都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

渡良瀬遊水地−4県が集まる境界地域

トップ > hmtマガジン > 渡良瀬遊水地−4県が集まる境界地域
記事数=27件/更新日:2011年6月13日

アメリカ合衆国西部の山岳地帯に、アリゾナ州・ニューメキシコ州・コロラド州・ユタ州の4州が一点に集まる 境界点があります。
[11033]太白さんによると、"Four Corner Monument"という 観光名所になっているそうです。
さてわが国では、関東地方の天気予報地図などでお馴染みの、5県境集中地帯がありますが、このうち千葉県は、最北端の関宿でも、栃木・群馬両県から 10km以上離れています。
では、茨城・栃木・群馬・埼玉の4県はどうでしょうか?

残念ながらこれも一点集中ではなく、栃木県(下野国)は、古河(茨城県下総国)近傍の 栃木・茨城・埼玉3県境(写真 の中央手前、三国橋と谷中湖との間)から 北西(左上)にかけて、埼玉県(武蔵国)と隣接しています。県境線は渡良瀬川の旧流路由来のために蛇行していますが、栃木・群馬・埼玉3県境(写真の左端中央付近)と、前記古河の3県境との間は 直線距離でも 2〜3kmあります。

単純明快な境界線については、両手両足で4つの州を股にかけた記念写真が撮れる という アメリカの「グレートジャンクション」[23953]には敵わぬものの、こちらの4県が集まる境界地域には、人手を加えて改良してきた水系にまつわる歴史があり、極めて興味のある場所です。

現在の地図では藤岡大橋の上手で栃木・群馬県境と離れ、ハート型の谷中湖の東を流れる渡良瀬川ですが、本来の流路は西側であり、現在でも県境線がその位置を教えています。渡良瀬川と巴波川(うずまがわ)・思川との間には赤麻沼などの沼沢地と内野村・下宮村などの村々(1889年に合併して谷中村)とがありました。

この姿を一変させたのは約100年前に作られた渡良瀬遊水地です。東京山の手線内の南半分に近い規模(面積 33km2)ですが、写真のように 渡良瀬川新流路の両側の 3調整池が整備されたのは 戦後の工事です。谷中湖(渡良瀬貯水池)は、第1調整池(1970)内を掘削した貯水池で、1990年に運用を開始しました。

落書き帳の記事では、いっちゃんさんの初記事[22463]以来、県境巡りも話題になっています。
谷中湖の南を走る道路で県境が目まぐるしく変り、しかも栃木県の北に群馬県があり、その先には埼玉県があるという予想外の順番までがおまけに付いています。
これも、かつての蛇行した流路に基く県境がもたらした歴史的な遺物であることが、昔の地図との対比でわかります[69978]

谷中湖の南岸に 栃木市の準飛び地として残された 下宮地区の 加須市編入問題。行政当局も前向きのようですが、難色を示す一部住民も居り、先行きは不明。

ついでに記しておくと、下宮の栃木・埼玉・群馬3県境は、全国に存在する 44箇所の3県境の中でも 数少ない平地に存在する3県境なのですが、その中でも 水面でもないもの として、全国唯一の貴重な存在と思われます。

筑波山で行なわれた 2010年オフ会の記録 には、「3県境近傍の今昔」「3県境探訪記」「3県境探訪ルート写真集」が、それぞれリンク付きで掲載されいています。
探訪記との重複はありますが、約半年分の記事9件を追録しました。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[22463]2003年12月2日
いっちゃん
[22465]2003年12月2日
なきら
[22482]2003年12月3日
いっちゃん
[35717]2004年12月13日
いっちゃん
[35735]2004年12月13日
むじながいり
[43138]2005年7月19日
hmt
[43139]2005年7月19日
いっちゃん
[46855]2005年11月24日
むじながいり
[46867]2005年11月24日
hmt
[46877]2005年11月25日
むじながいり
[69947]2009年5月5日
グリグリ
[69961]2009年5月6日
いっちゃん
[69977]2009年5月7日
hmt
[69978]2009年5月7日
hmt
[69997]2009年5月9日
hmt
[70030]2009年5月10日
hmt
[76271]2010年9月30日
まかいの
[76676]2010年11月6日
グリグリ
[76683]2010年11月6日
hmt
[76692]2010年11月7日
グリグリ
[76876]2010年11月24日
hmt
[76901]2010年11月27日
MasAka
[76925]2010年11月29日
88
[76927]2010年11月29日
oki
[76929]2010年11月29日
hmt
[77005]2010年12月10日
hmt
[77030]2010年12月15日
hmt

[22463] 2003年 12月 2日(火)16:26:10【1】いっちゃん さん
県境越え
千葉県野田市→茨城県境町→茨城県古河市→埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町のルートは、夜中だったら車で30分ほど走るだけで5県を巡ることができる。
だからどうだと言われても困るけど・・・。
[22465] 2003年 12月 2日(火)17:49:10なきら さん
いっちゃんさん はじめまして
[22463]いっちゃん さん
千葉県野田市→茨城県五霞町→埼玉県栗橋町→茨城県古河市→埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町
いっちゃんさん、こんにちは。なきらといいます。私は、これにかなり近いことを、過去何度かしております。重箱隅(「重箱の隅をつつくような」の略だそうです)のレスで恐縮ですが、埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町は、埼玉県北川辺町→群馬県板倉町→栃木県藤岡町の方が普通ですよね。
だからどうだと言われても困るけど・・・。
ふふっ。すでにお分かりとは思いますが、ここの方たちは「だからどうだ」なんて言わないですよ。そんなこと言ったら、ほとんどの会話が立ち往生してしまいますから。(あっ オーナーすみません。本日はハイになって、書き込み強迫症気味です。お見逃しを)
[22482] 2003年 12月 3日(水)09:04:12いっちゃん さん
なきらさんへ
初の書き込みで、ノーリアクションだったらどうしようと思っていたのでひとまず安心。どうもありがとうございます。ところで、ご指摘の
埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町は、埼玉県北川辺町→群馬県板倉町→栃木県藤岡町の方が普通ですよね
なんですが、確かに“普通は”そうなんですけど、国道354号ではなく渡良瀬遊水地の南の土手の下の道を通れば
埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町
の順になるんですよ。かつて遊水地界隈で、営業サボるためによく走ってたので、思いついた次第です。
[35717] 2004年 12月 13日(月)08:23:51【1】いっちゃん さん
「食い込み」「くびれ」と言えば
[35634]佐賀県さん
佐賀市方面から唐津市方面に向かう場合でいうと、国道203号線を進んで厳木町から相知町に入った!と思ったのもつかの間、すぐにまた厳木町に「戻り(?)」、そしてまたすぐに相知町に入ることになり、変な感覚を味わいます。
[35667]M.K.さん
道路の形状も手伝って、実際に走行すると不思議な感じがしそうな場所ですね。

私に打ちやすいボールを投げていただいたようで・・・。
私の記念すべき最初の書き込みのネタがまさにこの世界です。
まずは地図をご覧下さい。
スタート地点を右下の三国橋としましょう。
ここは「茨城県古河市」です。
橋を渡ると「埼玉県北埼玉郡北川辺町」に入ります。
渡ったところを右折して、柏戸の信号を渡良瀬遊水地方面に斜めに入ります。
程なく「栃木県下都賀郡藤岡町」に入りますが、すぐさま「群馬県邑楽郡板倉町」に入ります。
が、入ったと思ったら再び「北川辺町」に入り、こちらも入ったと思ったら「板倉町」に再突入してしまうのです。
この間せいぜい3kmです。
ついでに言うと、この道を直進すると今度は「藤岡町」に再突入します。これを加えてもトータル5kmちょっとでしょう。
この道はご丁寧にその都度県境の標識が立っているので、知らない人が走ると「ここはトワイライトゾーン・・・?」という感じです。
すべて県も変わるので、越県合併でもない限りこの状態は安泰ですね。
[35735] 2004年 12月 13日(月)19:21:45むじながいり さん
県境跨ぎ
[35717] いっちゃん さん

私がこの地で思いつくものといえば「渡良瀬遊水地マラソン」です。この大会はこの場所をスタート・ゴールとして、渡良瀬遊水地を2周するのですが、42.195kmの間に県境をなんと20回も跨ぎます。これほど県境を超える大会はなかなかないでしょう。まさに県境錯綜のこの地ならではです。走っていて、今いったい何県にいるのかわからなくなります。
主催者にこそ古河市が加わっていますが、茨城県に入ることがないのが残念ではありますが…。あと10メートル程度の位置にはいくんですけど。

ちなみに順に
栃木県藤岡町→埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町→(栃木県野木町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町→栃木県藤岡町→群馬県板倉町→栃木県藤岡町→栃木県野木町→栃木県藤岡町→埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町)→()内くりかえし→埼玉県北川辺町→栃木県藤岡町
[43138] 2005年 7月 19日(火)22:54:35hmt さん
ハート形貯水池のある渡良瀬遊水地に消えた「谷中村」
[43103] 山中鹿次 さん  地域のへそ
[43112] 小松原ラガー さん 全国へそのまち協議会加盟市町村

「へそ」と同じように、人体にたとえると、ここを、利根川水系の「ハート」と呼びたくなります。

天気予報地図でおなじみの群馬・栃木・茨城・埼玉の4県が1点に集まっているように見える場所。[22467] みかちゅう さん
そして、42.195kmの間に県境をなんと20回も跨ぐ「渡良瀬遊水地マラソン」の開催地。[35735] むじながいり さん

衛星画像で目立つのは、何といってもハート形の貯水池ですが、よく見ると、その北側に濃い緑色の葦原が拡がっています。
貯水池を含む渡良瀬川の南側が「第1調節池」、貯水池の北東側から渡良瀬川に合流する思川と巴波川との間が「第2調節池」、巴波川合流点よりも北側・渡良瀬川との間が「第3調節池」、それらを含む全体が「渡良瀬遊水地」です。

