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相模国津久井県、神奈川県津久井郡

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記事数=22件/登録日:2018年3月11日

落書き帳で最も多くの記事の中に登場する地名は? というクイズ。[86750]
地名とは別の意味で使われている言葉(例えば富山市の大字である「町村」[86783])を除外すると、600記事でトップの「三本松」[86750]に次いで、「津久井」が347記事[86752]と健闘していたそうです。

その神奈川県「津久井」郡は hmtの出身地 ですが、平成合併の結果、11年前の 2007/3/11に消滅しました。
メンバー紹介ページの表記は「(相模原市緑区)津久井町」となっており、緑区のページへのリンクが貼ってあります。

現在の緑区の区域は、区役所のある橋本など合併前からの相模原市街地の一部を東端に含んでおり、かつての津久井郡と一致しません。また、緑区の中に津久井町という町名が存在するわけでもありません。

そのことを承知の上で、わざわざ括弧を使ってまでして、紛らわしい地名表記を使ったのは何故か?

それは、私の出身地・津久井が 地形的には 丹沢山地【広義には秩父山地等まで続く関東山地】の一部であると実感しているからです。
合併の結果、本籍地の地名が相模原市になった。通知[62718]。これはやむを得ない。
しかし、落書き帳メンバーとしての出身地を、「相模原」という眺望の開けた「原」地名【広義には関東平野の一部】[34084]で呼ぶことには違和感がある。

2006年に相模原市との合併で 自治体としての津久井町【まち】が消滅した後のことですが、津久井町【ちょう】という地域自治区が設置されていたので、hmtは 出身地を「相模原市津久井町と表記することができました。

しかし この地域自治区は、2010/4/1 の政令指定都市・区設置に伴う改正で廃止されました[87944]
hmtは 出身地を現在の表記に変えざるを得ませんでした。
このような事情があったことを ご理解ください。

神奈川県津久井郡は、古くは奥三保(おくさんぼう)と呼ばれ、鎌倉時代に三浦一族の津久井氏による築城があり、「津久井城」と呼ばれるようになりました。
戦国時代は小田原北条氏の支配下「役帳」に記録された「津久井衆」の名などが残されていますが、完全な支配は及んでいなかったようです。愛甲郡と高座郡とに分属?
そして江戸時代には「津久井県」を称することになりました[41805]
近世では全国唯一の「県」でしたが、明治になって「郡」に昇格[73423]

1955年の昭和合併では 17町村から4町に集約され、約52年後の平成合併で すべてが相模原市に編入されました。
城山町には相模原から続く平地があるが、大部分は前記のように山地です。

特集「津久井」は テーマ「郡と支庁」に属し、中野・串川・小倉橋など hmt出身地に近い津久井町・城山町付近の記事を集めるつもりです。

津久井を語る上では、甲州から流れ下る相模川水系と水利用のことが欠かせません。
しかし、それらの記事を収録すると件数が多くなり過ぎます。
そこで、甲州街道や 中央線沿線の 相模湖町・藤野町地域は別特集とし、上流部の桂川・道志川流域、そして横浜水道など下流部と共に 別特集「相模川」に振り分けます。
ご了承ください。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[41805]2005年6月1日
hmt
[43001]2005年7月14日
hmt
[52691]2006年7月26日
hmt
[52707]2006年7月27日
hmt
[54415]2006年10月12日
hmt
[55523]2006年12月12日
hmt
[58485]2007年5月15日
hmt
[58974]2007年6月10日
アルバトロス
[62718]2007年11月29日
hmt
[65669]2008年7月4日
hmt
[68989]2009年3月23日
hmt
[73423]2009年12月28日
hmt
[77630]2011年2月11日
hmt
[80943]2012年6月8日
hmt
[83701]2013年7月15日
hmt
[88042]2015年7月8日
hmt
[88047]2015年7月8日
hmt
[88053]2015年7月9日
hmt
[18537]2003年7月22日
Issie
[20179]2003年9月22日
Issie
[22588]2003年12月7日
Issie
[23576]2004年1月9日
Issie

[41805] 2005年 6月 1日(水)18:45:36hmt さん
三浦半島の小地名→三浦一族の名字→相模川上流に津久井城→そして「津久井県」などの地名
[41743] 百折不撓 さん
少なくとも、信長以前の姓で地名と同じ場合は、地名が先と考えるのが妥当なのではないでしょうか。

征服した各地にアレキサンドリア(アラビア語でイスカンダル[7333]、アフガニスタン戦争の時にニュースに出たカンダハルも同じ)という都市を作りまくった「歴山大王」の伝統を受け継ぐ西洋と異なり、日本人は概して、地名に人名を付けることには慎重でした。
地名由来の名字が多いのに比べて、人名由来の地名は少ないようです。

そんなことを考えながら過去ログを見ていたら、アーカイブズ地名と姓名の遥かなる関係に行き当たりました。
その中には、下総相馬郡出身の相馬氏が、源頼朝の奥州征伐に参加して、与えられた領地が「相馬領」と呼ばれて定着したとか、甲斐国巨摩郡南部郷から出た南部氏が奥州北部で頭角をあらわし、その地の地名を生んだというような Issie さんの記事がありました。

このように、「地名→人名→別の場所の地名」 という類型があり、hmt として身近な実例は「津久井」です。
改めて過去ログを探ると、さすがに
[1617] Issie さん が
小さなところでは神奈川県の「津久井郡」は中世領主の津久井氏に由来するけれど,津久井氏は三浦半島南部の津久井庄(横須賀市)が本来の領地だった。
と、既に言及されています。
せっかくなので、津久井氏の出自である三浦一族のことなど。

12世紀、鎌倉幕府ができる少し前の東国の武士に、三浦義明という人物がいました。官職は「相模介」ですが「三浦大介」(みうらのおおすけ)で通っています。
この三浦大介義明は、弟や息子などの一族を三浦半島の各地に配し、彼らは、名字としてそれぞれの地名を名乗りました。三浦氏の惣領家の三浦義明の部を見ると、三浦の他に、杉本、和田など地名からの名字が多数出ています。後に鎌倉幕府侍所別当になったが、北条義時と対立して滅ぼされた和田義盛と、和田合戦の時に北条方についた三浦義村は、いずれも義明の孫です。
大介義明の弟、津久井次郎義行も、三浦半島の津久井庄(現・横須賀市)由来の名字です。これも地名先行の例。

ところが、津久井次郎義行の息子・為行(津久井太郎次郎義胤)が、現在の津久井町根小屋の宝ヶ峰に築城し、付近一帯を津久井領としたのが「津久井」の地名の起源と伝えられます。今度は人名先行です。

この城が歴史の舞台に登場するのは戦国時代。小田原北条氏が甲斐の武田氏に備えて、内藤景定を城主として「津久井衆」という家臣団を編成した後のことです。1569年には、付近の三増峠で両軍の激突がありました。その後、秀吉の小田原攻めの際(1590)には、「小田原評定」を続けている間に、津久井城も落城。

江戸時代初期には、「慶安三年(1650)相州津久井領絵図」が示すように「津久井領」と呼ばれていましたが、元禄4年(1691)に愛甲郡と高座郡とに分属していた津久井領が両郡から独立した際に、「津久井県」と命名されました。
命名者である代官・山川金衛門貞清は、漢学者だけに、この地は、郡と称するにはあまりに弱小と考えたのでしょう。
[1196]Issie さん や、森鴎外の「寒山拾得」にもあるように、
本来は「県」よりも「郡」の方が大きい区画です。

実際問題としては、日本にはミニサイズの郡がいくらでもあったので、わざわざ「津久井県」を名乗る必要もなかろうと思いますが、とにかく「津久井県」は「近世日本で唯一の県」になり、この公式名称は明治3年に「津久井郡」になるまで続きました。
「津久井町」は、1955年昭和合併の産物。

最初に挙げた三浦大介義明のエピソード。
彼は、治承4年(1180)に源頼朝の挙兵に応じ、平家打倒に立ち上がりましたが、両軍が合流を果たす前に、頼朝が石橋山で敗れてしまったので、衣笠城に引き返して平家の追撃を防ぎ、一族を脱出させました。89歳の大介はその際に討死しましたが、三浦一族は頼朝軍に加わって功績を挙げ、鎌倉幕府の要職につきました。
大介の死後17年、頼朝は、義明の功績をたたえて生けるが如くに扱ったので、三浦大介は 89+17=106歳までの長寿を保ったとされるようになりました。

厄払いに曰く。
「アーラ目出度いな目出度いな。目出度きことにて払いましょう。
鶴は千年、亀は万年、東方朔は九千年、浦島太郎は三千歳、三浦大介百六つ。」
川柳の “厄払い さて短命は三浦なり” は、このセリフを踏まえています。
#東方朔は、漢の武帝の宮廷にいた人物。西王母の桃を三つ盗み食いしたので長命との伝説あり。
[43001] 2005年 7月 14日(木)13:53:40hmt さん
相模川水系・コレクションに集められた5つのダム湖
[42974]で登場させた相模川水系の流域は、hmtの出身地を含みます。もう少し続けさせてください。

桂川の源流部は、宇津湖という湖だったものが、富士山の溶岩流によって山中湖と忍野湖に分かれ、更に忍野湖は干上がって、8つの湧水口のみが残り、現在の忍野八海(おしのはっかい)になったとされています。
「海なし県」にも「海」があったのですね。海コレクションにも収録されています。
個々の名前は○○池なのに、集まると なぜか八海?

