[34440]で、「野」は「原」よりも広範囲で、見渡しを遮る平地林があってもよいのではないかという説を述べ、武蔵野と相模野の例につき語りました。
日本国語大辞典を調べたら、古代は 「はら」が広々とした草原などを指すのに対して、「の」は 低木などが茂った山裾・高原・台地状のやや起伏に富む平坦地を指して呼んだと思われる とありました。やはり、「原」の方が見通しが良さそうです。
「はら」は、「ひら」・「ひろ」と同源だそうです(白川静:「字訓」による)。広くて平たいのが原っぱ。
また、日本国語大辞典には次のような説明もありました。
「原」は、上代は地形・地勢をいう語ではなく、日常生活から遠い場所(古代的な神の地)を指す語であったと考えられる。「野」が日常生活に近い場所をいうのと対照的。しかし、上代末・平安初期頃からこの区別は曖昧になった。
そのような目で地名コレクションを見ると、「高天原」をはじめとして、神様の居そうな「原」が目立ちます。
さて、もっと人間くさい「野」に戻ります。
人の作った楢の林
[34440]が描かれている
相模野の地図を眺めていて 想い出されるのが、小田急の創業者利光鶴松です。
大分県から上京し、星亨の懐刀として政界で活躍した利光鶴松は、「街鉄」と呼ばれた東京市街鉄道
[33135]の創立に参画し、引き続き3社合併した東京鉄道を経営しました。
この路面電車事業は 1911年に東京市に買収されることになるのですが、利光鶴松は鬼怒川の電源開発を始め、1912年末に下滝発電所を完成させ、初の本格的鉄塔による送電線(125kmは当時最長距離)で 東京の尾久変電所に送電しました。主な売込先は 東京市電気局で、彼が手がけた東京の路面電車を動かす動力として使われました。
関東大震災(1923年9月1日)では、東京付近の発電所が停止し、鬼怒川から送られる電気が帝都を暗黒から救ったと伝えられています。
下滝発電所は、現在は東京電力鬼怒川発電所に造り替えられています。
特急電車スペーシアが鬼怒川温泉への客を運んでいる東武鬼怒川線は、下滝発電所への資材運搬線(軌間762mm)からスタートした下野軌道が前身です。
この鬼怒川水力電気は彼の事業の中心になり、ガスや地下鉄計画にも手を広げます。地下鉄の免許は震災後に取り消されますが、その延長線として免許された小田原急行鉄道が1927年に開業し、鬼怒川の電力ユーザーになりました。小田急以外の電気鉄道も計画し、大井町-世田谷-杉並-中野-板橋-滝野川-千住-小松川-砂町-洲崎という環七に近いルートの環状線は実現しませんでしたが、帝都電鉄(現・京王井の頭線)は1933年に開通。
その小田急、長距離の路線を最初から全線複線で建設したことからも、彼の大計画主義がうかがわれます。
利光鶴松は、小田急の本線から分岐して南に向う江ノ島線(1929年開通)沿線に、数千戸の住宅からなる「林間都市」を構想し、遷都論(現在の用語では首都機能移転?)までブチ上げました。林間都市は、もちろん英国人ハワードらの田園都市論の影響を受けたものでしょう。
既に渋沢栄一・五島慶太により田園調布が開発され、販売開始翌月の関東大震災にも無事で、「今回の激震は田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!」という宣伝がされました。
戦後にも、東急の多摩田園都市、南海高野線の林間田園都市と、同様の名を付けたニュータウンがあります。
東林間都市・中央林間都市・南林間都市という駅名は、この林間都市構想に基づくものですが、現実には林間都市の建設はいっこうに進まず、都市とは程遠い「林間」のままでした。
[3868]で 企画倒れ駅名として紹介されています。
利光は 最後には中国山東省での金山経営に失敗し、電力事業の国家管理が強化された1941年には、小田急の経営も、東横の五島慶太に譲って引退しました。
「林間都市」の夢も実現せず、駅名からは「都市」が削られました。
かくて、これらの駅名に由来する「中央林間」等の不思議な地名が生まれることになりました。
皮肉にもその後都市化した現在は、「林間」と言えるでしょうか?