前言のおまけ
1878(明治11)年の「郡区町村編制法」により,大きな郡は“適当な大きさ”の数郡に分割されました。また,たとえば「葛飾郡」のように複数の府県に分割された郡の多くも「東・西・南・北・中」を頭につけて分割されています。
下総国 葛飾郡 | → | 千葉県 東葛飾郡 |
| | 茨城県 西葛飾郡 |
| | 埼玉県 中葛飾郡 |
武蔵国 葛飾郡 | → | 埼玉県 北葛飾郡 |
| | 東京府 南葛飾郡 |
これによって,郡の数が激増しています。
ただし,愛知県と岐阜県に分かれた「中島郡・海西郡」は,そのまま(「はぐり郡」は字が違いますね)。
1876(明治9)年に宮崎県と鹿児島県に分割された「諸県郡」は,少し遅れて1883(明治16)年に宮崎県分が「北諸県郡」,鹿児島県分が「南諸県郡」に,さらに1884(明治17)年に宮崎県北諸県郡が「北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡」に分割。
1890年以降,法律「郡制」施行のために1878年とは逆に小さな郡の統合が行われました。
これで再び郡の数が大幅に減る一方で,このときにいわゆる「合成地名」による郡が量産されます。
法律「郡制」の施行によって,「郡」は“行政区画”として2つの性格を持つに至ります。
1)府県の下位行政区分,および当該区域を管轄する府県の出先機関
2)当該区域を単位とする地方自治体
で,10年かかって1900年に岡山県に法律「郡制」が施行されて,北海道を除く「郡」の編成が完了しました。
北海道には法律「郡制」は施行されませんでした。上の2つの性格のうち,前者に関しては郡をまとめる形で「支庁」が設置されています。北海道の「郡」は,青森県以南のそれとは違って,“行政上の区画”ではなく,単なる“地域単位の呼称”に過ぎません。
で,
1906年4月1日に「当縁郡」が「広尾郡」と「十勝郡」に分割されて消滅します。
これは,北海道で“自治体”としての「町村」を編成するための合併によるもので,本州以南の町村制施行のための「明治の大合併」,「郡制」施行のための郡の統合に相当するものと思われます。
1923年4月に「振別郡」が「択捉郡」に吸収されて消滅したのも同様。南千島では,ようやくこのときに“自治体”としての「村」が編成されたからです(得撫以北は「村」は結局編成されずに日本を離れました)。
1918年2月1日の「室蘭郡」の消滅は,室蘭町ほか3村が本州以南の「市」に相当する「室蘭区」になったことによるもの。実は所属町村の消滅による郡消滅の最初の例です。
なお,上記2つの性格のうち,後者:自治体としての郡は1923年に,前者:府県の出先機関としての郡は1926年に廃止されました。以後,本州以南の郡も明治初めまでの“地域単位の呼称”に戻り,具体的な行政機能を持った区画や機関ではなくなりました。
以下,所属町村の消滅による郡の消滅例はたくさんあるので,そうでない理由による郡の異動を列挙します。
1913年4月4日 愛知県海西郡・海東郡 の統合 →海部郡
*愛知県では郡制施行の際の郡の統合はありませんでした。本当はこのときに統合されるべきものだったのかも。それにしても,おそらく地元では「かいふ」さんと読む苗字が一般的であるだろうに,わざわざ古い読み方の「あま郡」を選んだのは,どういうことか。
ちなみに同じ「海部郡」でも,徳島県(阿波)では「かいふ郡」,大分県(豊後)では「あまべ郡」。和歌山県(紀伊)にあった海部郡は,名草郡と統合されて「海草郡」となりました。
1949年10月1日 群馬県群馬郡の一部を分割し「北群馬郡」を設置
*郡を分割して新郡が設置されたものとして,“今月末までは”唯一の例
1956年9月30日 三重県河芸郡・安濃郡 を統合 →安芸郡
*「河芸郡」は,「河曲郡」と「奄芸郡」統合による合成地名
1968年5月1日 長野県西筑摩郡 を「木曽郡」と改称
*「木曽」が地域単位の公式名称となるのは,律令時代以来初めて
1969年4月1日 島根県周吉郡・穏地郡・海士郡・知夫郡 を統合 →隠岐郡
1972年4月1日 鹿児島県噌唹郡 を「曽於郡」と表記変更
というわけで,
今回の「岡山県加賀郡」の新設,というのは,過去あまり例のないものなのでした。