相模川水系の水は、利水と発電に高度に利用されています。
明治20年(1887)から給水を開始した「近代水道事始め」の横浜水道については既に[34770]で記しました。
水道敷設の目的は、明治10年代に流行したコレラなどの伝染病感染防止にありました。少し後のことになりますが、東京の淀橋浄水場建設も同じ動機でした[36207]

高電圧長距離送電の草分けとして技術史に残る駒橋発電所(1907、現・大月市)を始めとして、明治から大正にかけて建設された数多くの発電所の電力は、京浜地区の工業化に役立ちました。駒橋発電所の下流にある日本三奇橋のひとつ「猿橋」に隣接し、観光客の目に触れる「八ツ沢発電所一号水路橋」(1912)も、発電に付帯する施設です。

明治・大正時代に水道局や電力会社の個別の事業としてスタートした相模川の利水・発電は、昭和になると、神奈川県が主体となった「相模川河水統制事業」へと変わってゆきます。これは、アメリカ合衆国のTVAの成功などの影響を受けた、ダムによる河川開発の一環で、1937年当時の内務省を中心に、全国17河川で実施されたとのことです。

具体的には、与瀬町(現・相模湖町)に相模ダムを造って発電を行い、下流の水量を安定させるための調整池(沼本ダム)から久保沢方面に導いて、横浜市と川崎市の水道用水および相模原台地の灌漑用水を分水し、残りを「谷ヶ原」(相模川の谷に臨む台地)から本流に還元する際生ずる落差により再び発電をするという計画でした。

相模ダムは、日本最初の本格的な多目的ダムです。勝瀬部落を中心とする136世帯の水没地区住民の反対も強権発動ともいえる圧力で押し切られた「ご時世」の中、1940年着工。第二次大戦の影響を受けて 戦後(1947)にずれ込んだ完成式典には、昭和天皇が臨席し、ダム湖は「相模湖」と命名されました。
1955年には、支流の道志川に道志ダム(奥相模湖)が作られ、発電と秋山川を経由した相模湖への導水に利用されます。

戦前に計画されたこの河水統制事業には、農業用水が含まれていました。そして、食糧増産を目指して、大戦後の1948年から相模原台地に大規模な農業用水路の建設が開始されました。しかし、日本の復興に伴ない、相模原台地の畑の一部は工場用地に転用され、次いで都市化の波が訪れ、1963年完成の時には、この「大規模畑地かんがい」の用水路は使われなくなる運命が待ち受けていました。

ところで、相模川総合開発事業は、1960年に決定された城山ダム建設によって、次の段階を迎えます。
これは、洪水調節、水道及び工業用水の供給、日本初の大規模揚水式発電を目的とするもので、付帯設備として上流調整池の本沢ダム(城山湖)と、支流・串川からの取水路も作られました。

このダムで水没することになった285世帯の中心・荒川地区は、江戸時代には「荒川番所」[34770]が設けられていた かつての交通結節点です。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でした。私も子供の頃、バスでよく荒川橋を通り、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのいだことも経験しました。

この由緒ある集落の住民も、度重なる移転補償交渉の末、相模原市二本松地区等に移り、1965年3月にダムが完成。
その5月には台風6号により 満水の津久井湖が出現しました。

更に次の段階は、2001年 支流の中津川に完成した宮ヶ瀬ダムです。
国内最大級の重力式コンクリートダムによって支えられる宮ヶ瀬湖(貯水容量183百万m3)は、相模湖(40百万m3)や津久井湖(54百万m3)をはるかに超える大きな水がめですが、支川(中津川)の集水面積は小さいので、単独で貯水するのにかなりの時間を要します。一方、相模湖や津久井湖は流域面積の大きい本川と道志川の水を集める反面、貯水能力が十分でなかったので、水資源を有効に利用できなかったきらいがありました。

そこで、道志川の奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ8kmの道志導水路、宮ヶ瀬湖から津久井湖へ5kmの津久井導水路を設けて、宮ヶ瀬湖の貯水能力を道志川および相模川本川と連携させ、総合運用する仕組みになっています。
宮ヶ瀬湖による水没は281世帯。水没面積が広い(490ha)せいもあるが、意外に多いです。住処を追われたのは住民だけでなく、サル・イノシシ・クマなどにも及んでいるはずですが、彼らに対する補償はなし。

このようにして、ダム湖コレクションの相模川水系の部に集められた、相模湖、奥相模湖、津久井湖、城山湖、そして宮ヶ瀬湖という 5つのダム湖は、相互に連携して働く存在なのです。

この話題の発端、川の名前についての補足。
山梨県内の桂川、神奈川県内の相模川、河口部限定の馬入川の他に、古名の「鮎川」がありました。
昔ほどではないでしょうが、相模川は 今でも鮎釣りにとっては 知られた川です。厚木で 中津川と共に本川に合流する「小鮎川」という支流もあります。
1940年代後半、通学の帰路によく通った この三川合流の河原には、砂利採取船[41599] が稼動していました。[41660]参照。
[52691] 2006年 7月 26日(水)22:35:44【1】hmt さん
Google Earthに使われた地名(2)鶴間・川和・関
Google Earthで私の居住地の近くを見ていたら、「Tsuruma」という地名が表示されました。
鶴間村は明治22年に鶴瀬村になり、現在は富士見市。でも、駅名になっている「鶴瀬」の知名度が一番でしょう

「Tsuruma」が使われているのも明治22年よりも古い資料のためと思われます。「揖製二十万分一図」[52674]で、「鶴間」を確認。

それでは出身地の付近はどうかと、Google Earthで、津久井湖の南岸を見ると“Kaawa”という地名が表示されています。

オヤオヤ、これは珍しい!
「川和」という地名は、私が子供の頃には聞いたことがあり、少なくとも20世紀前半には使われていました。
歴史的には、19世紀を中心として流行した「川和縞」 が、この地名に由来しています。

しかし、津久井の「川和」は、これまでに地図の上で見た記憶がありません。
【追記】Issieさん [52699]が指摘されたように、1940年代より前の地形図には出ていました。

同じ神奈川県でも、鶴見川沿いの「川和」(現・横浜市都筑区)の方ならば、ご存知の方もあるでしょうが。
相模川、鶴見川いずれの「川和」も、川が曲流した「川輪」地形に由来するものと思われます。

“Kaawa”から少し南の串川沿いに“Seki”の表記があります(本当はもう少し西)。
「関」は津久井町青山[48710]の主要集落ですが、これも「川和」と同様に行政区画としては使われていない地名です。
バス停としては現役。

さっそく「揖製二十万分一図」[52674](もちろん津久井湖[43001]のない時代)に当ってみると、「川和」の地名は見当たらず、「中野」と記されています。
どうやら「川和」は、中野村(→1925中野町→1955津久井町→2006相模原市)の内部に埋没している地名であり、明治時代から地図に現れる機会はなかったようです。
「関」の位置には「青山」と記されており、それ自体は当時の青山村の主要集落ですから納得できます。
しかし、不思議なことに、現在の青山バス停付近(狭義の青山)に「関」と書いてあります。これは?

結局、津久井の地名に関しては、Google Earthの表記と、「揖製二十万分一図」とは一致していないことがわかりました。
…というわけで、残念ながらGoogle Earthの使った「古い資料」の解明は不成功。
[52707] 2006年 7月 27日(木)16:13:30hmt さん
Google Earthに使われた地名(3)中野村Kaawa・根小屋村Nakano・青山村Seki、そして何故か消えた「Sagamihara」
[52699] Issie さん
もう少し縮尺の“大きい”5万分の1地形図では「川和」が表示されていました。
1)明治41年(1908年)鉄道補測
街道に沿った集落内の津久井郡役所と村役場の記号のそばに大きめの文字で「川和」。

ご教示ありがとうございました。調査不足(と記憶違い?)でした。
遅ればせながら「日本図誌体系」収録図(明治39年測)によって確認しました。

「組合中野外四村」の構成は、ご推察の通り「根小屋村」が入っていました。
根小屋村は、寛永検地で串川流域の長竹村から分村した村ですが、この付近では相模川本流とを隔てる峠は低く、[52691]で言及した川和縞を世間に広めたのも、根小屋村の豪商・久保田惣右衛門でした。
「根小屋」は、もちろん中世に城山(宝ヶ峰)にあった津久井城 [41805] の「麓の居館」に由来する地名です。

Google Earthで「Kaawa」の南東に「Nakano」がありますが、これはIssie さんならご存知の「根小屋中野」です。5万分の1地形図でも「根小屋村」の右に「中野」と記されていました。
大部分の方にとっては川和の中野村とまぎらわしいので、念のために記しておきます。

「根小屋村」と記された地形図が発行された直後の明治42年(1909)に、根小屋村は中野組合村を離れて、青山村・長竹村と共に「串川村」になりました。

その青山村。 Google Earthの「Seki」に対応して、地形図には「青山村関」などと記されています。
Google Earthには、地形図の「長竹」に相当するらしい「Nagarake」がありますが、綴りと位置が間違っています。

時代は遡りますが、1740年の南山入会事件[43357]の書類には、「青山村之内関村」と記されています(「串川財産区史」p.97)。
関村は、1590年の小田原攻めを境に徳川直轄地になった津久井領の中で、北条遺臣・井出氏の知行地として残されていた地ですが、1626年には召し上げられて天領の青山村になりました。しかし、その後も「村の中の村」という形があったようですね。

3)昭和22年(1947年)資料修正
「(川和)」の表記は同じ。中野村は又野村・三ヶ木村と合体していたので,通常の表記で「中野町」。

同じ頃の二万五千分一地形図「上溝」(大正10年測図 昭和24年資料修正(行政区画))が手元にあったので、確認したところ、北西隅に「中野村(川和)」。アレ、大正14年に4村(太井村[43001]を含む)が合併して中野町が誕生しているのが修正されていません。

この地図の東半分に大きく広がる桑畑の目立つ台地については、もちろん行政区画が「相模原町」(1941年成立)に修正されているのですが、行政区画以外のデータは大正10年(1921)のままであり、なんと1931年に開通した相模線(1944年買収)さえ記入されていません。
戦争の時代をはさんでいるとはいえ、昔の地形図は更新間隔が驚くほど長かったことがわかります。

旧版時代のGoogle Earth [42664]では、
更に拡大すると、浜松・相模原・八王子・浦和・船橋・千葉。(なぜか、静岡や甲府は出ない。)
と、かなり早い段階で現れた「Sagamihara」なのですが、なぜか新版では現れないのですね。(検索では、米軍相模原補給廠の地点が指示されます。)

ところで、中野村(川和)が出ている図幅名は、上記の通り二万五千分一地形図で「上溝」ですから、五万分一地形図では、「上野原」でなく「八王子」になります。
[54415] 2006年 10月 12日(木)16:01:18hmt さん
神奈川・横浜(3)外国人遊歩区域
[54388]では、安政条約を話題の中心に据えて、神奈川奉行所から、条約改正による居留地の消滅(明治32年)までを語りました。
今回は、その安政条約に規定されていた「外国人遊歩区域」のお話です。

