似たような話題を何度も書き込んで恐縮ですが、「御神渡(おみわたり)」を調べている間に「上諏訪」に関する情報も集まりましたので、その情報を自分なりにまとめてみました。
古くは「下諏訪」は「しものすわ」と呼ばれ、下社のある諏訪湖北岸一帯を指す地名であり、「上諏訪」は「かみのすわ」と呼ばれ、上社のある諏訪湖南岸、特に上社のある神宮寺周辺を指す地名であったそうです。その後、下社の門前町が中仙道の宿場として「下諏訪宿」となり、その周辺が特に「下諏訪」と呼ばれるようになります。そのため現在の「下諏訪」と下社のある位置は一致します。一方、高島城の城下町が甲州街道の宿場として「上諏訪宿」となりましたが、これは神宮寺周辺とは一致しません。現在の「上諏訪」とはこの「上諏訪宿」のおかれた高島城や上諏訪駅周辺を指す地名となりました。
さてここで問題なのは「上諏訪宿」です。はからずもIssieさんが昨年
[26852]で、
上諏訪は下社の側なのですね。
<上社> 富士見町,原村,茅野市,諏訪市(中洲・湖南・豊田・四賀)
<下社> 諏訪市(上諏訪),下諏訪町,岡谷市
と仰っているように現在の「上諏訪」は下社、つまり「しものすわ」の領域にあたります。どういうことでしょう。
現・諏訪市は、まず昭和16年に上諏訪町、四賀村、豊田村が合併して旧・諏訪市となり、さらに昭和30年に中洲村、湖南村と合併して現在に至ります(参考:
IssieさんのHP)。御柱祭の諏訪市の区分けは、この諏訪市を構成した昔の村単位であることがわかります。
ではこの上諏訪町をさらに細かく見てみると、明治7年に大和村、下桑原村、小和田村が合併して上諏訪村となったものが、のちに町制を施行したものであることがわかります。現在「
小和田(こわた)」は高島城の東側に地名として残っているように、小和田村は「上諏訪宿」の存在する村です。その北隣が大和村、南隣が下桑原村です。(実はこの小和田そのものが「御神渡」と非常に関係が深いのですが、それは別途ということで)
ではこの「上諏訪宿」のある小和田村は「かみのすわ」と「しものすわ」のどちらだったのでしょうか。
もし小和田村が「かみのすわ」であったとすると、その南隣の下桑原村も「かみのすわ」と言えます。では「かみのすわ」の小和田村と下桑原村が大和村と合併した際を考えると、その合併でできた上諏訪村が「かみのすわ」ではなく「しものすわ」に組み込まれるということは不自然であり、まず考えられません。つまり少なくとも小和田村と大和村は「しものすわ」であったと考えるのが自然です。
ということは、「上諏訪宿」とは下社の領域「しものすわ」にありながら「上諏訪」の名を与えられたということになるのです。どういうことでしょうか。
高島城が築城されたのは比較的新しく、江戸幕府が開府する直前の1598年に日根野織部正高吉が設計し、完成したものです。この高島城下が城下町のとなるのはその後であり、江戸時代になって甲州街道が整備され「上諏訪宿」となるわけです。もしかしたら湯治場としてそれ以前から発展していたのかもしれませんが、高島城下が「上諏訪」と呼ばれるようになったのは、この「上諏訪宿」以来ではないかと思います。
つまりこういう事が考えられます。現在の「下諏訪」という地名は「下諏訪宿」を経由して直接的に下社に由来するものです。しかし現在の「上諏訪」という地名は直接的に上社から由来するものではなく、「下諏訪」よりも「かみのすわ」に近い方、もしくは「下諏訪」よりも江戸に近い方という意味合いで、高島城下に割り当てられた地名という意味合いが強いのではないでしょうか。ただし「下諏訪」が由来する「しものすわ」が、「かみのすわ」があって初めて成り立つものであり、「上諏訪」が「かみのすわ」とは間接的に由来するということは否定しませんが。
皆さんはどうお感じになりましたか。
さてここで、根本的な問題が残っています。「かみのすわ」は上社に由来し、「しものすわ」は下社に由来するとすると、そもそも上社、下社の「上」「下」はどうして決められたか、ということです。それと関連があるのが「御神渡」ではないかと思います。
