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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[28941]2004年6月3日
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[34571]2004年10月28日
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[41513]2005年5月22日
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[28941] 2004年 6月 3日(木)22:24:43hmt さん
元をたどれば、電力と鉄道の分離政策
[28940]足利人@伊勢原住人さん
仰るとおり、小田急グループでした。
せっかくの機会なので、神奈中が小田急グループになった いきさつ。

1948年6月、“大東急”を4社に分割した際に、戦前は小田急に属していた井の頭線(開業時は帝都電鉄)が京王に属することになり、京王帝都電鉄として発足しました。これは、戦前に京王の事業の柱だった電灯電力事業が国の電力政策[28294] によって鉄道事業と分離されていたため、京王線だけでは経営が困難であると考えられたための救済策です。

小田急自身も鬼怒川の電力事業を失っていたわけですが、井の頭線も失うことになり、代償として得たのが、東京急行傘下に入っていた箱根登山鉄道と神奈川中央乗合でした。
http://www.odakyu-co.com/history75/contents/rebirth/ 参照

箱根登山鉄道は、以前は日本電力(黒部川の開発[28294]に手をつけた会社です)の路線でしたから、電力と鉄道の経営分離が、ここにも顔を出してきます。
[34571] 2004年 10月 28日(木)22:31:00hmt さん
相模野に 林間都市 の夢を描いた 利光鶴松
[34440]で、「野」は「原」よりも広範囲で、見渡しを遮る平地林があってもよいのではないかという説を述べ、武蔵野と相模野の例につき語りました。
日本国語大辞典を調べたら、古代は 「はら」が広々とした草原などを指すのに対して、「の」は 低木などが茂った山裾・高原・台地状のやや起伏に富む平坦地を指して呼んだと思われる とありました。やはり、「原」の方が見通しが良さそうです。
「はら」は、「ひら」・「ひろ」と同源だそうです(白川静:「字訓」による)。広くて平たいのが原っぱ。

また、日本国語大辞典には次のような説明もありました。
「原」は、上代は地形・地勢をいう語ではなく、日常生活から遠い場所(古代的な神の地)を指す語であったと考えられる。「野」が日常生活に近い場所をいうのと対照的。しかし、上代末・平安初期頃からこの区別は曖昧になった。
そのような目で地名コレクションを見ると、「高天原」をはじめとして、神様の居そうな「原」が目立ちます。

さて、もっと人間くさい「野」に戻ります。
人の作った楢の林[34440]が描かれている相模野の地図を眺めていて 想い出されるのが、小田急の創業者利光鶴松です。

大分県から上京し、星亨の懐刀として政界で活躍した利光鶴松は、「街鉄」と呼ばれた東京市街鉄道[33135]の創立に参画し、引き続き3社合併した東京鉄道を経営しました。

この路面電車事業は 1911年に東京市に買収されることになるのですが、利光鶴松は鬼怒川の電源開発を始め、1912年末に下滝発電所を完成させ、初の本格的鉄塔による送電線(125kmは当時最長距離)で 東京の尾久変電所に送電しました。主な売込先は 東京市電気局で、彼が手がけた東京の路面電車を動かす動力として使われました。
関東大震災(1923年9月1日)では、東京付近の発電所が停止し、鬼怒川から送られる電気が帝都を暗黒から救ったと伝えられています。
下滝発電所は、現在は東京電力鬼怒川発電所に造り替えられています。
特急電車スペーシアが鬼怒川温泉への客を運んでいる東武鬼怒川線は、下滝発電所への資材運搬線(軌間762mm)からスタートした下野軌道が前身です。

この鬼怒川水力電気は彼の事業の中心になり、ガスや地下鉄計画にも手を広げます。地下鉄の免許は震災後に取り消されますが、その延長線として免許された小田原急行鉄道が1927年に開業し、鬼怒川の電力ユーザーになりました。小田急以外の電気鉄道も計画し、大井町-世田谷-杉並-中野-板橋-滝野川-千住-小松川-砂町-洲崎という環七に近いルートの環状線は実現しませんでしたが、帝都電鉄(現・京王井の頭線)は1933年に開通。
その小田急、長距離の路線を最初から全線複線で建設したことからも、彼の大計画主義がうかがわれます。