米利堅合衆國修好通商條約 安政五年六月十九日
第七條 日本開港ノ場所ニ於テ亜米利加人遊歩ノ規程左ノ如シ
神奈川 六郷川筋ヲ限トシテ其他ハ各方へ凡十里
函館 各方ヘ凡十里
兵庫 京都ヲ距ル事十里ノ地ハ亜米利加人立入サル筈ニ付其方角を除キ各方ヘ十里且兵庫ニ来ル船々ノ乗組人ハ猪名川ヨリ海湾迄ノ川筋ヲ越ユヘカラス
都(すべ)テ里數ハ各港ノ奉行所又ハ御用所ヨリ陸路ノ程度ナリ
一里ハ亜米利加ノ四千二百七十四ヤルド日本ノ凡ソ三十三町四十八間一尺二寸五分ニ当タル
長崎 其周囲ニアル御料所ヲ限リトス
新潟ハ治定ノ上境界ヲ定ムヘシ

横浜開港資料館所蔵の「横浜周辺外国人遊歩区域図」 には、 DESCRIPTIVE MAP SHEWING THE TREATY LIMITS ROUND YOKOHAMA と記されており、1865-1867年というから慶応年間に作成された地図です。
横浜から半径約10里の扇形が、江戸の方角だけは、六郷川(多摩川)によって大きく切り取られている姿を見ることができます。

この遊歩区域内には、江戸市民にとっての著名な観光スポットでもある鎌倉、江ノ島や金沢八景があり、更には信仰と遊覧を兼ねて人気のあった大山参りの対象の地も含まれていました。
なお、「遊歩」とは、ウォーキングに限らず乗馬も含んでいます。上記安政条約の英文では、“Americans shall be free to go where they please”と表現しています。
横浜居留地には、外国人のウォーキング専用道路(遊歩新道)も建設されました(慶応2年)。

F・ベアトも、厚木から丹沢山地に入った宮ヶ瀬、そして関東シルクロード[30364]になる八王子・鑓水・原町田方面にも出かけて、写真を残しています。

遊歩区域は、横浜の居留地に準じた重要警戒地域だったわけですが、現実には、遊歩中の外国人がサムライの襲撃を受ける事件もありました。
最も有名なのは、川崎大師への遊歩途中の英国人力査遜(碑文の表記による)が島津久光の行列と遭遇して切り殺された生麦事件(文久2年・1862)です。
ベアトの写真にも、「リチャードソン氏殺害現場」があります。
# 生麦とは珍しい言葉ですが、生麦生米生卵でも有名。この地が麒麟麦酒の工場になっているのは「麦」の縁でしょうか。

生麦事件は正当な遊歩区域内で起きた事件ですが、時にはこの境界を越えて行動する外国人もあり、その冒険体験が、話題になっていたそうです。(J.R.ブラック 「ヤングジャパン」)。
津軽海峡のブラキストン線で有名な博物学者で貿易商の T.W.Blakiston が、旅行免状を持たずに遊歩区域外を旅行したことを問われた事件(明治7年)等を機に、遊歩境界傍示杭についての周知不足や、その距離の不正確について外国側からの苦情が出て、きちんとした測量による境界標石が建てられることになりました。

もちろん、制限付きながら遊歩区域外への旅行も実施されました。外交特権のある外交官は、富士山にも登りました。
明治2年頃からは、病気療養名目で箱根や熱海への湯治にも「内地旅行免状」が交付されました。
hmtの出身地・津久井も遊歩区域外でしたが、幕府のお雇いフランス人技師が業務出張で現れています(慶応3年)。もちろん幕府役人と同道で、横須賀製鉄所建築用材入手のための検分が目的でした。
実家に残る「仏人御林御見分ニ付立替物控」には、 hmt幼少の頃には残ってた旅館に宿泊した異国人へのご馳走品やその値段が記されています。津久井県[41805]の青山村は、幕末には小田原藩領になっていましたが、御林関係ですから幕府の御用を勤めたわけです。

後にトロイア発掘で有名になった ハインリッヒ・シュリーマン も、来日中に許可を得て江戸を見聞し、また遊歩区域内では八王子や原町田を訪れています。小野路村[33902]の記事で触れたことがあります。
[55523] 2006年 12月 12日(火)23:05:44hmt さん
東京都東京市?
[55501] 88 さん  市町村合併情報 履歴情報 苦悩日記 No.4
一方、明治末期の合併情報(今は1908年頃)を市町村合併情報を入力・編集したり、…同時並行でいろいろやっています。

私の出身地・津久井では、明治22年(1889)の町村制施行時に統合が実現したのは、湘南村[29999]、三沢村[34770]など ほんの一部だけだったのですが、明治末期になって、組合を作っていた青山村・長竹村に、同じ串川沿い(下流)の根小屋村(それまで中野組合の村)が加わり、3ヶ村が統合された「串川村」が誕生しました[52707]。97年前のことです。
「市町村合併情報」への今回の収録 によって、青山村から串川村へ、そして昭和大合併による津久井町 を経て、平成の大合併で相模原市[48710]という連鎖が完成しました。

藩政村
近世の村を指す用語として、慣用されているのでしょうが、全国に通用させる言葉としてはいかがなものでしょうか。青山村のような「天領」の民の子孫としては、いささか引っ掛かるものがあります。
まあ、大名の知行地にしても、正式には「藩」という呼び名ではなかったようですが。江戸期に「藩」はなかった?参照。

青山村を含む「津久井県」[41805]の約半分は、文政11年(1828年)以降の約40年は「小田原藩」、いや「大久保御家中」の支配を受けることになったのですが、村人にとって重要な生産手段であった「御林山(おへえしやま)」は幕府領として残されており、直轄支配との縁が切れたわけではありません。
例えば、実家に控が残る 弘化4年(1847)の「青山村御林絵図」は代官江川太郎左衛門手代を介して幕府勘定方に提出されています。

「有史以前」[21410]のことはともかくとして、「市町村合併情報」では1943年より前の記録も「東京都」になっています。
例えば、「都道府県 東京都,合併後名称 東京市」 と並べられると、「東京府東京市…」という住所[41218] を体験した生き残り組としては、“そんなのあり?”と突っ込みたくなります。

揚げ足取りみたいな指摘でごめんなさい。
[58485] 2007年 5月 15日(火)23:55:24【1】hmt さん
小倉橋
[58450] アルバトロス さん
小倉橋は、幅が狭くすれ違うのにも大変でしたが、数年前新小倉橋が出来ました。旧城山町、今は相模原市の所在です。

小倉橋(おぐらばし)は、東京の聖橋(ひじりばし)を4つ連ねたような優美な姿のコンクリートアーチ橋ですが、1車線の交互通行で、交通のボトルネックになっていました。

自動車が大型化する前には、途中に設けられた交換場所を利用して十分に行き違いができたのでしょう。
小倉橋が完成した1938年は、国産自動車の代表的なブランドだった「ダットサン」が誕生(1932)して間もない頃です。まだ「1馬力」の荷車が盛んに往来していました。

小倉橋付近は、昔はもっと水量が豊富だった相模川が、山地から出てきたあたりの景勝地でした。小倉橋より5年前の1927年に震災復興事業で架設され、そのスタイルが評判だった聖橋と同様のデザインが採用されたのは、少し下流の「水郷田名」[1321]と共に東京近郊の観光地だった時代を物語っています。

この橋の西岸は、1955年の昭和大合併で城山町になる前は、「湘南村」でした。相模の「相」にサンズイで 「湘」=相模川。
[29999] Issie さん
このあたりの相模川も明治以来著名な景勝地で,それを「湘江」になぞらえ,その川の南側だから「湘南」となるのですね。

新小倉橋が、小倉橋とのバランスに配慮した 上路アーチ橋 を採用したのは良いとして、着工が1989年と伝えられ、2004年完成ですから、15年もかかったことになります。西詰を直進すべき取り付け道路も未完成のようです。

[58458] 稲生 さん
今年のターゲットが相模川(桂川)なのです。

ご参考までに、道志川や中津川を含む 相模川水系 に関係する主な記事を集めてみました。

余談:相模川と直接に関係するわけではありませんが、「南毛利郵便局」の「読み方」についての記事[44059]があったので、稲生さんへのサービスに収録しようかと思い、リンクしてあった郵便局HPを開いてみたら、今度は「愛甲石田駅前郵便局」になっていました。郵便局名ってよく変るものなんですね。
[58974] 2007年 6月 10日(日)20:05:57アルバトロス さん
亀レス RE:小倉橋と圏央道
アルバトロスです。大変恐縮ですが、亀レスです。

[58485]hmt さん
新小倉橋が、小倉橋とのバランスに配慮した 上路アーチ橋 を採用したのは良いとして、着工が1989年と伝えられ、2004年完成ですから、15年もかかったことになります。西詰を直進すべき取り付け道路も未完成のようです。

未完成の道路は、津久井広域道路として西にi延ばし、2012年開通予定の圏央道の城山ICと接続予定のようです。
ところで、その圏央道ですが、中央道北側のあきる野IC~中央道八王子JCT間が6月23日に開通します。これで、関越道鶴ヶ島JCTと中央道八王子JCT間がつながり、関越道と中央道が連結し、山梨から新潟へ行くのには便利になるでしょう。しかし、今回できる、八王子西ICは、中央道からの出入りのみで、関越道方面へは、今までどうりあきる野ICか、中央道八王子ICからの出入りとなります。中央道八王子JCTの南側の圏央道は八王子南ICまで、2009年開通予定ですが、なにしろ高尾山のドテッ腹にトンネルを造る難工事、滝もケーブルカーもその上にあり、環境問題などで現在係争中です、2年後に予定どうりできるかどうか。
その先南側の相模原ICまで(城山IC含む)は、2012年開通予定になっていますが、ここも色々問題があって予定どうりいくか未定です。

