[60759] 千本桜 さん
京都のヘソって東に寄り過ぎではありませんか。
「京の五条の橋の上」でなぜ弁慶が待ち伏せをしていたかと言えば,その橋を平家方の武士が渡るからですね。なぜ平家方の武士が橋を渡るかというと,橋の東側,つまり五条から七条にかけての鴨川の東側の 六波羅(六原) が平家の拠点であったからです。
源平合戦期に暗躍した重要な登場人物の1人が 後白河法皇 ですが,この「白河(白川)」とは,現在の左京区岡崎周辺,つまり鴨川の東側の地名です。「白河」と呼ばれる天皇は,この人の曽祖父の 白河天皇(法皇) がオリジナルですが,明治になって「天皇」号に統一されるまで,この人は「白河院」と呼ばれていました。「白河で院政を布いた人」という意味ですね。
「六波羅(六原)」も「白河(白川)」も鴨川の東側の地名です。
[60763] 小松原ラガー さんのご説明の通り,中国式都城としての 平安京 の西部(右京)は特に南部で都市化するには条件が悪く,平安時代中期までに市街としては廃れてしまいました。
現在,梅小路から二条まで山陰線が南北に走る区間がおおよそかつての朱雀大路に近い(通りとしては千本通が朱雀大路の直系のようです)のですが,なぜ山陰線がここを通るかといれば,建設当時はここが「京都市街の西の端」だったからです。
「町外れ」にあるべき 島原遊郭 もこのあたりにありますね。
条件によっては路面電車となることもいとわない 嵐電 は,四条通上を通らずに専用軌道で四条大宮へ乗り入れています。専用軌道の用地を確保できる“隙間”があったからできたことです。
山陰線以西の,つまりかつての「右京」が本格的に市街地化したのは,千二百年の歴史の中でごく最近なのですね。
反対に平安時代末期までに白河/白川や六波羅といった鴨川東岸に市街地が発達するようになって,鴨川が京の中心軸になっていました。
「中世都市としての鎌倉」のモデルが京都であるとはよく言われていることですが,中心軸の若宮大路のモデルは多くの人がそう思い込んでいる朱雀大路ではなく鴨川である,という指摘があります。実際,平安末期の京の都市構造を考えるとこちらの方がよくあてはまります。若宮大路北端に鎮座する鶴岡八幡宮は,鴨川軸の北端に位置する下鴨神社に対応します。
なお,「世界遺産」をめざしている鎌倉ですが,現在の鎌倉市街は20世紀になる頃から形成されたものであって,それ自体は「中世都市」でも何でもありません。きちんと戦略を練らないと…。それでなくとも,「世界史的存在」である石見銀山と比べて,基本的には「ドメスティック」な歴史遺産ですから。
中世後半になると 室町通 が京都の南北軸になります。「室町幕府」がその象徴ですね。
応仁の乱以降,京都は荒廃して,「上京」と「下京」という2つの都市に分裂してしまいますが,この「2つの京」を結ぶ軸も室町通でした。
織豊政権期に2つの京の間のすきまが埋まって,京都は再び全体で大きな都市となりますが(それでも「上京・下京」という2都市構造はその後も残り,明治初期の郡区町村編制法下における「上京区」「下京区」,そして市制下の京都市の両区に続きます。1929年の「中京区」の設置は,つまりそのような都市構造がもはや過去のものになった象徴かもしれません),その時の南北軸も 室町通 でした。
室町通の格式の高さは格別で,三井越後屋(三越)がこの地に本店を構えたことにも現れています。ここには呉服問屋が集積しました。
一方,江戸時代に入ると,名前の通り「河原」であった「河原町(通)」が商業中心として発展してゆきました。河原は,いろいろな意味で人々の集まりやすい場所だったのですね。江戸時代初頭,出雲の阿国が興業をしていたのも 四条河原 でした。
厳密に言うと条件が違うのですが,江戸で 両国橋 の両側が歓楽地として発展したのと似ているかもしれません。
現在の京都は,言うまでもなく,この江戸時代の京都市街を直接受け継いだものです。
今,四条烏丸が京都のヘソであるべきように見えるのは,烏丸通の軸上に「七条ステーション(京都駅)」が開設され,この軸上を地下鉄の 南北線 が走るようになったからかもしれません。
そして何より,やっと最近100年間に京都市街が大きく“西”に拡大して京都盆地(葛野盆地)を埋め尽くしてしまったために,江戸時代以来の京都の中心が「東に片寄って」見えるのかもしれません。