[77623] 伊豆之国 さん
明治になって軍港の町として繁栄してきた、この三浦半島の横須賀
川越・八王子・横須賀・豊橋・福知山・姫路・下関。
都道府県庁所在地以外で、自治体コードが「**201」となっている市です。
市の変遷 では、川崎どころか 新参の相模原にまで先を越されて 4位に甘んじていますが、市制施行(1907)は 神奈川県では 横浜に次ぐ2番目で、それなりの歴史があります。
市域は 海軍さんの力が強かった戦前戦中の 1933~1943年に三浦半島の大部分に及びましたが、強制合併
[37931][37958]された逗子は、戦後に分離独立しました。
現代の横須賀市域を基準に考えると、近世以降の日本歴史における 横須賀の初舞台は、嘉永6年(1853)でしょう。
でも、歴史年表を見ると、“浦賀沖にペリー艦隊来航”とあり、横須賀の名が全国的に知られたわけではありません。
江戸幕府の機関も「浦賀奉行所」であり、浦賀は 1943年まで横須賀とは別の町だったのですから、当然でしょうね。
横須賀という地名が使われた政府機関が登場したのは、慶応元年(1865)に 幕府が建設を開始した
「横須賀製鉄所」 であろうと思われます。
当初の名は 造船所でなく 「製鉄所」でしたが、もちろん近代国家として必要な 西洋式の海軍の創設 を視野に置いた施設でした。
この施設を推進した 幕府の実務責任者は、小栗忠順でした。彼は1860年に日米修好通商条約批准の使節の一員として渡米した際の工場見学により、西洋の先進的な技術を認識したとされます。
政局の先行きが不明な中で、造船所計画に必要な莫大な出費に対して、幕府内での反対論が無論ありました。
“幕府がつぶれて、家(政権)を明け渡すようになっても、土蔵付売家にしておけば、価値がある。”
これが 仕分人(?)に対する 小栗の答えだったそうです。
島田三郎懐舊談
小栗が技術援助先として選んだのは、(陸軍も同様ですが)ナポレオン三世時代のフランス
[44237] でした。
造船所の立地として、浦賀水道観音崎より内側の入江が候補になり、小栗はフランス公使の ロシュらと共に実地検分して、ツーロンに似た天然の良港で、江戸にも近い横須賀を選んだと言われます。
hmtの出身地・津久井に 慶応3年に現れたフランス人技師は、この横須賀製鉄所建設業務に関係するものでした
[54415]。
慶応4年に小栗は落命しますが、横須賀造船所の工事は 新政府に引き継がれ、明治4年(1871)に完成しました。
造船所の管轄は 工部省から海軍省に移り、明治17年(1884)に 東海鎮守府
[29190]が 横浜から横須賀に移転して 横須賀鎮守府と改称されると、海軍造船所もその所管となりました。
日露戦争前年の 1903年には、横須賀海軍工廠という名称になり、1921年完成の 戦艦陸奥など多数の軍艦が建造されました。
1923年の関東大震災の際には、巡洋戦艦として起工した天城を 航空母艦として完成させるための工事中でしたが、これが船台上で大破するハプニングもありました。
写真
第二次大戦後の横須賀は、米国海軍の基地になり、第7艦隊所属艦艇の事実上の母港になっています。
造船所での艦艇建造はなくなりましたが、修理工場として機能していると思います。
造船所を中心に横須賀を振り返ってみましたが、最後に横須賀線について一言。
東京-横須賀間は 62.4km(JR)。これは千葉(39.2km)よりもずっと遠く、熊谷に近い距離です。
今日でこそ、「首都圏」や「東京近郊区間」として東京の事実上の範囲が拡大していますが、そんな言葉のなかった時代において、横須賀線は 早くから電化され(1925)、二等車(現在のグリーン車)を連結した長距離電車が運転されました(1930)。
このような特殊な状況を生み出した背景には、鎌倉付近に在住した富裕家族の存在もあるでしょうが、海軍さんの存在も大きかったと思われます。