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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[98525] 2019年 10月 5日(土)17:27:17【2】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (2)東京湾「中央防波堤埋立地」の帰属問題決着へ
2年前の記事ですが、発端は [93551] k-ace さんが 朝日デジタルを引用して 伝えた記事です。
(2017年)6月に大田区と江東区が壮絶バトル 中央防波堤帰属巡り【東京都の】調停へ

これに対して、東京都は江東区に86.2%、大田区に13.8%を帰属させるとする調停案を提示。
しかし 大田区はこれに不満で、調停は打ち切られて裁判になりました。[94347] Takashiさん
松原忠義大田区長の主張:埋立前は区民が ノリの養殖をしていた場所。羽田空港と臨海部を一体として活用したい。

【2】地理院地図により道路を確認。
都心へのアクセス:江東区青海縦貫道と第二航路海底トンネルで結ばれている。
更に有明と結ぶ臨港道路(南北線)も整備中とのこと。 
東側は、2012年に東京港臨海道路の東京ゲートブリッジ開通[80265]で、江東区若洲と結ばれた。
その東京港臨海道路。西側は 大田区城南島との間を臨海トンネルで連絡。2002年開通だが、歩道が併設されておらず、歩行者は通れない。自転車など軽車両は全線不可。

帰属問題のフォロー記事 [95490] hmt
西側の大田区は明らかに劣勢です。何とかして、勢を回復したいという大田区の思いが、調停案を蹴り、裁判に迄持ち込ませた動機なのでしょう。

先日2019/9/20 東京地裁が判決。20.7%を大田区に、79.3%を江東区に帰属させる境界線が示されました。
2019/9/21読売より抜粋
中央防波堤埋立地(中防、約500ha)には住民はおらず、東京五輪…競技場などがある。今回の判決が確定すれば、これらのエリアは全て江東区に帰属する。(中略)
判決は、中防内の施設が区境で分断されないように調整し、競技会場を江東区に、コンテナ関連施設などを大田区に帰属させた。結果的に大田区への帰属部分が増えた。

そして、注目された大田区の対応は「控訴せず」 帰属割合確定へ
【朝日2019/10/4】説明図
東京地裁の判決について、大田区の松原忠義区長は 3日会見を開き、控訴しない方針を明らかにした。
江東区はすでに判決を受け入れることを発表しており、地裁判決の境界が確定する見通し。
都有地で、1970年代から都のゴミの埋立場としている。

報道記事はオリンピック会場が江東区に帰属することを中心に伝えていますが、長期的視野からすると、恒久的な港湾施設が設けられる地域の大田区帰属が、もっと注目されてよいのではないかと思います。

大田区になる中防外側埋立地で実施中の「国際海上コンテナターミナル整備事業」
東京港の整備事業2007年度~2024年度
 世界の標準となる新たな国際海上コンテナターミナル整備(水深16m)や直背後の臨海部物流拠点の形成等を通じて、欧米基幹航路を含めたシームレスな物流網を形成することにより、首都圏全域の産業基盤の強化を図る。
また、外貿貨物の施設能力は既に限界に達しているため、特にアジア・中国からの国際コンテナ貨物等の需要の増加に対応する。スライド3枚
[98523] 2019年 10月 3日(木)11:02:40【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(5)東西ドイツ統合 29周年
冷戦時代のヨーロッパを振り返る このシリーズの名は、1945年の米英ソ・ヤルタ会談と、1989年の米ソ・マルタ会談とに由来するものでした。

…で、主役はと言うと 1939年に第二次大戦を開始し[98219]、1945年の敗戦・分割占領時代を経て 1949年から 40年以上に及ぶ東西分断国家時代を経験したドイツです。

