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相模川水系

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記事数=25件/登録日:2018年3月11日

hmtの出身地は 神奈川県津久井郡津久井町でした。

…と過去形で書いたのは、もちろん平成合併で消滅したからですが、「津久井」はこの落書き帳内の有名地名です。
hmtマガジンの形で「津久井」の歴史を残しておきたい。

かねてからの課題を果すべく、この作業に着手してみると、この地を潤す相模川水系抜きでは語れません。
幸い、相模川水系については、[58485]で過去記事をまとめており、これを利用できそうです。
しかし、収録対象記事の内容やその件数を検討した結果、1つの特集でなく、2特集に分ける方針に決めました。

特集「津久井」は テーマ「郡と支庁」に属し、中野・串川・小倉橋など hmt出身地に近い津久井町・城山町付近の記事を集めます。

一方、特集「相模川」は テーマ「水まわりの地理」に属することとし、山梨県の山中湖に発する桂川が、神奈川県に入って名を相模川と変え、ダム湖や支流を交えた水系を展開し、相模湾に注ぐまでを概観します。

神奈川県津久井郡に属するが、甲州街道や中央線の沿線である相模湖町・藤野町は、この「相模川」特集で扱うことにします。
もちろん上野原から上流の桂川流域や道志村などの山梨県部分、そして馬入川という名の河口部、水道として供給される横浜などとの関係も こちらの特集に収録します。

概略、このような形で整理してみますが、両方に関係する記事もあるので、うまく分けることができるか?

この特集の冒頭に、国土交通省サイトの 相模川流域図をリンクしておきます。

同じく国土交通省サイトの、「相模川の歴史:http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0309_sagami/0309_sagami_01.html]
も示しました。
古名の「鮎河」は、現在の愛甲郡愛川町【支流の中津川流域】の名称に引き継がれています。
産業や生活との関連では 中世・近世の舟運、近代の土木工事を支えた砂利採取[41660]、そして現在も重要な水資源としての利用。この3点が挙げられていることに注目願います。

今回紹介した 国土交通省のサイトですが、2005年の記事[42974]で引用されていた「相模川の歴史」記載の
「相模川(桂川を含む)」という括弧つき正式名称
が使われていません。
このあたりの事情は、よくわかりません。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[42974]2005年7月12日
hmt
[43001]2005年7月14日
hmt
[43357]2005年7月23日
hmt
[7962]2003年1月20日
Issie
[24389]2004年2月2日
Issie
[25159]2004年2月22日
稲生
[31481]2004年8月7日
Issie
[34770]2004年11月3日
hmt
[36931]2005年1月20日
hmt
[41660]2005年5月27日
hmt
[46257]2005年10月28日
みかちゅう
[48782]2006年1月27日
Issie
[58450]2007年5月14日
アルバトロス
[58458]2007年5月14日
稲生
[58684]2007年5月26日
hmt
[58758]2007年5月31日
hmt
[65372]2008年6月3日
稲生
[70142]2009年5月15日
Issie
[77951]2011年4月29日
hmt
[78632]2011年6月25日
hmt
[79105]2011年8月15日
Issie
[81137]2012年7月18日
グリグリ
[81139]2012年7月18日
Issie
[81140]2012年7月19日
hmt
[86777]2014年12月9日
hmt

[42974] 2005年 7月 12日(火)15:39:50【1】hmt さん
「相模川(桂川を含む)」という括弧つき正式名称の川
焼島潟[42835]関連で 阿賀野川/阿賀川の記事[42945]が先行しましたが、
同じ川が場所によって名前が変わる例
という話題の発端は、「保津川、大堰川、桂川」[42933] YSK さんでした。

同じ名前を持つ「桂川」ですが、こちらは京都ではなくて、富士山北麓・山中湖や忍野八海を水源とする桂川。
甲斐の国から相模の国に入ると、「相模川」になります。信濃の国を離れて越後の国に入ると「信濃川」([77] Issieさん)とは逆。

…で、公式の名前は? と、国土交通省関東地方整備局 相模川の歴史 を見ると、次のように記してありました。

相模川は正式名称を「相模川(桂川を含む)」とされており、山梨県内では現在でも「桂川」という呼称がとられています。…
桂川と相模川
 相模川は一般に呼び習わされているこの名称のほかに「桂川」という名称を持っています。この2つの名称は「相模川(桂川を含む)」として、昭和44年に一級河川に指定された時に正式名称として登録されました。これは、相模川が山梨県内の区間においては桂川と呼ばれ、この名称が古くから親しまれており、この名を残したいという希望が強くあったためです。現在でも相模川の山梨県内の区間は「桂川」という呼称がとられています。

写真を見ると、「一級河川・相模川・山梨県」という標識板の上に「通称・桂川」とという標識板がついています。

このことから、「相模川(桂川を含む)」という括弧つきの「正式名称」は、山梨県内の現地呼称「桂川」と神奈川県内の現地呼称「相模川」とを勘案して登録された「河川管理用の名称」であって、公文書には用いられるものの、「地名」としての「桂川」や「相模川」を置き換えるものではなく、河川標識も従来の名前によっているいことがわかります。

話は少し飛びますが、同様に「さいたま市」は「行政管理用の名称」であり、「地名」としての「浦和」や「大宮」に取って代わるような性格のものではないと考えます。ところが、現実には道路標識の行先をわざわざ「さいたま」に書き換えてしまい、この落書き帳でも話題になりました。
例えば、[37066] ただけん さん
たぶん所沢市街だったとおもうのですが、
さいたま← →さいたま
という標識(ただし記憶はあやふやですが)をみてビックリした記憶があります。

なお、この件については、総務省の行政苦情救済推進会議によると、
道路管理者に改善を求めたところ、「さいたま」と表示していた道路案内表示の一部は、行先の方面を分かりやすくするため、「旧浦和」、「旧大宮」、「旧与野」の文字を追加して表示することになりました。
により、一応は解決したようです。

[1271] オーナー グリグリさんも、
「小倉(北九州市の新幹線停車駅)」「八戸(本八戸駅がより市の中心に近い)」といった説明を加えれば済むことです。
と、発言されていますが、括弧つきの正式名称「相模川(桂川を含む)」は、この趣旨に沿ったものでしょうか。

相模川に戻ると、その河口部には、「馬入川」という名もあります。
建久九年(1198)の暮、橋供養に訪れた源頼朝の馬が暴れて水に入ったのが由来とされています。この時に落馬したと伝えられる頼朝は十数日後に死亡。働き盛りの権力者を襲った突然の事故と あっけない死。義経や平家の怨霊に祟られたという説が流布した所以です。関東大震災の際に、現在の馬入川から約1.2km離れた(現)茅ヶ崎市内で地上に現れた橋脚がこの事件の現場ではないかと推測され、史跡「旧相模川橋脚」に指定されています。

河口に近い部分だけに特別な通称名があるという点では、六郷川[20031]と共通します。
隅田川も、以前は荒川下流部の通称名とされていましたが、放水路が荒川の本流になった現在は、荒川の支流(派川)の名になりました。隅田川の河口部には「大川」[33296]の名もありましたが、現在は「大川端リバーシティ」などに用いられている程度でしょう。

さて、[42940] ゆう さんの記事にあるように、生活圏の異なる人々が暮らして、それぞれの地域での呼び名を伝えてきた大きな川では、同じ川が場所によって名前が変わるのは自然なことでしょう。一方、河川管理者にとっては、あちこちで名前が変るのは困る。というのが河川名称の悩み所です。

公式名称は下流の「渡川(わたりがわ)」だった川[20034]が、「四万十川」の知名度が上がり公式名を「渡川水系四万十川」変えてしまったり(1994/7/25)、一度は「新宮川」を公式名称にしたが[10360]、実態と離れすぎていたので「新宮川水系熊野川」に変更[42935](1998/4/9)とか。
スナフキん さん[20031]によると、過去に建設省が河口から源流に至るまで、徹頭徹尾名称は通すという方針をうち立てたものの、信濃川で例外を認めたことでほつれが生じ、今は事実上サジナゲ状態に陥っているとのこと。総元締めにフラフラされると国土地理院も大混乱で再三括弧の中身が入れ替わり、スナフキん さんもお困りの様子。
[43001] 2005年 7月 14日(木)13:53:40hmt さん
相模川水系・コレクションに集められた5つのダム湖
[42974]で登場させた相模川水系の流域は、hmtの出身地を含みます。もう少し続けさせてください。

桂川の源流部は、宇津湖という湖だったものが、富士山の溶岩流によって山中湖と忍野湖に分かれ、更に忍野湖は干上がって、8つの湧水口のみが残り、現在の忍野八海(おしのはっかい)になったとされています。
「海なし県」にも「海」があったのですね。海コレクションにも収録されています。
個々の名前は○○池なのに、集まると なぜか八海?