ご参考までに、道志川や中津川を含む 相模川水系 に関係する主な記事を集めてみました。
せっかくですから、相模川のアーカイブ作られたらいかがでしょうか。
[62718] 2007年 11月 29日(木)22:42:12hmt さん
北海道の地名表示書式 (3)職権による本籍地の書き換え
[62678] 北の住人さん
富山県(明治4年富山県成立・新川県と改称・同9年石川県に合併・同16年現在の富山県成立)のような場合の戸籍は、その都度本籍地が書き換えられたのだろうか。

タイトルに掲げた「北海道」から離れた事項で、[62678] 北の住人さん も “単なるひとり言”とおっしゃっているのですが、ここに書いてしまいます。

後の時代の法律になりますが、明治31年の戸籍法第193条 には、次のようにありました。他の時代の制度でも 類似の取扱がされているのではないでしょうか。
行政区画、土地の名称又は地番号の変更ありたるときは 戸籍に記載したる区画、名称又は番号は当然之を改正したるものと看做す

現在でも、市町村合併などにより本籍地が変更になる場合は しばしばあり、職権で書き改められているようです。
私の場合も、平成18年3月20日付で、相模原市長から本人に通知がありました。

行政区画及び土地の名称変更(通知)
津久井町、相模湖町は、平成18年3月20日に相模原市と合併しました。
このため、あなたの本籍の表示が下記のとおり変わりますので、お知らせします。
(筆頭者、旧本籍、新本籍、構成員の表示)

住民基本台帳の本籍欄は訂正されているので(住民票で確認)、現住所の市役所にも通知されたものと思います。

その後、運転免許更新手続きの際に交付された「ICチップ登録」内容を見たら、旧本籍のままでした。県公安委員会への通知まではしていないのですね。つまり、本来は本籍地の表示変更を自ら申告すべきだったようですが、これを怠っていたわけです。
まァ、一向に不都合は感じないので、そのまま放置しているのですが…
[65669] 2008年 7月 4日(金)19:41:40【1】hmt さん
相模国津久井県中野村→神奈川県津久井郡中野村
[65665] Issie さん
A区の区役所が 津久井総合事務所(旧津久井町役場)だったら「中野区」なんて言えたりもしたんだけどね。

意外なところに「中野」の地名が登場しましたね。出身地に近いというご縁で、少しご紹介をしておきます。

「中野村」は1559年北条氏康支配下の「小田原衆所領役帳」には中村と記され、江戸時代になってからも中ノ村(正保図)、中之村(1648)の表記も見られますが、1664年久世領になった時は愛甲郡中野村と記され、天領に戻った後の元禄図も中野村になっています。
なお、中世以来一般的な行政名称として使われてきた「津久井領」は、元禄4年(1691)に就任した代官山川金右衛門貞清によって「津久井県」と改称され[41805]、これが明治3年(1870)まで続きました[1196]太政官布告

江戸より十四里。…一条の街道、東西に係れり。甲州への往来なり。…街道の東寄りの小名を川和と呼ぶ。此所は民家相対して…往昔は毎月六度の市を立て、世に所謂川和縞、其外庶物を交易して、土地も賑はひしか、延享年中(1744~7)より、市廃して今は寂寥たる村落なり。…(1836年、新選相模国風土記稿)

相模川南岸(日陰之村[38328])の段丘上、現在の国道413号の前身である津久井道。
津久井往還とも呼ばれますが、それ自体は、交通史研究者によるごく新しい名称だそうです。
甲州街道の脇往還にあたるこの道沿いに開けた中野村の中心集落「川和」は、川和縞[52691]で知られた町です。

18世紀後半になると、質朴な味わいのある甲州郡内地方の織物が都会人に好まれ、上野原を中心とした機業地帯が形成されました。同じ頃、八王子の機業も大規模化し、東西の織物景気の影響を受けた津久井もその影響を受けました。

中野村川和の村役人成瀬元左衛門の母による川和縞の創作は、天明8年(1788)頃と伝えられます。
根小屋村の豪商・7代久保田惣右衛門(弘化4年の「青山村御林絵図」[55523]に署名している曽曽祖父の実父)は この新しい柄物のよさに着目し、郡内に買い付けに来ていた京・大阪の大呉服店に売り込みました。そして大丸を始めとする江戸の大手も熱を入れるようになり、19世紀の始めにかけて川和縞の人気は定着したと伝えられます。
参考までに、年代から創作者を上記のように割り出した方は、成瀬元左衛門から4代目の子孫(元中野町町長)だそうです(久保田百五十年史)。

川和という地名は、段丘の下を流れる川が「わ」に曲がった地形に由来しますが、これに関して伊勢国「河曲郡」という地名もあるとのレスもいただいています[52699]

最初に挙げた“市廃して今は寂寥たる村落なり”という文は、19世紀の川和縞景気と矛盾するか?
町の基幹産業が、商業から工業に転換したということでしょうか。
なお、中野村には明治11年(1878)に津久井郡役所が設けられ、行政中心地になりました。その翌年には市場も復活したようです。

中野村の東は太井(おおい)村で、段丘を下りた津久井道はここで相模川を渡ります。渡河地点には1664年頃に荒川番所が設けられました。相模川を下る津久井の林産物に対する関税「五分一運上」を課したのです。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でしたが、1965年に完成した城山ダムで水没しました[43001]
私の子供時代の記憶では、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのぎました。

中野村の西にあるのが又野村です。安政5年(1858)この地で生まれたのが 尾崎行雄 です。
彼は官吏だった父に従って居を移したため、1890年の第1回総選挙以来63年間、25回の連続当選記録を作った衆議院議員の選挙区は三重県です。東京市長にもなっています。
又野の尾崎行雄生家跡には 記念館 が建てられています。


又野村の先を更に進むと三ヶ木村。ここは相模川に最大の支流である道志川が合流する地点で、道も2つに別れます。現在の国道番号で呼ぶと、相模川に沿うのが国道412号、道志川に沿うのが国道413号です。
国道412号の道志橋の下(三ヶ木の対岸)にある集落は、青木茂の「三太物語」[20179]の舞台になりました。
戦後間もない頃のラジオドラマにより「道志村」の名は全国に知られましたが、これは横浜市の水源である山梨県道志村とは違う架空の村名で、当時の本当の村名は「内郷村」でした。

中野から少し外れてきましたが、1925年に中野村は中野町になり、その半年後には前記の太井村、又野村、三ヶ木村と 合併 します。
その後 津久井町 を経て相模原市に編入 されたことはご承知の通りです。

中野は、かつては神奈川中央交通の「相模中野駅」[28537]がある津久井の交通の要衝でした。
しかし、1963年12月にバス交通の結節点は三ヶ木に新設されたターミナルに移転し、中野は単なる中間バス停になっています。

城山ダムによる津久井湖は、前記 荒川番所付近の集落のほか、川和という地名の由来になった相模川の曲流部、三井取水口跡・水道管橋など横浜水道関係施設の一部[34770]をも水没させました。
それだけでなく、ダムさえも水没させてしまったのです。
沼本ダムの写真 をご覧ください。下流にある城山ダム満水時の水位は、沼本ダム[43001]の堤頂まで来ており、それ故にこの水没するダムは幻のダムと呼ばれるそうです。
[68989] 2009年 3月 23日(月)15:23:49hmt さん
「飛び地」の魅力 (7)大規模飛び地を作る飛び地合併
小規模飛び地ができた原因の代表として「出作」について記しました[68879]
農地の類例ですが、こちらは面積としては大きな、山林に由来する飛び地(南箕輪村)についても触れました。

実は、簡単な区域図により南箕輪村飛び地を見た時、すぐに頭に浮かんだのは、このような広い飛び地が生まれた原因になったのは、昔の「飛び地合併」ではなかったのか?ということでした。
しかし、調べてみたら、南箕輪村は明治22年の町村制施行時もそれ以後も合併がなく、120年間 純血主義を守る市町村 だったのでした。そもそも山の中の飛び地には、合併の対象になりそうな集落さえも存在しません。

南箕輪村の過去ログを見ると、純血についての記事はなかったものの、2004年に合併話ガあったのですね。
ここの飛び地が、その面積において、本体に匹敵する大きさであることは、[40246] 太白 さん の記事がありました。
面白かったのは、(もちろん本体の側にですが)南箕輪村に「日本の最高学府」が存在すること。[8346] Issie さん

南箕輪村の例(外れでしたが)が示すように、大規模飛び地を語る上で欠かせないのが「飛び地合併」です。

平成の大合併でも、いくつかの飛び地合併が行なわれ、短期間で消滅したものもあれば、現存しているものもあります。平成の合併には、過去にできていた飛び地の解消という作用もありました。
既に落書き帳の話題になったものも多々ありますが、主な飛び地合併を概観してみましょう。

まだ未完成のようですが、K2 飛地合併の一覧 には、この80年間に行なわれた42件の飛び地合併がリストアップされています。昭和戦前2件(現存1件)、昭和合併を中心とする戦後が23件(現存6件)、平成合併が17件(現存13件)でした。

本体と飛び地とが相互に入り組んだ複雑さという点で特筆に値するのは、2005年3月に実施された津軽半島の飛び地合併でした。
その前年の [29356] でるでる さん の発言
青森県の「五所川原市・金木町・市浦村」「中里町・小泊村」も、結構スゴイことになっております。
から、更にもう1件が加わっており、合併後の市町名でいうと、五所川原市 (飛び地になったのは、十三湖に面した市浦村)、外ヶ浜町 (龍飛崎のある三厩村)、中泊町 (日本海の漁村・小泊村)の3組です。M.K.さんの青森県図

次に、スケールの大きさという面から概観します。これも、町村の単位が既に大きくなっている平成の飛び地合併が主力になります。
面積が大きいのはさすがに北海道で、日高町飛び地(内陸の旧・日高町)が 564 km2、次いで 釧路市 (音別町) 401 km2、伊達市 (大滝村) 274 km2 と ベスト3を独占。

本州で現存する飛び地は、桐生市 (新里村・黒保根村) 137 km2 と 大垣市 (上石津町) 123 km2 が大きな所で、前者は本体とほぼ同面積、後者は本体よりも大きな飛び地です。2006年からの1年間だけで消えた 相模原市 (津久井町・相模湖町) 154 km2は更に大きく、これも本体 90 km2よりも大きな飛び地でした。
この津久井・相模湖飛び地は、人口(約39000人)でも最大級の飛び地だったと思います。