ところで、「さんずい」の「調節池」と、「つちへん」の「遊水地」の使い分けがお分かりでしょうか?
国土地理院の地形図、国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所のページ、施設の整備・維持管理実務を行なっている渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団のHP等によると、この地域の公式の呼び名は「渡良瀬遊水地」であると理解されます。

しかし、お役所自体が少し混乱しているのですね。
組織名は、利根川上流河川事務所渡良瀬遊水池出張所と、「さんずい」になのです。しかも、このページの写真説明では、「渡良瀬遊水地出張所全景」と誤記しているという念の入れよう。
振興財団の方も負けてはおらず、「遊水池会館」という建物に入っています。
YSKさんのご指摘[20011]によると、市販の地図の多くが「渡良瀬遊水池」と記載しているそうですが、むべなるかな。

それはさておき
よく知られているように、この渡良瀬遊水地の歴史は、足尾銅山の鉱毒事件と関連して語られています。
足尾の鉱毒被害は、早くも足尾で大鉱脈が発見された1885年の鮎大量死事件に始まったようですが、影響が大きくなったのは、その後の稲などへの農業被害で、群馬県邑楽郡、栃木県下都賀・梁田・足利・安蘇各郡だけでなく、江戸川や霞ヶ浦方面に及んだようです。

栃木県選出の代議士田中正造は、1891年、第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出し、以後、繰り返し政府に対策を求め、足尾銅山鉱業停止運動を展開します。農民の大規模な集団陳情(押出し)は、1897年から1900年の間に4回起きています。1901年に田中正造は議員を辞職し、鉱毒事件を明治天皇に直訴しました。

政府もこのような状況を放置するわけにはゆかず、さりとて、日清・日露戦争のさなかという時代背景から、簡単に銅山の操業を停止させるわけにもゆかず、銅山経営者の古河市兵衛に対して、厳しい対策を緊急に実施するように命じました(1897年の鉱毒予防令)。
この対策に当たった古河市兵衛が1903年、養子の古河潤吉が1905年に相次いで死去していることは、公害事件の原点が、原因者側にとっても厳しい心労をもたらしたことをうかがわせます。

しかし、実施された鉱毒予防策も、技術的には不完全であり、鉱毒は軽減されたものの、根本的解決には至りませんでした。
もっとも、渡良瀬川流域の鉱毒汚染地には、1902年の大洪水で新しい地層が堆積したことで、農業被害が軽減されたようです。
鉱毒反対運動も、中心人物の田中正造が死去する1913年頃には、下火になりました。

さて、鉱毒問題以外にも、渡良瀬川・利根川下流部には、洪水被害に対する対策が必要でした。
そこで、政府は渡良瀬川に遊水地を作り、利根川への流入量を調節する計画を立てました。水を滞留させれば、銅を主とする鉱毒も沈殿します。1905年、この遊水地として選ばれたのが、栃木県下都賀郡谷中村でした。
この立地は、周辺の村よりも低いという自然的条件にも適っていたのですが、鉱毒反対運動の中心地つぶしという面も指摘されています。

谷中村はこれに激しく抵抗し、隣の藤岡町との合併案を否決した。このため、合併に必要な谷中村議会の議決が行われないまま、谷中村は1906年に強制廃村となり、その領域は藤岡町になりました。
遊水地936町歩余の買収は、当時の渡良瀬川を管理していた栃木県によって進められ、380戸の移転が図られました。
移住先は近隣町村だけでなく、遠隔地に及びました。郵便番号091-0558北海道常呂郡佐呂間町栃木 という地名が、この移住を伝えています。
移住を拒否して1907年の強制破壊後も住み続けた元村民も、1917年には全員退去。

遊水池工事は、1912~1918年に実施されましたが、通常時は水はなく、大雨のときに水が溜められる状態でした。
第2次世界大戦後の新しい囲繞堤や越流堤の工事(1963~1998)で、3地域に分けて囲った現在の形になりました。

更に、1970年にできた第1調整池の中を掘削して、洪水調節容量の増大、新規都市用水のための容量確保等を目的とした貯水池化事業が1976年に着工され、1990年に運用を開始しました。
これが、ハート形の「渡良瀬貯水池」です。この貯水池の底はコンクリート張りで、土壌中に沈殿している銅などが東京に供給される水に流出しないようになっています。
もともと、楕円形だった設計が反対運動で縮小されてハート形になり、第2調整池内に作る計画の第2貯水池も、バードウオッチャーの反対で着工されなかったために、「第1」の字が取れた「渡良瀬貯水池」という名になりました。

そういえば、この「渡良瀬貯水池」には、「谷中湖」という名が付いています。
平成2年度よりダムとしての利用を開始
とありますから、ダム湖コレクションに収録できると思います。>美濃織部さん

「渡良瀬遊水地」は、面積33km2(大部分は栃木県)、治水容量1億7680万m3。内、「渡良瀬貯水池」の貯水量は2640万m3。
明治17(1884)年の谷中村と、ほぼ現在の形になった「渡良瀬遊水地」とを比較した地図
この地図の着色部分が、東京山手線内の南半分(中央線以南)に近い大きさ(33km2)と形の「渡良瀬遊水地」です。
[43139] 2005年 7月 19日(火)23:29:07いっちゃん さん
郷土の偉人
[43103]山中鹿次さん
関東。平野なんで小山くらいをあてはめる?
[43138]hmtさん
「へそ」と同じように、人体にたとえると、ここを、利根川水系の「ハート」と呼びたくなります。
過去の書き込みにもありましたが、関東平野の一番凹んだところが栗橋・古河あたりになるということを考えれば、距離的に近い谷中湖を関東平野の「へそ」と呼んでもよいのではないでしょうか。

さて本題。
同じく[43138]hmtさん
栃木県選出の代議士田中正造は(中略)鉱毒事件を明治天皇に直訴しました。
この田中正造という御仁、栃木県民なら誰でも知っている(と言うか教わったことのある)人物です。
みやこ♂さんの地元の方ですね。
他にも、那須野が原を開拓した印南丈作、矢板武などは他の都道府県ではまずお目にかからない栃木県限定の偉人でしょう。

このように、他ではマイナーな人物(ここがミソ)なのにその都道府県では必ず郷土の偉人として教わる人物っていると思うのですが、どうなんでしょう?
[46855] 2005年 11月 24日(木)05:26:53むじながいり さん
渡良瀬県境錯綜地
経県値が突然あちこちで大流行りしている今日この頃です。しかし私の経県値はちっとも伸びません。それはさておき。

埼玉栃木県境の話題がでてきて、以前つかんぼやとでお蔵入りにしたネタを思い出しました。そのときに作った写真を引っ張りだしてきて…、がーん、肝心の埼玉栃木県境が写っていないではないか。埼玉栃木県境はこんなところで、こっちは反対側です。埼玉栃木県境がはっきり示されているのはここが唯一でしょうね。

渡良瀬遊水地と言えば、以前も書いた渡良瀬遊水地マラソンは今年中止でした。夏頃に中止のお知らせの葉書が来ていたのですが、ネット上で見つけた同じく葉書が届いた人が電話で尋ねた話によると、どうやら財政難とのことです。
[46867] 2005年 11月 24日(木)20:18:18【2】hmt さん
栃木県の北に群馬県があり、その先には埼玉県が
[46855] むじながいり さん
以前つかんぼやとでお蔵入りにしたネタを思い出しました。そのときに作った写真を引っ張りだしてきて…

この写真を見て改めて認識したことは、ハート形の貯水池の南西側堤防(写真の右側)の下を走る「主要地方道 佐野・古河線」を南から北へと見渡した構図が、栃木県→群馬県→埼玉県という順になっていることですね。
羽生→館林→佐野とか、熊谷→太田→足利というような常識と逆順です。

もちろん、茨城県の古河から三国橋を渡り、国道354号から分岐した地点は埼玉県で、むじながいりさんの2番目と3番目の写真で示された埼玉・栃木県境を経て、上記の通り群馬県を少しだけ経由して再び埼玉県に入るわけです。写真の正面に写っている特徴ある蔽い付き展望デッキのある建物は、埼玉県北川辺町のスポーツ遊学館で 2003年開設、2004年11月には「道の駅きたかわべ」も開設されました。

撮影地点と思われる土手の位置を、航空写真 で示しておきます。こちらでは、スポーツ遊学館はまだありません。地図に切り替えれば、県境の位置を確認することができ、道の駅も表示されています。
地図でわかるように、埼玉県の区間は数百メートルで、その後は埼玉栃木県境から数えて1km余で4つ目の県境を越えて本格的に群馬県に入ります。

「渡良瀬遊水地マラソン」については、[35735] むじながいり さんの記事があります。下宮橋をスタート・ゴールとしてこの地点を通るとすると、…→群馬県板倉町→埼玉県北川辺町→群馬県板倉町→栃木県藤岡町でゴール(またはその逆順でスタート)と想像したのですが違いますね。どのようなコースなのかな?