利光鶴松は、小田急の本線から分岐して南に向う江ノ島線(1929年開通)沿線に、数千戸の住宅からなる「林間都市」を構想し、遷都論(現在の用語では首都機能移転?)までブチ上げました。林間都市は、もちろん英国人ハワードらの田園都市論の影響を受けたものでしょう。
既に渋沢栄一・五島慶太により田園調布が開発され、販売開始翌月の関東大震災にも無事で、「今回の激震は田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!」という宣伝がされました。
戦後にも、東急の多摩田園都市、南海高野線の林間田園都市と、同様の名を付けたニュータウンがあります。

東林間都市・中央林間都市・南林間都市という駅名は、この林間都市構想に基づくものですが、現実には林間都市の建設はいっこうに進まず、都市とは程遠い「林間」のままでした。[3868]で 企画倒れ駅名として紹介されています。

利光は 最後には中国山東省での金山経営に失敗し、電力事業の国家管理が強化された1941年には、小田急の経営も、東横の五島慶太に譲って引退しました。
「林間都市」の夢も実現せず、駅名からは「都市」が削られました。
かくて、これらの駅名に由来する「中央林間」等の不思議な地名が生まれることになりました。
皮肉にもその後都市化した現在は、「林間」と言えるでしょうか?
[41513] 2005年 5月 22日(日)19:47:52【1】hmt さん
同じ改札内に違う会社が同居
[41252] 太白 さん
首都圏で、相互乗り入れしているわけでもないのに、違う会社が同じ改札の中にあって、面白いと思った駅の例

橋上駅や自動改札機が普及する前は、跨線橋・地下道等の設備共用や改札係員の人件費のために、別会社でも同じ改札内で済ましていたところが多いようですね。

昔の川越駅もその一例でした。この駅、東口本屋に直結した3番線と島式の4、5番線が東武鉄道東上線、その先に国鉄川越線の島式1、2番線という不思議な順番でした。
実質的には、東武鉄道の既存駅(川越西町)に、1940年に大宮-高麗川間を開通させた国鉄が同居人として入ったのですが、当時の国鉄はエラかったので、1、2番線を名乗ったのでしょうか。
「川越」という駅名も、1895年開業という歴史を持つ西武鉄道(開業時は川越鉄道)から奪ってきた名前です。
このために、西武の駅は“本家・川越駅”、すなわち「本川越駅」と改称しました。現在では、とても考えられないほど、国家権力が強かった時代のことです。

JRの川越線は、長い間東京近郊において非電化のまま取り残された路線でしたが、1985年に埼京線の車両基地が南古谷に作られるのを機会にようやく電化されて、川越から東は埼京線との直通区間になって生まれ変わりました。川越駅は、1989年に橋上駅化され、それ以後は、東武とJRは別改札になっています。番線も、現在は東武側からの通し番号です。

「川越駅」の名を最初に使った川越鉄道[20513]は、雨宮敬次郎など甲武鉄道の人たちを中心に設立された会社で、甲武鉄道の国分寺から分岐して川越に至る支線でした。
運行も甲武鉄道に委託し、川越発の汽車は、甲武鉄道に直通して飯田町まで運転されました。
[41304] futsunoおじ さん
国分寺駅でも駅改築前は(JR/西武国分寺線)同じ改札口でしたね。
という駅の構造も、このような歴史の産物です。直通は、旅客の利便もありますが、特に貨物について必要だったのでしょう。

貨物列車の直通と言えば、
・武蔵境(JR/西武)
の駅構造も、その遺物ですね。多摩川の砂利採取・輸送事業は、国分寺から分岐した通称・下河原線、玉川電車など多数ありますが、武蔵境から分岐した多摩鉄道(現・西武鉄道多摩川線)もその一つ。砂利を採取した穴の跡が競艇場になっています。

かつて直通した歴史のある事例の他に、かつて同一会社だったために、異なる会社間が自由に行き来できた例もあります。[41469]で京王線新宿駅の例を挙げました。

・京成津田沼(京成/新京成)
・ 下北沢(京王/小田急)
これは、同一会社ではないにしても、それに準ずるものです。
下北沢で立体交差する小田急と帝都電鉄とは、共に利光鶴松[34571]の会社で、1940年合併。その2年後には大東急になりますが、1948年の分離で、井の頭線は京王帝都電鉄へと再編成されたため、現在は別会社になりました。

小田急と井の頭線の間は、乗客だけでなく、電車が移動したことがあります。
もちろん、下北沢駅の階段を登ったわけではありません。
大東急時代、空襲により永福町車庫の電車が被災した際に、世田谷代田と代田二丁目(現・新代田)の間の連絡線を使って、小田急の車両を井の頭線に送り込んだのです。1952年に短期間ですが井の頭線で通学したことがあり、この連絡線の跡が残っていたことを覚えています。


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