平成合併よりも前に存在した大きな飛び地というと、昭和30年に山口県都濃郡南陽町 (→新南陽市)の飛び地になった佐波郡和田村(41.09 km2)です。
戦時合併徳山市 から 分立[25065]した 富田町福川町 とが合併して 昭和28年に生まれていた 南陽町 本体側の面積は 17.44km2(2町面積1935年の合計)でしたが、臨海部の大規模な 工業地帯 造成により拡大しています。それでも飛び地は、新南陽市面積(2002年 64.26km2)の 64%を占めていました。
新南陽市本体と和田飛び地とを隔てていた徳山市とは 2003年に合併し、周南市が成立した結果、飛び地も解消しました。

飛び地と本体との距離も、北海道の日高町と釧路市の場合は、それぞれ 20km を超えています。参考までに、これらの合併よりも前の記事[24206]で、太白さんは、京都府久御山町飛び地を“日本で一番本体から離れた飛地(?)”と呼んでいました。
[73423] 2009年 12月 28日(月)15:50:56hmt さん
住所の表示から消える津久井・城山・相模湖・藤野
[73416] Issie さん
旧津久井郡4町については地域自治区名として引き続き使用されていた旧町名(城山町,津久井町,相模湖町,藤野町)は省かれることになります。

「日和佐」という地名が、平成合併の結果、住所の表示から事実上消えた[73411]ことについて記したばかりですが、hmtの出身地・津久井にも、2010年4月から同じ運命が訪れることになるのですね。

4つの住所地名の挽歌を記しておきます。

「津久井」は三浦半島の津久井庄(現・横須賀市)に由来し、人名を経て相模国北部に「津久井領」が生まれ、元禄4年(1691)に「津久井県」と命名されたことは[41805]で記しました。
「郡よりも格が低い」という意味が込められた「近世唯一の県」であったことは、特筆に値します。

明治3年2月27日の太政官布告で 「津久井郡」に昇格? しましたが、2006年と2007年に所属する4町村がすべて相模原市に編入され、自然消滅しました。
この間、1955年の昭和大合併では「津久井町」の名にも使われました。この地域に「津久井」の名をもたらした鎌倉武士の古城の所在地があるので、妥当な命名と言えるでしょう。

自治体時代の読み方は「つくいまち」でした。
これが 2006年の合併 で 相模原市の一部になったわけですが、合併協議第19号[48391]によると、“字の区域は、原則として現行のとおり”となっています。これだけなら、「津久井郡津久井町青山」であった住所は「相模原市青山」になりそうです。
しかし、実際には「相模原市津久井町青山」という表記になりました。

その仕組みを解説してくれたのが、[48804] suikotei さんの記事です。それによると、2004/10/26総務省からの通知により住民基本台帳の記載要領が改正され、「合併に係る地域自治区」の名を住所に記すことになったのだそうです。
旧津久井町の区域には上記の合併協議に基づき「合併に係る地域自治区」である「津久井町(つくいちょう)」が設けられたので、読みは変りながらも、上記のように「津久井」が住所に残ったのでした。
2010年4月からは、もちろん「指定都市の区」である「緑区」がこれに代って住所表記に使われることになります。

「城山,相模湖,藤野」は自治体名としては昭和の大合併で創作された“新地名”

1955年に作られた3つの“新地名”の前身を探ります。
「城山」は、もちろん 中世に三浦氏の一族・津久井為行が山城(津久井城)を築いた宝ヶ峰のことで、古くから使われた呼び名と思われます。
山体の大部分が津久井町に属する城山ですが、その姿がよく見えるという理由で「城山町」の名に選ばれたのでしょう。神奈川県が城山ダム建設を決定したのは、城山町発足5年後の1960年です。

「相模湖」は 1947年命名のダム湖[43001]由来で、自然地名?としても戦後生まれです。
相模ダムは 戦前に着工した日本最初の本格的な多目的ダムでした。戦争の影響で工事は遅れましたが、完工式には昭和天皇が臨席されたくらいで、日本復興のシンボルとして祝福されました。「ダムはムダ」という昨今の風潮とは大違いです。

昭和合併は相模湖誕生の8年後ですが、「相模湖町」という自治体名も自然の成り行きと思われます。中央線の駅も、追随して「与瀬」から改称。2万5千分の1地形図の図幅名は、現在も原則通りの居住地名「与瀬」を続けています。

由来が一番わからないのが「藤野」です。
1955年に命名された「藤野町」は、中央本線藤野駅に由来するとして、1943年当時の津久井郡小淵村に設けられたこの駅の名を「藤野」とした理由がよくわかりません。

[62419] スピカさん には、次のように記してあります。
「藤野」の名は駅所在地である小原の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。

「藤野 = 小字」説は検証していませんが、この駅の立地は 甲州街道の関野宿(小淵村)と吉野宿(吉野町)との中間であり、駅名とするのに適した著名な集落があったとは思われません。

「藤野駅」は、小淵村の「淵」と隣接する吉野町の「野」とを組み合わせた「ふちの」に由来する可能性があるように思われますが、どうでしょうか。

市としては,今後も公共施設名などに残すから我慢してね,という意味のアナウンスをしていますが,実際,これらの旧町名に対する思い入れはそれほどないのでしょうかね。

自然地名の 相模湖・城山 や、駅名の 藤野 は問題ないとして、「津久井」の将来が気になります。
でも、相模原市緑区の中で、西の方にある山地の総称として、「津久井」は便利な言葉です。
旧・城山町の平地部分は文字通り「相模原」の一部として同化し、「津久井」は、山地部分だけを意味する地名として残るような気がします。
[77630] 2011年 2月 11日(金)14:14:24hmt さん
横須賀製鉄所から海軍工廠へ
[77623] 伊豆之国 さん
明治になって軍港の町として繁栄してきた、この三浦半島の横須賀

川越・八王子・横須賀・豊橋・福知山・姫路・下関。
都道府県庁所在地以外で、自治体コードが「**201」となっている市です。

市の変遷 では、川崎どころか 新参の相模原にまで先を越されて 4位に甘んじていますが、市制施行(1907)は 神奈川県では 横浜に次ぐ2番目で、それなりの歴史があります。
市域は 海軍さんの力が強かった戦前戦中の 1933~1943年に三浦半島の大部分に及びましたが、強制合併[37931][37958]された逗子は、戦後に分離独立しました。

現代の横須賀市域を基準に考えると、近世以降の日本歴史における 横須賀の初舞台は、嘉永6年(1853)でしょう。
でも、歴史年表を見ると、“浦賀沖にペリー艦隊来航”とあり、横須賀の名が全国的に知られたわけではありません。
江戸幕府の機関も「浦賀奉行所」であり、浦賀は 1943年まで横須賀とは別の町だったのですから、当然でしょうね。

横須賀という地名が使われた政府機関が登場したのは、慶応元年(1865)に 幕府が建設を開始した 「横須賀製鉄所」 であろうと思われます。
当初の名は 造船所でなく 「製鉄所」でしたが、もちろん近代国家として必要な 西洋式の海軍の創設 を視野に置いた施設でした。
この施設を推進した 幕府の実務責任者は、小栗忠順でした。彼は1860年に日米修好通商条約批准の使節の一員として渡米した際の工場見学により、西洋の先進的な技術を認識したとされます。

政局の先行きが不明な中で、造船所計画に必要な莫大な出費に対して、幕府内での反対論が無論ありました。
“幕府がつぶれて、家(政権)を明け渡すようになっても、土蔵付売家にしておけば、価値がある。”
これが 仕分人(?)に対する 小栗の答えだったそうです。島田三郎懐舊談

小栗が技術援助先として選んだのは、(陸軍も同様ですが)ナポレオン三世時代のフランス[44237] でした。
造船所の立地として、浦賀水道観音崎より内側の入江が候補になり、小栗はフランス公使の ロシュらと共に実地検分して、ツーロンに似た天然の良港で、江戸にも近い横須賀を選んだと言われます。
hmtの出身地・津久井に 慶応3年に現れたフランス人技師は、この横須賀製鉄所建設業務に関係するものでした[54415]

慶応4年に小栗は落命しますが、横須賀造船所の工事は 新政府に引き継がれ、明治4年(1871)に完成しました。
造船所の管轄は 工部省から海軍省に移り、明治17年(1884)に 東海鎮守府[29190]が 横浜から横須賀に移転して 横須賀鎮守府と改称されると、海軍造船所もその所管となりました。

日露戦争前年の 1903年には、横須賀海軍工廠という名称になり、1921年完成の 戦艦陸奥など多数の軍艦が建造されました。
1923年の関東大震災の際には、巡洋戦艦として起工した天城を 航空母艦として完成させるための工事中でしたが、これが船台上で大破するハプニングもありました。写真

第二次大戦後の横須賀は、米国海軍の基地になり、第7艦隊所属艦艇の事実上の母港になっています。
造船所での艦艇建造はなくなりましたが、修理工場として機能していると思います。

造船所を中心に横須賀を振り返ってみましたが、最後に横須賀線について一言。

東京-横須賀間は 62.4km(JR)。これは千葉(39.2km)よりもずっと遠く、熊谷に近い距離です。
今日でこそ、「首都圏」や「東京近郊区間」として東京の事実上の範囲が拡大していますが、そんな言葉のなかった時代において、横須賀線は 早くから電化され(1925)、二等車(現在のグリーン車)を連結した長距離電車が運転されました(1930)。
このような特殊な状況を生み出した背景には、鎌倉付近に在住した富裕家族の存在もあるでしょうが、海軍さんの存在も大きかったと思われます。
[80943] 2012年 6月 8日(金)21:59:43【1】hmt さん
地震峠
[80937] 垳(がけ)、[80941] 鬮野川に続いて地名ネタ。また新聞記事から始めます。

朝日新聞 ふしぎ探検隊 地震峠
相模原市緑区鳥屋(とや)の山あいに「地震峠」がある。なぜ、そんなリアルな名前が付いたのか。
「1923(大正12)年9月1日の関東大震災で馬石では死者16人、埋没棟数9戸。ある家では6人家族全員が埋没死した。山津波で串川はせき止められた」。