ところで、なぜこんなに錯綜した県境になったのか。

[43138]で紹介した 遊水地の生い立ち に掲載されている明治17年の地図をご覧ください。
遊水地の南西側は、館林の城沼から流れてくる板倉川の下流である栃木県境にほぼ沿って作られましたが、川が蛇行していたために、東側の栃木県の一部が堤防の外にはみ出すことになりました。そして西側から板倉川に合流する谷田川の北側が群馬県、南側が埼玉県になっていましたが、この川(というよりも沼だったと思われる)も合流点の手前で蛇行していたために、両川に挟まれた群馬県の一部が埼玉県側に割り込んでくることになりました。

むじながいりさんの写真に示された2本の県境は、手前が板倉川、向こうが谷田川の跡で、両者は写真の左側(東武日光線柳生駅の方向)へ流れて合流していました。この2本の川の間の低地が群馬県として、現在も残っているのでした。
[46877] 2005年 11月 25日(金)08:00:13むじながいり さん
渡良瀬遊水地
[46867]hmt さん
マラソンでは[46855]の写真の土手は通りません。2004年のコースです。あの土手はウォーミングアップによく使われていて、私もこの土手を何往復かしました。

[46665] うち☆ さん
私の想像では、最難関は埼玉県です。埼玉県-栃木県境は普通の人は行くことないですからね。
マラソン好きとかでないと。
逆に遊水地マラソン完走者ならレース中だけで埼玉県-栃木県境を8回も越えますね。
普通の人といえば意外と東京から栃木へ至る路線は茨城県や群馬県を経ているという認識はないのかなと感じます。特に茨城県に駅のない東北新幹線なんかなおさら。普通って何?という問題も出てきますが。
[69947] 2009年 5月 5日(火)14:53:42【3】オーナー グリグリ
花紀行(PartI)
GWももうすぐ終盤ですが、各方面にお出かけされた方の書き込みが散見されますね。
私のGWは家内との花巡りでした。といっても2日間だけですが。


♪5月1日(金)♪

館林野鳥の森ガーデン
白桃さんと同じく芝桜見学を当初考えていたのですが、秩父の羊山公園や高崎のみさと芝桜公園は見頃がすでに過ぎていたこともあり、館林の野鳥の森ガーデンに予定を変更しました。

平日だったので高速の休日1000円の利用が出来ないのですが、東北道は100km未満なので通勤割引(50%off)が使えます(ただし一部区間のみ)。他にも早朝夜間割引(50%off)などもあるので、渋滞を避ける意味もあって早朝5時半に出発しました。東関道(早朝夜間割引で450円)-首都高(ETC割引で680円)-東北道(通勤割引で1,300円)となり、通常料金3,100円のところが合計2,430円となりました。これが休日だと2,100円になるようです。それにしても首都圏近郊でのETC割引は分かり難いですねぇ。NEXCO東日本のドラぷらのページにETC割引情報のページがあるのですが複雑怪奇。制度を理解するよりも高速料金検索のページで条件設定するのが簡単です(首都高の割引は別ページで再検索が必要)。

話がいきなりETC割引に逸れてしまいましたが、野鳥の森ガーデンには芝桜のガーデンのほかに青のガーデンや黄色のガーデンもあり、青のガーデンは見頃との事前情報でした。早朝出発したお陰で目立った渋滞もなく開園1時間前に到着。すぐ隣の茂林寺公園を散策して時間をつぶしました。さて園内ですが、芝桜は見頃を過ぎた状態ですし、青のガーデンのネモフィラも満開とはいえ量的には物足りない。黄色のガーデンのデージーやオキザリスなどは元々花びらで覆いつくす花ではないのでこちらもいま一つ。救いは園内一番奥の紫系中心のルピナスなどが満開だったことと、青のガーデン入口近くの赤と黄色系のルピナスとポピーが満開だったことでしょうか。それでも規模はいま一つであり、これで入園料500円×2と駐車料金500円はちょっとどんなもんでしょうと言う感じ。

物足りなかったので、この日はあと三ヶ所巡って一般道だけで帰りました。その三箇所とは....

渡良瀬遊水地
初めて行きました。何もないところですがのんびりしていいですね。このあたりはとくに気持ちが良かったです。で、しっかりこの地図の左上県道9号線から国道354号線を通過して、連続する5つの県境を経県して来ました。順に、群馬県(邑楽郡板倉町)→埼玉県(北埼玉郡北川辺町)→群馬県(同)→栃木県(下都賀郡藤岡町)→埼玉県(同)→茨城県(古河市)、です。県境の看板は埼玉県が一番立派で、群馬県と栃木県の看板は小さく地味でしたね。

砂沼広域公園地図
古河市から国道125号線を西に進んでいるとたまたま砂沼広域公園の看板が目に入り途中下車。砂沼(さぬま)って実は知りませんでした。国土地理院の湖沼面積にも入っていませんから1km2未満でしょうが、こじんまりと落ち着いた湖でした。地図にあるように歩行者専用の橋があり、そこから湖を眺め回せます。渡良瀬遊水地もそうでしたが釣りをしている人が大勢いました。
#砂沼の正確な面積を調べようとしたのですが、意外と調べ難かったです。55ha(0.55km2)のようですね。

筑波山地図
最後に立ち寄ったのは、砂沼からさらに西に向かった先の筑波山。実はここも私は初めてです。山頂に向かうにはケーブルカーとロープウエイの2ルートがありますが、地に足が着いているケーブルカーの方が良いと家内が言ったのでこちらを選択。往復で料金が1,020円は高い(?)。ちなみにロープウエイは1,070円。この2ルート、出発点も到着点もまったく別々なので、両方体験するのはできないことはないですが面倒ですね。頂上の見晴らしは良かったです。とは言え、この手の観光地は寂れる一方と言う感じは否めませんでした。

筑波山からは油天神山さんが単身赴任中のつくば学園都市や龍ケ崎市などを経由して帰途に着きました。
長くなりましたので2回目の花巡りは別途書き込みます。
[69961] 2009年 5月 6日(水)12:56:34いっちゃん さん
Re:花紀行(PartI)
ついつい反応してしまいます。

[69947]グリグリさん
■渡良瀬遊水地
初めて行きました。何もないところですがのんびりしていいですね。このあたりはとくに気持ちが良かったです。
そうですね。好天時にボケーッとするには最高の場所ですね。仕事中に営業車で訪れていたなんて口が裂けても言えませんが・・・。
で、しっかりこの地図の左上県道9号線から国道354号線を通過して、連続する5つの県境を経県して来ました。順に、群馬県(邑楽郡板倉町)→埼玉県(北埼玉郡北川辺町)→群馬県(同)→栃木県(下都賀郡藤岡町)→埼玉県(同)→茨城県(古河市)、です。
5年半前の私の落書き帳デビューネタの実践ありがとうございます。県道9号線から国道354号線ですから正しい堪能ルートでの通過ですね。そのまま国道354号線を進み、境大橋から千葉県入りすると短時間での5県経県が達成できるのですが。
いつかはオフ会で彼の地を訪れたいものです。

■砂沼広域公園(地図)
古河市から国道125号線を西に進んでいるとたまたま砂沼広域公園の看板が目に入り途中下車。砂沼(さぬま)って実は知りませんでした。
砂沼と言えば砂沼サンビーチです。小山あたりですと気軽に海水浴には行けませんので、真岡の一万人プールかここに行って楽しむのです。
[69977] 2009年 5月 7日(木)19:20:13【1】hmt さん
渡良瀬遊水地 (1)地図により偲ばれる昔の村(1889年合併後は谷中村)
[69947] オーナー グリグリさん
■渡良瀬遊水地
初めて行きました。何もないところですがのんびりしていいですね。このあたりはとくに気持ちが良かったです。

渡良瀬遊水地(面積33km2)は、東京山の手線内の南半分(中央線以南)に近い面積と形状です。
そして、現在は「何もないところ」です。
でも、約100年前の1906年までは、ここに「栃木県下都賀郡谷中村」がありました。
明治31年(1898)日本帝国人口統計によると、現住人口2534人、現住戸数377戸。
渡良瀬川・思川・巴波川の水が集まる洪水常襲地帯でしたが、その反面 土地は肥沃で、それなりに繁栄していたようです。

歴史的農業環境閲覧システム[65097]で公開されている 1884年頃の2万分の1迅速測図の 該当部分 をリンクしておきます。
水色で加筆された現在の水涯線によって、ハート形の「渡良瀬貯水池」と、その付近の道路(赤線)の現状を対比することができます。北に向かう道路の東側に下宮村、更に東に茅原を隔てて恵下野村、北部に広がる赤麻沼の手前には内野村が見えます。この3村が1889年に合併して谷中村になりました。

谷中村の運命を狂わせたのは渡良瀬川の上流にある足尾銅山による公害の発生で、1890年頃から問題化してきました。
田中正造代議士による帝国議会での質問から直訴事件へと進んだ鉱毒反対運動に対して、政府も古河も解決を迫られましたが、銅山の操業停止という根本的解決策をとることはできず、結局のところ、洪水対策とからめて鉱毒を沈殿させる遊水地の設置という方針になりました。

遊水地の候補地としては、一応は南側に隣接する埼玉県内(現・北川辺町)も挙げられたようですが、猛反対で実現せず、谷中村からその北にかけての栃木県内に決定。当時の河川管理担当・栃木県知事によって土地買収が進められました。
遊水地用地3300町歩の中には、赤麻沼など北側の村々に属する地域も含まれます。居住地域があり住民が移転を強いられたのも、谷中村だけではなかったようですが、村全体が消滅した谷中村以外のことはあまり知られていません。

谷中村跡 には、“明治39年(1906)4月 栃木県知事白仁武は、谷中村の廃村と藤岡町への合併を谷中村議会で決議させようと謀ったが、村議会はこの案を否決。しかし、白仁知事は村議会の否決を無視し、7月1日、「谷中村を廃村にして藤岡町に合併する」と発表した。”と記されています。

市区町村変遷情報 には「新設」とだけ記されており、日付は1906年5月11日となっています。
合併に必要な谷中村議会の議決が行われないままの強制廃村という異例の手続きだけに、具体的に明治39年5月11日にどのような手続きが行なわれたのか、気になるところです。

1907年7月には、谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行。

【1】タイトル変更
[69978] 2009年 5月 7日(木)19:48:52hmt さん
渡良瀬遊水地 (2)県境錯綜地帯
[69977]の続き。
利根川水系の治水対策に足尾銅山鉱毒の沈殿という名目を併せて、国家権力により谷中村をつぶして作られた渡良瀬遊水地。
土地を奪われた大部分の住民は、栃木県内や近県に移住しました。

栃木県の強力なすすめにより、1911年に66戸、1913年に30戸が北海道常呂郡佐呂間町に移住し、「栃木」という地名を Mapion に残しています。
しかし、気候が全く違う土地での定着は困難だったようです。1937年以来栃木県に帰りたいという請願が出されており、1972年にようやく受け入れられたという 報道 もあります。