相模川水系の水は、利水と発電に高度に利用されています。
明治20年(1887)から給水を開始した「近代水道事始め」の横浜水道については既に[34770]で記しました。
水道敷設の目的は、明治10年代に流行したコレラなどの伝染病感染防止にありました。少し後のことになりますが、東京の淀橋浄水場建設も同じ動機でした[36207]

高電圧長距離送電の草分けとして技術史に残る駒橋発電所(1907、現・大月市)を始めとして、明治から大正にかけて建設された数多くの発電所の電力は、京浜地区の工業化に役立ちました。駒橋発電所の下流にある日本三奇橋のひとつ「猿橋」に隣接し、観光客の目に触れる「八ツ沢発電所一号水路橋」(1912)も、発電に付帯する施設です。

明治・大正時代に水道局や電力会社の個別の事業としてスタートした相模川の利水・発電は、昭和になると、神奈川県が主体となった「相模川河水統制事業」へと変わってゆきます。これは、アメリカ合衆国のTVAの成功などの影響を受けた、ダムによる河川開発の一環で、1937年当時の内務省を中心に、全国17河川で実施されたとのことです。

具体的には、与瀬町(現・相模湖町)に相模ダムを造って発電を行い、下流の水量を安定させるための調整池(沼本ダム)から久保沢方面に導いて、横浜市と川崎市の水道用水および相模原台地の灌漑用水を分水し、残りを「谷ヶ原」(相模川の谷に臨む台地)から本流に還元する際生ずる落差により再び発電をするという計画でした。

相模ダムは、日本最初の本格的な多目的ダムです。勝瀬部落を中心とする136世帯の水没地区住民の反対も強権発動ともいえる圧力で押し切られた「ご時世」の中、1940年着工。第二次大戦の影響を受けて 戦後(1947)にずれ込んだ完成式典には、昭和天皇が臨席し、ダム湖は「相模湖」と命名されました。
1955年には、支流の道志川に道志ダム(奥相模湖)が作られ、発電と秋山川を経由した相模湖への導水に利用されます。

戦前に計画されたこの河水統制事業には、農業用水が含まれていました。そして、食糧増産を目指して、大戦後の1948年から相模原台地に大規模な農業用水路の建設が開始されました。しかし、日本の復興に伴ない、相模原台地の畑の一部は工場用地に転用され、次いで都市化の波が訪れ、1963年完成の時には、この「大規模畑地かんがい」の用水路は使われなくなる運命が待ち受けていました。

ところで、相模川総合開発事業は、1960年に決定された城山ダム建設によって、次の段階を迎えます。
これは、洪水調節、水道及び工業用水の供給、日本初の大規模揚水式発電を目的とするもので、付帯設備として上流調整池の本沢ダム(城山湖)と、支流・串川からの取水路も作られました。

このダムで水没することになった285世帯の中心・荒川地区は、江戸時代には「荒川番所」[34770]が設けられていた かつての交通結節点です。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でした。私も子供の頃、バスでよく荒川橋を通り、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのいだことも経験しました。

この由緒ある集落の住民も、度重なる移転補償交渉の末、相模原市二本松地区等に移り、1965年3月にダムが完成。
その5月には台風6号により 満水の津久井湖が出現しました。

更に次の段階は、2001年 支流の中津川に完成した宮ヶ瀬ダムです。
国内最大級の重力式コンクリートダムによって支えられる宮ヶ瀬湖(貯水容量183百万m3)は、相模湖(40百万m3)や津久井湖(54百万m3)をはるかに超える大きな水がめですが、支川(中津川)の集水面積は小さいので、単独で貯水するのにかなりの時間を要します。一方、相模湖や津久井湖は流域面積の大きい本川と道志川の水を集める反面、貯水能力が十分でなかったので、水資源を有効に利用できなかったきらいがありました。

そこで、道志川の奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ8kmの道志導水路、宮ヶ瀬湖から津久井湖へ5kmの津久井導水路を設けて、宮ヶ瀬湖の貯水能力を道志川および相模川本川と連携させ、総合運用する仕組みになっています。
宮ヶ瀬湖による水没は281世帯。水没面積が広い(490ha)せいもあるが、意外に多いです。住処を追われたのは住民だけでなく、サル・イノシシ・クマなどにも及んでいるはずですが、彼らに対する補償はなし。

このようにして、ダム湖コレクションの相模川水系の部に集められた、相模湖、奥相模湖、津久井湖、城山湖、そして宮ヶ瀬湖という 5つのダム湖は、相互に連携して働く存在なのです。

この話題の発端、川の名前についての補足。
山梨県内の桂川、神奈川県内の相模川、河口部限定の馬入川の他に、古名の「鮎川」がありました。
昔ほどではないでしょうが、相模川は 今でも鮎釣りにとっては 知られた川です。厚木で 中津川と共に本川に合流する「小鮎川」という支流もあります。
1940年代後半、通学の帰路によく通った この三川合流の河原には、砂利採取船[41599] が稼動していました。[41660]参照。
[43357] 2005年 7月 23日(土)18:29:28hmt さん
ダム湖あれこれ
[43330] yamada さん  早池峰湖
Yahoo!地図(マピオン系)では完成図が描かれていませんが、ウオッちずでは、水が貯まった状態で描かれています。

写真で、水が貯まって「ダム湖」が出現している状態を確認しました。

[43323] 美濃織部 さん
「谷中湖」、ダム湖コレに追加しました。

所在地は、一部ですが栃木県野木町にもかかっています。

「一部かっている」と言えば、宮ヶ瀬湖も、ダムサイト付近で、ほんの僅かですが 神奈川県愛川町にかかっています。
…と書いて、見直したら、宮ヶ瀬湖の所在地では、神奈川県津久井町も落ちていました。
宮ヶ瀬湖の北部、虹の大橋から上流の早戸川の谷と、落合の下流・ダムサイト直前までの北岸は津久井町です。

ダムサイトに近い南山(みなみやま)南麓の帰属について、江戸時代に紛争がありました。元文5年(1740)に天領の青山村(現・津久井町)と下野烏山藩領の半原村(現・愛川町)との間で起こった南山秣山の境界争い(南山入会事件)です。

余談ですが、相模の国には、小田原藩主大久保氏の流れである下野烏山藩の飛び地がありました。例えば田名[18896] [24389] Issie さん や厚木。ついでに、下野の桜町に陣屋のあった 旗本の宇津氏も 大久保氏の流れでした。だから、桜町領の財政再建に 二宮金次郎が登場し、現在も 栃木県に 二宮町があるわけです。

それはさておき
この裁判は 天領と藩領の争いという管轄問題があるために、幕府の最高裁判所である 評定所で審議されました。双方の言い分をまとめて 評定所に提出した4畳半くらいの大きさの立会絵図面の 裏面には、翌 寛保元年(1741)の判決文が残されており、青山村が勝訴しました。「大越前」(寺社奉行大岡越前守)など、三奉行を含む裁判官の記名捺印があります(串川財産区史)。
毎日新聞1992/5/23は、この「大岡裁き」のおかげで、津久井町には水没補償金20億円が入ったと伝えています。

ところで、上野原市・桂川橋の下流に通称「島田湖」という水溜りがあり、島田湖と記載している地図もあるそうです。この湛水域は、直接に人工のダムで支えられた湖ではないのですが、下流に相模湖ができて流れの勢いが弱くなったために、盆地から流れ出る口に土砂が溜まり、2次的に生成した自然の隘路によるものと思われます。
はっきり「ダム」とは言えず、「湖」というにも浅すぎるし、釣人の間で生れたらしい名が どこまで定着しているかも不明なので、コレクションには推薦できませんが、参考まで。
[7962] 2003年 1月 20日(月)20:32:16Issie さん
甲州街道小原宿
[7958]Firo さん
与瀬宿と吉野宿の間か、吉野宿の先(たぶん、こっちだったと思うんですが、)
に小原宿というのもあったみたいですね。

八王子から小仏峠を越えて相模川の谷間に出てきたところが「小原(おばら)宿」,その隣に「与瀬宿」,そこからダム湖(相模湖)の底に降りて今は水没している「勝瀬(かっせ)」集落(宿場ではない)を経て再び段丘上に登って「吉野宿」,現在の小淵小学校の手前の「関野宿」を過ぎて国境を越え,甲州に入って「上野原宿」と続きます。
 小仏峠→小原宿・与瀬宿→吉野宿→関野宿→上野原宿→…
という順番。

このうち「小原宿」と「与瀬宿」はお互いに隣接してつながっているのですが,ここは両宿で“1つの宿場”を構成していました。一方が「江戸から甲州方面用」,もう一方が「甲州から江戸方面用」,つまりそれぞれ「上り」「下り」用に役割を分担していました。
ただし本陣があったのは「小原宿」の方で,こちらが与瀬よりは上位に置かれていたようです。
(なお,甲州街道には「小原・与瀬」のように2宿セットで上下の役割分担をしていた宿場がいくつかあります。たとえば,「下高井戸・上高井戸」「国領・下布田」「駒木野・小仏」「下鳥沢・上鳥沢」などのように。)

それから、吉野にしても、沢井にしても、青梅市の山間部に、同じ地名がありますね。

青梅周辺との関連はわかりませんが,相模湖町のHPには,小原(←大原)・与瀬(←八瀬)・千木良(←千本松原)・嵐山のように,この周辺の地名は京都の地名と関連がある。山深い地域の常としてここにも落人伝説があって,それらの地名も都からの移住者が持ち込んだ,なんて趣旨の説明がされています。
本当のところはどんなものだか。
[24389] 2004年 2月 2日(月)00:15:25Issie さん
相模原市田名
[24367] くはさん
[24386] Firo さん

「田名」は,江戸時代に野州烏山藩の飛び地領であった時期から全体で1つの「田名村」を構成していました。それがそのまま,1878年の郡区町村編制法で「高座郡田名村」となり,1889年の町村制施行の際にも隣接する村と合併することなく,1941年の高北(高座北部)2町6村合併による「相模原町」発足を迎えました。
そのため「田名村」時代には“大字”を編成することなく,「相模原町」の一部となったときに旧村自体がそのまま「大字田名」となったものです。

郵便やピザの配達には非常に苦労する

江戸時代以来の「字」という区分があって,昔はこれで十分に間に合っていたんでしょうけどね。でも現在は「字」が使用されることはほとんどありませんから(バス停や信号の名前になっているくらい),地元に昔から住んでいて屋号で呼びあっているような人たちはともかく,それ以外の人には全く見当のつけようがありませんね。
若い地番は,相模川に面した崖下の「久所(ぐぞ)」地区にあるようです。確認はできなかったのですが,「1番地」もここにあるのではないかと思います。
そして,くだんの「11982番地」もまた,久所河原最下流の突端に。

それなりに面積があって,しかも多くの耕作者によって耕地化されている(後に宅地化,あるいは工業用地化した区域も含む)大字では,かなり大きな地番がありそうですね。
[25159] 2004年 2月 22日(日)02:04:08【1】稲生 さん
両国橋、三郡橋、国界橋、郡界橋
[25129]牛山牛太郎さん
[25133][25146]Issie先生
[25138]まるちゃんさん
[25139][25143]両毛人さん