1923年当時のこの地は、神奈川県津久井郡鳥屋村の東端、下流の串川村との境界付近でした。
hmtの出身地の約2km上流なのですが、私は 「地震峠」という地名は もとより、誕生する 約10年前の大震災に際して 隣村が土石流災害に襲われたという事実も知りませんでした。

調べてみると、関東大地震の跡と痕を訪ねて というページがありました。
それによると、地震によって南側の斜面から崩壊土砂が押し寄せ、串川の流路と人家とがあった谷を埋め、そこに出現した湖の水位上昇により、更に上流の集落が浸水の危険に晒されたそうです。水の力で天然ダムが一気に決壊すれば、下流の集落にも危険が及びます。

津久井町郷土誌には、“余震のまだ続く中を、隣村の消防団員が、道具・弁当持参で土砂の取り除き作業の救援に参加をした。”と記されています。機械力のなかった時代、手作業で水防工事に携わった経験者も近くに居たと思うのですが、お話を聞く機会はありませんでした。

関東大震災は、死者の数では東京の火災被害によるものが最大だったのですが、地震自体は震源地に近い神奈川県の方が激しかったのです。 丹沢一帯と箱根南部とで激しい山崩れがあったことは、関東大震災の最激震地,根府川の山津波 に引用された地図にも示されています。

「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」【これが正式の名なのですね[77767]】では大規模事例がなかったようですが、地震>土砂崩壊>川のせき止め>二次災害の可能性という図式は、このケースに限らず、しばしば起こる事件です。
外国については、近年の大規模事例(2008年四川唐家山)もありますが、ここでは日本の事例を少々。

話の順序として 1923年の関東大地震から。丹沢の南 渋沢丘陵の「震生湖」。自然湖として居座りました。
2004年の新潟県中越地震による地滑りで、魚野川の支流芋川が堰き止められたニュースは、[34776]で言及されました。
江戸時代に遡ると、1683年の会津日光大地震により鬼怒川支流に出現した五十里(いかり)湖は、40年後に決壊して下流の村々を壊滅させました。ここまでは、[78104]で触れています。

幕末にも 大規模な事例 があります。
一つは 弘化4年(1847)の善光寺地震。この地震は、折しも御開帳の期間に起こったために、全国から参拝に訪れていた善男善女に被害が及んだのですが、それだけで済みませんでした。
余震による山崩れで 犀川がせき止められ、村々が水没したのです。飯山藩のように千曲川の水位監視体制を取り、19日後の決壊時には住民を避難させていた地域もありますが、犀川とそれが合流する千曲川沿いとの広範囲の村々で、多数の死者を出しました。

もう一つは、安政5年(1857)の飛越地震による立山カルデラの鳶(とんび)崩れです。
[71580]に記したように、ここは日本三大崩壊地の筆頭で、立山カルデラ内には大量の土砂が溜まっており、現在でも、下流の富山平野を守るための砂防工事が 継続的に実施されています。

「地震峠」という地名から始めたので、地震を引き金とする災害に終始しましたが、土砂災害の原因は、豪雨[79316]・火山[23960] それに 稗田山崩れのような「不明」もある[71580] ことを付言しておきます。
[83701] 2013年 7月 15日(月)23:54:16【2】hmt さん
神奈川県愛甲郡清川村
[83698] 伊豆之国 さん
神奈川県清川村は、中井村が町となって以来、今日まで実に55年近くもの間「孤独な村」の地位を守り続けています。

私の出身地の「隣村」。登場の機会を得たのでレスを。

清川村の歴史【注】 に記されているように、町村制施行以来の 愛甲郡煤ヶ谷村と 宮ヶ瀬村とが、昭和31年(1956)に合併して誕生。厚木で相模川に合流する2本の支流のうち小鮎川の上流部が煤ヶ谷村で、中津川の上流部が宮ヶ瀬村でした。
【注】
清川村HPのURLは、なぜか「town.kiyokawa」です。[1176]

吉田東伍『大日本地名辞書』によれば、「鮎川」が転じて「アイコウ郡」になったとのこと。鮎川は相模川や中津川の別名として使われたようでで、厚木付近は鮎の産地でした。中津川沿いの「愛川町」も同じ由来でしょう。

昭和大合併時代から清流を自覚して「清川村」と命名されたこの村、[83698]で示されたように、2年後の1958年には神奈川県唯一の村になりました。全国で最初に「村」が消えた兵庫県でさえ、まだ10村もあった時代です。

1969年に発表された 宮ヶ瀬ダム建設計画 は、清川村に大きな影響を及ぼすことになりました。
宮ヶ瀬の主要集落(馬場)は、煤ヶ谷からの道が中津川を渡る 宮ヶ瀬大橋の先にありました。現在の地図で言えば、やまびこ大橋南側湖面下です。

馬場・平沢など水没地区住民の代替地は 厚木市中荻野に決まり、1982年から移転開始。現在の地名 「宮の里」 に、「宮ヶ瀬」の名を残しています。

ダムの名は、貯水池の主要部を占める地名から「宮ヶ瀬ダム」と命名されていますが、国内最大級の重力式コンクリートダムの堤体は 愛川町半原の奥の 中津渓谷・石小屋に作られ、1995年湛水開始。計画発表から31年後の 2000年12月に竣工式。
工事の際、機材運搬用に使った インクラインが観光用に転用されて運行中です。

このダムは、相模川水系の利水・発電の一環として作られた5つのダム湖の中の最後にして最大のものです。
[43001]にまとめておいたので、御覧ください。

清川村から外れますが、最初に書いたように「隣村」である私の出身地について。
宮ヶ瀬ダム湖の出現で、旧青山村(相模原市緑区青山)にあった南山南麓の一部もで水没しましたが、江戸時代の紛争に勝訴して領地を確保していたたおかげで、津久井町には水没補償金が入ったことを[43357]で書きました。

最後に、清川村の奥に存在した【注】札掛集落について。
高校の先輩で、神奈川県内の「僻地校」である「札掛の学校」の先生になった方が居ました。
Issie さんの記事[70311]にある“清川村立緑小学校の丹沢分校”【2002年度末廃止】が、この学校だと思います。

【注】
最初は、この部分に【と、過去形で書かなければならない】と記しました。
神奈川県立の丹沢森林環境学習施設 があることは知っていたのですが、通常の経済活動を営む民間人の住む「札掛集落」は既に消滅しているだろうと推測していたからです。
ところが、ウォッちず を見たら 西側に民家らしき姿の集合。清川村地区別人口世帯数 には5世帯9人とあります。

調べた結果、住民は NPO法人の経営する施設 の関係者のようで、やはり普通の山村集落ではないようです。

<告知>現在、崖崩れの為、宮ヶ瀬方面からは入れませんのでよろしくお願いします。
と書いてありました。やはり丹沢の奥にある別世界のようです。
[88042] 2015年 7月 8日(水)12:20:37hmt さん
津久井の道 (1)圏央道・相模原インターチェンジ
先月末、3年ぶりに津久井を訪れ、この地域の道路事情に 3ヶ月前からの変化があったことを知りました。
すなわち、2015/3/29 圏央道「相模原インターチェンジ」開業と、連絡する「津久井広域道路」の一部開通です。

本題から少し外れますが、関連調査で知った 首都圏における道路交通ネットワーク整備の変遷 から、高速道路整備の概要をメモしておきます。

骨格となる高速道路ネットワーク「3環状9放射」が計画されたのは 1963(昭和38)年でした。
3環状【外側から】:
首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、東京外かく環状道路(外環)、首都高速道路中央環状線(中央環状)
9放射【右回り】:
湾岸道路、第三京浜、東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道(水戸線)、東関東道(館山線)

この1963年は、名神高速道路最初の開通があり、全国で本格的な高速道路時代の幕が開いた時期でした。
首都圏でもその前から供用が開始されていた京葉道路・首都高に続いて、東名高速・中央道の着工命令がなされ、9放射が次々に開通してゆきました。
首都圏9放射の骨格は、1987年の東北自動車道全線開通で概ね完成しました。

一方、環状高速道路の整備は 放射道路よりも遅れ、東京外郭環状道路の和光IC-三郷IC間が開通したのが 1992(平成4)年でした。
圏央道の最初の区間は1996年、首都高中央環状線も2002年以降の開通で、すべて平成になってからです。3環状開通目標年度図

整備中の環状高速道路以外に 既設の環状道路もあります。しかし、代表的な一般道である国道16号では 混雑による遅れが多発しています

圏央道という名前について
正式名称は「首都圏中央連絡自動車道」ですが、首都圏3環状道路の「中央」に位置するわけではありません。
位置的には 「外環」 が中にあり、外側と内側の道が「中央」を名乗る。不思議な命名です。
圏央道は国道468号という名もありますが、番号で呼ばれることは少ないのでしょうね。外環道の国道298号は一般道部分?

