村の一部を合併、町制を施行して成立しました。
町名は開聞岳、開聞神社に由来しています。

開聞岳は薩摩富士の異名を持つ町のシンボル的存在で、頂上からは、北に霧島、南に屋久島などの景色が望めます。
町営の唐船峡そうめん流しは、回転式そうめん流しの発祥の地です。1日10万トンもあるという水温13度の湧き水を基にしたそうめん流しは年間30万人を集める町の観光の基幹となっています。
温暖多雨な気候を利用した農業と肉用牛、豚などの畜産業が盛んです。

2006年1月1日からは指宿市となり、これまでの揖宿郡開聞町○×は指宿市開聞○×となります。

町の花:カイモンサツキ、町の木:ヤマモモ、町のイメージキャラクター(マスコット):カメのカイ、ウサギのキキ
2005年12月1日現在の人口:6,821人

新・指宿市の章(了)
[47729] 2005年 12月 30日(金)00:43:13【1】作々 さん
さよなら市町村 52~曽於郡松山町~
さよなら市町村・第15弾は、2006年1月1日に3町が合併して誕生する志布志市編です。

曽於郡松山町(46465)

松山町は、1958(昭和51)年4月1日に松山村が町制を施行して成立しました。
町名は近世の郷名に由来しています。

大隅の國やっちく松山藩。
「やっちく」とは、「やっつける」、「やっていこう」、「やり遂げる」を意味する方言であるとともに野菜と畜産のまちを表現しています。
毎年11月に行われる秋の陣祭りでは、祭り当日限定の「松山城」が来場者を魅了します。
町北部には、松山城址を中心に城山総合公園が整備されており、テニスコートやプール、多目的広場など一日中楽しむことができます。
昔から畑作が盛んな地で、メロンやイチゴの生産が盛んであるほか、肉牛団地の育成にも努めています。

2006年1月1日からは志布志市となり、これまでの曽於郡松山町○×は志布志市松山町○×となります。

町の花:アジサイ、サザンカ、町の木:クロマツ、町のイメージキャラクター(マスコット):やっちくくん
2005年12月1日現在の人口:4,774人
[47741] 2005年 12月 31日(土)00:01:44【1】作々 さん
さよなら市町村 53~曽於郡有明町~
曽於郡有明町(46467)

有明町は、1958(昭和51)年4月1日に西志布志村が町制を施行、同時に改称して成立しました。
町名は志布志湾を古くから有明湾と呼んでいたことに由来します。

野井倉甚兵衛による開田の地として、県下小学生には道徳の時間にお馴染みの地です。
蓬の郷は温水浴場や親水公園、パターゴルフ場などのレジャー施設で人気があります。
香花園は、春には10万本のツツジ、秋にはコスモスなどの花々が楽しめます。
広大な土地を利用した茶やメロンの栽培やウナギの養殖が盛んです。

2006年1月1日からは志布志市となり、これまでの曽於郡有明町○×は志布志市有明町○×となります。

町の花:ヒマワリ、町の木:ヤマザクラ
2005年12月1日現在の人口:11,796人
[47743] 2005年 12月 31日(土)00:07:43作々 さん
さよなら市町村 54~曽於郡志布志町~
曽於郡志布志町(46466)

志布志町は、1913(大正2)年4月1日に東志布志村が調整を施行、同時に改称して成立しました。
町名の由来には、天智天皇が遷幸の際に主婦と下女から同時に布を献上されたことから、「身分の上下に拘わらず志厚し」と賞賛し、志布志と名付けたという伝承があります。

国の中核国際港湾・志布志湾は、海外と国内各地とを結ぶ南九州地域の物流拠点としての機能を担っています。
沖合いの無人島枇榔島は、全島の植物が国の特別天然記念物に指定されている、亜熱帯植物や豊かな海の幸を体験できる自然豊かな島です。
ダグラ岬公園は亜熱帯植物が生い茂る白砂青松の海岸からなる海水浴場のほか遊園地などのレジャー施設があります。
畜産や施設園芸が盛んであるほか、チリメンの生産も盛んです。

2006年1月1日からは志布志市となり、これまでの曽於郡志布志町○×は志布志市志布志町○×となります。

町の花:ツワブキ、町の木:モッコク、ビロウ、町の鳥イソヒヨドリ
2005年12月1日現在の人口:18,415人

志布志市の章(了)

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