橋のことなら、任せてくださいな。
と言っても、三遠南信・静岡県・山梨県に限りますが・・・

まず、Issie先生ご指摘の道志渓谷の両国橋は、甲斐・相模の境界ですから、すなわち山梨・神奈川の県境ですね。昨年5月に郵便局など廻りながら、しっかり写真に収めて来てあります。
ただ今‘山梨県の県境’について鋭意編集中ですので、その証拠写真の閲覧については、もうしばらくお待ちください。

南アルプスの麓から下ってきた釜無川が、甲武信ヶ岳を水源とする笛吹川と合流する直前に三郡西橋と三郡東橋があります。
写真付きでどうぞ↓
三郡西橋  http://www3.tokai.or.jp/inou2002/fujikawa/fuji-hasi-2/fujikawa-syasinn-2.htm#kagaminakajoubasi
三郡東橋  http://www3.tokai.or.jp/inou2002/fujikawa/fuji-hasi-6/fujikawa-syasinn-6.htm#toyodumibasi
これは、中巨摩郡・南巨摩郡・西八代郡の三郡だと思われますが、実際には南巨摩郡には接していません。

甲斐・信濃の境となる国界橋は有名ですよね。
静岡県から長野県にスキーに出かける時には、必ずといっていいほど立ち寄ったのが‘ドライブイン国界’でした。ここでトイレ休憩をすませつつ、いよいよここからが信州なのだと、ワクワクしたものです。・・・今は、セブンイレブンになってしまっています。
http://www3.tokai.or.jp/inou2002/fujikawa/fuji-hasi-1/fujikawa-syasinn-1.htm

遠州から見ればもっと手前にあたりますが、国道52号の静岡・山梨県境となる川(境川)に架かるのが、甲駿橋です。

郡界橋は、もう山とあります。
たとえば、私の住む浜北市の小さな小川(馬込川支流の五反田川、別名・郡界川)に架かる橋が郡界橋です。引佐郡と浜名郡の境界だった橋と川です。今はどちらも浜北市に所属していますが・・・
それから、昨年北設楽から東加茂へ郡域変更した愛知県稲武町と足助町の境界に架かる橋も郡界橋です。
http://www3.tokai.or.jp/inou2002/syoumetu/syoumetu-2/inabu/inabu.htm
北設楽郡と東加茂郡の境界だった橋ですが、ともに東加茂郡になった今も、郡界橋のままです。

[25156]牛山牛太郎さん
随分調べが早いことですね。
浜北市の郡界大橋は平成になってから出来た国道152号線の橋、私が取り上げたのは県道に架かる郡界橋でした。
[31481] 2004年 8月 7日(土)01:01:44【2】Issie さん
桂川
[31479] みかちゅう さん
では、相模国を流れる「相模川」はどうでしょう。上流の山梨県内では「桂川」で、下流の神奈川県内に入ると名前が変わってしまいますね。

こちらは甲州ではなく「相摸」で使われているのだから,素直に「相摸を横断(縦貫?)する川」という意味でしょうね。
つまり,命名法には2つのパターンがあるように思われます。

ところで,「桂川」と「相模川」の境目は通常,山梨・神奈川県境と理解されています。
けれども神奈川県側の相模湖町では「桂北」という地区呼称が行われています。
川,というか相摸湖の北側の与瀬・小原両地区を総称する呼称です。

もう1つ。
相摸ダムから少し下流の,相模湖町千木良と若柳の間には「桂橋」という橋が架かっています。昔は少し谷を下りたところに架かっていた歩行者専用の吊橋だったのですが,10年ほど前に車の通れるコンクリート橋がすぐ上流側に架けられて,こちらに「桂橋」の名前が譲られました。

どちらも,恐らくは「桂川」という呼称が頭にあるのでしょう。

もちろん,相摸湖なり,相摸ダムは人工のもので,相模湖町の与瀬から津久井町の方まで自然の境界となるべきものは見当たりません。
強いて言えば,相摸湖・津久井両町の境界の道志川との合流点か…。

そう考えると,どこが境目になるのでしょうねえ。
[34770] 2004年 11月 3日(水)18:44:58hmt さん
近代水道 事始めの三井(みい)村
[34657]Issieさんが明治の大合併から拾い出してくれた神奈川県の「合成地名」にある津久井郡三沢村。

小仏山地の南部、相模川北岸に隣接する三井(みい)村と中沢村が、1889年(明治22)に合併してできた三沢村ですが、旧2村を結ぶ山道は か細いもので、相互の交流も少なかったことと思います。クルマ社会(と言っても自動車ではなく、「馬力」と称する荷車)が到来し、太井(おおい)村(1925中野町)荒川経由の相模川に沿った新道が開通した20世紀には、三井と中沢の「隣接」は、単に地図上で繋がっているにすぎない状態といえたでしょう。

…と、ここまで書いて思い出したのが中郷村[34572]合併協議会HPの一番下にある地図を見ると、辛うじてぶら下がっています。ここは三井と中沢の間よりもはるかに険しい大毛無山など1000m以上の稜線。新井市側に南葉山林道がありますが、通りぬけできないのではないかな?

それはさておき、三沢村が、昭和大合併の際に、旧三井村が中野を中心とする津久井町へ、旧中沢村が久保沢を中心とする城山町へと分裂したのは当然の成り行きでしょう。

三井への交通体系は、昭和合併後に建設された城山ダムにより、また一変します。江戸時代には荒川番所が設けられていた かつての交通結節点・荒川は、1965年に津久井湖の底に沈むことになりました。湖上には赤い三井大橋(ランガー橋)が架けられ、ダムが完成して国道413号が堤の上を通行できるようになる前には、中野と橋本を結ぶ臨時のメインルートとして使われた時期もありました。

その三井村。明治大合併前の1887年、イギリス人技師パーマーにより、横浜水道の取水口が設けられました。相模川からポンプで揚水し、横浜の野毛山浄水場まで11里4町(約44km)を導水した、日本最初の近代水道(濾過、常時加圧給水)です。

これが [23576] Issieさんの“道志と横浜をつなぐ道”ですが、最初は道志川からの取水でなく、合流点から下流の相模川からの取水であり、事業主体も神奈川県でした。
1890年水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することになって横浜市に移管され、給水能力増強のため、合流点から3km上流の青山村で道志川からの自然流下方式により取水することになりました。この工事は1897年完成。

20世紀に入って1907年、山梨県全域が大水害に襲われ、水害対策の一つとして県内の御料地が県有地として下賜されました。水源確保問題をかかえていた横浜市は、これに注目。水源涵養の造林計画を立てて山梨県に運動し、1916年、道志村の3分の1以上の面積を占める恩賜県有林の買収に成功しました。
昨年、道志村から横浜市への県境越え合併問題が話題になった頃に、[19727]てへへ さんの記事があります。

水源を確保した横浜市は、更に串川村(1909年青山村他2村が合併して成立)青山地内で取水設備の変更や拡張工事を進め、戦後、神奈川県が実施した水利事業で、道志川から相模湖への導水や城山ダムによる水道管橋の水没などの影響は受けましたが、現在も道志川の水を横浜に送り続けています。

この横浜水道は、世界中から集まる船乗りに「赤道を越えても腐らない」との好評を得ていましたが、人口が増えた現在では、道志川系統の取水は、全体の10%にもならない状況になっているようです。 http://www.city.yokohama.jp/me/suidou/ja/mizu/suigen.html 参照。

ついでに合成地名コレクションに以前から収録されていた神奈川県中井町。
中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。
[36931] 2005年 1月 20日(木)18:04:18【1】hmt さん
川のないところにあるダム湖・中央分水嶺を くぐる 水力発電施設
[36914]くるり さん
(湖の名前)城山湖 (ダムの名前)本沢ダム (おもな川)???

川のないところに作られた城山湖は、津久井湖の水を夜間の余剰電力で汲み上げておき、昼間の電力消費ピーク時の発電に利用する揚水発電所の上部調整池ですね。正式の名前は「本沢調整池」かな。

揚水発電所としては古い(1965年)このケースでは 上下の落差も153mですが、最近は 落差数百mの巨大な揚水発電所が各地で建設されています。
それに伴なって、上部調整池の立地を、下部調整池と発電所とがある水系とは 異なる水系に求めるケースが出てきています。
こうなると
[36912]みかちゅう さん
ダムの場合は「水系別」という方が関連性のあるものが並んでくる
との兼ね合いが問題になります。一応、発電所のある下部調整池の水系に 上下の貯水池を共に記載しておき、上部調整池の水系が異なる場合は注記するのが良いのではないかと思います。

上部・下部の水系が太平洋側と日本海側に別れている例を示しておきます。「〇〇湖」という別名は調べていません。

関西電力奥多々良木発電所(兵庫県朝来町)落差388m
 下部調整池: 円山川支流、多々良木川の多々良木ダム(日本海側)
 上部調整池: 市川最上流部の黒川ダム(瀬戸内海側)

東京電力神流川発電所(群馬県上野村)落差 653m
 下部調整池: 利根川水系神流川の上野ダム(太平洋側)
 上部調整池: 信濃川水系南相木川の南相木ダム(長野県南相木村)(日本海側)
 最大出力282万kWの世界最大級の揚水発電所。2005年7月に1号機運転開始予定。

参考:揚水発電

【1】タイトル変更
「中央分水嶺をまたぐ…」となっていましたが、これは地図の上から眺めた誤解。
実際の導水路は分水嶺の地下を「くぐって」いたのでした。
[41660] 2005年 5月 27日(金)19:37:03hmt さん
砂利鉄道(相模川編)
[41599]で、1891年に始まり、特に1908年からの20年間に各地で勢力を伸展した、多摩川の砂利鉄道を概観しました。その続きとして、神奈川県・相模川の砂利鉄道を紹介します。