東西ドイツの統合は、ベルリンの壁崩壊から冷戦終結へと進んだ 1889年 の翌年、1990年10月3日に実現しました。
今日は、東西ドイツ統合から 29周年です。

都道府県市区町村で御馴染みの廃置分合用語を使うと、東西ドイツ統合は「新設合併」ではなく、東ドイツ地域の5州とベルリンとが、ドイツ連邦共和国【分断時代の西ドイツ】に加盟するという、いわば「編入」方式の統合です。

単純に「ドイツ統一」と言うと、1871/1/18のドイツ帝国成立を意味しています。
「ドイツ再統一」も、実質的な編入合併を適切に表現するものではないようです。Wikipedia


ここで、今回のシリーズに関する略年表を作ることにします。
ドイツを中心とした東西冷戦とその終結 に関する主な出来事を中心に拾いました。

日付 出来事   説明
1939/9/1第二次大戦開始[98219]ナチスドイツがポーランド侵攻 
1940/6/22西部戦線でフランス降伏参考:連合軍ダンケルクで撤退[97637][45385]
1944/8//25パリ解放ド・ゴールのフランスが連合国の正式メンバーに
1945/2/4-ヤルタ会談[98211]米英ソ首脳会談、大戦後にドイツを分割占領、極東密約
1948/5-東西ドイツの通貨改革東西がそれぞれに実施 マーシャルプランの西側通貨が優勢
1948/6/24ベルリン封鎖[98212]西ベルリンへの陸路を完全封鎖、西側は大空輸で対抗
1949/4/4西側12ヶ国でNATO結成西側諸国の軍事同盟:北大西洋条約機構
1949/5/12ベルリン封鎖解除
1949/5/23ボンに西ドイツ臨時政府西ドイツの人口5095万
1949/10/7東独SED書記長ウルブリヒト東ドイツの人口1838万
1950年西独エアハルトの奇跡西ドイツ 経済急成長で戦前の水準を超える
1953/3/5ソ連 スターリン死去東ベルリン暴動6/17 鎮圧
1955/5/5西ドイツが主権を取得パリ協定発効
1955/5/14東側ワルシャワ条約機構パリ協定の西ドイツ再軍備・NATO加盟に東側が反発
1955年雪どけムードソ連のフルシチョフが演出、アデナウアー訪ソで捕虜帰還
1956/3/19日ソ国交樹立鳩山一郎訪ソ/1959年にはケネディ・フルシチョフ会談
1956/2スターリン批判フルシチョフ
1956/10-ハンガリー動乱ソ連は武力鎮圧し、ナジ政権を排除
1957/3/256ヶ国でEEC設立欧州経済共同体→1967/7 欧州共同体EC、1973拡大EC
1958-1961年東から西への人口流出働き手がベルリンの境界を通り流出
1961/8/13東西ベルリンの交通を遮断冷戦の象徴的存在ベルリンの壁は 1989年まで存在
1962/ -10/28キューバ危機 緊張核ミサイル基地発見>海上封鎖>ソ連が撤去を約束
1963/6/26ケネディが西ベルリン訪問Ich bin ein Berliner.
1968/4/-8/20プラハの春ブレジネフ時代のソ連介入でチェコの改革は頓挫
1969/10西独ブラント首相東方外交 1971年Nobel平和賞
1970/12/7西独・ポーランド国交西独がオーデル・ナイセ線を認めた、条約批准は1972年
1970/8/12三国間領土問題解決ソ連・西ドイツ武力不行使条約
1972/12東西ドイツ基本条約相互承認1973/6発効、1973/9国連同時加盟
1973拡大ECイギリス加盟
1976/10東独 ホーネッカー議長東ドイツ国家評議会議長
1982年西独 コール首相西独はシュミット首相から交代
1985年ソ連 ゴルバチョフ書記長ソ連共産党書記長に就任、ペレストロイカとグラスノスチ
1961-1989年東独脱出人数統計Leben in der DDR 下から4つ目の●をクリック 表示単位千人 
1989/5/ ハンガリーの西国境オーストリア国境の鉄条網撤去
1989/8/ 東独市民行動東欧の西独大使館に東独市民がビザを求めて殺到
1989/8/19欧州ピクニック [98206]数百人の東独市民がハンガリーからオーストリアへ脱出
1989/8/23プラハ騒動西独大使館閉鎖後も東独市民が駆け込み
1989/ 東独出国を認めた言葉ホーネッカー曰く「出ていきたいなら出してやる」
1989/10/1東独からの列車出国西独のゲンシャー外相がプラハに飛んで伝えた。東独国籍剥奪
1989/10/7東独建国40年ゴルバチョフに見捨てられたホーネッカーは10/18辞任
1989/11/9ベルリンの壁崩壊シャボウスキーが記者会見で勘違い
1989/11/17ビロード革命チェコの共産党体制(1948-)崩壊
1989/12/2-3マルタ会談44年間続いた東西冷戦終結
1990/9/12ドイツ最終規定条約2プラス4条約調印 事実上の平和条約
1990/10/3東西ドイツ統合手続的には東ドイツ地域各州が ドイツ連邦共和国(西独)に加入
1991/8/19ソ連8月クーデター、共産党解散
1991/9バルト三国独立回復
1991/12/25ソ連解体ゴルバチョフ大統領辞任
1993/1/1ビロード離婚チェコスロバキアCSSRが解体
1993/11/1欧州連合マーストリヒト条約発効 European United, EU
2001/5/2 ドイツ首都ボンからの移転が完了し、首都ベルリンとして完全復帰
[98448] 2019年 9月 12日(木)16:41:13hmt さん
名付親は気象庁でない「東京湾台風」
[98446] グリグリさん
東京湾を縦断し、進路の東側【危険半円(航海用語)】に 広範囲の停電をもたらした 2019年台風15号。
東京電力パワーグリッドによると、全面的復旧は13日以降になるとの見通し。

