第11回の落書き帳公式オフ会開催地は
山梨県でした。
hmtの住む埼玉県とは隣接しており、
県境の交通路 にあるように 雁坂トンネル有料道路も通じています。
しかし 公共交通機関に頼る身なので、直行することは叶いません。
武蔵野線で西国分寺に出るつもりが、事故の影響で新宿経由に変更。赤い電車は特別快速だったのに、高尾【注】に着いたら少し前に甲府行が発車したばかり。ま、急ぐ旅ではないので次を待ちましょう。
【注】
[86779]の指摘により誤記訂正
ついでに、高尾山と同様に紅葉の名所である京都の「高雄」は「高尾」とも書くのですね。だから槇尾・栂尾と総称して「三尾」。
「ぎん色の電車」で、山梨県に入って最初の駅である上野原で下車しました。
上野原で下車した理由の一つは鉄道地理の観点なのですが、その他に極めて個人的な理由がありました。
その理由というのが、「1918年中央線乗り越し事件」の現場を見ておきたいということです。
1918年秋に hmtの長兄hmfが誕生しました。場所は落書き帳に300回以上登場したという津久井
[86752]です。
hm家の跡継ぎ誕生ということで御目出度いのですが、あいにく父は東京の病院に入院中でした。
退院を待てなかった父は、母子が旅行できるようになったら 病院に連れてくるようにと手紙で伝えました。
当時の交通事情。神奈川県津久井郡の北西部をかすめる中央本線は、官設鉄道時代の1901年に開業しており、与瀬駅【現在の相模湖駅】が設けられていました。もちろん単線ですが、蒸気列車は八王子-飯田町間の甲武鉄道と直通運転しました。
鉄道国有化を経た 1918年当時も、基本的には同じことです。
1925年の『汽車時間表』を利用して、旅程を組んでみます。
自宅・与瀬駅間の交通。現在は国道412号で約10 km、バスもありますが、当時の道路は、道志川や相模川を越えるためにつづら折りの道で 谷を降りてはまた登る という難路。ここを人力車で通り抜けるのには、どのくらいの時間を要したのでしょうか。
与瀬発の飯田町ゆき列車は、1101, 1329, 1605, 1906【便宜上24時間制で表示】、所要時間は2時間10~15分。
36.5マイルの三等運賃は93銭、二等車【グリーン】は倍額でした。
東京での仕事は、父子対面と写真撮影くらいですから、一泊二日の旅程でOKでしょう。
問題になった帰路は 日暮れの早い冬であることを考えると、飯田町発 1216発に乗車したいところです。その次は3時間後ですから夜にかかってしまいます。
母子に同行してくれたのが祖母【安政生まれ!】ですが、自力での旅行経験ゼロという点では同レベルです。
それでも往路は無事。待望の父子対面を果たし、お宮参りの衣装で記念写真も撮影。
大任を果たして心も軽く帰途についた3人を待っていたのは思わぬアクシデントでした。
小仏トンネルを抜けて汽車を降りようと2等客室【グリーン車】からデッキに出るドアを開けようとしたが開かない!
嫁と姑は あれこれ試みたが 扉はビクともせず。客室内に1組だけいた乗客【話に夢中だった新婚さん】の助けを借りて、ようやくドアを開いた時には、発車ベルを残して汽車が動き出しました。
お迎えの人力車夫が待つ与瀬駅を後にし、心が動転したお上りさんが着いたのが上野原駅でした【藤野駅は未開業】。
事情を話したら 早速 与瀬駅に電話して 車夫達に待ってもらうように手配し、次の列車で戻るよう 案内してくれました。
「あの時の駅員さんは本当に親切で良い人だった。地獄に仏とはこの事だ。」
語り継がれたこの事件により、「上野原駅」は hm家の人々にとり 忘れられないものになったのでした。
個人的な無駄話を書いたのは、旅行の機会が少なかった1世紀前の人にとっては、近距離の旅行でも大冒険であったことを伝えることで、何かの参考になるかと思ったからです。
さて、現在の
上野原。ここは地理的観点としては 桂川【相模川の上流】が作った河岸段丘地形で知られています。
駅は幅の狭い段丘【等高線190mと180mの間】上にあり、プラットホームにある待合室のような建物が駅舎です。
地理院地図 の鉄道は 記号化されているので、駅舎が中心からずれているように見えますが、プラットホーム中心線上に駅舎があります。
改札口を通って駅舎東側の跨線橋から北口に出ると、バス停のある駅前です。ここは、線路や駅舎のある段【等高線190mと180mの間】よりも1段上ですが、200m等高線【やや太い】と190m等高線の間にある幅の狭い段で、バスが方向転換するのがやっとのスペースしかありません。
「市の代表駅」という言葉から想像される駅前の賑いとは全く無縁の存在でした。
中央道のインターチェンジは250m等高線【やや太い】の南側、その北には市街地のある260m前後の上位段丘が広がっています。これこそが名前のとおりの上野原でした。
駅の南口。こちらは、折角登った跨線橋からすぐに続く長い下り階段です。ここを降りれば180mより下にある桂川の沖積面です。新田地帯であったことは、地名にも残されています。桂川橋付近の水溜りに島田湖という名があることは
[43357]で触れました。