相模川沿岸で,砂利採取と鉄道経営を最も大規模に行う企業として登場したのは相模鉄道です。
相模鉄道の最初の路線は、1921年開通の茅ヶ崎-寒川間の他に、寒川~川寒川間の貨物支線があります。
このことから、当初から相模川の砂利採取と輸送が重視されたことがわかり、また川寒川支線廃止が1931年であることから、砂利鉄道の繁栄がこの頃に終わったことがわかります。

ようやく厚木までの延長を果たして、2ヶ月前に厚木に一番乗りしていた神中鉄道と接続したのが、1926年7月。厚木駅とは言うものの、相模川右岸にある“本当の厚木”=本厚木[25271]ではなくて、対岸の河原口(海老名市)にあります。橋本までの全通は、更に5年後の1931年。

厚木で接続した神中鉄道は、現在の相鉄線ですが、旅客主体の鉄道ならば、当然に横浜側から伸ばして行くべきだと思われるのに、最初(1926)の開業区間が相模川左岸(厚木)と二俣川の間であったというあたり、砂利鉄道の本質が見えてています。
西横浜(1929)、平沼橋(1931)を経てようやく横浜駅に乗り入れすることができたのは、1933年のこと。

相模川から東京への砂利輸送ルートは、茅ヶ崎経由飯田町と、小田急経由東北沢が主なもので、神中鉄道ルートは横浜市内向けだったようです。横浜駅西口駅前の広大な砂利置き場は、1953年頃まで使われました。その後の横浜駅西口[27546]の開発・発展に、この土地が大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

時代は戻りますが、相模鉄道の経営は、昭和産業を経て1941年に五島慶太の手に入り、既に五島慶太の手に入った神中鉄道と合併することになりました(1943)。
存続会社が相模鉄道ということは、この時点での評価が、神中線(現・相鉄線)よりも相模線の方が上だったということです。

それも束の間、1944年に、東海道本線と中央本線を連絡する重要路線と位置づけられた相模線は、戦時買収によって「運輸通信省線」になり、五島(東急グループ)の手を離れました。
相模線の私鉄経営が続いていたら(大都市に直結する神中線との地位逆転はあったにしても)電化(1991)や沿線開発がこれほど遅れることはなかったであろうと思うと、相模線にとり気の毒な出来事でした。

東急グループの相模鉄道として残った神中線は、戦時中には、東京急行電鉄の委託経営で、厚木線[28910]として運行していましたが、大東急解体の前年(1947/5/31)に相模鉄道の直接経営に戻りました。
相模鉄道という会社は、それまでの間、鉄道会社でなく、砂利会社だったわけですね。

なお、相模鉄道の横浜-二俣川間は、かつて600Vでした。朝に厚木を出たが、電車が途中でエンコして、横浜に着いたのは夕方だったという伝説(京王線[38371]のように本当でしょうか?)は、電力供給の不安定を物語っていたのか、ボロ電車を伝えていたのか。東急時代の1946/12/26に全線の1500V化が完了し、二俣川での乗り継ぎも解消しました。

後半は、本来の砂利の話から離れて、鉄分濃厚な記事になってしまいました。
[46257] 2005年 10月 28日(金)19:09:27みかちゅう さん
水道水の話~横浜編
[46221]matsuさん、[46256]烏川碧碧さん
私の勤務先の人が都庁に行った帰りに「東京水」なるものを買ってきました。皆さんご存知ですか?
「東京の水道水はまずい」と固定観念を植え付けられていましたが、近年は変わりつつあるのですね。烏川碧碧さん添付の記事によれば、「配水途中で水道管の錆や貯水槽の汚れが混入するので、蛇口までこのおいしさが保たれるわけではない」のが実情のようですが、蛇口の水がおいしいならばペットボトルの「高い」水は売れなくなるわけで・・・。

で、水道水でわりとおいしいと言われているのが我が横浜市。どの区も5系統あるさまざまなルートの水がブレンドされているようなので、どこの区がおいしい水なのかはよくわかりません。かつて道志村にゴルフ場開発が浮かんだ時には、横浜市民の「水源が汚染される」との反対運動によってつぶされたとか。水源となっているゆえに秋には市民を対象とした公募による道志村の植林ツアーも企画され、私も行ったことがあります。そういえば道志村が横浜市との合併協議の申し入れをしたこともありましたね。

これ以上の詳しい話は横浜市水道局道志村ホームページをご覧ください。横浜市では「はまっ子どうし」なるペットボトルの水を100円にて販売しています。東京都のとは異なり「水道の水」というわけではないようですが、たぶんおいしいと思います。地域の防災訓練の際に参加者に配布されることがあったような気がします。


こんなわけで横浜市と道志村の関係はけっこう強いものなのですが、いかんせん道志村の訪問は自家用車でないと不便すぎます。いつかは行ってみたいと思っているのですが、土休日、学校の長期休暇中の大削減ダイヤではなかなか踏み切れません。各自治体訪問の一環で道志村に行くことを考えている方は、それなりの調査をしてから行かれるのをお勧めします。
[48782] 2006年 1月 27日(金)20:29:27【1】Issie さん
月夜野
昨日,うちの同僚と無駄話をしていて,「そう言えば,群馬県にも“月夜野”ってところがあるよね」なんて話題になりました。

[48774] みかちゅう さん
・[神]津久井町青根・[山]道志村月夜野のほぼ県境で路線は接続。

ここのことです。
群馬県の方が,普通の人にははるかに有名なんだけどね。
神奈川県側から県境の 両国橋 を渡った山梨県側のたもとにあって,同じ折り返し場を神奈中と富士急(今はどちらも子会社になっているけれど)で共用しています。
昔は神奈中側では「両国橋」と呼んでいたけど,今ではどちらも「月夜野」バス停という名前になっています。

実は,うちのHP(今年末が開設10周年)の当初のメインコンテンツはこの辺り(相模原・津久井郡・上野原)のバスや列車の時刻表だったのでした。特に神奈中が自社HPで時刻表検索サービスを始めたこともあって,このコンテンツからは撤退しました。代替コンテンツは2004年7月以来「開設準備中」です。

さて,月夜野での乗り継ぎはつい3~4年前まで毎日可能で,うちのHPでも「津久井(三ヶ木)・藤野駅~月夜野~道志~都留市駅・富士吉田駅 乗り継ぎ時刻表」なるもの掲載していたのですが,以前は1時間に1本もバスを運行していた神奈中(津久井神奈交バス)が大幅な減便を行い,もともと1日に数回しか月夜野に乗り入れていなかった富士急(富士急都留中央バス→富士急山梨バス)もさらに減便を行って,乗り継ぎは事実上不可能になりました。
神奈中が大幅減便をした2002年当初は,青根線(三ヶ木~東野~月夜野)で土・日全便運休という思い切ったものでしたが,いつのまにか朝1往復・昼1往復が復活したようですね。

・なお、甲州街道で藤野~上野原をつなぐルートは14年ごろに廃止、代替交通もなし。

こちらも同じときに上野原から撤退しました。しばらくはそれでも県境を越えて藤野町最西部の佐野川地区の入口にあたる「藤野台団地入口」(という名前だけど,所在地は山梨県上野原町[当時])まで走っていたのですが,結局藤野駅以西は廃止されてしまいました。

…つまりね,藤野町佐野川地区の西半分は山梨県の上野原に道路がつながっていて,ここを走る富士急山梨バスの路線(上野原駅~佐野川~井戸)も 山梨県上野原市→神奈川県藤野町→山梨県上野原市 と,県境を2度越えるのでした。
[58450] 2007年 5月 14日(月)17:58:26アルバトロス さん
手前味噌ですが
[58410] 稲生 さん
ところで、私・稲生は、本日は相模原市の高田橋から相模湾河口までの橋めぐりをしてきました。

相模川の橋めぐり如何だったでしょうか、ところで、高田橋ですが一週間早ければ、TVでも紹介されたこともありますが、毎年四月29日から五月5日まで高田橋の河原で「泳げ鯉のぼり相模川」が催うされており、多数の鯉のぼりを見ることができたはずです。但し、混雑を覚悟の上ですが。(笑)
また、高田橋の上流にもう一つ橋があります。神奈川の景勝50選に選ばれている、小倉橋と新小倉橋です。小倉橋は、幅が狭くすれ違うのにも大変でしたが、数年前新小倉橋が出来ました。旧城山町、今は相模原市の所在です。
手前味噌ですが、機会がありましたらどうぞ訪れてみてください。一見の価値はあるとおもいます。

  
[58458] 2007年 5月 14日(月)23:56:56【1】稲生 さん
相模川
[58450]アルバトロスさん
高田橋の河原で「泳げ鯉のぼり相模川」が催されており
貴重な情報をありがとうございました。
また、ご紹介の小倉橋と新小倉橋も趣きのありそうな橋ですね。

私・稲生は、皆様も薄々お気づきかと思いますが、自家用車で色々と「巡る」のが好きでして、最近のメインは郵便局めぐりとなっております。それに加えて、毎年1つの河川(主に1級河川)をターゲットにして、最上流から河口までの建造物(橋・ダム・堰・水管橋など)を写真に収めております。実は、今年のターゲットが相模川(桂川)なのです。
ざらっと下調べしたところ、約120の橋などがあるようでして、幹川流路延長が109㎞と、私の旅の原点となった天竜川の213㎞の半分ほどの長さにもかかわらず、天竜川の橋とほぼ同数であることが判りました。(細かく見ていくと、山梨県の大月あたりまでが、結構多いようです。)
そのため、起点の山中湖から上野原あたりまでで1日、上野原あたりから小倉橋までで1日、そして高田橋から河口までで1日という3区分しての橋巡りを予定しました。先日は、その1回目というわけです。

ちなみに、2002は天竜川、2002と2003にまたぎ豊川、2003は富士川(釜無川・笛吹川)、2004は矢作川、2005は大井川、2006は安倍川を、それぞれ巡ってきました。

※15日早朝、若干文章を推敲しました。
[58684] 2007年 5月 26日(土)23:39:23hmt さん
Re:横浜市の水源、雨乞いの神様
[58669] N-H さん
横浜市の水道をまかなっている水源のうちどの程度が道志村起源なのかは知りませんが