相武国道事務所が管轄する圏央道神奈川県区間の大部分は 「さがみ縦貫道路」 と呼ばれているようです。

昨2014年6月に 圏央道の相模原愛川IC・高尾山IC間の 本線が開通 したことは ニュースで知っていました。

この間の相模原市緑区・城山の麓に設置されるインターチェンジも工事中でしたが、H26年度末までに 開通していたのですね。ICの名称は、2012年に「相模原IC」に変更されていました。個人的には城山の名を使ってほしかったのですが、残念。名称変更は2012年

相模原ICと同時に「津久井広域道路」の一部が開通しました。
実は この名は 初めて認識したのですが、落書き帳を検索したら 8年も前にアルバトロスさんの記事[58974]がありました。
(新小倉橋の西)未完成の道路は、津久井広域道路として西に延ばし、2012年開通予定の圏央道城山ICと接続予定のようです。
懸念されたように開通時期は2012年から 2015/3/29 に遅れました。

序論として高速道路全般に言及し、長々と書いてしまいましたが、本題は「津久井広域道路」です。
歴史的・地理的考察を交えながら、リニア中央新幹線と共に出身地付近を走り抜ける予定の道路について、次回記します。
[88047] 2015年 7月 8日(水)19:44:19【1】hmt さん
津久井の道 (2)津久井広域道路
相模原市の [津久井広域道路 によると、この道路は橋本五差路から相模湖IC付近まで延長約20kmの広域的な幹線道路となっています。
しかし、全線が都市計画道路として整備中というわけではなく、構想路線に留まっている区間もあります。

相模原市 新道路整備計画(H22/4)p.47 にある計画図を見ると、圏央道の西、津久井湖の南に 5, 6, 7 と付番された青線があります。
# 何故かテキストリンクが効かないので、URLを別に記します。
http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/dbps_data/_material_/localhost/doboku/632500/pdf/new-road_seibi.pdf

p.43の表により、都市計画道路城山津久井線になっている津久井広域道路であり、5 の区間【今回開通区間】は 確かにH26年度完了予定。しかし、6 の区間【土沢の県道513号接続部まで】は優先順位が後で5~10年後の完成。7 の区間【国道412号新屋敷付近まで】は更に後で、区間7 の西は構想路線となっています。国道412号に代る幹線道路として相模湖との間を結ぶのは、当分の間は夢でしょう。

計画図に戻り更に西に進むと、相模湖の南側に27と9 との2区間があります。表を参照すると、プレジャーフォレスト【寸沢嵐(すわらし[81137]グリグリさん)鼠坂(ねんざか[63022]Issieさん)付近の国道412号沿いにあるレジャー施設】から相模湖南岸経由勝瀬橋までの区間で、優先順位は6と同じでした。
相模川が相模湖に流入する地点に架けられた勝瀬橋は、新小倉橋などと共に津久井広域道路の既存区間だったのでした。

参考までに、初代の勝瀬橋は勝瀬部落が水没した相模ダム建設の際に架けられた 1944年製の補剛トラス付き木造吊橋でした。1959年の2代目は 日本最初の斜張橋ですが、初代の主塔を再利用して作られました。3代目の現・勝瀬橋(2005)で幅は広くなりましたが、これも斜張橋。

津久井広域道路全体に及ぶ概要を済ませ、今回訪問した区間の詳報に移ります。

最新の情報となると、個人サイト・あおまる の 祝! 相模原IC&新510号開通 が詳しく、動画も掲載されています。
今回の開通区間は新小倉橋西側からインターチェンジ接続区間を経て西に進み、県道65号と交差する東金原の少し先、串川ひがし会館付近、市道(沼荒久根小屋金原)との合流点【あおまる は(仮)根小屋変電所前と表示】迄の 2.8kmです。「新510号」というのは、小倉橋から串川橋まで串川の流れに沿って遡る 従来の県道510号に対応する新ルートを意味しているようです。

東金原交差点には信号機がないまま開通し、危険が指摘されていました。ようやく設置予定とか。

今回の開通区間は僅かな距離であり、三ケ木・相模湖に通じる国道412号に出るには、前記市道を経て長竹三差路に出る必要があります。新設道路の4車線化も未完成ですが、私の出身地への道は、従来のバスルートに比べて確かに短縮されたことを感じました。

参考までに バスルートのうち鳥屋行き(橋07)は小倉橋・串川橋経由の県道510号ルートです。
三ケ木行き(橋03) は 新小倉橋を渡った後、根小屋中野まで串川沿いの県道510号を走り、西中野からは県道65号の坂を登って東金原に出ていました。こちらのバスは 新小倉橋-東金原間が開通した広域道路にルート変更され、所要時間短縮が図られることになるものと推測します。

相模原市が2012年3月に発表した 『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 という資料がありました。
金原(根小屋)地区p.27と、串川(関・長竹)地区p.34とにつき、それぞれ基本構想範囲とまちづくりの考え方が示されていました。

この図と共に 地理院地図 も参照すると、金原は 城山375m の南山麓緩斜面です。根小屋という地名からして、「城山の麓の居館」という意味です。そして関・長竹も、根小屋の金原ほどではないにしても、串川流域を相模川本流(中野)と隔てている山(平代山405m・津久井堂所山 370.6m)の 南山麓にある緩斜面と言えるでしょう。
このような緩斜面は、津久井という山地の中にありながら、相模原という台地に比較的近い条件の土地と評価されます。
水を必要とする農地としては必ずしも好適ではなかったが、道路整備等により産業立地が整えられた相模原台地と類似の手法による開発が考えられるのは、自然の成り行きでしょう。

水のことで一言。串川流域の地下を走り抜ける リニア中央新幹線工事は、津久井の水に影響する可能性もあります。
酒造用の水質に影響するかもしれないと心配する 根小屋の蔵元や、長竹の豆腐メーカーの声を 新聞で見たことがあります【朝日2014/12/18夕刊】。

参考までに、鳥屋に作る関東車両基地に通じる分岐線は、津久井堂所山付近の地下で本線から分れるようです。資料
予測困難な地下は、工事による地元への悪影響だけでなく、良質な湧水や温泉資源を提供する[87859]可能性もあります。

それはさておき、進歩した土木技術が使われることにより、山地である津久井の一角では「相模原化」が進行し始めているのではないか?
2.8kmという僅かな道路開通を機会に、そんなことを考えてしまいました。
[88053] 2015年 7月 9日(木)22:25:44【1】hmt さん
津久井の道 (3)信玄道
相模原ICの開業を機会に、圏央道など首都圏高速道路の概況[88042]、圏央道と連絡する部分が開業した津久井広域道路[88047]について記しました。
津久井の道。将来への展望だけでなく、少し昔のことも振り返っておきます。

『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 p.34串川地区の図を見ると、予定されている津久井広域道路が描かれた南側、山地と緩斜面との間に「信玄道」と記されています。

甲斐の武田信玄と言えば 好敵手は越後の上杉謙信です。有名な川中島の戦いは10年以上に及び、永禄4年(1561)に行なわれた第四次合戦は、その中でも最大規模の戦いでした。
もちろん武田の領地は上杉以外にも多くの勢力に囲まれており、戦争だけでなく、政略結婚を含む外交交渉を駆使して 上手に処理する必要があります。関東方面に注目すると、河越夜戦[58848](天文15年=1546)の結果扇谷上杉などの旧勢力が衰え、小田原を本拠とする北条氏康の勢力が増しつつあります。

信玄は相模北条氏とは和睦政策を進め、1553年には娘を北条氏康の息子・氏政に嫁がせています。翌天文23年(1554)には北条氏康の娘が今川義元の息子に嫁ぐことにより、今川から武田への嫁入り(1552)と合せて駿河・甲斐・相模三国間の婚姻同盟(善徳寺の会盟)が成立しました[43558]

ところが、桶狭間の戦い(永禄3年 = 1560)によってその一角が崩れた後は同盟関係に亀裂が入り、武田信玄は1568年に駿河侵攻。北条氏康は駿河に援軍を出し、甲相の同盟関係は崩壊しました。

永禄12年(1569)になると、武田信玄は北条領内に遠征し小田原城を包囲し、挑発ました。しかし、上杉謙信の攻撃にも耐えた堅固な城から出てこない北条氏には信玄も手を出せず、撤退することになりました。
ところが 甲斐に戻る途中、相模国愛甲郡の三増峠【地理院地図の右下】で 北条勢の後詰と遭遇し 激戦になりました。
両軍大きな損害を被ったものの、最終的には武田軍が追撃を阻止し、甲斐に戻ることができました。

串川の流れに近い国道よりも高い山麓に位置する信玄道。
戦国時代より更に前にも、このルートで西に向った人物の遺跡がありました。
後醍醐天皇の皇子で、南朝側の武将として戦った大塔宮護良親王。その側室・雛鶴姫に関する言い伝えです。
父の天皇と不仲になった大塔宮は、身柄を足利方に引き渡された後、鎌倉で殺害されました。雛鶴姫は、足利の目を逃れながら大塔宮の遺骨を葬ると共に、みごもった体で京を目指したものの、相州青山村で病に伏し、甲州秋山村で病没したと伝えられます。

私は 2010年、信玄道の南側に崩れかけて残された千部塚宝篋印塔を訪れ、応安4年(1371)亥年2月願主蓮明敬白と刻まれた台座を確認することができました。大塔宮の33回忌に hmtの先祖が建てた最古の遺物と考えています。
蓮明は同年に諏訪大明神【現在の青山神社】も勧請しています。約200年後に三増峠から帰国途上の武田軍の陣中に居た信玄の息子・諏訪【母の氏】四郎勝頼は この神社に立ち寄って、戦勝を感謝して祈願したことと思われます。

林産物に頼って細々と暮らしていた中世の山麓道。
近世以降は、荒川番所の運上[65669]を免れるルートの串川沿いに発達した集落。水運や水車動力を利用。
そして自動車や電力の利用により再び山麓に活気を与えようとしている津久井広域道路。
社会環境の変化も考えながら 身近な地理の一端を綴ってみました。

「津久井の道」と題しながら地理的には偏っており、「串川の道」になってしまったきらいもあることをお断りしておきます。
[18537] 2003年 7月 22日(火)18:59:14【1】Issie さん
垂直方向の上下地名
入間郡(上)福岡については,特に情報を持ち合わせていないのですが…

[18524] スナフキん さん
土地の高低から「上」を付けたものと理解しています。

そういえば,神奈川県の相模原市には「上田名」という地名があります。
「かみたな」ではなくて,「うえだな」。
相模原市(大字)田名(合併前の高座郡田名村)の中の字で,バス停の名前になっています。意外な“難読バス停”ですね。
旧田名村は,相模川に面した自然堤防(?)上の集落(「久所(ぐぞ)」,バス停名は「水郷田名」)から河岸段丘上の集落まで,大きく見て3段の平坦面にわたって広がっているのですが,「上田名」はそのうちの“最上段”に位置する集落の1つ。相模川に架かる高田橋から段丘崖を上ったところにあります。久所集落から見た「上」という意味でしょうかね。
農協(支店)や小中学校のある,旧田名村の中心地区です。