私が最初に渡良瀬遊水地を訪れた 1962年には、まだ文字通りの「遊水地」状態でした。つまり、人家や耕地のない一面の茅原で、洪水になると自然に水がたまる「土地」でした。

「遊水」目的で選ばれたこの「地」(つちへん)の周囲を土手で囲み、「池」にする計画は戦前からありましたが、1963年になってやっと着工されました。
写真 に示されている第1~第3「調節池」は、周囲を堤防で囲んだ「池」(さんずい)ですが、洪水の時に水が入る治水目的の調節池です。
第1調節池の手前半分 4.5km2はハート形に掘削された「貯水池」で、こちらは水道水確保など利水目的が主になります。

時代は移っても、渡良瀬遊水地の最大の目的である治水の意義は失われていませんが、公害問題の方は、足尾銅山も閉山しており、すっかり歴史上の事件になりました。
1962年には訪れる人もいない秘境だったのですが、現在は、渡良瀬遊水地スポーツ&レクリエーション情報サイト の名が示しているように、市民レベルのレジャー施設化してきているのですね。

[69947] オーナー グリグリさん
で、しっかりこの地図の左上県道9号線から国道354号線を通過して、連続する5つの県境を経県して来ました。

既に[69961] いっちゃんさん のレスがありますが、谷中湖付近の県境錯綜地帯 は、たびたび落書き帳の話題になっています。

既に[46867]において、明治17年の迅速図(縮小)の掲載されたサイトを引用して説明していることですが、今回リンクした 大縮尺の地図 を見れば、渡良瀬川とその支流の蛇行が、この錯綜した県境の原因になっていることが一目瞭然です。

渡良瀬川の蛇行は、左岸の栃木県を南東側に突出させた結果、現在の「主要地方道 佐野・古河線」(画面中央を斜めに通る赤線)の一部が栃木県を通ることになっただけでなく、その北西側にはごく短い群馬県の領域も作ってしまいました。

かくして、北から進めば栃木県(佐野)→群馬県(館林)→埼玉県(羽生)という常識に反して、グリグリさんのルートの一部に
→埼玉県(北埼玉郡北川辺町)→群馬県(邑楽郡板倉町)→栃木県(下都賀郡藤岡町)→
という逆転区間が生じたのでした。
[69997] 2009年 5月 9日(土)15:09:04hmt さん
渡良瀬遊水地 (3)谷中村廃村手続、準飛び地として残る輪中堤外地
[69986] むっくん さん
谷中村を廃村手続きに関する情報の提供に感謝します。次のように理解しました。

町村制第4条の規定は、第1項で“関係ある市町村会…の意見を聞き…”を原則としながらも、第3項では“町村の資力法律上の義務を負担するに堪へず又は公益上の必要あるときは関係者の異議に拘はらす町村を合併…することある可し”となっており、内務大臣の指揮監督を承けた栃木県知事の職権による強制廃村が可能である。
明治39年5月 栃木県告示第176号:谷中村を廃し藤岡町へ合併する。
郡市町村廃置分合一覧表:明治39年7月1日に実施

この情報に基づき、市区町村変遷情報 に関し、次の修正の検討が必要と思われます。>88さん
合併日:1906年5月11日【これは告示日】→1906年7月1日
合併種別【注】:新設→編入
注:郡市町村廃置分合一覧表には、編入か新設かの区別につき記載ないが、廃村になる谷中村を合併するにあたり藤岡町を新設する理由はないと思われる。Wikipediaにも編入との記載がある。

紹介していただいた藤岡町の歴史>谷中村 記録からよみがえる姿 の はじめに 指摘されていた3点に関してコメントしておきます。
このページの1番下の写真により、谷中村の領域(黄線内)と輪中堤防の位置(茶色線)とがよくわかります。

遊水地になったのは、谷中村があった場所だけではありません。
この点については、私も“遊水地用地3300町歩の中には、赤麻沼など北側の村々に属する地域も含まれます。”[69977] と記しました。現・藤岡町の赤麻村・部屋村、それに現・小山市の生井村などに及んでいます。もっとも、その大部分は沼や茅原であり、主要な居住地が遊水地になってしまった谷中村に比べると 村への影響は相対的に小さかったと思われます。

大正期に入り、渡良瀬川河川改修工事により今の流路となりました。
谷中村が存在した明治時代の渡良瀬川は、谷中村の西、つまり栃木・群馬県境を流れていたのですね。
[46867]では、渡良瀬川が谷中湖の東を流れる現状に即して、“遊水地の南西側は、…板倉川の下流である栃木県境にほぼ沿って作られましたが、川が蛇行していたために、東側の栃木県の一部が堤防の外にはみ出すことになりました。”と書いてしまいましたが、明治時代のこの部分は渡良瀬川の本流だったのでした。

谷中村の西側、西側の隅の場所へ住んでいた方々は、今でもここに生活しています。
藤岡町大字下宮。上記渡良瀬川の蛇行により遊水地堤防の外に取り残され、幸運にも水没を免れた土地です。谷中村の前身である「下宮村」の名を伝えるだけでなく、航空写真 によって集落を確認することができます。

迅速測図 では画面の中央下端付近で、ここにも 下宮村 と記されています。画面中央部を斜めに走る輪中堤防によって下宮村の本体と隔てられた「堤外地」(川側)にも集落が見え、その一部が遊水地堤防の外に移転したものでしょう。

遊水地堤防は輪中堤防の数百m南西に作られていますが、水から村を守っていた輪中の内側(堤内)が貯水池になってしまい、かつては蛇行する川の流れに支配されていた堤外地の一部の土地が「(準)飛び地」として残されている姿は皮肉です。

琵琶湖葛籠尾半島[19049]の準飛び地(高月町・湖北町)が 余命今年限り[68883]となった現在、谷中湖で隔離された この「藤岡町準飛び地」は、内水面がらみの準飛び地として貴重な存在です。
[70030] 2009年 5月 10日(日)15:16:33hmt さん
渡良瀬遊水地 (4)栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道 9号 佐野古河線
[69947] オーナー グリグリさん
県道9号線から国道354号線を通過して、連続する5つの県境を経県して来ました。

県境錯綜地帯[69978]の 県道「9号」について記してみます。
なお、国道の場合は 「354号」は「路線名」そのものです[62950]。国道も県道も「線」は使いません。

先ず、「9号」という番号は何か?
道路法第9条では、都道府県知事が 都道府県道(県道)の路線を認定した場合になすべき公示内容は、
その路線名、起点、終点、重要な経過地その他必要な事項
となっており、番号は明示されていません。
しかし、公示様式を定めた道路法施行規則の様式1([62958] 88 さん)には、“整理番号”が記されており、法律に記された“その他必要な事項”がこの番号であることがわかります。

現行の 道路法 は昭和27年(1952)に施行されたのですが、初年は一級国道、翌年に2級国道の第1次指定があり、県道が新しいシステムに移行したのは、3年目の1954年以降になりました。

その第1弾として、 昭和29年1月29日に 主要地方道第1次指定の建設省告示 がありました。
主要地方道とは、道路法第56条による補助の対象になっている“国土交通大臣の指定する主要な都道府県道若しくは市道”のことで、道路地図ではしばしば緑色で表示されています。
# 主要地方道の大部分は都道府県道ですが、一部に大都市の市道もあります。

渡良瀬遊水地の西を通る県道も、上記の第1次指定で主要地方道になりました。
全国唯一の「4県にまたがる県道」の誕生は、この時であると考えられます。
しかし、この時点では統一した路線番号は付与されていません。
都道府県道又は市道:(旧システムの県道名が列挙されているが省略)
起点:佐野市  終点:古河市  経過地:栃木県下都賀郡藤岡町、群馬県邑楽郡海老瀬村、埼玉県北埼玉郡川辺村
名称:佐野古河線

これを受けて、関係する各県が新しいシステムの県道を認定します。その一例
昭和29年茨城県告示第862号
整理番号 2、路線名 佐野古河線、起点 県界 古河市 終点 古河市

整理番号が、現在の「9」と違っています。最初は各県バラバラで、道路標識にも使われていませんでした。
最初は単なる書類上の整理番号だったものが、都道府県道の標識に使われることになったのは、1971年(この年に主要地方道第3次指定)以降でした。
標識に使われることになると、複数の県にまたがる 県道の整理番号を統一する 必要が生じます。東日本の場合、番号の統一ができたのは 1990年代だそうです。

ともかく、現在の県道「佐野古河線」の整理番号は、4県共通の「9号」に統一されています。
Wikipedia では 便宜上 県道名を列挙した形で表示されており、この記事のタイトルにも この長い県道名を借用しました。

県道9号「佐野古河線」は、起点から 12kmほどは栃木県道で、下都賀郡藤岡町の新開橋で渡良瀬川を渡って南下。
渡良瀬遊水地西側の 東武日光線との間を通過する間に 群馬県道(邑楽郡板倉町)になり、埼玉県道区間(北埼玉郡北川辺町480m)、2度目の群馬県道区間(板倉町155m)、2度目の栃木県道区間(藤岡町の準飛び地[69997]420m)とめまぐるしく変り、再び埼玉県道区間(北川辺町)を 1000m走った柏戸交差点で 国道354号に合流します。
渡良瀬川を渡った三国橋の東詰で国道から分かれて 1200m先の本町二丁目までが茨城県道の区間(古河市)。

全国唯一の存在である4県にわたる県道9号ほどではないにしても、3県にわたる県道も かなり珍しい方です。
渡良瀬遊水地に近い利根川・渡良瀬川・江戸川流域には、その3県県道が4路線もあります。上流から列挙。
栃木県道・群馬県道・埼玉県道 20号 足利邑楽行田線
栃木県道・群馬県道・埼玉県道 7号 佐野行田線
茨城県道・千葉県道・埼玉県道 26号 境杉戸線
千葉県道・東京都道・埼玉県道 54号 松戸草加線

複数の県にまたがる県道は、3桁数字の一般県道にもありますが、こちらは 3県以上の例はないでしょう。
最近も話題になっている長崎県道・佐賀県道 109号 鷹島肥前線。鷹島肥前大橋

