[7783] 白桃 さん
>すなわち、日野宿、箱根駅、與瀬駅、吉野駅、府中駅です
これは当時の神奈川県に限らず,全国の宿場町に広くあった呼称ですね。もちろん,逆に「○○村」という呼称の宿場町も多数あったはずです。
簡単に言えば,江戸時代以来の従来の呼称がそのまま使用されていただけのことです。
「郡区町村編制法」の以下の条文(第2条)を根拠にしているのですね。
郡町村ノ区域名称ハ総(すべ)テ旧ニ依ル
だから,漁村の中には「○○浦」というものも多数あったし,「××新田」という呼称の行政区画も一般的ですね。「××新田村」というのも少なくないのですが。新田集落に関して,新潟県の蒲原平野では「△△興野(こうや)」という形式の呼称も多数見られます。
このようにさまざまな呼称が行われていたものが,1889年の「町村制」施行とそのための“明治の大合併”を通じて「町」か「村」に統一されたのです。
>「町」に準じた扱いにしておりますが
便宜上,「町」か「村」かで統一しようとする場合,そのようにしていることが多いようですね。一方で「新田」などは「村」扱いとする。
けれども,1889年の町村制施行の際には「村」となった「駅」や「宿」も多数あるようですね。また,在郷の市場集落で「○○町」と呼ばれていたものが周辺の集落と合併して「○○町村」という,つまりは「村」になる,ということも珍しくなかったようです。
(念のために付け加えておくと,1889年の「市制」施行までは「市」という行政単位は日本には存在しませんでした。郡区町村編制法下の「区」が,市制下の「市」とイコールなのですね。そして,1878年の郡区町村編制法以前には「区」という行政単位もまた存在しませんでした。江戸時代,時代劇に出てくるような「江戸市中引き回し」なんていう表現が見られたりしますが,当時,「江戸市」などという行政区画はもちろん存在しません。そもそも英語の City に対応するものとしての「市」なる呼称,どこから湧き出したものなんだろう。)
>明治時代の鹿児島県には鹿児島市以外に町として加治木があるのみで、
>鹿屋をはじめ他は全部村でした。
これは,どの段階でしょう。
市制・町村制施行以前の郡区町村編制法によるものなのか。「明治の大合併」を経た町村制の下でのことなのか。どちらかによって,話は相当違ってくる気がしますが。
いずれにせよ,このあたりの事情について私はよく知りません。
ただ,「西南戦争云々」というのには一応距離をとっておきたく思います。府県名を定めるに当たって,戊辰戦争で「朝敵」となった地域の呼称が「懲罰として」奪われた,という“伝説”を大変疑問に思うのと同様に。