[65665] Issie さん
A区の区役所が 津久井総合事務所(旧津久井町役場)だったら「中野区」なんて言えたりもしたんだけどね。
意外なところに「中野」の地名が登場しましたね。出身地に近いというご縁で、少しご紹介をしておきます。
「中野村」は1559年北条氏康支配下の「小田原衆所領役帳」には中村と記され、江戸時代になってからも中ノ村(正保図)、中之村(1648)の表記も見られますが、1664年久世領になった時は愛甲郡中野村と記され、天領に戻った後の元禄図も中野村になっています。
なお、中世以来一般的な行政名称として使われてきた「津久井領」は、元禄4年(1691)に就任した代官山川金右衛門貞清によって「津久井県」と改称され
[41805]、これが明治3年(1870)まで続きました
[1196]。
太政官布告
江戸より十四里。…一条の街道、東西に係れり。甲州への往来なり。…街道の東寄りの小名を川和と呼ぶ。此所は民家相対して…往昔は毎月六度の市を立て、世に所謂川和縞、其外庶物を交易して、土地も賑はひしか、延享年中(1744~7)より、市廃して今は寂寥たる村落なり。…(1836年、新選相模国風土記稿)
相模川南岸(日陰之村
[38328])の段丘上、現在の国道413号の前身である津久井道。
津久井往還とも呼ばれますが、それ自体は、交通史研究者によるごく新しい名称だそうです。
甲州街道の脇往還にあたるこの道沿いに開けた中野村の中心集落「川和」は、川和縞
[52691]で知られた町です。
18世紀後半になると、質朴な味わいのある甲州郡内地方の織物が都会人に好まれ、上野原を中心とした機業地帯が形成されました。同じ頃、八王子の機業も大規模化し、東西の織物景気の影響を受けた津久井もその影響を受けました。
中野村川和の村役人成瀬元左衛門の母による川和縞の創作は、天明8年(1788)頃と伝えられます。
根小屋村の豪商・7代久保田惣右衛門(弘化4年の「青山村御林絵図」
[55523]に署名している曽曽祖父の実父)は この新しい柄物のよさに着目し、郡内に買い付けに来ていた京・大阪の大呉服店に売り込みました。そして大丸を始めとする江戸の大手も熱を入れるようになり、19世紀の始めにかけて川和縞の人気は定着したと伝えられます。
参考までに、年代から創作者を上記のように割り出した方は、成瀬元左衛門から4代目の子孫(元中野町町長)だそうです(久保田百五十年史)。
川和という地名は、段丘の下を流れる川が「わ」に曲がった地形に由来しますが、これに関して伊勢国「河曲郡」という地名もあるとのレスもいただいています
[52699]。
最初に挙げた“市廃して今は寂寥たる村落なり”という文は、19世紀の川和縞景気と矛盾するか?
町の基幹産業が、商業から工業に転換したということでしょうか。
なお、中野村には明治11年(1878)に津久井郡役所が設けられ、行政中心地になりました。その翌年には市場も復活したようです。
中野村の東は太井(おおい)村で、段丘を下りた津久井道はここで相模川を渡ります。渡河地点には1664年頃に荒川番所が設けられました。相模川を下る津久井の林産物に対する関税「五分一運上」を課したのです。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でしたが、1965年に完成した城山ダムで水没しました
[43001]。
私の子供時代の記憶では、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのぎました。
中野村の西にあるのが又野村です。安政5年(1858)この地で生まれたのが
尾崎行雄 です。
彼は官吏だった父に従って居を移したため、1890年の第1回総選挙以来63年間、25回の連続当選記録を作った衆議院議員の選挙区は三重県です。東京市長にもなっています。
又野の尾崎行雄生家跡には
記念館 が建てられています。
又野村の先を更に進むと三ヶ木村。ここは相模川に最大の支流である道志川が合流する地点で、道も2つに別れます。現在の国道番号で呼ぶと、相模川に沿うのが国道412号、道志川に沿うのが国道413号です。
国道412号の道志橋の下(三ヶ木の対岸)にある集落は、青木茂の「三太物語」
[20179]の舞台になりました。
戦後間もない頃のラジオドラマにより「道志村」の名は全国に知られましたが、これは横浜市の水源である山梨県道志村とは違う架空の村名で、当時の本当の村名は「内郷村」でした。
中野から少し外れてきましたが、1925年に中野村は中野町になり、その半年後には前記の太井村、又野村、三ヶ木村と
合併 します。
その後
津久井町 を経て
相模原市に編入 されたことはご承知の通りです。
中野は、かつては神奈川中央交通の「相模中野駅」
[28537]がある津久井の交通の要衝でした。
しかし、1963年12月にバス交通の結節点は三ヶ木に新設されたターミナルに移転し、中野は単なる中間バス停になっています。
城山ダムによる津久井湖は、前記 荒川番所付近の集落のほか、川和という地名の由来になった相模川の曲流部、三井取水口跡・水道管橋など横浜水道関係施設の一部
[34770]をも水没させました。
それだけでなく、ダムさえも水没させてしまったのです。
沼本ダムの写真 をご覧ください。下流にある城山ダム満水時の水位は、沼本ダム
[43001]の堤頂まで来ており、それ故にこの水没するダムは幻のダムと呼ばれるそうです。