[34770] hmtでは、“人口が増えた現在では、道志川系統の取水は、全体の10%にもならない状況”と記しました。
これは、横浜の水はどこから で示された全5系統の中に占める「道志川系統」(鮑子取水堰からの取水量)の割合(約9%)です。

参考までに、他の系統は、相模川が津久井湖に入る手前の沼本から取水する相模湖系統が約20%、その先はずっと下流になり、東名高速道路の先・相模大堰から取水する企業団相模川系統の一部が25%、寒川町の馬入川系統が15%で、相模川水系合計で69%(残り 31%は酒匂川水系)となっています。

「道志村起源の水」ということになると、道志川本流の他に、奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ流す道志導水路の水、秋山川経由で相模湖へ分ける水もありますから、他の3系統の一部にも含まれる可能性があります。
しかし、
津久井湖(城山ダム)の水は,今や緑色ですからねえ…。([34777] Issie さん)
という状態ですから、下流から取った水の多い水道水の品質は、期待できないのでしょう。

[46257] みかちゅう さん
横浜市では「はまっ子どうし」なるペットボトルの水を100円にて販売しています。

このブランド水は、正真正銘「どうし」村の水源 から取水したもののようです。

[58674] Issie さん
大山の阿夫利神社に雨乞いをしなければ

水道局まかせになっている現代の都市生活は「雨乞い」から遠ざかっていますが、相模国の秀峰・大山(おおやま)は、阿夫利(あふり)山=雨降山 とも言い、雨乞いの神様 として有名な存在でした。大山阿夫利神社由緒

生活に余裕の出た江戸時代になると、江戸から格好の距離にある観光地として、大山詣でが流行しました。落語「大山詣り」 でも、お山の帰りに金沢八景見物という筋立てになっており、信心に名を借りた行楽旅行でした。

落書き帳の記事を振り返ってみると、「上福岡」の人も、「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」[19388]という記録を残しています。幕末の外国人遊歩区域[54415]の件にも登場しました。武蔵国南埼玉郡「大相模村」[37519]も、大山寺に関係していました。
国道246の大山街道、東上線の大山駅など、現代の地図にも大山詣で流行の痕跡を残しています。
[58758] 2007年 5月 31日(木)17:50:45hmt さん
水道の蛇口の向こう側(4 )相模川水系
[58751]で 東京の水は“78%が利根川・荒川水系、19%が多摩川水系”と紹介しました。100%には、あと少し必要です。
ごく僅か(0.02%)の地下水[58728]と共に、東京水道の約3% を担っているの相模川水系です。

[58674] Issie さん
私の右手数十メートルの地下を川崎市の水道が通っています。相模川の相模湖(相模ダム)と津久井湖(城山ダム)の水を水源としているものです。川崎市水道全体では,横浜市と同様,宮ヶ瀬湖や丹沢湖の水も水源としています。
で,確か,この水の一部は東京都にも“お裾分け”していたはずです。

相模湖の水は沼本ダムで、津久井湖の水は城山ダムで取水され、共に津久井分水地に送られて、ここで水道用と発電用などに分けられます。水道用原水は、下九沢分水池(相模原市)で既に言及した横浜用[34770][58684] と川崎・東京用とに分けられ、後者のトンネル水路は、川崎市の多摩丘陵にある 長沢浄水場 に向かいます。

ここには、川崎市の浄水場(24万m3/日)と東京都の浄水場(20万m3/日)とが隣接しています。
東京都水道局の長沢浄水場は、その 建築 が有名なようですね。仮面ライダーの「城南大学」とか。

というわけで、相模川水系の水は、東京の水源の一部にもなっているのでした。東京都水道局の浄水施設の紹介 の末尾には、一覧表がありました。相模川水系から“お裾分け”された20万m3/日は、確かに、東京の総処理能力686万m3の約3%を占めていました。

川崎市の水道が出てきたので。
[58667] hiroroじゃけぇ さん
神奈川県の東部は多摩川に依存しているとばかり思っていました。

たしかに川崎市の水道に関しては、多摩川表流水を水源としてスタートしました(1921)。
川崎市の水道は、その後相模川水系を中心に拡大し、現在は神奈川県内広域水道企業団を通じて、丹沢湖など酒匂川水系から配分される水量が半分ぐらいになっています。
一方、多摩川については、2003年から伏流水取水が廃止されています。
[65372] 2008年 6月 3日(火)01:26:14【1】稲生 さん
相模川(桂川)に架かる橋とダムについて
稲生です、こんばんは。

[65248]にて、ご紹介した相模川の橋とダム の編集が一応終わりましたのでお知らせいたします。興味のある方は、ご高覧ください。以下は、その作業の中で、気がついたことをいくつかお話しいたします。

「桂川」は、ご存知のとおり相模川のうち山梨県側の部分の通称ということなのですが、その「桂川」あるいは「桂」を使った橋名がいくつか見られました。
上流から順に示します。
1桂川橋山中湖村山中湖起点のすぐ隣に架かる橋
2桂川橋富士吉田市市内下吉田と大明見を結ぶ橋
3桂大橋西桂町倉見集落の入口の橋、決して大きくない
4桂高架橋都留市・西桂町中央自動車道
5桂橋都留市市内東桂地区の橋
6桂川大橋都留市・大月市両市の境界に架かる橋
7第二桂川橋梁大月市JR中央本線
8新桂川橋橋梁大月市JR中央本線
9桂川大橋上野原市島田湖に架かる橋
10桂橋相模原市相模湖町相模湖町千木良と若柳を結ぶ橋
(他にも、私が現地取材の結果「名称不明の橋」としたものの中にも、あるかもしれません。)
3,4,5あたりは、その地域が西桂,東桂または桂と呼ばれる地域なので、「桂川」にちなんでいるというよりも「桂地域」にちなんでの命名なのかもしれません。
8は、鉄ちゃんにはかなり有名な橋梁らしいです。
10は、すでに神奈川県内ですが「桂」を名乗っていました。

国道1号(東海道)に架かる橋は、相模川下流部の通称である馬入川(ばにゅうがわ)より名づけた馬入橋、JR東海道本線は馬入川橋梁となっています。

座間市と厚木市依知地域を結ぶ座架依橋は、なんと読むのか難しかったのですが、「ざかえばし」と読み、座間と依知を架ける橋の意味だそうです。右岸と左岸の一字をとって合成する橋名は、たくさんあるのですが(例えば下流にある戸沢橋,神川橋など)、その間に「架」を入れるケースは珍しいですね。

相模川は平塚市(右岸)と茅ケ崎市(左岸)の間を通り抜けて相模湾に注ぐと思われがちですが、河口部分の左岸も平塚市に属していました。これを発見した時は、ちょっと嬉しかったです。

最後に見どころは、
山中湖湖畔にある起点標識越しに見える富士山
都留市の蒼竜峡、特に旧・佐伯橋から見える田原の滝
日本三大奇矯の猿橋
相模湖や津久井湖
そして
新小倉橋と小倉橋 (こちらは、[58450]にてアルバトロスさんが、私の訪問前にご紹介くださいました。期待どおりの素晴らしい眺めでした。)

※桂川系の橋の注釈中 ×7⇒○8 でした。中央本線新桂川橋梁
※座架依橋の注釈中、カッコ内追加
[70142] 2009年 5月 15日(金)21:58:45Issie さん
相州愛甲郡奥三保日影之村
[70139] じゃごたろ さん
「ひなた」「ひかげ」という地名

少し時代がさかのぼりますが,中世の相模国愛甲郡の最奥部,「奥三保」と呼ばれた地域では,西から東に流れる相模川を境に北側の村々が「日向之村」,南側の村々が「日影之村」と呼ばれていました。
「愛甲郡」とは言っても,“奥三保”と呼ばれたこの地域は,江戸時代には「津久井県」と呼ばれるようになりました。明治以降の「津久井郡」,つまり現在の相模原市緑区(予定)の西半部です。

現存する地名では,旧藤野町の 名倉 に「日向」という字があります。東へ流れる秋山川の北岸。川を挟んだ 牧野(まぎの) には「日影原」という字が。こちらは川の南岸。藤野町牧野 は面積の大きな大字で,地区の中心の大久和(やまなみ温泉)から旧相模湖町の 寸沢嵐(すわらし) へのびる県道沿いに「日向」という字があります。こちらは大きな沢からは離れていて,大きな目で見ると道志川の谷との分水嶺から北の相模川の谷に落ちる南斜面の中にあるのですが,局地的に小高い丘の南側。集落の南を小さな沢が西に流れて,川上川→秋山川を経て相模川に合流します。
青梅線に駅のある「日向和田」も,西から東へ流れる多摩川の谷の北岸ですね。
日向薬師で地元では有名な伊勢原市の「日向」は,大きな目で見れば“丹沢の南斜面”ということになりましょうか。

という例に見られるように,とりあえず関東山地のあたりまでは少なくとも分布している地名ではあるようです。多くの場合,東西方向にのびる谷と関連のある地名,ということになるかしら。
後は,どの範囲まで分布している地名であるか,興味のあるところです。

「ひなた」に関してはもう1つ。
信州では「日方」という表記がよく見られますよね。苗字にもなっていて,「大日方」さんは信州ではポピュラーだけど他の地域ではマイナーで,「おびなた」と読むことがなかなか難しい。
「日向」「日方」,さらに「日当」という表記もあるようですが,それらがどのように分布しているかという点も面白いかもしれません。
[77951] 2011年 4月 29日(金)19:38:05hmt さん
Re:ダムに沈んだダム
[77948] 山野 さん
「菅野ダム」

山形県長井市にあり、長井ダムの湛水により水没したダムは、たけかんむりの「管野(かんの)ダム」 です。
参考までに、くさかんむりの「菅野(すがの)ダム」は、山口県錦川水系にあります。

ウオッちず を見ると、既存の管野ダムの真上を付替道路(竜神大橋)が渡っており、その少し下流に“ダム建設中”の文字と共に巨大な堤体が描かれているが見えます。
長井ダムの文字はまだ記されていません。長井ダムは、月山ダムと並ぶ山形県最大級のダムになるようです。工事現場写真と完成予想図