[68643]で“県道109号(予定?)”と書いたフォローとして、道路番号標識の 写真 により「109号」であることを確認。
…と思ったら、ずっと前の長崎県県北振興局建設部 道路一覧表(平成17.4.1現在)pdf に、既に
一般県道 109 鷹島肥前線 実延長2910m
と書いてありました。
鷹島肥前大橋開通前から、長崎県道109号は存在していたようです。
[76271] 2010年 9月 30日(木)00:57:47まかいの さん
オプショナル
[76234]油天神山 さん
行ってみた感想を一言で言いますと・・・うーん、どちらかというと小中学生向けの展示で、大人でもそれなりに楽しめるけどちょっと物足りない、というところですかね。
是非に、とまでは言いませんが、時間があるなら覗いてみても良いでしょう。入場料は無料ですし(笑)。

ありがとうございました。
なんとなくそのような雰囲気があったのですが、それなりに楽しめそうかな。
ちょっと気軽に立ち寄ってみようかなと思います。

そういえば、オフ会の際に、
[69978]hmt さん
渡良瀬遊水地 (2)県境錯綜地帯
の県道9号へと訪問される方もいらっしゃるかもしれませんが、こんな記事を見つけました。
下宮地区の編入問題 住民意思確認で協議 栃木市 来月6日、加須市と
編入はまだまだ先かもしれませんが、これまでのような県境またぎは今のうちですかね。
[76676] 2010年 11月 6日(土)11:33:47オーナー グリグリ
栃木市藤岡町下宮地区の加須市への編入
オフ会メーリングリストでMasAkaさんが情報を流してくれた話題です。落書き帳にも紹介させてください。

産経ニュースサイトの「【ニュースの核心】事実上の“飛び地”栃木市藤岡町下宮地区の加須市への編入問題 住民の合意形成が不可欠」という記事です。[69947]で書いた渡良瀬遊水地の南側に集中する県境が入り組んだ地区の話題です。[69947]を書いた当時は、県道9号から国道354号を北から南東方向へ走ると、

群馬県(邑楽郡板倉町)→埼玉県(北埼玉郡北川辺町)→群馬県(同)→栃木県(下都賀郡藤岡町)→埼玉県(同)→茨城県(古河市)
と県境を通過しましたが、今は合併で、

群馬県(邑楽郡板倉町)→埼玉県(加須市)→群馬県(同)→栃木県(栃木市)→埼玉県(同)→茨城県(古河市)
となりました。

この栃木県の旧藤岡町下宮地区、地図ではこのあたりです。私が訪れた時は、この地図の左上にある埼玉県のきたかわべ道の駅で休憩し、スポーツ遊学館という施設の屋上にある展望台から谷中湖や県道9号を眺めることができました。この下宮地区やその手前の群馬県板倉町海老瀬のあたりは民家が県道沿いを中心に並んでいたように記憶しています。県道の北側は広場やグラウンドになっており、一般民家はなかったと思います。改めて地図を見てみると、栃木県の下宮地区だけは確かに飛び地状態ですね。海老瀬地区は埼玉県加須市小野袋の北側に本体があり、下宮地区のように孤立した状態ではないです。

ニュース記事によると、この下宮地区には12世帯34人が居住しているようですが、必ずしもこの地区全体の総意が加須市への編入でまとまっている訳ではなさそうです。編入がすぐに実現するかは微妙な状況ですね。ところで、今回の筑波山オフ会の翌日、この渡良瀬遊水地へのツアーが計画されています。オフ会はこれからでもまだまだ参加申し込みできますので、皆さん、どうぞご検討ください。
[76683] 2010年 11月 6日(土)21:00:38【1】hmt さん
筑波山オフ会2010協賛:渡良瀬遊水地
[76676] オーナー グリグリさん
今回の筑波山オフ会の翌日、この渡良瀬遊水地へのツアーが計画されています。

…というわけで、hmtマガジンに、特集「渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域」 をアップしました。

むじながいりさんが[46855]で貼ってくださった写真がリンク切れになっているのは残念。
渡良瀬遊水地マラソンのコース[46877]も切れています。
[69997]で引用した「谷中村 記録からよみがえる姿」も、合併により藤岡町HPがなくなり、栃木市HP内を探しても見つかりません。

3県境について
sutekinaおじさん【現futsunoおじさん】がまとめてくださった[31626][31627]三県境に示されているように、3県境の大部分は山岳地帯にあります。木曽三川合流点に次いで標高が低い平野部は、関東の4地点。この内3地点は渡良瀬川と江戸川の水面です。

埼玉県への編入問題が浮上している下宮地区がらみの栃木・埼玉・群馬3県境も、昔は渡良瀬川と支流との合流点でした。
しかし、渡良瀬遊水地の工事ですっかり姿が変り、陸上になった現在は、全国唯一の平地3県境であると思われます。

下宮地区について、もう一つの特異点を挙げておくと、内水面がらみの準飛び地であること。
葛籠尾半島[19049] の高月町・湖北町準飛び地が長浜市への合併で消滅した現在、これも唯一の存在になったのでしょうか。
[76692] 2010年 11月 7日(日)09:18:17オーナー グリグリ
Re:筑波山オフ会2010協賛:渡良瀬遊水地
[76683] hmtさん
…というわけで、hmtマガジンに、特集「渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域」 をアップしました。
タイムリーな編集をありがとうございました。特集記事を見ました。この件は、いっちゃんさんのデビュー記事そのものであり、過去にもいろいろ語られたという、記念すべきテーマですね。

[76690] MasAkaさん
渡良瀬遊水地関連の記事をご紹介いただき、ありがとうございました。
いえいえ。ところで、hmtマガジンの特集を見て気が付きましたが、[76271]でまかいのさんが9/28付けの下野新聞のニュースをご紹介されていましたね。栃木市と加須市が10/6に協議するという記事でしたが。その結果を踏まえた記事が、[76676]の産経ニュースの記事ということで、必ずしもすべての住民が賛同している訳ではなくしばし静観という結果に。まかいのさんの記事を失念しており失礼しました。
[76876] 2010年 11月 24日(水)16:39:59【1】hmt さん
鶴の嘴の先端
「鶴舞う形の群馬県」
アーカイブズ にもなっている「上毛かるた」です。

その「鶴」の嘴の先端・邑楽郡板倉町海老瀬は、渡良瀬遊水地の南部(西寄り)で、群馬県・埼玉県・栃木県の3県境になっています。
そこから2~3km離れた渡良瀬貯水池南東には 埼玉県・栃木県・茨城県の3県境があり、古河の三国橋から県道9号(最初は国道354号と共用)を走れば、茨城県>埼玉県>栃木県>群馬県>埼玉県>群馬県>栃木県と目まぐるしく変ります[35717]

このような県境錯綜地帯になった理由は、県境(遡れば上野・武蔵・下野・下総国境)が作られた当時の渡良瀬川や その支流が 蛇行していたためですが、この付近の水系は、約100年前からの渡良瀬遊水地造成によって一変しました。hmtマガジンの特集記事をご参照ください。

この落書き帳では、筑波山オフ会明けの日曜日(11月21日)、同好の士が誘い合い、日本唯一の存在である 田園地帯の3県境を訪れました。オフ会で集まった 26名の内 なんと 17名が参加するという大人気。

古河の三国橋を渡った先は埼玉県で 旧北川辺町。3月に加須市になったばかりです。すぐ右手は「三国」の由来である武蔵・下総・下野三国境で、ここも3県境ですが、渡良瀬川の中なので現場に立つことができません。
少し進むと 渡良瀬遊水地の大部分を占める栃木県の 突出部になって、旧藤岡町下宮(したみや)。ここも3月に栃木市に編入したばかりです。左手の土手下に目的地を見ながら進むと、すぐに群馬県板倉町を経て、あっという間に道の駅・きたかわべ到着。ここは再び埼玉県です。

道の駅に駐車して階段を降りれば群馬県の先端部。谷中湖(渡瀬貯水池)の一部を介して板倉町海老瀬の本体と繋がってはいますが、事実上の飛び地です。栃木市下宮のように本体から遠く離れた存在ではありませんが、ここも内水面がらみの準飛び地でした。

田畑の中を少し歩いて、いよいよ「鶴の嘴の先端」である 3県境とおぼしき地点に出ます。MasAkaさんが Google Mapから見つけてくれた立て札があります(アルバムIMG_0862)。
この立て札によると、小さな水路が県境で、その合流点が3県境となっています。
落書き帳のグループも、その情報に基づいて、そこで記念写真を撮ったりしたものですが、合流点の水たまりが本当に3県境だったのでしょうか?