この台風は、現在のところ 気象庁が名称を定めた気象・地震・火山現象の一覧には含まれていません。
1年前に北海道ブラックアウトの原因になった地震は、胆振東部地震と命名された[96463]後、このリストに追加されていました。

気象庁の正式名称は、災害の程度により微妙な判断になるのでしょう。
今度の台風について、TBS気象キャスターの森田正光さんが、
台風15号「東京湾台風」と呼んだらどうだろう
と提案していました。

森田さんの説明で知ったのは、
今回の台風の特徴はいくつかありますが、際立っているのは「豆台風」であったということです。
「豆台風」は暴風の吹く範囲は狭いが、中心付近は猛烈な風が急に吹くので、昔から危険な台風と認識されていました。
ただ、「豆」という表現が警戒心を弱めるとの事で、気象庁は使用を控えるようになっています。

台風の物理的規模や人的被害はともかく、経済的な影響は大きかったものと思われます。

森田さんは次のように結んでいました。
気象庁の命名基準は色々あるのでしょうが、それとは別に一般人は、そのときの状況を記憶にとどめるために台風や災害に、気象庁とは別のニックネームを付けたほうがいいと思うのです。
その意味で、今回の台風は「東京湾台風」として、私は記憶に残そうと考えています。

前記、気象庁が名称を定めた気象・地震・火山現象の一覧【リンク元は[96486]の追記】を見ると、マスコミを通じて広く知られている「阪神・淡路大震災」や「東日本大震災」という呼び名は、気象庁の名称欄とは別に記された「地域独自の名称等」であることが判ります。
[98219] 2019年 9月 1日(日)19:00:16hmt さん
ヤルタからマルタへ(4)鉄のカーテン
既に死語状態になっていますが、「鉄のカーテン」という言葉がありました。コトバンク
これは、ヤルタ会談に3首脳の一人・イギリス首相として参加した ウィンストン・チャーチルが、1946年の演説に使った言葉です。
バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで 鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている。
その線の背後には中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパの古い国々のすべての首都がある。
こうしたすべての有名な都市とその周辺の住民はソ連の勢力範囲内にある。