下記以外に全国にどれだけあるんでしょうね、ダムに沈んだ(又は水没予定地)水没消滅ダムって。

ダムの水没は、即 ダム機能の消滅に結びつく というわけでもないようです。

第二次大戦中の 1943年、工事中だった相模ダム・相模発電所に先んじて、その下流に 沼本ダムが作られました。
このダムの機能は、発電によって変動する相模川の流量を安定化させ、横浜市と川崎市の水道用水 および相模原台地の灌漑用水の取水を支える 逆調整池でした[43001]。取水の一部は谷ヶ原における再度の発電にも使われました。
その後の 相模原台地の変容により、大規模畑地かんがい事業は実現せずに終りましたが、水道用水と工業用水の需要が増大し、沼本からの取水の重要性は変りません。

相模川の総合開発はその後も城山ダム建設へと進み、1965年に下流側に完成した城山ダムにより、津久井湖が満水状態になると、沼本ダムはほとんで水没する形になりました。[65669]の末尾参照。
でも、水位変動を調整するダム本来の役割は、立派に機能しており、消滅したわけではありません。神奈川県企業庁

ダムの嵩上げによる再開発例(山口県の川上ダム)もありますが、管野ダム→長井ダムのように、既存ダム下流に別の大規模ダムを建設して再開発し、「ダムに沈んだダム」が生まれるケースも出てきました。

・沖浦ダム(青森)→浅瀬石川ダムへ。

黒石市(岩木川水系)にあった沖浦ダムは、浅瀬石川の治水と水力発電を目的とし、1933年に日本で最初に着工された多目的ダムでしたが、1988年竣工の浅瀬石川ダムに水没しました。
青森県での再開発で生まれた ダム湖「虹の湖」の貯水量は 50Mm3クラスでしたが、予定として挙げられた3例の中の「夕張シューパロダム」は、貯水量400Mm3クラスの巨大貯水池を誕生させることになります。
このダムによる 大夕張ダムの水没につき、[25993] TN さんが触れていました。

[77948]に記されたものの他では、青森県が岩木川・目屋ダムの下流に 津軽ダム を建設中です。
荒川水系大洞川でも、既設ダムの少し下流に新規ダムの建設計画 がある由ですが、再開発の詳細は不明です。
[78632] 2011年 6月 25日(土)23:39:00hmt さん
平地の呼び名 (3)「原」地名 つづき
「原」とは何か? しばしば使われる地形用語ですが、どのような土地に使われているのか。
「原」コレクション を始めた頃の 今川焼さんの記事 には、次のように記されていました。
[34084]
調べているうちに「原」はおおむね2つのパターンに分けられるようだということがわかってきました。
(1)扇状地や洪積台地のように水の便が悪く、開発の遅れたあるいは未開発の平坦地。
(2)山岳地帯にある高原あるいは小平坦地。湿地になっていることが多い。
[34129]
ある程度予想はしていたのですが、「原コレ」は、定義が難しいですね。(中略)原はその土地の状態(市街化の度合い、植生など)が問題になってくるのですから。

今川焼さんの視点の元は、人手の加わっていない「原野」であり、地形自体には変化がなくても、市街化された土地は排除すると理解されます。その結果示された3つの条件[34341]を短く書けば、(1)地形名由来、(2)地名として現存、(3)面影を残す で、この3条件のすべてを満たした「原」地形名を集めることは、コレクションの前書に明記されています。

条件(3)に記された“「原」の面影”って何でしょうね。[34341]には、
25000分の1地形図で見て、草地、森や林、田畑などの緑地が多少とも残っていれば
と書いてあるので、人手によるものであることは問題にしないが、植生がポイントになっているようです。

今川焼 さんは、“恣意的な採否”[54565]などと言いながらも、地形図以外の資料からも“「原」の面影”を求め[60504]、更には自分の足による現地調査[62509]までしているようです。

植生重視の今川焼さんに対して、私の視点は眺望重視でしょうか。

私は、[34440]において、“「原」の第一義は「適当な広さが見渡せる平地」”であると記しました。
水の便に恵まれなかったために、平坦地でありながら未開発のまま残された「原」は、樹木も比較的少なく、見渡しの利く景観を作っている土地であるというイメージです。

その代表が、抜群の見通しを持つために電波塔が林立している「美ヶ原」です。
これは、山そのものですが、山頂付近が 牧場として利用できる平坦地で、1921年の登山記録から使われたそうです。
[31098] SANUKI-Impactさん の「○○原と称する山」という記事がありました。
ついでに、美ヶ原山頂の石碑に記された「王ヶ頭」も、【山頂の】「頭」コレクションに たくさんの同類がありました。

そんなことを考えながらコレクションを見ていたら
(山梨県)青木ヶ原 鳴沢村・富士河口湖町 青木ヶ原樹海で有名

2億m3の溶岩流により「せのうみ」を西湖と精進湖に2分した 864年の貞観噴火[3719]
当初は 一面の溶岩台地だったのでしょうが、1000年以上を経た現在は 樹海になり【だから青木ヶ原】、「適当な広さが見渡せる」“「原」の第一義”とは対極にある景観を作っていた場所も存在したのでした。

前回[78618]の末尾に書いた「上野原」。ウオッちずの「うえのばい」vs「UENOHARA」縄文の森の件は、既に[34286]に記されていましたが、ついでに思い出したのが山梨県の上野原です。
現状は 地形名というよりも 「都市の名」、つまり住所地名であると受け取られているために、自然地名主体の「原」コレクションに収録されていないのでしょうが、典型的な河岸段丘上の都市「上野原」は、もともと立派な 地形名だった筈です。

引き合いに出すのが、都市化が広範囲に進み、本来の「原」風景の多くが失われた「相模原」。「住所地名」としては山地の旧津久井郡にまで拡大しています。
「自然地名」としての「相模原」は、少なくとも 1921年測量から1966年改測までの45年間地形図に使われましたが、昭和45年修正版では消えたことが確認されています[67608]
もちろん著名な地名の「相模原」であり、地形図を探せば“その面影”の一部とみなせる植生の存在はあると思います。相模原が、「原」コレクションに居座ることに反対するわけでは決してありませんが、これとのバランスを考えれば、現在は住所地名として扱われがちな 上野原や代々木上原 も、「原」コレクション収録対象にしてよいのではなかろうかと考えてしまいます。

蛇足
上野原にしても代々木上原にしても鉄道駅は谷底ですが、地名の本体は台地上です。
台地上にある 代々木上原バス停の位置は、(区境を隔てた) 駒場公園 の正門近くにあり、公園内の人工植生と共にリンク頁で確認することができます。
[79105] 2011年 8月 15日(月)21:08:36【3】Issie さん
「国中」の縄張り
[79097] k-ace さん
一之瀬地区近くを国道411号で通ったことがありますが、柳沢峠ではなく妙なところに甲州市・丹波山村境があったので不思議でしたが、一之瀬地区だと峠越えしても奥多摩方面より塩山方面のほうが近いから? ただいくらか改良されているとはいえきつい峠道ですが…。

この境界(一之瀬川)は単に現代の甲州市(旧塩山市)と丹波山村の境であるだけでなくて,少なくとも近世の山梨郡(現甲州市)と都留郡(現丹波山村)にまでさかのぼる境界であるようですね。それはもっと言えば,甲州を二分する「国中」(山梨・八代・巨摩郡)と「郡内」(都留郡)との境界でもあるということです。
つまり,多摩川流域の最上流部にあたる一之瀬川以西の区域は「郡内」ではなくて,甲府盆地側の「国中」の縄張りだということを意味します。

私もずいぶん前に国道411号線を通ったことがあります。確か,塩山側から。
柳沢峠を越えてもちろん山ばかりの場所なのですが,面白いことに峠を越えたばかりの一之瀬地区よりも下流に行くほど谷が深く険しくなっていく印象がありました。
実は,これは南に並行する笹子川・桂川(相模川)の谷を下る中央東線も同じで,笹子峠はもちろん険しく長いトンネルをくぐらなければならないけど,大月辺りまでは谷底にそれなりの広がりがあって中央東線も谷底に近いところを通っている。ところが,大月を過ぎると小仏トンネルを抜けて高尾(浅川)の駅に到着するまで実に険しく深い谷をたくさんのトンネルを連ねて行くことになります。塩尻以東の中央東線でトンネルが連続する“難所”は最高地点の富士見高原区間ではなくて,東京に最も近い大月-高尾間なのですね。中央東線の甲府以東が,丹那トンネルを控えた東海道線の東京口や上越線の清水越え区間とともに,昭和最初期という非常に早い時期に電化された理由の一つです。
これはさらに南に並行する秋山川や道志川の谷でも同じです。桂川(相模川),秋山川,道志川のそれぞれの谷が一番深く険しくなる辺りに甲州(山梨県)と相州(神奈川県)の境界があります。これが丹波川(多摩川)の谷では甲州(山梨県)と武州(東京都),そして国中(山梨郡)と郡内(都留郡)の境界となるわけです。