MasAkaさんの写真説明(IMG_0848)にも、“この水路が埼玉県(右)と群馬県(左)の県境?”と疑問符が付けられているのですが、現地で得た情報から、私も「現在の水路=県境」説に、いささか疑問を抱いています。

その根拠は、水路の合流点よりも僅かに北東側(栃木県側)にある「基点」と記された境界標石で、IMG_0877に撮されています。

私も、この石だけでは何の基点かわからなかったのですが、水路に沿って北に進むと、同じく栃木県側の岸に「群馬県」と記された標石(IMG_0888)があることを知りました。
標石は、群馬県が「鶴の嘴」に沿って建てた県境標石で、「基点」は鶴の嘴の先端にあたる群馬県の基点だったのですね。

そこで改めて立て札の写真を見ると、合流点の右上にある「基点」標石を境に、右端部(東側)と水路側とは植生が異なっています。現地の観察でも、昔の渡良瀬川の跡とおぼしき東側は荒地状態で、現在の水路周辺の土手を挟んで西の群馬県側は田んぼ。
どうやら地表の姿が変わっているこの線が、栃木県との境である渡良瀬川旧河道の右岸で、「群馬県」の建てた標石は、その延長上にあるようです。

MasAkaさんがML00195で紹介してくれた 1974年の空中写真 は、渡良瀬川の真ん中に境界線が引かれた 明治17年の迅速測図 と現状とを結びつける 良い資料になっていると思います。

渡良瀬川の真ん中が県境だったのならば、右岸に設置された「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないかと考えています。

群馬・埼玉県境とされた水路の北側にある地表の色の変った線も、同様に県境と思われますが、この線の延長上にあると推定される県境標石は、確認するに至りませんでした。1974年空中写真でも、谷田川旧河道跡の合流点付近は、既に認められなくなっています。

以上、3県境ツアーから生まれた 鶴の嘴の先端に関する疑惑 を提示しておきます。
[76901] 2010年 11月 27日(土)14:18:20MasAka さん
3県境の話題(MLからの転載)とレスもろもろ
3県境の話題について、私がオフ会メーリングリストに流したメール[off7:00195]を再構成してこの落書き帳に転載します(“--------”で挟んだ部分)。

--------

[76876]hmtさん
MasAkaさんによる IMG_0848の写真説明にも、“この水路が埼玉県(右)と群馬県(左)の県境?”と疑問符が付けられているのですが、現地で得た情報から、私も「水路=県境」説に、いささか疑問を抱いています。

コンクリート張りの水路というのは、自然の川と違って人工物です。当然ながら管理権もありますので、水路の真ん中に境界があるというのは確かに考えにくいですね。アルバム(*1)には私がためますの中心を指し「3県の接点?」としている写真もありますが、正確にはやはりどちらかに偏っている、とみたほうが良さそうです。

ちなみに3県境の位置をmapionで見ると、栃木県の県境が屈曲しており、南側は東(群馬県側)に、北側は西(栃木県側)にずれています。しかし、そうなると

(同[76876]hmtさん)
水路に沿って北に進むと、同じく栃木県側の岸に「群馬県」と記された標石(IMG_0888)があることを知りました。

としているのと矛盾しているように見えます。また、道路管理者は基本的に県境を越えると変わりますから、そのような場所には舗装に継ぎ目があったりするものです。そこで、当該地点の南東にある道路をチェックしてみると、こちらは水路の西側で舗装の継ぎ目がありますので、これもmapionの境界とつじつまが合いません。逆になっていれば現地とぴったり合うのですが。

#注)この疑問についてはメーリングリスト[off7:00198]にて88さんから
これは、先に埼玉県側(南西側)が先に舗装を施工し、後から群馬県側(北東側)が舗装を施工した際、舗装の継目をスムーズに処理するため、群馬県側の施工業者が広めに、つまり埼玉県側に少しはみ出して施工し、本来ならば水路の北東側まででよいところを、水路の南西側(埼玉県側)まで施工したものと推測します。
#という意見をいただきました。

それでは、国土地理院のウォッちずではどのようになっているかと調べてみたところ、これが全然違う場所に3県境が。2.5万分の1の精度だとこの程度なのでしょうか。それでもあまりにズレが大きいような気がします。

Googleマップで表示される境界もこれにならっているようですが、拡大表示すると、何と家のど真ん中に3県境があります。この家の表札に掲げられている住所は埼玉県でしたので、この境界は誤りであると考えられます。Yahoo!地図だと建物の地番表示も出るので、それも見る限りはmapion説(?)が支持されます。

ただ、天下の国土地理院がそんな間違いを犯すとも思えないので、過去にはそこが境界だった時期もあるのかも知れません。厳密に判断するには法務局などで調べないとならなさそうです。

#注)水路の所有権については同じく88さんのメール[off7:00198]にて
この水路はほぼ間違いなく法定外公共物なので、地方分権一括法により、国から地元市町村へ譲与され、国(財務局)と当該市町村とが契約を締結し、H17(2007).3.31までに所有権が移っているはずです。(拙稿[65115](*2)を参照)
この両者又はこの事務に関与した県(従前の事実上の管理者であった)に確認すれば確実にわかります。
#というコメントをいただいております。

また、1974(昭和49)年撮影の空中写真(国土情報ウェブマッピングシステムより)を見ると、栃木県側が旧河道の跡であることがはっきりとわかります。川があった頃はこの川の真ん中が県境とされていたでしょうから、「群馬縣」と書かれていた界標は旧河道を埋め立てた場所と、従来から群馬県の土地であった旧河岸の境界に立てられたもの、と考えるのが自然でしょうね。

さらに細かい所を突き詰めていけばかなり面倒な話になってきてしまいますので、この辺で留めておくのが適当でしょうか。とりあえず、一瞬で経県値を9点稼げる超お得な場所だということにしておいて、あまり深く突っ込まないようにしておきましょう。

--------

本文*印への注:
*1:私が撮影した写真をアップロードしたアルバムサイトのこと。このサイトに掲載した写真は後ほどオフ会記録のページの写真集に転載されると思います。
*2:MLで流れたメールは記事番号に誤りがありましたので、正しい番号に修正しました。

[76841]小松原ラガーさん
茨城空港の場合、滑走路と駐機場のみで誘導路なんて代物はなく、滑走路=誘導路なのでした。

ここで言う誘導路というのは平行誘導路(滑走路に平行して設置されているもの)のことですね。私が松江出張のため先月利用した出雲縁結び空港も滑走路上でUターンする方式でした。私が初めて平行誘導路のない空港を利用したのは石垣空港で、ここは年間180万人(国内の空港で第18位)が利用し、地方空港としては比較的便数も多い(着陸回数は丘珠・新潟・広島などと同程度)ため平行誘導路なしでよくさばけていると思います。ほかに年間100万人以上が利用する空港で平行誘導路がないのは調べた限り富山空港・宮古空港のみのようです。この平行誘導路なしの空港、[76848]でにまんさんが書き込まれているとおり、便数の少ない地方空港ではかなりの数があると思われます。

[76869][76880]桜トンネルさん
オフ会留守番クイズの企画お疲れ様でした。共通項の基準の設定に詰めの甘さがあったとのことですが、自ら桜トンネルさんにツッコミを入れた立場でアレですけども、十番勝負でもあいまいさの残る共通項があるのでそれほど気にする必要もないと思います。こういうのはどちらか一方だけが正しいという話ではないですから、誰かがいちゃもんをつけてきても自分なりの線引きをちゃんと説明できればそれで十分なわけで。

ちなみに私の解答については「条件に書いてなくても趣旨からして日本国内の47都道府県以外の解答は採点対象外ですので、それはちょっと勘弁してください」とでもしてくれれば良かったのですが(汗)。それを真摯に採点していただいて大変恐縮です。
[76925] 2010年 11月 29日(月)06:00:49【1】88 さん
3県境探訪記~3県境疑惑
(オフ会MLに私が流したしたものを、大幅に加筆・修正の上での投稿です。[76901]MasAka さん が一部を転載していただいていますが、私の記述内容に関してはさらに拡充版です。)
さて、第7回公式オフ会の後のオプショナルツアーの3県境について、[76876]hmtさんから疑惑を呈されています。

まずは、[76876]hmtさんでご紹介があった明治17年の迅速測図判読の理解を手助けを兼ねて、M17年当時の村名及び現在に至るまでの自治体の変遷を記します。リンクは市区町村変遷情報の個別情報へのリンクです。今回の例では、近世村がそのままM17当時も存続していました。
栃木県群馬県埼玉県
近世村下都賀郡下宮村邑楽郡海老瀬村北埼玉郡小野袋村
M22.4.1下都賀郡谷中村北埼玉郡川辺村
M39.7.1下都賀郡藤岡町
S30.2.1邑楽郡板倉町
S30.4.1北埼玉郡北川辺村
S46.4.1北埼玉郡北川辺町
H22.3.23加須市
H22.3.29栃木市

hmtマガジン渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域で、渡良瀬川を含むこの地域の歴史などについてまとめられています。
当該地付近では、明治38(1905)年から渡良瀬遊水地の事業が着手されました。また、明治43(1910)年から昭和元(1926)年にかけて藤岡放水路の工事が行われ、現在の渡良瀬遊水地の第1貯水池と第2貯水池の間に施工されました。これらの大規模事業により、従来の渡良瀬川は治水の面では主たる役割を離れることとなり、渡良瀬川本川ではなくなりました(藤岡放水路が本川となる)。
今回3県境があると判断した水路は、元々は渡良瀬川そのもののようです。明治17年の迅速測図でも明示されています。
(参考)
国土交通省関東地方整備局渡良瀬川河川事務所
国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所「調節池化工事(渡良瀬遊水地)」

実は、MLに投稿した時点では、この水路は現況から鑑みると「法定外公共物」の「水路」に間違いないだろうと考え、そう記述しました。
「法定外公共物」とは、大雑把に言うと、道路法や河川法などの適用を受けない公共物で、国有財産(建設省→国土交通省所管)でした。「農道(里道)」・「水路」が、法定外公共物の代表例です。
法定外公共物の水路とは、河川法のような「法」の適用を受けない水路、イメージとしては田に水を引き入れる小さい用水路を思い浮かべていただけるとよいでしょう。
同様のものに、農道(道路法の適用を受けない道、あぜ道のイメージ)もあります。
これら法定外公共物は、地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律(略称:地方分権一括法)(H11.7.16法律第87号、H12.4.1施行)により、H17.3.31までに原則として所属する市町村に無償譲渡されました。
今回の水路は、現況を見る限りでは、典型的な「法定外公共物」(水路)の体をなしていました。
(参考)
法定外公共物については、[65115]拙稿でも簡単に述べました。詳しくはこちらのHPもご参照ください。
・財務省九州財務局福岡財務支局HP内「旧法定外公共物(旧里道・旧水路)の管理処分」
・松本市HP内法定外公共物について

