落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。
落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。
そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。
本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、
hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。
地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・
『県境の交通路』があります。
その
附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。
地図11
なお、hmtマガジンには 特集
渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」
[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の
探訪ルートは、グリグリさんの作品です。
前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。
本題である
毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【
[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム
[65091]です。
地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。
明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは
[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。
現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は
現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。
明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。
この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。
川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。
[77081]
このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。
私は hmtマガジン
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。
この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか
[62889]。
毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。