もう少し上流の(大字)大島地区(旧高座郡大沢村の一部)には「上大島」「下大島」という字名のペアーがあります。…が,これは少しアンバランス。
「上大島」は「かみおおしま」と読みます。橋本駅からのバスの終点にもなっていますが,これは段丘上に広がっている「大島地区」の中で北端(最上流側)に位置をすることから,順当な命名と思われます。
ところが「下大島」は「しもおおしま」ではなくて「したおおしま」と読みます。
大島地区のあたりでは相模川が段丘崖の直下を流れていて相模原市側に河原がほとんどないのですが,その貴重な河原と中州(←これが「大島」の地名の由来,とも言われている)が,上大島地区から段丘崖の急坂(「大島坂」と呼ばれる)を標高差にして40mほど下ったところに広がっています。「大島河原」とも呼ばれていますが,ここの字名が「下大島(したおおしま)」。
大島地区の本体から見れば「下」にあるから,なのでしょうね。

津久井郡津久井町の西端(最上流側)に位置する「青根」地区(旧津久井郡青根村)は,道志川南岸にわずかずつ分布する河岸段丘の平坦面に集落が分散する山間地区ですが,地区の中心集落(東野)から道志ダム(奥相模湖)に下りる道に沿って平坦面ごとに「上原(うわはら)」「下原(したはら)」という地名が分布しています。

ところで,この地域では川沿いの低地や谷戸にある“親”集落から見て一段高い台地(段丘)上に開かれた“子”集落に「原」を冠する例があります。
相模川沿いの「当麻(たいま)」に対する「原当麻」(相模原市),恩田川(鶴見川の支流)支谷の谷戸に位置する「本町田」に対する「原町田」(町田市)等々。
城山町にある「原宿」というのも,相模川に合流する谷戸の中に位置する「久保沢」という宿場集落に対して台地上に新たに開かれた宿場集落ですから,この例の変種と言えるかもしれません。
[20179] 2003年 9月 22日(月)22:51:21【2】Issie さん
三太物語
「おらぁ,三太だ…」というほどもなく,
地元ネタが出たから…,というわけではないのですが,
少し本気に考えてみましょうか。

[20167] ぴょん さん
相武市 町田+以下神奈川県相模原+城山+津久井

「現実の世界」では,とりあえず相模原市と津久井郡4町(ないしは下津久井=城山・津久井2町)の合併は真面目に考えるべく,話し合いの場が設定されているようです。
…とは言え,どうも相模原市が津久井との合併にあまり積極的でない様子が,あちこち漏れ伝わってきます。

いろいろな側面があるのですが,相模原市にとって,「郡民」(←若干,侮蔑的な響きがある)の方々に申し訳ないけれども,津久井郡との合併が「重荷」になる側面があるように感じられる…。

たとえば,地域内交通の問題。
この地域のバス交通は数年前まで小田急系列の神奈川中央交通(神奈中[かなちゅう]バス)が一手に担当していました。神奈中バスは,横浜市内や町田市内・多摩ニュータウン地区での収益をまわすことができたせいか,「過疎」地域の津久井郡内各路線でも「1時間に1回」という,隣接する富士急系列のバス路線とは比較にならないほど「非常に頻繁な運行回数」を維持してきました。
ところが近年の「規制緩和」の流れの中で地域独占体制が否定され,神奈中バスも分社化をすすめて津久井郡内各路線は「津久井神奈交バス」として分離されました。けれども,これでは従来の運行形態は維持できず,津久井神奈交バスはまもなく末端区間からの撤退を表明しました。
県・町・企業による実験運行の末,結局津久井神奈交バスは,藤野町南部の山間地区からは完全撤退し,藤野町が「町営バス」の形でかたがわりすることなり,ついで津久井町西南部,道志川沿いの国道413号線を通って県境までの路線からの完全撤退を表明した神奈交バスに対して,津久井町はさんざん交渉を繰り返して,町からの多額の資金援助の下,大幅減回の上“平日のみ”(土曜・休日運休)という形で,ようやく路線を維持するに至りました。
今夏,神奈中バスはさらなる路線整理計画を関係市町に通告して,来年4月にはJR橋本駅・JR相模湖駅と津久井町をむすぶ路線以外は,ほとんどの路線を廃止する計画を表明しています。
これは当然,津久井郡各町にとってはきわめて切実な問題ですから,最終的には多かれ少なかれ町が経費の一部(または相当部分)を負担して路線を維持することとなるでしょう。

これは,地域社会にとっては本当に切実な問題ですから,ここに税金が投入されることについて津久井郡内各町の住民の理解を得ることは,それほど困難ではないと思います。
けれども,これが相模原市や町田市と合体してとき,相模原や町田の住民がどれほどこのことについて納得することができるでしょうか。
人口比で言えば,おそらく(旧)相模原市域・(旧)町田地域選出の議員が多数を占めるでしょう(指定都市として「区」を設置して,津久井地域にそれなりの議員定数の割り当てをしていれば話は別ですが,全市1区であったり,津久井地域に十分な定数の割り当てがなければ,この地域の住民[=旧郡民]は,自分たちの地域の代表を議会に送り出すことが満足にはできなくなります)。
このとき,旧相模原市・旧町田市選出の議員たちは,どれほど「旧郡」地域の実情について思い致すことがあるだろうか。多大な不安は否めません。
自分たちの一生かけてほぼ無関係な裏丹沢山中のバス路線の維持について,相模原や町田の住民のどれほどがその重要性に思い致すか。

相模原市から見れば,ほぼ市街地の一体化が進行している城山町(東部)はともかく,残りの津久井3町との合併に相模原市があまり乗り気ではない,といわれれば,そうだろうな,と思ってしまいます。

町田or相模大野→→政令指定都市で神奈川県へ

大野のあたり(合併以前の「旧大野村」というのは大変に広大で,横浜線の矢部駅あたりから小田急の東林間・小田急相模原駅あたりまで,市の東部の相当部分を占めるのですが,この場合は小田急の相模大野駅前地区)というのは,きちんとした計画もなく,なりゆきで市街化してしまったような地区で,「百万都市」の都心としては「風格」の上でかなり問題があるような気がします。雑然として「風格」に難があるという点では,町田(原町田)も同様。
その点では,戦後半世紀を通じて十分に通用した都市計画の上に建設された相模原・中央地区が都心=市役所所在地としては適当であるように思います。津久井地区からのアクセスを考えても,あるいは現・町田市北東部の鶴川・三輪地区からも「津久井道(芝溝街道=世田谷通り)」を介した流れを考えても,原町田や大野よりもふさわしかろうと考えます。
それに,神奈川県へ残留するなら,県の出先機関が集積しているのは60年前に「官庁街」として設計された相模原・中央地区ですから(もっとも,政令指定都市となれば県の権限の多く,だから県の出先機関の多くが市に移管されるわけですが)。
[22588] 2003年 12月 7日(日)10:26:34Issie さん
河岸段丘「上段」から
相模原台地(の西半)も典型的な河岸段丘です。
厳密には細かく分類されるのですが,大雑把には「上段=相模原面」「中段=田名原面」「下段=陽原(みなはら/みなばら)面」,そして相模川沿いの沖積面=氾濫原という構造。
厚木(駅)や海老名から(もちろん,茅ヶ崎からでもいいけれども)橋本まで相模線の電車に乗ると,このあたりの地形をよく実感することができます(ただし「下段」は通過しない)。
あたしんちは「相模原面」の上にあります。

念のために申し添えておくと,河岸段丘と扇状地とは「排他的」な関係にはありません。
典型的な段丘地形である相模原台地や武蔵野台地の北西部(上流側)は扇状地であったものが台地化したものです。「隆起扇状地」と呼ばれます。
梓川が松本盆地に流れ込むあたりにも見事な河岸段丘が発達しています。この各平坦面もまた元は扇状地であったものです。しかし,この段丘地形は梓川が盆地を横断する間に目立たなくなり,松本市街北方で奈良井川と合流するまでにほぼ完全に消滅します。
それは松本盆地では「糸魚川・静岡構造線」の一部を構成する盆地東縁の断層を境に西側(盆地側)が継続的に“沈み込ん”でいて(東側が“持ち上がって”犀川丘陵となる),つまり過去の堆積面である段丘もろとも沈み込んで,その上を今の梓川や奈良井川が埋めているからです。
そして今,梓川は奈良井川合流点に向かって「最新の扇状地」を作りつつあるわけです。

河岸段丘は平野特有の地形ではありません。

[22578] 両毛人 さん
海水面の変動は、ほぼ一律に起こりますから、日本の諸河川において概ね同じような特質を持った河岸段丘が形成される傾向にあります。

…というものですから,当然,山間部にも見られることがあります。
関東平野西側の関東山地ではこのような地形形成が盛んであるために,ここを横断する相模川(桂川)や道志川,多摩川やその支流に沿って,深い谷間の両側に過去の平坦面=河岸段丘の断片が点在します。
そしてその平坦面上に集落が分布する,というのがこの地域の基本パターン。中央線の上野原駅のはるか上方の平坦面に乗っかっている山梨県の上野原市街がその典型です。

扇状地も河岸段丘も日本列島では珍しい地形ではありません。
ただし継続的に沈み込むような力の働いている地域では,過去の堆積面が沈み込んでその上を現在の堆積面が覆ってしまっているために,ここでは河岸段丘は見られない,ということになります。
[23576] 2004年 1月 9日(金)18:47:40Issie さん
道志と横浜をつなぐ道
[23564] N-H さん
このため野毛山近くになるとものすごい急坂の連続。

組合の用事で本部に行くとき,何より億劫な区間です。特に真夏には。

この道はさらにさらに伸びて,城山町の小倉橋のたもとまで続いています(ただし,小倉橋寄りの1kmほどは今は水道管の上ではありません)。
これこそが道志村と横浜市とを結びつける絆である「横浜水道」。
実は取水口があるのは道志村ではなくて,道志川が相模川(津久井湖)に合流する少し上流の津久井町青山。「三太物語」の里です。

小倉橋から段丘崖の雑木林の中のダラダラ坂(この区間が上で述べた「旧水道道」。現在の水道は城山ダムの堰堤の中を通り,段丘上を通過しています)を登って段丘上に上がった水道道は,相模原市の大島から相模原台地の広漠な畑の中を通り,小田急線沿いの住宅地を通り,境川をサイホンで越えて横浜市郊外の丘陵地帯へ入り,はるばる野毛山へ…。
現実の給水ルートは必ずしもこのまんまではないようなのですが,ずーーーーーーーーーっと1つながりに続く長い道です。

終点にあるのは,「戦後」の匂いのする市営野毛山プール。

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