ただし、帰宅後少し疑問が湧いてきました。
想像の域を出ませんが、過去の渡良瀬川の歴史を見ると、現在の形体のまま往時から「渡良瀬川」であったとは考えにくいです。従前の渡良瀬川とは概ね位置の変更はないとしても、川幅や高さなどは大きく変わったのではないのでしょうか。元々は利水及び治水の目的を効率的に発揮するため、それなりの幅がある、築堤または掘込河道の形状をなしていた河川であり、それが、各事業の実施により求められる役割が小さくなり、農業用水路としての機能及び周辺の雨水排水機能のみが残り(今回現地で見る限りその目的を超えるものではないと見受けられる)、不要な部分は売却・換地等により、現在の状態となったと考えられます。
このため、現在の状態は、(渡良瀬川に隣接した土地をを追加買収して拡幅したと仮定して)元々の渡良瀬川のうち一部のみが現在の水路として残っている可能性が高いと考えます。
なお、この場合でも、元々の法定外公共物部分だけが残っているかもしれませんし、河川でなくなった部分(廃川敷)を処分した残余や土地改良法の換地処分等により残った部分で、無番地(法定外公共物は一般的には地番が設定されたことがなく無番地であることが通例)ではなく、建設省(国土交通省)名義の有地番の法定外公共物かもしれませんが、事実上の法定外公共物と見做して差し支えないと思います。

さて現況の水路の詳細な考察です。[76876]hmtさんから、3県境について疑問が呈されました。
現地を見た様子から考えると、元は三尺(≒90cm)の土羽(どは、盛り土で作ったの斜面)の水路であり、それを、「群馬縣」の境界柱付近では、コンクリート構造物の水路に改修したものでしょう。3県境付近では「土羽」のままでした。
一般的に水路の幅(土地の境界を考えるときの幅)は、水が流れている部分だけではなく、「護岸」にあたる部分も、一体として考えます。これは、小さい水路ではなく、大きい河川の場合でも同じで、例えば堤防がある河川の場合、堤防なくしては河川そのものが成り立たず、堤防(土手・堤、河川法では「河川管理施設」と言います)も含めた範囲が、水が流れている部分と一体となって「河川」を形成していると考えます(断面図の例:河川用語集「堤防」(国土交通省国土技術政策総合研究所HP内))。
いわゆる法定外公共物の水路の幅は、土羽の水路の状態でも、またその後コンクリートの水路に改修した場合でも、水が流れる部分の中心線を基準として、そこから両岸に45cmずつを取ることが一般的です(地域、状況により各種例外あり)。
当該「群馬縣」の境界柱?は、この東端に当たるのではないか、といった話を、現地で少ししました。
つまり、仮に水路の中心線を県境と考えたときには栃木県の中に入り込んで設置されているように見える「群馬縣」の境界柱は、「護岸の一部もその水路の土地の一部である」との考え方から見ると、まさしく、群馬県の東端に立っている、ということです。ちょうど、水路のの護岸の「肩」の部分から30cmほど東側に境界柱が立っていましたから。
この「群馬縣」の境界柱の所在から考えると、正確を期して考えた場合は水路の中心線が県境ではなく、この水路が属する県は、
・3県境から北方向(西:群馬県、東:栃木県の区間)・・・群馬県(境界柱は群馬県の東端)
・3県境から東方向(北:栃木県、南:埼玉県の区間)・・・埼玉県
の所属になると想像しています。(3県境から西方向(北:群馬県、南:埼玉県)は不明)
一般の地図では、このような水路の護岸が所属する県は云々ということを考慮すると些事になって見易さの利便性を損なってしまうので、簡便に水路の中心に県境の線を入れることが通例となるのでしょう。

さらに、一般的には、ではありますが、法定外公共物の「水路」には水路の管理道及び水路掃除に伴う「泥揚場」として、法定外公共物である「農道(里道)」が隣接して存在することが多いです。
水路幅が90cmとして、農道も90cm(≒三尺、ゆえに「三尺道」とも呼称)が一般的な幅です(例外あり)。
今回の例の場合、「群馬縣」の境界柱の位置(水路の護岸の東端にあると考えられる)から見て、水路の東側に農道があるとは考えにくく、西側に存するか、あるいは渡良瀬川の切り替えの歴史から見てそもそも存在しない等、当該地に「農道」が存するかどうか(現況での有無ではなく本来の法務局の地図上の有無)については不確定なところはあります。
いずれにせよ、水路の中心線が、本当の県境ではなく、境界柱までが群馬県であろうと推測します。
hmtさんの疑惑は、そのとおりだと認識しています。

――――――――――
これらの疑問を根本的に解決する方法は、もちろんあります。
法定外公共物の市町村への譲与に関しては、旧所有者である国(財務局)、譲与を受けた市町村、従前の事実上管理者でありこの譲与事務に関与した県に確認すれば確実にわかります。
もちろん、法務局でも、法定外公共物の有無はわかりますし、法務局に備え付けられている各種地図、不動産登記簿を調査することも解決の一助となります。
もっとも、土地の測量・境界という土木的な話になると、「隣接」というのは非常に微妙な話になってしまいます。十番勝負などで自治体が隣接する・しないの話は、厳密に考え始めると単純には決められない件になってしまいます。土地の境界というものは、当該土地の所有者(及び機能管理者ら)が、現地で、境界確定協議の上、測量し、境界確定書(民法上の契約にあたる)を交わすことが必要、となってしまいます。
本当にやろうとすると、これらの調査はやはり大変手間がかかることです。
ちなみに、現地ではその後に私がEMMさんと立ち話する中では、この水路は農業用水になっているので、その水路の(機能の)管理者である水利組合がどこか、また、その水利組合を所管している土地改良担当部局はどこの県か、といった話も出ました。
[76927] 2010年 11月 29日(月)10:45:51【1】oki さん
渡良瀬川旧河道に関する若干の考察
皆様楽しいオフ会を過ごされたようで、うらやましい限りです。当方はオフ会当日も、いつもの如く仕事および家事に追いまくられていたのですが。
さて、話題になっている3県境について、思いついたことがあるので書き込んでおきます。
旧下宮村、海老瀬村、小野袋村の境界について、現在の県境が本当に渡良瀬川旧河道の中央部だったのかという疑問が呈されているようで、以下の[76876] hmt さん の意見に集約されていると思います。

そこで改めて立て札の写真を見ると、合流点の右上にある「基点」標石を境に、右端部(東側)と水路側とは植生が異なっています。現地の観察でも、昔の渡良瀬川の跡とおぼしき東側は荒地状態で、現在の水路周辺の土手を挟んで西の群馬県側は田んぼ。
どうやら地表の姿が変わっているこの線が、栃木県との境である渡良瀬川旧河道の右岸で、「群馬県」の建てた標石は、その延長上にあるようです。
(中略)
渡良瀬川の真ん中が県境だったのならば、右岸に設置された「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないかと考えています。

hmt さんは、このあたりの荒地を旧河道と考え、現在の県境が旧河道の西端ないし南端に引かれている点に疑問を持たれているのだと思います。

そこで、旧帝国陸軍が撮影した1941年時点の空中写真をご覧ください。白黒で見にくい写真ですが、注目していただきたいのは旧河道と土手沿いの道路との間、旧下宮村の飛地にある1件の農家です。この農家の敷地はかなり広く、その東西方向の幅が、すぐ西側を通る渡良瀬川旧河道とほぼ同じであることが分かります。
次に、MasAkaさんが紹介された1974年の空中写真。ここでも、件の農家の存在ははっきりと分かります。そして、渡良瀬川旧河道の幅が農家の敷地幅とほぼ同じであるのも同様です。しかし、この写真では、旧河道の中央部に線が引かれ(おそらく用水路でしょう)、2つの地域に分けられつつあるように見受けられます。また、旧河道の存在は、農家の西側(下宮村と海老瀬村との境界)では明確ですが、南側(下宮村と小野袋村との境界)でははっきり分からなくなっています。下宮村側の旧河道ははっきり見分けられますが、小野袋側は不明瞭です。

以上を踏まえた上で、改めて現在の空中写真を眺めてください。例の農家は以前と同じように存在します。しかし渡良瀬川旧河道とされる荒地の幅が、農家の敷地幅の半分程度しかないようです。すると、hmt さんが旧河道と考えられた荒地は、実は旧河道の栃木県側の部分ではないかと思われます。
海老瀬村側では、土地改良工事でも行われたようで、境界のすぐ西側に南北方向の直線道路が伸び、1941年や74年の空中写真に見られた河道跡の痕跡もありません。小野袋側の方は、以前から河道跡は不明瞭です。ということで、現在はっきりと認められる河道跡は栃木県側だけになってしまっていると考えられます。したがって、河道跡の西端ないし南端に引かれた現在の県境線は、まさに渡良瀬川旧河道の中心線ではないか、と思われます。

現地調査にも行っていない人間が、空中写真だけをもとに外野から口を出すのははなはだ心苦しいのですが、このような考え方もあるということで、ご検討の参考資料にしてください。

※「宮中」写真を「空中」写真に訂正(「宮中」写真だと、やんごとない方々のパパラッチ写真のようで)
[76929] 2010年 11月 29日(月)14:06:35【1】hmt さん
渡良瀬川旧河道の3県境
[76901] MasAka さん
[76925] 88 さん
[76927] oki さん

鶴の嘴の先端[76876]である群馬県邑楽郡板倉町大字海老瀬が、栃木県栃木市藤岡町下宮及び埼玉県加須市【旧北川辺町】小野袋と接する3県境について、立て札に記されていた「現在の水路=県境」説に対する疑惑を記したところ、いろいろと考察をいただき有難うございます。

これらのご意見を拝聴した結果、渡良瀬川旧河道については、半月状の下宮飛び地の外周をなす 現在の荒地 は、渡良瀬川旧河道左岸側の半分の痕跡であるとする、[76927] oki さんの考察に納得しました。
そこで改めて [76901] MasAka さんリンクの 1974年空中写真を見ると、右岸側の群馬県にも 河道の跡とおぼしき耕地の区画が認められ、3県境に続く埼玉県では欠けていますが、その東側の一部には 栃木県側と同じ幅の 細長い区画が再び現れます。

…というわけで、“「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないか”[76876]という推測は誤りを認めて撤回します。