「国」という区画が成立する以前の“国造”の時代には,後に都留郡あるいは郡内と呼ばれることになる相模川(桂川)の上流域は「相武(さがむ)国造」の領域だったという説もあるようで,その後の甲相国境も移動しているようですが,少なくとも「甲斐国」が編成された時には都留郡は甲斐国4郡の1つに数えられていたわけで,甲府盆地側からの支配が及んでいたことになるのでしょう。この時,桂川流域に対しては笹子峠や御坂峠といった険しい峠が境界となったけど,多摩川最上流域については後に柳沢峠と呼ばれることになる峠の隔絶性よりも一之瀬川合流点よりも下流の谷の険しさによる隔絶性の方が大きかったのかもしれませんね。
ただし,地形が険しく関係各国・各郡にとっては山間僻地の辺境にあたるこの辺りの境界線が実際にどうなっていたかは古い時代であればあるほどよくわからないようです。具体的に境界が確定するのは中世後期,国中の武田氏と郡内の小山田氏の縄張りが確定する辺りまで下るのかもしれません。
いずれにしろ,無理に一般化してまとめれば,たとえばいつも分水嶺が境界線であればわかりやすいのだけど,現実にはそうならないこともとても多い,ということになるのでしょう。
[81137] 2012年 7月 18日(水)21:01:53【1】オーナー グリグリ
寸沢嵐・道志・三ヶ木
昨日のニュースになりますが、相模原市の道志川で女性が溺れたという報道がありました。その場所が表題の相模原市緑区寸沢嵐(すわらし)。難読地名ですね。例のグーグルマップで地域表示してみると、かなり広い範囲の地名になっています。飛び地もありますね。この地名、周辺ではかなり馴染んだ地名だと思いますが、私は初めて聞きました。しかしさすが落書き帳、過去に4回の書き込みがありました(4件のうち3件はIssieさん)。

興味があったので、名前の由来を少し調べてみました。こちらのすみ屋さんのサイトに、「津久井の言い伝え」というテーマで特集記事が34編掲載されており、その中の「地名探求の楽しみ」(pdfファイル)という記事があります。なかなか興味深かったので、寸沢嵐の部分を全文引用しておきます。
寸沢嵐(すわらし) 天正十八年(1590)小田原の北条氏が豊臣秀吉に降伏した後、津久井全域は徳川領となった。若柳村の一部七百石分は、貴志弥兵衛正吉という人が預かっていたが、元和=げんな=五年(1619)にこの地を若柳村から分離して、新しい村にすることになった。地図上では寸嵐と記録されており、これが元の名となって、近くにある丹保沢=たんぼさわ=の「沢」という宇が加えられて、寸沢嵐と名付けられたものと思われる。この名は読みにくく、諸書でも「スワラシ」や「スアラシ」と振り仮名されているが、「スアラシ」と呼んでは、沢の意味がなくなってしまう。本来、「スワ」という発音は、湿地や谷又は諏訪信仰を意味しており、「アラシ」という言葉は、田畑を荒らしておくというより休耕地や川の斜面の上から材木をこかし落とす所を意味するといわれる。寸沢嵐については今後の研究課題にしたい。

この他にも、「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」の地名篇にポリネシア語源の説明が出てきますが、このHPを主宰する夢間草廬(むけんのこや)氏というのは、その道では有名人なんでしょうか。検索でもかなりヒットします。「日本語はオーストロネシア祖語と唯一同系であると主張」なんていう記述もありますが、日本語を南方語源とするという説の一つでしょうか。詳しい方、ご教示いただければ幸いです。

ところで、「地名探求の楽しみ」の最初の方に出てくる「道志」の話も面白いですね。同じく引用してみます。
十年ほど前、私が住む相模湖町寸沢嵐の道志地区と山梨県道志村が同じ「道志」という地名であることを不思議に思い、何か因縁のようなものがあるのかどうかを知りたくなりました。そして、道志村の古老にお話を伺うなどした結果、二つの土地には強い縁(えにし)があることがわかりました。それは大体次のような言い伝えです。
山梨県道志村の御堂沢という所に金箔塗りの立派な阿弥陀如来がまつられ、村の人達に大層親しまれていた。ところが、ある年の台風のため道志川を流れて下流の寸沢嵐村に漂着し、この村の世話人に拾い上げられた。その晩、世話人の夢枕に立った阿弥陀如来は「どうしても道志村に帰りたい」と訴えた。しかし、この阿弥陀如来をすっかり気に入った世話人は、自分の在所を阿弥陀様がまつられていた場所と同じ「道志」という地名に変え、何とか阿弥陀如様に安んじてもらおうとした。その後、阿弥陀如来は寸沢嵐の石老山顕鏡寺に安置されて現在に至っている。
これは有名な話なのかなと思い、落書き帳を検索してみたのですが、具体的に二つの道志のつながりに言及した記事はありませんでした。hmtさんの[65669]には、
又野村の先を更に進むと三ヶ木村。ここは相模川に最大の支流である道志川が合流する地点で、道も2つに別れます。現在の国道番号で呼ぶと、相模川に沿うのが国道412号、道志川に沿うのが国道413号です。
国道412号の道志橋の下(三ヶ木の対岸)にある集落は、青木茂の「三太物語」[20179]の舞台になりました。
戦後間もない頃のラジオドラマにより「道志村」の名は全国に知られましたが、これは横浜市の水源である山梨県道志村とは違う架空の村名で、当時の本当の村名は「内郷村」でした。
という記述があります。「架空」の村名とありますが、道志川あるいは道志地区から発想したラジオドラマの架空の設定と言うことかな。前記の古老からの聞き取りという話は信憑性がありますが、言い伝えそのものは事実でも、内容は古来の創作である可能性が高いですね。

蛇足ですが、上記引用にある「三ヶ木」(みかげ)も難読ですね。御影と同じ由来でしょうか。
[81139] 2012年 7月 18日(水)23:17:44【2】Issie さん
揖宿郡
[81134] 88 さん
M22.4.1付け市制町村制施行時から、揖宿郡指宿村と、「指」であったと判断し、修正しました。

「指宿町」の表記の当否については言及しません。それに言及するだけの材料を持っていないので。
ここでは,その前提にある「いぶすき郡」について。

まず,「揖」という字。
常用漢字,あるいはその前身の当用漢字外の文字であり,現代の日常生活にはなじみのない漢字ですが,“軽く会釈をする”という意味の「一揖」(いちゆう)という言葉がとりあえずは身近でしょうか。ここにある通り,現代音は「ユウ」(または「シュウ」),旧仮名遣いの字音表記では「イフ」(または「シフ」)と表記されました。
もちろん,「指」(シ,ゆび)という字とは全く別の漢字であり,ここではこの「イフ」という旧表記が大事です。

平安時代初期に編纂された『和名類聚抄』(和名抄)には,当時(律令制後期の“国郡郷制”)の地名が列記され,それぞれの国郡,さらに一部の郡の郷の読み方が万葉仮名で表記されています。
その「薩摩国」(散豆萬:さづま)の項にあるのは「揖宿郡」という表記。読みは「以夫須岐」と記載されています。後代の“かな”とは違って万葉仮名は“清濁の違い”をきちんと書き分けるのですが,「夫」という字があらわすのは「濁点がついた“ぶ”」という音。したがって,「揖宿郡」の読みは現代と(ほぼ)同じ「いぶすき」であると考えられます。
この郡名に漢字を宛てるにあたって,日本語に「イフ」という音で受け入れられた「揖」という字がちょうど適当な文字として選ばれたのでしょうね。そうして「揖宿」という表記が成立した。

「イフ」という音は,元になった中国語の中古音では ip に近い音であったのでしょう。このような“母音+破裂音”という発音を漢文の音韻学では「入声:にっしょう」と呼びますが,この破裂音は現代のベトナム語や韓国語の“パッチム”がそうであるように,たとえば英語やフランス語の音節末の破裂音のようにしっかりと発音はせず,飲み込んでしまう「内破音」であったと思われます。で,この音を,はるかに単純で貧弱な音節構造(子音+母音)しか持たない“列島”の人々は,この破裂音に無理やり母音( u または i )を加える(そうすると,「イフ」とか「リキ」という日本語の漢字音になる)か,あるいはその破裂音を落として「イ」のように読むことにして日本語の表記に応用しました。
この「イ」という読み方を用いたのが播磨国の「揖保郡」。後ろに「ホ(保)」という音が続く前の部分でわざわざ「揖(イフ)」という字を選んだのは,「フ」の響きが残っていたせいかもしれませんね。
中世になって 揖保郡 は東西に分割されて「揖東郡」と「揖西郡」になります。これを「ゆうとう郡」ではなく「いっとう郡」「いっさい郡」と読むのは,「十本」を「じっぽん」(<ジフ+ホン)と読むのと同じ理屈で,武蔵国の 入間郡 が東西に分割されて「入東(にっとう)郡」「入西(にっさい)郡」となったのと同じですね。

話を戻して「揖宿郡」。
和名抄にあるように,この郡名は少なくとも平安時代前期には「揖宿」と表記されて「いぶすき」と読まれていたのでしょう。もちろん,それ以外の表記や読み方を排除するものではありませんが,少なくとも記録として残っているのはこちらの方。

指宿町一帯は温泉随所に湧出し、温泉量の豊富なことは別府附近以上とも称されているが、古来この地域は「湯豊宿(ゆはしゅく)」、即ち「湯の豊かなる宿」として世に知られていたが、今を去る約千三百年前、天智天皇薩摩大隅地方の巡幸の砌、高須(鹿屋市の海岸)より海路この地へ向われたのであるが、天皇が「人の宿程遠い」と云われたのに対し、案内の者が対岸をさして「湯豊宿」という所がもうすぐそこですと答えたところから「湯豊宿」が転化して「指宿(ゆびしゅく)」さらに「指宿(いぶすき)」と称えられるようになったことが伝えられている。

「言い伝え」は言い伝えとして,これは「事実」なんでしょうかね。
私には,「国引き」を終えた神様が「おゑ」と一息ついた(出雲国意宇郡。←これを某ネット百科事典は「終える」という意味だと説明してますが,「をへる」とは発音が違いすぎる気がします)とか,永年の征服の旅に疲れてヤマトタケルノミコトの足が「三重」に曲がってしまった(伊勢国三重郡)というのと同類の“語源説”であるように思えます。天智天皇が出てくるあたり,「出雲風土記」や「古事記」よりは新しい話であるようですけどね。

