こんな時間にまだ仕事中ですが、ちょっとブレイクタイムwww
[87284]ニジェガロージェッツ さん
二つの一里山が「まったく無関係」という意見は同意します。そもそも、私は由来が異なるとは書きましたが、「関係がある」とは一言も書いていませんよ。あえて問題提起として、
[87265]グリグリさんの基準ではまったく無関係だけどたまたま同じ名前になった、という例も混じる可能性がある、と言いたかった訳です。個人的には、こういったものはあまり混ぜて欲しくないなあ、という希望的観測もあります。もちろん、判断基準はグリグリさんによりますので、あまり偉そうに言える立場ではないのは重々承知です。
ところで、グリグリさんは「大分市寒田」を微妙とおっしゃっていますが、大分市寒田は豊後大野市及び臼杵市の寒田よりかなり離れています。寒田の由来は詳しくはありませんが、地図リンクを見たとき、直感的に大分市寒田は他の2「寒田」と明らかに無関係、と言い切れるのではないか、と感じたわけです。この3地点を包含する巨大な「寒田」が過去にあったという証拠があれば話は別ですが、地図を見る限りは分断された、とはとても言えないのでは。
しかし、グリグリさんは、この大分市寒田を「微妙」という表現をされているので、隣接する都市間くらいなら「同じ地域」と判断させうるのでは?と思っていました。大分市も結構でかいですからね。
個人的には、分断の条件として隣接、あるいは非隣接でも「惜しい」と言えるくらいの距離じゃないと、分断とは言えないのではと感じています。
一里山の動画まで探していただきましたが、職場PC(未だにWinXPです><)では残念ながら見られません。(こんな骨董品をいつまで使わせるねん!!と会社に対する怒りがメラメラと。。。)いえ、落ち着きましょうw
甲山まで一里という説は、ソースがあるわけではなく、西国街道より武庫川を渡ったところで「一里先に山(甲山)」となる分岐があったらしい、ということを小学時代に地元の先生から聞いたことがある、という程度です。地元で伝わる口承はソースとしては弱いでしょうか?一里山付近に橋があったかどうかは不明ですが、ひょっとしたら「渡し」のようなもの、あるいは橋があったとしても沈下橋だったのかも?あと西国街道は現在上大市あたりで残っている「旧西国街道」は報徳学園付近で消えています。「一里山が西国街道に面している」と言っても、せいぜい報徳学園の北あたりで点隣接に近いのではないかと。
【追記】
その後気になって調べましたが、やはり、報徳学園あたりに「髪の渡し」があったようですね。
西国街道Walker
あと、一里塚が段上村にあったのは間違いないようですが、それが一里山の範囲にあったのかまでは分かりません。
髭の渡しを渡って段上村に入った旅人は、一里塚の木陰でひと休みし、この付近にあった石橋を渡った。
古地図に裏堀石橋とある。古老によると、そこには渾々と清水が湧き出ていたという。
との説明板があるのは、おそらく上大市5丁目の
鯨池浄水場付近ではないかと思われます。もっとも、当地に一里塚跡が明確に残っている訳ではありません。