チャーチルは名文家でもあり、大戦回顧録など 文筆活動により、1953年ノーベル文学賞を受賞しています。

それはさておき、
20世紀後半の大部分、ヨーロッパをこのように二分割する結果をもたらした第二次大戦の開始【注】は、1939年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻 でした。
ポーランドの同盟国であった英仏両国も、これに応じて宣戦布告しました。
今日 2019/9/1は、1918年に収束した欧州の戦乱が、僅か21年弱の平和を経て再発してから 80年目でした。

なお、大戦開始後間もない 1939/9/17には、ソビエト連邦も東から侵攻してポーランドを挟み撃ちする形になりました。最初は獲物を分割したドイツとソ連。
この両国が戦争状態になったのは、1941/6/22でした。

【注】第二次大戦の開始
日本が 中国で起こしていた 宣戦布告なき戦争【当時の呼び名は支那事変】は、ドイツとの同盟とは無関係です。日本とソ連との間には、1941年に日ソ中立条約が結ばれていました。

今回のシリーズ第1回で、「ヨーロッパ・ピクニック」を、”遠い東ヨーロッパのニュース”と書いていました。
しかし、チャーチル演説にあるように、「中央ヨーロッパ」の方がよさそうだと、後で気が付きました。
鉄のカーテンの東から西への脱出事件のため、意識せずに「東ヨーロッパ」と書いてしまったようです。
[98212] 2019年 8月 24日(土)17:29:37hmt さん
ヤルタからマルタへ(3)ベルリン封鎖(1948-9)、ベルリンの壁(1961-1989)
第3回で、ようやく本題の 東ドイツに移ります。
言うまでもなく、1945年5月 第二次大戦に敗れたナチスドイツの ソ連占領地区に 1949/10/7 建国された「ドイツ民主共和国」Deutsche Demokratische Republik; DDR の通称なのですが、今回は、東ドイツの中の「西側の飛び地」のように存在した「西ベルリン」を原因として発生した2つの出来事を主として記します。

首都ベルリンは、周辺のソ連占領地域とは別の 米英仏ソの四ヶ国による分割占領地でした。
[15618] Hermitさん
ベルリンはドイツにあらずということで、…「壁」が出来るまではS-Bahnの運行も東西通しで行われていましたし。

ここで、落書き帳初期の記事を引用しました。実は このシリーズ開始後に検索したところ、ベルリンや東ドイツについて、Hermitさんによる貴重な記事が 多数収録されている ことを発見しました。
投稿当時の Hermitさんは カナダ在住でしたが、[15686]には、次のように記されていました。
その当時公私両面で東ドイツにかなり「どっぷり」関わっていたので,このあたりの事情はよく知っているつもりです.

ソ連にとっては目障りな存在である「西ベルリン」を西側3国に放棄させることを狙って開始された「ベルリン封鎖」は 1948年に始まった更に昔の事件です。

この頃 東側は 東ドイツマルクの発行を計画しており、西側3国も占領地の通貨を統合。
通貨をカギとして、西ベルリンに対する東ドイツの経済封鎖が実行されました。
これに対して、「大空輸」によりベルリン放棄を強く拒否した西側の対応は見事に成功。
陸上の物資輸送封鎖は 1949/5/12に解除されました。

1949/5/23には、西側3国統治の各州に ドイツ連邦共和国臨時政府(ボン政府)が成立。
東側のソ連統治地域には、1949/10/7 ドイツ民主共和国成立。

1949年、ドイツに誕生した2つの国。
ところが、ベルリン市内の境界線は自由に通れるので、ここを通って西側へと流出する人口が年々増加し、問題になってきました。

1961/8/13 東ドイツは突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断しました。
一夜にして西ベルリンの周囲を外側から囲んだ有刺鉄線は、間もなくガッチリしたコンクリートの「壁」に改築され、足掛け 29年も存在して、ドイツ分断の象徴的存在になりました。


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