そもそも「揖宿」に対する「指宿」という表記がいつ現れてきたのか,というのが興味のあるところです。

ついでに関連して,

[81137] グリグリ さん
ポリネシア語源の説明

これについての当否についても,言及する材料を私は持ち合わせていません。
でも,正直な気持ち,私はこの手の語源説をあまり信用していません。私は門外漢ですが,比較言語学にはこのような単語どうしのつながりを検討する厳密な手順があるそうです。これらの語源説はそのような手続きに則っているのでしょうか。
ずっと以前にも表明したことですが,私は地名の語源については詮索しないことにしています。よほど明確な由来がある(それでも,たとえば有名な「岐阜」と織田信長の関係も厳密に検討すると微妙なところがあるようです),あるいは地形などのような地物と直接のつながりがあるような場合を除けば,“地名の由来”として伝えられているものの多くはかなり疑問があるものではないか,と思うけれども,それを補強することも反証することもできないからです。

ちなみに,これも以前に触れたことがあるかもしれませんが,「道志」という言葉は本来,平安時代の官制に由来するものでもありました。
平安時代中期,都の警察を担当する 検非違使(けびいし) が設置されます。これは“令外官(りょうげのかん)”,つまり律令の規定外の官職ですが,役所の官人は律令にならって長官(かみ)・次官(すけ)・三等官(じょう)・四等官(さかん)の4ランクにわけられ,検非違使ではその“さかん”を「志」(し=四)と呼びました。四等官の“さかん”は官庁において実務を担当する役人であり,検非違使ではその役柄から“武力系”と“事務系”の「志」がそれぞれ配置されました。武力系の「志」に任命されるのはもちろん武士ですが,事務系の「志」には法律の専門家として“明法道”を修めた者が任命されました。この“事務系の志”を「道志」と呼びました。
…長くなりました。
つまり,これが「道志村」ないしは「道志集落」に関係あるかどうかはわかりませんが,「道志」とは本来このような意味の単語であった,ということを申し添えておきます。
[81140] 2012年 7月 19日(木)17:17:59hmt さん
Re:寸沢嵐・道志・三ヶ木
[81137] グリグリ さん
相模原市緑区寸沢嵐(すわらし)。難読地名ですね。例のグーグルマップで地域表示してみると、かなり広い範囲の地名になっています。飛び地もありますね。

出身地が比較的近いので、名前は知っていました。「寸沢嵐」は、明治22年町村制発足の直前、神奈川県津久井郡に 内郷村が誕生 するまで存在した村名で、大字地名として現在も使われ続けています。
広い寸沢嵐の大部分は、ハイキングで知られる 石老山 の東半分。開けた土地は 山麓の川沿い・街道沿いです。

難読地名にも関わらず、私のPC(Google IME使用)では「すわらし」から一発変換できたのにビックリ。
Mapは、ピンクの地域表示がうまくなされず、飛び地を確認しにくかったが、寸沢嵐の中にある若柳の飛び地(2ヶ所)のことでしょうか。
[81096]に書いてあった“右上のプルダウンメニューの住所ラベル”というのも、よくわからず、操作できません。

相模湖町寸沢嵐の道志地区と山梨県道志村が同じ「道志」という地名であること

[65669]で“架空の村名”と記したのは、もちろん 三太物語の時代 に実在した自治体は「内郷村」であることを強調したかったからです。ウオッちずを見ると、清光禅寺付近に「道志」という地名が記されていました。おそらく寸沢嵐村時代からの「字」なのでしょう。

「道志」本来の意味[81139]はさておき、川の名になった以上は、上流と下流とに同名の「道志」があっても不思議はありません。例えは川越と江戸の間の舟運に利用された新河岸川は、川越近くの河岸に由来しますが、下流の板橋区の町名にも使われています。

阿弥陀様が流れ着いたという言い伝え。浅草の観音様や川崎大師と同類のお話。
横浜の水源地、山梨県道志村。これは、細長い一本道の村です。8里あるという話は誇張だろうと思っていたのですが、道志村HP に 東西28km、南北4kmとあり、これに近い値でした。根尾谷にも、こんな一本道の村があったし[68549]、くびれの立科も一本道の同類か。

「津久井の言い伝え」というテーマで特集記事が34編掲載(すみ屋さんのページからはリンクがつながっていません)

すみ屋の押田産業は寸沢嵐にあるのですね。左メニューにある 34編の記事へのリンクは通じていますが…
それはさておき
「地震峠」の教訓を生かし日頃の備えを というページも、その中にありました。
「地震峠」は、道志川の南、仙洞寺山を隔てた串川沿いにあり、大正12年の地震に関係する記事は 先月書きました[80943]

「三ヶ木」(みかげ)も難読ですね。御影と同じ由来でしょうか。

灘の御影の由来は、神功皇后が六甲(武庫)の麓に湧く泉 澤の井 に御姿を写されたという説が有力です。
三ヶ木はもっとありふれた 「三本木」系統の地名 の変形ではないかと思いますが、「木」を「ケ」と読む例は稀か。

「木」と言えば、三ヶ木に近い 又野出身の尾崎行雄 が、東京市長時代にワシントンに桜の木を寄贈してから今年が 100周年だそうで、先日 記念講演会 がありました。
[86777] 2014年 12月 9日(火)19:42:15【2】hmt さん
甲州へ (1)上野原
第11回の落書き帳公式オフ会開催地は 山梨県でした。
hmtの住む埼玉県とは隣接しており、県境の交通路 にあるように 雁坂トンネル有料道路も通じています。
しかし 公共交通機関に頼る身なので、直行することは叶いません。

武蔵野線で西国分寺に出るつもりが、事故の影響で新宿経由に変更。赤い電車は特別快速だったのに、高尾【注】に着いたら少し前に甲府行が発車したばかり。ま、急ぐ旅ではないので次を待ちましょう。
【注】[86779]の指摘により誤記訂正
ついでに、高尾山と同様に紅葉の名所である京都の「高雄」は「高尾」とも書くのですね。だから槇尾・栂尾と総称して「三尾」。

「ぎん色の電車」で、山梨県に入って最初の駅である上野原で下車しました。

上野原で下車した理由の一つは鉄道地理の観点なのですが、その他に極めて個人的な理由がありました。
その理由というのが、「1918年中央線乗り越し事件」の現場を見ておきたいということです。

1918年秋に hmtの長兄hmfが誕生しました。場所は落書き帳に300回以上登場したという津久井[86752]です。
hm家の跡継ぎ誕生ということで御目出度いのですが、あいにく父は東京の病院に入院中でした。
退院を待てなかった父は、母子が旅行できるようになったら 病院に連れてくるようにと手紙で伝えました。

当時の交通事情。神奈川県津久井郡の北西部をかすめる中央本線は、官設鉄道時代の1901年に開業しており、与瀬駅【現在の相模湖駅】が設けられていました。もちろん単線ですが、蒸気列車は八王子-飯田町間の甲武鉄道と直通運転しました。鉄道国有化を経た 1918年当時も、基本的には同じことです。

1925年の『汽車時間表』を利用して、旅程を組んでみます。
自宅・与瀬駅間の交通。現在は国道412号で約10 km、バスもありますが、当時の道路は、道志川や相模川を越えるためにつづら折りの道で 谷を降りてはまた登る という難路。ここを人力車で通り抜けるのには、どのくらいの時間を要したのでしょうか。

与瀬発の飯田町ゆき列車は、1101, 1329, 1605, 1906【便宜上24時間制で表示】、所要時間は2時間10~15分。
36.5マイルの三等運賃は93銭、二等車【グリーン】は倍額でした。

東京での仕事は、父子対面と写真撮影くらいですから、一泊二日の旅程でOKでしょう。
問題になった帰路は 日暮れの早い冬であることを考えると、飯田町発 1216発に乗車したいところです。その次は3時間後ですから夜にかかってしまいます。

母子に同行してくれたのが祖母【安政生まれ!】ですが、自力での旅行経験ゼロという点では同レベルです。
それでも往路は無事。待望の父子対面を果たし、お宮参りの衣装で記念写真も撮影。
大任を果たして心も軽く帰途についた3人を待っていたのは思わぬアクシデントでした。

小仏トンネルを抜けて汽車を降りようと2等客室【グリーン車】からデッキに出るドアを開けようとしたが開かない!
嫁と姑は あれこれ試みたが 扉はビクともせず。客室内に1組だけいた乗客【話に夢中だった新婚さん】の助けを借りて、ようやくドアを開いた時には、発車ベルを残して汽車が動き出しました。

お迎えの人力車夫が待つ与瀬駅を後にし、心が動転したお上りさんが着いたのが上野原駅でした【藤野駅は未開業】。
事情を話したら 早速 与瀬駅に電話して 車夫達に待ってもらうように手配し、次の列車で戻るよう 案内してくれました。
「あの時の駅員さんは本当に親切で良い人だった。地獄に仏とはこの事だ。」
語り継がれたこの事件により、「上野原駅」は hm家の人々にとり 忘れられないものになったのでした。

個人的な無駄話を書いたのは、旅行の機会が少なかった1世紀前の人にとっては、近距離の旅行でも大冒険であったことを伝えることで、何かの参考になるかと思ったからです。

さて、現在の 上野原。ここは地理的観点としては 桂川【相模川の上流】が作った河岸段丘地形で知られています。

駅は幅の狭い段丘【等高線190mと180mの間】上にあり、プラットホームにある待合室のような建物が駅舎です。地理院地図 の鉄道は 記号化されているので、駅舎が中心からずれているように見えますが、プラットホーム中心線上に駅舎があります。

改札口を通って駅舎東側の跨線橋から北口に出ると、バス停のある駅前です。ここは、線路や駅舎のある段【等高線190mと180mの間】よりも1段上ですが、200m等高線【やや太い】と190m等高線の間にある幅の狭い段で、バスが方向転換するのがやっとのスペースしかありません。
「市の代表駅」という言葉から想像される駅前の賑いとは全く無縁の存在でした。

中央道のインターチェンジは250m等高線【やや太い】の南側、その北には市街地のある260m前後の上位段丘が広がっています。これこそが名前のとおりの上野原でした。

駅の南口。こちらは、折角登った跨線橋からすぐに続く長い下り階段です。ここを降りれば180mより下にある桂川の沖積面です。新田地帯であったことは、地名にも残されています。桂川橋付近の水溜りに島田湖という名があることは[43357]で触れました。

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