何度もここで書き込んでいますが、昔の諏訪湖はいまよりも大きかったと言われています。諏訪湖周辺の
地図を見ながら、想像を豊かにして以下をお読みください。
出典がどこだかわからなくなってしまいましたが、江戸時代には諏訪地方(高島藩)の石高を上げるために釜口(天竜川の注ぎ口)を削って、諏訪湖の水位を2m程度下げて陸地を増やしたため、諏訪湖の面積が半分ほどになったということらしいです。諏訪湖の岡谷側は、岡谷IC付近を扇の要とする扇状地形であり、意外と傾斜があります。そのため水位が2m上がっててもそれ程面積は増えません。つまり、水位を下げた際に陸地となったのは諏訪湖の南東の諏訪市側ということになります。
では現在の諏訪湖の面積を二倍にしたらどうなるでしょうか。おおよそ現在の諏訪IC付近まで湖であったと容易に想像できます。それ以前の時代にはもっと広かったでしょう。そうすると、諏訪湖の北端にちょうど下社が位置し、南端に上社が位置するように見えませんか。
そこで「御神渡」です。この「御神渡」は太古から発生する自然現象であり、諏訪神社の歴史以前から諏訪の地に住む人々に知られたものであることは確かでしょう。そのような人々が、一夜にして現れる(といわれる)「御神渡」という自然現象を目の当たりにして、「神様が馬に乗って通った跡」とか「竜神の現れ」と思うのは当然のことと思います。
諏訪湖には竜神伝説があります。大きく蛇行する「御神渡」がこの竜神伝説の由来となったと思われます。地誌によると、上社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)は諏訪の地に入った後に諏訪湖の竜神を討伐したとあるようですし、天竜川の名前も諏訪湖の竜神に由来するという説もあります。ちなみに、太古の諏訪湖は釜無川に注いでいたものが、八ヶ岳の噴火によりその流路を遮られ、釜口で決壊して流れ出したのが天竜川であるとも言われています。それが元は「天流川」と呼ばれていたのが竜神伝説と重なり「天竜川」になったと。
話は「御神渡」に戻しますが、太古の人々がその様な自然現象に畏怖心を抱き、その神を祀り、鎮めようとするのは自然な流れです。そして「御神渡」が現れ達する諏訪湖の北岸と南岸にそれぞれお社を建てて祀ったのが現在の諏訪大社の始まりではないのでしょうか。「御神渡」の神事では南北方向に「一之御神渡」「ニ之御神渡」の二本が現れますが、上社には前宮・本宮、下社には春宮・秋宮のそれぞれニ社づつあるのは偶然の一致でしょうか。
男神の祀られる上社と、女神の祀られる下社を結ぶように「御神渡」が現れる、と言うととても神秘的に感じられますが、その逆に「御神渡」の現れる両岸にお社を建てたと考えれば必然的なものとなります。これは記紀の時代以前の話であり、諏訪大社がいつから存在するか不明な、日本で最も古い神社の一つとされるのもそのためでしょう。その後、大和勢力に国譲りをした出雲勢力の伝説をはじめとした様々な伝説が混交して、現在の諏訪大社が成り立っていったのではないでしょうか。
さて「上社」と「下社」。「御神渡」が「神が通った跡」だとすると、どちらからどちらへ通って行ったかは気になるところです。そしてその道筋で、神様が降り立った方が「上」であり、神様が上陸した方が「下」であるとするのも当然のことでしょう。
残念ながら私はこの重要な部分に到達しておりません。敢えて言うならば、太陽の昇る南側から神様が降り立ったと考えるとか、「御神渡」の割れ目からその方向を南から北へと判断したのではないか、ということです(実際に私は御神渡を見たことがないので何とも言えませんが)。そして最初は区別のなかった社が、「御神渡」の「上」「下」に連携するように、「上社」「下社」とそれぞれ呼ばれる様になっていったのではないかと思っています。
長々と書き込んだわりには尻切れトンボ的な書き込みになってしまいましたが、現在の私が考えられる内容は以上です。いかがだったでしょうか。最後の「上」「下」に関してはもっと情報を集めてみたいと思います。
そうそう、あと調査の発端となった「御神渡」に関しては別途書き込みをしたいと思います。