こうして、巨視的には 川の中心の県境に沿って 現在の水路が作られた(残された?)わけですが、現在の水路の左岸にある 標石の問題が残ります。

[76925] 88 さんの発言は、より微視的なこの問題に答えており、西側に水田地帯を抱える群馬県が、この水路の管理者であり、三尺幅の水路敷地の中心でなく、その東端までが群馬県で、そこに標石が建てられたとしています。
つまり、「基点」という標石は、3県境そのものを示していたわけですね。
いずれにせよ、水路の中心線が、本当の県境ではなく、境界柱までが群馬県であろうと推測します。

以上で、私にとっては3県境疑惑がほぼ解決したと考えます。

【追記】
[76925] 88 さんには自治体の変遷が紹介されていますが、昔の地図・航空写真などを見ながら、3県の人たちの暮らしをに思いを馳せてみました。

小野袋
迅速測図(1884)の時代からそこそこの集落があった埼玉県北埼玉郡小野袋村は、1889年の町村制で、渡良瀬川下手の柏戸村・向古河村などと共に川辺村になりました。1932年には、茨城県の飛び地になっていた伊賀袋も編入。
西に隣接する柳生村は、南側の村々と共に1889年麦倉村。1929年には東武日光線開通で柳生駅。
1941年と1974年の2枚の航空写真を比べると、やはり柳生駅周辺が にぎやかになっているようです。
昭和の大合併で、埼玉県でありながら利根川の北にある 川辺村と麦倉村の2村は 合併して、北川辺村になりました(1955)。

海老瀬
群馬県邑楽郡海老瀬村は、町村制でも単独村制。但し海老瀬村の本体は 北西にあります。渡良瀬遊水地で飛び地状態になった群馬県の県境地帯は、無人に近い状態でしたが、土地開発には積極的だったと見受けられます。
[76927] oki さん
海老瀬村側では、土地改良工事でも行われたようで、境界のすぐ西側に南北方向の直線道路が伸び

下宮
栃木県下都賀郡下宮村は、1889年の町村制で3村合併して谷中村。
渡良瀬遊水地の設置で、小野袋や海老瀬も一部の農地を失いましたが、何と言っても甚大な影響を受けたのはこの村です。現在は奇麗に整備されているこの地帯ですが、1974年航空写真の遊水地内は、廃墟になった無残な姿をうかがわせます。
半月状の飛び地の住民たちは、この遊水地内にあった集落から移住した人々でしょうが、下宮自体は極めて狭く、耕地は群馬県や埼玉県に求めたものでしょうか?
[77005] 2010年 12月 10日(金)16:03:19hmt さん
利根川と国境・県境との関係(7)渡良瀬遊水地
栃木群馬埼玉 「3県境近辺の今昔」 に添付した明治17年迅速測図の上部欄外には、渡良瀬川の河道について、次のように書き加えました。
現河道はずっと北から貯水池の東に回り込む

渡良瀬川河川事務所HPの 渡良瀬川の歴史 には、次のように記されています。
渡良瀬川は、かつて太日川(ふといかわ)と呼ばれ、1000年前は、現在のルートとは違うところを流れていました。太日川は、足利市の対岸から矢場川を通り、古河市の西部で合ノ川という川に連なり、現在の江戸川の川筋を通って、東京湾に直接注いでいたのです。

[4618] G[わたらせG]さんも、下野国と上野国との境界をなす矢場川が、渡良瀬川の旧流路であったことを記しています。

上記HPには、足利・太田付近の図はありませんが、渡良瀬遊水地付近については、2番目の図(昭和初年)で説明されています。
赤く着色されているのが 藤岡放水路で、栃木県下都賀郡藤岡町の台地(図の上部橙色)を横切る開削工事(1910~1926年)によって作られました。[76925] 88 さん

(藤岡放水路)によって、渡良瀬川は、直接、赤麻沼に落ちることになったのです
というHPの記述から、昭和前期の渡良瀬遊水地において、北部にある赤麻沼が果した役割を理解することができます。

MLの [off7:00086] における、いっちゃんさんの下記発言も、渡良瀬遊水地を、その中の天然貯水池=赤麻沼で代表させたものだったのでしょう。
実は小学生の頃、地元民は赤麻遊水池と社会科で習ったのですよ

「遊水」目的の「土地」の周囲を土手で囲み、「池」にする工事の着工は 1963年でした。渡良瀬川(藤岡放水路)南西側の第1調節池は 1970年、北東側・巴波川と思川との間の第2調節池は 1972年、巴波川右岸の第3調節池は1997年に ほぼ でき上がりました。

第1調節池内は、更に掘削して貯水容量を増加し、水道水確保にも役立てることになりました。
鉱毒と完全に遮断するために 池の底までコンクリート張りにした ハート形の 渡良瀬貯水池(4.5km2) が 1990年に完成し、「谷中湖」と名付けられています。

振興財団HP[43138]遊水地の生い立ち には、3つの調節池からなる渡良瀬遊水地の航空写真と明治17年迅速図とが対比されており、赤麻沼との位置関係もよくわかります。鳥瞰写真

昭和という年号と共に流れが藤岡放水路に移る前は、蛇行する渡良瀬川がほぼ栃木県境でした。
“ほぼ”と言ったのは、県境が東武日光線と交わるあたりでは、明治の河道も少し県境から外れているからです。この付近、川が台地の先端を横断する形になっており、更に古い流路変遷の存在を思わせます。

それはさておき、その南東約4kmの3県境。迅速測図を見るとわかるように、この地点は 川の合流点でした。
同じく迅速測図に基く資料ですが、近世初頭の利根川改修を扱った論文の図3(URBAN KUBOTA PDF版 No.19 の4/4)「明治10年代…利根川流路と流路跡」をご覧ください。
地形図から読み取れる流路跡が記入されており、江戸時代の流路がよくわかります。

問題の 3県境は 図3の上部で、タイトル文字「利根川流路」の真下です。
蛇行しながら北西から南東へと流れるのが、栃木県境になっている渡良瀬川の旧流路であることは明らかですが、西から来て大きく蛇行してから渡良瀬川に合流する川の正体は何でしょうか?

谷田川と記された西からの流れに、南から大きな旧河道が合流しており、県境線は明示されていませんが、群馬埼玉県境はこちらです。
この河道を辿ると「合の川跡」と加筆されており、利根川接続部の堤防に、「天保9年締切」の注記があります。締切年代については、[76938] まかいの さんがリンクしてくれた 板倉町と水辺 16/36 記載のように 天保12年説もありますが、この河道が上野国と武蔵国との国境になっているということは、かつては利根川の本流と言ってもよいほどの大きな流れであったを語っています。

実は、この付近の利根川水系には、網の目のように多数の流路があり、時代により、また平水時と洪水時により流路は移り変わっていたので、どれが本流であるかということは、簡単に言えません。

3県境探訪からこの複雑地域に言及することになった以上、長らく中断していた 「利根川と国境・県境との関係」 シリーズを再発進しましょう。
[77030] 2010年 12月 15日(水)18:13:52【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(8)利根川流路変遷図
「利根川と国境・県境との関係」に関する hmtの記事を、シリーズ開始前の2件を含め、下流からの順 で示しておきます。

これから書き続けようとする地域は、河川の流路が 自然的にも、人工的にも 複雑な様相を呈している所です。

[1639] Issie さん
関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで…,そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。

この地域の利根川流路図については、URBAN KUBOTA No.19掲載 大熊論文の図3 (PDFの4/4)を前報でリンクしました。

同じ論文には 図4 として、もっと広範囲な地域についての 近世初頭の利根川と河川改修図 が提示されているので、これもリンクしておきます。
河川改修項目や その年代、地形との関係といった 複雑な内容を示す、大きな図になっており、上記の過去記事に記した事項の参照図として、極めて有用です。

国土交通省の利根川関係河川事務所や、地方自治体のHPには、それぞれのテーマに応じた地図があり、過去記事でも しばしば参照していたのですが、残念ながら リンク切れになったり、別ページに更新されたりしているものが多数あります。
例えば 埼玉県HPにおける 江戸時代の利根川・荒川流路変遷図について言うと、[11323]KMKZ さん の リンク(着色図)は切れていますが、現在は 類似の 単色図 が開示されています。

個人ページでは、利根川東遷概史 の図(「古代で遊ぼ」の中)が 綺麗にできており、年代別の図が附属しています。同じ作者による隅田川図もあり、[39431]でリンクしています。

[77005]の最後に記した「合の川」を、これらの図で比較してみます。

大熊論文の図4を見ると、赤の11番で合の川呑口締切り・天保9年(1838)とあり、図3の注記と同じです。

最後に挙げた利根川東遷図では、次のようになっています。
緑色で示された江戸以前の利根川は、川俣(羽生の北西)で南に流れる会の川を分けて2筋になり、東への利根川は、更にに分流。3筋(1621以前)のうち南に行く浅間川が本流格で、会の川と再び合流して古利根川筋を流下します。東への細い緑色は、北川辺村内の蛇行流路で、図4にも示されていました。そして北東に向かう細い水色が合の川で、北西からの渡良瀬川と合流します。
年代別図を見ると、利根川から合の川への流れは、1594頃には存在しているが、1621年以降には地図から消失しています。

埼玉県HPには合の川の流路は描かれていますが、川の名は記されていません。

板倉町と水辺 15/36には、合の川の歴史的河道形成という節があります。これによると、元禄の国絵図では利根川との間は水路で繋がっておらず、「此所より田畑国境」と耕作地になっており、洪水時のみ流れていたと推定しています。

要するに、新川通開削(1621)後には、かつての有力な派川の名残である大きな流路が残されている合の川も、利根川の水が殆んど流れ込まなくない状態になっていたのでしょう。
天保年間の堤防により締切は、洪水対策であったと思われます。

3県境探訪記 の中でも、殆んど語られることのなかった 武蔵上野国境の 合の川跡 ですが、少々コメントしてみました。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内


都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

パソコン表示スマホ表示