東西南北端コレクションに 「愛媛県旧南端」として、備考の記載があります。
明治7年までは 沖の島【現在は全島高知県宿毛市】に県境があった
玄界灘の沖ノ島
[86161]、西彼諸島の沖之島
[30575]、琵琶湖の沖島
[84080]、日本最南端の沖ノ鳥島
[99957]…
「沖の島」と書くと普通名称を連想する故か、地名として使用される例は少ないようです。
自治体名となると、居住者数なども問われるため、町村制施行時に誕生した 高知県幡多郡沖ノ島村 が唯一の例と思われます。
「沖ノ島村」は昭和合併の際に 宿毛市新設の一部として消滅し、現在の地名「沖の島」になりました。
現在の愛媛・高知県境から かなり離れた位置にある 面積約 10km2の離島。そんな島に県境が存在した理由は?
別名・妹背島の伝説はさておき、島の南西部にある 弘瀬部落の言い伝え によれば、鎌倉幕府の権力闘争に敗れた 三浦一族の開拓・統治の歴史がありました。これが土佐勢力支配の起源。
ところが室町時代になると 伊予宇和島勢力が 島の北部を支配し、文化の伝統が異なる土佐勢力との分断が定着。
江戸時代、宇和島藩領との国境争いは 幕府の裁定を仰ぐことになったが、土佐藩の主張(野中兼山)が優位。
明治4年7月の廃藩置県で、宇和島藩→宇和島県、高知藩→高知県となり、県名改称はありながらも、その後も県境が存在したようです。
日本にもあった分断統治の島 というページには、
沖の島の愛媛県管轄区域が高知県に移管されたのは、
明治9年という記載がありました。
【追記】
太政官布告明治9年21号 M9/2/25 で確認
高知県管下伊予国宇和郡沖ノ島姫島鵜来島の儀 土佐国幡多郡へ編入候条此旨布告候事
昔のことはさておき、現代の沖の島が 高知県所属ということで 有利な立場を得たのは、高知県の漁業関係でしょうか。
大戦中は四国防衛の要衝として 沖の島区域の軍事基地化が進められ、島民への強制疎開命令も。
戦時中と言えば、沖ノ島村弘瀬を誕生地とする幼児。幼児期に 高知本土>堺に移住したが、後の 横山やすし です。
現在、孤島・沖の島の陸上では 過疎化が進行しています。
戦後の一時期に最大人口千数百人を数えた弘瀬部落は、2016年時点で 100人を切っているとか。Wikipedia
「島の宝 100景」で「石垣・石段とともにある暮らし」を選定するなど、観光事業に活を求めるも、苦しいところです。